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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百一十三
 唐紀二十九
  玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上
開元十四年(丙寅、七二六)

 春,正月,癸未,更立契丹松漠王李邵固爲廣化王,奚饒樂王李魯蘇爲奉誠王。以上從甥陳氏爲東華公主,妻邵固;以成安公主之女韋氏爲東光公主,妻魯蘇。
1.春、正月、癸未、契丹の松漠王李邵固を広化王に立てた。奚の饒楽王李魯蘇を奉誠王とした。
 上の従甥陳氏を東華公主として、邵固に娶せた。成安公主の娘の韋氏を東光公主として、魯蘇に娶せた。
 張説奏:「今之五禮,貞觀、顯慶兩曾脩纂,前後頗有不同,其中或未折衷。望與學士等討論古今,刪改施行。」制從之。
2.張説が上奏した。
「今の五礼は、貞観と顕慶年間に定められましたが、この二つには違いがあり、中にはまだ折衷されていない物もあります。学士らに古今を討論させ、改訂して施行しましょう。」
 制を下して、これに従った。
 邕州封陵獠梁大海等據賓、橫州反;二月,己酉,遣内侍楊思勗發兵討之。
3.邕州封陵の獠の梁大海らが、賓・横州に據って造反した。
 二月、己酉、内侍楊思勗に兵を与えて派遣し、討伐させた。
 上召河南尹崔隱甫,欲用之,中書令張説薄其無文,奏擬金吾大將軍;前殿中監崔日知素與説善,説薦爲御史大夫;上不從。丙辰,以日知爲左羽林大將軍,丁巳,以隱甫爲御史大夫。隱甫由是與説有隙。
  説有才智而好賄,百官白事有不合者,好面折之,至於叱罵。惡御史中丞宇文融之爲人,且患其權重,融所建白,多抑之。中書舍人張九齡言於説曰:「宇文融承恩用事,辯給多權數,不可不備。」説曰:「鼠輩何能爲!」夏,四月,壬子,隱甫、融及御史中丞李林甫共奏彈説「引術士占星,徇私僭侈,受納賄賂。」敕源乾曜及刑部尚書韋抗、大理少卿明珪與隱甫等同於御史臺鞫之。林甫,叔良之曾孫;抗,安石之從父兄子也。
  丁巳,以戸部侍郎李元紘爲中書侍郎、同平章事。元紘以清儉著,故上用爲相。
4.上は、河南尹崔隠甫を召し出して、抜擢しようと思った。中書令張説は、彼が無学なのを軽蔑して、擬金吾大将軍とするよう上奏した。また、前殿中監崔日知はもともと説と仲が善かったので、説は彼を御史大夫に推薦した。上は従わなかった。
 丙辰、日知を左羽林大将軍とした。丁巳、隠甫を御史大夫とした。
 隠甫はこれ以来、説と仲違いした。
 説は才知があったが、賄賂を好んだ。また、百官の言うことが気に入らないと、面と向かって反論し、果ては叱罵に至ることもあった。御史大夫宇文融の為人を嫌い、また、彼の権限が重いのも煩わしかったので、融の建議したことの多くに反対した。
 中書舎人張九齢が説へ言った。
「宇文融は陛下から寵用され、謀略の才覚もある。備えなければならない。」
 説は言った。
「鼠ごときに、なにができるか!」
 夏、四月壬子、隠甫、融と御史中丞李林甫が共に上奏して説を弾劾した。
「術士を呼んで星を占わせ、私生活は奢侈で、収賄も常習です。」
 源乾曜及び刑部尚書韋抗、大理少卿明珪と隠甫等へ御史台と共にこれを詮議するよう敕が降りた。林甫は、叔良の曾孫、抗は安石の従父兄子である。
 丁巳、戸部侍郎理元絋を中書侍郎、同平章事とした。元絋は清廉倹約な人間なので、上はこれを宰相としたのだ。
 源乾曜等鞫張説,事頗有状,上使高力士視説,力士還奏:「説蓬首垢面,席藁,食以瓦器,惶懼待罪。」上意憐之。力士因言説有功於國,上以爲然。庚申,但罷説中書令,餘如故。
5.源乾曜等が張説を詮議すると、告発文はいずれも事実だった。
 上は、高力士へ説の様子を見に行かせた。力士は、帰ってきて、上奏した。
「説は髪ボウボウで、顔は垢だらけ。藁の上に坐り、瓦の器で食事をして、判決を待っています。」
 上は、憐れになった。そこで力士が、説は国へ対して功績があったと述べると、上は同意した。
 庚申、説はただ中書令を罷免されただけで、それ以外は従来通りだった。
 丁卯,太子太傅岐王範薨,贈謚惠文太子。上爲之撤膳累旬,百官上表固請,然後復常。
6.丁卯、太子太傅岐王範が卒した。恵文太子と諡した。
 上は、彼の為に数十日食膳を減らした。百官が上表して固く請願したので、ようやく通常の食事に戻した。
 丁亥,太原尹張孝嵩奏:「有李子嶠者,自稱皇子,云生於潞州,母曰趙妃。」上命杖殺之。
7.丁亥、太原尹張孝嵩が上奏した。
「李子嶠という者が、皇子と自称しています。潞州生まれで、母親は趙妃と言っています。」
 上は、これを杖で打ち殺すよう命じた。
 辛丑,於定、恆、莫、易、滄五州置軍以備突厥。
8.辛丑、定、恒、莫、易、滄の五州に軍隊を設置し、突厥に備えた。
 上欲以武惠妃爲皇后,或上言:「武氏乃不戴天之讎,豈可以爲國母!人間盛言張説欲取立后之功,更圖入相之計。且太子非惠妃所生,惠妃復自有子,若登宸極,太子必危。」上乃止。然宮中禮秩,一如皇后。
9.上が、武恵妃を皇后にしたがった。すると、ある者が上言した。
「武氏は不倶戴天の仇です。どうして国母にできましょうか!人々は、『説が立后の功績を建てて再び宰相になろうと図っている』と言い合っています。それに、太子は惠妃の子息ではありませんし、惠妃自身にも子息がおありです。もしも妃が后となったら、太子が危険です。」
 上は、思い止まった。しかしながら、宮中での礼秩は皇后のようだった。
 10五月,癸卯,戸部奏今歳戸七百六萬九千五百六十五,口四千一百四十一萬九千七百一十二。
10.五月、癸卯、今年の戸数は七百六万九千五百六十五、人口は四千百四十一万九千七百十二人だと、戸部が上奏した。
 11秋,七月,河南、北大水,溺死者以千計。
11.秋、七月、河南・河北にて大水が起こり、溺死者は千人を数えた。
 12八月,丙午朔,魏州言河溢。
12.八月、丙午朔、魏州から黄河が洪水を起こしたと報告が来た。
 13九月,己丑,以安西副大都護、磧西節度使杜暹同平章事。
  自王孝傑克復四鎭,復於龜茲置安西都護府,以唐兵三萬戍之,百姓苦其役;爲都護者,惟田揚名、郭元振、張嵩及暹皆有善政,爲人所稱。
13.九月、己丑、安西副大都護・磧西節度使の杜暹を同平章事とした。
 王孝傑の戦勝以来、四鎮も亀慈の安西都護府も復旧し、唐軍は三万の兵力でこれを守っていたので、百姓は兵役に苦しんでいた。都護となった人間の中では、ただ田楊名、郭元振、張嵩及び暹だけが善政を布いて人々から賞賛された。
 14冬,十月,庚申,上幸汝州廣成湯;己酉,還宮。
14.冬、十月、甲辰、上は汝州の広成湯へ御幸した。己酉、宮殿へ帰った。
 15十二月,丁巳,上幸壽安,獵於方秀川;壬戌,還宮。
15.十二月、丁巳、上は寿安へ御幸し、方秀川にて狩猟をした。壬戌、宮殿へ帰った。
 16楊思勗討反獠,生擒梁大海等三千餘人,斬首二萬級而還。
16.楊思勗が、造反した獠を討伐した。梁大海ら三千人を生け捕りにし、首級二万を斬って帰った。
 17是歳,黑水靺鞨遣使入見;上以其國爲黑水州,仍爲置長史以鎭之。
  勃海靺鞨王武藝曰:「黑水入唐,道由我境。往者請吐屯於突厥,先告我與我偕行;今不告我而請吏於唐,是必與唐合謀,欲腹背攻我也。」遣其母弟門藝與其舅任雅將兵撃黑水。門藝嘗爲質子於唐,諫曰:「黑水請吏於唐,而我以其故撃之,是叛唐也。唐,大國也。昔高麗全盛之時,強兵三十餘萬,不遵唐命,掃地無遺。況我兵不及高麗什之一二,一旦與唐爲怨,此亡國之勢也。」武藝不從,強遣之。門藝至境上,復以書力諫。武藝怒,遣其從兄大壹夏代之將兵,召,欲殺之。門藝棄衆,間道來奔,制以爲左驍衞將軍。武藝遣使上表罪状門藝,請殺之。上密遣門藝詣安西;留其使者,別遣報云,已流門藝於嶺南。武藝知之,上表稱:「大國當示人以信,豈得爲此欺誑?」固請殺門藝。上以鴻臚少卿李道邃、源復不能督察官屬,致有漏泄,皆坐左遷。暫遣門藝詣嶺南以報之。
   臣光曰:王者所以服四夷,威信而已。門藝以忠獲罪,自歸天子;天子當察其枉直,賞門藝而罰武藝,爲政之體也。縱不能討,猶當正以門藝之無罪告之。今明皇威不能服武藝,恩不能庇門藝,顧效小人爲欺誑之語以取困於小國,乃罪鴻臚之漏泄,不亦可羞哉!
17.この年、黒水靺鞨が使者を派遣して謁見した。上は、その国を黒水州とし、長吏を置いて鎮守させた。
 渤海の靺鞨王武芸は言った。
「黒水が唐に入貢するには、わが国を通らなければならない。使者が突厥の属国となりたいのなら、まず我らに告げて、共に行くはずだが、あの使者は我らに黙って行き、唐に官吏を請うた。これは絶対に唐と共謀して腹背から我らを攻撃するつもりなのだ。」
 そこで、その母の弟の門芸とその舅の任雅に兵を与えて黒水を攻撃させようとした。
 門芸は、かつて人質として唐で暮らしていたので、諫めて言った。
「黒水が唐へ役人を請い、我等がそれを理由に黒水を攻撃すれば、これは唐に対する造反です。唐は大国です。かつて高麗が全盛の時、精鋭兵三十万を備え、唐の命令を拒みましたが、その挙げ句に国土は掃討され、王の血統は絶え果てました。ましてや我らの兵力は高麗の一、二割です。一旦唐の怨みを買ったら、国が滅んでしまいます。」
 武芸は聞かず、強いて決行させた。門芸は国境まで行き、ふたたび書状で力諫した。武芸は怒り、その従兄大壹夏と交代させ、門芸は召集して殺そうと思った。門芸は兵卒たちを棄てて、間道を通って唐へ亡命した。制を下して左驍衛将軍とした。
 武芸は唐へ使者を派遣し、門芸の罪状を上表し、これを殺すよう請うた。上は、門芸を密かに安西へ行かせ、渤海の使者は都に留めたまま、別の使者を派遣して伝えた。
「門芸は既に嶺南に流した。」
 だが、武芸は真実を知り、上表して言った。
「大国は、信義を示すべきなのに、どうしてこのような詐術で誑かすのか?」
 そして、門芸を殺すよう、固く請うた。
 上は、鴻臚少卿李路邃と源復は、部下の官吏がなっておらず、国家機密を漏洩させたのは罪に当たるとして、左遷した。しばらくして、門芸は嶺南へ行かせて、そう報告した。
 司馬光、曰く、王者が四夷から服従されているのは、威厳と信義があるからだ。門芸は忠義ゆえに罪に落ち、自ら天子へ帰順した。天子はその枉直を察し、門芸を賞し武芸を罰するのが、政治の筋道だ。たとえ討伐できなくとも、門芸が無罪であることを告げて、これを正すべきである。今、明皇の威厳は武芸を服従させることができず、恩徳は門芸を庇いきれなかった。小人のまねをして嘘をつき、小国から困らせられ、鴻臚少卿の漏洩のせいだと罪をなすりつける。なんと羞かしいことではないか!
 18杜暹爲安西都護,突騎施金河公主遣牙官以馬千匹詣安西互市。使者宣公主教,暹怒曰:「阿史那女何得宣教於我!」杖其使者,留不遣;馬經雪死盡。突騎施可汗蘇祿大怒,發兵寇四鎭。會暹入朝,趙頤貞代爲安西都護,嬰城自守;四鎭人畜儲積,皆爲蘇祿所掠,安西僅存。既而蘇祿聞暹入相,稍引退,尋遣使入貢。
18.杜暹が安西都護となると、突騎施の交河公主は安西にて市を開こうと、使者と馬千匹を派遣した。使者が公主の教を宣べると、暹は怒って言った。
「阿史那の娘が、何でわたしに教を宣べるのか!」
 使者を杖で打って抑留した。馬は雪のために全滅してしまった。
 突騎施可汗の蘇禄は大いに怒り、兵を発して四鎮へ来寇した。
 この時、暹は朝廷へ行っており、趙頤貞が代わりに安西都護となって、籠城して守った。四鎮の人が蓄えた軍資は、全て蘇禄に掠奪され、安西だけが、僅かに存続した。
 やがて、暹が宰相となったと聞くと、蘇禄は兵を退き、次いで使者を派遣し入貢した。
十五年(丁卯、七二七)

 春,正月,辛丑,涼州都督王君[麁大]破吐蕃於靑海之西。
  初,吐蕃自恃其強,致書用敵國禮,辭指悖慢,上意常怒之。返自東封,張説言於上曰:「吐蕃無禮,誠宜誅夷,但連兵十餘年,甘、涼、河、鄯、不勝其弊,雖師屢捷,所得不償所亡。聞其悔過求和,願聽其款服,以紓邊人。」上曰:「俟吾與王君[麁大]議之。」説退,謂源乾曜曰:「君[麁大]勇而無謀,常思僥幸,若二國和親,何以爲功!吾言必不用矣。」及君[麁大]入朝,果請深入討之。
  去冬,吐蕃大將悉諾邏寇大斗谷,進攻甘州,焚掠而去。君[麁大]度其兵疲,勒兵躡其後。會大雪,虜凍死者甚衆,自積石軍西歸。君[麁大]先遣人間道入虜境,燒道旁草。悉諾邏至大非川,欲休士馬,而野草皆盡,馬死過半。君[麁大]與秦州都督張景順追之,及於靑海之西,乘冰而度。悉諾邏已去,破其後軍,獲其輜重羊馬萬計而還。君[麁大]以功遷左羽林大將軍,拜其父壽爲少府監致仕。上由是益事邊功。
1.春、正月、辛丑、涼州都督王君[麁大]が、青海の西で吐蕃を破った。
 かつて、吐蕃はその強盛を恃み、唐への書状は敵国の礼を使っていた。言葉は傲慢不遜で、上は常にこれを怒っていた。東封から帰ってくると、張説が上へ言った。
「吐蕃は無礼です。誅するべきですが、十余年も戦争が続いており、甘州・涼州・河州・鄯州はその負担に苦しんでいます。何度も戦勝しましたが、それで得たものは浪費したものを償いきれません。彼らが過ちを悔いて和を求めてきたならば、それを受け入れて辺境を平和にしてください。」
 上は言った。
「わたしと王君[麁大]との協議を待て。」
 説が退出すると、源乾曜に言った。
「君[麁大]は勇敢だが、謀略がなく、出世ばかり考えている。もしも二国が和親すれば、奴はどうやって功績を立てるというのか!きっとわたしの言うことを聞き入れないぞ。」
 君[麁大]が入朝すると、果たして敵領深く討ち入るよう請願した。
 前年の冬、吐蕃の大将悉諾邏が大斗谷へ来寇して甘州まで進み、焼き払い掠奪して帰った。君[麁大]は、敵兵が疲れていると見て、兵を率いて追撃した。
 虜軍は大雪に遭って大勢の兵卒が凍死し、積石軍から西へ引き返した。君[麁大]は、まず間道へ人を派遣して虜の国境内へ入り込ませ、道の傍らの草を焼き払わせた。悉諾邏は大非川まで来て士馬を休めようとしたが、野の草は全て焼き払われており、過半数の馬が死んだ。
 君[麁大]と秦州都督張景順はこれを追撃した。青海の西まで来ると、氷を踏んで渡った。悉諾邏は既に去っていたので、その後軍を破り、敵の輜重や羊馬万匹を獲得して帰った。
 君[麁大]は、この功績で左羽林大将軍となり、その父親の寿は少府監を拝受して引退した。
 これ以来、上は益々戦功を好むようになった。
 初,洛陽人劉宗器上言,請塞汜水舊汴口,更於熒澤引河入汴;擢宗器爲左衞率府冑曹。至是,新渠填塞不通,貶宗器爲循州安懷戍主。命將作大匠范安及發河南、懷、鄭、汴、滑、衞三萬人疏舊渠,旬日而畢。
2.話は遡るが、洛陽の人劉宗器が汜水の旧汴口を塞ぎ、熒沢にて河を汴へ引き入れるよう、上奏して請うた。そこで、宗器を左衛率府冑曹に抜擢した。
 ここに至って、新しい渠が埋まって塞がり、水路が不通となった。宗器を循州安懐戍主に左遷した。
 河南・懐州・鄭州・汴州・滑州・衛州から三万人を徴発して旧渠を通すよう、将作大匠范安及へ命じた。その工事は、旬日で終わった。
 御史大夫崔隱甫、中丞宇文融,恐右丞相張説復用,數奏毀之,各爲朋黨。上惡之,二月,乙巳,制説致仕,隱甫免官侍母,融出爲魏州刺史。
3.御史大夫崔隠甫と中丞宇文融は、右丞相張説が再登用されることを懼れ、しばしば上奏して彼を譏った。各々派閥を作ったので、上はこれを憎んだ。
 二月、乙巳、制を下し、説を退職させ、隠甫は官をやめさせて母のもとへ戻し、融は魏州刺史として出向させた。
 乙卯,制:「諸州逃戸,先經勸農使括定按比後復有逃來者,隨到准白丁例輸當年租庸,有征役者先差。」
4.乙卯、制を下した。 「諸州の逃亡者のうち、勧農使の治下に入った後に再び逃げだした者は、白丁の当年の租庸に準じ、兵役のある者は服務させる。」
 夏,五月,癸酉,上悉以諸子慶王潭等領州牧、刺史、都督、節度大使、大都護、經略使,實不出外。
  初,太宗愛晉王,不使出閤;豫王亦以武后少子不出閤,及自皇嗣爲相王,始出閤。中宗之世,譙王失愛,謫居外州;温王年十七,猶居禁中。上即位,附苑城爲十王宅,以居皇子,宦官押之,就夾城參起居,自是不復出閤;雖開府置官屬及領藩鎭,惟侍讀時入授書,自餘王府官屬,但歳時通名起居;其藩鎭官屬,亦不通名。及諸孫浸多,又置百孫院。太子亦不居東宮,常在乘輿所幸之別院。
5.夏、五月、癸酉、上は慶王淡等諸子を悉く領州牧や刺史、都督、節度大使、大都護、経略使としたが、その実一人も出向させなかった。
 前代では、太宗は晋王(高宗)を愛して、閤へ出さなかった。豫王もまた、武后の末子だったので、閣へ出さなかった。皇嗣が相王となるに及んで、始めて閤へ出た。 中宗の御代では、譙王が愛されなかったので、嫡男なのに地方へ出された。温王は十七になっても、まだ禁中に済んでいた。上は即位すると、附苑城を十王宅として皇子を住ませた。宦官がこれを後押しし、城へ籠もりきりとなり、これ以後閤へ出なくなった。幕府を開いて官属を設置し藩鎮を領有していても、ただ侍読の時に入って授業を受けるだけで、それ以外の王府の官属はただ歳時に名前が記録されるだけだった。藩鎮の官属は名前さえ通らない。皇孫が多くなると、百孫院が設置される。太子も又、東宮には住まず、いつも輿に乗って別院へ行っていた。
 上命妃嬪以下宮中育蠶,欲使之知女功。丁酉,夏至,賜貴近絲,人一綟。
6.上は、女性の苦労を教えようと、妃嬪以下宮中の女性に蚕を育てさせていた。
 丁酉、夏至なので、貴族や近習達へ糸を一人一綟賜った。
 秋,七月,戊寅,冀州河溢。
7.秋、七月、戊寅、冀州にて黄河が氾濫した。
 己卯,禮部尚書許文憲公蘇頲薨。
8.己卯、礼部尚書で許文憲公の蘇頲が薨去した。
 九月,丙子,吐蕃大將悉諾邏恭祿及燭龍莽布支攻陷瓜州,執刺史田元獻及河西節度使王君[麁大]之父,進攻玉門軍;縱所虜僧使歸涼州,謂君[麁大]曰:「將軍常以忠勇許國,何不一戰!」君[麁大]登城西望而泣,竟不敢出兵。
  莽布支別攻常樂縣,縣令賈師順帥衆拒守。及瓜州陷,悉諾邏悉兵會攻之。旬餘日,吐蕃力盡,不能克,使人説降之;不從。吐蕃曰:「明府既不降,宜斂城中財相贈,吾當退。」師順請脱士卒衣;悉諾邏知無財,乃引去,毀瓜州城。師順遽開門,收器械,修守備;虜果復遣精騎還,視城中,知有備,乃去。師順,岐州人也。
9.九月、丙子、吐蕃の大将悉諾邏恭禄と燭龍奔布支が瓜州を攻め落とした。刺史田元献と河西節度使王君[麁大]の父を捕らえ、玉門軍まで進攻した。捕虜を涼州へ帰し、君[麁大]に言った。
「将軍はいつも忠勇で国中に評判だったではないか。どうして一戦交えないのか!」
 君[麁大]は城へ登り、西へ向かって泣いたが、遂に出兵しなかった。
 奔布支は別に常楽県を攻撃していた。県令賈師順は民衆を率いて防戦した。瓜州が陥落すると、悉諾邏もこれに合流して攻撃した。十日余り戦うと吐蕃は力尽き、遂に勝てなかった。そこで、使者を派遣して降伏を説いた。従わなかった。吐蕃は言った。
「明府が降伏しないのなら、城中の財産をかき集めて贈ってくれ。そしたら退散しよう。」
 すると師順は、兵卒の衣を脱がせて持って行くよう請うた。悉諾邏は彼等に財産がないことを知り、退却した。瓜州城は壊して行く。すると師順は城門を開き、器械を運び込み城を修復した。虜は、果たして精騎を率いて帰ってきたが、防備が整っていることを知り、退却した。師順は岐州の人間である。
 10初,突厥默啜之強也,迫奪鐵勒之地,故回紇、契苾、思結、渾四部度磧徙居甘、涼之間以避之。王君[麁大]微時,往來四部,爲其所輕;及爲河西節度使,以法繩之。四部恥怨,密遣使詣東都自訴。君[麁大]遽發驛奏「四部難制,潛有叛計。」上遣中使往察之,諸部竟不得直。於是瀚海大都督回紇承宗流瀼州,渾大德流吉州,賀蘭都督契苾承明流籐州,盧山都督思結歸國流瓊州;以回紇伏帝難爲瀚海大都督。己卯,貶右散騎常侍李令問爲撫州別駕,坐其子與承宗交游故也。
10.以前、突厥は、黙啜が強盛だった頃、鉄勒の土地を強奪した。もとの回紇・契苾・思結・渾の四部は砂漠を渡り、甘・涼の土地へ移り住んだ。
 王君[麁大]は、微賎だった頃、四部の間を往来し、彼等から軽視されていた。やがて河西節度使となると、君[麁大]は彼らを中国の法律で縛った。四部はこれを恥じ怨み、密かに東都に使者を派遣して直訴した。君[麁大]は即座に駅伝を出して言った。
「四部の統制は困難です。彼らは密かに造反を計画しています。」
 上は中使を派遣してこれを検分させた。諸部は、遂に直とされなかった。ここにおいて、瀚海大都督の回紇の承宗は瀼州に、渾の大徳は吉州に、賀蘭都督の契苾の承明は藤州に、盧山都督の思結の帰国は瓊州に流された。回紇の伏帝難を瀚海大都督とした。
 己卯、右散騎常侍李令問を撫州別駕に左遷した。彼の子息が承宗と交遊があったためである。
 11丙戌,突厥毗伽可汗遣其大臣梅録啜入貢。吐蕃之寇瓜州也,遺毗伽書,欲與之倶入寇,毗伽并獻其書。上嘉之,聽於西受降城爲互市,毎歳齎縑帛數十萬匹就市戎馬,以助軍旅,且爲監牧之種,由是國馬益壯焉。
11.丙戌、突厥の毘伽可汗がその大臣の梅録啜を派遣して入貢した。
 吐蕃が瓜州へ寇したとき、彼らは突厥と共に入寇しようと望み、毘伽へ書を渡していた。今回、毘伽はその書も併せて献上した。上はこれを嘉し、西受降城にて交易所することを許した。また、毎年縑帛数十万匹で戎馬を購入し、軍備や種馬とした。これによって唐の馬はますます壮健になった。
 12閏月,庚子,吐蕃贊普與突騎施蘇祿圍安西城,安西副大都護趙頤貞撃破之。
12.閏月、庚子、吐蕃の賛普と突騎施の蘇禄が安西城を包囲した。安西副大都護趙頤貞がこれを撃破した。
 13回紇承宗族子瀚海司馬護輸,糾合黨衆爲承宗報仇。會吐蕃遣使間道詣突厥,王君[麁大]帥精騎邀之於肅州。還,至甘州南鞏筆驛,護輸伏兵突起,奪君 [麁大]旌節,先殺其判官宋貞,剖其心曰:「始謀者汝也。」君[麁大]帥左右數十人力戰,自朝至晡,左右盡死。護輸殺君[麁大],載其尸奔吐蕃;涼州兵追及之,護輸棄尸而走。
13.回紇の承宗の族子で瀚海司馬の護輸が、承宗の仇討ちをしようと、党衆を糾合した。
 吐蕃が派遣した使者が間道を通って突厥へ行った時、王君[麁大]はこれを阻止しようと精鋭を率いて粛州に出向いた。その帰路に甘州の南の鞏筆駅を通った時、護輸の伏兵が突然襲撃し、君[麁大]の軍旗を奪った。
 彼らはまず判官の宋貞を殺し、その心臓を切り裂いて、言った。
「お前が謀略を始めた。」
 君[麁大]は左右数十人を率いて力戦したが、朝から暮れにいたり、左右は悉く戦死した。
 護輸は君[麁大]を殺し、その屍を持って吐蕃に走った。しかし、涼州の兵が追跡したので、護輸は屍を棄てて逃げた。
 14庚申,車駕發東都,冬,己卯,至西京。
14.庚申、車駕が東都を出発した。冬、己卯、西京へ到着した。
 15辛巳,以左金吾衞大將軍信安王禕爲朔方節度等副大使。禕,恪之孫也。以朔方節度使蕭嵩爲河西節度等副大使。時王君[麁大]新敗,河、隴震駭。嵩引刑部員外郎裴寬爲判官,與君[麁大]判官牛仙客倶掌軍政,人心浸安。寬,漼之從弟也。仙客本鶉觚小吏,以才幹軍功累遷至河西節度判官,爲君[麁大]腹心。
  嵩又奏以建康軍使河北張守珪爲瓜州刺史,帥餘衆築故城。板榦裁立,吐蕃猝至,城中相顧失色,莫有鬭志。守珪曰:「彼衆我寡,又瘡痍之餘,不可以矢刃相持,當以奇計取勝。」乃於城上置酒作樂。虜疑其有備,不敢攻而退。守珪縱兵撃之,虜敗走。守珪乃修復城市,收合流散,皆復舊業。朝廷嘉其功,以瓜州爲都督府,以守珪爲都督。
  悉諾邏威名甚盛,蕭嵩縱反間於吐蕃,云與中國通謀,贊普召而誅之;吐蕃由是少衰。
15.辛巳、左金吾衛大将軍の信安王禕を朔方節度等副大使とした。禕は恪の孫である。朔方節度使蕭祟を河西節度等副大使とした。
 この時は、王君[麁大]が敗北したばかりで、河・隴は震駭していた。そこで祟は刑部員外郎裴寛を判官に抜擢し、君[麁大]の判官牛仙客と共に軍政を掌握させたので、人心はやや落ち着いた。
 寛は漼の従弟である。仙客はもともと鶉觚の小吏だったが、才覚と軍功で河西節度判官まで出世し、君[麁大]の腹心となった人間である。
 祟はまた、建康軍使の河北の張守珪を瓜州刺史として余衆を率いて故城を修復させるよう上奏した。修復の途中、吐蕃が来襲した。城内の兵士たちは顔面蒼白で顔を見合わせるばかり、戦意などなかった。守珪は言った。
「奴らは大勢で我等は小勢。しかも負傷兵ばかり。まともには戦えない。ここは、奇策を使うべきだ。」
 そこで城の上にて酒を飲んで音楽を鳴らした。虜は軍備が整っているかと疑い、敢えて攻めずに退却した。守珪は兵を率いて襲撃し、虜は敗走した。
 守珪は虜を撃退すると、城市を修復し、流散した民をかき集めて、皆で昔の生業を復興した。朝廷はその功績を嘉し、瓜州を都督府して守珪を都督とした。
 悉諾邏の威名が鳴り響いていたので、蕭祟は吐蕃で悉諾邏が中国と通じているという反間活動を行わせた。賛普は悉諾邏を誅殺した。これ以来、吐蕃は国力が減退した。
 16十二月,戊寅,制以吐蕃爲邊患,令隴右道及諸軍團兵五萬六千人,河西道及諸軍團兵四萬人,又徴關中兵萬人集臨洮,朔方兵萬人集會州防秋,至冬初,無寇而罷;伺虜入寇,互出兵腹背撃之。
16.十二月、戊寅、吐蕃が辺患をなすので、隴右道及び諸軍は団兵(府兵が廃止されてから、民兵を組織させた。これを團兵と称する)五万六千人を組織し、河西道及び諸軍は団兵四万人を組織し、関中にては一万の兵を徴発して臨洮に集め、朔方は兵を一万人会州に集めて秋の入寇を防ぎ、冬の初めになって入寇がなくなったらやめるように、制が下った。虜が来寇したら、その状況を伺って互いに出兵して腹背から攻撃するのだ。
 17乙亥,上幸驪山温泉;丙戌,還宮。
17.乙亥、上が驪山の温泉に御幸した。丙戌、宮殿へ帰った。
十六年(戊辰、七二八)

 春,正月,壬寅,安西副大都護趙頤貞敗吐蕃于曲子城。
1.春、正月、壬寅、安西副大都護趙頤貞が曲子城にて吐蕃を破った。
 甲寅,以魏州刺史宇文融爲戸部侍郎兼魏州刺史,充河北道宣撫使。
2.甲寅、魏州刺史宇文融を戸部侍郎兼魏州刺史として、河北道宣撫使に任命した。
 乙卯,春、瀧等州獠陳行範、廣州獠馮璘、何游魯反,陷四十餘城。行範稱帝,游魯稱定國大將軍,璘稱南越王,欲據嶺表;命内侍楊思勗發桂州及嶺北近道兵討之。
3.乙卯、春・瀧などの州の獠の陳行範、広州獠の馮璘・何遊魯が造反した。四十余城を落とした。
 行範は帝を称し、遊魯は定国大将軍を称し、璘は南越王を称して、嶺表に拠ろうとした。桂州及び嶺北近道の兵を徴発してこれを討つよう、内侍楊思勗に命じた。
 丙寅,以魏州刺史宇文融檢校汴州刺史,充河南北溝渠堤堰決九河使。融請用禹貢九河故道開稻田,并回易陸運錢,官收其利;興役不息,事多不就。
4.丙寅、魏州刺史宇文融を検校汴州刺史として、河南北溝渠堤堰決九河使に任命した。
 融は、『書経』禹貢篇の九河故道を用いて稲田を開き、併せて陸運銭を運河の通行量に帰させて官で利益を得るよう請うた。だが、公共工事が止まずに続き、事件が多かったので実践できなかった。
 二月,壬申,以尚書右丞相致仕張説兼集賢院學士。説雖罷政事,專文史之任,朝廷毎有大事,上常遣中使訪之。
5.二月、壬申、尚書右丞相致仕の張説に集賢殿学士を兼任させた。
 説は政界から引退したとはいえ、文史の仕事を専門とし、朝廷で大事が起こるたびに、上はいつも中使を派遣して意見を聞いていた。
 壬辰,改彍騎爲左右羽林軍飛騎。
6.壬辰、彍騎を左右羽林軍飛騎と改称した。
 秋,七月,吐蕃大將悉末朗寇瓜州,都督張守珪撃走之。乙巳,河西節度使蕭嵩、隴右節度使張忠亮大破吐蕃於渇波谷;忠亮追之,拔其大莫門城,擒獲甚衆,焚其駱駝橋而還。
7.秋、七月、吐蕃の大将悉末朗が瓜州に来寇した。都督張守珪が撃退した。
 乙巳、河西節度使蕭嵩、隴右節度使張忠亮が渇波谷で吐蕃を大いに破った。忠亮はこれを追撃して敵の大莫門城を抜き、大勢の捕虜を捕まえた上、敵の駱駝橋を焼き捨てて帰った。
 八月,乙巳,特進張説上開元大衍暦,行之。
8.八月、乙巳、特進の張説が開元大衍暦を上納した。これを施行した。
 辛卯,左金吾將軍杜賓客破吐蕃于祁連城下。時吐蕃復入寇,蕭嵩遣賓客將強弩四千撃之。戰自辰至暮,吐蕃大潰,獲其大將一人;虜散走投山,哭聲四合。
9.辛卯、左金吾将軍杜賓客が祁連城下にて、吐蕃を破った。
 この時、吐蕃はまた来寇していた。蕭祟は賓客へ強弩四千を与えて攻撃させた。戦いは八時頃から暮れまで続いた。吐蕃は大いに潰れ、その大将一人を捕らえた。虜は散り散りになって山へ逃げ込み、あちこちから哭声が聞こえた。
 10冬,十月,己卯,上幸驪山温泉;己丑,還宮。
10.冬、十月、己卯、上が驪山の温泉に御幸した。己丑、宮殿へ帰った。
 11十一月,癸巳,以河西節度副大使蕭嵩爲兵部尚書、同平章事。
11.十一月、癸巳、河西節度副大使蕭祟を兵部尚書・同平章事とした。
 12十二月,丙寅,敕:「長征兵無有還期,人情難堪;宜分五番,歳遣一番還家洗沐,五年酬勳五轉。」
12.十二月、丙寅、勅が下った。 「長征の兵卒に帰ってくる期限がないのは、人情として耐え難い。これを五隊に分け、毎年一隊を家へ帰して湯浴休暇を与えよ。五年間で勲五転を下賜する。」
 13是歳,制戸籍三歳一定,分爲九等。
13.この年、戸籍を三年に定め、九等に分けた。
 14楊思勗討陳行範,至瀧州,破之,擒何游魯、馮璘。行範逃於雲際、盤遼二洞,思勗追捕,竟生擒,斬之,凡斬首六萬。思勗爲人嚴,偏裨白事者不敢仰視,故用兵所向有功。然性忍酷,所得俘虜,或生剥面皮,或以刀剺髮際,掣去頭皮;蠻夷憚之。
14.楊思勗が陳行範を討った。瀧州にいたって何遊魯・馮璘を捕らえた。行範は雲際・盤遼の二洞へ逃げ込んだが、思勗は追撃して遂に生け捕りとし、これを斬った。およそ斬首されたもの六万におよんだ。
 思勗の為人は厳格で、副将達は進言するときに彼を敢えて仰ぎ見ようとしなかった。だから、戦争では功績を立てた。だが、性格は残忍冷酷で、捕虜を捕らえると、あるいは顔を剥ぎ、あるいは頭の皮を削り取った。蛮夷はこれを憚った。
十七年(己巳、七二九)

 春,二月,丁卯,巂州都督張守素破西南蠻,拔昆明及鹽城,殺獲萬人。
1.春、二月、丁卯、崔州都督張守素が西南蛮を破り、昆明及び塩城を抜いた。万人を殺し、捕らえた。
 三月,瓜州都督張守珪、沙州刺史賈師順撃吐蕃大同軍,大破之。
2.三月、瓜州都督張守珪、沙州刺史賈師順が吐蕃の大同軍を撃ち、これを大いに破った。
 甲寅,朔方節度使信安王禕攻吐蕃石堡城,拔之。初,吐蕃陷石堡城,留兵據之,侵擾河右。上命禕與河西、隴右同議攻取。諸將咸以爲石堡據險而道遠,攻之不克,將無以自還,且宜按兵觀釁。禕不聽,引兵深入,急攻拔之,乃分兵據守要害,令虜不得前。自是河隴諸軍游弈,拓境千餘里。上聞,大悅,更命石堡城曰振武軍。
3.甲寅、朔方節度使信安王禕が吐蕃の石堡城を攻撃し、これを抜いた。
 かつて、吐蕃が石堡城を落とすと、兵を留めてこれを占領し、河右を掠奪して回った。上は、禕と河西、隴右へこれを攻め取るよう協議させた。諸将の多くは、石堡城は険阻の上遠いので、これを攻撃しても勝てず、生還もおぼつかないので、しばらくは兵を擁して隙を伺おうと提言した。しかし、禕は聞かず、兵を率いて深入りし、急激に攻め立ててこれを抜いた。そして、兵を分けて要害に拠って守り、虜軍が前進できないようにした。これ以降、河・隴の諸軍は出撃して国境を千里広げた。
 上は報告を受けて大いに悦び、石堡城を振武城と名付けた。
 丙辰,國子祭酒楊瑒言,以爲:「省司奏限天下明經、進士及第,毎年不過百人。竊見流外出身,毎歳二千餘人,而明經、進士不能居其什一,則是服勤道業之士不如胥史之得仕也。臣恐儒風浸墜,廉恥日衰。若以出身人太多,則應諸色裁損,不應獨抑明經、進士也。」又奏「諸司貼試明經,不務求述作本指,專取難知,問以孤經絶句或年月日;請自今並貼平文。」上甚然之。
4.丙辰、国子祭酒楊瑒が上言した。 「省司が上奏する天下の明経、進士の及第者は、毎年百人を越えません。ですが、流外の出身者は毎年二千余人もおります。明経・進士出身者は、その一割にも足りません。これは、仕官するなら道業の士より胥吏の方が良いということです。臣は、このままでは儒風が次第に失墜し廉恥心が日々衰えて行くのではないかと恐れます。もしも官吏が多すぎるのでしたら、諸色の採用を抑えるべきで、明経・進士の採用のみを抑えるべきではありません。」
 また上奏した。
「諸司が明経の試験をする時、政策の大綱の著述はおざなりにして、経典の中の字句や年月日などの設問を重視しています。これからは、同様に採点するようにしてください。」
 上は非常に得心した。
 夏,四月,庚午,禘于太廟。唐初,祫則序昭穆,禘則各祀於其室。至是,太常少卿韋縚等奏:「如此,禘與常饗不異;請禘祫皆序昭穆。」從之。縚,安石之兄子也。
5.夏、四月、庚午、太廟で禘を行った。
 唐初では、祫は昭穆に序していたが、禘は各々その室で祀っていた。ここにいたって、太常少卿韋縚らが上奏した。
「この様なやり方では、禘は普段の饗と変わりません。どうか禘も祫も昭穆に序するようにしてください。」
 これに従った。
 縚は、安石の兄の子である。
 五月,壬辰,復置十道及京、都兩畿按察使。
6.五月、壬辰、十道及び京・都両畿の按察使を再び設置した。
 初,張説、張嘉貞、李元紘、杜暹相繼爲相用事,源乾曜以清謹自守,常讓事於説等,唯諾署名而已。元紘、暹議事多異同,遂有隙,更相奏列。上不悅,六月,甲戌,貶黄門侍郎、同平章事杜暹荊州長史,中書侍郎、同平章事李元紘曹州刺史,罷乾曜兼侍中,止爲左丞相;以戸部侍郎宇文融爲黄門侍郎,兵部侍部裴光庭爲中書侍郎,並同平章事;蕭嵩兼中書令,遙領河西。
7.これまで、張説、張嘉貞、李元絋、杜暹が相継いで宰相となった。源乾曜は清謹な態度でいるだけで、いつも事を説らに譲り、ただ署名するだけだった。
 元絋と暹は意見が分かれることが多く、遂に仲が悪くなり、互いに譏り合った。上は機嫌を損ねた。六月、甲戌、黄門侍郎・同平章事の杜暹を荊州長史に、中書侍郎・同平章事の李元絋を曹州刺史に左遷した。乾曜は兼務の侍中をやめさせて左丞相のみとする。戸部侍郎の宇文融を黄門侍郎とし、兵部侍郎の裴光庭を中書侍郎とし、ともに同平章事とした。蕭祟は中書令を兼務させ、河西を遙領させた。
 開府王毛仲與龍武將軍葛福順爲婚。毛仲爲上所信任,言無不從,故北門諸將多附之,進退唯其指使。吏部侍郎齊澣乘間言於上曰:「福順典禁兵,不宜與毛仲爲婚。毛仲小人,寵過則生姦;不早爲之所,恐成後患。」上悅曰:「知卿忠誠,朕徐思其宜。」澣曰:「君不密則失臣,願陛下密之。」會大理丞麻察坐事左遷興州別駕,澣素與察善,出城餞之,因道禁中諫語;察性輕險,遽奏之。上怒,召澣責之曰:「卿疑朕不密,而以語麻察,詎爲密邪?且察素無行,卿豈不知邪?」澣頓首謝。秋,七月,丁巳,下制:「澣、察交構將相,離間君臣,澣可高州良德丞,察可潯州皇化尉。」
8.開府王毛仲と龍武将軍葛福順が姻戚となった。
 毛仲は上から信任されており、彼が言って聞かれない事はない。だから、北門の諸将の大半は彼へ随身し、ただ彼の指図のままに進退していた。
 吏部侍郎斉澣が、くつろいだ折、上に言った。
「福順は禁兵を指揮しています。毛仲と姻戚になるのは宜しくありません。毛仲は小人です。寵用が過ぎると姦悪を産みます。早く手を打ちませんと後々大きな患いとなりかねません。」
 上は悦んで言った。
「卿の忠誠を知ったぞ。朕は最善策をゆっくりと考えてみよう。」
「主君の口が軽いと臣下を失います。どうか陛下、ご内密に。」
 やがて、大理丞麻察が事件に関連して興州別駕へ左遷された。澣はもともと察と仲が良かったので、城外まで見送り、道々禁中で諫めたことなどを話した。察はもともと軽薄陰険な人間だったので、すぐにこれを上奏した。上は怒り、澣を召し出して、責め立てた。
「卿は朕が漏洩することを疑ったが、自ら察へ話したではないか。これで内密にできるのか?それに、察はもともと素行が悪い。卿はそれも知らなかったのか?」
 澣は頓首して謝った。
 秋、七月、丁巳、制を下した。
「澣と察は将相を讒言し、君臣を離間した。澣は高州良徳丞とし、察は潯州皇化尉とした。」
 八月,癸亥,上以生日宴百官於花萼樓下。左丞相乾曜、右丞相説帥百官上表,請以毎歳八月五日爲千秋節,布於天下,咸令宴樂。尋又移社就千秋節。
9.八月、癸亥、上は誕生日なので、花萼楼下にて百官と宴会を開いた。左丞相乾曜と右丞相説が百官を率いて上表し、毎年八月五日を千秋節としてお祭りをするよう天下へ公布することを請うた。ついで、社を千秋節へ移すよう請うた。(聖節錫宴は、これから始まった。のちに、千秋節は天長節と改められた。ちなみに、社は、古来から戌の日に行われていた。)
 10庚辰,工部尚書張嘉貞薨。嘉貞不營家産,有勸其市田宅者,嘉貞曰:「吾貴爲將相,何憂寒餒!若其獲罪,雖有田宅,亦無所用。比見朝士廣占良田,身沒之日,適足爲無賴子弟酒色之資,吾不取之。」聞者是之。
10.庚辰、工部尚書張嘉貞が薨去した。
 嘉貞は利殖をしなかった。田畑や屋敷を買うよう勧める者が居ると、嘉貞は言った。
「吾は将相のように貴い身分になった。なんで飢寒を憂えようか!もしも罪を得たならば、田宅があっても使い道がないぞ!それに、朝士が良田を独占しているのを見ても、彼らが死んだ後、それは子弟を酒色へ堕落させる助けとなっているだけではないか。わたしはやらない。」
 聞く者は、正論と評した。
 11辛巳,敕以人間多盜鑄錢,始禁私賣銅鉛錫及以銅爲器皿;其采銅鉛錫者,官爲市取。
11.辛巳、銭を私鋳する者が多くなったので、勅が下り、民間での銅鉛錫の売買や、銅で器皿を作ることを禁じた。採取された銅・鉛・錫は、官にて全て買い上げた。
 12宇文融性精敏,應對辯給,以治財賦得幸於上,始廣置諸使,競爲聚斂,由是百官浸失其職而上心益侈,百姓皆怨苦之。爲人疏躁多言,好自矜伐,在相位,謂人曰:「使吾居此數月,則海内無事矣。」
  信安王禕,以軍功有寵於上,融疾之。禕入朝,融使御史李寅彈之,泄於所親。禕聞之,先以白上。明日,寅奏果入,上怒,九月,壬子,融坐貶汝州刺史,凡爲相百日而罷。是後言財利以取貴仕者,皆祖於融。
12.宇文融は、機転が効いて弁が立った。税務の能力で上から気に入られたので、諸使を広く設置して、競走で税金をかき集めさせた。これによって、百官は仕事を次第に失って行き、上には奢侈の心が生まれ、百姓は皆苛税に苦しんで怨んだ。
 また、彼は口数が多く、自慢話が好きだった。宰相の時は、人に吹聴していた。
「わたしが数ヶ月間この地位にいたら、海内から事件をなくしてみせる。」
 信安王禕は、軍功で上から寵愛されており、融はこれが邪魔だった。そこで融は、禕が親しい人間に機密を漏洩していると、御史の李寅に弾劾させようとした。禕はこれを聞き、先手を打って上へ告げた。翌日、果たして寅が入宮したので、上は怒った。
 九月、壬子、融は有罪となり汝州刺史に左遷された。宰相となって、およそ百日で失脚した。
 この後、財利を口にして出世しようとする者は、みな、融のやり方に倣った。
 13冬,十月,戊午朔,日有食之,不盡如鉤。
13.冬、十月、戊午朔、日食があったが、皆既ではなく、鉤型に残った。
 14宇文融既得罪,國用不足,上復思之,謂裴光庭曰:「卿等皆言融之惡,朕既黜之矣,今國用不足,將若之何!卿等何以佐朕?」光庭等懼不能對。會有飛状告融贓賄事,又貶平樂尉。至嶺外歳餘,司農少卿蔣岑奏融在汴州隱沒官錢鉅萬計,制窮治其事,融坐流巖州,道卒。
14.宇文融が失脚すると、国庫が不足し始めたので、上は彼の功績を思い、裴光庭へ言った。
「卿らはみな、融のことを悪く言うので、朕は既に退けた。そしたら今、国庫の不足をどうするのか!卿らはどうやって朕を補佐するのかね?」
 光庭らは懼れて返答できなかった。
 だが、飛状が融の収賄を告発したので、勇は再び降格されて平楽尉となった。
 嶺外にて一年余り経つと、融が汴州にて巨万の官銭を着服した、と、司農少卿蒋岑が上奏した。この事を糾明するよう制が下り、結果、融は有罪となって巖州へ流された。その途上にて卒した。
 15十一月,辛卯,上行謁橋、定、獻、昭、乾五陵;戊申,還宮;赦天下,百姓今年地税悉蠲其半。
15.十一月、辛卯、上が橋、定、献、昭、乾の五稜へ参った。
 戊申、宮殿に帰った。天下へ恩赦を下し、百姓の今年の地税を悉く半分免除した。
 16十二月,辛酉,上幸新豐温泉;壬申,還宮。
16.十二月、辛酉、上は新豊の温泉に御幸した。壬申、宮殿へ帰った。
十八年(庚午、七三〇)

 春,正月,辛卯,以裴光庭爲侍中。
1.春、正月、辛卯、裴光庭を侍中とした。
 二月,癸酉,初令百官於春月旬休,選勝行樂,自宰相至員外郎,凡十二筵,各賜錢五千緡,上或御花萼樓邀其歸騎留飲,迭使起舞,盡歡而去。
2.二月、癸酉、春月の旬休にて宴会をするのに相応しい場所を百官に選ばせた。宰相から員外郎まで、およそ十の酒席を設け、おのおのに銭五千緡を下賜した。上は、あるいは花萼楼に出向いて彼らが大酒を飲むのを囃し立て、自ら舞を舞ったりして、歓を尽くして去った。
 三月,丁酉,復給京官職田。
3.三月、丁酉、京官の職田の給付を再開した。
 夏,四月,丁卯,築西京外郭,九旬而畢。
4.夏、四月、丁卯、西京に外廓を築いた。九十日で完成した。
 乙丑,以裴光庭兼吏部尚書。先是,選司注官,惟視其人之能否,或不次超遷,或老於下位,有出身二十餘年不得祿者;又,州縣亦無等級,或自大入小,或初久後遠,皆無定制。光庭始奏用循資格,各以罷官若干選而集,官高者選少,卑者選多,無問能否,選滿即注,限年躡級,毋得踰越,非負譴者,皆有升無降;其庸愚沈滯者皆喜,謂之「聖書」,而才俊之士無不怨歎。宋璟爭之不能得。光庭又令流外行署亦過門下省審。
5.乙丑、裴光庭に吏部尚書を兼任させた。
 従来は、司や官の人選は、ただ人間の能力のみを見たので、ある者はまるで出世しなかったり、あるいは老年になっても下位のままだったり、出仕して二十余年になるのにいまだに禄を貰えない者などがいた。また、州県には等級がなかったので、ある者は大から小へ行かされたり、都近辺から僻地へ行かされたりなど、定まった制度がなかった。
 光庭が始めて資格を遵守するよう上奏した。おのおの任期が終わったのち、経歴の多少で序列を決め、吏部に集めた。官位が高い者は次の任務にあまり選ばれず、低いものを中心に選任した。能力のあるなしに関わらず、任期を終了したらそれを記録し、年期が来たら昇給させた。官位の序列は越えることが無く、譴責された者でなければ、みな昇級して降格はなかった。
 この上奏に、能力が無くて出世できない者はみな喜び、これを「聖書」と呼んだ。しかし、俊才たちで怨み嘆かない者はいなかった。宋璟はこれを不可として争ったけれども、裁可された。
 光庭は、また、流外にも任務を代行させ、これも中書省の審議を通過した。
 五月,吐蕃遣使致書於境上求和。
6.五月、吐蕃が使者を派遣して、国境上で和平を求める親書を渡した。
 初,契丹王李邵固遣可突干入貢,同平章事李元紘不禮焉。左丞相張説謂人曰:「奚、契丹必叛。可突干狡而很,專其國政久矣,人心附之。今失其心,必不來矣。」己酉,可突干弑邵固,帥其國人并脅奚衆叛降突厥,奚王李魯蘇及其妻韋氏、邵固妻陳氏皆來奔。制幽州長史趙含章討之,又命中書舍人裴寬、給事中薛侃等於關内、河東、河南、北分道募勇士,六月,丙子,以單于大都護忠王浚領河北道行軍元帥,以御史大夫李朝隱、京兆尹裴伷先副之,帥十八總管以討奚、契丹。命浚與百官相見於光順門。張説退,謂學士孫逖、韋述曰:「吾嘗觀太宗畫像,雅類忠王,此社稷之福也。」
  可突干寇平盧,先鋒使張掖烏承玼破之於捺祿山。
7.以前、契丹王李邵固が可突干を派遣して入貢した時、同平章事李元紘が礼遇しなかった。この時、左丞相張説は、人に言った。
「奚と契丹は、必ず造反する。可突干は大変狡猾な人間で、その国政を専断して久しく、人心も彼へ懐いている。今、その心を失った。もう、二度と入貢しないぞ。」
 己酉、可突干は邵固を弑逆し、その国人を率い奚の人々を脅しつけ、唐に造反して突厥に降伏した。奚王李魯蘇とその妻の韋氏、邵固の妻の陳氏は皆、唐へ来降した。
 幽州長史趙含章に討伐を命じた。また、中書舎人裴寛、給事中薛侃らを関内、河東、河南、河北へ派遣して勇士を募らせた。
 六月、丙子、単于大都護忠王浚を領河北道行軍元帥とし、御史大夫李朝隠、京兆尹裴伷先を副官として、十八総管を率いて奚・契丹を討伐させた。
 光順門にて、浚を百官へ引き合わせた。張説は退出すると、学士の孫逖、韋述らに言った。
「吾はかつて太宗の肖像画を見たが、忠王は骨相がよく似ている。これは社稷の福だ。」
 可突干は平盧へ来寇した。先鋒使の張掖の烏承玼が、捺禄山でこれを撃破した。
 壬午,洛水溢,溺東都千餘家。
8.壬午、洛水が洪水を起こし、東都の千余家が流された。
 秋,九月,丁巳,以忠王浚兼河東道元帥,然竟不行。
9.秋、九月、丁巳、忠王浚に河東道元帥を兼務させたが、結局出征しなかった。
 10吐蕃兵數敗而懼,乃求和親。忠王友皇甫惟明因奏事從容言和親之利。上曰:「贊普嘗遺吾書悖慢,此何可捨!」對曰:「贊普當開元之初,年尚幼穉,安能爲此書!殆邊將詐爲之,欲以激怒陛下耳。夫邊境有事,則將吏得以因縁盜匿官物,妄述功状以取勳爵。此皆姦臣之利,非國家之福也。兵連不解,日費千金,河西、隴右由茲困敝。陛下誠命一使往視公主,因與贊普面相約結,使之稽顙稱臣,永息邊患,豈非御夷狄之長策乎!」上悅,命惟明與内侍張元方使于吐蕃。
  贊普大喜,悉出貞觀以來所得敕書以示惟明。冬,十月,遣其大臣論名悉獵隨惟明入貢,表稱:「甥世尚公主,義同一家。中間張玄表等先興兵寇鈔,遂使二境交惡。甥深識尊卑,安敢失禮!正爲邊將交構,致獲罪於舅;屢遣使者入朝,皆爲邊將所遏。今蒙遠降使臣,來視公主,甥不勝喜荷。儻使復脩舊好,死無所恨!」自是吐蕃復款附。
10.吐蕃軍はしばしば敗北したので唐を懼れ、和親を求めてきた。忠王の友人皇甫惟明は、くつろいだ有様で和親の利益を上奏した。
 上は言った。
「かつて賛普がわたしに渡した親書は、傲慢無礼だった。どうして捨て置けようか!」
「開元の初年、賛普はまだ幼かったのです。どうしてあの親書が書けましょうか!これは陛下を怒らせる為に辺境の将軍達が偽造したに違いありません。国境で紛争が起こると、将吏はどさくさ紛れに官物を着服できますし、功績を粉飾して勲爵を得ることもできます。これは皆、姦臣の利益ですが、国家の福ではありません。紛争が長引けば、一日に千金が費やされます。それによって河西、隴右は困窮します。陛下は、一人の使者を派遣して公主のご機嫌を伺い、ついでに『臣』と称するという条約を賛普と締結すれば、国境は永く平穏です。これこそ夷狄を手懐ける上策ではありませんか。」
 上は悦び、惟明と内侍張元方を使者として吐蕃へ派遣した。
 賛普は大いに喜び、貞観以降に貰った敕書を全て取りだして惟明へ示した。
 冬、十月その大臣論名悉猟を惟明へ随行させて入貢した。その表に言う。
「甥は、公主を娶りました。家族も同然です。中間の張玄表等が先頃兵を起こして掠奪し、二国間に紛争を起こしましたが、甥は尊卑を深くわきまえています。どうして無礼を働きましょうか!辺将の独断専横で、舅へ罪を得てしまったのです。しばしば使者を派遣して入朝しようとしましたが、全て辺将に邪魔されました。今、使者が遠路はるばると公主の様子を見に来られまして、 甥は喜びにやみません。このまま旧好を修復できるなら、死んでも心残りはありません!」
 こうして、吐蕃は再び款附した。
 11庚寅,上幸鳳泉湯;癸卯,還京師。
11.庚寅、上が鳳泉湯に御幸した。癸卯、京師へ帰った。
 12甲寅,護密王羅眞檀入朝,留宿衞。
12.甲寅、護密王の羅真檀が入朝した。宿衛に留まった。
 13十一月,丁卯,上幸驪山温泉;丁丑,還宮。
13.十一月、丁卯、上が驪山の温泉に御幸した。丁丑、宮殿へ帰った。
 14是歳,天下奏死罪止二十四人。
14.この年、死罪の判決を受けながら中止になった人間が、天下で二十四人いた。
 15突騎施遣使入貢,上宴之於丹鳳樓,突厥使者預焉。二使爭長,突厥曰:「突騎施小國,本突厥之臣,不可居我上。」突騎施曰:「今日之宴,爲我設也,我不可以居其下。」上乃命設東、西幕,突厥在東,突騎施在西。
15.突騎施が使者を派遣して入貢した。上は、これと丹鳳楼で宴会をした。突厥の使者も、これに参加した。
 この二人の使者は序列を争った。突厥は言った。
「突騎施は小国で、もともと突厥の臣下だった。我らの上座に置いてはならぬ。」
 突騎施は言った。
「今日の宴会は、我らのために設けられたのだ。我らは下座に座れない。」
 上は、東西に幕を設けさせ、突厥は東に、突騎施は西に坐らせた。
 16開府儀同三司、内外閑厩監牧都使霍國公王毛仲恃寵,驕恣日甚,上毎優容之。毛仲與左領軍大將軍葛福順、左監門將軍唐地文、左武衞將軍李守德、右威衞將軍王景耀、高廣濟親善,福順等倚其勢,多爲不法。毛仲求兵部尚書不得,怏怏形於辭色,上由是不悅。
  是時,上頗寵任宦官,往往爲三品將軍,門施棨戟;奉使過諸州,官吏奉之惟恐不及,所得賂遺,少者不減千緡;由是京城第舎、郊畿田園,參半皆在官矣。楊思勗、高力士尤貴幸,思勗屢將兵征討,力士常居中侍衞。而毛仲視宦官貴近者若無人;甚卑品者,小忤意,輒詈辱如僮僕。力士等皆害其寵而未敢言。
  會毛仲妻産子,三日,上命力士賜之酒饌、金帛甚厚,且授其兒五品官。力士還,上問:「毛仲喜乎?」對曰:「毛仲抱其襁中兒示臣曰:『此兒豈不堪作三品邪!』」上大怒曰:「昔誅韋氏,此賊心持兩端,朕不欲言之;今日乃敢以赤子怨我!」力士因言:「北門奴,官太盛,相與一心,不早除之,必生大患。」上恐其黨驚懼爲變。
16.開府儀同三司・内外閑厩監牧都使の霍国公王毛仲は寵愛を恃んで驕慢が日々増長したが、上はこれを事ごとに許容した。
 毛仲と左領軍大将軍葛福順、左監門将軍唐地文、左武衛将軍李守徳、右威衛将軍王景耀、高広済らは仲が善く、福順らは彼を後ろ盾にして不法なふるまいが多かった。毛仲は、兵部尚書を求めて得られなかったので怏々とした想いが態度に現れた。これによって、上は不機嫌になった。
 この時、上は宦官を非常に寵任しており、往々にして三品将軍となり、門には赤い油を縫った戟が掛けられていた。天子の使者となって諸州を行き過ぎれば、官吏は恐々としてご奉仕した。この時に贈られる賄賂は、少ないときでさえ千緡をくだらない。これによって京城近郊の田園は、ほぼ半分が官のものとなった。(?)宦官では、楊思勗と高力士が特に貴くなった。思勗はしばしば兵を率いて討伐に行き、力士は常に中侍衛に居た。
 しかしながら毛仲は、宦官など眼中になく、身分の卑しい相手などは少しでも気にくわなければ奴僕のように罵った。力士らは、みな、腹に据えかねていたが、まだ口には出さなかった。
 毛仲の妻が出産して三日後、力士は上の命令で、酒や金帛を多量に下賜し、その児には五品官を授けた。力士が帰ってくると、上は問うた。
「毛仲は喜んだか?」
 対して言った。
「毛仲はお襁褓にくるまった子供を臣へ見せて言いました。『この児には三品の価値がないというのか!』」
 上は大いに怒って言った。
「昔、韋氏を誅した時、この賊は二股を掛けたのを朕は不問に処した。それなのに、今日、赤子のことでわたしを怨むか!」
 そこで、力士は言った。
「北門の奴隷は官に強い勢力を持ち、一心同体です。早く除かなければ、必ず大きな禍を産みます。」
 上は、彼らの一党が驚愕して変事を起こすことを恐れた。
十九年(辛未、七三一)

 春,正月,壬戌,下制,但述毛仲不忠怨望,貶瀼州別駕,福順、地文、守德、景耀、廣濟皆貶遠州別駕,毛仲四子皆貶遠州參軍,連坐者數十人。毛仲行至永州,追賜死。
  自是宦官勢益盛。高力士尤爲上所寵信,嘗曰:「力士上直,吾寢則安。」故力士多留禁中,稀至外第。四方表奏,皆先呈力士,然後奏御;小者力士即決之,勢傾内外。金吾大將軍程伯獻、少府監馮紹正與力士約爲兄弟;力士母麥氏卒,伯獻等被髪受弔,擗踴哭泣,過於己親。力士娶瀛州呂玄晤女爲妻,擢玄晤爲少卿,子弟皆王傅。呂氏卒,朝野爭致祭,自第至墓,車馬不絶。然力士小心恭恪,故上終親任之。
1.春、正月、壬戌、制を下した。それでは、ただ毛仲が不忠にも怨望したとだけ述べ、瀼州別駕に左遷した。福順、地文、守徳、景耀、広済は、みな遠州の別駕に、毛仲の四子はみな遠州の参軍に左遷した。数十人が連座した。
 毛仲は、永州に到着したとき、死を賜った。
 これによって、宦官の勢力が増大した。
 高力士は上からもっとも寵信された。上は、かつて言った。
「力士が側にいると、わたしは安心して眠れるのだ。」
 だから力士はいつも禁中に留められ、外第へは滅多に出なかった。
 四方からの表奏は、みな、まず力士が目を通し、その後に上奏された。些細なことは力士が裁断したので、彼の権勢は内外を傾けた。
 金吾大将軍程伯献、少府監馮紹正と力士は義兄弟となった。力士の母の麦氏が卒すると、伯献等は髪を被って弔いを受けた。胸をかきむしって地団駄を踏んで慟哭する有様は、実の親が死んだ時以上だった。
 力士は、瀛州の呂玄晤の娘を娶った。 玄晤は少卿へ抜擢され、子弟は皆、王伝(諸王の過ちを正す役目、従三品)となった。呂氏が卒したとき、朝野は争って祭りにやって来たので、第から墓へ至るまで、車馬の列が途切れなかった。
 しかしながら力士は、小心で恭しさを無くさなかったので、上は死ぬまで彼を親任した。
 辛未,遣鴻臚卿崔琳使于吐蕃。琳,神慶之子也。吐蕃使者稱公主求毛詩、春秋、禮記。正字于休烈上疏,以爲:「東平王漢之懿親,求史記、諸子,漢猶不與。況吐蕃,國之寇讎,今資之以書,使知用兵權略,愈生變詐,非中國之利也。」事下中書門下議之。裴光庭等奏:「吐蕃聾昧頑嚚,久叛新服,因其有請,賜以詩書,庶使之漸陶聲教,化流無外。休烈徒知書有權略變詐之語,不知忠、信、禮、義,皆從書出也。」上曰:「善!」遂與之。休烈,志寧之玄孫也。
2.辛未、鴻臚卿崔琳を使者として吐蕃に派遣した。琳は神慶の子息である。
 吐蕃の使者は、公主が毛詩、春秋、礼記を欲しがっていると言った。すると、正字の于休烈が上疏した。
「漢代、成帝の弟だった東平王が史記や諸子百家の書物を欲しがったときでさえ、与えられませんでした。いわんや吐蕃は、国の寇讐ですぞ。今、この書物で賢くさせて用兵権略を使いこなすようにさせては、ますます変詐を産みます。それは中国の利ではありません。」
 そこで、この事を中書門下に下げ渡して議論させた。すると、裴光庭らは上奏した。
「吐蕃は野蛮無教養な連中で、長い間叛いていましたが、ようやく服従したばかり。その彼等の請願に則して詩書を下賜すれば、彼等を聖人の教えに感化させ野蛮な地を教化することにができます。休烈は書経の中に権略変詐の言葉があることだけを知り、忠・信・礼・義が皆書経から出ていることを知らないのです。」
 上は言った。
「善し!」
 遂にこれを与えた。
 休列は、志寧の玄孫である。
 丙子,上躬耕於興慶宮側,盡三百歩。
3.丙子、上が自ら興慶宮の側にて耕した。三百歩を尽くした。
 三月,突厥左賢王闕特勒卒,賜書弔之。
4.三月、突厥の左賢王闕特勒が卒した。書を下賜してこれを弔った。
 丙申,初令兩京諸州各置太公廟,以張良配享,選古名將,以備十哲;以二、八月上戊致祭,如孔子禮。
   臣光曰:經緯天地之謂文,戡定禍亂之謂武。自古不兼斯二者而稱聖人,未之有也。故黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、伊尹、周公莫不有征伐之功,孔子雖不試,猶能兵萊夷,卻費人,曰:「我戰則克」,豈孔子專文而太公專武乎?孔子所以祀於學者,禮有先聖先師故也。自生民以來,未有如孔子者,豈太公得與之抗衡哉!古者有發,則命大司徒教士以車甲,臝股肱,決射御,受成獻馘,莫不在學。所以然者,欲其先禮義而後勇力也。君子有勇而無義爲亂,小人有勇而無義爲盜;若專訓之以勇力而不使之知禮義,奚所不爲矣!自孫、呉以降,皆以勇力相勝,狙詐相高,豈足以數於聖賢之門而謂之武哉!乃復誣引以偶十哲之目,爲後世學者之師;使太公有神,必羞與之同食矣。
5.丙申、初めて両京諸州にそれぞれ太公廟を設置させた。張良を配享し、いにしえの名将を選んで十哲を備えた。(張良を配饗し、これに斉の大司馬田穰苴、呉の将軍孫武、魏の西河太守呉起、燕の昌国君楽毅、秦の武安君白起、漢の淮陰侯韓信、蜀の丞相諸葛亮、尚書右僕射衛国公李靖、司空英国公李勣を加えて十人とした。)二月と八月の上戊に孔子の礼のように祭りを行った。
 臣光、曰く、天地を網羅するのを「文」と言い、禍乱を鎮定するのを「武」と言う。いにしえから、この二つを兼ね備えずに「聖人」と呼ばれた者はいなかった。だから、黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、伊尹、周公には征伐の功績があったし、孔子は実戦こそしなかったが、莱夷の兵を退却させ、将軍に費人を撃退させ、言った。「我は戦えば勝った。」どうして孔子が文の専門家で、太公望が武の専門家だとゆうことがあろうか?孔子が学者として祀られているのは、礼の先聖先師だったからだ。人間が生まれて以来、孔子ほど素晴らしい人は未だかつて居なかった。どうして太公望などと比べられようか!
 昔は、出兵となれば、士へ車甲を教えるよう大司徒に命じたり、御前試合を行い作戦を決定し戦果を報告するなどのことは、全て学校で行った。その理由は、礼義を先にして勇力を後にしたかったからである。
 君子に勇気だけあって義がなければ、乱を起こす。小人に勇気だけあって義がなければ、盗賊となる。もしも勇力だけを訓練して礼義を教えこまなければ、何をしでかしてしまうのか!孫、呉以降、皆、勇力を戦わせ、騙し合った。彼らを聖人と数えて「武」と言うなど、役者不足も甚だしい!それを強いて十哲になぞらえ、後世の学者達の師匠とした。もしも太公望に魂があるならば、孔子と同じように祀られることを、必ずや羞じるだろう。
 五月,壬戌,初立五嶽眞君祠。
6.五月、壬戌、初めて五嶽真君祠を立てた。
 秋,九月,辛未,吐蕃遣其相論尚它硉入見,請於赤嶺爲互市;許之。
7.秋、九月、辛未、吐蕃がその相論尚它硉を派遣して入見した。赤嶺にて交易市を開くことを請い、これを許した。
 冬,十月,丙申,上幸東都。
8.冬、十月、丙申、上が東都へ御幸した。
 或告巂州都督解人張審素贓汚,制遣監察御史楊汪按之。總管董元禮將兵七百圍汪,殺告者,謂汪曰:「善奏審素則生,不然則死。」會救兵至,撃斬之。汪奏審素謀反,十二月,審素坐斬,籍沒其家。
9.巂州都督の解の人張審素が収賄したと、ある人が告発した。そこで、監察御史楊汪を派遣して検分させるよう制が下った。すると、総管董元礼が七百人の兵を率いて汪を包囲し、告発者を殺して汪に言った。
「審素を善く上奏したら生かしてやるが、そうでなければ死ぬぞ。」
 だが、救援の兵が到着し、これを攻撃して斬った。汪は、審素が謀反したと上奏した。
 十二月、審素は斬罪となり、その家は官に没収された。
 10浚苑中洛水,六旬而罷。
10.苑中の洛水の川ざらいを行った。六十日してやめた。
二十年(壬申、七三二)

 春,正月,乙卯,以朔方節度副大使信安王禕爲河東、河北行軍副大總管,將兵撃奚、契丹;壬申,以戸部侍郎裴耀卿爲副總管。
1.春、正月、乙卯、朔方節度副大使の信安王禕を河東・河北行軍副大総管とし、兵を率いて奚、契丹を攻撃させた。
 壬申、戸部侍郎裴耀卿を副総管とした。
 二月,癸酉朔,日有食之。
2.二月、癸酉朔、日食が起こった。
 上思右驍衞將軍安金藏忠烈,三月,賜爵代國公,仍於東、西嶽立碑,以銘其功。金藏竟以壽終。
3.上は、右驍衛将軍安金蔵の忠烈を思い、三月、代国公の爵位を賜り、東・西嶽に碑を立てて、その功績を刻んだ。金蔵は、ついに寿命を全うした。
 信安王禕帥裴耀卿及幽州節度使趙含章分道撃奚、契丹,含章與虜遇,虜望風遁去。平盧先鋒將烏承玭言於含章曰:「二虜,劇賊也。前日遁去,非畏我,乃誘我也,宜按兵以觀其變。」含章不從,與虜戰於白山,果大敗。承玭別引兵出其右,撃虜,破之。己巳,禕等大破奚、契丹,俘斬甚衆,可突干帥麾下遠遁,餘黨潛竄山谷。奚酉李詩瑣高帥五千餘帳來降。禕引兵還。賜李詩爵歸義王,充歸義州都督,徒其部落置幽州境内。
4.信安王禕は、裴耀卿及び幽州節度使趙含章を率い、道を分けて契丹を攻撃した。
 含章が虜軍と遭遇すると、虜は風を望んで逃げた。平盧先鋒将烏承玭が含章へ言った。
「二虜は劇賊です。前日の遁走は、我等を畏れたのではなく、誘い込むつもりです。兵を抑えて変化を観ましょう。」
 含章は従わず、白山にて虜と戦い、果たして大敗した。
 承玭は別に兵を率いてその右に出、虜を撃って、これを破った。
 己巳、禕らは奚、契丹を大いに破った。大勢の虜兵を捕えて斬った。可突干は麾下を率いて遠くへ逃げ、余党は山谷へ潜み隠れた。奚の酋長李詩瑣高が五千余帳を率いて降伏した。禕は兵を率いて帰った。
 李詩に帰義王の爵位を賜り、帰義州提督とした。その部落は幽州境内に移住させた。
 夏,四月,乙亥,宴百官於上陽東洲,醉者賜以衾褥,肩輿以歸,相屬于路。
5.夏、四月、乙亥、上陽東洲にて百官と宴会を開いた。酔った者には衾褥を賜った。肩輿で帰る者が、道に連なった。
 六月,丁丑,加信安王禕開府儀同三司。上命裴耀卿齎絹二十萬匹分賜立功奚官,耀卿謂其徒曰:「戎狄貪婪,今齎重貨深入其境,不可不備。」乃命先期而往,分道並進,一日,給之倶畢。突厥、室韋果發兵邀隘道,欲掠之,比至,耀卿已還。
  趙含章坐贓巨萬,杖於朝堂,流瀼州,道死。
6.六月、丁丑、信安王禕に開府儀同三司を加えた。上は、裴耀卿へ絹二十万匹を渡し、功績を建てた奚官へ手柄に応じて賜下するよう命じた。耀卿は、仲間に言った。
「戎狄は貪婪。今、彼らの境内を財産が通る。備えなければならない。」
 そこで、命じられた期限以前に出発した。幾つもの道で同時に運んだので、一日で運び終えた。突厥と室韋が、果たして兵を発し、狭い道で襲撃して掠奪しようとしたが、その頃には既に耀卿は帰っていた。
 趙含章は、巨万の収賄の罪で朝堂にて杖刑を受けた。瀼州へ流されたが、途中で死んだ。
 秋,七月,蕭嵩奏:「自祠后土以來,屢獲豐年,宜因還京賽祠。」上從之。
7.秋、七月、蕭嵩が上奏した。
「后土を祀って以来、屡々豊年となりました。ですから、これを京へ帰して賽祠するのがよろしゅうございます。」
 上は、これに従った。
 敕裴光庭、蕭嵩分押左、右廂兵。
8.裴光庭と蕭嵩で左右の廂兵を分割指揮するよう勅が下った。
 八月,辛未朔,日有食之。
9.八月、辛未朔、日食が起こった。
 10初,上命張説與諸學士刊定五禮。説薨,蕭嵩繼之。起居舍人王仲丘請依明慶禮,祈穀、大雩、明堂,皆祀昊天上帝;嵩又請依上元敕,父在爲母齊衰三年。皆從之。以高祖配圜丘、方丘,太宗配雩祀及神州地祇,睿宗配明堂。九月,乙巳,新禮成,上之。號曰開元禮。
10.上は、張説と諸学士に五礼を刊定するよう命じていた。説が卒すると、蕭嵩がこれを継承した。
 起居舎人王仲丘は、明慶禮に依り、祈穀・大雩・明堂は皆、天上帝を祀昊するよう請うた。嵩はまた、上元勅に依り、父が生存していても母親が死んだら三年の喪に服すよう請うた。みな、これに従った。高祖を圜丘・方丘に配し、太宗は雩祀及び神州地祇に配し、睿宗は明堂に配した。
 九月、乙巳、新しい礼が完成し、これを上納した。開元礼と名付けられた。
 11勃海靺鞨王武藝遣其將張文休帥海賊寇登州,殺刺史韋俊,上命右領軍將軍葛福順發兵討之。
11.渤海の靺鞨王武芸の命令で、その将張文休が海賊を率いて登州へ来寇した。刺史の韋俊を殺した。上は右領軍将軍葛福順に兵を発して討つよう命じた。
 12壬子,河西節度使牛仙客加六階。初,蕭嵩在河西,委軍政於仙客;仙客廉勤,善於其職。嵩屢薦之,竟代嵩爲節度使。
12.壬子、河西節度使牛仙客に六階を加えた。
 以前、蕭嵩が河西に居た頃、軍政は仙客に委ねていた。仙客は清廉勤勉で、その職務で業績を上げた。それで嵩はしばしば彼を推薦していた。ついに、嵩に代わって節度使となった。
 13冬,十月,壬午,上發東都;辛卯,幸潞州;辛丑,至北都;十一月,庚申,祀后土於汾陰,赦天下;十二月,辛未,還西京。
13.冬、十月、壬午、上は東都を出発した。辛卯、潞州に御幸し、辛丑、北都へ到着した。
 十一月、庚申、汾陰にて后土を祀り、天下に恩赦を下した。
 十二月、辛未、西京へ帰った。
 14是歳,以幽州節度使兼河北採訪處置使增領衞、相、洛、貝、冀、魏、深、趙、恆、定、邢、德、博、棣、營、鄚十六州及安東都護府。
14.この年、幽州節度使兼河北采訪処置使に、衛・相・洛・貝・冀・魏・深・趙・恒・定・邢・徳・博・棣・営・鄚の十六州及び安東都護府を増領させた。
 15天下戸七百八十六萬一千二百三十六,口四千五百四十三萬一千二百六十五。
15.天下の戸数は七百八十六万千二百三十六戸、人口は四千五百四十三万千二百六十五人となった。
二十一年(癸酉、七三三)

 春,正月,乙巳,祔肅明皇后于太廟,毀儀坤廟。
1.春、正月、乙巳、粛明皇后を太廟にて祀ることにして、儀坤廟を壊した。
 丁巳,上幸驪山温泉。
2.丁巳、上が驪山の温泉に御幸した。
 上遣大門藝詣幽州發兵,以討勃海王武藝;庚申,命太僕員外卿金思蘭使于新羅,發兵撃其南鄙。會大雪丈餘,山路阻隘,士卒死者過半,無功而還。武藝怨門藝不已,密遣客刺門藝於天津橋南,不死;上命河南搜捕賊黨,盡殺之。
3.上が、大門芸を幽州へ派遣して、兵を発して渤海王武芸を討伐させた。
 庚申、太僕員外卿金思蘭に、新羅へ行って兵を発し、渤海の南部を攻撃するよう命じた。(金思蘭は新羅王の侍子、京師に留まって太僕員外卿となっていた。)
 しかし、一丈余りの大雪に遭い、山密は狭くうねっており、半数以上の士卒が死にながらも、功績なしで帰った。
 武芸は、門芸が自分に従わなかったのを怨み、密かに刺客を放って天津橋南でこれを刺したが、門芸は命を取り留めた。上は、賊党を捜索して捕らえるよう河南府へ命じ、皆殺しにした。
 二月,丁酉,金城公主請立碑於赤嶺以分唐與吐蕃之境;許之。
4.二月、丁酉、金城公主が唐と吐蕃の国境として赤嶺へ碑を立てることを請うた。これを許した。
 三月,乙巳,侍中裴光庭薨。太常博士孫琬議:「光庭用循資格,失勸獎之道,請謚曰克。」其子稹訟之,上賜謚忠獻。
  上問蕭嵩可以代光庭者,嵩與右散騎常侍王丘善,將薦之;固讓於右丞韓休。嵩言休於上。甲寅,以休爲黄門侍郎、同平章事。
  休爲人峭直,不干榮利;及爲相,甚允時望。始,嵩以休恬和,謂其易制,故引之。及與共事,休守正不阿,嵩漸惡之。宋璟歎曰:「不意韓休乃能如是!」上或宮中宴樂及後苑遊獵,小有過差,輒謂左右曰:「韓休知否?」言終,諫疏已至。上嘗臨鏡默然不樂,左右曰:「韓休爲相,陛下殊痩於舊,何不逐之!」上歎曰:「吾貌雖痩,天下必肥。蕭嵩奏事常順指,既退,吾寢不安。韓休常力爭,既退,吾寢乃安。吾用韓休,爲社稷耳,非爲身也。」
  有供奉侏儒名黄[扁瓜],性警黠;上常馮之以行,謂之「肉几」,寵賜甚厚。一日晩入,上怪之。對曰:「臣曏入宮,道逢捕盜官與臣爭道,臣掀之墜馬,故晩。」因下階叩頭。上曰:「但使外無章奏,汝亦無憂。」有頃,京兆奏其状。上即叱出,付有司杖殺之。
5.三月、乙巳、侍中裴光庭が卒した。太常博士孫琬が議した。
「光庭は、年功序列を持ち込み、人材を適用する道を失いました。どうか諡を克(新唐書では「克平」となっている。)としてください。」
 その子の稹がこれを訴えたので、上は忠献の諡を賜った。
 上は、光庭の後任を嵩に問うた。嵩は右散騎常侍王丘と仲が善かったので彼を推薦しようとしたが、王丘は右丞韓休へ固く譲った。そこで、嵩は休を上に勧めた。甲寅、休を黄門侍郎・同平章事とした。
 休の為人は、厳格で融通が利かず、栄利を眼中に置かなかった。相となるや、人々は大きく期待した。当初、嵩は休が温和だったので制しやすいと考えて推薦した。だが、共に政事を執るようになると、休は正を守って阿らなかったので、次第に嵩は休を憎むようになっていった。
 宋璟は嘆じて言った。
「休がこんな人間とは思わなかった!」
 上が、宮中で宴楽したり後苑で遊猟したりする時、少しでも度を超すと、すぐに左右へ言った。
「休は知ったかな?」
 その言葉を言い終わらないうちに、諫疏がやってくる有様だった。
 ある時、上は鏡を見て黙り込み、不機嫌になった。すると、左右が言った。
「韓休が宰相となってから、陛下はとてもお痩せになりました。どうして追い出さないのですか!」
 上は嘆じて言った。
「我は痩せたが、天下は肥ったはずだ。粛嵩の上奏は、いつも吾が心に適っていたが、退出した後、吾は不安で眠れなかった。韓休はいつも力争するが、退出した後、安心して眠れるのだ。吾が韓休を登用したのは社稷の為だ。我が身の為ではない。」
 黄[扁瓜]という名の供奉侏儒がいた。性格は機転が利いてずる賢い。上はいつも随行させており、「肉几(小机)」と呼んで、非常に寵遇していた。ある日、入宮時間が遅かったので、上が怪しむと、言った。
「臣が入宮しようとすると、道にて盗賊を追いかけている役人と出会い、臣と先を争いました。臣はこれを馬から叩き落としましたので、こんなに遅れたのです。」
 そして、階段を下りて叩頭した。上は言った。
「朝廷で章奏がなかったら、おまえも憂えずに済むな。」
 だが、京兆はこの事件を上奏した。上は黄[扁瓜]を叱って叩き出し、役人へ命じて杖で叩き殺させた。
 (訳者曰く、「新唐書」の裴光庭伝によると、「彼が死んだ後、蕭嵩が年功序列制度をやめるよう上奏した」とあります。ここら辺の経緯はもう少し詳しく知りたかった。
 なお、孫琬は蕭嵩に阿って上奏したことになっており、その時請願した諡は「克平」でした。年功序列制は、功績や才覚を無視しますので、「平等ではない」と批判されるでしょう。「克平」は、「平等を壊す」とゆう意味ですね。本文の「克」よりも意味が通りやすいと思います。)
 閏月,癸酉,幽州道副總管郭英傑與契丹戰于都山,敗死。時節度薛楚玉遣英傑將精騎一萬及降奚撃契丹,屯於楡關之外。可突干引突厥之衆來合戰,奚持兩端,散走保險;唐兵不利,英傑戰死。餘衆六千餘人猶力戰不已,虜以英傑首示之,竟不降,盡爲虜所殺。楚玉,訥之弟也。
6.閏月、癸酉、幽州道副総管郭英傑が都山で契丹と戦い、敗死した。その経緯は、以下の通り。
 節度使薛楚玉は、英傑に精騎一万と降伏した奚人を与えて、契丹を攻撃させようと、楡関の外へ屯営させた。可突干は突厥の衆を率いてやって来て、合戦した。奚は日和見して逃げ散り、険阻な場所を保った。唐軍は戦況不利で、英傑は戦死した。しかし余衆六千余人はなお力戦した。虜は英傑の首を示したが、ついに降伏する者はおらず、悉く虜から殺された。
 楚玉は、訥の弟である。
 夏,六月,癸亥,制:「自今選人有才業操行,委吏部臨時擢用;流外奏用不復引過門下。」雖有此制,而有司以循資格便於己,猶踵行之。是時,官自三師以下一萬七千六百八十六員,吏自佐史以上五萬七千四百一十六員,而入仕之塗甚多,不可勝紀。
7.夏、六月、癸亥、制が下った。
「今後は才覚のある選人は、吏部に委任して臨時に採用する。流外の上奏は、門下の過失の責任をとらなくてもよい。」
 しかし、この制が下ったけれども、役人達は年功を遵守した方が有利なので、お役所仕事の弊害は変わらなかった。
 この時、三師以下の官吏は一万七千六百八十六人。佐史以上は五万七千四百十六人。仕官の方法が雑多すぎて、数え上げることもできなかった。
 秋,七月,乙丑朔,日有食之。
8.秋、七月乙丑朔、日食が起こった。
 九月,壬午,立皇子沔爲信王,泚爲義王,漼爲陳王,澄爲豐王,潓爲恆王,漎爲梁王,滔爲汴王。
9.九月壬午、皇子沔を信王、泚を義王、漼を陳王、澄を豊王、潓を恒王、漎を梁王、滔を汴王に立てた。
 10關中久雨穀貴,上將幸東都,召京兆尹裴耀卿謀之,對曰:「關中帝業所興,當百代不易;但以地狹穀少,故乘輿時幸東都以寬之。臣聞貞觀、永徽之際,祿廩不多,歳漕關東一二十萬石,足以周贍,乘輿得以安居。今用度浸廣,運數倍於前,猶不能給,故使陛下數冒寒暑以恤西人。今若使司農租米悉輸東都,自都轉漕,稍實關中,苟關中有數年之儲,則不憂水旱矣。且呉人不習河漕,所在停留,日月既久,遂生隱盜。臣請於河口置倉,使呉船至彼即輸米而去,官自雇載分入河、洛。又於三門東西各置一倉,至者貯納,水險則止,水通則下,或開山路,車運而過,則無復留滯,省費鉅萬矣。河、渭之濱,皆有漢、隋舊倉,葺之非難也。」上深然其言。
10.関中に雨が降り続き、穀物の値段が高騰した。上は東都へ御幸しようと、京兆尹の裴耀卿を呼び出した。すると、耀卿は言った。
「関中は帝業が興った場所です。百代先まで首都を変えてはいけません。ただ、土地が狭く穀物が少ないので、乗輿が時々東都へ御幸して、長安の穀物の消費を減らさなければならないのです。『貞観、永徽の頃は歳出も少なく、毎年関東の穀物一、二十万石を持ち込むだけで十分だった。だから、乗輿は長安に安居できた。』と、臣は聞いております。しかし、今は歳出が増え続け、運び込む穀物は数倍になりましたが、それでもなお不足しています。ですから、関西の人々の負担を軽くする為に、陛下が屡々官署を冒すことになるのです。
 今、もし、司農が租米を全て東都へ運び込ませ、それから水路で長安へ運び込んだなら、関中の食糧事情も好転するでしょう。いやしくも関中に数年の貯蔵が有れば、水害や旱害を憂う必要はありません。それに、呉の人々は水運に慣れず、途中に集積しておりますので、月日が経てば隠匿も生じます。どうか河口へ官倉を設置してください。呉舟には、そこへ米を入れて去らせます。官は船を雇って河、洛へ分入するのです。また、三門の東西にも各々一倉を設置します。ここに貯蔵しておき、川の流れが酷いときにはここに留め、水運が楽になったときに運び出します。そうでなければ、この場所に山道を開通して車にて運べるようにします。そうすれば滞留がなく、巨万の費用が省けます。河・渭の浜には、皆、漢・隋代の倉があります。これを修理するのは困難ではありません。」
 上は、深く同意した。
 11冬,十月,庚戌,上幸驪山温泉;己未,還宮。
11.冬、十月庚戌、上は驪山の温泉に御幸した。己未、宮殿へ帰った。
 12戊子,左丞相宋璟致仕,歸東都。
12.戊子、左丞相宋璟が高齢で退職し、東都に帰った。
 13韓休數與蕭嵩爭論於上前,面折嵩短,上頗不悅。嵩因乞骸骨,上曰:「朕未厭卿,卿何爲遽去?」對曰:「臣蒙厚恩,待罪宰相,富貴已極,及陛下未厭臣,故臣得從容引去;君已厭臣,臣首領且不保,安能自遂!」因泣下。上爲之動容,曰:「卿且歸,朕徐思之。」丁巳,嵩罷爲左丞相,休罷爲工部尚書。以京兆尹裴耀卿爲黄門侍郎,前中書侍郎張九齡時居母喪,起復中書侍郎,並同平章事。
13.韓休は、しばしば上の面前で蕭嵩と論争し、その短所を言い立てた。上は不愉快だった。これが原因で、蕭嵩は退職を願った。
 上は言った。
「朕はまだ卿を厭うていないのに、なんでサッサと去って行くのか?」
 対して言った。
「臣は御厚恩のおかげを持ちまして、宰相の座を汚し富貴を極めました。陛下がまだ臣を厭うていないうちに穏やかに退職させてください。もしも臣を厭うてしまったら、臣は身を保つことができません。どうして終わりを全うできましょうか!」
 そして、泣き出した。
 上はこれを見て哀れに思い、言った。
「卿は一旦下がりなさい。朕はゆっくり考えてみよう。」
 丁巳、嵩はやめて左丞相となり、休はやめて工部尚書となった。京兆尹裴耀卿を黄門侍郎、前の中書侍郎張九齢はこの時母親の喪に服していたが、再び起用して中書侍郎として、共に同平章事とした。
 14是歳,分天下爲京畿、都畿、關内、河南、河東、河北、隴右、山南東道、山南西道、劍南、淮南、江南東道、江南西道、黔中、嶺南,凡十五道,各置采訪使,以六條檢察非法;兩畿以中丞領之,餘皆擇賢刺史領之。非官有遷免,則使無廢更。惟變革舊章,乃須報可;自餘聽便宜從事,先行後聞。
14.この年、天下を京畿、都畿、関内、河南、河東、河北、隴右、山南東道、山南西道、剣南、淮南、江南東道、江南西道、黔中、嶺南のおよそ十五道に分けた。各々へ采訪使を置き、六箇条で非法を検察した。両畿は中丞がこれを領有し、その他は賢刺史を選んでこれを領有させた。官吏は左遷や罷免でなければ廃更させない。ただ今までの慣例を変革したときは報告の義務があったが、それ以外のことは事後報告で構わなかった。
 15太府卿楊崇禮,政道之子也,在太府二十餘年,前後爲太府者莫能及。時承平日久,財貨山積,嘗經楊卿者,無不精美;毎歳句駮省便,出錢數百萬緡。是歳,以戸部尚書致仕,年九十餘矣。上問宰相:「崇禮諸子,誰能繼其父者?」對曰:「崇禮三子,愼餘、愼矜、愼名,皆廉勤有才,而愼矜爲優。」上乃擢愼矜自汝陽令爲監察御史,知太府出納,愼名攝監察御史,知含嘉倉出給,亦皆稱職;上甚悅之。愼矜奏諸州所輸布帛有漬汚穿破者,皆下本州徴折估錢,轉市輕貨,徴調始繁矣。
15.太府卿楊祟禮は、政道の子息である。太府に在任して二十余年だが、前後して太府になった人間で彼に及ぶ者はいなかった。この頃、平和が続き、財貨は山積みされたが、楊卿の手を経たものは手違いがなかった。毎年の歳出は無駄を省き、数百万緡を余らせていた。
 この年、戸部尚書の官職で老齢退職した。年は九十余歳。上は宰相に問うた。
「祟礼の諸子で父親のあとを継げる者はいるかな?」
 対して言った。
「祟礼の三人の子息は慎餘、慎矜、慎名。皆、清廉勤勉で有能ですが、慎矜が一番優れています。」
 上は慎矜を汝陽令から監察御史・知太府出納に抜擢し、慎名を摂監察御史、知含嘉倉出給とした。どちらも職務が称賛され、上はとても喜んだ。
 慎矜は、諸州の上納した布帛で汚れたり穴が空いたり破れたりしたものは皆、元の州へ下げ渡して売り払わせて銭で納めるよう上奏した。これによって徴調が多くなった。

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