第4号 2000年1月 

 

発行者のジンバブエ野球会は、1998年4月にジンバブエ初の野球場「ハラレドリームパーク」を作ったジンバブエFOD委員会を引き継ぎジンバブエの野球振興と野球交流をゆったりと支援する会です。

 

風への共鳴

関西学院高等部 野球部顧問 芝川 又美

 伊藤益朗さんから初めて海外に野球場を作りたいという話を聞いた時のことは、今でも鮮明に覚えています。いつのことだったのか、どんな季節だったのか、なんでそこに我々二人がいたのか、前後の脈絡は完全に抜け落ちているのですが、伊藤さんと二人で関西学院大学のグランド上の土手に座り、野球の試合を見ながら話をしていたその情景は、はっきりと思い出すことができます。関西学院の野球部としての記念事業のようなことを話題にしていたと思うのですが、どうせだったらこれくらいのことをしてはどうかと伊藤さんが持ち出された話題でした。私などには思いつくすべもないスケールの話で、相変わらず人とは違う視点で発想のできる豊かさに感心はしましたが、それはそれだけのことで、伊藤さんにしても、ジンバブエという国のことや、ましてその国に本当に球場ができてしまうことなどその時は思いも及ばない話だったのです。

 その後、幸運にも関西学院高等部野球部が甲子園に出場でき、その時の寄付金の一部をジンバブエのために役立てることができました。私自身そういう計画を持っていたわけではありません。ところが、新聞記者の人にインタビューをされている時、もし寄付金が余ったらどうするのかと問われ、自分でも唐突だったのですが、人様の役に立つように使いたい、できればジンバブエにと答えてしまったのです。知らぬ間にそう答えていた、それが正直なところです。でも振り返って考えれば、関学グランドの土手で伊藤さんから聞いた言葉がずっと私の中には残っていたのだろうと思います。関西学院の野球部としてそんなことができれば素敵だなという憧れに似た気持があのインタビューの時、自然に飛び出てきたのでしょう。

 聖書の中に「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」という言葉があります。経済的にも、野球的にも、発展途上の国へ球場を贈りたい、この思いはある日風が吹くように伊藤さんの胸の中に生まれたのでしょう。説明しようとすればいろんな説明は可能と思うけれど、でもひとことで言ってしまえば、「その時風が吹いたんだよ」と言うしかないようなそんな思い。さっきの私のインタビューのひとことにしても同じなのですが、一応の説明はついても、突き詰めれば風が吹いたとしか言えないのです。なにしろ、言った自分が自分でびっくりしていましたから。

 思いもかけない土地に、そこには咲くはずのない花が咲くことがあります。風が種を運ぶのです。それは偶然としか呼ぶことはできません。伊藤さんが村井さんに出会ったのも、伊藤さんがジンバブエという国を知ったのもそんな偶然の積み重なりでした。その時、風が吹いたからこその出会いだったのだと思います。思いのままに吹く風は、伊藤さんの夢をはるかジンバブエの地へと運び、そこにハラレ・ドリームパークというきれいな花を咲かせました。

 名前は消えてゆきます。業績も消えてゆきます。でも、球場は残る。そして、そこで野球を楽しむ人々があるかぎり、そこにはいつもあの風が吹き抜けているのです。どこからともなく、どこへともなく、人々の夢と憧れを紡ぎながら。

 魂の根っこの部分で野球を愛した一人の男がいた。その男の胸の中を、ある日風が吹き抜けた。ジンバブエの球場建設にはほんとうに多くの方々の協力がありましたけれど、そのほとんどの方は思想とか信条とか組織とかとは関係なく、伊藤益朗さんの中を吹きぬけたその風に共鳴したのだと思うのです。

 


1999年第1回「ドリームカップ(DREAM CUP)」

ジンバブエ クラブ ベースボール トーナメント

アフリカ野球・ソフトボール協会 広報渉外顧問 村井 洋介

 1999年12月3日〜5日にかけての3日間、ジンバブエでは初めての全国規模でのクラブ野球トーナメントが「ジンバブエ野球会」スポンサーのもと「ドリームカップ」の名で開催されました。参加チームは全国7市町からの12チーム、160名(ハラレ4、ブラワヨ3、カドマ1、チェグツ1、ムタレ1、グエル1、チノイ1)、雨季のまっただ中、奇跡的にも3日間とも好天に恵まれ(大会終了日5日の夜から2日間大雨)無事全試合を消化、第1回大会としては大成功でした。結果はハラレ、ブラワヨのチームが上位を占める形となりましたが、新しく野球を始めた地区にとってこの大会は大きな目標となり、今後の野球の普及と発展にかなりのインパクトを与える大会になったことは間違いありません。ジンバブエに青年海外協力隊野球コーチ隊員が派遣されて8年、協力活動の性質や体制など改善されながら更に新しい方向に進んでいく転換期に差しかかっていると思います。協力隊活動の限界を補う形として、また、協力隊活動をパワーアップさせるものとして「ジンバブエ野球会」のこれからに改めて期待と感謝をいたします。今大会、多くの選手並びに関係者から感謝の言葉がありましたことをご報告いたします。そして、ジンバブエ協力隊野球コーチ達、参加地区の協力隊員各位に感謝いたします。この大会が毎年行なわれるジンバブエ野球のビックイベントの一つとなることを期待します。最後になりましたが、参加選手の中には初めて開催球場のドリームパークを見た選手も少なからずおりました。球場コンディションも素晴らしく、何より美しいこの野球場に感動していた選手も沢山おりました。

 【The 1999 DREAME CUP試合結果】smalldreamcup.jpg (4569 bytes)(左の絵をクリックすると拡大された絵が見れます。)

 


アフリカの風を受けて

住友金属野球団 元監督  四田勝康

 私が初めて伊藤さんとお会いしたのは1998年2月6日、当時尼崎北高硬式野球部監督の植田君が引き合わせてくれた。私が是非伊藤さんと会ってみたいと思ったのは伊藤さんがジンバブエの野球界の発展のため大きく尽力されていると聞いたからである。

 私はジンバブエという国の名前に懐かしさと新鮮さを覚えていた。というのも1993年12月アフリカ大陸で初めての野球の公式大会「I. B. A. Presidents Cup Baseball Tournament」に日本代表チームとして参加した時にジンバブエチームとも対戦したからである。

 南アフリカのケープタウンで開催されたその大会にはアフリカから南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ナイジェリア、ナミビアが参加し、その他日本も含め中華台北、フランス、アルゼンチンが加わっていた。

 そのような縁も手伝って今回伊藤さんから原稿の依頼を受け快諾させて頂いた。当時のことを振り返りながら感じたことを素直に書いてみたいと思う。

 私は1993年10月、第20回社会人野球日本選手権大会決勝戦で日産自動車を破り、住友金属野球団として6度目の優勝を果たし、そしてその結果、I. B. A. 大会出場が決まった時、本当にアフリカで野球をやっているのか。いったいどんな所でゲームをするのだろう。そして彼等はどんな野球をやっているのだろうかなどと色々思ってみたりした。またニュースの画面、活字を通してアパルトヘイトによって全世界から認められなかった国、デクラーク、マンデラのノーベル平和賞の受賞、そして内紛、暴動、治安の悪さというものを見聞きするにつけ、いったい我々はどんな環境の中で生活しプレーするのだろうかと不安もあったが大部分は好奇心で占められ、ドキドキしながら出発したのである。大阪(伊丹)を出発して3時間で台北へ、そして8時間待ってのち南ア航空に乗り換え4時間のフライトでシンガポールに到着。シンガポールから一気に乗客が増え機内は満席状態。

 シンガポールを出て8時間経過、現在マダガスカル上空を通過中。時刻は午前4時40分。あと2時間足らずでヨハネスブルグに到着予定。ヨハネスブルグで2時間半待ちののちケープタウンに向かって飛ぶ。約2時間のフライトだ。この時初めて機上からアフリカの大地を見た。感動的だった。歴史と文明の大陸が中国なら、人類と野生生物の母なる大地がアフリカ大陸であろう。私はそのものが持つ時間の長さ、重さに加え、果てしなく続く見渡す限りの黒と緑と茶色の大地に深く感動を覚えたのだ。

12月3日から大会が始まる。ゲームをしているとスタンドで観戦しているファンの人達の素晴らしさがわかる。彼等の歓声、拍手、ブーイングは選手達を楽しくさせ、ハッスルさせ、勇気づけてくれる。彼等は選手のプレーをよく見ている。いいプレーには惜しみない拍手が敵味方の区別なく送られる。またノックアウトされてダグアウトに引き下がる投手に対しても暖かい拍手が送られる。そしてアンパイヤーのジャッジに対して愉快なブーイングが出る。これらはグランドにおける素晴らしい光景だ。プレーをする選手たちにとってこれ程やりがいのある最高の環境はないであろう。

 スタンドのファンが絶妙にベースボールというゲームを演出しているのだ。選手とスタンドが一体となってベースボール(スポーツ)を楽しんでいる。

 しかし、日本では仲々こうはいかない。選手たちはあらゆる評論家?の前にさらされ、まるでゲームに勝つためだけのベースボールマシンとして見られているような気がしてならないのだ。見ているひとも人間なら、やっている選手もすべて心ある人間なのだ。

 そんな中12月7日快晴のもとで我々はジンバブエチームとゲームをした。結果は20−0、6回コールドのゲームとなった。「日本は打撃、守備、走塁とすべてによく鍛えられている。素晴らしいチームだ。」ジンバブエのヘッドコーチ、ソニー・クルート氏がコメントした。世界選手権大会にも出場していたソフトボールから、1年前野球に切り替えたばかり。180cmを越える白人の大型選手ばかりをそろえたが、5失策に加え5暴投2捕逸と守備がまったくのお手上げでゲームにならなかった。競技人口が100人にも満たないジンバブエにとっては強烈な“ジャパンショック”だったようだ。

 しかしベストを尽くせば負けることは恥ずべきことでも何でもないのだ。第1、第2回スーパーボールでグリーンベイ・パッカーズを優勝に導いた名将ヴィンス・ロンバルディは「勝つことがすべてではない。勝利を信じて最後まで戦い抜くことこそ真の勝利だ。」と言っている。

 我々は全勝の圧倒的な勝利で今大会を制した。表彰式で南ア野球連盟のブライアン・ロバート会長は我々日本チームの強さをたたえた後、「アフリカの選手が最後まで勝利を信じて試合をあきらめなかったことを誇りに思っている」と語った。

 負けるのがつらいことに変わりはないし、これからもそうだろう。負けるというのは、そもそも耐えがたいことなのだ。だが、敗北それ自体を成功したかどうかの判断基準にするべきではない。大事なのは敗北にどう対処したかであり、それを糧にどう成長していったかなのだ。

 だれだって負けたくはない。負ければ心が痛むのだ。しかし、負けることと、負け犬になることとは大きな違いがある。敗北とはどんな人間にも起こりうる出来事だ。勝者でさえ負けることなしにすむものではない。負け犬になるということはまったく別のことなのだ。負け犬は自分に負けることを許し、なにひとつ努力することなく自分を気の毒に思う。自分の悲しみの中に溺れてしまうことである。負けても傷つかないようにはなれないし、またそうなる必要もない。負けることが平気になれば闘争心を失ってしまうだろう。そうなれば、目標というものまで失ってしまう。目標の存在は目指すべき方向と向上をもたらすはずだ。ベストを尽くしている限り、負けることは恥ではない。目標をしっかり持って、全力を尽くして戦い抜き、後はその結果がどんなものであっても、あるがままに受け入れる。そんなチームであってほしいと願っている。

 我々は、大会期間を通して地元のひと、関係者から本当に心暖まるお世話を頂きながら過ごすことができた。日本領事館の人達、住友商事の人達、大会役員の人達、送迎バスの運転手の人達、ユニフォーム等の洗濯をしてくれた人達、そしてグランドでボール拾い、バットボーイをしてくれた子供達と多数に及び、心の底から「ありがとうございました」という感謝の気持ちでいっぱいである。

 私はこんな言葉を聞いたことがある。「この世の中、どんなことをするのにも必ず金がかかるものだ。例外はひとつしかない。他人に親切にすることだ。世の中で本当に金のかからない唯一のことだ。親切にするのには10セントだってかからない。それでいい気分になれるんだからな。」この言葉は正しいと思う。私はいい施設だから、いい環境だからいい気分になった、いい遠征になったなどとは決して思わないだろう。この遠征は、経済的なものではなく、ひとの親切、心のぬくもり、暖かさがどれ程大切なものだったのかを、我々に教えてくれたような気がする。

 「衣食足りて栄辱を知る」という言葉がある。昨今の日本の社会は「衣食足りて・・・」どころではない。むしろ、暖衣飽食の世である。だからといって社会に愛や夢が満ちているかといえばそうでもない。逆に、心のぬくもりに飢えているのが現代社会なのではないだろうか。

 スポーツ界も大にぎわいである。野球、サッカー等1億総スポーツ評論家となっている。スポーツに限らずさまざまなものが享楽の対象となっている。にもかかわらず精神は不毛であるような気がする。「衣食足りて栄辱を知る」とはいかないのだ。逆に暖衣飽食の時代だからこそ、心の飢餓を生む。人の心がささくれだっているのではないかと多くの人がいら立っているのではないだろうか。だからこそ、心のぬくもりを忘れていないことがわかればホッとする。そういうことを私と同様に、大勢の人たちが確認したがっているのではないだろうか。そしてその中に豊かさとは何か?ということについても、ひとつの大きなヒントがあるような気がする。


ジンバブエの雲

青年海外協力隊OB 鉢呂 哲也

 私の印象に残るジンバブエの景色は、ビクトリアの滝でも、バランシングロックでもなく、手で触れることの出来るくらい近くに見える雲です。綿菓子のような入道雲が空を漂っているのです。特にこの雲を見ていた時期というのは、自分の任地(首都ハラレから100キロ離れたチェグツという町です)に赴任してからです。ここで3年間、小学校で体育教員として水泳を中心にスポーツを指導してきました。その中で自分の感じたことを書きたいと思います。

 ジンバブエの魅力というのは、その居心地の良さです。それは自分の居場所があるということです。どういう事かというと、会話を通じて自分の存在を表現出来るからです。一番の娯楽というのは、“話す”ことです。みんな各自意見を持ってそれをぶつけ合います。向こうの会話では、“アイワ(違う)”という言葉を良く使います。人の意見に反対してから自分の意見に入るのです。男は土曜、日曜になると飲み屋やボトルストアー(日本で言う酒屋)に集まり、ビールや地ビールを飲みながら語ります。女は近くにいる親戚や友人を訪ね、そこで近況や噂をネタにおしゃべりするのです。日本のように一人で過ごす娯楽、テレビやコンピューター等は高価で、またテレビに関してはプログラム自体も面白くなく、家も小さくて家族も多いので家に籠っているということはほとんどありません。だから人に対して興味があり、すぐ親しく話しが始まります。特に肌の色が違ったせいでしょうが、外に出ると良く声をかけて貰いました。時には煩わしいこともありましたが、いつもかまってもらい孤独ということがありませんでした。そこに自分の存在を感じました。日本でも地方都市に行けばこのようなことがあると思いますが、都市部ではほとんどないと思います。

 私は、東京に住んでいますが、家族以外の人と話しをする機会は余りありません。挨拶にしても向こうでは見ず知らず同士でも平気で交わせたものが出来ません。私の父の話ですが、ある日、家の前を通る小学生に挨拶をしたところ、変な顔をされ足早に逃げられたということです。最近訳の分からない事件が起きているせいだろうと思いますが、寂しいことです。このようなことから、人と人とのコミュニケーションが希薄になってきているのではと思います。人とコミュニケーションがなければ孤独になります。自分の存在自体分からなくなっているのではないのでしょうか。数々の悲しい事件に、このようなことも要因として関わっていると思います。ジンバブエには、日本ほど物がありませんが、日本が昔持っていた大事なモノが残っていると思います。

ジンバブエに4年半いましたが、いざその事を書くとなるとなかなかまとまりません。それはとても広く深く、どうしてもすべて正確に伝えることが出来ないからです。3月に岐阜県の少年野球チームが遠征するという話があります。アフリカは遠いとよく聞きますが、飛行機で僅か20時間です。遠い昔の国内旅行(例えば江戸ー大坂)の方がよっぽど遠いと思います。一人でも多くの方に見て頂きたいと思います。ジンバブエの雲を見てのんびりするのもいいものです。


Let's Enjoy Softball!

青年海外協力隊OB 永井 隆幸

 私は平成9年7月から今年の8月までジンバブエでソフトボ−ルの普及活動を行なってきました。帰国の際にはたくさんの方々のご協力を得て、私が現地で指導していましたクラブチ−ム『MUDCATS』を岐阜県で開催された高校生のト−ナメント「FUKUJUSO-CUP」に参加させることができました。

 私が名古屋空港に到着したのは夜の9時。途中機内から見える大阪平野の夜景を見ながら、ジンバブエを発つときには感じなかった寂しさや、無事帰ってこれたことへの安堵感、そして教え子達と共に日本の地を踏める幸福感など、様々な感情が入り交じり、非常に感慨深いものがありました。

 さて私の2年間の活動を振り返ってみますと、「自分は一体何を伝えたくてここまでやってきたんだろう。」という自問自答の日々だったような気がします。私は訓練所にいるときから一つの思いを胸に抱きジンバブエに向かいました。それは「ソフトボ−ルってこんなに楽しいんだよ」ってことをアフリカの子供たちにも伝えること。

そう “Let's Enjoy Softball!” しかしいざ現地での活動が始まってみるとなかなか思うようにはいきませんでした。ジンバブエの学校はその地域によって子供たちを取り巻く環境は全く異なります。高価なスニ−カ−におそろいのユニフォ−ムで練習する学校、制服に素足のままで練習する学校、きれいに手入れされた芝生のグラウンドで練習する学校、雨季には腰の高さにまで草が伸びる原っぱで練習する学校。そういう様々な学校を巡回する中で、本当は各学校の特色に合わせた弾力的な指導をしなければいけないのに、どうしてもコ−チ主導の画一的な指導に陥りがちでした。特にクラブチ−ムの指導においては、私たちコ−チの「強くしたい」という思いが強すぎ、子供たちの“思い”を尊重することを忘れていました。子供たちの“思い”、それはソフトボ−ルをおもいっきり楽しむこと。日本では「勝つこと」を最優先し、コ−チが先頭に立ってチ−ムを指揮する光景がよく見られます。私はそれを否定するつもりはありません。なぜなら選手も勝つためにソフトボ−ルをしているから。しかしジンバブエの子供たちは違いました。彼女たちの顔から少しずつ笑顔が消えていく中で私は思い出しました。“Let's Enjoy Softball!” そう私の初心です。それからは私も堅物頭の自分を変える努力をしました。いつも笑顔でソフトボ−ルができるように。そういう意味では、あの日本遠征は私の活動の集大成であり、また新たな出発点だったのかもしれません。

 今後はジンバブエで得た素晴らしい経験を生かし、微力ながらもたくさんの人々のお役に立てたらと思っております。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。


オール・アフリカ・ゲームス結果

青年海外協力隊 野球隊員 松本 祐一(ブラワヨ)

 

 アフリカ大陸で4年に一度開かれるスポーツの祭典“オール・アフリカ・ゲームス”が99日から19日までの10日間、南アフリカ・ヨハネスブルグにて開催された。そのアフリカ版オリンピックともいうべきビッグ・イベントにおいて、野球も公式種目として含まれており、チュニジア、カメルーンは不参加ながら、ジンバブエをはじめ南アフリカ、ナイジェリア、ガーナ、ウガンダ、レソトの6カ国が出場し、熱戦が繰り広げられた。

 

<予選リーグ>

 ジンバブエ対ナイジェリア 11-12  ●

 ジンバブエ対南アフリカ  2-32(6回コールド) ●

 ジンバブエ対レソト    31-5(6回コールド) ○

 ジンバブエ対ガーナ  10-24(7回コールド) ●

 ジンバブエ対ウガンダ  30-1(5回コールド) ○

予選リーグ結果

 各チームとも5試合を行い、5試合全てをコールド勝ちと圧倒的な強さを見せた南アフリカが予選トップで通過、2位はナイジェリア、そしてジンバブエ、ガーナ、レソトの3チームが23敗の成績で続き、該当する3チーム同士の試合における総失点数により、総失点数28のガーナが3位、29点のジンバブエが4位、45点のレソトが5位となり5戦全敗のウガンダが最下位で予選リーグを終了した。         

<決勝トーナメント>

準決勝

ジンバブエ 000 000 0 0(7回コールド)

南アフリカ 037 742 X 23

ガーナ対ナイジェリアはナイジェリアの勝

 

3位決定戦

ジンバブエ 212 7 13 1 2 28

ガーナ   131 3 0 0 0 8(7回コールド)

 

 大会最終日、何とか銅メダルを獲得したいジンバブエは前回の予選ラウンドで、まさかのコールド負けを喫した相手・ガーナとの対戦となった.。前回の対戦とは違い最初からベスト・メンバーで臨んだジンバブエは序盤こそ接戦を強いられたものの4回、ガーナ投手陣の乱れに乗じて一気に7点を奪い125と均衡を破った。しかしその裏ガーナもすぐに3点を返し6点差と迫ったが、続く5回にジンバブエは再び6本のヒットと5四球で大量13点を奪ってダメ押し、試合を一気に決めた。

 

決勝

 南アフリカ 19− 1 ナイジェリア

最終結果

順位

チーム (メダル)

順位

チーム

 南アフリカ (金メダル)

ガーナ

 ナイジェリア(銀メダル)

レソト

 ジンバブエ (銅メダル)

ウガンダ

 

▼今大会で表彰されたジンバブエ選手

 ・ニール・バーン(ベストナイン・三塁手) ・サバスチヤン(盗塁王)

 

<総評>

 銀メダルに輝いた前回大会はチームに黒人選手はたった一人だったジンバブエ。それから4年が経ち、今大会ではチームの中に白人選手がただ一人とチームがガラッと一新した。そんな状況の中、銀メダルこそ逃したものの、銅メダルを獲得したことは、これからの黒人中心のジンバブエ野球にとっては大きな第一歩を記したことになる。

 ただ今大会を通じて言えることは、着実にチーム力をアップしているナイジェリア、日本人の影響で急成長を遂げているガーナ、コーチ不在ながら選手が大きな潜在性を秘めるウガンダなど、ジンバブエも今回の成績に満足して浮かれていると、次回大会ではメダル獲得も困難になることは必至である。

 さらに今大会でも圧倒的な強さを誇った南アフリカに追いつくとすれば、彼等も日々アフリカ以外の大陸にある強豪チームを視野に入れて積極的にチームの強化に当たっているだけに、ジンバブエもそれなりの強化プランを持ってそれに臨まなければ差は開く一方であろう。

 そこで現在、ジンバブエのチーム強化のために取り組まなければならないことは、まずバッテリー強化が挙げられるだろう。やはり南ア、ナイジェリアのそれと比べると、ジンバブエ投手陣の質は球威、変化球のキレともにかなり劣る。またキャッチャーにおいても、南ア、ナイジェリアがある程度の強肩を持ち、かなりの割合で盗塁を阻止できるのに対し、ジンバブエのキャッチャーはまだ一塁から二塁までフリー・パスの状況を作り出してしまっている。そのため守備的に常にダブル・プレーが取れない状況を作り出し、それが多くの失点の直接的原因となっている。

 また打撃に関して、ある程度の速球にはついて行くことができるが、それにカーブ等の変化球が加わってくると、一気にバットの芯でボールを捕らえる確率が落ちる。これなどは日本にあるようなピッチング・マシンがあればもっと打ち込んで克服することも可能だろうが…。

 総体的にジンバブエ選手はスピード、反射神経、パワー等の運動選手としての基本的能力が他のチームと比較して若干劣っている印象を受ける。これはまだ野球がジンバブエにおいてマイナー・スポーツであるため、運動能力の優れた選手がサッカー等の他のスポーツに流出してしまっていることが背景にあるのは確か。ただこれからもっと若い運動能力の優れた選手を鍛え、経験を積ませ、現存の選手との間で競争が生まれればチーム力アップは可能になるだろう。

 ともあれ、今大会におけるジンバブエチームの銅メダル獲得は他の若い野球選手の励みになり、政府や国民にも数少ないメダル獲得が可能なスポーツの一つであることを認識させたことは確かで、今後のジンバブエ野球発展を考えるうえで非常に意義のあるものだった。

   予選結果

  チーム

南アフリカ

 5

0

ナイジェリア

 4

1

ガーナ

 2

3

ジンバブエ

 2

3

レソト

 2

3

ウガンダ

 0

5


ジンバブエから受けたもの

 村井 弘治

 今年、私たち老夫婦(63才と62才)は、9月22日より10月3日まで、12日間ジンバブエに行ってきました。私にとっては5回目のジンバブエへの旅です。

 今回の目的は、ジンバブエに住み着いてしまった息子(次男)が、結婚することになり、その結婚式とパーティに出席してほしいと、言ってきたためです。彼はジンバブエを通じて、この7年間に知り合った多くの人々(ジンバブエ人はもちろん日本の人々にも)に一言では言い尽くせないほどの助力を受けていますので、親としては、お礼の挨拶をしなければとの思いもあり、行ってきました。季節も良く5回目にして初めて、ジャカランダの満開の花を見ることができました。

 そしてもう一つの目的である、ハラレドリーム球場も二人のおじさんが、のんびりと水撒きと芝の手入れをしていて、更衣室も出来上がって、照明設備の足場が途中まで組まれているといった状況でした。この後の計画では早い機会に、ブルペンを作りたいと言っていました。これからの野球シーズンにむけてハラレドリームパークは満を持してゆったりと選手たちを待ち受けているように感じました。

 私が初めてジンバブエの名前を知ったのは、平成4年の初めごろだったと思います。それは息子が会社を辞めて青年海外協力隊に応募し、その派遣前の訓練が始まったころでした。応募のときの予定では中米のコスタリカと聞いていましたが、実は南部アフリカの国だと聞いて、アフリカについてはまったく知識がありませんでしたので、本当に大丈夫かな?と思ったものでした。しかし野球のことになるともう周りが見えなくなるほどの“野球バカ”ですので、反対しても無駄だろうし、ひょっとしたら私らも現地の観光に行けるかも知れないなと、内心思ったのも事実です。

 それが、これほどまでにジンバブエに関わろうとは夢にも思いませんでした。彼もそうであったろうと思います。

 息子のほうは、2年間の野球隊員の任務を終え、帰国時には日本の多くの方々のご協力で、ジンバブエの教え子であった少年野球チームと女子ソフトボールチームと共に帰ってきて、念願の甲子園を見せ日本の少年少女たちと交流を行なって、無事に協力隊員としての務めを完了しました。この2年間の貴重な経験と、現地で知り得た人々から受けた暖かいもてなしが、もう一度ジンバブエに行って、野球に関わりながら何か仕事を始めようと思い立ったきっかけとなったものと思います。

 そして、その準備の期間中に、外国に野球場を作りたいという『とてつもない夢』を持っておられた、伊藤益朗さんから連絡をうけて、この夢のような計画がスタートしたと聞いています。

 様々な苦労(とくに資金面の担当をされた伊藤さんサイド)の末に、この夢が正夢となり、現地の野球、ソフトボールの大会や、練習場として大いに活用されている様子は、ジンバブエ野球会の『ジンバブエの風第3号』に掲載された、協力隊隊員や現地ソフトボー

ルのプレーヤーの文章にある通りだと思います。これもジンバブエを通じて愚息が受けとった本当に大きな幸せでしょう。

 これからも協力隊隊員の皆さんや、現地で育ちつつある野球ソフトボールの指導者の努力で益々野球やソフトボールが盛んになり、多くの少年少女たちが、ハラレドリームパークを目指して集まってくるものと思います。

 それをゆっくりと、そしてさり気なく応援しておられる、伊藤さんとその仲間の人達に、私は心からの敬意を表したいと思います。

 今このへたな文章を書きながら、ジンバブエを通じて知り得た多くの人々を思い出しながら、私は幸せな気分に浸っています。


事務局だより

伊藤 益朗

 2000年になりました。私たちにとって、1999年は不況や新しい経済の仕組みに変わる動きの中で誰にとっても厳しい年でした。

 一方、ジンバブエでは昨年末の村井さんのお話によるとガソリン価格が4カ月前の2〜3倍になっており、その影響でこれからあらゆるものの値上がりが予想されるということでした。厳しいことに変りはありません。

 厳しいときだからとお互いが奪い合って10の宝をものにするより、相手に与え合って8の宝をお互いに持つほうが幸せではと思ったりしています。

 先生に立たされている生徒たちが校庭で踊っている、エンストしたバスをみんなで押している、洗面器一杯の水で体を洗う、床に穴があいているタクシ−が元気に走っている、赤い大地が雨季の終りには一面背丈くらいの草に覆われている。これらは私が今までに協力隊OBの人たちに聞いたジンバブエのシ−ンです。

 貧しくても、厳しくても、心豊かに暮したいものです。

 これからも野球を通してつながっていきたいと願っています。

 <ご報告>

 ハラレドリ−ムパ−クは内野、外野、ファ−ルグランドと芝生が整い、まるで大リ−グの野球場のように美しくなったと聞いています。2、3ペ−ジの写真をご覧ください。行ってプレ−してみたいですね。

 ジンバブエ代表チ−ムは9月9日からヨハネスブルグで開かれたオ−ルアフリカゲ−ムに出場しました。オリンピック予選を兼ねており、日本でいえばあの松坂投手の熱投で日本中が沸いたアジア予選に当たるものですが、内容はかなり差があるようです。

 もう一つうれしいことがありました。12月3日からジンバブエで初めてのクラブチ−ムの全国大会『ドリ−ムカップ』が私たちジンバブエ野球会後援であのハラレドリ−ムパ−クで開催されました。全国から12チ−ム全てが参加し、私たちの会から交通費の半額と宿泊費、食費、優勝カップを補助しました。今のところ出来れば第2回以降も続けたいと思っています。

 一方、日本では昨年7月31日にジンバブエ野球会の夏の集いを開催しました。ジンバブエの主食であるサザ(とうもろこし)を食べながら楽しいひとときをもちました。

 8月1日から横浜でありました世界少年野球フェア−にジンバブエから小学生とコ−チが参加しました。

 8月3日から岐阜県大垣市でありました高校生のソフトボ−ル選抜大会にジンバブエからクラブチ−ム『マッドキャッツ』が多くの方々のご協力で参加することができました。2勝5敗でしたが新鮮な風を届けてくれました。ともに多くを学び、今後の糧にしてくれることと思います。

 9月頃までに入会済の皆様には、前年同様ジンバブエからクリスマスカ−ドを送ってもらいました。今回は差出人の住所氏名を書いてあるものが多いと思います。もしご希望でしたら返事もお出しください。葉書なら70円です。

 会計について。昨年8月、今年度分として50万円を村井洋介さんに送ってあります。その後の現地での主な出費は、@野球場の照明灯工事(コ−ド不足で中断中)、A野球場のメンテナンス(芝刈機の刃の交換、走路の土補充など)、Bドリ−ムカップ補助などです。詳しくは年度の区切りに次号にて。

前号の記事にありました身体障害者野球の世界大会を目指している岩崎廣司さんの呼び掛けに対し、ジンバブエで障害者チ−ム結成への動きが出ているそうです。先行きが楽しみです。又、12月4、5日、但馬ド−ムで開かれた第1回全日本身体障害者野球選手権大会で岩崎さんが監督の神戸コスモスは熱戦の末優勝されました。 「ジンバブエの風」No.4を発刊致しました。多くの皆様のご協力に厚く感謝いたします。

 今回の主な内容は・・・・・

・今まで日本のアマチュア野球界をリ−ドしながら、昨年惜しまれつつ解散した住友金属野球団元監督の四田勝康さんの語るアフリカ野球との接点、又そんな実績ある四田さんが語る敗者への暖かいまなざし

・村井洋介さんのお父さん村井弘治さんと関西学院高等部野球部の芝川又美先生の暖かく見守って下さる視線

・松本裕一さんと村井洋介さんによるオ−ルアフリカゲ−ムと第一回ドリ−ムカップの現地報告

・ジンバブエから帰って間がなくジンバブエの香りを伝えてくださった鉢呂哲也さん、隊員として原点を見詰める経験をまとめてくださった協力隊OBの永井隆幸さん 皆様ありがとうございました。


冬の集いのご案内

  2月26日(土)

   午後2時30分〜午後5時 野球(紅白ゲ−ム) 小田南公園野球場  300円

                      雨天は野球のみ中止  (阪神大物駅東徒歩4分)

        午後6時〜午後8時  懇親会(食事付)  産業郷土会館  男 性 3800円

                     (阪神大物駅南東徒歩3分) 女 性 3000円

未成年 2000円

          今回は野球をします。キャッチボ−ルは心の交流そのものだと思います。

          動きやすい服装でおいで下さい(特に靴、あればご自分のグラブを)。

          懇親会ではジンバブエ経験者や関心をもつ仲間との交歓の機会をお持ちください。

          一度参加して頂くと状況や雰囲気が分かり易いと思います。懇親会のみの参加も歓迎。

          お知り合いをお誘いの上、まずはご連絡をお願いします。

          申込締切:出来るだけ2月22日迄

          申込み先:事務局伊藤 TEL06-6427-4950(自宅) TEL06-6429-1009(店)

 

1999年6月1日から2000年1月14日までにご入金いただいた方々

ありがとうございました。   (敬称略 50音順)

天春 淳  荒川 健  荒木 潔  有馬宏昌  粟田浩史  以倉 章  石原一興

石割 徹  伊藤和子  伊東 登  伊藤益朗  井上 通  岩崎広貴  岩田章一

海野典子  梅崎道夫  枝光宏征  衛藤譲二  太田太郎  大谷育弘  大橋 登

岡崎誠吾  岡崎朝絵  岡田千あき 岡田経子  岡田子路  小澤 託  小原照美

角杉源太郎 鎌田和義  仮屋 囲  川上貴司  関西学院中学部生徒会  神田武男

神田 武  木村 昭  金 守良  熊谷康夫  腰和代  五島 浩  ごはんや

酒井 徹  坂本義徳  佐々木清二 佐藤江美  四田勝康  須河英博  住吉正雄

ZY有志会 妹尾佳士 全播磨硬式野球団中学部  田居秀雄  高瀬隆征  谷晋介

谷 幸子  谷村文子  谷村友一  出口明子  時政英之  徳山銑造  鳥居四郎

中西利一  長沼加代子 中村忠史  西川 浩  西野俊博  西松凌波  西村 勇

鉢呂哲也  羽渕 繁  林 逸子  原 堅太郎  樋口喜美恵 樋口恵三  広岡正信

藤井道雄  藤岡敦子  藤下美穂子 前島宗甫  待田フミコ 三瀬和義  光内数喜

村井弘治  村岡史郎  村上英樹 村上晴海/靖子 森本喬夫  山口吉弘  山下大典

山下雅之  山田静夫  山田信雄  山中良子  ゆめ    吉川美恵子  吉田京子

吉田貞比古 吉田孝志  由本英男  渡辺 博  和田昭彦

 

 「ジンバブエ野球会」入会、継続のお願い

 同会の目的:ジ

ンバブエの野球振興と野球交流をゆったり応援する。

 活   動:@年会費及び寄付から必要経費を差し引いて、アフリカ野球協会広報部顧問の村井洋

        介さんを通して送金し、目的のために役立てる。

      A参加者、その他に年1〜2回、ニュースレターを送り、ジンバブエのようすや会

        計報告、その他催しなどを知らせる。

   趣旨にご賛同頂ける方は別紙郵便振替用紙でのご送金にてお申し込みくださいませ。

 郵便振替口座名:ジンバブエ野球会

 郵便振替口座番号:00930−2−126157

 年会費:1口 3000円

 事務局:661-0012 尼崎市南塚口町2-1-2-510 TEL06-6427-4950(自宅)

 (伊藤益朗) TEL06-6429-1009(店) FAX06-6421-7768(店)

                       発行者:ジンバブエ野球会(事務局は上記の通り)


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