←主頁巻第二百一十三 2006/6/27 下訳完了
翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百一十四
 唐紀三十
  玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中
開元二十二年(甲戌、七三四)

 春,正月,己巳,上發西京;己丑,至東都。張九齡自韶州入見,求終喪;不許。
1.春、正月、己巳、上が西京を出発した。己丑、東都へ到着した。
 張九齢は韶州より入見した。喪を終えることを求めたが、許されなかった。
 二月,壬寅,秦州地連震,壞公私屋殆盡,吏民壓死者四千餘人;命左丞相蕭嵩賑恤。
2.二月、壬寅、秦州にて地震が続いた。公私の家屋は殆ど壊れつくした。吏民の死者は四千余人。左丞相蕭嵩に救済を命じた。
 方士張果自言有神仙術,誑人云堯時爲侍中,於今數千歳;多往來恆山中,則天以來,屢徴不至。恆州刺史韋濟薦之,上遣中書舍人徐嶠齎璽書迎之。庚寅,至東都,肩輿入宮,恩禮甚厚。
3.方士の張果は、自ら神仙の術があると言い、「堯の時には侍中だった。今年で数千歳だ。」と、民を誑かした。普段は恒山の中を往来しており、則天武后以来しばしば朝廷から招かれたが、やって来たことはなかった。
 恒州刺史韋済が、これを推薦した。上は中書舎人徐嶠を派遣し、璽書を遣ってこれを迎えた。
 庚寅、東都へやって来た。肩輿に乗って入宮した。恩礼は、とても厚かった。
 張九齡請不禁鑄錢,三月,庚辰,敕百官議之。裴耀卿等皆曰:「一啓此門,恐小人棄農逐利,而濫惡更甚。」秘書監崔沔曰:「若税銅折役,則官冶可成,計估度庸,則私鑄無利,易而可久,簡而難誣。且夫錢之爲物,貴以通貨,利不在多,何待私鑄然後足用也!」右監門録事參軍劉秩曰:「夫人富則不可以賞勸,貧則不可以威禁,若許其私鑄,貧者必不能爲之;臣恐貧者益貧而役於富,富者益富而逞其欲。漢文帝時,呉王濞富埒天子,鑄錢所致也。」上乃止。秩,子玄之子也。
4.張九齢が、銭の鋳造を禁止しないよう請うた。三月、庚辰、これを協議するよう百官に敕が下った。
 裴耀卿らは、みな言った。
「それを許可すると、小人が農業を棄てて鋳銭の利益を追いかけ、悪銭がますます出回るのではないかと恐れます。」
 秘書監の崔沔は言った。
「もしも銅の税を労役にしたら、官で鋳造することができます。庸を推量するに、私鋳では割が合いますまい。容易で長く行え、簡易でだませません(?)。それに、銭というものは、流通するに充分なだけあればよいのでして、多ければよいというものではありません。どうして私鋳させなければ充足しないとゆうことがありましょうか!」
 右監門録参軍劉秩が言った。
「人は富裕になれば褒賞で勧めることができませんし、貧しければ刑罰で禁じることができません。もしも私鋳を許しても、貧民は鋳造などできません。臣は貧しい者が益々貧しくなって富豪の奴隷となり、富める者が益々富んでもっと貪欲になってしまうことを恐れます。漢の文帝の頃、呉王濞が富を恃んで天子を軽んじました。鋳銭の招いたことです。」
 上は、やめた。
 秩は、子玄の子息である。(劉子玄は、劉知幾である。帝の名を避けて、字で名が知られた。)
 夏,四月,壬辰,以朔方節度使信安王禕兼關内道采訪處置使,增領涇、原等十二州。
5.夏、四月、壬辰、朔方節度使信安王禕が関内道采訪處置使を兼任し、涇・原など十二州が増領された。
 吏部侍郎李林甫,柔佞多狡數,深結宦官及妃嬪家,伺候上動靜,無不知之,由是毎奏對,常稱旨,上悅之。時武惠妃寵幸傾後宮,生壽王清,諸子莫得爲比,太子浸疏薄。林甫乃因宦官言於惠妃,願盡力保護壽王;惠妃德之,陰爲内助,由是擢黄門侍郎。五月,戊子,以裴耀卿爲侍中,張九齡爲中書令,林甫爲禮部尚書、同中書門下三品。
6.吏部侍郎李林甫は、柔佞で狡猾、悪智恵が働く人間で、宦官や妃嬪の家と深く結託し、上の動静を窺って全て知り尽くしていた。だから、上奏文も対話も全てつぼを得ており、上はこれを悦んだ。
 この頃、武恵妃への寵愛は後宮を傾けており、子息の壽王清は他の太子よりも断然愛され、太子への愛情が次第に薄くなっていった。そこで林甫は、寿王の保護に全力を尽くさせてくれるよう、宦官を介して恵妃に申し入れた。恵妃はこれを徳として、ひそかに内側から助けたので、林甫は黄門侍郎に抜擢された。
 戊子、裴耀卿を侍中、張九齢を中書令、林甫を礼部尚書・同中書門下三品とした。
 上種麥於苑中,帥太子以來親往芟之,謂曰:「此所以薦宗廟,故不敢不親,且欲使汝曹知稼穡艱難耳。」又遍以賜侍臣曰:「比遣人視田中稼,多不得實,故自種以觀之。」
7.上が苑中にて麦を播いた。太子以下を率いて、彼らには草を刈らせて言った。
「これは宗廟にそなえるものだから、敢えて自ら行うのだ。それに、お前たちに労働の厳しさを教えたいのだ。」
 また、侍臣たちにあまねく下賜して言った。
「人を派遣して農作業を見させても、実際のことは判らない。だから、自ら種を播いてこれを観るのだ。」
 六月,壬辰,幽州節度使張守珪大破契丹,遣使獻捷。
8.六月、壬辰、幽州節度使張守珪が、契丹を大いに破った。使者を派遣して、戦勝を報告した。
 薛王業疾病,上憂之,容髪爲變。七月,己巳,薨,贈謚惠宣太子。
9.薛王業が病気になった。上はこれを憂え、容貌はやつれ髪はぼさぼさになるほどだった。七月、己巳、薨去した。恵宣太子と諡した。
 10上以裴耀卿爲江淮、河南轉運使,於河口置輸場。八月,壬寅,於輸場東置河陰倉,西置柏崖倉,三門東置集津倉,西置鹽倉;鑿漕渠十八里以避三門之險。先是,舟運江、淮之米至東都含嘉倉,僦車陸運,三百里至陝,率兩斛用十錢。耀卿令江、淮舟運悉輸河陰倉,更用河舟運至含嘉倉及太原倉,自太原倉入渭輸關中,凡三歳,運米七百萬斛,省僦車錢三十萬緡。或説耀卿獻所省錢,耀卿曰:「此公家贏縮之利耳,奈何以之市寵乎!」悉奏以爲市糴錢。
10.上は、裴耀卿を江淮・河南転運使として、河口へ輸場を設置した。
 八月、壬寅、輸場の東に河陰倉、西へ柏崖倉、三門の東へ集津倉、西へ鹽倉を設置した。三門は険阻な地形なので、これを回避する為、輸送の為の運河を十八里掘った。
 従来は、江・淮の米を東都の含嘉倉まで舟で運び、それから車へ載せ変えて三百里陸運して陜まで運んでおり、これだと二斗の米で十銭の輸送料がかかっていた。(厳版では「十」が「千」に改められていた。)耀卿は江・淮の舟を全て河陰倉へ運び、そこから河を舟運して含嘉倉や太原倉へ運び、太原倉から渭水に入って関中へ輸送した。三年の間に米七百万斗を運び、車銭三十万緡を節約させた。
 ある者が、浮かせた銭を献上するよう耀卿へ説くと、耀卿は言った。
「これは公家が節約して得た利益だ。これで寵愛を買い取って良いものか!」
 そして、これを全て市場へ流通させるよう上奏した。
 11張果固請歸恆山,制以爲銀靑光祿大夫,號通玄先生,厚賜而遣之。後卒,好異者奏以爲尸解;上由是頗信神仙。
11.張果が恒山に帰ることを固く請うた。制によって銀青光禄大夫とし、通玄先生と号した。厚く下賜してこれに遣した。
 後、張果が卒すると、怪異を好む者は、「尸解仙になった」と上奏した。上は、これによって神仙を深く信じるようになった。
 12冬,十二月,戊子朔,日有食之。
12.冬、十二月、戊子朔、日食が起こった。
 13乙巳,幽州節度使張守珪斬契丹王屈烈及可突干,傳首。
  時可突干連年爲邊患,趙含章、薛楚玉皆不能討。守珪到官,屢撃破之。可突干困迫,遣使詐降,守珪使管記王悔就撫之。悔至其牙帳,察契丹上下殊無降意,但稍徙營帳近西北,密遣人引突厥,謀殺悔以叛;悔知之。牙官李過折與可突干分典兵馬,爭權不叶,悔説過折使圖之。過折夜勒兵斬屈烈及可突干,盡誅其黨,帥餘衆來降。守珪出師紫蒙州,大閲以鎭撫之,梟屈烈、可突干首于天津之南。
13.乙巳、幽州節度使張守珪が契丹王屈烈と可突干を斬り、首を送ってきた。
 この頃、可突干は連年辺患となり、趙含章、薛楚玉はどちらも討伐できなかった。守珪が交代すると、しばしば撃破した。可突干は追い詰められて、偽りの降伏をした。守珪はこれを慰撫するため、管記の王悔を派遣した。悔は牙帳に到着すると、契丹の上下に降伏の意志がないことを察した。彼等は営帳を西北に移し、密かに突厥へ使者を派遣して引き入れ、悔を殺して叛こうとしていた。悔はこれを知った。ところで、牙官の李過折は可突干と兵馬を二分していたが、権力を争って勝てなかった。そこで悔は、過折を説得してこれを図らせた。過折は夜半、兵を動かして屈烈と可突干を斬り、その一党を悉く殺し、余衆を率いて来降した。守珪は紫蒙州まで進軍し、大いに閲兵してこれを鎮撫した。天津の南に屈烈と可突干の首を梟した。
 14突厥毗伽可汗爲其大臣梅録啜所毒,未死,討誅梅録啜及其族黨。既卒,子伊然可汗立。尋卒,弟登利可汗立。庚戌,來告喪。
14.突厥の毘伽可汗がその大臣の梅録啜に毒を盛られた。だが、死ぬ前に梅録啜とその族党を討誅した。
 卒すると、子息の伊然可汗が立った。これが卒すると、弟の登利可汗が立った。
 庚戌、喪を告げに来た。
 15禁京城匄者,置病坊以廩之。
15.京城での物乞いを禁じ、彼らを病坊に置いて食事を与えた。(当時、病坊は諸寺に分置されていた。)
二十三年(乙亥、七三五)

 春,正月,契丹知兵馬中郎李過折來獻捷;制以過折爲北平王,檢校松漠州都督。
  乙亥,上耕藉田,九推乃止;公卿以下皆終畝。赦天下,都城酺三日。
  上御五鳳樓酺宴,觀者喧隘,樂不得奏,金吾白梃如雨,不能遏;上患之。高力士奏河南丞嚴安之爲理嚴,爲人所畏,請使止之;上從之。安之至,以手板繞場畫地曰:「犯此者死!」於是盡三日,人指其畫以相戒,無敢犯者。
  時命三百里内刺史、縣令各帥所部音樂集於樓下,各較勝負。懷州刺史以車載樂工數百,皆衣文繡,服箱之牛皆爲虎豹犀象之状。魯山令元德秀惟遣樂工數人,連袂歌于蔿。上曰:「懷州之人,其塗炭乎!」立以刺史爲散官。德秀性介潔質樸,士大夫皆服其高。
1.春、正月、契丹の知兵馬中郎李過折が来朝して戦勝を告げた。制を下して過折を北平王、検校松漠都督とした。
 乙亥、上が田を耕した。九回耕した。公卿以下は終日耕す。天下へ恩赦を下し、三日間の大宴会を催す。
 上は五鳳楼へ御幸し、宴席へ臨む。観る者は騒ぎまくり、音楽が奏でられない有様。警備兵の白い棒は雨のようだったが、人々の騒ぎを阻むことはできなかった。上はこれを患った。すると、高力士が上奏した。
「河南丞の厳安之は厳格な人間で、人々から畏れられています。彼に止めさせましょう。」
 上は、これに従った。
 安之が到着すると、板で地面へグルグルと線を引き、言った。
「これを越える者は殺す!」
 こうして、三日で宴会は終わった。人々はその線を指さして互いに戒めとし、敢えて犯す者はいなかった。
 この時、都から三百里以内の刺史、県令は各々麾下の楽団を楼下へ集め、音楽を競わせるよう命じた。懐州刺史は車に楽工数百人を載せたが、彼等は皆、綺麗な刺繍をした着物を着ており、車を引っ張る牛には虎や豹や犀や象の扮装をさせていた。魯山令元徳秀は、ただ数人の楽工を派遣して「于蔿」を歌わせただけだった。
 上は言った。
「懐州の民は、塗炭の苦しみを味わっている!」
 即座に、刺史を散官に降格した。
 徳秀は清廉で質朴な性格。士・大夫は皆、その高潔に心服していた。
 上美張守珪之功,欲以爲相,張九齡諫曰:「宰相者,代天理物,非賞功之官也。」上曰:「假以其名而不使任其職,可乎?」對曰:「不可。惟名與器不可以假人,君之所司也。且守珪纔破契丹,陛下即以爲宰相;若盡滅奚、厥,將以何官賞之?」上乃止。二月,守珪詣東都獻捷,拜右羽林大將軍,兼御史大夫,賜二子官,賞賚甚厚。
2.上は張守珪の功績を美として宰相にしたがったが、張九齢が諫めた。
「宰相は、天に代わって事物を裁量するのです。功績を称する官職ではありません。」
 上は言った。
「名前だけ与えて、実務を取らせない。それならば良いか?」
「いけません。『ただ名と器だけは人へ与えてはならない』と君子も述べております。それに、守珪がたかが契丹を破ったくらいで、陛下がすぐに宰相になさるのなら、奚・厥を全て滅ぼしたら、どんな官職で賞するのですか?」
 上は、思い止まった。
 二月、守珪が東都を詣でて戦勝を告げた。右羽林大将軍、兼御史大夫を拝受し、二人の子息へ官を賜った。褒賞はとても厚かった。
 初,殿中侍御史楊汪既殺張審素,更名萬頃。審素二子瑝、琇皆幼,坐流嶺表;尋逃歸,謀伺便復讎。三月,丁卯,手殺萬頃於都城。繋表於斧,言父冤状;欲之江外殺與萬頃同謀陷其父者。至汜水,爲有司所得。議者多言二子父死非罪,穉年孝烈能復父讎,宜加矜宥;張九齡亦欲活之。裴耀卿、李林甫以爲如此,壞國法,上亦以爲然,謂九齡曰:「孝子之情,義不顧死;然殺人而赦之,此塗不可啓也。」乃下敕曰:「國家設法,期於止殺。各伸爲子之志,誰非徇孝之人!展轉相讎,何有限極!咎繇作士,法在必行。曾參殺人,亦不可恕。宜付河南府杖殺。」士民皆憐之,爲作哀誄,牓於衢路。市人斂錢葬之於北邙。恐萬頃家發之,仍爲作疑冢凡數處。
3.話は前後するが、殿中御史揺汪は張審素を殺した後、万頃と改名した。審素の二人の子の瑝と琇は連座で嶺表へ流されたが、逃げ出し、復讐を謀った。
 三月、丁卯、都城にて自身の手で万頃を殺し、斧へ告発文を繋ぎ止めて父親の冤罪を言い立てた。更に江外へ赴いて万頃と共に父親を陥れた者を殺そうとしたが、汜水にて役人に捕まった。
 これについて協議させたところ、議者の多くは「二子の父親は罪もないのに殺されたし、年端もいかないのに孝烈にも父の復讐をできたものだ。」と言って、お慈悲を請うた。張九齢もまた、彼らを殺したくなかった。裴耀卿と李林甫は、そのようなことをしたら国法が壊れると言った。上も同意して張九齢に言った。
「孝子の心情は、義として命を捨てているものだ。それに、殺人者を赦すという前例を造ってはならない。」
 そして勅を下した。
「国家が法を設けたのは、殺人をやめさせる為だ。各々が子としての志を伸べようとしたとても、全ての人に孝の心があるのだ!互いに復讐をしあうようになっては、どこで終わるか!咎繇が士を作ってから、法は必ず施行された。たとえ曾参でも、人を殺したら恕されない。宜しく河南府にて杖殺させよ。」
 士民は兄弟を憐れんで、彼らのために哀悼文を作り道に立てた。市民は募金して彼等を北邙へ葬ったが、万頃の家族が墓を暴くことを恐れ、あちこちへ塚を造って本物がどれか判らなくした。
 唐初,公主實封止三百戸,中宗時,太平公主至五千戸,率以七丁爲限。開元以來,皇妹止千戸,皇女又半之,皆以三丁爲限;駙馬皆除三品員外官,而不任以職事。公主邑入少,至不能具車服,左右或言其太薄,上曰:「百姓租賦,非我所有。戰士出死力,賞不過束帛;女子何功,而享多戸邪?且欲使之知儉嗇耳。」秋,七月,咸宜公主將下嫁,始加實封至千戸。公主,武惠妃之女也。於是諸公主皆加至千戸。
4.唐の当初、公主の実封は、三百戸に留まっていた。中宗の御代、太平公主は五千戸となり、七丁までを上限とした。開元以来、皇妹は千戸に止まり、皇女はこの半分で、みな、三丁を上限とした。駙馬は三品の外官に除し、実際の職務にはつかせなかった。
 公主の邑が非常に少なくなったので、車や服を購入できなくなった皇女もいた。左右の者が、あるいは少なすぎると言うこともあったが、上は言った。
「百姓の租賦は我の所有ではない。戦士が死力を尽くしても、その恩賞は束帛にすぎないのに、女子に何の功績があって多くの戸を享受するのか?これに倹約を教えたいだけだ。」
 秋、七月、咸宜公主が下嫁し、その実封が初めて千戸になった。公主は、武恵妃の娘である。ここにおいて、諸公主が皆、千戸となった。
 冬,十月,戊申,突騎施寇北庭及安西撥換城。
5.冬、十月、戊申、突騎施が北庭及び安西の撥換城へ来寇した。
 閏月,壬午朔,日有食之。
6.閏月、壬午朔、日食が起こった。
 十二月,乙亥,冊故蜀州司戸楊玄琰女爲壽王妃。玄琰,汪之曾孫也。
7.十二月、乙亥、もとの蜀州司戸楊玄琰の娘を寿王の妃に冊立した。
 玄琰は汪の曾孫である。
 是歳,契丹王過折爲其臣涅禮所殺,并其諸子,一子刺乾奔安東得免。涅禮上言,過折用刑殘虐,衆情不安,故殺之。上赦其罪,因以涅禮爲松漠都督,且賜書責之曰:「卿之蕃法多無義於君長,自昔如此,朕亦知之。然過折是卿之王,有惡輒殺之,爲此王者,不亦難乎!但恐卿今爲王,後人亦爾。常不自保,誰願作王!亦應防慮後事,豈得取快目前!」突厥尋引兵東侵奚、契丹,涅禮與奚王李歸國共撃破之。
8.この年、契丹王過折がその臣涅礼に殺された。その諸子も殺されたが、ただ一人刺乾だけが安東へ逃げて免れた。
 涅礼は、「過折の刑罰が残虐すぎて衆情不安になったため、これを殺した。」と上言した。上はその罪を赦し、涅礼を松漠都督としたが、書を賜ってこれを責めて言った。
「卿の蕃法は、君長に対する義がないものが多い。昔からそうだったことを、朕は知っている。しかし、過折は卿の王であるのに、悪いところがあればすぐに殺す。これでは王となるのは難しいではないか!卿が王となって、後の人間が卿を真似ることを恐れるのだ。命を守ることができないのなら、誰が王になりたいと願おうか!また、後々の事変を防ぐことを考慮するなら、どうして目前の欲望を取れようか!」
 突厥は、兵を率いて奚、契丹へ侵入した。涅礼と奚王李帰国はこれを撃破した。
二十四年(丙子、七三六)

 春,正月,庚寅,敕:「天下逃戸,聽盡今年内自首,有舊産者令還本貫,無者別俟進止;踰限不首,當命專使搜求,散配諸軍。」
1.春、正月、庚寅、勅が下った。
「天下の逃戸は、今年中に自首すれば赦す。資産があった者は元通り返そう。ない者は別に沙汰を待っておれ。期限中に自首しなかった者は、専任の官吏に探求させ、諸軍へバラバラに編入させる。」
 北庭都護蓋嘉運撃突騎施,大破之。
2.北庭都護蓋嘉運が突騎施を攻撃し、これを大いに破った。
 二月,甲寅,宴新除縣令於朝堂,上作令長新戒一篇,賜天下縣令。
3.二月、甲寅、朝堂にて新任の県令達と宴会を催した。上は「令長城戒」一篇を作り、天下の県令に下賜した。
 庚午,更皇子名:鴻曰瑛,潭曰琮,浚曰璵,洽曰琰,涓曰瑤,滉曰琬,涺曰琚,濰曰璲,澐曰璬,澤曰璘,淸曰瑁,洄曰玢,沭曰琦,溢曰環,沔曰理,泚曰玼,漼曰珪,澄曰珙,潓曰瑱,漎曰璿,滔曰璥。
4.庚午、皇子の名を改名した。鴻を瑛,潭を琮、浚を璵、洽を琰、涓を瑤、滉を琬、涺を琚、濰を璲、澐を璬、澤を璘、清を瑁、洄を玢、沭を琦、溢を環、沔を理、泚を玼、漼を珪、澄を珙、潓を瑱、漎を璿、滔を璥とした。
 舊制,考功員外郎掌試貢舉人。有進士李權,陵侮員外李昂,議者以員外郎位卑,不能服衆;三月,壬辰,敕自今委禮部侍郎試貢舉人。
5.旧制では、推挙された人間の試験は員外郎が行っていた。ところが、その席で進士の李権が、員外の李昴を陵侮した。この件に関して、議者は、「員外郎は官位が低いので衆人が服さない」と結論を出した。
 三月、壬辰、今後は礼部侍郎が挙人の試験を行うよう勅が下った。
 張守珪使平盧討撃使、左驍衞將軍安祿山討奚、契丹叛者,祿山恃勇輕進,爲虜所敗。夏,四月,辛亥,守珪奏請斬之。祿山臨刑呼曰:「大夫不欲滅奚、契丹邪,奈何殺祿山!」守珪亦惜其驍勇,乃更執送京師。張九齡批曰:「昔穰苴誅莊賈,孫武斬宮嬪,守珪軍令若行,祿山不宜免死。」上惜其才,敕令免官,以白衣將領。九齡固爭曰:「祿山失律喪師,於法不可不誅。且臣觀其貌有反相,不殺必爲後患。」上曰:「卿勿以王夷甫識石勒,枉害忠良。」竟赦之。
  安祿山者,本營州雜胡,初名阿犖山。其母,巫也;父死,母攜之再適突厥安延偃。會其部落破散,與延偃兄子思順倶逃來,故冒姓安氏,名祿山。又有史窣干者,與祿山同里閈,先後一日生。及長,相親愛,皆爲互市牙郎,以驍勇聞。張守珪以祿山爲捉生將,祿山毎與數騎出,輒擒契丹數十人而返。狡猾,善揣人情,守珪愛之,養以爲子。
  窣干嘗負官債亡入奚中,爲奚游弈所得,欲殺之;窣干紿曰:「我,唐之和親使也,汝殺我,禍且及汝國。」游弈信之,送詣牙帳。窣干見奚王,長揖不拜,奚王雖怒,而畏唐,不敢殺,以客禮館之,使百人隨窣干入朝。窣干謂奚王曰:「王所遣人雖多,觀其才皆不足以見天子。聞王有良將瑣高者,何不使之入朝!」奚王即命瑣高與牙下三百人隨窣干入朝。窣干將至平盧,先使人謂軍使裴休子曰:「奚使瑣高與精鋭倶來,聲云入朝,實欲襲軍城,宜謹爲之備,先事圖之。」休子乃具軍容出迎,至館,悉阬殺其從兵,執瑣高送幽州。張守珪以窣干爲有功,奏爲果毅,累遷將軍。後入奏事,上與語,悅之,賜名思明。
6.張守珪が、平盧討撃使・左驍衛将軍の安禄山に奚・契丹の造反者を討伐させた。禄山は、勇を恃んで軽々しく進軍し、虜に敗北してしまった。
 夏、四月、辛亥、守珪はこれを斬るよう上奏した。禄山は、刑に臨んで叫んだ。
「大丈夫が奚・契丹を滅ぼしたいのなら、どうして禄山を殺すのか!」
 守珪もまた、彼の驍勇を惜しみ、これを再び京師へ護送した。
 張九齢は批判して言った。
「昔、穰苴は荘賈を誅し、孫武は宮嬪を斬りました。守珪が軍令を実行すれば、禄山は死刑を免れません。」
 上はその才を惜しみ、勅にて免官のうえ、白衣将領とした。九齢は固く争って言った。
「禄山は軍律を失って兵士を死なせたのです。法に於いて、誅しなければなりません。それに、臣がその相貌を見ますに、反骨の相があります。殺さなければ、必ず後の患いになりますぞ。」
「卿よ、王夷甫が石勒を知った故事で忠良を害してはならない。」
 ついに、これを赦した。
 安禄山は、もともと営州の雑胡で、元は阿犖山という名だった。その母親は巫女である。父が死んだ後、母は彼を連れて突厥の安延偃へ嫁いだ。その部落が散り散りになった時、彼は延偃の兄の子の思順と共に逃げて来た。それで、安氏の姓を冒し、禄山と名乗った。
 また、史窣干という者がいた。彼は禄山と同郷で、一日違いで生まれた。成長すると、二人は親友となった。どちらも互市の牙郎になり、驍勇で評判だった。
 張守珪が禄山を生将とすると、彼はいつも数騎で出て行き数十人の契丹を捕らえてきた。 安禄山は狡猾な性格で、人に取り入るのが巧かった。だから守珪は彼を愛し、養子とした。
 窣干はかつて、官債を負い、奚へ亡命したことがあった。奚の斥候が彼を捕らえ殺そうとしたが、窣干は言った。
「我は唐の和親の使者だ。汝が我を殺したら、汝の国へ禍が及ぶぞ。」
 斥候はこれを信じて牙帳へ送った。そこで窣干は奚王へ謁見したが、突っ立ったまま拝礼しなかった。奚王は怒ったけれども、唐を畏れて敢えて殺さず、客分への礼で館へ泊め、百人を随行させて入朝しようとした。窣干は奚王へ言った。
「王の派遣する人間は数こそ多いが、天子へ謁見できるような才覚の持ち主はいない。王には瑣高という良将がいると聞くが、どうして彼を入朝させないのか!」
 そこで奚王は瑣高と牙下三百人を干へ随行して入朝させた。
 窣干は平盧へ到着する寸前、使者を先行させて軍使の裴休子へ言った。
「奚が瑣高と精鋭兵を派遣した。入朝するというふれこみだが、実は軍城を襲撃するのだ。まず守備を固め、先手を打て。」
 休子は軍用を整えて迎え出た。館へ到着すると、奚の従兵を穴埋めにして皆殺しにし、瑣高を捕らえて幽州へ送った。
 張守珪は、窣干に功績があったとして、これを上奏し、果毅とした。その後、窣干は将軍まで累進した。後、入奏した時、上はこれと語って悦び、思明という名を下賜した。
 故連州司馬武攸望之子温眘,坐交通權貴,杖死。乙丑,朔方、河東節度使信安王禕貶衢州刺史,廣武王承宏貶房州別駕,涇州刺史薛自勸貶澧州別駕;皆坐與温眘交遊故也。承宏,守禮之子也。辛未,蒲州刺史王琚貶通州刺史;坐與禕交書也。
7.もとの連州司馬武攸望の子息温眘は、権貴と交際した罪で、杖で打ち殺された。
 乙丑、朔方、河東節度使信安王禕を衢州刺史に、広武王承宏を房州別駕に、涇州刺史薛自勧を澧州別駕にそれぞれ左遷した。みな、温眘と交遊があったためである。承宏は守礼の子である。
 辛未、蒲州刺史王琚を通州刺史に左遷した。禕と文通した罪である。
 五月,醴泉妖人劉志誠作亂,驅掠路人,將趣咸陽。村民走告縣官,焚橋斷路以拒之,其衆遂潰,數日,悉擒斬之。
8.五月、醴泉の妖人劉志誠が乱を起こした。途上で掠奪をしながら咸陽へ向かった。村人が走って県官へ報告したので、橋を焼き払って進路を絶ちこれを拒んだ。賊衆は潰え、数日して悉くこれを捕らえ、殺した。
 六月,初分月給百官俸錢。
9.六月、初めて百官の棒銭を月割りとした。
 10初,上因藉田赦,命有司議增宗廟籩豆之薦及服紀未通者。太常卿韋縚奏請宗廟毎坐籩豆十二。
  兵部侍郎張均、職方郎中韋述議曰:「聖人知孝子之情深而物類之無限,故爲之節制。人之嗜好本無憑準,宴私之饌與時遷移,故聖人一切同歸於古。屈到嗜芰,屈建不以薦,以爲不以私欲干國之典。今欲取甘旨肥濃,皆充祭用,苟踰舊制,其何限焉!書曰:『黍稷非馨,明德惟馨。』若以今之珍饌,平生所習,求神無方,何必泥古,則簠簋可去而盤盂盃案當在御矣,韶濩可息而箜篌箏笛當在奏矣。既非正物,後嗣何觀!夫神,以精明臨人者也,不求豐大;苟失於禮,雖多何爲!豈可廢棄禮經以從流俗!且君子愛人以禮,不求苟合;況在宗廟,敢忘舊章!」
  太子賓客崔沔議曰:「祭祀之興,肇於太古。茹毛飲血,則有毛血之薦;未有麴蘖,則有玄酒之奠。施及後王,禮物漸備;然以神道致敬,不敢廢也。籩豆簠簋樽罍之實,皆周人之時饌也,其用通於宴饗賓客,而周公制禮,與毛血玄酒同薦鬼神。國家由禮立訓,因時制範,清廟時饗,禮饌畢陳,用周制也。園寢上食,時膳具設,遵漢法也。職貢來祭,致遠物也。有新必薦,順時令也。苑囿之内,躬稼所收,蒐狩之時,親發所中,莫不薦而後食,盡誠敬也。若此至矣,復何加焉!但當申敕有司,無或簡怠,則鮮美肥濃,盡在是矣,不必加籩豆之數也。」
  上固欲量加品味。縚又奏毎室加籩豆各六,四時各實以新果珍羞;從之。
  縚又奏:「喪服『舅,緦麻三月,從母,外祖父母皆小功五月。』外祖至尊,同於從母之服;姨、舅一等,服則輕重有殊。堂姨、舅親即未疏,恩絶不相爲服,舅母來承外族,不如同爨之禮。竊以古意猶有所未暢者也,請加外祖父母爲大功九月,姨、舅皆小功五月,堂舅、堂姨、舅母並加至袒免。」
  崔沔議曰:「正家之道,不可以貳;總一定義,理歸本宗。是以内有齊、斬,外皆緦麻,尊名所加,不過一等,此先王不易之道也。願守八年明旨,一依古禮,以爲萬代成法。」
  韋述議曰:「喪服傳曰:『禽獸知母而不知父。野人曰,父母何等焉!都邑之士則知尊禰矣;大夫及學士則知尊祖矣。』聖人究天道而厚於祖禰,繋族姓而親其子孫,母黨比於本族,不可同貫,明矣。今若外祖與舅加服一等,堂舅及姨列於服紀,則中外之制,相去幾何!廢禮徇情,所務者末。古之制作者,知人情之易搖,恐失禮之將漸,別其同異,輕重相懸,欲使後來之人永不相雜。微旨斯在,豈徒然哉!苟可加也,亦可減也;往聖可得而非,則禮經可得而隳矣。先王之制,謂之彝倫,奉以周旋,猶恐失墜;一紊其敍,庸可止乎!請依儀禮喪服爲定。」
  禮部員外郎楊仲昌議曰:「鄭文貞公魏徴始加舅服至小功五月。雖文貞賢也,而周、孔聖也,以賢改聖,後學何從!竊恐内外乖序,親疏奪倫,情之所沿,何所不至!昔子路有姊之喪而不除,孔子曰:『先王制禮,行道之人,皆不忍也。』子路除之。此則聖人援事抑情之明例也。記曰:『毋輕議禮。』明其蟠於天地,並彼日月,賢者由之,安敢損益也!」
  敕:「姨舅既服小功,舅母不得全降,宜服緦麻,堂姨舅宜服袒免。」
  均,説之子也。
10.以前、上が田を耕して恩赦を下したおり、宗廟の供え物や服紀がまだ通じていないものを増やす件について、管轄の官吏へ協議するよう命じていた。太常卿韋縚は、宗廟ごとに籩(タカツキ。古代の祭祀の時、果物を盛った器)豆を十二にするよう奏請した。
 兵部侍郎張均や職方郎中韋述が発言した。
「孝子の情は深いけれども物には限りがあります。聖人はそれを知っていたから、祀り方を制定したのです。人の嗜好には、元々基準などありません。恣意に供えたら、時と共に変わって行きます。ですから聖人は、一切を古と同じにしたのです。屈到は菱が好きで「死後は霊前に供えよ」と遺言しましたが、息子の屈建はこれを霊前に供えませんでした。私欲で国典を破らない為です(『国語』楚語より)。今、甘旨肥濃という贅沢な品を祭祀用に使おうとしていますが、ひとたび旧制を越えてしまえば、どこに限りがありましょうか!書経にも言います。『黍や稷が香り高いのではない。明徳が香り高いのだ。』もしも、”今の珍味美膳をいつも食べなれているから、御霊も欲しがっているだろう、何で古来からのやり方に固執する必要があろうか”と言ってしまったら、結局は従来の小さな器が棄てられて供物が盛大に盛られることになり、粛然とした音楽が棄てられてにぎやかな笛太鼓が鳴り響くことになってしまいます。正物でなくなってしまったら、後々はどのようになってしまうでしょうか!
 それ、神は精明で人へ臨むものです。豊大を求めません。いやしくも礼を失ったら、多いと雖も何になりましょうか!礼経を棄てて流俗へ従って、どうして良いものでしょうか!それに、君子は礼を以て人を愛し、迎合しません。ましてや宗廟にいるとき、敢えて旧章を忘れるなど、とんでもないことです!」
 太子賓客崔沔が発言した。
「祭祀が太古に始まった頃は、毛を茹でて血を飲んでいました。これすなわち『毛血の薦』です。まだ酒を醸す麹がなかった頃は、玄酒を地面に播いていました。後の王の代になって、礼物がようやく揃いました。しかし、神道は敬う心ですから、従前の儀式を敢えて廃止しなかったのです。籩豆や祭祀用の器は、皆、周代の人々が定めた物で、宴饗や賓客用の器を使用したのですが、周公の定めた礼では毛血玄酒にても鬼神を祀りました。
 国家は礼によって訓を立てます。時によって規範を定めていますが、清廟や時饗、礼饌などは周代の制度を用いていますし、園陵上食の膳や道具は漢代の法を順守しています。職貢来祭で遠方の物が来た時に新奇なものがあれば、必ず鬼神へ捧げます。苑園の内で陛下が耕した収穫物や狩猟の時に陛下がしとめた獲物などは全て、まず捧げてから食べます。誠と敬を尽くしているではありませんか。このようにしておりますのに、これ以上何を加えましょうか!ただ役人達へ手抜きや怠慢をしないよう敕を下せば、既に供物のうちに鮮美肥濃がことごとく備わっているのです。これ以上、籩豆の数を増やす必要はありません。」
 上は、どうしても品味の量を増やしたかった。滔は、室ごとに籩豆を各六つずつ加え四時には各々新鮮な果物や珍味を供えるよう、再び上奏した。これに従った。
 滔は、また、上奏した。
「喪服では、『舅は緦麻三ヶ月、従母、外祖父母は皆、小功五ヶ月』となっています。外祖父は至尊なのに、従母の服喪と同列です。姨(従母)と舅は、服喪の軽重に一等差を付けてあります。堂姨と舅親は疎遠ではないのに、恩が絶えたので共に喪に服しません。舅母は外から来たので、『かまどを同じくする礼』には入れません。こうして昔の意向を見ますに、しっくり来ないところもあります。どうか、外祖父母を大功九ヶ月とし、姨、舅は小功五ヶ月、堂舅、堂姨、舅母は服袒を免じるようにしてください。」
 崔沔が意見した。
「正家の道は、二つあってはいけません。定義を総一するならば、その理は本宗にあります。ですから、内に斉、斬があり、外は皆思麻です。名を尊ぶために加える物はわずか一等に過ぎませんが、これは先王不易の道です。どうか八年(実際には開元七年)の明旨を守って全て古礼に依り、万代の成法となさってください。」
 韋述が意見した。
「喪服伝に言います。『禽獣は母を知って父を知らず。野人曰く、父と母が何で同じだろうか!都邑の士は、禰(父が死んで宗廟に位牌を立ててからの呼び名)を尊ぶことを知り、大夫や学士は祖を尊ぶことを知る』と。聖人が天道を極めれば祖ニへ厚くなり、一族が繁栄すれば子孫に親しみます。母党を本族と比べれば、同列に扱えないのは明白です。今もし、外祖父と舅の服喪へ一等を加え、堂舅と姨を服紀に並べたら、中外の制はどれだけ違うというのですか!礼を廃して情に流れるのは、務める者の愚劣です。古の人は、人情が揺れやすいのを知り、礼が次第に失われて行くのを恐れたので、その同異を分け軽重を分明にして後世の人々が永く純粋な礼を実戦できるように、制を作ったのです。微かな想いを大切にして封じ込めたもの。どうしていい加減に作ったものでしょうか!いやしくも加えることができるなら、減らすこともできるのです。礼経を損なうということは、かつての聖人を否定することです。先王の制は常倫というもの。これを大切にしていても、なお失墜を恐れます。その記述を一つ乱せば、どこで止まりましょうか!どうか儀礼に依って喪服を定めてください。」
 礼部員外郎楊仲昌が意見した。
「鄭文貞公魏徴が、初めて舅に小功五ヶ月の喪を加えました。文貞は賢人とはいえ、周公や孔子は聖人です。賢人に従って聖人の制度を改めるのでは、後世の学者は何に従うでしょうか!内外が序列をなくし、親疎が倫理を奪うことを恐れます。情に流されるままにしたら、どこへ行き着くのでしょうか!昔、子路は姉の喪の期間が終わったのにやめませんでした。すると、孔子が言いました。『先王が礼を制定した。道を行う者は、皆、これを破るに忍びない。』そこで、子路は喪をやめたのです。これは、聖人が情を抑えるように教えた明白な例です。記に言います。『軽々しく礼を議論してはいけない。』それが天地にどくろを播き、日月に並ぶことは明白。賢者はこれに由ります。どうして増やしたり減らしたりできましょうか!」
 勅が下った。
 均は説の子息である。
「姨舅は小功を服し、舅母は全降を得ず、宜しく緦麻を服せ。堂姨舅は服袒を免じる」
(訳者、曰く。結局、滔の請願が通った。反対意見がやたら丁寧に書かれているが、それを滔一人の意見で押し切ったのだろうか。それとも、彼に同意した大勢の官吏の意見を全て割愛したのだろうか。)
 11秋,八月,壬子,千秋節,羣臣皆獻寶鏡。張九齡以爲以鏡自照見形容,以人自照見吉凶,乃述前世興廢之源,爲書五卷,謂之千秋金鏡録,上之;上賜書褒美。
11.秋、八月、壬子、千秋節である。群臣は皆、宝鏡を献上した。張九齢は「鏡で自分の姿形を見るように、人を見て自分を顧みて吉凶を見てください」とて、前世の後背の原因を五巻の書に造り、これを「千秋金鏡録」と名付けて上納した。上は、書を下賜して褒美とした。
 12甲寅,突騎施遣其大臣胡祿達干來請降,許之。
12.甲寅、突騎施がその大臣胡禄達干を派遣して降伏を請うた。これを許した。
 13御史大夫李適之,承乾之孫也,以才幹得幸於上,數爲承乾論辯;甲戌,追贈承乾恆山愍王。
13.御史大夫李適之は、承乾の孫である。才幹で上から気に入られ、しばしば承乾と弁論した。
 甲戌、承乾へ恒山愍王の爵位を追賜する。
 14乙亥,汴哀王璥薨。
14.乙亥、汴哀王璥が薨去した。
 15冬,十月,戊申,車駕發東都。先是,敕以來年二月二日行幸西京,會宮中有怪,明日,上召宰相,即議西還。裴耀卿、張九齡曰:「今農收未畢,請俟仲冬。」李林甫潛知上指,二相退,林甫獨留,言於上曰:「長安、洛陽,陛下東西宮耳,往來行幸,何更擇時!借使妨於農收,但應蠲所過租税而已。臣請宣示百司,即日西行。」上悅,從之。過陝州,以刺史盧奐有善政,題贊於其聽事而去。奐,懷愼之子也。丁卯,至西京。
15.冬、十月戊申、車駕が東都を出発した。
 以前、来年の二月二日に西京へ御幸すると勅にて予告していた。だが、宮中にて怪異が起こったので、その翌日、上は宰相を召して即座に西へ行こうと相談したのだ。すると、裴耀卿と張九齢は言った。
「まだ、農民の収穫が終わっておりません。仲冬を待ちましょう。」
 李林甫は密かに上の意向に気がついていたので、二相が退出しても一人だけ留まり、上へ言った。
「長安と洛陽は、陛下の東西の宮殿のようなもの。これを往来するのに、どうして時節を選ぶのですか!農業の収穫を妨げるというのなら、その負担に応じて通過する場所の租税を減らせばよいのです。どうか即日西へ向かうと、百司に宣示してください。」
 上は悦び、これに従った。
 陜州を過ぎる時、刺史の盧奐が善い政治をしていたので、その政務を褒め称える文を残して去った。奐は懐慎の子息である。
 丁卯、西京へ到着する。
 16朔方節度使牛仙客,前在河西,能節用度,勤職業,倉庫充實,器械精利;上聞而嘉之,欲加尚書。張九齡曰:「不可。尚書,古之納言,唐興以來,惟舊相及揚歴中外有德望者乃爲之。仙客本河湟使典,今驟居清要,恐羞朝廷。」上曰:「然則但加實封可乎?」對曰:「不可。封爵所以勸有功也。邊將實倉庫,修器械,乃常務耳,不足爲功。陛下賞其勤,賜之金帛可也;裂土封之,恐非其宜。」上默然。李林甫言於上曰:「仙客,宰相才也,何有於尚書!九齡書生,不達大體。」上悅。明日,復以仙客實封爲言,九齡固執如初。上怒,變色曰:「事皆由卿邪?」九齡頓首謝曰:「陛下不知臣愚,使待罪宰相,事有未允,臣不敢不盡言。」上曰:「卿嫌仙客寒微,如卿有何閥閲?」九齡曰:「臣嶺海孤賤,不如仙客生於中華;然臣出入臺閣,典司誥命有年矣。仙客邊隅小吏,目不知書,若大任之,恐不愜衆望。」林甫退而言曰:「苟有才識,何必辭學!天子用人,有何不可!」十一月,戊戌,賜仙客爵隴西縣公,食實封三百戸。
  初,上欲以李林甫爲相,問於中書令張九齡,九齡對曰:「宰相繋國安危,陛下相林甫,臣恐異日爲廟社之憂。」上不從。時九齡方以文學爲上所重,林甫雖恨,猶曲意事之。侍中裴耀卿與九齡善,林甫并疾之。是時,上在位歳久,漸肆奢欲,怠於政事。而九齡遇事無細大皆力爭;林甫巧伺上意,日思所以中傷之。
  上之爲臨淄王也,趙麗妃、皇甫德儀、劉才人皆有寵,麗妃生太子瑛,德儀生鄂王瑤,才人生光王琚。及即位,幸武惠妃,麗妃等愛皆馳;惠妃生壽王瑁,寵冠諸子。太子與瑤、琚會於内第,各以母失職有怨望語。駙馬都尉楊洄尚咸宜公主,常伺三子過失以告惠妃。惠妃泣訴於上曰:「太子陰結黨與,將害妾母子,亦指斥至尊。」上大怒,以語宰相,欲皆廢之。九齡曰:「陛下踐阼垂三十年,太子諸王不離深宮,日受聖訓,天下之人皆慶陛下享國久長,子孫蕃昌。今三子皆已成人,不聞大過,陛下奈何一旦以無根之語,喜怒之際,盡廢之乎!且太子天下本,不可輕搖。昔晉獻公聽驪姫之讒殺申生,三世大亂。漢武帝信江充之誣罪戻太子,京城流血。晉惠帝用賈后之譖廢愍懷太子,中原塗炭。隋文帝納獨孤后之言黜太子勇,立煬帝,遂失天下。由此觀之,不可不愼。陛下必欲爲此,臣不敢奉詔。」上不悅。林甫初無所言,退而私謂宦官之貴幸者曰:「此主上家事,何必問外人!」上猶豫未決。惠妃密使官奴牛貴兒謂九齡曰:「有廢必有興,公爲之援,宰相可長處。」九齡叱之,以其語白上;上爲之動色,故訖九齡罷相,太子得無動。林甫日夜短九齡於上,上浸疏之。
  林甫引蕭炅爲戸部侍郎。炅素不學,嘗對中書侍郎嚴挺之讀「伏臘」爲「伏獵」。挺之言於九齡曰:「省中豈容有『伏獵侍郎』!」由是出炅爲岐州刺史,故林甫怨挺之。九齡與挺之善,欲引以爲相,嘗謂之曰:「李尚書方承恩,足下宜一造門,與之款暱。」挺之素負氣,薄林甫爲人,竟不之詣;林甫恨之益深。挺之先娶妻,出之,更嫁蔚州刺史王元琰,元琰坐贓罪下三司按鞫,挺之爲之營解。林甫因左右使於禁中白上。上謂宰相曰:「挺之爲罪人請屬所由。」九齡曰:「此乃挺之出妻,不宜有情。」上曰:「雖離乃復有私。」
  於是上積前事,以耀卿、九齡爲阿黨;壬寅,以耀卿爲左丞相,九齡爲右丞相,並罷政事。以林甫兼中書令;仙客爲工部尚書、同中書門下三品,領朔方節度如故。嚴挺之貶洺州刺史,王元琰流嶺南。
  上即位以來,所用之相,姚崇尚通,宋璟尚法,張嘉貞尚吏,張說尚文,李元紘、杜暹尚儉,韓休、張九齡尚直,各其所長也。九齡既得罪,自是朝廷之士,皆容身保位,無復直言。
  李林甫欲蔽塞人主視聽,自專大權,明召諸諫官謂曰:「今明主在上,羣臣將順之不暇,烏用多言!諸君不見立仗馬乎?食三品料,一鳴輒斥去,悔之何及!」
  補闕杜璡嘗上書言事,明日,黜爲下邽令。自是諫爭路絶矣。
  牛仙客既爲林甫所引,專給唯諾而已。然二人皆謹守格式,百官遷除,各有常度,雖奇才異行,不免終老常調;其以巧諂邪險自進者,則超騰不次,自有他蹊矣。林甫城府深密,人莫窺其際。好以甘言啗人,而陰中傷之,不露辭色。凡爲上所厚者,始則親結之,及位勢稍逼,輒以計去之。雖老姦巨猾,無能逃其術者。
16.朔方節度使牛仙客は、以前は河西で働いていたが、よく節約して職務に励んだおかげで官庫は充満し器械は整備されていた。上は、これを聞いて喜び、尚書を加えようと思った。すると張九齢が言った。
「いけません。尚書は昔の納言です。唐が興って以来、宰相経験者か、中外で徳望の高い者だけしかこれになりませんでした。仙客はもともと河湟使典、今、これを即座に文官の要職につければ、朝廷の恥となります。」
「それでは実封を加えればよいか?」
「いけません。功績を立てようという気持ちを煽り立てるために、実績ある者を爵位に封じるのです。辺域の将が官庫を満たし器械を整備するのは、常の職務に過ぎず、功績となすに足りません。陛下が、その勤労を賞したいのなら、金帛を下賜すれば良いのです。領土を割いて封じるなど、妥当な処置ではありません。」
 上は黙り込んだ。
 李林甫は上へ言った。
「仙客は、宰相の才覚を持っています。尚書くらいこなせます。九齢は書生だから、大礼を知らないのです。」
 上は悦んだ。翌日、仙客を封じると再び言った。九齢は当初の意見に固執した。上は怒り、顔色を変えて言った。
「政務は、全て卿の言うとおりにしなければならないのか?」
 九齢は頓首して言った。
「陛下は臣のような愚か者を、宰相に抜擢してくださいました。ですから臣は、良くないと思ったことには言葉言い尽くさずにはいられないのです。」
「卿は、仙客が卑しい出自なのを嫌っているが、卿はどんな家門なのだ?」
「臣は僻地の賎しい出身、仙客が中華で生まれたのにも及びません(九齢は韶州、仙客は徑州の生まれ)。しかし、臣は長い間台閣に出入りして誥命も典司しています。仙客は辺境の小吏で、書を読むこともできません。もしも彼へ大任を任せれば、衆望に背くでしょう。」
 退出すると、林甫が言った。
「いやしくも才識があれば、辞学など必ずしも必要ではありません。天子が人を用いるのに、いけないことなどありません!」
 十一月、戊戌、仙客へ隴西県公の爵位を賜り、実封三百戸を食ませた。
 上が林甫を宰相にしようと思った時、当時中書令だった張九齢に問うた。すると、九齢は答えた。
「宰相は、国の安危に関わります。陛下が林甫を宰相になされたら、いつか社稷の憂いとなりましょう。」
 上は従わなかった。
 その頃、九齢は文学で上から重んじられていたので、林甫は恨んだけれども、表に出さずに彼と接していた。侍中の裴耀卿は九齢と仲が善かったので、林甫は彼のことも煙たがった。ところが、今では上も在位して長くなり、次第に奢侈や我が儘が募り初め、政事にも怠惰になってきた。それなのに、九齢は事件の細大に関わりなく全て力争している。李林甫は巧みに上に取り入りながら、日々彼等を中傷することを考えるようになった。
 上が臨淄王だった頃、趙麗妃、皇甫徳儀、劉才人の三人が特に寵愛されていた。麗妃は太子の瑛を産み、徳儀は鄂王瑤、才人は光王琚を産んだ。
 即位するに及んで、武恵妃を寵愛し、麗妃等の寵愛は薄れていった。恵妃は寿王瑁を産み、その寵愛は諸子の中でずば抜けていた。
 太子と瑤、琚が内第で顔を会わせたとき、各々自分の母親が上から顧みられなくなったことを怨望して語り合った。駙馬都尉の楊洄は咸宜公主を娶っていたが、彼はいつも三子の過失を探っては武恵妃へ密告していた。恵妃は上へ泣いて訴えた。
「太子は密かに党類と結託し、妾母子を殺そうとしています。また、陛下を退位させるつもりです。」
 上は大いに怒って宰相に語り、三子を廃立しようとした。九齢は言った。
「陛下は即位されてから三十年になろうとしています。太子や諸王は深宮から離れずに日々聖訓を受けています。天下の人々は、皆、陛下が永刻の国を統治して多くの子孫を持たれたことを慶んでおるのです。今、三子は皆、既に成人になっており、大きな過失も聞きませんのに、陛下はどうして根も葉もない噂一つに心を動かされ、一日にして全員を廃されるのですか!それに、太子は天下の本です。軽々しく揺らしてはいけません。昔、晋の献公が驪姫の讒言を聞き入れて申生を殺してから、三世に亘る大乱となりました。漢の武帝が江充のでっち上げを信じて戻太子を罰すると、京城では流血騒ぎが起こりました。晋の恵帝が賈后の譖を用いて愍懐太子を廃すると、中原の民は塗炭の苦しみを味わいました。隋の文帝が独孤后の言葉を容れて太子の勇を黜きますと、煬帝が立って遂に天下を失いました。これらを見ますに、慎まなければなりません。陛下がどうしてもと望まれても、臣は敢えて詔を奉じません。」 
 上は不機嫌になった。
 李林甫は、初めは何も言わなかったが、退出すると寵用されている宦官に私的に言った。
「これは上の家庭のことだ。なんで外の人間に問う必要があるのか!」
 だが、上は尚も躊躇して決断しなかった。
 官奴の牛貴児が恵妃の命令で、九齢へ密かに言った。
「廃される者がいれば、必ず興る者が出るのです。公がこれを後援すれば、いつまでも宰相でいられますぞ。」
 九齢はこれを叱りつけ、その言葉を上へ語った。上はこれに心を動かし、太子は廃されずに済んだ。
 林甫は日夜、上へ九齢の悪口を吹き込んだので、上は次第に彼を疎み始めた。
 林甫が蕭炅を引き立てて、戸部侍郎とした。 炅はもともと学がなく、ある時中書侍郎厳挺之の字の「伏臘」を「伏猟」と読んだ。挺之は、九齢へ言った。
「省中で、どうして『伏猟侍郎』を入れられようか!」
 これによって炅は岐州刺史へ出向させられた。この事件で林甫は挺之を怨んだ。
 九齢は挺之と仲が善く、彼を宰相に引き上げたくて、彼へ言った。
「李尚書は陛下のお気に入りだ。足下は新しい友人として懇意に付き合ってくれ。」
 挺之はもともと自負心が強く、林甫の為人を軽蔑していたので、遂に彼のもとへ出向かなかった。林甫の恨みはますます深くなった。
 挺之は離縁したことがあるが、別れた妻は蔚州刺史王元琰と再婚した。元琰は、やがて収賄罪で三司の詮議を受けたが、挺之は彼の為に仕事を休んだ。林甫は近習達へ、これを禁中にて上へ伝えさせた。上は宰相へ言った。
「挺之は罪人の為に連座を請うたぞ。」
 九齢は言った。
「これは挺之の別れた妻のことです。情はありません。」
「離縁したとはいえ、私情が残っていたのだ。」
 ここにおいて上は、今までのことが積み重なり、耀卿、九齢は徒党を組んでいるとした。
 壬寅、耀卿を左丞相、九齢を右丞相として、ともに政事をやめさせた。林甫は中書令を兼務する。仙客は工部尚書、同中書門下三品として、領朔方節度使はそのまま続けさせた。厳挺之は洺州刺史に左遷され、王元琰は嶺南に流された。
 上が即位以来用いた宰相達は、姚祟は通を尚び、宋璟は法を尚び、張嘉貞は吏を尚び、張説は文を尚び、杜進は倹約を尚び、韓休・張九齢は直言を尚ぶ、と、それぞれ長所があった。だが、九齢が罪を得てからは、朝廷の士は皆、保身のみに走って、直言することがなくなった。
 李林甫は人主の耳と目を塞いで自分が大権を独占しようと思い、諸諫官を召集して言った。
「今、明主が上にいる。群臣は、その指示に従っていれば良い。どうして多言を用いるか!諸君は仗馬が立っているのを見たことがないか?あの馬は、毎日三品の食料を食べられるが、一声いなないたら、すぐにお役御免だ。後悔しても及ばないのだぞ!」
 補闕の杜璡が上書して事を言った。翌日、彼は下邽令に降格された。これより、諫争の路が途絶えた。
 牛仙客は、李林甫から引き立てられたので、ただ諾々とするだけだった。二人とも格式を謹守していたが、百官の遷除には各々法則があった。奇才異行でも年をとるまで異例の出世はなかったが、諂いが巧みで腹黒い人間はどんどん出世した。
 林甫の城府は秘密が深く、人々はその内情を伺うことができなかった。林甫は人へ甘い言葉をかけるのが好きだったが、陰では中傷した。しかし、顔には絶対出さなかった。およそ上から気に入られた人間とは、初めは親しく交わりを結ぶが、相手の地位が自分に迫ってきたら、すぐに計略を使って取り除いた。老姦巨狡な人間でも、その魔手から逃げることはできなかった。
二十五年(丁丑、七三七)

 春,正月,初置玄學博士,毎歳依明經舉。
1.春、正月、初めて玄学博士を設置した。毎年、明経によって選んだ。
 二月,敕曰:「進士以聲韻爲學,多昧古今;明經以貼誦爲功,罕窮旨趣。自今明經問大義十條,對時務策三首;進士試大經十貼。」
2.二月、勅が下った。
「進士は名声だけで学があるとされ、古今に暗い者が多い。明経はその内容に精通していることが大切なのだ。今後は明経で大義十条を問い、時務策三首を述べさせる。進士は大経十帖を試す。」
 戊辰,新羅王興光卒,子承慶襲位。
3.戊辰、新羅王興光が卒した。子の承慶が位を継いだ。
 乙酉,幽州節度使張守珪破契丹於捺祿山。
4.乙酉、幽州節度使張守珪が捺禄山にて契丹を破った。
 己亥,河西節度使崔希逸襲吐蕃,破之於靑海西。
  初,希逸遣使謂吐蕃乞力徐曰:「兩國通好,今爲一家,何必更置兵守捉,妨人耕牧!請皆罷之。」乞力徐曰:「常侍忠厚,言必不欺。然朝廷未必專以邊事相委,萬一有姦人交鬭其間,掩吾不備,悔之何及!」希逸固請,乃刑白狗爲盟,各去守備;於是吐蕃畜牧被野。時吐蕃西撃勃律,勃律來告急。上命吐蕃罷兵,吐蕃不奉詔,遂破勃律;上甚怒。會希逸傔人孫誨入奏事,自欲求功,奏稱吐蕃無備,請掩撃,必大獲。上命内給事趙惠琮與誨偕往,審察事宜。惠琮等至,則矯詔令希逸襲之。希逸不得已,發兵自涼州南入吐蕃境二千餘里,至靑海西,與吐蕃戰,大破之,斬首二千餘級,乞力徐脱身走。惠琮、誨皆受厚賞。自是吐蕃復絶朝貢。
5.己亥、河西節度使崔希逸が吐蕃を襲撃し、青海の西でこれを破った。
 かつて、希逸は使者を派遣して吐蕃の乞力徐に言った。
「両国がよしみを通じて、今、一家となった。なんで兵を置いて守りを固め、農牧を妨げる必要があろうか!どうか、共にこれをやめよう。」
 乞力徐は言った。 「常侍は忠が厚い。その言うことに嘘はあるまい。だが、朝廷はまだ辺事の全てを委任してくれてはいない。万が一姦人が両国を戦わせようとして、吾の不備を衝いたなら、悔いても及ばない!」
 希逸は固く請い、白狗を殺して盟約を結び、各々守備を撤去した。ここにおいて吐蕃は、野で放牧するようになった。
 この頃、吐蕃は西方の勃律を攻撃した。勃律は唐へやって来て急を告げた。上は吐蕃へ兵を引くよう命じたが、吐蕃は詔を奉じず、遂に勃律を破った。上はたいへん怒った。
 希逸の部下の孫誨が入奏した時、彼は功績を求めて、「吐蕃は防備をしていませんので、これを攻撃したら大勝します。」と上奏した。上は内給事趙惠琮へ、誨と共に現地を査察するよう命じた。
 惠琮は到着すると、詔を矯めて希逸へ襲撃するよう命じた。希逸はやむを得ず、兵を発して涼州から南下し吐蕃の領内二千余里まで侵入した。青海西に至って、吐蕃と戦い、大いにこれを破った。斬首は二千余級。乞力徐は体一つで逃げ出した。
 恵琮、誨は共に厚く賞を受ける。これ以来、吐蕃の朝貢は途絶えた。
 夏,四月,辛酉,監察御史周子諒彈牛仙客非才,引讖書爲證。上怒,命左右[手暴]於殿庭,絶而復蘇;仍杖之朝堂,流瀼州,至藍田而死。李林甫言:「子諒,張九齡所薦也。」甲子,貶九齡荊州長史。
6.夏、四月、辛酉、監察御史周子諒が牛仙客を非才であると弾劾し、讖書を引いて証拠とした。
 上は怒り、左右に命じて殿庭にて殴らせた。子諒は気絶したが、やがて蘇生した。すると今度は麻堂にて杖打ち、瀼州へ流したが、その途上、藍田にて卒した。
 李林甫は言った。
「子諒は、張九齢が推薦した者です。」
 九齢は荊州長史に左遷された。
 楊洄又奏太子瑛、鄂王瑤、光王琚,云與太子妃兄駙馬薛鏽潛搆異謀,上召宰相謀之。李林甫對曰:「此陛下家事,非臣等所宜豫。」上意乃決。乙丑,使宦者宣制於宮中,廢瑛、瑤、琚爲庶人,流鏽於瀼州。瑛、瑤、琚尋賜死城東驛,鏽賜死於藍田。瑤、琚皆好學,有才識,死不以罪,人皆惜之。丙寅,瑛舅家趙氏、妃家薛氏、瑤舅家皇甫氏,坐流貶者數十人,惟瑤妃家韋氏以妃賢得免。
7.「太子瑛と鄂王瑤、光王琚が、太子妃の兄の駙馬薛鏽と密かに異謀を語っていた」と、楊洄が再び上奏した。上は宰相を召してこれを謀った。
 李林甫が言った。
「これは陛下の家庭のことです。臣らが関わることではありません。」
 上の想いは決した。
 乙丑、宦官に「瑛、瑤、琚を廃して庶人とし、鏽は瀼州へ流す」と宮中に宣制させた。
 ついで瑛、瑤、琚は白東駅にて死を賜り、鏽は藍田にて死を賜った。
 瑤も琚も学問を好んで才識もあり、罪もないのに殺されたので、人々はこれを惜しんだ。
 丙寅、瑛の舅の一族趙氏、妃の一族薛氏、瑤の舅の一族皇甫氏が、連座で数十人、流されたり左遷されたりした。ただ、瑤の妃の一族韋氏は、妃が賢人だったので免れた。
 五月,夷州刺史楊濬坐贓當死,上命杖之六十,流古州。左丞相裴耀卿上疏,以爲:「決杖贖死,恩則甚優;解體受笞,事頗爲辱,止可施之徒隸,不當及於士人。」上從之。
8.五月、夷州刺史楊濬が収賄で死罪になるところを、上は杖六十と命じて古州へ流した。左丞相裴耀卿が、上疏した。その大意は、
「死罪を杖刑に減刑したのは、非常な恩義であります。しかし、裸にして笞打たれるというのが、どれ程の恥辱でしょうか。こういう施しは奴隷や庶民のみにして、士人へは行いませんよう。」
 上は、これに従った。
 癸未,敕以方隅底定,令中書門下與諸道節度使量軍鎭閒劇利害,審計兵防定額,於諸色征人及客戸中召募丁壯,長充邊軍,增給田宅,務加優恤。
9.癸未、辺境の乱を平定するよう勅が下った。中書門下と諸道節度使に軍陳間の利害を量らせ、軍費の定額を産出させ、諸外国からの降人や客戸から丁壮を募兵し、辺境の軍卒へ充てた。田宅を増給し、務めて労わせた。
 10辛丑,上命有司選宗子有才者,授以臺省及法官、京縣官,敕曰:「違道慢常,義無私於王法;修身效節,恩豈薄於他人!期於帥先,勵我風俗。」
10.辛丑、上は役人達へ、宗子のうち才能のあるものを選んで台省及び法官、京県官を授けるよう命じた。勅して言った。
「道に背く者や怠け者よ、王法に贔屓はないのだぞ。だが、身を修め節義正しければ、その報いが、どうして他人より薄かろうか!率先して我が風俗を正すことを期待する。」
 11秋,七月,己卯,大理少卿徐嶠奏:「今歳天下斷死刑五十八,大理獄院,由來相傳殺氣太盛,鳥雀不栖,今有鵲巣其樹。」於是百官以幾致刑措,上表稱賀。上歸功宰輔,庚辰,賜李林甫爵晉國公,牛仙客豳國公。
  上命李林甫、牛仙客與法官刪脩律令格式成,九月,壬申,頒行之。
11.秋、七月、己卯、大理少卿徐嶠が上奏した。
「今年、天下の死刑は五十八人しかおりませんでした。今までは、大理獄院からは殺気が満ち溢れ、雀でさえも巣を掛けなかったものでしたが、今では鵲がその木に巣を造っております。」
 ここにおいて百官は、罪人が減ったとして、上表して祝賀した。
 上は、それを宰輔の功績とした。庚辰、李林甫へ晋国公、牛仙客に豳国公の爵位を下賜した。
 上は、李林甫、牛仙客と法官へ律令格式を編纂し直すよう命じていたが、これが完成した。九月、壬申、これを頒布した。
 12先是,西北邊數十州多宿重兵,地租營田皆不能贍,始用和糴之法。有彭果者,因牛仙客獻策,請行糴法於關中。戊子,敕以歳稔穀賤傷農,命增時價什二三,和糴東、西畿粟各數百萬斛,停今年江、淮所運租。自是關中蓄積羨溢,車駕不復幸東都矣。癸巳,敕河南、北租應輸含嘉、太原倉者,皆留輸本州。
12.従来、西北の数十州には兵卒が多く、地租や営田では兵糧をまかないきれなかった。そこで始めて和糴の法を用いた。
 ここに彭果という者がいた。牛仙客の献策をもとに、関中にて糴法を用いるよう請うた。
 戊子、豊作で穀物の価格が安くなり農民が苦労しているので、敕を下し、時価の二、三割増しの値段で買い入れ、東、西畿の粟数百万石を和糴するよう命じた。また、今年は江、淮の租米の運輸を中止するよう命じた。
 これより関中に備蓄された穀物が満ち溢れ、車駕が東都へ往復しないようになった。
 癸巳、河南、北の租米を含嘉、太原倉へ運ぶよう勅し、皆、本州へ留めさせた。
 13太常博士王璵上疏請立靑帝壇以迎春;從之。冬,十月,辛丑,制自今立春親迎春於東郊。
  時上頗好祀神鬼,故璵專習祠祭之禮以干時。上悅之,以爲侍御史,領祠祭使。璵祈禱或焚紙錢,類巫覡,習禮者羞之。
13.太常博士王璵が上疏して、青帝檀を立てて春を迎えるよう請うた。これに従った。
 冬、十月、辛丑、今後、立春には東郊にて迎春をするよう勅した。
 この頃の上は、鬼神を祀る事をとても好んでいた。だから、璵は祠祭の礼だけを学んで進言した。上はこれを悦び、侍御史、領祠祭使とした。
 璵の祈祷は、あるいは紙銭を焚いたりするもので、巫事の類だった。だから、礼を習った者はこれを羞じた。
 14壬申,上幸驪山温泉。乙酉,還宮。
14.壬申、上が驪山の温泉へ御幸した。乙酉、宮殿へ帰った。
 15己丑,開府儀同三司廣平文貞公宋璟薨。
15.己丑、開府儀同三司・広平文貞公の宋璟が薨去した。
 16十二月,丙午,惠妃武氏薨,贈謚貞順皇后。
16.十二月、丙午、恵妃武氏が卒した。貞順皇后の諡を下賜した。
 17是歳,命將作大匠康諐素之東都毀明堂。諐素上言:「毀之勞人,請去上層,卑於舊九十五尺,仍舊爲乾元殿。」從之。
17.この年、将作大匠康諐素へ、東都へ行って明堂を壊すよう命じた。すると、諐素は上言した。
「これを壊すのは大変な労力が要ります。どうか上層を撤去して、旧来より九十五尺低くして、乾元殿としてください。」
 これに従った。
 18初令租庸調、租資課,皆以土物輸京都。
18.初めて租庸調を命じた。租は財源として、他は特産品で京都へ輸送させた。(この訳文は、ちょっと、自信ありません。)
二十六年(戊寅、七三八)

 春,正月,乙亥,以牛仙客爲侍中。
1.春、正月、乙亥、牛仙客を侍中とした。
 丁丑,上迎氣於滻水之東。
2.丁丑、上が滻水の東で気を迎える。
 制邊地長征兵,召募向足,自今鎭兵勿復遣,在彼者縱還。
3.制が下った。
「辺地の長征兵は応募した兵で十分だ。今後、鎮兵を派遣してはならぬ。その地にいる者は呼び戻せ。」
 令天下州、縣、里別置學。
4.天下の州、県、里へ学校を設置するよう命じた。
 壬辰,以李林甫領隴右節度副大使,以鄯州都督杜希望知留後。
  二月,乙卯,以牛仙客兼河東節度副大使。
5.壬辰、李林甫を隴右節度副大使として、鄯州都督の杜希望を留後とした。
 二月、乙卯、牛仙客に河東節度副大使を兼任させた。
 己未,葬貞順皇后于敬陵。
6.己未、貞順皇后を敬陵へ葬った。
 壬戌,敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者,聽還故土,於鹽、夏之間,置宥州以處之。
7.壬戌、康待賓の連座で、諸州へ奴隷として連れ去られた河曲六州の胡は、故郷へ帰ることを許した。塩州・夏州の間に宥州を設置して、彼らをここへ住ませた。
 三月,吐蕃寇河西,節度使崔希逸撃破之。鄯州都督、知隴右留後杜希望攻吐蕃新城,拔之,以其地爲威戎軍,置兵一千戍之。
8.三月、吐蕃が河西へ来寇した。節度使の崔希逸が、これを撃破した。
 鄯州都督、知隴右留後の杜希望が吐蕃の新城を攻撃して、これを抜いた。その土地を威戎軍と名付け、守備兵一千を置いて守らせた。
 夏,五月,乙酉,李林甫兼河西節度使。
  丙申,以崔希逸爲河南尹。希逸自念失信於吐蕃,内懷愧恨,未幾而卒。
9.夏、五月、乙酉、李林甫に河西節度使を兼任させた。
 丙申、崔希逸を河南尹とした。希逸は、吐蕃との盟約を裏切ったことを自覚しており、内心忸怩たるものがあった。いすばくも経たずに卒した。
 10太子瑛既死,李林甫數勸上立壽王瑁。上以忠王璵年長,且仁孝恭謹,又好學,意欲立之,猶豫歳餘不決。自念春秋浸高,三子同日誅死,繼嗣未定,常忽忽不樂,寢膳爲之減。高力士乘間請其故,上曰:「汝,我家老奴,豈不能揣我意!」力士曰:「得非以郎君未定邪?」上曰:「然。」對曰:「大家何必如此虚勞聖心,但推長而立,誰敢復爭!」上曰:「汝言是也!汝言是也!」由是遂定。六月,庚子,立璵爲太子。
10.太子瑛が卒して後、李林甫はしばしば寿王瑁を立てるよう上に勧めた。上は、忠王璵が年長であり、その人格が仁孝恭謹で学問を好んでいたので、彼を立てたかったのだが、なお躊躇して一年余りも決断できなかった。だが、自身がますます老いて行くことを感じ、三子を同日に誅殺したうえ、世継ぎが決まっていないので、いつもぼんやりとしていて楽しまず、夜も寝られず食欲もなくしてしまう有様だった。
 高力士が合間を見て心痛の理由を尋ねると、上は言った。
「汝は我が家に長く務めているのに、どうして我が思いが判らないのか!」
 力士は言った。
「世継ぎが決まらないせいですか?」
「そうだ。」
「大家、何でその様に聖心を思い煩わせるのですか。ただ年長を推して立てれば、誰が敢えて争いましょうか!」
「汝の言うとおりだ!汝の言うとおりだ!」
 これによって、ついに決定した。
 六月、庚子、璵を太子に立てた。
 11辛丑,以岐州刺史蕭炅爲河西節度使總留後事,鄯州都督杜希望爲隴右節度使,太僕卿王昱爲劍南節度使,分道經略吐蕃,仍毀所立赤嶺碑。
11.辛丑、岐州刺史蕭炅を河西節度使総留後事とし、鄯州都督杜希望を隴右節度使とし、太僕卿王昱を剣南節度使とし、それぞれ別道から吐蕃を経略させ、彼らが立てた赤嶺碑を壊させた。
 12突騎施可汗功祿,素廉儉,毎攻戰所得,輒與諸部分之,不留私蓄,由是衆樂爲用。既尚唐公主,又潛通突厥及吐蕃,突厥、吐蕃各以女妻之。蘇祿以三國女爲可敦,又立數子爲葉護,用度浸廣,由是攻戰所得,不復更分。晩年病風,一手攣縮,諸部離心。酋長莫賀達干、都摩度兩部最強,其部落又分爲黄姓、黑姓,互相乖阻,於是莫賀達干勒兵夜襲蘇祿,殺之。都摩度初與莫賀達干連謀,既而復與之異,立蘇祿之子骨啜爲吐火仙可汗,以收其餘衆,與莫賀達干相攻。莫賀達干遣使告磧西節度使蓋嘉運,上命嘉運招集突騎施、拔汗那以西諸國;吐火仙與都摩度據碎葉城,黑姓可汗爾微特勒據怛邏斯城,相與連兵以拒唐。
12.突騎施可汗蘇禄は、もともと清廉倹素な性で、戦争をして掠奪したものは諸部に分け与え、自分の手元には留めなかった。だから大勢の人間が、喜んで彼のために働いた。
 唐の公主を娶った後にも、彼は密かに突厥及び吐蕃と通じ、突厥も吐蕃も各々娘を娶せた。蘇禄は三国の娘を可敦とし、また、数人の子息を葉護に立てた。だから費用も次第に多くなり、いつのまにか略奪品を部下に分け与えなくなった。
 晩年通風を病んで手が痙攣するようになると、諸部の心が離れていった。
 酋長の莫賀達干、都摩度の両部は突騎施の中では最も強く、その部落は黄姓と言い、蘇禄の黒姓とは分かれていて、彼らは互いに反目しあっていた。
 ここにおいて、莫賀達干は兵を率いて蘇禄へ夜襲を掛け、これを殺した。
 都摩度は、最初は莫賀達干と連盟していたが、やがて齟齬が生まれ、蘇禄の子息の骨啜を立てて吐火仙可汗とし、その余衆を集めて莫賀達干と戦った。
 莫賀達干は磧西節度使蓋嘉運へ使者を派遣して、これを告げた。上は、突騎施、抜汗那以西の諸国を招集するよう、嘉運へ命じた。
 吐火仙と都摩度は砕葉城へ據り、黒姓可汗爾微特勒は怛邏斯城へ據り、連合して唐を拒んだ。
 13太子將受册命,儀注有中嚴、外辦及絳紗袍,太子嫌與至尊同稱,表請易之。左丞相裴耀卿奏停中嚴,改外辦曰外備,改絳紗袍爲朱明服。秋,七月,己巳,上御宣政殿,册太子。故事,太子乘輅至殿門。至是,太子不就輅,自其宮歩入。是日,赦天下。己卯,册忠王妃韋氏爲太子妃。
13.太子が冊命を受けるにあたって、中厳、外弁及び絳紗袍を身に纏うのが儀礼だった。太子は至尊と同じ格好をすることが畏れ多くて、上表してこれを代えるよう請うた。左丞相裴耀卿は、中厳を停止し、外弁を外備と改称し、絳紗袍を朱明服へ改めるよう上奏した。
 秋、七月、己巳、上は宣政殿へ御幸して、太子を冊立した。
 故事では、太子は輅に乗って殿門へやって来る慣わしだった。ここにいたって、太子は輅に乗らず、宮から歩いて入った。
 この日、天下へ恩赦を下した。
 己卯、忠王の妃韋氏を太子妃に冊立した。
 14杜希望將鄯州之衆奪吐蕃河橋,築鹽泉城於河左,吐蕃發兵三萬逆戰,希望衆少不敵,將卒皆懼。左威衞郎將王忠嗣帥所部先犯其陳,所向闢易,殺數百人,虜陳亂。希望縱兵乘之,虜遂大敗。置鎭西軍於鹽泉。忠嗣以功遷左金吾將軍。
14.杜希望は鄯州の衆を率い、吐蕃河橋を奪った。河左へ塩泉城を築く。
 吐蕃は、三万の兵で逆襲した。希望の兵力は少なく相手にならなかったので、将卒はみな懼れた。
 左威衛郎将王忠嗣は手勢を率いて敵陣へ突入し、向かうところをなぎ倒して数百人を殺した。虜陣は混乱した。希望はこれに乗じて突撃させると、ついに虜は大敗した。
 塩泉に鎮西軍を設置した。
 忠嗣はこの功績で左金吾将軍となった。
 15八月,辛巳,勃海王武藝卒,子欽茂立。
15.八月、辛巳、渤海王武芸が卒した。子息の欽茂が立った。
 16九月,丙申朔,日有食之。
16.九月、丙申朔、日食が起こった。
 17初,儀鳳中,吐蕃陷安戎城而據之,其地險要,唐屢攻之,不克。劍南節度使王昱築兩城於其側,頓軍蒲婆嶺下,運資糧以逼之。吐蕃大發兵救安戎城,昱衆大敗,死者數千人。昱脱身走,糧仗軍資皆棄之。貶昱栝州刺史,再貶高要尉而死。
17.かつて、儀鳳年間に、吐蕃が安戎城を落とし、これを拠点とした。その地形が険阻だったので、唐はしばしばこれを攻撃したが、勝てなかった。
 剣南節度使王昱は、その側に二つの城を築き、蒲婆嶺下へ軍を駐屯して軍資を運び込み、これへ迫った。吐蕃は大軍を発して安戎城を救援した。昱の部隊は大敗して数千人が戦死した。昱は単身脱出し、兵糧軍資は全て棄ててきた。
 昱は栝州刺史に左遷され、さらに高要尉に降格されて、死んだ。
 18戊午,册南詔蒙歸義爲雲南王。
  歸義之先本哀牢夷,地居姚州之西,東南接交趾,西北接吐蕃。蠻語謂王曰詔,先有六詔:曰蒙舎,曰蒙越,曰越析,曰浪穹,曰樣備,曰越澹,兵力相埒,莫能相壹;歴代因之以分其勢。蒙舎最在南,故謂之南詔。高宗時,蒙舎細奴邏初入朝。細奴邏生邏盛,邏盛生盛邏皮,盛邏皮生皮邏閤。皮邏閤浸強大,而五詔微弱;會有破渳河蠻之功,乃賂王昱,求合六詔爲一。昱爲之奏請,朝廷許之,仍賜名歸義。於是以兵威脅服羣蠻,不從者滅之,遂撃破吐蕃,徙居大和城;其後卒爲邊患。
18.戊午、南詔の蒙帰義を雲南王へ冊立した。
 帰義の先祖は哀牢夷(彼らは漢の明帝のときに、中国に帰順した)で、姚州の西に住み、東南は交趾に接し、西北は吐蕃に接していた。
 蕃の言葉では、「王」のことを「詔」と言い、もともと六人の詔がいた。蒙舎、蒙越、越析、浪穹、様備、越澹である。その兵力は拮抗していて、統一されなかった。だから代々、彼等を分断していたのだ。蒙舎は南にいた。だから、「南詔」と言った。
 高宗の時、蒙舎の細奴邏が始めて入朝した。細奴邏は邏盛を産み、邏盛は盛邏皮を産み、盛邏皮は皮邏閤を産んだ。
 皮邏閤は次第に強盛となり、他の五詔は衰微した。渳河蛮を破る功績を立てたとき、六詔を統一しようと王昱へ賄賂を贈った。昱は彼のために上奏し、帰義の名前が下賜された。
 ここに於いて、その兵力は群蛮を威圧した。従わない者を滅ぼし、遂には吐蕃を撃破して大和城へ移住した。その後、ついに辺患となった。
 19冬,十月,戊寅,上幸驪山温泉,壬辰,上還宮。
19.冬、十月、戊寅、上は驪山の温泉へ御幸した。壬辰、上が宮殿へ帰った。
 20是歳,於西京、東都往來之路,作行宮千餘間。
20.この年、西京と東都の往来の道に、千余間ごとに行宮を造った。
 21分左右羽林置龍武軍,以萬騎營隸焉。
21.左右羽林を分けて龍武軍を設置した。万騎営に隷属させた。
 22潤州刺史齊澣奏:「自瓜歩濟江迂六十里。請自京口埭下直濟江,穿伊婁河二十五里即達揚子縣,立伊婁埭。」從之。
22.潤州刺史斉澣が上奏した。
「瓜歩から江を渡れば、六十里も迂回することになります。どうか京口埭から直接江を渡ってください。伊婁河から二十五里運河を掘って揚子県へ繋がります。伊婁堤を立ててください。」
 これに従った。
二十七年(己卯、七三九)

 春,正月,壬寅,命隴右節度大使榮王琬自至本道巡按處置諸軍,選募關内、河東壯士三五萬人,詣隴右防遏,至秋末無寇,聽還。
1.春、正月、壬寅、隴右節度大使栄王琬へ、本道へ戻って管轄下の諸軍を巡り、関内、河東の壮士三十五万人を選び隴右の防備に向かうよう命じた。ただし、秋になっても来寇がなければ、帰ってくることを許した。
 羣臣請加尊號曰聖文;二月,己巳,許之,因赦天下,免百姓今年田租。
2.群臣が、「聖文」の尊号を加えるよう請うた。
 二月、己巳、これを許した。そして天下に恩赦を下し、百姓には今年の田租を免除した。
 夏,四月,癸酉,敕:「諸陰陽術數,自非婚喪卜擇,皆禁之。」
3.夏、四月、癸酉、敕が下った。 「諸々の陰陽術数は、婚姻や葬礼、占い以外、これを禁じる。」
 己丑,以牛仙客爲兵部尚書兼侍中,李林甫爲吏部尚書兼中書令,總文武選事。
4.己丑、牛仙客を兵部尚書兼侍中とし、李林甫を吏部尚書兼中書令として、文武の人事を統べさせた。
 六月,癸酉,以御史大夫李適之兼幽州節度使。
  幽州將趙堪、白眞陁羅矯節度使張守珪之命,使平盧軍使烏知義撃叛奚餘黨於橫水之北;知義不從,白眞陁羅矯稱制指以迫之。知義不得已出師,與虜遇,先勝後敗;守珪隱其敗状,以克獲聞。
  事頗泄,上令内謁者監牛仙童作察之。守珪重賂仙童,歸罪於白眞陁羅,逼令自縊死。仙童有寵於上,衆宦官疾之,共發其事。上怒,甲戌,命楊思勗杖殺之。思勗縛格,杖之數百,刳取其心,割其肉啗之。守珪坐貶括州刺史。太子太師蕭嵩嘗賂仙童以城南良田數頃,李林甫發之,嵩坐貶靑州刺史。
5.六月、癸酉、御史大夫李適之に幽州節度使を兼任させた。
 幽州の将趙堪と白真陁羅が、節度使張守珪の命令をでっち上げて、平盧軍使烏知義へ北上し、横水にて造反した奚の残党を討伐するよう命じたが、知義は従わなかった。すると白真陁羅は、制をでっち上げてこれを強要した。知義はやむを得ず出陣した。虜と遭遇して戦い、最初は勝ったが、次に負けた。
 守珪は敗戦を隠蔽し、戦勝のみを報告した。
 これが露見して、上は内謁者監牛仙童へ現地の視察を命じた。守珪は仙童へ厚く贈賄し、全ての罪を白真陁羅へ押しつけて、これを首吊り自殺させた。
 仙童は上から寵愛されていたので、多くの官吏が彼を憎んでいた。そこで、みなが共謀してこれを告発した。上は怒った。
 甲戌、これを杖で殴り殺すよう、楊思勗へ命じた。思勗は仙童を縛り上げて数百打ち据え、心臓をえぐり取り、その肉を食らった。
 守珪は有罪となり括州刺史に左遷された。
 太子太師蕭嵩は、かつて城南の良田数頃を仙童に賄賂として贈っていた。李隣保がこれを告発したので、嵩は有罪となり、青州刺史に左遷された。
 秋,八月,乙亥,磧西節度使蓋嘉運擒突騎施可汗吐火仙。嘉運攻碎葉城,吐火仙出戰,敗走,擒之於賀邏嶺。分遣疏勒鎭守使夫蒙靈詧與拔汗那王阿悉爛達干潛引兵突入怛邏斯城,擒黑姓可汗爾微,遂入曳建城,取交河公主,悉收散髪之民數萬以與拔汗那王,威震西陲。
6.秋、八月、乙亥、磧西節度使蓋嘉運が突騎施可汗吐火仙を捕らえた。
 嘉運が砕葉城を攻撃すると、吐火仙は出陣して戦ったが、敗北して逃げた。賀邏嶺にて捕らえられた。
 疏勒鎮守使夫蒙霊詧と抜汗那王阿悉燗達于は嘉運の命令を受けて、二ヶ所から密かに怛邏斯城へ突撃し、黒姓可汗爾微を捕らえる。
 嘉運は遂に曳建城へ入り、交河公主を奪取した。また、散髪の民数万人を悉く収容して抜汗那王へ与えた。これによって、その威令は西辺を震わせた。
 壬午,吐蕃寇白草、安人等軍,隴右節度使蕭炅撃破之。
7.壬午、吐蕃が白草、安人らの軍へ来降したが、隴右節度使蕭炅が、これを撃破した。
 甲申,追謚孔子爲文宣王。先是,祀先聖先師,周公南向,孔子東向坐。制:「自今孔子南向坐,被王者之服,釋奠用宮懸。」追贈弟子皆爲公、侯、伯。
8.甲申、孔子を文宣王と追諡した。
 従来は、先聖先師を祀る時、周公が南を向き、孔子は東を向いて坐っていた。今回、制が下った。
「今後は、講師を南へ向けて座らせ、王者の服を着せよ。釈奠は宮懸を用いる。」
 九月,戊午,處木昆、鼠尼施、弓月等諸部先隸突騎施者,皆帥衆内附,仍請徙居安西管内。
9.九月、戊午、處木昆、鼠尼施、弓月など、もともと突騎施へ隷属していた諸部が、皆、州を率いて帰順し、安西の管内への移住を請うた。
 10太子更名紹。
10.太子が、紹と改名した。
 11冬,十月,辛巳,改脩東都明堂。
11.冬、十月、辛巳、東都の明堂を改修した。
 12丙戌,上幸驪山温泉;十一月,辛丑,還宮。
12.丙戌、上が驪山の温泉へ御幸した。十一月、辛丑、宮殿へ帰った。
 13甲辰,明堂成。
13.甲辰、明堂が完成した。
 14劍南節度使張宥,文吏不習軍旅,悉以軍政委團練副使章仇兼瓊。兼瓊入奏事,盛言安戎城可取,上悅之。丁巳,以宥爲光祿卿。十二月,以兼瓊爲劍南節度使。
14.剣南節度使張宥は文官で戦争のことを知らなかったので、軍政は全て団練副使の章仇兼瓊に委ねていた。兼瓊が入奏して、安戎城を後略できると豪語すると、上はこれを悦んだ。
 丁巳、宥を光禄卿とした。十二月、兼瓊を剣南節度使とした。
 15初,睿宗喪既除,祫于太廟;自是三年一祫,五年一禘。是歳,夏既禘,冬又當祫。太常議以爲祭數則瀆,請停今年祫祭,自是通計五年一祫、一禘;從之。
15.睿宗の喪が開けた時、太廟にて祫(祖先を祀る儀礼の一種)を行った。以来、祫は三年に一度、禘は五年に一度行ってきた。
 この年、夏に禘を行ったが、冬には祫を行うことになっていた。だが、太常が協議した結果、「祭をしばしば行うのは冒涜だ。」ということになった。そこで今年の祫は中止して、以後、祫と禘も五年毎に行うよう請うた。これに従った。
二十八年(庚寅、七四〇)

 春,正月,癸巳,上幸驪山温泉;庚子,還宮。
1.癸巳、上が驪山の温泉へ御幸した。庚子、宮殿へ帰った。
 二月,荊州長史張九齡卒。上雖以九齡忤旨,逐之,然終愛重其人,毎宰相薦士,輒問曰:「風度得如九齡不?」
2.二月、荊州長史張九齢が卒した。上は、彼が旨に逆らったので地方へ追いやったのだが、それでも彼の人格は愛重しており、宰相が士を推薦する度に言った。
「九齢のような風格があるかな?」
 三月,丁亥朔,日有食之。
3.三月、丁亥朔、日食が起こった。
 章仇兼瓊潛與安戎城中吐蕃翟都局及維州別駕董承晏結謀,使局開門引内唐兵,盡殺吐蕃將卒,使監察御史許遠將兵守之。遠,敬宗之曾孫也。
4.章仇兼瓊が、安戎城中の吐蕃の翟都局及び維州別駕董承晏と密かに謀略を結んだ。局が門を開いて唐兵を引き入れ、吐蕃の将卒をことごとく殺した。監察御史許遠に、兵を率いてこれを守備させた。遠は敬宗の曾孫である。
 甲寅,蓋嘉運入獻捷。上赦吐火仙罪,以爲左金吾大將軍。嘉運請立阿史那懷道之子昕爲十姓可汗;從之。夏,四月,辛未,以昕妻李氏爲交河公主。
5.甲寅、蓋嘉運が入朝して戦勝を報告した。上は吐火仙の罪を赦し、左金吾大将軍とした。
 嘉運は、阿史那懐道の子の昕を十姓可汗とするよう請願した。これに従った。
 夏、四月、辛未、昕の妻の李氏を交河公主とした。
 六月,吐蕃圍安戎城。
6.六月、吐蕃が安戎城を包囲した。
 上嘉蓋嘉運之功,以爲河西、隴右節度使,使之經略吐蕃。嘉運恃恩流連,不時發。左丞相裴耀卿上疏,以爲:「臣近與嘉運同班,觀其舉措,誠勇烈有餘,然言氣矜誇,恐難成事。昔莫敖忸於蒲騷之役,卒喪楚師;今嘉運有驕敵之色,臣竊憂之。況防秋非遠,未言發日,若臨事始去,則士卒尚未相識,何以制敵!且將軍受命,鑿凶門而出;今乃酣飲朝夕,殆非憂國愛人之心。若不可改易,宜速遣進塗,仍乞聖恩嚴加訓勵。」上乃趣嘉運行。已而嘉運竟無功。
7.上は蓋嘉運の功績を嘉し、河西、隴右節度使として、吐蕃を経略させる。
 嘉運は上の寵恩を恃んで宴遊に耽り、なかなか出発しなかった。左丞相裴耀卿が上疏した。
「臣は、最近まで嘉運と同僚でした。彼の挙措を見ますに、まこと、勇烈には余りありますが、言葉も態度も誇っております。これでは、大事の成功は難しいと思います。昔、莫敖は蒲騒の役の戦勝で驕慢になり、ついに楚軍は潰滅しました。今、嘉運には敵を侮る気配があります。臣は、ひそかにこれを憂えるのです。敵襲が激しくなる秋が間近に迫っているのに、まだ出発しようとしないのです。もしも、事件が起こってから出発したのでは、士卒と心が通いあう間もありません。どうして敵を制圧できましょうか!それに、将軍が命令を受ければ凶門へ穴を穿ってでも出発するもの。それなのに、彼は朝夕痛飲しているのです。これは憂国愛人の心ではありません。もしも人事の変更ができないのでしたら、速やかに出発させ、聖恩にて厳しく訓令してください。」
 上は、嘉運へ出発を命じた。
 結局、嘉運は功績を立てきれなかった。
 秋,八月,甲戌,幽州奏破奚、契丹。
8.秋、八月、甲戌、幽州が、奚・契丹を破ったと上奏した。
 冬,十月,甲子,上幸驪山温泉;辛巳,還宮。
9.冬、十月、甲子、上が驪山の温泉へ御幸した。辛巳、宮殿へ帰った。
 10吐蕃寇安戎城及維州;發關中彍騎救之,吐蕃引去。更命安戎城曰平戎。
10.吐蕃が安戎城と維州へ来寇した。関中の彍騎を動員してこれを救援した。吐蕃は退去した。安戎城を平戎と改名した。
 11十一月,罷牛仙客朔方、河東節度使。
11.十一月、牛仙客の朔方、河東節度使をやめさせた。
 12突騎施莫賀達干聞阿史那昕爲可汗,怒曰:「首誅蘇祿,我之謀也;今立史昕,何以賞我?」遂帥諸部叛。上乃立莫賀達干爲可汗,使統突騎施之衆,命蓋嘉運招諭之。十二月,乙卯,莫賀達干降。
12.突騎施の莫賀達干は、阿史那昕が可汗になったと聞いて怒った。
「蘇禄を誅したのは、我の謀略ではないか!今、昕を立てたのなら、我をどうやって賞するのか!」
 遂に諸部を率いて造反した。上は、莫賀達干を可汗として、突騎施の衆を統治させた。また、彼らを招諭するよう蓋嘉運に命じた。
 十二月、乙卯、莫賀達干が降伏した。
 13金城公主薨;吐蕃告喪,且請和,上不許。
13.金城公主が薨去した。吐蕃が喪を告げてきて、和平を請うたが、上は許さなかった。
 14是歳,天下縣千五百七十三,戸八百四十一萬二千八百七十一,口四千八百一十四萬三千六百九。西京、東都米斛直錢不滿二百,絹匹亦如之。海内富安,行者雖萬里不持寸兵。
14.この年、天下の県は千五百七十三、戸は八百四十一万二千八百七十一、人口は四千八百十四万三千六百九人となった。
 西京、東都の米価は、一斗が直銭二百にも満たず、絹匹もそんなものだった。海内は豊かで平和。旅人は万里を歩くものでも護身用の武器を携帯しなかった。
二十九年(辛巳、七四一)

 春,正月,癸巳,上幸驪山温泉。
1.正月、癸巳、上が驪山の温泉へ御幸した。
 丁酉,制:「承前諸州饑饉,皆待奏報,然始開倉賑給。道路悠遠,何救懸絶!自今委州縣長官與采訪使量事給訖奏聞。」
2.丁酉、制が下った。
「従来、諸州で飢饉が起こった時には、上奏した結果を待ってから官庫を開いて民を救済していた。しかし、道が遠い時には、どうして救済に間に合おうか!今後は、州県の長官と采訪使が状況を判断して給付し、事後報告とせよ。」
 庚子,上還宮。
3.庚子、宮殿へ帰った。
 上夢玄元皇帝告云:「吾有像在京城西南百餘里,汝遣人求之,吾當與汝興慶宮相見。」上遣使求得之於盩厔樓觀山間。夏,閏四月,迎置興慶宮。五月,命畫玄元眞容,分置諸州開元觀。
4.上が、夢で玄元皇帝から告げられた。 「京城の西南百余里に、吾が像がある。汝は使者を派遣してこれを求めよ。吾は、興慶宮にて汝とまみえよう。」
 上が使者を派遣したら、盩厔の楼観山の間でこれを得た。
 夏、閏四月、これを興慶宮へ迎置した。
 五月、玄元の姿を絵に描かせて、諸州の開元観へ置かせた。
 六月,吐蕃四十萬衆入寇,至安仁軍,渾崖峯騎將臧希液帥衆五千撃破之。
5.六月、吐蕃四十万人の大軍が入寇して安仁軍までやって来た。渾崖峰の騎将臧希液が五千の兵力で、これを撃破した。
 秋,七月,丙寅,突厥遣使來告登利可汗之喪。初,登利從叔二人,分典兵馬,號左、右殺。登利患兩殺之專,與其母謀,誘右殺,斬之,自將其衆。左殺判闕特勒勒兵攻登利,殺之,立毗伽可汗之子爲可汗;俄爲骨咄葉護所殺,更立其弟;尋又殺之,骨咄葉護自立爲可汗。上以突厥内亂,癸酉,命左羽林將軍孫老奴招諭回紇、葛邏祿、拔悉密等部落。
6.秋、七月、丙寅、突厥の使者がやって来て、登利可汗の喪を告げた。
 もともと、登利には二人の従父がおり、彼等へ兵馬の指揮を分担させていた。これを左、右殺と号する。登利は両殺の専横を患い、母親と謀って、右殺を誘い出して斬り、その部下を自分の指揮下へ入れた。すると、左殺の判闕特勒が兵を率いて登利を攻撃し、これを殺して毘伽可汗の子息を可汗に立てた。だが、骨咄葉護が忽ち殺したので、更にその弟を立てた。だが、これも殺される。骨咄葉護は自立して可汗となった。
 上は、突厥が内乱を起こしたので、癸酉、回紇、葛邏禄、抜悉密邏の部落を招諭するよう左羽林将軍孫老奴へ命じた。
 乙亥,東都洛水溢,溺死者千餘人。
7.乙亥、東都で洛水が溢れた。千余人が溺死した。
 平盧兵馬使安祿山,傾巧,善事人,人多譽之。上左右至平盧者,祿山皆厚賂之,由是上益以爲賢。御史中丞張利貞爲河北採訪使,至平盧。祿山曲事利貞,乃至左右皆有賂。利貞入奏,盛稱祿山之美。八月,乙未,以祿山爲營州都督,充平盧軍使,兩蕃、勃海、黑水四府經略使。
8.平盧兵馬使安禄山は、お愛想が巧く、人当たりが善かったので、多くの人々が彼を褒めた。禄山は、平盧へ来た上の近習達には、みな厚く贈り物をした。だから、上はますます彼を賢人だと思った。
 御史中丞張利貞が河北采訪使となった。平盧まで来ると、禄山は腰を低くして持てなし、左右の者たちみなに賄賂を贈った。利貞は朝廷へ戻ると、禄山のことを褒めちぎった。
 八月、乙未、禄山を営州都督、充平盧軍使として、両蕃、渤海、黒水の四府を経略させた。
 冬,十月,丙申,上幸驪山温泉。
9.冬、十月、丙申、上は驪山の温泉へ御幸した。
 10壬寅,分北庭、安西爲二節度。
10.壬寅、北庭と安西を分けて二節度とした。
 11十一月,庚戌,司空邠王守禮薨。守禮庸鄙無才識,毎天將雨及霽,守禮必先言之,已而皆驗。岐、薛諸王言於上曰:「邠兄有術。」上問其故,對曰:「臣無術。則天時以章懷之故,幽閉宮中十餘年,歳賜敕杖者數四,背瘢甚厚,將雨則沈悶,將霽則輕爽,臣以此知之耳。」因流涕霑襟;上亦爲之慘然。
11.十一月、庚戌、司空の邠王守礼が卒した。
 守礼は、凡庸な人間で学識はなかったが、雨が降ったり晴れたりするときには、必ずこれを予言し、それがまたピタリと当たった。
 岐、薛諸王は、上へ言った。
「邠兄は、不思議な術を持っています。」
 そこで上が尋ねてみたところ、守礼は答えた。
「臣は不思議な術など持っていません。ただ、則天武后の頃、章懐の一件で宮中へ十余年幽閉され、毎年杖で四回打たれたのです。その傷跡が背中に瘡蓋となって厚く残っております。雨が降ろうとするときにはそれが重くのしかかってきますし、晴れようとした時には、軽爽になるのです。ですから、臣は天気を予測できるだけです。」
 言っているうちに零れた涙が襟を濡らした。上も、また、彼のために心を悼めた。
 12辛酉,上還宮。
12.辛酉、上が宮殿へ帰った。
 13辛未,太尉寧王憲薨。上哀惋特甚,曰:「天下,兄之天下也;兄固讓於我,爲唐太伯,常名不足以處之。」乃謚曰讓皇帝。其子汝陽王璡,上表追述先志,謙沖不敢當帝號;上不許。劍日,内出服,以手書致於靈座,書稱「隆基白」;又名其墓曰惠陵,追謚其妃元氏曰恭皇后,祔葬焉。
13.辛未、太尉の寧王憲が卒した。上はことに甚だしく哀しみ嘆いて、言った。
「天下は兄上の天下なのに、兄は我へ強く譲り、唐の太伯となった。常の褒め言葉では褒め足りない。」
 そこで、譲皇帝と諡した。
 その子の汝陽王璡は、上表して父親の志を述べ、その謙譲の為人なら帝号を必ず辞退すると言ったが、上は許さない。納棺の日、天子の服を着せ、霊前に自ら書いた書を置いたが、それには「隆基申す」と署名されていた。
 また、彼の墓を惠陵と言い、その妃の元氏を恭皇后は追諡し、共に埋葬した。
 14十二月,乙巳,吐蕃屠達化縣,陷石堡城,蓋嘉運不能禦。
14.十二月、乙巳、吐蕃が達化県を全滅させ、石堡城を陥した。
 蓋嘉運は防ぎきれなかった。

通鑑邦訳計画トップへ巻第二百一十五