←主頁巻第二百五 2005/6/29 下訳完了
翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百六
 唐紀二十二
  則天順聖皇后中之下
神功元年(丁酉、六九七)

 正月,己亥朔,太后享通天宮。
1.正月、己亥朔、太后が通天宮で享した。
 突厥默啜寇靈州,以許欽明自隨。欽明至城下大呼,求美醬、粱米及墨,意欲城中選良將,引精兵、夜襲虜營,而城中無諭其意者。
2.突厥の黙啜が霊州へ入寇した。この時、許欽明は自ら進んで随従した。
 城下へ至ると、欽明は大声で美醤、粱(リャン、最高級の粟)米及び墨を求めた。これは、良将を選び精鋭兵を率いて虜営へ夜襲を掛けろと城中へ伝えたかったのだが、城内では誰もそれに気がつかなかった。(醤と将、米と兵は発音が似ているのだろうか?墨は暗夜を意味するのかな?)
 箕州刺史劉思禮學相人於術士張憬藏,憬藏謂思禮當歴箕州,位至太師。思禮念太師人臣極貴,非佐命無以致之,乃與洛州録事參軍綦連耀謀反,陰結朝士,託相術,許人富貴,俟其意悅,因説以「綦連耀有天命,公必因之以得富貴。」鳳閣舍人王勮兼天官侍郎事,用思禮爲箕州刺史。
  明堂尉吉頊聞其謀,以告合宮尉來俊臣,使上變告之。太后使河内王武懿宗推之。懿宗令思禮廣引朝士,許免其死,凡小忤意者皆引之。於是思禮引鳳閣侍郎同平章事李元素、夏官侍郎同平章事孫元亨、知天官侍郎事石抱忠、劉奇、給事中周譒及王勮兄涇州刺史勔、弟監察御史助等,凡三十六家,皆海内名士,窮楚毒以成其獄。壬戌,皆族誅之,親黨連坐流竄者千餘人。
  初,懿宗寬思禮於外,使誣引諸人。諸人既誅,然後收思禮,思禮悔之。懿宗自天授以來,太后數使之鞫獄,喜誣陷人,時人以爲周、來之亞。
  來俊臣欲擅其功,復羅告吉頊;頊上變,得召見,僅免。俊臣由是復用,而頊亦以此得進。
  俊臣黨人羅告司刑府史樊惎謀反,誅之。惎子訟冤於朝堂,無敢理者,乃援刀自刳其腹。秋官侍郎上邽劉如璿見之,竊歎而泣。俊臣奏如璿黨惡逆,下獄,處以絞刑;制流瀼州。
3.箕州刺史劉思礼は術士の張憬藏から人相見の術を学んだ。この時憬藏は思禮へ言った。
「君は箕州刺史を経て、最後には太師まで栄達する。」
 すると思礼は思った。
”太師は、人臣を極めた貴位だ。君主の擁立でもしなければ、なれるものではない。”
 そこで、洛州録参軍綦連耀と造反を謀り、密かに朝士達と結託した。
 思礼は、人相見の術に託して、朝士達へ富貴になると予言し、彼等がその気になった頃に言うのだ。
「綦連耀は天命を受けた。公は必ず彼から富貴にしてもらえるぞ。」
 鳳閣舎人王勮は、天官侍郎事も兼務しており、彼の推挙で思礼は箕州刺史となった。
 明堂尉吉頊が、この陰謀を聞きつけ、合宮尉来俊臣へ告げ、彼へ上訴させた。太后は、河内王武懿宗へ探査を命じた。
 武懿宗は思礼へ、もっと大勢の朝士を巻き込んだら死罪を免じてやる、と持ちかけた。自分が少しでも気に入らない奴は、全て彼の一味へ仕立て上げたかったのだ。思礼はこれを受諾した。こうして鳳閣侍郎同平章事李元素、夏官侍郎同平章事孫元亨、知天官侍郎事石抱忠、劉奇、給事中周譒及び王勮の兄の涇州刺史勔、弟の監察御史助等、凡そ三十六家が巻き添えとなった。彼等は皆、海内の名士だったが、武懿宗は拷問を極めて疑惑を成立させた。
 壬戌、皆、一族誅殺となり、連座で流罪となった親党は千余人に及んだ。
 初め、懿宗は思礼だけは建議から外して寛大に接し、彼へ諸人を誣させた。だが、諸人を誅殺し終わると思礼も牢獄にぶち込んだので、思礼は後悔した。
 天授以来、太后は懿宗へ屡々疑獄を探査させた。彼はでっち上げで人を陥れて喜ぶような人間で、時人は周、来の同類と見た。
 来俊臣は、その功績を独占したくて、再び吉頊を告訴した。だが、頊は上変して謁見することができ、どうにか禍から免れた。この事件で、俊臣は再び登用され、頊もまた進位できた。
 俊臣の党類が、司刑府史樊惎が謀反を謀てていると密告した。惎の子息が朝堂で冤罪を訴えたが、口添えする者は居ない。子息はついに、刀を振るって割腹自殺した。秋官侍郎の上邽の劉如璿が、これを見て、密かに嘆いて泣いた。すると俊臣は、如璿が悪逆な心を持ったと上奏し、牢へぶち込んで絞首刑とするよう請うたが、制が降りて流罪となった。
 尚乘奉御張易之,行成之族孫也,年少,美姿容,善音律。太平公主薦易之弟昌宗入侍禁中,昌宗復薦易之,兄弟皆得幸於太后,常傅朱粉,衣錦繡。昌宗累遷散騎常侍,易之爲司衞少卿;拜其母臧氏、韋氏爲太夫人,賞賜不可勝紀,仍敕鳳閣侍郎李迥秀爲臧氏私夫。迥秀,大亮之族孫也。武承嗣、三思、懿宗、宗楚客、晉卿皆侯易之門庭,爭執鞭轡,謂易之爲五郎,昌宗爲六郎。
4.尚乗奉御張易之は、行成の族孫である。年は若く、容姿が美しくて音楽が巧かった。太平公主が、易之の弟の昌宗を禁中に入侍させるよう推薦した。昌宗は、易之を推薦する。こうして、兄弟揃って太后の側に仕えた。彼等はいつも朱や白粉で化粧し、錦繍で着飾っていた。
 昌宗は散騎常侍まで累進し、易之は司衛少卿となった。その母の臧氏と韋氏は太夫人となり、数え切れない程の宝物を下賜された。また、鳳閣侍郎李迥秀を臧氏の夫とするよう敕が降りた。迥秀は、大亮の族孫である。
 武承嗣、三思、懿宗、宗楚客、晋卿は、皆、易之の門庭へご機嫌窺いに出向き、争って鞭轡を執った。易之は五郎、昌宗は六郎と呼ばれる。
 癸亥,突厥默啜寇勝州,平狄軍副使安道買撃破之。
5.癸亥、突厥の黙啜が勝州へ来寇したが、平狄軍副使安道買がこれを破った。
 甲子,以原州司馬婁師德守鳳閣侍郎、同平章事。
6.甲子、原州司馬婁師徳を守鳳閣侍郎、同平章事とした。
 春,三月,戊申,清邊道總管王孝傑、蘇宏暉等將兵十七萬與孫萬榮戰于東硤石谷,唐兵大敗,孝傑死之。
  孝傑遇契丹,帥精兵爲前鋒,力戰。契丹引退,孝傑追之,行背懸崖,契丹回兵薄之,宏暉先遁,孝傑墜崖死,將士死亡殆盡。管記洛陽張説馳奏其事。太后贈孝傑官爵,遣使斬宏暉以徇;使者未至,宏暉以立功得免。
  武攸宜軍漁陽,聞孝傑等敗沒,軍中震恐,不敢進。契丹乘勝寇幽州,攻陷城邑,剽掠吏民,攸宜遣將撃之,不克。
7.春、三月、戊申、東硤石谷にて、清辺道総管王孝傑と蘇宏暉等が兵十七万人を率いて孫万栄と戦い、唐軍は大敗し、孝傑は戦死した。その経緯は、以下の通り。
 孝傑は契丹と遭遇し、精兵を率いて先鋒とし、力戦した。契丹が退却したので、孝傑は追撃したところ、崖へ出てしまった。契丹軍は迂回して逆襲した。宏暉は逃げ去り、孝傑は崖から墜落して死んだ。将士もほとんど戦死した。
 管記の洛陽の張説が早馬で報告した。太后は、孝傑へ官爵を贈った。また、宏暉はこの責任で斬り捨てるよう命じて使者を派遣したが、その使者が到着する前に、宏暉は功績を建てて罪を免除された。
 武攸宜は漁陽へ陣取っていた。そこへ孝傑の敗戦が報告されたので、軍中はびびってしまって進軍しようとしなかった。契丹は勝ちに乗じて幽州へ来寇し、城邑を攻め落とし、吏民を掠殺した。攸宜は将を派遣して攻撃したが、勝てなかった。
 閻知微、田歸道同使突厥,册默啜爲可汗。知微中道遇突厥使者,輒與之緋袍、銀帶,且上言:「虜使至都,宜大爲供張。」歸道上言:「突厥背誕積年,方今悔過,宜待聖恩寬宥。今知微擅與之袍帶,使朝廷無以復加;宜令反初服以俟朝恩。又,小虜使臣,不足大爲供張。」太后然之。知微見默啜,舞蹈,吮其靴鼻;歸道長揖不拜。默啜囚歸道,將殺之,歸道辭色不撓,責其無厭,爲陳禍福。阿波達干元珍曰:「大國使者,不可殺也。」默啜怒稍解,但拘留不遣。
  初,咸亨中,突厥有降者,皆處之豐、勝、靈、夏、朔、代六州,至是,默啜求六州降戸及單于都護府之地,并穀種、繒帛、農器、鐵,太后不許。默啜怒,言辭悖慢。姚璹、楊再思以契丹未平,請依默啜所求給之。麟臺少監、知鳳閣侍郎贊皇李嶠曰:「戎狄貪而無信,此所謂『借寇兵資盜糧』也,不如治兵以備之。」璹、再思固請與之,乃悉驅六州降戸數千帳以與默啜,并給穀種四萬斛,雜綵五萬段,農器三千事,鐵四萬斤,并許其昏。默啜由是益強。
  田歸道始得還,與閻知微爭論於太后前。歸道以爲默啜必負約,不可恃和親,宜爲之備。知微以爲和親必可保。
8.閻知微と田帰道が突厥へ使者となり、黙啜を可汗と認証した。知微は道中で突厥の使者と遭ったので、これへ緋袍と銀帯を与え、上言した。
「虜の使者が都へ行きます。どうか盛大に持てなしてください。」
 帰道は上言した。
「突厥は、積年、反発しておりましたが、いまでは過去の過ちを悔いております。どうか、寛宥なる聖恩を降してください。ところで、今、知微は彼等へ独断で袍や帯を与え、朝廷からの御恩とゆう形を取っていません。彼等へは、国を出たときの服装へ着替えさせて、謁見させるべきです。又、彼等は野蛮な小国からの使者ですから、盛大な宴会を設営するほどのことではありません。」
 太后は、同意した。
 知微は、黙啜と謁見すると、舞踏して彼の靴鼻へ接吻した。だが、帰道は拱手しただけで拝礼もしなかった。黙啜は帰道を幽閉して殺そうとしたが、帰道は堂々とした態度を崩さず、彼の無礼を責めて禍福を述べた。すると、阿波達干の元珍(達干は官名。阿史徳元珍のこと)が言った。
「大国からの使者です。殺してはなりません。」
 黙啜の怒りは少し収まったが、帰道を抑留したまま帰国させなかった。
 ところで、咸亨年間には、突厥から降伏した者が居ると、彼等を皆豊、勝、霊、夏、朔、代の六州へ住ませていた。今回、黙啜は六州に居留している降伏者と、単于都護府の領土および穀種、繪帛、農器、鉄を求めたが、太后は許さなかった。黙啜は怒り、言葉が横柄傲慢になった。すると姚璹と楊再思は、契丹がまだ平定してないことを理由に、黙啜の要望を叶えるよう進言した。だが、麟台少監、知鳳閣侍郎の贊皇の李嶠が言った。
「戎狄は貪欲で信義がありません。これはいわゆる、『盗賊へ腹ごしらえをさせる』とゆうものです。奴の要求を呑むよりも、軍備を増強させるべきです。」
 しかし、璹と再思は彼等へ与えるよう固く請うた。そこで、六州の降戸数千帳を全て黙啜へ引き渡し、併せて穀種四万斛、雑綵五万段、農器三千事、鉄四万斤を賜り、通婚も許諾した。
 こうして黙啜はますます強大になった。
 だが、これによって、田帰道は帰国を許された。彼は帰国すると太后の前で閻知微と論争した。帰道が、「黙啜は絶対盟約に背くので、和親を恃みにせず、軍備を厳重にせよ。」と言ったのに対して、知微は、「和親は絶対保たれる」と述べた。
 夏,四月,鑄九鼎成,徙置通天宮。豫州鼎高丈八尺,受千八百石;餘州高丈四尺,受千二百石;各圖山川物産於其上,共用銅五十六萬七百餘斤。太后欲以黄金千兩塗之,姚璹曰:「九鼎神器,貴於天質自然。且臣觀其五采煥炳相雜,不待金色以爲炫耀。」太后從之。自玄武門曳入,令宰相、諸王帥南北牙宿衞兵十餘萬人并仗内大牛、白象共曳之。
9.夏、四月、鋳の九鼎が完成し通天宮へ設置された。豫州の鼎は高さ一丈八尺で、容積は千八百石。その他の州のは高さ一丈四尺で容積は千二百石。各々、山川の物産を図案化して彫り込んであり、全部で五十六万七百余斤の銅を使用した。
 太后は、千両の黄金を使って、その上へ金メッキしたがったが、姚璹が言った。
「九鼎は神器ですから自然な天質を貴びます。それに、臣が見ますに、五采の煥炳が混じり合った有様は、金色に塗らずとも眩しゅうございます。」
 太后は、これに従った。
 玄武門から曳き入れる。宰相・諸王が、南北の牙宿衛兵十余万人および杖内の大牛や白象を率いて曳いて行った。
 10前益州長史王及善已致仕,會契丹作亂,山東不安,起爲滑州刺史。太后召見,問以朝廷得失,及善陳治亂之要十餘條。太后曰:「外州末事,此爲根本,卿不可出。」癸酉,留爲內史。
10.前の益州長史王及善が退職した後、契丹が乱を起こした。山東の情勢が不安になったので、彼は滑州刺史に起用された。
 太后が召し出して謁見し、朝廷の得失を訊ねたところ、及善は治乱の要点十余条を述べた。すると、太后は言った。
「外州は末事。卿は根本の見識をお持ちだ。地方へは出せません。」
 癸酉、及善を朝廷へ留めて内史とした。
 11癸未,以右金吾衞大將軍武懿宗爲神兵道行軍大總管,與右豹韜衞將軍何迦密將兵撃契丹。五月,癸卯,又以婁師德爲清邊道副大總管,右武威衞將軍沙吒忠義爲前軍總管,將兵二十萬撃契丹。
  先是,有朱前疑者,上書云:「臣夢陛下壽滿八百。」即拜拾遺。又自言「夢陛下髪白再玄,齒落更生。」遷駕部郎中。出使還,上書曰:「聞嵩山呼萬歳。」賜以緋算袋,時未五品,於綠衫上佩之。會發兵討契丹,敕京官出馬一匹供軍,酬以五品。前疑買馬輸之,屢抗表求進階;太后惡其貪鄙,六月,乙丑,敕還其馬,斥歸田里。
11.癸未、右金吾衛大将軍武懿宗を神兵道行軍大総管として、右豹韜衛将軍何迦密と共に兵を与えて契丹を攻撃させた。
 五月、癸卯、また、婁師徳を清辺道副大総管、右武威衛将軍沙吒忠義を前軍総管として、二十万の兵を与えて契丹を攻撃させた。
 話は前後するが、朱前疑が上書して言った。
「臣は、陛下の満八百歳を寿ぐ夢を見ました。」
 おかげで彼は捨遣を拝受した。
 又、彼は自ら言った。
「陛下の白髪が黒くなり、抜け落ちた歯が再び生えてくる夢を見ました。」
 彼は駕部郎中(国中の厩牧や駅の馬など、官の牛馬を掌握する役)へ遷った。
 使いに出て帰ると、上書した。
「祟山にて万歳と呼ぶ声を聞きました。」
 今度は、緋の算袋を賜った。この時、彼はまだ五品ではなかったが、緑衫の上にこれを佩服した。
 今回契丹出兵で、「軍馬を一匹献上すれば五品を賜下する。」と、京官へ敕が降った。前疑は馬を買って献上し、しばしば上表して進階を求めた。太后は、彼が余り貪欲なので不愉快になった。
 六月、乙丑、前疑へ馬を返し、田里へ追い返すよう敕が降りた。
 12右司郎中馮翊喬知之有美妾曰碧玉,知之爲之不昏。武承嗣借以教諸姫,遂留不還。知之作綠珠怨詩以寄之,碧玉赴井死。承嗣得詩於裙帶,大怒,諷酷吏羅告,族之。
12.右司郎中の馮翊の喬知之は美しい妾を持っていた。その名を碧玉とゆう。知之は、彼女を溺愛する余り結婚しなかった。
 武承嗣が、諸姫の教育係として彼女を借りていったが、そのまま家に留めて返さなかった。知之が「緑珠怨」という詩を書いて碧玉へ寄越すと、彼女は井戸へ飛び込んで自殺した。
 武承嗣は、彼女の帯の間から詩を見つけて激怒した。そして、知之を告発するよう、酷吏へそれとなくそそのかし、彼の一族を誅殺した。
 13司僕少卿來俊臣倚勢貪淫,士民妻妾有美者,百方取之;或使人羅告其罪,矯稱敕以取其妻,前後羅織誅人,不可勝計。自宰相以下,籍其姓名而取之。自言才比石勒。監察御史李昭德素惡俊臣,又嘗庭辱秋官侍郎皇甫丈備,二人共誣昭德謀反,下獄。
  俊臣欲羅告武氏諸王及太平公主,又欲誣皇嗣及廬陵王與南北牙同反,冀因此盜國權,河東人衞遂忠告之。諸武及太平公主恐懼,共發其罪,繋獄,有司處以極刑。太后欲赦之,奏上三日,不出。王及善曰:「俊臣凶狡貪暴,國之元惡,不去之,必動搖朝廷。」太后游苑中,吉頊執轡,太后問以外事,對曰:「外人唯怪來俊臣奏不下。」太后曰:「俊臣有功於國,朕方思之。」頊曰:「于安遠告虺貞反,既而果反,今止爲成州司馬。俊臣聚結不逞,誣構良善,贓賄如山,冤魂塞路,國之賊也,何足惜哉!」太后乃下其奏。
  丁卯,昭德、俊臣同棄市,時人無不痛昭德而快俊臣。仇家爭噉俊臣之肉,斯須而盡,抉眼剝面,披腹出心,騰蹋成泥。太后知天下惡之,乃下制數其罪惡,且曰:「宜加赤族之誅,以雪蒼生之憤,可准法籍沒其家。」士民皆相賀於路曰:「自今眠者背始帖席矣。」
  俊臣以告綦連耀功,賞奴婢十人。俊臣閲司農婢,無可者,以西突厥可汗斛瑟羅家有細婢,善歌舞,欲得以爲賞口,乃使人誣告斛瑟羅反。諸酋長詣闕割耳剺面訟冤者數十人。會俊臣誅,乃得免。
  俊臣方用事,選司受其屬請不次除官者,毎銓數百人。俊臣敗,侍郎皆自首。太后責之,對曰:「臣負陛下,死罪!臣亂國家法,罪止一身;違俊臣語,立見滅族。」太后乃赦之。
  上林令侯敏素諂事俊臣,其妻董氏諫之曰:「俊臣國賊,指日將敗,君宜遠之。」敏從之。俊臣怒,出爲武龍令。敏欲不住,妻曰:「速去勿留!」俊臣敗,其黨皆流嶺南,敏獨得免。
  太后徴于安遠爲尚食奉御,擢吉頊爲右肅政中丞。
13.司僕少卿の来俊臣は勢力に驕って淫を貪り、士民を美しい妻妾を持っていると聞くと、これを取り上げた。あるいは、その主人を誣告させ、敕と矯称して妻を取り上げたりした。この術で誅殺された者は、挙げて数えることもできない。宰相以下、その姓名を騙って、これを取る。俊臣は、自らの才覚を石勒に喩えていた。
 監察御史の李昭徳は、もともと俊臣と仲が悪かった。そして昭徳は、かつて秋官侍郎の皇甫丈備を侮辱したことがあった。そこで、俊臣と丈備は共謀して昭徳が謀反したと誣い、牢獄へぶち込んだ。
 俊臣は、疑獄事件をでっち上げようと思った。それは、武氏諸王と太平公主を告発し、又、皇嗣及び廬陵王と南北牙が手を組んで造反した、とゆうもだ。これによって国権を盗もうと欲したのである。そこで、河東の人衛遂忠へこれを告発させた。
 諸武と太平公主は恐懼して、俊臣の罪を告発したので、彼は牢獄へ繋がれ、役人は極刑を求刑した。
 太后は俊臣を赦したかったので、奏上されてから三日間、朝廷へ出なかった。すると、王及善が言った。
「俊臣は凶狡貪暴な人間。国の元悪です。彼を除かなければ朝廷は必ず動揺します。」
 そんな中、太后は苑中でぶらつき、吉頊が轡を執っていた。太后が外の様子を問うと、彼は答えた。
「人々は、来俊臣処刑の奏が下されないのを不思議がっています。」
 太后は言った。
「俊臣は、国に功績がある。朕はそれで躊躇しているのだ。」
「于安遠は、虺貞が造反すると告発しました。そして造反が起こりましたが、それでも今は成州の司馬に過ぎません。対して俊臣は、徒党を組んで不逞を働き、良善を誣し、賄賂を山のように貪っています。今や無実の魂魄が路を塞いでいる有様。彼こそ国賊です。わずかの功績など、なんで惜しむに足りましょうか!」
 太后は、ついに命令を下した。
 丁卯、昭徳と俊臣が処刑されて、死体が市へ捨てられた。人々は皆、昭徳の死を悼み、俊臣の死に快哉を叫んだ。彼を憎む者は、争ってその死肉を食らい、アッとゆう間に無くなってしまった。眼は抉られ、面は剥がれ、内蔵はぶちまけられて辺りをベチャベチャにした。
 太后は、天下の人々が俊臣を憎んでいることを知り、制を降ろして彼の罪状を数え上げ、言った。
「赤族へ誅戮を加え、蒼生の憤りを雪ぎ、法に準じてその家を没収せよ。」
 士民は皆祝賀し合って、路上で言い合った。
「これでようやく、安心して眠れる。」
 話は前後するが、俊臣が其連輝を告発した時、その功績で奴婢十人を賜る事になった。俊臣は司農の婢を見渡したが、良い娘が居ない。そんな折、西突厥可汗斛瑟羅の家に細婢がおり歌も踊りも巧いと聞き、彼女を褒賞として貰いたくなった。そこで人を使って斛瑟羅が謀反したと誣告させた。西突厥の諸酋長達は闕を詣で、冤罪を訴えた。耳を斬ったり顔を傷つけたりして証を立てる者が数十人もいた。俊臣が誅殺されるに及んで、斛瑟羅も赦免された。
 俊臣の羽振りが良かった頃、選司達は、彼等が請願した人間は即座に除官した。こうして登用された者は、選ごとに数百人もいた。俊臣が敗北すると、侍郎達は皆、自首した。太后が彼等を責めると、対して彼等は答えた。
「陛下へ背くと、死罪です!臣下が国家の法を乱しても、罪は一身のみに止まります。しかし、俊臣の言いつけに背けば、たちどころに一族が誅殺されました。」
 太后は、彼等を赦した。
 上林令侯敏は、もともと俊臣へ諂って仕えていた。彼の妻の董氏が、諫めて言った。
「俊臣は国賊。破滅する日も間近です。あなた、どうか遠ざかってください。」
 敏は、これに従った。俊臣は怒り、武龍令へ左遷した。敏は行きたがらなかったが、妻は言った。
「グズグズしないで、早く赴任しなさい!」
 俊臣が破滅すると、その党類は皆、嶺南へ流されたが、敏だけは免れた。
 太后は于安遠を呼び戻して尚食奉御とし、吉頊を右粛政中丞へ抜擢した。
 14以檢校夏官侍郎宗楚客同平章事。
14.検校夏官侍郎宗楚客を同平章事とした。
 15武懿宗軍至趙州,聞契丹將駱務整數千騎將至冀州,懿宗懼,欲南遁。或曰:「虜無輜重,以抄掠爲資,若按兵拒守,勢必離散,從而撃之,可有大功。」懿宗不從,退據相州,委棄軍資器仗甚衆。契丹遂屠趙州。
  甲午,孫萬榮爲奴所殺。
  萬榮之破王孝傑也,於柳城西北四百里依險築城,留其老弱婦女、所獲器仗資財,使妹夫乙冤羽守之,引精兵寇幽州。恐突厥默啜襲其後,遣五人至黑沙,語默啜曰:「我已破王孝傑百萬之衆,唐人破膽,請與可汗乘勝共取幽州。」三人先至,默啜喜,賜以緋袍。二人後至,默啜怒其稽緩,將殺之,二人曰:「請一言而死。」默啜問其故,二人以契丹之情告。默啜乃殺前三人而賜二人緋,使爲郷導,發兵取契丹新城,殺所獲涼州都督許欽明以祭天;圍新城三日,克之,盡俘以歸。使乙冤羽馳報萬榮。
  時萬榮方與唐兵相持,軍中聞之,忷懼。奚人叛萬榮,神兵道總管楊玄基撃其前,奚兵撃其後,獲其將何阿小。萬榮軍大潰,帥輕騎數千東走。前軍總管張九節遣兵邀之於道,萬榮窮蹙,與其奴逃至潞水東,息於林下,嘆曰:「今欲歸唐,罪已大。歸突厥亦死,歸新羅亦死。將安之乎!」奴斬其首以降,梟之四方館門。其餘衆及奚、霫皆降於突厥。
15.武懿宗の軍が趙州へ到着した時、契丹の将駱務整が数千騎を率いて冀州へ迫っているとの報告を受けた。懿宗は懼れ、南へ逃げたがった。すると、ある者が言った。
「虜には輜重がなく、道々掠奪をして軍資に充てています。兵を揃えて拒守したなら、奴等は必ず散り散りになりますので、そこへ突撃すれば、大功を挙げられます。」
 懿宗は従わず、撤退して相州へ據った。夥しい軍資器杖を捨てて行く。
 契丹は、遂に趙州を屠った。
 甲午、孫万栄が奴隷に殺された。その経緯は、以下の通り。
 万栄は王孝傑を破ると、柳城の西北四百里に険阻な地形を利用して城を築いた。そして老弱婦女や捕獲した器杖資財を城内へ留め、妹婿の乙冤羽にこれを守らせ、自身は精兵を率いて幽州へ入寇した。
 この時、突厥の黙啜が背後を襲撃することを恐れ、五人の使者を黒沙へ派遣して、黙啜へ言った。
「我は既に王孝傑の百万の軍を撃破し、唐人の肝を潰した。この好機に乗じて、可汗と共に幽州を奪いたいのだ。」
 使者は、三人が先行した。黙啜はこの話に大喜びで彼等へ緋袍を賜った。
 残る二人が遅れて到着すると、黙啜は彼等が遅かったのを怒り殺そうとしたので、二人は言った。
「死ぬ前に、一言言わせて下さい。」
 黙啜が聞いてやると、彼等は契丹が背後からの襲撃を恐れているとゆう実情を話した。黙啜は前の三人を殺し、彼等へ与えた緋袍は二人へ賜下して、道案内とした。
 こうして突厥は兵を発した。契丹の新城を取り、捕虜とした涼州都督許欽明を殺して天を祭る。そのまま新しく築いた城を包囲し、三日で陥す。捕虜は全て帰国させた。また、乙冤羽は使者として、これを万栄へ報告させた。
 この時、万栄は唐軍と対峙していた。軍中はこの知らせを聞いて大いに動揺した。奚人は、万栄に叛いた。神兵道総管楊玄基が契丹の前軍を襲撃し、奚軍は背後を撃った。こうして契丹の将何阿小を捕らえた。
 万栄軍は大いに潰え、軽騎数千で東へ逃げた。そこを、前軍総管張九節が道にて襲撃した。万栄は切羽詰まり、その奴隷と共に潞水の東まで逃げた。林の下で休息し、嘆いて言った。
「今、唐へ帰順したいが、罪は既に大きい。突厥へ行っても殺され、新羅へ行っても殺される。どうすれば良いか!」
 奴隷は万栄の首を斬って降伏した。
 万栄の首は四方館門へ梟された。その余衆や奚、霫は皆、突厥へ降伏した。
 16戊子,特進武承嗣、春官尚書武三思並同鳳閣鸞臺三品。
16.戊子、特進武承嗣、春官尚書武三思が、共に鳳閣鸞台三品となった。
 17辛卯,制以契丹初平,命河内王武懿宗、婁師德及魏州刺史狄仁傑分道安撫河北。懿宗所至殘酷,民有爲契丹所脅從復來歸者,懿宗皆以爲反,生刳取其膽。先是,何阿小嗜殺人,河北人爲之語曰:「唯此兩何,殺人最多。」
17.辛卯、契丹が平定したばかりなので、河内王武懿宗、婁師徳及び魏州刺史狄仁傑へ、道を分けて河北を安撫するよう制が降りた。
 懿宗は、とても残酷だった。契丹に脅迫されて従っていた民が帰順してきたが、懿宗は、皆、反逆者と見なして生きたまま彼等の肝を剔り取った。以前、何阿小は殺人が好きだったので、河北の人々は言い合った。
「二人の何が、大勢の人を殺した。」(懿宗は河内王で、発音が「何」と似ている)
 18秋,七月,丁酉,昆明内附,置竇州。
18.秋、七月、丁酉、昆明が帰順したので竇州を設置した。
 19武承嗣、武三思並罷政事。
19.武承嗣と武三思が、共に政事をやめた。
 20庚午,武攸宜自幽州凱旋。武懿宗奏河北百姓從賊者請盡族之,左拾遺王求禮庭折之曰:「此屬素無武備,力不勝賊,苟從之以求生,豈有叛國之心!懿宗擁強兵數十萬,望風退走,賊徒滋蔓,又欲委罪於草野詿誤之人,爲臣不忠,請先斬懿宗以謝河北!」懿宗不能對。司刑卿杜景儉亦奏:「此皆脅從之人,請悉原之。」太后從之。
20.庚午、武攸宜が幽州から凱旋した。
 武懿宗が、「賊に従った河内の百姓は、悉く一族誅殺にしましょう。」と奏上した。すると左捨遣王求禮が庭で反駁した。
「彼等は元々軍備を持ってなかった。武力では賊に勝てないので、生き延びる矯めに一時服従しただけです。どうして叛国の心がありましょうか!懿宗は数十万の強兵を擁しながら風を望んで撤退し、賊徒を勢いづかせました。その上、罪を草野の庶民達へ押しつけようとしています。臣に言わせれば不忠です。まず懿宗を斬って、河北の民へ謝ってください!」
 懿宗は反駁できなかった。
 司刑卿の杜景倹も上奏した。
「彼等は皆、脅されただけです。どうか赦してやってください。」
 太后は、これに従った。
 21八月,丙戌,納言姚璹坐事左遷益州長史,以太子宮尹豆盧欽望爲文昌右相、鳳閣鸞臺三品。
21.八月、丙戌、納言姚璹が事件に連座して益州長史に左遷された。
 太子宮尹豆廬欽望を文昌右相、鳳閣鸞台三品とした。
 22九月,壬辰,大享通天宮,大赦,改元。
22.九月、壬辰、通天宮に大亨した。大赦がおこなわれ、改元された。
 23庚戌,婁師德守納言。
23.庚戌、婁師徳が守納言となる。
 24甲寅,太后謂侍臣曰:「頃者周興、來俊臣按獄,多連引朝臣,云其謀反;國有常法,朕安敢違!中間疑其不實,使近臣就獄引問,得其手状,皆自承服,朕不以爲疑。自興、俊臣死,不復聞有反者,然則前死者不有冤邪?」夏官侍郎姚元崇對曰:「自垂拱以來坐謀反死者,率皆興等羅織,自以爲功。陛下使近臣問之,近臣亦不自保,何敢動搖!所問者若有翻覆,懼遭慘毒,不若速死。賴天啓聖心,興等伏誅,臣以百口爲陛下保,自今内外之臣無復反者;若微有實状,臣請受知而不告之罪。」太后悅曰:「曏時宰相皆順成其事,陷朕爲淫刑之主;聞卿所言,深合朕心。」賜元崇錢千緡。
  時人多爲魏元忠訟冤者,太后復召爲肅政中丞。元忠前後坐棄市流竄者四。嘗侍宴,太后問曰:「卿往者數負謗,何也?」對曰:「臣猶鹿耳,羅織之徒欲得臣肉爲羹,臣安所避之!」
24.甲寅、太后が侍臣へ言った。
「近年、周興、来俊臣が疑獄を裁かせると、大勢の朝臣を巻き込んで謀反したと言い立てました。国には常法があります。朕がどうして犯せましょうか!時にはその不実を疑い、近臣を牢獄へ派遣して問わせましたが、皆、自白書を持ってきて、囚人は承服していますと報告しました。ですから、朕は疑わなかったのです。ですが、興と俊臣が死んでからは、謀反したという話を聞きません。それならば、今まで死んだ者は冤罪ではなかったのですか?」
 夏官侍郎姚元祟が言った。
「垂拱以来、謀反の罪で死んだ者は、皆、興等が自分の功績を高くする為にでっち上げたものです。陛下が近臣へ問わせましたが、近臣とても自分が誅殺されるのならば、どうして動揺せずにいられましょうか!囚人にしても、もしも証言を翻したならば、興等の毒手によってもっと悲惨な目に会わされますので、速やかに死ねる方が余程ましだったのです。天のおかげて聖心が啓蒙され、興等が誅殺されました。これで臣下達は陛下の為に喋れるようになりました。今後は、内外の臣下に造反など起こりますまい。もしも微かでも実状がありましたら、臣は、知りて告発しなかった罪を甘んじて受けましょう。」
 太后は悦んで言った。
「あの頃の宰相は全て事なかれで、朕を淫刑の主君へ陥らせました。卿の言葉を聞いて、 朕は深く合点しました。」
 元祟へ銭千緡を下賜した。
 当時の人々の多くは、魏元忠を冤罪だと訴えたので、太后は再び召し抱えて粛政中丞とした。
 元忠は前後四回、有罪となって市へ曝されたり流罪となったりした。かつて、彼が宴会に侍っている時、太后が尋ねた。
「卿は、行く先々で誹謗を受ける。どうしてですか?」
 対して、彼は言った。
「臣は鹿です。徒党を組んだ奸臣達は、臣の肉を羮にしたがっているのです。どうして逃げられましょうか!」
 25冬,閏十月,甲寅,以幽州都督狄仁傑爲鸞臺侍郎,司刑卿杜景儉爲鳳閣侍郎,並同平章事。
  仁傑上疏,以爲:「天生四夷,皆在先王封略之外,故東拒滄海,西阻流沙,北橫大漠,南阻五嶺,此天所以限夷狄而隔中外也。自典籍所紀,聲教所及,三代不能至者,國家盡兼之矣。詩人矜薄伐於太原,美化行於江、漢,則三代之遠裔,皆國家之域中也。若乃用武方外,邀功絶域,竭府庫之實以爭不毛之地,得其人不足增賦,獲其土不可耕織,苟求冠帶遠夷之稱,不務固本安人之術,此秦皇、漢武之所行,非五帝、三王之事業也。始皇窮兵極武,務求廣地,死者如麻,至天下潰叛。漢武征伐四夷,百姓困窮,盜賊蜂起;末年悔悟,息兵罷役,故能爲天所祐。近者國家頻歳出師,所費滋廣,西戍西鎭,東戍安東,調發日加,百姓虚弊。今關東饑饉,蜀、漢逃亡,江、淮已南,徴求不息,人不復業,相率爲盜,本根一搖,憂患不淺。其所以然者,皆以爭蠻貊不毛之地,乖子養蒼生之道也。昔漢元納賈捐之之謀而罷朱崖郡,宣帝用魏相之策而棄車師之田,豈不欲慕尚虚名,蓋憚勞人力也。近貞觀中克平九姓,立李思摩爲可汗,使統諸部者,蓋以夷狄叛則伐之,降則撫之,得推亡固存之義,無遠戍勞人之役,此近日之令典,經邊之故事也。竊謂宜立阿史那斛瑟羅爲可汗,委之四鎭,繼高氏絶國,使守安東。省軍費於遠方,并甲兵於塞上,使夷狄無侵侮之患則可矣,何必窮其窟穴,與螻蟻校長短哉!但當敕邊兵,謹守備,遠斥侯,聚資糧,待其自致,然後撃之。以逸待勞則戰士力倍,以主禦客則我得其便,堅壁清野則寇無所得;自然賊深入則有顛躓之慮,淺入必無虜獲之益。如此數年,可使二虜不撃而服矣。」事雖不行,識者是之。
25.冬、閏十月、甲寅、幽州都督狄仁傑を鸞台侍郎、司刑卿杜景倹を鳳閣侍郎として、共に同平章事とした。
 仁傑は上疏した。
「天は四夷を、先王の領土外に生みました。ですから、東は滄海に拒まれ、西は流沙に阻まれ、北には大漠が横たわり、南は五嶺で阻まれています。これは、天が夷狄を中華から隔てたのです。典籍をひもといても、声教も及ばず、三代の統治も至らなかった場所ですのに、今、わが国はこれを悉く指揮下に置いています。
 詩人達は、宣王の北伐を誇らなかったのに、文王の教化が江、漢へ及んだことは美化しています。太原と違い、江や漢は三代の遠裔で、国家の地域内だからです。
 武力を外へ用いて絶域で功績を挙げるのは、府庫を空にして不毛の地を争っているに他なりません。その人民を得ても賦税は増えませんし、その土地を得ても耕作も養蚕もできません。遠夷までが我等の僕となったとゆう虚名を求める為に、国の大本を固めることや人民を安んじることをないがしろにするのでは、これは秦の始皇帝や漢の武帝の所業であり、五帝や三王の事業ではありません。始皇帝は兵を窮め武を極めたので、麻のように人が死に、これが天下を潰叛させました。漢の武帝は四夷を征伐すると、百姓は困窮して盗賊が蜂起しました。ですが、武帝はその末年に悔悟して戦争をやめて兵役を罷めました。おかげで天の助けを得て国は存続したのです。
 近年、国家は頻繁に出兵しており、軍費は膨らむ一方です。西方は四鎮を守り、東方は安東を守り、日毎に徴発が行われ百姓は疲弊しました。今、関東は飢饉で、蜀・漢は逃亡し、江・淮以南では徴求がやまず、人々は生業もできずに相率いて盗賊となっております。本根が一度揺れたら、憂患は浅くありません。そうなってしまった原因は、蛮貊不毛の地を争い、人民を養育する道を踏み外したことにあるのです。
 昔、漢の元帝は賈損之の謀を納れて朱崖郡を廃止しました。宣帝は魏相の策を用いて車師の田を棄てました。彼等が、どうして虚名を求めなかった筈がありましょうか。けだし、人力を浪費することを憚ったのです。近くは貞観年間、九姓を克服した時には、李思摩を可汗に立てて諸部を統治させました。これは、夷狄が叛いたら討伐し、降伏したら慰撫するとゆう、推亡固存の義に適った行いでしたから、遠方まで防人を派遣するとゆう労役が起こりませんでした。近年の政策と比べ、このやり方は辺境経営の模範とできます。
 ですから臣は、提案いたします。阿史那斛瑟羅を可汗として四鎮を委ね、高氏の末裔に高麗を再建させて安東を統治させましょう。遠方の軍費や塞上の武装兵を省いても、夷狄による侵侮の患がなくなればよろしいのです。何で、”夷狄は絶対に巣穴から掃討して虫けらと長短を比べなければならないのだ、”という法がありましょうか!辺境警備の兵隊達には、ただ遠方まで斥候を出して、資糧を山積みし、敵の来襲を待ってから撃退するように敕すればよいのです。逸を以て労を待てば、戦士の力は倍になりますし、主を以て客を防げば我等は便宜を得ます。防備を固くして野を焼き払えば、寇は兵糧の掠奪ができません。自然、二賊はわが国へ深く侵入すれば全滅の危険が伴い、浅く侵略したら何も得られなくなるではありませんか。このようにして数年経てば、二賊は、攻撃しなくても向こうの方から降伏してくるでしょう。」
 この進言は受け入れられなかったけれども、心ある者は、正しいとした。
 26鳳閣舍人李嶠知天官選事,始置員外官數千人。
26.鳳閣舎人李嶠を知天官選事とし、始めて員外官数千人を置いた。
 27先是暦官以是月爲正月,以臘月爲閏。太后欲正月甲子朔冬至,乃下制以爲:「去晦仍見月,有爽天經。可以今月爲閏月,來月爲正月。」
27.以前の暦官は、この月を正月として、臘月を閏月としていた。だが太后は、正月の甲子朔を冬至にしたかったので、制を下して言った。
「前月の晦日に月を見たら、天経に爽としていた。今月を閏月として、来月を正月とする。」
聖暦元年(戊戌、六九八)

 正月,甲子朔,冬至,太后享通天宮;赦天下,改元。
1.正月、甲子朔、冬至、太后が通天宮で亨した。天下へ恩赦を下し、改元した。
 夏官侍郎宗楚客罷政事。
2.夏官侍郎宗楚客が政事をやめた。
 春,二月,乙未,文昌右相、同鳳閣鸞臺三品豆盧欽望罷爲太子賓客。
3.春、二月、乙未、文昌右相、同鳳閣鸞台三品の豆盧欽望が、やめて太子賓客となった。
 武承嗣、三思營求爲太子,數使人説太后曰:「自古天子未有以異姓爲嗣者。」太后意未決。狄仁傑毎從容言於太后曰:「文皇帝櫛風沐雨,親冒鋒鏑,以定天下,傳之子孫。太帝以二子託陛下。陛下今乃欲移之他族,無乃非天意乎!且姑姪之與母子孰親?陛下立子,則千秋萬歳後,配食太廟,承繼無窮;立姪,則未聞姪爲天子而祔姑於廟者也。」太后曰:「此朕家事,卿勿預知。」仁傑曰:「王者以四海爲家,四海之内,孰非臣妾,何者不爲陛下家事!君爲元首,臣爲股肱,義同一體,況臣備位宰相,豈得不預知乎!」又勸太后召還廬陵王。王方慶、王及善亦勸之。太后意稍寤。他日,又謂仁傑曰:「朕夢大鸚鵡兩翼皆折,何也?」對曰:「武者,陛下之姓,兩翼,二子也。陛下起二子,則兩翼振矣。」太后由是無立承嗣、三思之意。
  孫萬榮之圍幽州也,移檄朝廷曰:「何不歸我廬陵王?」吉頊與張易之、昌宗皆爲控鶴監供奉,易之兄弟親狎之。頊從容説二人曰:「公兄弟貴寵如此,非以德業取之也,天下側目切齒多矣。不有大功於天下,何以自全?竊爲公憂之!」二人懼,涕泣問計。頊曰:「天下士庶未忘唐德,咸復思廬陵王。主上春秋高,大業須有所付;武氏諸王非所屬意。公何不從容勸上立廬陵王以繋蒼生之望!如此,非徒免禍,亦可以長保富貴矣。」二人以爲然,承間屢爲太后言之。太后知謀出於頊,乃召問之,頊復爲太后具陳利害,太后意乃定。
  三月,己巳,託言廬陵王有疾,遣職方員外郎瑕丘徐彦伯召廬陵王及其妃、諸子詣行在療疾。戊子,廬陵王至神都。
4.武承嗣、三思は、太子となりたくて、数人の人間に太后を説得させた。
「古来より、異姓の者を世継ぎにした天子などおりません。」
 太后は迷って決断できなかった。
 狄仁傑が、くつろいだ折に太后へ言った。
「文皇帝(太宗皇帝)が、雨風に曝されながら自ら白刃を冒して天下を定め、子孫へ伝えたのです。大帝(高宗)は二子を陛下へ託されました。陛下は今、これを他族へ移そうと思われていますが、天意ではありません!それに、姑姪と母子では、どちらが親しいのですか?陛下が子を立てれば、千秋万歳の後まで太廟にて祀られ、無窮に承継されます。姪を立てれば、姪が天子となって姑を廟へ祀るなど、いまだ聞いたこともありません。」
 太后は言った。
「これは朕の家庭の問題だ。卿の与り知ることではない。」
 仁傑は言った。
「王者は四海を家とします。四海の内は、臣妾でないものはありません。全ての人が、陛下の家族なのですぞ!君を元首とし、臣を股肱とする。義として一身です。いわんや、臣は宰相の地位に就いております。なんで与り知らぬ事がありましょうか!」
 また、盧陵王を召し返すよう太后へ勧めた。
 王方慶、王及善も又これを勧め、太后もやや悟った。
 他日、又、仁傑へ言った。
「朕は、大きな鸚鵡の両翼が折れる夢を見ました。何の予兆でしょうか?」
 対して答えた。
「武は陛下の姓です。両翼は、二子です。陛下が二子を立てれば、両翼を再び振るうことができましょう。」
 太后はこれ以来、承嗣や三思を立てる気持ちが無くなった。
 孫万栄が幽州を包囲すると、朝廷へ檄を飛ばした。
「どうして我等へ盧陵王を返してくれないのか?」
 吉頊と張易之、昌宗は皆、控鶴監供奉となっており、頊は易之兄弟と昵懇だった。ある時、頊はくつろいだ折に二人へ説いた。
「公の兄弟は、こんなに貴寵されているが、徳業のおかげではありません。天下の大勢の人間が、歯ぎしりして悔しがっています。天下に大功がなければ、どうやって我が身を保全しますか?公の為に、密かに憂えているところです。」
 二人は懼れ、涕泣して計略を請うた。すると、頊は言った。
「天下の士庶は、まだ唐の徳を忘れておらず、盧陵王の復位を願っています。主上は御高齢で、世継ぎを定めなければならないが、武氏の諸王が嗣ぐのは、人々の願いではありません。公は、くつろいだ時に上へ盧陵王を立てるよう勧め、蒼生の望みを繋ぐとよろしい。こうすれば、ただ禍を逃れられるだけではなく、長く富貴を保つことができますぞ。」
 二人は得心し、しばしば太后へこれを勧めた。太后は、これは頊の知謀だと気がつき、彼を召し出して尋ねた。すると頊は、太后へ再び利害を陳述した。こうして、太后の思いは決した。
 三月、己巳、盧陵王が病気だと言い立てて職方員外郎の瑕丘の徐彦伯を派遣し、盧陵王とその妃及び諸子を、療養に仮託して行在所へ呼び寄せた。
 戊子、盧陵王が神都へ到着した。
 夏,四月,庚寅朔,太后祀太廟。
5.夏、四月、庚寅朔、太后が太廟を祀った。
 辛丑,以婁師德充隴右諸軍大使,仍檢校營田事。
6.辛丑、婁師徳を隴右諸軍事大使、仍検校営田事とした。
 六月,甲午,命淮陽王武延秀下突厥,納默啜女爲妃;豹韜衞大將軍閻知微攝春官尚書,右武衞郎將楊齊莊攝司賓卿,齎金帛巨億以送之。延秀,承嗣之子也。
  鳳閣舍人襄陽張柬之諫曰:「自古未有中國親王娶夷狄女者。」由是忤旨,出爲合州刺史。
7.六月甲午、淮陽王武延秀が突厥へ入り、黙啜の娘を納めて妃とした。
 豹韜衛大将軍閻知微を摂春官尚書、右武衛郎将楊斉荘を摂司賓卿として、巨億の金帛を突厥へ送った。延秀は、承嗣の子息である。
 鳳閣舎人の襄陽の張柬之が諫めて言った。
「古より、中国の親王が夷狄の娘を娶った試しはありません。」
 これによって太后の機嫌を損ね、合州刺史に飛ばされた。
 秋,七月,鳳閣侍郎、同平章事杜景儉罷爲秋官尚書。
8.秋、七月、鳳閣侍郎、同平章事杜景倹が、やめて秋官尚書となった。
 八月,戊子,武延秀至黑沙南庭。突厥默啜謂閻知微等曰:「我欲以女嫁李氏,安用武氏兒邪!此豈天子之子乎!我突厥世受李氏恩,聞李氏盡滅,唯兩兒在,我今將兵輔立之。」乃拘延秀於別所,以知微爲南面可汗,言欲使之主唐民也。遂發兵襲靜難、平狄、清夷等軍,靜難軍使慕容玄崱以兵五千降之。虜勢大振,進寇嬀、檀等州。前從閻知微入突厥者,默啜皆賜之五品、三品之服,太后悉奪之。
  默啜移書數朝廷曰:「與我蒸穀種,種之不生,一也。金銀器皆行濫,非眞物,二也。我與使者緋紫皆奪之,三也。繒帛皆疏惡,四也。我可汗女當嫁天子兒,武氏小姓,門戸不敵,罔冒爲昏,五也。我爲此起兵,欲取河北耳。」
  監察御史裴懷古從閻知微入突厥,默啜欲官之,不受。囚,將殺之,逃歸;抵晉陽,形容羸悴。突騎譟聚,以爲間諜,欲取其首以求功。有果毅嘗爲人所枉,懷古按直之,大呼曰:「裴御史也。」救之,得全。至都,引見,遷祠部員外郎。
  時諸州聞突厥入寇,方秋,爭發民脩城。衞州刺史太平敬暉謂僚屬曰:「吾聞金湯非粟不守,奈何捨收穫而事城郭乎?」悉罷之,使歸田,百姓大悅。
9.八月、戊子、武延秀が黒沙の南庭へ到着した。
 突厥の黙啜が閻知微へ言った。
「我は、娘を李氏へ嫁がせたかったのに、どうして武氏の子など連れてきたのか!これが、天子の子か!輪が突厥は、代々李氏の恩を受けてきたが、今、李氏の子孫はほとんど死に絶え、ただ二人の子息が残っているのみだと聞く。我は今から挙兵して彼が立つのを助けよう。」
 そして、延秀を別所に幽閉し、知微を南面可汗として唐の民を統治させた。
 遂に兵を発して静難、平狄、清夷等の軍を襲撃する。静難軍使慕容玄崱は五千の兵を率いて降伏した。虜は大いに気勢を挙げて嬀、檀等の州へ進攻した。
 以前、閻知微の従者として突厥へ入った者は、黙啜から五品や三品の服を下賜されていた。太后は、これを悉く没収した。
 黙啜は、唐の朝廷へ書を与えて、その罪状を数え上げた。
「我へ蒸した穀物の種を与えたので、これを播いても芽生えなかった。これが一つ。金銀の器は皆粗悪品で、本物ではなかった。これが二つ。我が使者へ与えた緋服や紫服を全て奪った。これが三。賜下された繪帛は全て粗悪品だった。これが四。我は可汗。その娘は天子の児へ嫁ぐのが当然なのに、武氏などの小姓を選んだ。これでは家格が釣り合わないのに、妄りに婚姻を為そうとした。これが五。よって我は起兵したが、これは河北を奪取するのみである。」
 監察御史裴懐古は、閻知微の従者として突厥へ入った。黙啜はこれへ官位を授けようとしたが、懐古は受け取らない。そこで幽閉して殺そうとしたが、寸前に逃亡できた。晋陽まで逃げ帰った時には、ボロボロの姿。突騎がこれを見つけて間諜と勘違いし、その首を取って功績にしようと騒ぎ立てた。ところが、その中に一人の果毅がいた。彼は無実の罪で陥れられようとしたところを懐古が正しく裁いたことがあったので、懐古のことを憶えており、大声で叫んだ。
「彼は裴懐古だ。」
 そして救ったので、懐古はどうにか助かった。
 都へ到着すると謁見を受けて、祠部員外郎となった。
 この時、諸州は突厥が入寇したと聞き、争って民を徴発し、城壁を補修した。だが、衛州刺史の太平の敬暉は僚属へ言った。
「『金が湯水のようにあっても、粟がなければ城は守れない』と聞く。なんで収穫を棄てて城郭を整備できようか?」
 そして、労役を中止して、民を田へ帰した。百姓は、大いに悦んだ。
 10甲午,鸞臺侍郎、同平章事王方慶罷爲麟臺監。
10.甲午、鸞台侍郎、同平章事王方慶が、やめて麟台監となった。
 11太子太保魏宣王武承嗣,恨不得爲太子,意怏怏,戊戌,病薨。
11.太子大保の魏宣王武承嗣は、太子になれなかったことを恨み、怏々としていた。
 戊戌、病死した。
 12庚子,以春官尚書武三思檢校内史,狄仁傑兼納言。
  太后命宰相各舉尚書郎一人,仁傑舉其子司府丞光嗣,拜地官員外郎,已而稱職。太后喜曰:「卿足繼祁奚矣!」
  通事舍人河南元行沖,博學多通,仁傑重之。行沖數規諫仁傑,且曰:「凡爲家者必有儲蓄脯醢以適口,參朮以攻疾。僕竊計明公之門,珍味多矣,行沖請備藥物之末。」仁傑笑曰:「吾藥籠中物,何可一日無也!」行沖名澹,以字行。
12.庚子、春官尚書武三思を検校内史とし、狄仁傑に納言を兼任させた。
 太后が宰相達へ、各々尚書郎を一人推挙するよう命じた時、仁傑は、自分の子供の司府丞光嗣を推挙して、地官員外郎としたが、優秀だと讃えられた。太后は喜んで言った。
「卿は祁奚(春秋時代の人間。適役だと判断したら、讐でも子息でも推挙した)の後継者です。」
 通事舎人の河南の元行沖は博学で多くのことに精通しており、仁傑は彼を重んじていた。その行沖はしばしば仁傑を諫めて言った。
「およそ家には、栄養を摂る為の食糧と、病気を治す為の薬が不可欠だ。僕が明公の門を窺うに、珍味が多い。行沖が薬の一端となろう。」
 仁傑は笑って言った。
「君が、我が薬籠の中の物ならば、一日としてなしには済まされないな!」
 行沖は、澹という名前だが、字の方が有名である。
 13以司屬卿武重規爲天兵中道大總管,右武衞將軍沙吒忠義爲天兵西道總管,幽州都督下邽張仁愿爲天兵東道總管,將兵三十萬以討突厥默啜;又以左羽林衞大將軍閻敬容爲天兵西道後軍總管,將兵十五萬爲後援。
  癸丑,默啜寇飛狐,乙卯,陷定州,殺刺史孫彦高及吏民數千人。
13.司属卿武重規を天兵中道大総管、右武衛将軍沙吒忠義を天兵西道総管、幽州都督の下邽の張仁愿を天兵東道総管とし、三十万の兵を与えて突厥の黙啜を討伐させた。
 又、左羽林衛大将軍閻敬容を天兵西道後軍総管として、十五万の兵を与えて後詰めとした。
 癸丑、黙啜は飛狐へ入寇した。
 乙卯、定州が陥落し、刺史の孫彦高及び吏民数千人が殺された。
 14九月,甲子,以夏官尚書武攸寧同鳳閣鸞臺三品。
14.九月、甲子、夏官尚書武攸寧を現職のまま鳳閣鸞台三品とした。
 15改默啜爲斬啜。
  默啜使閻知微招諭趙州,知微與虜連手蹋萬歳樂於城下。將軍陳令英在城上謂曰:「尚書位任非輕,乃爲虜蹋歌,獨無慙乎!知微微吟曰:「不得已,萬歳樂。」
  戊辰,默啜圍趙州,長史唐般若翻城應之。刺史高叡與妻秦氏仰藥詐死,虜輿之詣默啜,默啜以金師子帶、紫袍示之曰:「降則拜官,不降則死!」叡顧其妻,妻曰:「酬報國恩,正在今日!」遂倶閉目不言。經再宿,虜知不可屈,乃殺之。虜退,唐般若族誅;贈叡冬官尚書,謚曰節。叡,熲之孫也。
15.黙啜を、斬啜と改名した。
 黙啜は、閻知機へ、趙州を招諭させた。知機と虜は城下にて手を繋いで万歳楽を歌って踊った。すると、将軍陳令英が、城の上から言った。
「尚書は軽い位ではないのに、虜と一緒に歌って踊る。恥ずかしくないのか!」
 知機は、小声で吟じた。
「やむをえない、万歳楽。」
 戊辰、黙啜は趙州を包囲した。長史の唐般若が城内から内応した。
 刺史の高叡と妻の秦氏は、服薬して死真似をした。虜は、彼等を輿に乗せて黙啜のもとへ運んだ。黙啜は金獅子の帯と紫の袍子を彼等へ示して言った。
「降伏したら官位を授けるが、降伏しなければ殺すぞ!」
 叡が妻を顧みると、妻は言った。
「国恩へ報いるのは、まさに今日ですよ!」
 遂に、二人して目を閉じて何も言わなかった。そのまま二日経つと、虜も屈服できないと悟り、これを殺した。
 虜が撤退すると、唐般若は一族誅殺となった。叡へは冬官尚書を贈り、節と諡する。叡は、熲の孫である。
 16皇嗣固請遜位於廬陵王,太后許之。壬申,立廬陵王哲爲皇太子,復名顯。赦天下。
  甲戌,命太子爲河北道元帥以討突厥。先是,募人月餘不滿千人,及聞太子爲元帥,應募者雲集,未幾,數盈五萬。
  戊寅,以狄仁傑爲河北道行軍副元帥,右丞宋玄爽爲長史,右臺中丞崔獻爲司馬,左臺中丞吉頊爲監軍使。時太子不行,命仁傑知元帥事,太后親送之。
  藍田令薛訥,仁貴之子也,太后擢爲左威衞將軍、安東道經略。將行,言於太后曰:「太子雖立,外議猶疑未定;苟此命不易,醜虜不足平也。」太后深然之。王及善請太子赴外朝以慰人心,從之。
16.皇嗣が、位を盧陵王へ譲ることを固く請い、太后はこれを許した。
 壬申、盧陵王哲を立てて皇太子とし、名を元の顕へ戻す。天下へ恩赦を下した。
 甲戌、太子を河北道元帥として、突厥討伐を命じた。
 それまでは、募兵しても一ヶ月で千人足らずしか集まらなかったが、太子が元帥になったと聞いて、応募する者が雲集し、数日の内に五万人を数えた。
 戊寅、狄仁傑を河北道皇軍副元帥、右丞宋元爽を長史、右台中丞崔獻を司馬、左台中丞吉頁を監軍使とする。この時は、太子は出征せず、仁傑を知元帥事として、太后自らがこれを送った。
 藍田令薛訥は、仁貴の子息である。太后は彼を左威衛将軍、安東経略へ抜擢した。出立の時、彼は太后へ言った。
「立太子したとはいえ、朝臣達はなお先行きを疑っております。この決定が変わらなければ、醜虜の平定など、雑作ありません。」
 太后は深く得心した。
 王及善は、太子が外朝へ赴いて人心を慰めるよう請い、裁可された。
 17以天官侍郎蘇味道爲鳳閣侍郎、同平章事。味道前後在相位數歳,依阿取容,嘗謂人曰:「處事不宜明白,但摸稜持兩端可矣。」時人謂之「蘇摸稜」。
17.天官侍郎蘇味道が鳳閣侍郎・同平章事となった。
 味道は前後数年間相の地位にいたが、それはおもねりによるものだった。かつて、彼は人へ言った。
「諸事、明白にしては良くない。ただ、曖昧にしてどっちつかずでいることだ。」
 時人は、彼を言った。
「蘇模稜(模稜は、”曖昧”の意味)
 18癸未,突厥默啜盡殺所掠趙、定等州男女萬餘人,自五回道去,所過,殺掠不可勝紀。沙吒忠義等但引兵躡之,不敢逼。狄仁傑將兵十萬追之,無所及。默啜還漠北,擁兵四十萬,據地萬里,西北諸夷皆附之,甚有輕中國之心。
18.癸未、突厥の黙啜は、趙・定州から掠めてきた男女万余人を悉く殺して、五回から去っていった。通過する途中では、殺掠の限りを尽くす。
 沙吒忠義等は、ただ兵を率いて後をついて行くだけで、敢えて接近しなかった。狄仁傑は十万の兵力で追撃したが、追いつかなかった。
 黙啜は漠北へ還ると、四十万の兵を擁し、万里に據った。西北の諸夷は、皆、彼へ帰順し、中国を非常に軽んじた。
 19冬,十月,制:都下屯兵,命河内王武懿宗、九江王武攸歸領之。
19.冬、十月、制が下った。 「都下の屯兵は、河内王武懿宗、九江王武攸帰の指揮下へ入れる。」
 20癸卯,以狄仁傑爲河北道安撫大使。時北人爲突厥所驅逼者,虜退,懼誅,往往亡匿。仁傑上疏,以爲:「朝廷議者皆罪契丹、突厥所脅從之人,言其跡雖不同,心則無別。誠以山東近縁軍機調發傷重,家道悉破,或至逃亡。重以官典侵漁,因事而起,枷杖之下,痛切肌膚,事迫情危,不循禮義。愁苦之地,不樂其生,有利則歸,且圖賖死,此乃君子之愧辱,小人之常行也。又,諸城入偽,或待天兵,將士求功,皆云攻得,臣憂濫賞,亦恐非辜。以經與賊同,是爲惡地,至於汚辱妻子,劫掠貨財,兵士信知不仁,簪笏未能以免,乃是賊平之後,爲惡更深。且賊務招攜,秋毫不犯,今之歸正,即是平人,翻被破傷,豈不悲痛!夫人猶水也,壅之則爲泉,疏之則爲川,通塞隨流,豈有常性!今負罪之伍,必不在家,露宿草行,潛竄山澤,赦之則出,不赦則狂,山東羣盜,縁茲聚結。臣以邊塵蹔起,不足爲憂,中土不安,此爲大事。罪之則衆情恐懼,恕之則反側自安。伏願曲赦河北諸州,一無所問。」制從之。仁傑於是撫慰百姓,得突厥所驅掠者,悉遞還本貫。散糧運以賑貧乏,修郵驛以濟旋師。恐諸將及使者妄求供頓,乃自食蔬糲,禁其下無得侵擾百姓,犯者必斬。河北遂安。
20.癸卯、狄仁傑を河北道安撫大使とした。
 この頃、突厥に追い立てられた北方の住民は、虜が退出した後も、誅罰を懼れて逃げ隠れていた。そこで、仁傑は上疏した。その大意は、
「朝廷の議論では、契丹や突厥に脅されて服従した者を罪としております。様々な理由があっても、造反したことに変わりはないというのです。しかしながら事実を見ますと、山東近縁の軍は大打撃を受け、家道は悉く破れ、逃亡へ追い込まれた者もおるのです。それなのに官吏は逃亡したとゆう事実のみを見て刑罰で臨みました。枷や杖で皮膚を破られる苦痛が迫ると、礼儀に関わっておれなくなります。生きて行くことが苦しいほど辛い境遇になれば、目先の利に飛びつき生き延びることだけを思う。これは君子が恥じる行いではありますが、小人の常でございます。また、一旦賊軍に降伏して救援を待っていた諸城もあります。彼等は天兵が来るとすぐに城門を開いたでしょうが、将士は功績を求めて戦って攻め落としたと報告します。これを鵜呑みにして賞を濫発するのは、無辜の民を罰してしまうことになりかねません。一旦賊徒に従ったからと言って賊徒同様に扱えば、彼等の妻子は辱められ財貨は掠奪され、兵士も役人も誅罰を免れないようになってしまいます。これでは賊を平定した後、彼等はますます苦しんでしまいます。それに、賊を平定する時の要点は招聘にあり、秋毫も犯さないのが理想です。今、彼等は正道へ返ったのですから、平人へ戻ったのです。それなのに殺傷されてしまうなど、なんと痛ましいではありませんか!
 それ、人は水のようなものです。水は、これを擁すれば泉になり、流れる先を造ってやれば川となるもの。通も塞も地形に従うだけ。なんで常態がありましょうか!今、降伏した兵卒達は、実家に帰れず山沢に逃げ隠れしながら露営しております。これを赦免すれば出てきますが、赦免しなければ切羽詰まって凶行に出てしま、山東の群盗をますます寄せ集めて結束されることになります。
 臣は思います。辺塵は起こったばかりで憂うに足らず、中土の安否は彼等への処遇こそが鍵である、と。彼等を罰すれば皆の心は恐懼し、手心を加えれば安心します。どうかお願いいたします。河北の諸州を曲げて赦し、一つとして詰問しないでください。」
 これに従うとの制が下った。
 ここにおいて仁傑は百姓を慰撫した。突厥から取り返した掠奪品は、全て元の持ち主へ戻し、物資を貧民へ開放し、郵駅を修復して軍を整備した。諸将や使者が妄りに金品を要求できないように、自ら粗食に甘んじた。部下達へは百姓への横暴を禁じ、違反した者は斬った。
 河北は、遂に安定した。
 21以夏官侍郎姚元崇、秘書少監李嶠並同平章事。
21.夏官侍郎姚元祟と秘書少監李嶠を同平章事とした。
 22突厥默啜離趙州,乃縱閻知微使還。太后命磔於天津橋南,使百官共射之,既乃咼其肉,剉其骨,夷其三族,疏親有先未相識而同死者。
  褒公段瓚,志玄之子也,先沒於突厥。突厥在趙州,瓚邀楊齊莊與之倶逃,齊莊畏懦,不敢發。瓚先歸,太后賞之。齊莊尋至,敕河内王武懿宗鞫之;懿宗以爲齊莊意懷猶豫,遂與閻知微同誅。既射之如蝟,氣殜殜未死,乃決其腹,割心,投於地,猶趌趌然躍不止。
  擢田歸道爲夏官侍郎,甚見親委。
22.突厥の黙啜が趙州を離れ、閻知微を返してきた。太后は、これを天津橋の南に磔にして、百官に射るよう命じた。処刑が済んだ後、その肉を骨が出るまで削ぎ落とし、その骨を砕いた。彼の三族を皆殺しにした。親しい者や疎遠だった者の区別どころか、今まで閻知微と会ったことさえなかった者でも、三族ならば処刑した。
 段志玄の子息の褒公段瓚は、これ以前に突厥で没していた。かつて突厥が趙州を占拠していた頃、瓚は楊斉荘へ、共に逃げようと持ちかけたことがあった。だが、斉荘はびびって出発しない。そこで、瓚だけが先に逃げ帰ったところ、太后は彼を賞した。次いで斉荘が逃げ帰ると、彼の処遇を河内王武懿宗へ裁かせるよう敕が降りた。
 懿宗は、斉荘が速やかに帰らなかったのは彼の心に降伏の想いがあったからだと判断し、遂に閻知微と同様に誅殺するよう決定した。斉荘は、針鼠のように矢を打ち込まれたが死にきれない。そこで、その腹を裂いて心臓をえぐり出した。その心臓を地面に投げ捨てたが、それはまだピクピクと動いて止まらなかった。
 田帰道は夏官侍郎に抜擢され、とても厚く親任された。
 23蜀州毎歳遣兵五百人戍姚州,路險遠,死亡者多。蜀州刺史張柬之上言,以爲:「姚州本哀牢之國,荒外絶域,山高水深。國家開以爲州,未嘗得其鹽布之税,甲兵之用,而空竭府庫,驅率平人,受役蠻夷,肝腦塗地,臣竊爲國家惜之。請廢姚州以隸巂州,歳時朝覲,同之蕃國。瀘南諸鎭亦皆廢省,於瀘北置關,百姓非奉使,無得交通往來。」疏奏,不納。
23.蜀州は毎年五百人の兵を派遣して、姚州を守備していたが、そこまでの道は遠くて険しく、大勢の人間が死んでいた。そこで、蜀州刺史張柬之が上言した。
「姚州は、もともと哀牢の国で、山は高く水は深い荒れ果てた異郷の地。国家がこれを開いて州としましたが、未だかつて税金を徴収することができません。それなのに防備の金ばかりかかり府庫は底を突く有様。駆り立てられる兵卒達は、まるで蛮地への流刑のようで、異国にて屍を曝すことになるのです。臣は、国家の為に、これを惜しんでおります。どうか姚州を廃止して、巂州へ隷属させてください。毎年の朝勤などは、蕃国同様に扱うのです。濾南の諸鎮も皆廃止して、濾北へ関所を設置しましょう。そして、使者でなければ往来させないようにするのです。」
 疏は上奏されたが、納れられなかった。
二年(己亥、六九九)

 正月,丁卯朔,告朔於通天宮。
1.正月、丁卯朔、通天宮にて朔を告げた。
 壬戌,以皇嗣爲相王,領太子右衞率。
2.壬戌、皇嗣を相王、領太子右衛率とした。
 甲子,置控鶴臨丞、主簿等官,率皆嬖寵之人,頗用才能文學之士以參之。以司衞卿張易之爲控鶴監,銀靑光祿大夫張昌宗、左臺中丞吉頊、殿中監田歸道、夏官侍郎李迥秀、鳳閣舍人薛稷、正諫大夫臨汾員半千皆爲控鶴監内供奉。稷,元超之從子也。半千以古無此官,且所聚多輕薄之士,上疏請罷之;由是忤旨,左遷水部郎中。
3.甲子、控鶴監丞、主簿等の官を設置した。媚びへつらいで寵愛された者や文学の士をこれに充てた。
 司衛卿の張易之を控鶴監とし、銀青光禄大夫張昌宗、左台中丞吉頊、殿中監田帰道、夏官侍郎李迥秀、鳳閣舎人薛稷、正諫大夫の臨汾の員半千等が皆、控鶴監内供奉となる。稷は、元超の子息である。
 半千はこれをやめるよう上疏した。と、言うのは、古来にはこの官職がなかったし、軽薄の士を大勢かき集めていたからである。だが、この上疏によって半千は、太后の機嫌を損ね、水部郎中へ左遷された。
 臘月,戊子,以左臺中丞吉頊爲天官侍郎,右臺中丞魏元忠爲鳳閣侍郎,並同平章事。
4.臘月戊子、左台中丞吉頊を天官侍郎、右台中丞魏元忠を鳳閣侍郎とし、供に同平章事とした。
 文昌左丞宗楚客與弟司農卿晉卿,坐贓賄滿萬餘緡級第舎過度,楚客貶播州司馬,晉卿流峯州。太平公主觀其第,歎曰:「見其居處,吾輩乃虚生耳。」
5.文昌左丞宗楚客と、彼の弟の司農卿晋卿が、万余緡の収賄と邸宅が豪奢すぎるという理由で有罪となった。楚客は播州司馬へ降格となり、晋卿は峯州へ流された。
 太平公主が彼等の邸宅を見て、嘆いて言った。
「この邸宅を見ると、虚しくなってきます。」
 辛亥,賜太子姓武氏;赦天下。
6.辛亥、太子へ武氏の姓を賜り、天下へ恩赦を下した。
 太后生重眉,成八字,百官皆賀。
7.太后に、八の字をした重眉(?)が生えた。百官は、皆、祝賀した。
 河南、北置武騎團以備突厥。
8.河南、河北に武騎団を設置し、突厥へ備えさせた。
 春,一月,庚申,夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品武攸寧罷爲冬官尚書。
9.春、一月、庚申、夏官尚書、同鳳閣鸞台三品武攸寧が罷免され、冬官尚書となった。
 10二月,己丑,太后幸嵩山,過緱氏,謁升仙太子廟。壬辰,太后不豫,遣給事中欒城閻朝隱禱少室山。朝隱自爲犧牲,沐浴伏俎上,請代太后命。太后疾小愈,厚賞之。丁酉,自緱氏還。
10.二月、己丑、太后が嵩山へ御幸した。途中緱氏にて升仙太子廟を詣でた。
 壬辰、太后が危篤となり、給事中の樊城の閻朝隠を派遣して、少室山にて祈らせた。朝隠は自ら犠牲となり、沐浴してまな板の上に伏せ、太后の身代わりになることを請うた。太后の病気は少し良くなり、彼は厚く賞された。
 丁酉、緱氏から帰った。
 11初,吐蕃贊普器弩悉弄尚幼,論欽陵兄弟用事,皆有勇略,諸胡畏之。欽陵居中秉政,諸弟握兵分據方面,贊婆常居東邊,爲中國患者三十餘年。器弩悉弄浸長,陰與大臣論巖謀誅之。會欽陵出外,贊普詐云出畋,集兵執欽陵親黨二千餘人,殺之,遣使召欽陵兄弟,欽陵等舉兵不受命。贊普將兵討之,欽陵兵潰,自殺。夏四月,贊婆帥所部千餘人來降,太后命左武衞鎧曹參軍郭元振與河源軍大使夫蒙令卿將騎迎之,以贊婆爲特進、歸德王。欽陵子弓仁,以所統吐谷渾七千帳來降,拜左玉鈐衞將軍、酒泉郡公。
11.吐蕃賛普の器弩悉弄がまだ幼かった頃、論欽陵兄弟が政治を行っていた。彼等は皆知勇兼備で、諸胡はこれを畏れた。欽陵は中央で政治を執り、弟達は兵を握って各方面に分據しており、賛普はいつも東辺に居住した。こうして、三十余年に亘って、吐蕃は中国の患いとなっていた。
 器弩悉弄が成長すると、大臣の論巖と共に、彼等を誅殺しようと密かに謀った。
 欽陵が外へ出た時、賛普は狩りへ出ると偽って兵を集め、欽陵と親しかった者二千余人を捕らえて殺した。そして、欽陵の兄弟達へ使者を派遣して召集したが、欽陵等は挙兵して、この命令を拒絶した。賛普が兵を率いて討伐すると、欽陵の兵は潰滅し、欽陵は自殺した。
 夏四月、賛婆が麾下千余人を率いて降伏してきた。左武衛鎧曹参軍郭元振と河源軍大使夫蒙令卿が太后の命令で騎馬を率いてこれを迎えた。賛婆を特進、帰徳王とした。
 欽陵の子息の弓仁が、吐谷渾の七千帳を率いて来降した。彼は左玉鈐衛将軍、酒泉郡公を拝受した。
 12壬辰,以魏元忠檢校并州長史,充天兵軍大總管,以備突厥。
  婁師德爲天兵軍副大總管,仍充隴右諸軍大使,專掌懷撫吐蕃降者。
12.壬辰、魏元忠を検校并州長史として天兵軍大総管にし、突厥に備えた。
 婁師徳を天兵軍副大総管、仍充隴右諸軍大使とし、吐蕃からの降伏者を宣撫させた。
 13太后春秋高,慮身後太子與諸武不相容。壬寅,命太子、相王、太平公主與武攸曁等爲誓文,告天地於明堂,銘之鐵券,藏于史館。
13.太后は高齢となり、自分の死後、太子と武一族が折り合わないことを心配した。
 壬寅、太子、相王、太平公主と武攸既等へ誓文を書かせ、明堂にて天地へ告げ、鉄券へ刻んで、史館へしまった。
 14秋,七月,命建安王武攸宜留守西京,代會稽王武攸望。
14.秋、七月、会稽王武攸望の代わりに、建安王武攸宜に西京の留守を命じた。
 15丙辰,吐谷渾部落一千四百帳内附。
15.丙辰、吐谷渾の部落千四百帳が内附した。
 16八月,癸丑,突騎施烏質勒遣其子遮弩入見。遣侍御史元城解琬安撫烏質勒及十姓部落。
16.八月癸巳、突騎施の烏質勒がその子の遮弩を派遣して、入見した。
 侍御史の元城の解琬を派遣して、烏質勒及び十姓部落を安撫させた。
 17制:「州縣長吏,非奉有敕旨,毋得擅立碑。」
17.「州県の長史は敕旨がなければ勝手に碑を立ててはいけない」と、制が下った。
 18内史王及善雖無學術,然清正難奪,有大臣之節。張易之兄弟毎侍内宴,無復人臣禮;及善屢奏以爲不可。太后不悅,謂及善曰:「卿既年高,不宜更侍游宴,但檢校閤中可也。」及善因稱病,謁假月餘;太后不問。及善歎曰:「豈有中書令而天子可一日不見乎!事可知矣!」乃上疏乞骸骨,太后不許。庚子,以及善爲文昌左相,太子宮尹豆盧欽望爲文昌右相,仍並同鳳閣鸞臺三品。鸞臺侍郎、同平章事楊再思罷爲左臺大夫。丁未,相王兼檢校安北大都護。以天官侍郎陸元方爲鸞臺侍郎、同平章事。
18.内史王及善には学術はなかったが、清正を曲げず、大臣の節義があった。
 張易之兄弟は、内宴に相伴した時には人臣の礼がなかった。及善はしばしば上奏して非難したので、太后は不機嫌になり、及善に言った。
「卿は既に御高齢。遊宴へ参加するのは良くありません。検校閣以外での宴会のみに参加するようにしなさい。」
 すると及善は病気と称して、一ヶ月余りも謁見しなかった。太后は、それに対して何も言わない。及善は嘆いて言った。
「中書令となったら、天子に謁見しない日が一日でもあってはならぬのに!これで、御心が知れた!」
 そして、上疏して隠居を請うた。太后は許さない。
 庚子、及善を文昌左相とし、太子宮尹豆盧欽望を文昌右相とし、共に鳳閣鸞台三品とした。鸞台侍郎、同平章事楊再思は、罷免されて左台大夫となった。
 丁未、相王へ検校安北都護を兼任させる。天官侍郎陸元方を鸞台侍郎、同平章事とした。
 19納言、隴右諸軍大使婁師德薨。
  師德在河隴,前後四十餘年,恭勤不怠,民夷安之。性沈厚寬恕,狄仁傑之入相也,師德實薦之;而仁傑不知,意頗輕師德,數擠之於外。太后覺之,嘗問仁傑曰:「師德賢乎?」對曰:「爲將能謹守邊陲,賢則臣不知。」又曰:「師德知人乎?」對曰:「臣嘗同僚,未聞其知人也。」太后曰:「朕之知卿,乃師德所薦也,亦可謂知人矣。」仁傑既出,歎曰:「婁公盛德,我爲其所包容久矣,吾不得窺其際也。」是時羅織紛紜,師德久爲將相,獨能以功名終,人以是重之。
19.納言、隴右諸軍事大使婁師徳が卒した。
 師徳は河隴にて、前後四十余年怠らずに恭勤し、民夷はこれに安んじた。性格は沈厚寛恕。狄仁傑が朝廷の大臣になったのは彼の推薦による。しかし、仁傑はこれを知らず、師徳を軽く扱っており、屡々彼を地方へ出した。太后はこれを知り、ある時、仁傑へ尋ねた。
「師徳は賢人ですか?」
「将軍となったら、辺境を謹守しますが、賢いかどうかは知りません。」
「師徳には、人を見る目がありますか?」
「臣は、かつての同僚でしたが、そんな話は聞いたことがありません。」
「でも、朕は、師徳の推薦で卿を知ったのですよ。それでも人を見る目がありませんか?」
 仁傑は退出して、嘆じて言った。
「婁公は何と立派な。ずっと包み込まれていたのに、吾はそれにさえ気がつかなかった。」 この頃、諸事多端だったが、師徳は長い間将軍や宰相の地位にあり、功名を立てたままで身を終えた。だから人々は、彼を尊重したのだ。
 20戊申,以武三思爲内史。
20.戊申、武三思を内史とした。
 21九月,乙亥,太后幸福昌;戊寅,還神都。
21.九月、乙亥、太后が福昌へ御幸した。戊寅、神都へ帰った。
 22庚子,邢貞公王及善薨。
22.庚子、邢貞公王及善が卒した。
 23河溢,漂濟源百姓廬舍千餘家。
23.黄河が氾濫し、済源の百姓の家屋の千あまりが流された。
 24冬,十月,丁亥,論贊婆至都,太后寵待賞賜甚厚,以爲右衞大將軍,使將其衆守洪源谷。
24.冬、十月、丁亥、論賛婆が都へ到着した。太后はとても厚く寵遇賞賜し、右衛大将軍にして、部下を率いて洪源谷を守備させた。
 25太子、相王諸子復出閤。
25.太子や相王の諸子が、再び閣を出た。
 26太后自稱制以來,多以武氏諸王及駙馬都尉爲成均祭酒,博士、助教亦多非儒士。又因郊丘,明堂,拜洛,封嵩,取弘文國子生爲齋郎,因得選補。由是學生不複習業,二十年間,學校殆廢,而曏時酷吏所誣陷者,其親友流離,未獲原宥。鳳閣舍人韋嗣立上疏,以爲:「時俗浸輕儒學,先王之道,弛廢不講。宜令王公以下子弟,皆入國學,不聽以他岐仕進。又,自揚、豫以來,制獄漸繁,酷吏乘間,專欲殺人以求進。賴陛下聖明,周、丘、王、來相繼誅殛,朝野慶泰,若再覩陽和。至如仁傑、元忠,往遭按鞫,亦皆自誣,非陛下明察,則以爲葅醢矣;今陛下升而用之,皆爲良輔。何乃前非而後是哉?誠由枉陷與甄明耳。臣恐曏之負冤得罪者甚衆,亦皆如是。伏望陛下弘天地之仁,廣雷雨之施,自垂拱以來,罪無輕重,一皆昭洗,死者追復官爵,生者聽還郷里。如此,則天下知昔之枉濫,非陛下之意,皆獄吏之辜,幽明歡欣,感通和氣。」太后不能從。
  嗣立,承慶之異母弟也。母王氏,遇承慶甚酷,毎杖承慶,嗣立必解衣請代;母不許,輒私自杖,母乃爲之漸寬。承慶爲鳳閣舍人,以疾去職。嗣立時爲萊蕪令,太后召謂曰:「卿父嘗言:『臣有兩兒,堪事陛下。』卿兄弟在官,誠如父言。朕今以卿代兄,更不用他人。」即日拜鳳閣舍人。
26.太后が制を降すようになってから、大勢の武氏諸王やフバ都尉が成均祭酒や博士、助教となったが、彼等の大半は儒士ではなかった。また、郊丘や明堂や拝洛、封祟などの功績で、弘文国子生を齋郎として、選補の資格を与えた。これによって学生は学業を習わなくなり、二十年間、学校は殆ど廃されていた。また、酷吏に誣陥されて親友と離ればなれになった者達は、まだ復帰を許されていなかった。
 そこで、鳳閣舎人韋嗣立が上疏した。
「この頃、俗物は儒学を軽視し、先王の道は弛廃されて講じられなくなりました。王公以下の子弟を皆、国学へ入れて、他の手段での出世の道を閉ざさせるべきでございます。
 又、徐敬業や越王貞が造反して以来刑罰は厳しくなり、酷吏がその隙に乗じて殺人のみで出世しました。陛下の御聖明のおかげをもちまして周興、丘神来、王弘義、来俊臣が相継いで誅殺されましたので、朝野は喜び合い、再び日の光を浴びたようでございました。狄仁傑や魏元忠などは、かつて裁判に掛けられ、二人とも嘘の自白をしました。陛下のご明察がなければ、切り刻まれて塩漬けとなっていたところでございますのに、今、陛下は抜擢して任用し、良輔となつております。どうして、以前は悪かったのに、今は良くなったのでしょうか?これは、事実がねじ曲げられていたか、明らかになったかの違いでございます。
 ですが臣は、かつて冤罪を蒙った大勢の者が、皆、仁傑や元忠のようなものではなかったかと恐れているのです。どうか陛下、天地の仁と雷雨の施しを広げて、垂拱年間以来の罪人へ対しては、罪の軽重を問わず、全て洗い直し、死者へは官位爵位を追復し、生きている者は郷里へ帰ることをお許しください。そうすれば、天下の人々は、かつての狂乱が陛下の御意向ではなく、皆、獄吏達の専横であったことを知り、幽鬼達は喜び四海を和気が覆うでしょう。」
 太后は、従えなかった。
 嗣立は、承慶の異母弟である。母の王氏は承慶へとても酷く当たっていた。しかし、母が承慶を杖で打とうとする度に、嗣立が身代わりにぶたれることを願い出た。母が承知しないと、嗣立は自分で自分を杖打った。そうゆう事で、母親も、承慶へ対して少しは寛大になった。
 承慶は、鳳閣舎人の時、病気を理由に辞職した。この時、嗣立は莱蕪県の県令だったが、太后は彼を呼び出して、言った。 「かつて、卿の父が言いました。『臣には二人の子息がおりますが、二人とも、陛下のお役に立てます。』と。卿の兄弟が官職に就くと、果たして父君の言葉通りだった。朕は今、卿を兄の代わりとする。他の者を用いない。」
 そして即日、鳳閣舎人とした。
 27是歳,突厥默啜立其弟咄悉匐爲左廂察,骨篤祿子默矩爲右廂察,各主兵二萬餘人;其子匐倶爲小可汗,位在兩察上,主處木昆等十姓,兵四萬餘人,又號爲拓西可汗。
27.この年、突厥の黙啜は、弟の咄悉匐を左廂察に、骨篤禄の子の黙矩を右廂察に立て、各々二万余の兵を指揮させた。子息の匐倶は小可汗とし、二人の上へ置いて、處木昆等十姓、四万余の兵を麾下に入れ、拓西可汗と号した。
久視元年(庚子、七〇〇)

 正月,戊寅,内史武三思罷爲特進、太子少保。天官侍郎、同平章事吉頊貶安固尉。
  太后以頊有幹略,故委以腹心。頊與武懿宗爭趙州之功於太后前。頊魁岸辯口,懿宗短小傴僂,頊視懿宗,聲氣陵厲。太后由是不悅,曰:「頊在朕前,猶卑我諸武,況異時詎可倚邪!」他日,頊奏事,方援古引今,太后怒曰:「卿所言,朕飫聞之,無多言!太宗有馬名師子驄,肥逸無能調馭者。朕爲宮女侍側,言於太宗曰:『妾能制之,然須三物,一鐵鞭,二鐵檛,三匕首。鐵鞭撃之不服,則以檛檛其首,又不服,則以匕首斷其喉。』太宗壯朕之志。今日卿豈足汚朕匕首邪!」頊惶懼流汗,拜伏求生,乃止。諸武怨其附太子,共發其弟冒官事,由是坐貶。
  辭日,得召見,涕泣言曰:「臣今遠離闕庭,永無再見之期,願陳一言。」太后命之坐,問之,頊曰:「合水土爲泥,有爭乎?」太后曰:「無之。」又曰:「分半爲佛,半爲天尊,有爭乎?」曰:「有爭矣。」頊頓首曰:「宗室、外戚各當其分,則天下安。今太子已立而外戚猶爲王,此陛下驅之使他日必爭,兩不得安也。」太后曰:「朕亦知之。然業已如是,不可何如。」
1.正月戊寅、内史武三思の特進・太子少保を罷免する。天官侍郎・同平章事吉頊を安固尉へ降格させた。
 太后は頊には幹略があると思い、腹心としていた。ところが、頊と武懿宗が、趙州での功績を太后の前で争った時、頊は威風堂々として弁が立ち、懿宗は小柄で口べただったので、頊は懿宗へ対して威圧的に声を荒らげていた。太后は不機嫌になって、言った。
「頊は、朕の面前でさえ我が一族を卑しんでいる。ましてや朕がいなくなったら、どうなるか!」
 他日、頊が上奏した時、故事を引き合いに並べ立てていると、太后は怒って言った。
「朕は、卿の言っている故事くらい知っている。無駄口を叩くな!昔、太宗陛下が、師子驄という馬を持っていたが、肥っていて性急で、誰も乗りこなせなかった。その頃朕は宮女として太宗陛下へ侍っていたので、陛下へ言った。『妾は、三つの物さえあれば、これを調教して見せましょう。一つは鉄鞭、二つ目は鉄槌、三つ目は匕首です。鉄鞭でこれを撃っても服従しなければ、鉄槌で首を殴りつけます。それでも服従しなければ匕首で喉を裂きます。』陛下は、朕の志を壮と褒めてくれた。今日の卿など、朕の匕首を汚す価値もないわ!」
 頊は恐惶流汗し、伏し拝んで命乞いをしたので、処刑はされなかった。
 諸武は、彼が太子の党類となり共謀してその弟の罪過を告発したことを怨んでいた。とうとう、有罪となって降格させられたのだ。
 挨拶に出向く日、太后へ謁見が叶ったので、頊は泣き崩れて言った。
「臣は、今、朝廷から遠く離れたところへ出向き、もう二度とお目通りもできますまい。どうか、最後に一言言わせて下さい。」
 太后がこれを坐らせて問うと、頊は言った。
「水と土を合わせて泥とすれば、争いとなりましょうか?」
「そんなことはありません。」
「では、民を二つにわけて、半分を仏として、残る半分を天尊としたら、争いは起こりましょうか?」
「起こります。」
 そこで、頊は頓首して続けた。
「宗室と外戚が、各々分をわきまえれば天下は安泰です。今、太子が立ったのに、外戚を、なおも王としております。これは陛下が彼等を争いに駆り立てているようなもの。どちらも傷つきます。」
 すると、太后は言った。
「朕も判っております。ただ、既にこうなってしまった。もう、どうしようもないのです。」
 臘月,辛巳,立故太孫重潤爲邵王,其弟重茂爲北海王。
2.臘月、辛巳、元の太孫の重潤を邵王に、その弟の重茂を北海王に立てた。
 太后問鸞臺侍郎陸元方以外事,對曰:「臣備位宰相,有大事不敢不以聞;人間細事,不足煩聖聽。」由是忤旨。庚寅,罷爲司禮卿。
  元方爲人清謹,再爲宰相,太后毎有遷除,多訪之,元方密封以進,未嘗漏露。臨終,悉取奏藁焚之,曰:「吾於人多陰德,子孫其未衰乎!」
3.太后が、鸞台侍郎陸元方へ外事を尋ねると、元方は答えた。
「臣は宰相となり、大事が起これば必ず奏上しております。些細なことは、聖聡を煩わせるに足りません。」
 この言葉で機嫌を損ねた。
 庚寅、罷免されて司礼卿となった。
 元方の為人は清謹。二回、宰相となった。太后は人事については屡々諮問したが、元方は密封で返答し、その内容は誰にも洩らさなかった。臨終の折、それらを全て焼き捨てて、言った。
「吾は、大勢の人間へ隠徳を施した。我が子孫は決して衰退しないぞ!」
 以西突厥竭忠事主可汗斛瑟羅爲平西軍大總管,鎭碎葉。
4.西突厥の竭忠事主可汗の斛瑟羅を、平西軍大総管として、砕葉を鎮守させた。
 丁酉,以狄仁傑爲内史。
5.丁酉、狄仁傑を内史とした。
 庚子,以文昌左丞韋巨源爲納言。
  乙巳,太后幸嵩山;春,一月,丁卯,幸汝州之温湯;戊寅,還神都。作三陽宮於告成之石淙。
6.庚子、文昌左丞韋巨泉を納言とした。
 乙巳、太后が祟山へ御幸する。春、一月丁卯、汝州の温泉へ御幸する。戊寅、神都へ帰る。告成の石淙へ、三陽宮を造成した。
 二月,乙未,同鳳閣鸞臺三品豆盧欽望罷爲太子賓客。
7.二月、乙未、同鳳閣鸞第三品豆盧欽望を罷免して、太子賓客とした。
 三月,以吐谷渾靑海王宣超爲烏地也拔勤忠可汗。
8.三月、吐谷渾の青海王宣超を烏地也抜勤忠可汗とした。
 夏,四月,戊申,太后幸三陽宮避暑,有胡僧邀車駕觀葬舎利,太后許之。狄仁傑跪於馬前曰:「佛者戎狄之神,不足以屈天下之主。彼胡僧詭譎,直欲邀致萬乘,以惑遠近之人耳。山路險狹,不容侍衞,非萬乘所宜臨也。」太后中道而還,曰:「以成吾直臣之氣。」
9.夏、四月戊申、太后が三陽宮へ避暑に行く。途中、胡僧が舎利の埋葬の見物に、車駕を招いた。太后はこれを許したが、狄仁傑が馬前に跪いて言った。
「仏は夷狄の神で、天下の主が膝を屈する相手ではありません。あの胡僧は、詭弁を弄して万乗の君を招待し、遠近への宣伝にするつもりです。山道は険しく狭く護衛の兵で取り巻くことができません。万乗の君が行くところではありません。」
 太后は、途中から引き返し、言った。
「我が直臣の面目躍如じゃ。」
 10五月,己酉朔,日有食之。
10.五月己酉朔、日食が起こった。
 11太后使洪州僧胡超合長生藥,三年而成,所費巨萬。太后服之,疾小瘳。癸丑,赦天下,改元久視;去天册金輪大聖之號。
11.太后が、洪州の胡僧へ、長生の薬を調合させた。三年で完成したが、巨額の費用がかかった。太后がこれを服用すると、病状が少し改善した。
 癸丑、天下へ恩赦を下し、久視と改元する。天冊金輪大聖の称号を撤廃する。
 12六月,改控鶴爲奉宸府,以張易之爲奉宸令。太后毎内殿曲宴,輒引諸武、易之及弟秘書監昌宗飲博嘲謔。太后欲掩其迹,乃命易之、昌宗與文學之士李嶠等修三教珠英於内殿。武三思奏昌宗乃王子晉後身。太后命昌宗衣羽衣,吹笙,乘木鶴於庭中;文士皆賦詩以美之。太后又多選美少年爲奉宸内供奉,右補闕朱敬則諫曰:「陛下内寵有易之、昌宗,足矣。近聞右監門衞長史侯祥等,明自媒衒,醜慢不恥,求爲奉宸内供奉,無禮無儀,溢於朝聽。臣職在諫諍,不敢不奏。」太后勞之曰:「非卿直言,朕不知此。」賜綵百段。
  易之、昌宗競以豪侈相勝。弟昌儀爲洛陽令,請屬無不從。嘗早朝,有選人姓薛,以金五十兩并状邀其馬而賂之。昌儀受金,至朝堂,以状授天官侍郎張錫。數日,錫失其状,以問昌儀,昌儀罵曰:「不了事人!我亦不記,但姓薛者即與之。」錫懼,退,索在銓姓薛者六十餘人,悉留注官。錫,文瓘之兄之子也。
12.六月、控鶴を奉宸府と改称し、張易之を奉宸令とする。
 太后は内殿で宴会を開く度に武一族や易之とその弟の秘書監昌宗と痛飲してふざけていた。しかし、太后はこれを覆い隠そうと、易之、昌宗と文学の士の李喬等へ、内殿にて三教珠英を学ばせた。
 武三思は、昌宗に王子晋の扮装をさせるよう上奏した。太后は、昌宗を庭中にて木鶴に乗せ、羽衣を着せて笙を吹かせた。文士は皆、詩を作って、これを讃えた。
 太后は又、美少年を大勢選んで奉宸内供奉とした。右補闕の朱敬則が諫めた。
「陛下の寵臣は易之と昌宗で充分ではありませんか。最近では右監門衛長史侯祥等が公然と寵愛されていると聞きますが、まだ恥を知らずに奉宸内供奉まで造り、無礼無儀が朝廷に溢れています。臣の職務は諫争です。敢えて奏上せずにはいられません。」
 太后は、これを労って言った。
「卿の直言がなければ、朕は気がつかなかった。」
 そして、綏百段を賜った。
 易之と昌宗は豪奢を競い合った。
 彼等の弟の昌儀は洛陽令で、彼が人事を請願すると必ず通った。
 ある朝、薛とゆう選人が、彼の馬を引き寄せて金五十両と自薦状を渡した。昌儀は金を受け取って、朝堂へ着くと、自薦状を天官侍郎の張錫へ渡した。数日後、錫は自薦状を紛失したので昌儀へ誰だったか尋ねると、昌儀は罵って言った。
「手遅れだ!俺も記録していない。こうなったら、薛という男全員を任官せよ。」
 錫は懼れ、名簿に載っている薛姓の者六十余人を全て官吏とした。
 錫は、文瓘の兄の子である。
 13初,契丹將李楷固,善用榻索及騎射、舞槊,毎陷陳,如鶻入烏羣,所向披靡。黄麞之戰,張玄遇、麻仁節皆爲所榻。又有駱務整者,亦爲契丹將,屢敗唐兵。及孫萬榮死,二人皆來降。有司責其後至,奏請族之。狄仁傑曰:「楷固等並驍勇絶倫,能盡力於所事,必能盡力於我。若撫之以德,皆爲我用矣。」奏請赦之。所親皆止之,仁傑曰:「苟利於國,豈爲身謀!」太后用其言,赦之。又請與之官,太后以楷固爲左玉鈐衞將軍,務整爲右武威衞將軍,使將兵撃契丹餘黨,悉平之。
13.契丹の将李楷固は、 索・騎射・槊が巧く、敵陣へ突入した時は、まるで烏の群の中で暴れ回る隼のようで、誰もがなぎ倒された。黄麞の戦役では、張玄遇も麻仁節も彼にしてやられた。又、駱務整もまた契丹で将となり、しばしば唐軍を破った。
 孫万栄が死ぬと、二人とも来降した。役人は、彼等の降伏が遅すぎたことを責め、一族殲滅を請うた。すると、狄仁傑が言った。
「楷固等は驍勇絶倫。そのうえ主人には力を尽くして仕えました。ですから、我等の為にも、必ず力を尽くしてくれます。もしも彼等を徳で慰撫すれば、我等の役に立ちます。」
 そして、彼等を赦すよう上奏した。
 狄仁傑と親しい者は、皆、これを止めたけれども、仁傑は言った。
「いやしくも国に利益があるのなら、なんでわが身を顧みようか!」
 太后は、彼の意見を容れ、彼等を赦した。
 又、彼等へ官位を与えるよう請うと、太后は楷固を左玉今衛将軍、務整を右武威衛将軍に任命した。彼等へ契丹の残党を攻撃させ、悉く平定した。

通鑑邦訳計画トップへ巻第二百七