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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百五
 唐紀二十一
  則天順聖皇后中之上
長壽元年(壬辰、六九二)

 正月,戊辰朔,太后享萬象神宮。
1.正月、戊申朔、太后が万象神宮にて享ける。
 臘月,立故于闐王尉遲伏闍雄之子瑕爲于闐王。
2.臘月、もとの于闐王尉遅伏闍雄の子の瑕を于闐王として立てた。
 春,一月,丁卯,太后引見存撫使所舉人,無問賢愚,悉加擢用,高者試鳳閣舎人、給事中,次試員外郎、侍御史、補闕、拾遺、校書郎。試官自此始。時人爲之語曰:「補闕連車載,拾遺平斗量;欋推侍御史,盌脱校書郎。」有舉人沈全交續之曰:「[麥胡]心存撫使,眯目聖神皇。」爲御史紀先知所擒,劾其誹謗朝政,請杖之朝堂,然後付法,太后笑曰:「但使卿輩不濫,何恤人言!宜釋其罪。」先知大慚。太后雖濫以祿位收天下人心,然不稱職者,尋亦黜之,或加刑誅。挾刑賞之柄以駕御天下,政由己出,明察善斷,故當時英賢亦競爲之用。
3.春、一月、丁卯、太后が存撫使の推挙した者を謁見し、賢愚を問わずに悉く抜擢した。官位の高い者は試鳳閣舎人、給事中とし、次は試員外郎、侍御史、補闕、捨遺、校書郎とした。試官はこれから始まった。時人はこれについて言った。
「補闕は車に載せるほど、捨遺は升で量るほど居る。侍御史も校書郎も     」(翻訳できませんでした。多分、役人が沢山いるとゆう風刺でしょう)
 沈全交とゆう挙人が、これに続けた。
「心は存撫使にべっとりとくっつき、聖皇帝など眼中にない。」
 御史の紀先知が全交を捕らえ、朝政を誹謗したと弾劾し、朝堂にて杖打ってから裁判に掛けるよう請うた。すると、太后は笑って言った。
「卿等を乱用しなければ、なんと自由に喋れることか!その罪は赦しなさい。」
 先知は大いに恥じ入った。
 太后は棒禄や官位で天下の人心を収めたが、職務に就いて無能だった者はすぐに降格したり刑誅を加えたりした。刑賞の柄は自分で握り天下を操る。政は己で行い明察で決断力があった。だから、当時の英賢が争って太后のために働いたのだ。
(訳者、曰く。シベリア送りだの粛清だのと人権蹂躙が横行したソビエトで、官僚や書記長を嘲り笑う諧謔が流行ったことを思えば、これだけ大勢の人間が誅殺された時代にも、官位の低い人間や民間人はけっこう風刺を喜んでいたのでしょうね。ただ、来俊臣が独断で人を殺していった部分とは、少し矛盾するような気がします。則天武后については、悪い記事は少し割り引いて考えた方がいいと思うのですが。)
 寧陵丞廬江郭霸以諂諛干太后,拜監察御史。中丞魏元忠病,霸往問之,因嘗其糞,喜曰:「大夫糞甘則可憂;今苦,無傷也。」元忠大惡之,遇人輒告之。
4.寧陵丞の廬江の郭覇は、阿諛追従で太后に仕え、監察御史を拝受した。中丞の魏元忠が病気になると、覇は見舞いに行き、元忠の糞を舐めて、喜んで言った。
「大夫の糞が甘ければ憂うべきですが、これは苦い。病状は軽いですぞ。」
 元忠は露骨な追従を憎み、会う人毎にこの話を語った。
(”呉王夫差が病気になった時、奴隷にされていた句踐は、医者へ病状を教えるためにその尿を飲んだ”とゆう話を読んだことがあります。案外、このエピソードが出典かも。)
 戊辰,以夏官尚書楊執柔同平章事。執柔,恭仁弟之孫也,太后以外族用之。
5.戊辰、夏官尚書楊執柔を同平章事とした。執柔は恭仁の弟の孫である。太后は、外族なので彼を用いた。
 初,隋煬帝作東都,無外城,僅有短垣而已,至是,鳳閣侍郎李昭德始築之。
6.隋の煬帝が東都を造った時、外城はなく、わずかに短垣があっただけだった。ここにいたって、鳳閣侍郎李昭徳が始めてこれを築いた。
 左臺中丞來俊臣羅告同平章事任知古、狄仁傑、裴行本、司禮卿崔宣禮、前文昌左丞盧獻、御史中丞魏元忠、潞州刺史李嗣眞謀反。先是,來俊臣奏請降敕,一問即承反者得減死。及知古等下獄,俊臣以此誘之,仁傑對曰:「大周革命,萬物惟新,唐室舊臣,甘從誅戮。反是實!」俊臣乃少寬之。判官王德壽謂仁傑曰:「尚書定減死矣。德壽業受驅策,欲求少階級,煩尚書引楊執柔,可乎?」仁傑曰:「皇天后土遣狄仁傑爲如此事!」以頭觸柱,血流被面;德壽懼而謝之。
  侯思止鞫魏元忠,元忠辭氣不屈;思止怒,命倒曳之。元忠曰:「我薄命,譬如墜驢,足絓於鐙,爲所曳耳。」思止愈怒,更曳之,元忠曰:「侯思止,汝若須魏元忠頭則截取,何必使承反也!」
  狄仁傑既承反,有司待報行刑,不復嚴備。仁傑裂衾帛書冤状,置綿衣中,謂王德壽曰:「天時方熱,請授家人去其綿。」德壽許之。仁傑子光遠得書,持之告變,得召見。則天覽之,以問俊臣,對曰:「仁傑等下獄,臣未嘗褫其巾帶,寢處甚安,苟無事實,安肯承反!」太后使通事舎人周綝往視之,俊臣暫假仁傑等巾帶,羅立於西,使綝視之;綝不敢視,唯東顧唯諾而已。俊臣又詐爲仁傑等謝死表,使綝奏之。
  樂思晦男未十歳,沒入司農,上變,得召見。太后問状,對曰:「臣父已死,臣家已破,但惜陛下法爲俊臣等所弄,陛下不信臣言,乞擇朝臣之忠清、陛下素所信任者,爲反状以付俊臣,無不承反矣。」太后意稍寤,召見仁傑等,問曰:「卿承反何也?」對曰:「不承,則已死於拷掠矣。」太后曰:「何爲作謝死表?」對曰:「無之。」出表示之,乃知其詐,於是出此七族。庚午,貶知古江夏令,仁傑彭澤令,宣禮夷陵令,元忠涪陵令,獻西郷令;流行本、嗣眞于嶺南。
  俊臣與武承嗣等固請誅之,太后不許。俊臣乃獨稱行本罪尤重,請誅之;秋官郎中徐有功駁之,以爲:「明主有更生之恩,俊臣不能將順,虧損恩信。」
  殿中侍御史貴郷霍獻可,宣禮之甥也,言於太后曰:「陛下不殺裴宣禮,臣請隕命於前。」以頭觸殿階,血流霑地,以示爲人臣不私其親。太后皆不聽。獻可常以綠帛裹其傷,微露之於幞頭下,冀太后見之以爲忠。
7.同平章事任知古、狄仁傑、裴行本、司禮卿崔宣礼、前の文昌左丞盧献、御史中丞魏元忠、路潞州刺史李嗣真が造反を謀ったと、左台中丞来俊臣が告発した。  これ以前に、来俊臣の請願により、造反をすぐに認めた者は死一等を減じるとゆう敕が下っていた。知古等が投獄されると、俊臣はこの敕を盾に自白を誘った。すると、仁傑は言った。 「大周の革命により、唐室の旧臣は甘んじて誅殺を受けた。造反は事実だ!」
 俊臣は、少し厳しさを緩めた。
 判官王徳寿が仁傑へ言った。
「尚書は多分死刑を免れます。徳寿は捕縛を生業としているのですが、もう少し出世がしたいのです。尚書、楊執柔を引き込んでくださいませんかね?」
 仁傑は言った。
「天はこんな事をさせる為に仁傑を生んだのか!」
 そして、柱へ頭を打ちつけた。顔面が血潮で染まる。徳寿は懼れて謝った。
 侯思止は魏元忠を尋問した。元忠は堂々とした態度で屈服しない。思止は怒り、部下へ引きずり倒させた。元忠は言った。
「我が不運は、まるで驢馬から落ちたようなものだ。足が鐙に引っかかり、曳かれて行くだけ。」
 思止はいよいよ怒り、更にこれを曳かせた。元忠は言った。
「侯思止、お前がもし魏元忠の頭を必要ならば、サッサと取って行けばいいのだ。何で謀反を自白させる必要があるのだ!」
 狄仁傑が謀反を自白すると、役人達は刑を執行するまで警備がおろそかになった。仁傑は衾帛を裂いて冤状を書き、これを綿衣の中へ入れて王徳寿へ言った。
「今は暑い季節だ。この綿を家人へ持って帰らせてくれ。」
 徳寿が許諾したので、仁傑の子の光遠が書を入手できた。彼はそれを持って変事を告げ、謁見できた。その書を読んだ太后が俊臣を詰問すると、俊臣は言った。
「仁傑等を投獄した時、彼はその巾帯を身につけていませんでした。家族の捏造です。尋問は緩やかなもの。事実でなければ、なんで自白しましょうか!」
 太后は、通事舎人周綝へ様子を見に行かせた。俊臣は巾帯を西側に並べて仁傑等の巾帯だと偽ったが、綝はそっぽを向いて行き過ぎた。俊臣は又、仁傑等が「謝死表」を書いたと言って、これを周綝へ渡して上奏させた。
 楽思晦の十歳にも満足りない息子が、司農省の官奴となっていたが、謁見を求めて許諾された。太后が有様を聞くと、彼は言った。
「臣の父は既に死に、臣の家はもう破れています。ただ、陛下の法が俊臣等から弄ばれているのを惜しむのです。陛下が臣の言葉を信じないのなら、忠清で陛下が普段から信任している朝臣を選んで、彼が造反したとゆう密告状を造って俊臣へ渡してください。誰であろうとも、必ず自白してしまいます。」
 太后はようやく悟り始め、仁傑等を召し出すと、問うた。
「卿はどうして謀反したのか?」
 対して言った。
「承認しなければ、拷問で殺されたでしょう。」
「どうして『謝死表』など書いたのだ?」
「そんなもの、書いていません。」
 そこで表を出して見せ、これが偽物だと判明した。ここにおいて、この七族を出獄させる。
 庚午、知古を江夏令、仁傑を彭澤令、宣禮を夷陵令、元忠を涪陵令、献を西郷禮へ左遷し、行本と嗣真を禮南へ流す。
 俊臣と武承嗣等は、彼等を誅殺するよう固く請うたが、太后は許さない。すると俊臣は、行本は罪状がとても重いので、彼だけは誅殺するよう請うた。秋官郎中徐有功は、これへ対して判じた。
「明主が更生の恩を与えたのに、俊臣はこれを素直に遂行しない。恩信を汚し損なう行いだ。」
 殿中侍御史の貴郷の霍献可は、宣禮の甥である。彼は太后へ言った。
「陛下が崔宣禮を殺さなければ、臣はここにて命を捨てて見せます。」
 そして頭を階段へ打ち付けてた。血が流れて地を塗らす。彼はこうやって、人臣が私情に曳かれないことを示したのだが、太后は皆、聞かなかった。
 献可はこれ以来、この時の傷跡をいつも緑帛で覆い、頭を階段へ打ち付けた出来事を誇示した。太后がこれを見て忠義者と思ってくれることを冀ったのである。
 甲戌,補闕薛謙光上疏,以爲:「選舉之法,宜得實才,取捨之間,風化所繋。今之選人,咸稱覓舉,奔競相尚,諠訴無慚。至於才應經邦,惟令試策;武能制敵,止驗彎弧。昔漢武帝見司馬相如賦,恨不同時,及置之朝廷,終文園令,知其不堪公卿之任故也。呉起將戰,左右進劍,起曰:『將者提鼓揮桴,臨敵決疑,一劍之任,非將事 也。』然則虚文豈足以佐時,善射豈足以克敵!要在文吏察其行能,武吏觀其勇略,考居官之臧否,行舉者賞罰而已。」
8.甲戌、補闕の薛謙光が上疏した。その大意は、
「選挙の法は才能のある者を得るのに適切でしたが、長い時間がたつ内に腐敗しました。今の人選は、あるいは挙人を捜すと称して、高尚な文章を競い合い、止まるところがありません。経国の才覚に至っては、ただ試しに策を述べさせるだけ。武人の敵を制する能力は、ただ弓を試験するだけです。昔、漢の武帝は司馬相如の文章に感嘆し、彼が同時代の人間ではないことを恨みました。後に、彼がまだ生きている人間だと判ると朝廷に置きましたが、その官位は文園令どまりでした。彼が公卿の任務に堪えられないことを知ったからです。呉起が戦争しようとした時、左右が剣を進めると、起は言いました。『将は鼓を打って全軍を指揮するのだ。敵に臨んで決戦する一剣の任務は、将軍の仕事ではない。』それならば、虚文がどうして世俗を助けましょうか。射撃の腕で、敵を制圧することができましょうか。大切なことは文吏がその行動や能力を察することです。武吏がその勇気計略を観ることです。居官の評価を考えて、推挙人への賞罰を決めるべきです。」
 來俊臣求金於左衞大將軍泉獻誠,不得,誣以謀反,下獄,乙亥,縊殺之。
9.来俊臣が左衛大将軍泉献誠へ金を求めたが、断られた。そこで謀反と誣て投獄した。乙亥、これを縊り殺した。
 10庚辰,司刑卿、檢校陝州刺史李游道爲冬官尚書、同平章事。
10.庚辰、司刑卿、検校陜州刺史李游道を冬官尚書、同平章事とした。
 11二月,己亥,吐蕃党項部落萬餘人内附,分置十州。
11.二月、己亥、吐蕃の党項部落万余人が帰順した。十州を分置した。
 12戊午,以秋官尚書袁智弘同平章事。
12.戊午、秋官尚書袁智弘を同平章事とした。
 13夏,四月,丙申,赦天下,改元如意。
13.夏、四月、丙申、天下へ恩赦を下し、如意と改元した。
 14五月,丙寅,禁天下屠殺及捕魚蝦。江淮旱,饑,民不得采魚蝦,餓死者甚衆。
  右拾遺張德,生男三日,私殺羊會同僚,補闕杜肅懷一餤,上表告之。明日,太后對仗,謂德曰:「聞卿生男,甚喜。」德拜謝。太后曰:「何從得肉?」德叩頭服罪。太后曰:「朕禁屠宰,吉凶不預。然卿自今召客,亦須擇人。」出肅表示之。肅大慚,舉朝欲唾其面。
14.五月、丙寅、天下の屠殺及び魚蝦の捕獲を禁止した。
 江淮が旱で飢饉となったが、民は魚や蝦を捕れなかったので、大勢が餓死した。
 右拾遣張徳は、男児が生まれて三日目に、私的に羊を殺して同僚へ振る舞った。補闕杜粛は、その一つを懐に入れて上表して告発した。翌日、太后は仗を準備して徳へ言った。
「卿に男児が生まれたと聞きます。大変目出度い。」
 徳は拝謝した。
 太后は言った。
「どうやって肉を手に入れたのですか?」
 徳は叩頭して罪に伏した。すると、太后は言った。
「朕は屠殺を禁じたが、吉凶は別です。ただ、卿はこれ以後、客を招くときによく人を選ぶ事ですね。」
 そして、粛の表を見せた。粛は大いに恥じ入った。朝廷の士は、皆がその顔へ唾を吐きつけたいほど蔑んだ。
(生類憐れみの令は、中国にもあったのですね)
 15吐蕃酋長曷蘇帥部落請内附,以右玉鈐衞將軍張玄遇爲安撫使,將精卒二萬迎之。六月,軍至大渡水西,曷蘇事洩,爲國人所擒。別部酋長昝捶帥羌蠻八千餘人内附,玄遇以其部落置萊川州而還。
15.吐蕃の酋長曷蘇が部落を率いて帰順を請うた。右玉今衛将軍張玄遇を安撫使とし、二万の精鋭兵を与えてこれを迎える。
 六月、軍が大渡水の西に到着した頃、曷蘇の謀が漏洩し、国人達の擒となった。別部の酋長昝捶が羌蛮八千余人を率いて帰順した。玄遇は、その部落に莱川州を置いて帰還した。
 16辛亥,萬年主簿徐堅上疏,以爲:「書有五聽之道,令著三覆之奏。竊見比有敕推按反者,令使者得實,即行斬決。人命至重,死不再生,萬一懷枉,呑聲赤族,豈不痛哉!此不足肅姦逆而明典刑,適所以長威福而生疑懼。臣望絶此處分,依法覆奏。又,法官之任,宜加簡擇,有用法寬平,爲百姓所稱者,願親而任之;有處事深酷,不允人望者,願疏而退之。」堅,齊耼之子也。
16.辛亥、萬年の主簿徐堅が上疏した。その大意は、
「書には五聴の道が記載されており、本朝には三覆の奏の制度があります。ですが、近年の敕での按反には、証拠が挙がれば即時斬決させることが屡々見られます。人命は至重であり、死んだ人間は二度と生き返らないのです。万が一にも冤罪がおこり、それで一族を誅滅させることとなれば、何と痛ましいではありませんか!この敕は、姦逆を抑えつけて刑典を明らかにすることには何の役にも立たず、ただいたずらに酷吏の権威を増長させて人々へ疑懼を生み出すだけにすぎません。臣は、この処分を根絶させ、法規通りに覆奏させるよう望みます。また、法官は、簡択を加え法を寛大公平に用いて百姓から称賛される人間を用いるべきです。どうかそのように人へ親しんで任せられてください。とことん残酷に処置して人々から忌み嫌われている者は、どうか疎遠にして退けてください。」
 堅は斉耼の子息である。
 17夏官侍郎李昭德密言於太后曰:「魏王承嗣權太重。」太后曰:「吾姪也,故委以腹心。」昭德曰:「姪之於姑,其親何如子之於父?子猶有簒弑其父者,況姪乎!今承嗣既陛下之姪,爲親王,又爲宰相,權侔人主,臣恐陛下不得久安天位也!」太后矍然曰:「朕未之思。」秋,八月,戊寅,以文昌左相、同鳳閣鸞臺三品武承嗣爲特進,納言武攸寧爲冬官尚書,夏官尚書、同平章事楊執柔爲地官尚書,並罷政事;以秋官侍郎新鄭崔元綜爲鸞臺侍郎,夏官侍郎李昭德爲鳳閣侍郎,檢校天官侍郎姚璹爲文昌左丞,檢校地官侍郎李元素爲文昌右丞,與司賓卿崔神基並同平章事。璹,思廉之孫;元素,敬玄之弟也。辛巳,以營繕大匠王璿爲夏官尚書、同平章事。承嗣亦毀昭德於太后,太后曰:「吾任昭德,始得安眠,此代吾勞,汝勿言也。」
  是時,酷吏恣橫,百官畏之側足,昭德獨廷奏其姦。太后好祥瑞,有獻白石赤文者,執政詰其異,對曰:「以其赤心。」昭德怒曰:「此石赤心,他石盡反邪?」左右皆笑。襄州人胡慶以丹漆書龜腹曰:「天子萬萬年。」詣闕獻之。昭德以刀刮盡,奏請付法。太后曰:「此心亦無惡。」命釋之。
  太后習貓,使與鸚鵡共處,出示百官,傳觀未遍,貓飢,搏鸚鵡食之,太后甚慚。
  太后自垂拱以來,任用酷吏,先誅唐宗室貴戚數百人,次及大臣數百家,其刺史、郎將以下,不可勝數。毎除一官,戸婢竊相謂曰:「鬼朴又來矣。」不旬月,輒遭掩捕、族誅。監察御史朝邑嚴善思,公直敢言。時告密者不可勝數,太后亦厭其煩,命善思按問,引虚伏罪者八百五十餘人。羅織之黨爲之不振,乃相與共構陷善思,坐流驩州。太后知其枉,尋復召爲渾儀監丞。善思名譔,以字行。
  右補闕新鄭朱敬則以太后本任威刑以禁異議,今既革命,衆心已定,宜省刑尚寬,乃上疏,以爲:「李斯相秦,用刻薄變詐以屠諸侯,不知易之以寬和,卒至土崩,此不知變之禍也。漢高祖定天下,陸賈、叔孫通説之以禮義,傳世十二,此知變之善也。自文明草昧,天地屯蒙,三叔流言,四凶構難,不設鉤距,無以應天順人,不切刑名,不可摧姦息暴。故置神器,開告端,曲直之影必呈,包藏之心盡露,神道助直,無罪不除,蒼生晏然,紫宸易主。然而急趨無善迹,促柱少和聲,向時之妙策,乃當今之芻狗也。伏願覽秦、漢之得失,考時事之合宜,審糟粕之可遺,覺蘧廬之須毀,去萋菲之牙角,頓姦險之鋒芒,窒羅織之源,掃朋黨之迹,使天下蒼生坦然大悅,豈不樂哉!」太后善之,賜帛三百段。
  侍御史周矩上疏曰:「推劾之吏皆相矜以虐,泥耳籠頭,枷研楔穀,摺膺籤爪,懸發薰耳,號曰『獄持』。或累日節食,連宵緩問,晝夜搖撼,使不得眠,號曰『宿囚』。此等既非木石,且救目前,苟求賖死。臣竊聽輿議,皆稱天下太平,何苦須反!豈被告者盡是英雄,欲求帝王邪?但不勝楚毒自誣耳。願陛下察之。今滿朝側息不安,皆以爲陛下朝與之密,夕與之讎,不可保也。周用仁而昌,秦用刑而亡。願陛下緩刑用仁,天下幸甚!」太后頗采其言,制獄稍衰。
17.夏官侍郎李昭徳が密かに太后へ言った。
「魏王承嗣の権威は重すぎます。」
 太后は言った。
「彼は吾が姪だ。だから政務を委ねて腹心としているのだ。」
 昭徳は言った。
「姪と姑の関係は、親子と比べてどうですか?子供でさえ父親を簒弑する事があるのです。ましてや姪ですぞ!今、承嗣は陛下の姪にすぎないのに、親王となり、宰相となって、その権威は人主に等しくなっています。臣は、陛下の天位が久安で居られなくなることを恐れるのです!」
 太后は力強く言った。
「朕は、考えてもいなかった。」
 秋、八月、戊寅、文昌左相、同鳳閣鸞台三品武承嗣を特進とし、納言武攸寧を冬官尚書とし、夏官尚書、同平章事楊執柔を地官尚書とし、全て政事をやめさせた。秋官侍郎の新鄭の崔元宗綜を鸞台侍郎、夏官侍郎李昭徳を鳳閣侍郎、検校天官侍郎姚璹を文昌左丞、検校地官侍郎李元素を文昌右丞とし、司賓卿崔神基と共に同平章事とした。
 璹は思廉の孫、元素は敬玄の弟である。
 辛巳、営繕大匠王璿を夏官侍郎、同平章事とした。
 承嗣が太后へ、昭徳のことを悪く言うと、太后は言った。
「吾は昭徳へ政務を任せてから、始めて安らかに眠れるようになった。これは、彼が吾に代わって苦労してくれているとゆうことだ。汝は、何も言いますな。」
 当時、酷吏が横行しており、百官はこれを畏れ足をそばだてていたが、昭徳ひとり彼等の姦悪を朝廷で奏していた。
 太后は祥瑞を好んだので、赤い模様の入った白石を献上する者が居た。執政がその異様なことを詰ると、献上した者は言い返した。
「これは赤心を示すのです。」
 すると昭徳は怒って言った。
「この石が赤心ならば、それ以外の石は全て邪悪なのか!」
 居並ぶ者は皆、笑った。
 襄州の人胡慶が、漆と丹で亀の腹へ「天子万万年」と書き、闕を詣でて献上した。昭徳はその文字を刀で悉く削り取り、法に照らして処罰するよう奏請した。太后は、「まあ、悪意でやったことではあるまい。」と言い、これを赦すよう命じた。
 太后は猫を良く馴らして、鸚鵡と一緒に住ませた。これを百官に見せたところ、閲覧が終わらないうちに猫は飢え、鸚鵡を捕らえて食べた。太后はとても恥じ入った。
(原文、猫はむじな偏でした。辞書(現代中国語辞典)でひくと、むじな偏でも「猫」を意味するようですが、太后は猫を忌み嫌っていました。粛淑妃の呪いの言葉がありますので。中国では同種の別の動物なのかも知れません。たとえば、猴も猿も日本では同じように「猿」と表記して区別を付けませんが、中国では厳密にわけられているようですし。)
 太后は、垂拱年間以来酷吏を任用した。まず、唐の宗室の貴人親戚を数百人誅殺し、次は大臣数百家へ及び、その刺史、郎将以下誅殺された者は数えることもできなかった。
 官人が一人除名されるたびに、戸婢(宮中の門番をしている官婢)は言い合った。
「鬼朴が又来るぞ。」(”朴”だと意味が判りません。”僕”の間違いでは?)
 そして、一ヶ月も経たないうちに、逮捕・族殺が起こるのだ。
 監察御史の朝邑の厳善思は、直言を敢えて行った。この頃、密告が余りに多く、太后も煩わしくなってきたので、善思に取り調べさせたところ、虚偽の告発の罪に伏した者が八百五十余人にも及んだ。これによって、でっち上げをする輩は一時逼迫したが、彼等は束になって善思を讒言した。善思は罪に陥ちて驩州へ流された。しかし、後に太后はその無実を知り、再び渾儀監丞に任用した。
 右補闕の新鄭の朱敬則は、太后はもともと恐怖政治で異議を禁じたのだが、今、既に革命は終わり衆心も太后の政権を受け入れたので、刑罰を寛大にするべきだと考え、上疏した。その大意は、
「李斯が秦の宰相となり、酷薄変詐で諸侯を屠りました。しかし、彼はその後に政策を寛大に変えませんでしたので、遂に秦は土崩してしまいました。これは時勢に合わせて変わることを知らない禍です。漢の高祖は天下を定めると、陸賈・叔孫通へ礼儀を説かせ、漢は十二世も続きました。これは時勢に合わせて変わることを知った効果です。文明年間に陛下の政治が始まってから、三叔は悪言を流し四凶は造反しました。このような時勢には、鉤や罠を設けなければ天に応じ人に順うことはできませんし、刑罰を厳しくしなければ姦悪を挫くことができません。ですから鉄箱を設置して告発の門を開きました。こうして曲直の影は顕わになりましたし、包み隠されていたものも露呈しました。神道は正しい者を助けますので、罪なき者を罰することもなく、人民の心を騒がすこともなく紫宸殿は主を代えたのです。しかしながら、急ぎ足はつまずきますし、弦を張りつめれば和音が鳴りません。祭祀の時に崇められた飾り物が祭が終われば捨てられるように、当時の妙策は今日では粗大ゴミとなっています。伏してお願い申し上げます。漢・秦の得失を鏡とし、時事への適合を考え、糟粕の遺すべき物をつまびらかにし、テントが長の宿りではないことを覚り、姦険の異姓を挫き罠を布く輩の根元を閉ざし朋党の跡を一掃し、天下の人々を坦然大悦とさせてください。そうなれば、何と素晴らしいではありませんか!」
 太后はこれを善とし、帛三百段を下賜した。
 侍御史周矩も上疏した。
「弾劾を事とする官吏達は皆、残虐を尊び合っております。例えば、被疑者の耳へ泥を詰め頭へ籠を被せ重い首枷や鉄爪でその身を傷つけ髪を吊し耳をいぶす。これを『獄持』と言います。あるいは何日も食べさせず数日続けて尋問し、昼夜揺さぶって眠らせない。これを『宿囚』と言います。これらの拷問を受ければ、木石ではない人間、死ぬことが判っていても目先の救いに飛びつかずにはいられません。しかし、臣が密かに人々の声を聞いてみたところ、皆、天下泰平と称しております。何が苦しくて造反しましょうか!被告の全てが英雄の心を持って帝王になろうとゆう野望に燃えているとでも言うのでしょうか?ただ、拷問が辛くてありもしないことを自ら告白したのです。どうか陛下、これをお察しください。今、朝廷の百官は息を殺してビクビクとしております。陛下のことを、朝に親密にしていた者を夕べには仇のよう見るお方だと思い、いつ誅殺されるかと不安なのです。周は仁を用いて栄え、秦は刑を用いて亡びました。どう貨幣か、刑を緩めて仁を用いてください。そうすれば、天下の大いなる幸いでございます!」
 太后はその言葉を大きく取り上げ、刑罰が緩やかになった。
 18太后春秋雖高,善自塗澤,雖左右不覺其衰。丙戌,敕以齒落更生,九月,庚子,御則天門,赦天下,改元。更以九月爲社。
18.太后は高齢だったけれども、人前ではシャンとしており、近習達へも衰えを感じさせなかった。
 丙戌、歯が抜けてもまだ長生きすると敕した。九月、庚子、則天門へ御幸し、天下へ恩赦を下し、改元した。また、九月を社とする。
 19制於并州置北都。
19.并州へ北都を設置すると制する。
 20癸丑,同平章事李遊道、王璿、袁智弘、崔神基、李元素、春官侍郎孔思元、益州長史任令輝,皆爲王弘義所陷,流嶺南。
20.癸丑、同平章事李遊道、王璿、袁智弘、崔神基、李元素、春官侍郎孔思元、益州長史任令輝が皆、王弘義に陥れられ、嶺南へ流された。
 21左羽林中郎將來子珣坐事流愛州,尋卒。
21.左羽林中郎将来子珣が事件を起こして有罪となり愛州へ流され、そこで卒した。
 22初,新豐王孝傑從劉審禮撃吐蕃爲副總管,與審禮皆沒於吐蕃。贊普見孝傑泣曰:「貌類吾父。」厚禮之,後竟得歸,累遷右鷹揚衞將軍。孝傑久在吐蕃,知其虚實。會西州都督唐休璟請復取龜茲、于闐、疏勒、碎葉四鎭,敕以孝傑爲武威軍總管,與武衞大將軍阿史那忠節將兵撃吐蕃。冬,十月,丙戌,大破吐蕃,復取四鎭,置安西都護府於龜茲,發兵戍之。
22.初め、新豊の王孝傑は劉審礼の麾下で、吐蕃襲撃の副総管となったが、審礼等は皆、吐蕃にて戦死した。この時、贊普は孝傑を見ると泣いて言った。
「お前は、我が父に生き写しだ。」
 そして、これを厚く礼遇した。
 後、孝傑は帰国することができ、官位も累進して右鷹揚衛将軍となった。
 孝傑は長い間吐蕃で暮らしたので、その国情に通じた。西州都督唐休璟が亀茲、于闐、疏勒、砕葉の四鎮を奪還しようと請願すると、孝傑を武威軍総管として武衛大将軍阿史那忠節と共に兵を率いて吐蕃を撃つよう敕が降りた。
 冬、十月、丙戌、吐蕃を大いに破り、四鎮を回復する。亀茲に安西都護府を設置し、派兵してこれを守った。
二年(癸巳、六九三)

 正月,壬辰朔,太后享萬象神宮,以魏王承嗣爲亞獻,梁王三思爲終獻。太后自制神宮樂,用舞者九百人。
1.正月、壬辰朔、太后は万象神宮で享した。魏王承嗣を亜献とし、梁王三思を終献とする。
 太后は、自ら神宮の音楽を作成し、九百人に舞わせた。
 戸婢團兒爲太后所寵信,有憾於皇嗣,乃譖皇嗣妃劉氏、德妃竇氏爲厭呪。癸巳,妃與德妃朝太后於嘉豫殿,既退,同時殺之,瘞於宮中,莫知所在。德妃,抗之曾孫也。皇嗣畏忤旨,不敢言,居太后前,容止自如。團兒復欲害皇嗣,有言其情於太后者,太后乃殺團兒。
  是時,告密者皆誘人奴婢告其主,以求功賞。德妃父孝諶爲潤州刺史,有奴妄爲妖異以恐德妃母龐氏,龐氏懼,奴請夜祠禱解,因發其事。下監察御史龍門薛季昶按之,季昶誣奏,以爲與德妃同祝詛,先涕泣不自勝,乃言曰:「龐氏所爲,臣子所不忍道。」太后擢季昶爲給事中。龐氏當斬,其子希瑊詣侍御史徐有功訟冤,有功牒所司停刑,上奏論之,以爲無罪;季昶奏有功阿黨惡逆,請付法,法司處有功罪當絞。令史以白有功,有功歎曰:「豈我獨死,諸人永不死邪!」既食,掩扇而寢。人以爲有功苟自強,必内憂懼,密伺之,方熟寢。太后召有功,迎謂曰:「卿比按獄,失出何多?」對曰:「失出,人臣之小過;好生,聖人之大德。」太后默然。由是龐氏得減死,與其三子皆流嶺南,孝諶貶羅州司馬,有功亦除名。
2.戸婢の団児は太后から寵信されていた。彼女はある時、皇嗣へ腹を立てた。そこで、皇嗣妃の劉氏と徳妃の竇氏が呪術を使っていると譖した。
 癸巳、妃と徳妃が嘉豫殿にて太后へ挨拶したが、退出すると同時にこれを殺し、宮中に埋めた。誰も、そのありかを知らない。徳妃は抗の曾孫である。
 皇嗣は、太后の意向に逆らうことを畏れ、敢えて何も言わない。太后の前での態度も普通通りだった。団児はまた、皇嗣も殺そうと思ったが、事情を知る者が太后に告げたので、太后は団児を殺した。
 この時、密告者は皆相手の奴婢を抱き込んでその主人を告発し、褒賞を求めた。
 徳妃の父親の孝諶は潤州刺史だったが、彼の奴隷が、徳妃の母親の龐氏を脅そうと、妄りに妖異を起こした。龐氏が懼れたので、奴隷は夜中に祠へ行って呪術を祓うことを請うたが、これが露見した。
 監察御史の龍門の李昶が、この事件を取り調べた。昶は徳妃と同様に呪詛を行っていると誣奏した。彼は、まず、とても悲しげに泣いてから言った。
「龐氏のやったことは、とても臣子のできることではありません。」
 太后は、李昶を給事中へ抜擢した。
 龐氏は斬罪に当たったが、その子息の希瑊が侍御史の徐有功のもとへ出向いて、冤罪を訴えた。有功は刑の執行を延期させ、上奏してこの事件について論じ、無罪を主張した。李昶は、有功が悪逆と結託していると奏し、法に照らして処罰するよう請うた。法司は、有功の罪は絞首刑に相当するとした。
 令吏がこれを有功へ告げると、有功は嘆いて言った。
「吾一人だけが死に、他の人々は永遠に死なないとでも言うのか!」
 そして食事をすると扇を顔に乗せて寝た。人々は、有功は強がりを言っているだけで内心は憂懼しているに決まっていると思い、密かに様子を窺ったが、彼は熟睡していた。
 太后は有功を呼び出すと、迎え入れて言った。
「卿の判決に従うと、大勢の人間を見逃すことになりますね?」
 対して言った。
「罪人を見逃すのは人臣の小過、人が生きて行くのを喜ぶのは聖人の大徳です。」
 太后は黙り込んだ。
 これによって、龐氏は死一等を減じられ、その三人の子息と共に嶺南へ流された。孝甚は羅州司馬へ降格となり、有功も除名された。
 戊申,姚璹奏請令宰相撰時政記,月送史館;從之。時政記自此始。
3.戊申、姚璹が上奏し、宰相へ時政記を選び毎月史館へ送るよう請うた。これに従った。
 時政記は、これから始まった。
 臘月,丁卯,降皇孫成器爲壽春王,恆王成義爲衡陽王,楚王隆基爲臨淄王,衞王隆範爲巴陵王,趙王隆業爲彭城王,皆睿宗之子也。
4.臘月、丁卯、皇孫の成器を寿春王、恒王成義を衡陽王、楚王隆起を臨淄王、衛王隆範、趙王隆業を彭城王に降格させた。皆、睿宗の子息である。
 春,一月,庚子,以夏官侍郎婁師德同平章事。師德寬厚清愼,犯而不校。與李昭德倶入朝,師德體肥行緩,昭德屢待之不至,怒罵曰:「田舎夫!」師德徐笑曰:「師德不爲田舎夫,誰當爲之!」其弟除代州刺史,將行,師德謂曰:「吾備位宰相,汝復爲州牧,榮寵過盛,人所疾也,將何以自免?」弟長跪曰:「自今雖有人唾某面,某拭之而已,庶不爲兄憂。」師德愀然曰:「此所以爲吾憂也!人唾汝面,怒汝也;汝拭之,乃逆其意,所以重其怒。夫唾,不拭自乾,當笑而受之。」
5.春、一月、庚子、夏官侍郎婁師徳を同平章事とした。
 師徳は寛厚清慎な人間で、他人を犯すことはあっても比べることがなかった。
 ある時、師徳は李昭徳と共に入朝した。師徳は肥っていて歩くのが遅かったので、昭徳はしばしば立ち止まって待ったが、なかなかやって来ないので、怒って罵った。
「この田舎者が!」
 すると師徳は静かに笑って、言った。
「師徳は田舎者ではない。そんな振る舞いをしたのは、誰かな?」
 師徳の弟が代州刺史に任命され、任地へ出立しようとした時、師徳は言った。
「吾は宰相なのに、汝まで州牧となった。ここまで栄寵が窮まったら、人々から妬まれる。どうやって禍を避けるつもりか?」
 弟は、跪いて言った。
「人から顔に唾を吐き掛けられても、拭い去るだけにします。だから兄上、どうか憂えないでください。」
 すると師徳は、顔色を変えて言った。
「だからこそ、吾は心配なのだ!人がお前の顔へ唾を吐き掛けるのは、お前へ怒っているからだ。それなのに、その唾を拭ったら、ますます怒りに火を注ぐではないか。唾など、放っておけば乾く。笑って受けなさい。」
 甲寅,前尚方監裴匪躬、内常侍范雲仙坐私謁皇嗣,腰斬於市。自是公卿以下皆不得見。又有告皇嗣潛有異謀者,太后命來俊臣鞫其左右,左右不勝楚毒,皆欲自誣。太常工人京兆安金藏大呼謂俊臣曰:「公既不信金藏之言,請剖心以明皇嗣不反。」即引佩刀自剖其胸,五藏皆出,流血被地。太后聞之,令轝入宮中,使醫内五藏,以桑皮線縫之,傅以藥,經宿始蘇。太后親臨視之,歎曰:「吾有子不能自明,使汝至此。」既命俊臣停推。睿宗由是得免。
6.甲寅、前の尚方監の裴匪躬、内常侍范雲仙が、私的に皇嗣へ拝謁したという罪で、市場にて腰斬となった。これ以後、公卿以下、皆、皇嗣へ拝謁できなくなった。
 又、ある者が、皇嗣が密かに造反を謀んでいると告げた。そこで太后は来俊臣へ、皇嗣の近習達を詰問させた。近習達は苦痛に耐えきれず、皆、自ら偽りの自白をしたが、太常工人の京兆の金藏は、大声で俊臣へ言った。
「公が俊臣の言葉を信じないのなら、心をさらけ出してでも皇嗣が謀反していないことを示してやろう。」
 そして佩刀を引き寄せると自らの胸を裂いた。五臓が皆、流れ出して、大地が血に染まる。
 太后は、これを聞くと、担架で宮中へ運び込ませ、医者へ治療させた。医者が、臓腑を体内へ入れ込んで縫合し、秘伝の薬を使うと、一晩して、藏は蘇生した。
 太后は、自ら対面し、感嘆して言った。
「我が子が、自分で潔白を証明できなかったばかりに、汝をこんな目にあわせてしまった。」
 そして、俊臣へは詰問を中止するよう命じた。
 こうして、睿宗は誅罰を免れた。
 罷舉人習老子,更習太后所造臣軌。
7.挙人に老子を習わせることをやめ、太后が造った臣軌を習わせた。
 二月,丙子,新羅王政明卒,遣使立其子理洪爲王。
8.二月、丙子、新羅王政明が死んだ。使者を派遣して、その子の理洪を王に立てた。
 乙亥,禁人間錦。侍御史侯思止私畜錦,李照德按之,杖殺於朝堂。
9.乙亥、錦を使うことを禁止した。
 侍御史の侯思止が私的に錦を蓄えていた。李昭徳がこれを糾明し、朝堂にて杖で打ち殺した。
 10或告嶺南流人謀反,太后遣司刑評事萬國俊攝監察御史就按之。國俊至廣州,悉召流入,矯制賜自盡。流人號呼不服,國俊驅就水曲,盡斬之,一朝殺三百餘人。然後詐爲反状,還奏,因言諸道流人,亦必有怨望謀反者,不可不早誅。太后喜,擢國俊爲朝散大夫、行侍御史。更遣右翊衞兵曹參軍劉光業、司刑評事王德壽、苑南面監丞鮑思恭、尚輦直長王大貞、右武威衞兵曹參軍屈貞筠皆攝監察御史,詣諸道按流人。光業等以國俊多殺蒙賞,爭效之,光業殺七百人,德壽殺五百人,自餘少者不減百人,其遠年雜犯流人亦與之倶斃。太后頗知其濫,制:「六道流人未死者并家屬皆聽還郷里。」國俊等亦相繼死,或得罪流竄。
10.嶺南の流人が造反を謀てていると、密告する者が居た。そこで太后は、司刑評事萬國俊を摂監察御史として派遣して、糾明させた。
 国俊は、広州まで来ると、流人を全て召集し、制をでっち上げて、全員へ自殺を命じた。流人達は服さずに騒ぎ立てたので、國俊は彼等を水辺へ追い詰め悉く斬り殺した。一朝で三百余人を殺したという。
 その後、国俊は造反の自白をでっち上げ、都へ帰って奏上し、ついでに言った。
「諸道の流人達も必ず怨望して造反するでしょう。早く誅殺しなければいけません。」
 太后は喜び、国俊を朝散大夫、行侍御史に抜擢した。更に、右翊衛兵曹参軍劉光業、司刑評事王徳寿、苑南面監丞鮑思恭、尚輦直長王大貞、右武威衛兵曹参軍屈貞筠を全て摂監察御史として、諸道へ派遣して流人達を糾明させた。
 光業達は、国俊が大勢を殺して賞されたのを見ていたので、争ってこれに倣った。光業は七百人を殺し、徳寿は五百人を殺し、その他の者も、少なくとも百人以上は殺した。この時、遠年雑犯の流人(微罪で長年服役した流人の事か?)も、一緒に殺された。
 太后は、彼等が刑を乱用したことを知り、制を降ろした。
「まだ生きている六道の流人は、家族共々郷里へ帰ってよろしい。」
 国俊等は、相継いで死んだり、罪を得て流罪となったりした。
 11來俊臣誣冬官尚書蘇幹,云在魏州與琅邪王沖通謀,夏,四月,乙未,殺之。
11.来俊臣は、冬官尚書の蘇幹が魏州にいた頃に琅邪王沖と共謀していた、と誣告した。
 夏、四月、乙未、これを殺した。
 12五月,癸丑,棣州河溢。
12.五月、癸丑、棣州で河が氾濫した。
 13秋,九月,丁亥朔,日有食之。
13.秋、九月、丁亥朔、日食が起こった。
 14魏王承嗣等五千人表請加尊號曰金輪聖神皇帝。
  乙未,太后御萬象神宮,受尊號,赦天下。作金輪等七寶,毎朝會,陳之殿庭。
  庚子,追尊昭安皇帝曰渾元昭安皇帝,文穆皇帝曰立極文穆皇帝,孝明高皇帝曰無上孝明高皇帝,皇后從帝號。
14.尊号を金輪聖神皇帝とするよう、魏王承嗣等五千人が上表して請願した。
 乙未、太后は万象神宮へ御幸して尊号を受け、天下へ恩赦を下した。そして、金輪等七宝を造って、朝会のたびにこれを殿庭へ陳列した。
 庚子、昭安皇帝を渾元昭安皇帝、文穆皇帝を立極文穆皇帝、孝明高皇帝を無上孝明高皇帝と追尊した。
 15辛丑,以文昌左丞、同平章事姚璹爲司賓卿,罷政事;以司賓卿萬年豆盧欽望爲内史,文昌左丞韋巨源同平章事,秋官侍郎呉人陸元方爲鸞臺侍郎、同平章事。巨源,孝寬之玄孫也。
15.辛丑、文昌左丞、同平章事姚壽を司賓卿として、政事をやめさせた。司賓卿の万年の豆盧欽望を内史、文昌左丞韋巨源を同平章事、秋官侍郎の呉の人陸元方を鸞台侍郎、同平章事とした。
 巨源は、孝寛の玄孫である。
延載元年(甲午、六九四)

 正月,丙戌,太后享萬象神宮。
1.正月、丙戌、太后が万象神宮で享した。
 突厥可汗骨篤祿卒,其子幼,弟默啜自立爲可汗。臘月,甲戌,默啜寇靈州。
2.突厥の可汗骨篤禄が卒した。その子が幼かったので、弟の黙啜が自ら立って可汗となった。
 臘月、黙啜が霊州へ来寇した。
 室韋反,遣右鷹揚衞大將軍李多祚撃破之。
3.室韋が造反した。(室韋は契丹の一族である。南に住む者を契丹、北に住む者を室韋と言う)右鷹揚衛大将軍李多祚を派遣し、これを撃破する。
 春,一月,以婁師德爲河源等軍檢校營田大使。
4.春、一月、婁師徳を河源等軍検校営田大使とする。
 二月,武威道總管王孝傑破吐蕃[孛攵]論贊刃、突厥可汗俀子等於冷泉及大嶺,各三萬餘人,碎葉鎭守使韓思忠破泥熟俟斤等萬餘人。
5.二月、武威道総管王孝傑が、冷泉と大嶺で、吐蕃の[孛攵]論贊刃と突厥の可汗俀子等各々三万余人を破った。
 砕葉鎮守使韓思忠が泥熟の俟斤等一万余人を破った。
 庚午,以僧懷義爲代北道行軍大總管,以討默啜。
6.庚午、僧懐義を代北道行軍大総管として黙啜を討たせた。
 三月甲申,以鳳閣舎人蘇味道爲鳳閣侍郎、同平章事,李昭德檢校内史,更以僧懷義爲朔方道行軍大總管,以李昭德爲長史,蘇味道爲司馬,帥契苾明、曹仁師、沙吒忠義等十八將軍以討默啜,未行,虜退而止。昭德嘗與懷義議事,失其旨,懷義撻之,昭德惶懼請罪。
7.三月甲申、鳳閣舎人蘇味道を鳳閣侍郎、同平章事とし、李昭徳を検校内史とする。
 僧懐義を朔方道行軍大総管に変更し、楚味道を司馬にして、契苾明、曹仁師、沙吒忠義等十八将軍を率いて黙啜を討たせた。だが、出陣前に虜が退却したので、中止した。
 昭徳が懐義と議論した時、懐義の意向に背いたので、懐義は彼を打った。昭徳は惶懼して罪を請うた。
 夏,四月,壬戌,以夏官尚書、武威道大總管王孝傑同鳳閣鸞臺三品。
8.夏、四月、壬戌、夏官侍郎、武威道大総管王孝傑を同鳳閣鸞台三品とした。
 五月,魏王承嗣等二萬六千餘人上尊號曰越古金輪聖神皇帝。甲午,御則天門樓受尊號,赦天下,改元。
9.五月、魏王承嗣等二万六千余人が越古金輪聖神皇帝という尊号を上へ奉った。
 甲午、太后は則天門の楼へ御幸して尊号を受け、天下へ恩赦を下し、改元した。
 10天授中,遣監察御史壽春裴懷古安集西南蠻。六月,癸丑,永昌蠻酋薰期帥部落二十餘萬戸内附。
10.天授年間、唐は監察御史の寿春の裴懐古を、西南へ派遣して、蛮を安集させていた。
 六月、癸丑、永昌蛮の酋長薫期が部落二十余万戸を率いて唐へ帰属した。
 11河内有老尼居神都麟趾寺,與嵩山人韋什方等以妖妄惑衆。尼自號淨光如來,云能知未然;什方自云呉赤烏年生。又有老胡亦自言五百歳,云見薛師已二百年矣,容貌愈少。太后甚信重之,賜什方姓武氏。秋,七月,癸未,以什方爲正諫大夫、同平章事,制云:「邁軒代之廣成,踰漢朝之河上。」八月,什方乞還山,制罷遣之。
11.河内に年老いた尼がおり、神都の麟趾寺に住んでいた。彼女は嵩山の人韋什方等と共に妖術と広言で大衆を惑わした。
 尼は自ら浄光如来と号し、未来を予知できると言った。什方は呉の赤鳥年間生まれたと言った。また、ある年老いた胡人は自称五百歳。薛師に会ってから二百年経つと言っていたが、容貌はまだ若かった。
 太后は、彼等を大変重んじて、什方に武氏の姓を下賜した。
 秋、七月、癸未、什方を正諫大夫、同平章事として、制を下した。
「黄帝の頃の広成を凌ぎ、漢代の河上を越える(広成子と河上公。共に仙人)。」
 八月、什方が山へ帰ることを乞うたので、制にて官職をやめさせ、帰した。
 12戊辰,以王孝傑爲瀚海道行軍總管,仍受朔方道行軍大總管薛懷義節度。
12.戊辰、王孝傑を瀚海道行軍総管として、朔方道行軍大総管薛懐義の指揮下へ入れた。
 13己巳,以司賓少卿姚璹爲納言;左肅政中丞原武楊再思爲鸞臺侍郎,洛州司馬杜景儉爲鳳閣侍郎,並同平章事。
  豆盧欽望請京官九品已上輸兩月俸以贍軍,轉帖百官,令拜表。百官但赴拜,不知何事。拾遺王求禮謂欽望曰:「明公祿厚,輸之無傷;卑官貧迫,奈何不使其知而欺奪之乎?」欽望正色拒之。既上表,求禮進言曰:「陛下富有四海,軍國有儲,何藉貧官九品之俸而欺奪之!」姚璹曰:「求禮不識大體。」求禮曰:「如姚璹,爲識大體者邪!」事遂寢。
13.己巳、司賓少卿姚璹を納言とした。左粛政中丞の原武の楊再思を鸞台侍郎、洛州司馬の杜景倹を鳳閣侍郎として、共に同平章事とした。
 豆盧欽望が、京官の九品以上の官吏へ棒給二ヶ月分を返上させて軍へ回すよう請い、百官へ表を転示して同意させた。百官は、ただ命令に従って表の前に赴いて同意したが、それが何を意味するのか知らなかった。
 拾遺の王求礼が欽望へ言った。
「卿は禄が多いから、少しぐらい返上しても平気だろうが、卑官の者は貧苦に迫られている。それなのに、何も知らせず欺いて奪うのか?」
 欽望は顔色を変えて否定した。
 これが上表されると求礼は進言した。
「陛下は四海の富をお持ちですし、軍にも棒給があります。どうして九品のような貧官を欺いて、その俸給を奪うのですか!」
 姚璹は言った。
「求礼は大体を知らぬのです。」
 求礼は言った。
「姚璹如きが、なんで大体を知っているか!」
 この事は、遂に中止となった。
 14戊寅,鸞臺侍郎、同平章事崔元綜坐事流振州。
14.戊寅、鸞台侍郎、同平章事の崔元綜が罪に触れて振州へ流された。
 15武三思帥四夷酋長請鑄銅鐵爲天樞,立於端門之外,銘紀功德,黜唐頌周;以姚璹爲督作使。諸胡聚錢百萬億,買銅鐵不能足,賦民間農器以足之。
15.武三思が四夷の酋長を率い、請うた。
「銅鉄で天枢を鋳造し、端門の外に立て、功徳を銘記しましょう。唐を黜き周を頌するのです。」
 そして、姚璹へ監督させた。
 諸胡は百萬億の銭をかき集めて銅鉄を買ったが、足りなかった。そこで民間から農具を取り上げて充当した。
 16九月,壬午朔,日有食之。
16.九月、壬午朔、日食が起こった。
 17殿中丞來俊臣坐贓貶同州參軍。王弘義流瓊州,詐稱敕追還,至漢北,侍御史胡元禮遇之,按驗,得其姦状,杖殺之。
  内史李昭德恃太后委遇,頗專權使氣,人多疾之,前魯王府功曹參軍丘愔上疏攻之,其略曰:「陛下天授以前,萬機獨斷。自長壽以來,委任昭德,參奉機密,獻可替否;事有便利,不預咨謀,要待畫日將行,方乃別生駁異。揚露專擅,顯示於人,歸美引愆,義不如此。」又曰:「臣觀其膽,乃大於身,鼻息所衝,上拂雲漢。」又曰:「蟻穴壞隄,針芒寫氣,權重一去,收之極難。」長上果毅鄧注,又著石論數千言,述昭德專權之状。鳳閣舎人逄弘敏取奏之,太后由是惡昭德。壬寅,貶昭德爲南賓尉,尋又免死流竄。
17.殿中丞来俊臣が収賄の罪で同州参軍へ左遷された。王弘義も、瓊州へ流された。
 王弘義は、途中で敕を捏造し、都へ呼び戻されたと言い、引き返した。その途中、漢北にて侍御史胡元礼に会った。胡元礼は、その件を吟味して姦状を見破り、王弘義を杖殺した。
 内史李昭徳は太后の信任を恃み専横に振る舞ったので、大勢の人がこれを憎んだ。前の魯王府功曹参軍の丘愔が上疏して、これを責めた。その大略は、
「陛下は、天授以前は万機を独断しておられました。しかし、長寿以来は昭徳に委任しております。機密へ参与させて可否を決定させるのみか、利便に流されて諮謀に関わらない時でさえ傍らに侍らせておりますが、これではあらぬ疑いを持たれてしまいます。昭徳は、自分が専断していることを他人へ見せつけて、政策の成功は自分の手柄として失敗は主君のせいにしております。これは臣下としての義ではありません。」
 又、言う。
「昭徳の肝は体より太く、鼻息は天上の雲でさえ吹き払うように思えます。」
 又、言う。
「蟻の穴が堤を壊し、ススキの針も怒りを写します。権は大切な物で、一度なくしたら再び得難いのです。」
 長上果毅の鄧注も、数千言にも及ぶ「石論」を書き、昭徳の専権の有様を述べた。鳳閣舎人逄弘敏がこれを取り上げて上奏した。太后は、これによって昭徳を憎んだ。
 壬寅、昭徳を南賓尉へ降格し、やがて死一等を減じて流罪とした。
 18太后出黎花一枝以示宰相,宰相皆以爲瑞。杜景儉獨曰:「今草木黄落,而此更發榮,陰陽不時,咎在臣等。」因拜謝。太后曰:「卿眞宰相也!」
18.太后が黎花の一枝を宰相へ見せた。宰相達は皆、瑞兆としたが、杜景倹だけは言った。
「今、草木は黄落している季節ですのに、これはこのように溌剌としています。これは、天候が不順だということ。これは臣等の咎でございます。」
 そして、拝謝した。
 太后は言った。
「卿こそ、真の宰相だ!」
 19冬,十月,壬申,以文昌右丞李元素爲鳳閣侍郎,左肅政中丞周允元檢校鳳閣侍郎,並同平章事。允元,豫州人也。
19.冬、十月、壬申、文昌右丞李元素を鳳閣侍郎とし、左粛政中丞周允元を検校鳳閣侍郎とし、共に同平章事とした。允元は、豫州の人である。
 20嶺南獠反,以容州都督張玄遇爲桂、永等州經略大使以討之。
20.嶺南の獠が造反した。容州都督張玄遇を桂、永州等の経略大使として、これを討伐させた。
天冊萬歳元年(乙未、六九五)

 正月,辛巳朔,太后加號慈氏越古金輪聖神皇帝,赦天下,改元證聖。
1.正月、辛巳朔、太后は、慈氏越古金輪聖神皇帝と称号を加えた。天下へ恩赦を下し、証聖と改元した。
 周允元與司刑少卿皇甫文備奏内史豆盧欽望、同平章事韋巨源、杜景儉、蘇味道、陸元方附會李昭德,不能匡正,欽望貶趙州,巨源貶麟州,景儉貶溱州,味道貶集州,元方貶綏州刺史。
2.周允元と司刑少卿皇甫文備が、「内史豆盧欽望、同平章事韋巨源、杜景倹、蘇味道、陸元方は李昭徳に諂っており、矯正できません。」と上奏した。欽望は趙州へ、巨源は麟州へ、景倹は溱州へ、味道は集州へ、元方は綏州刺史へ、それぞれ左遷された。
 初,明堂既成,太后命僧懷義作夾紵大像,其小指中猶容數十人,於明堂北構天堂以貯之。堂始構,爲風所摧,更構之,日役萬人,采木江嶺,數年之間,所費以萬億計,府藏爲之耗竭。懷義用財如糞土,太后一聽之,無所問。毎作無遮會,用錢萬緡;士女雲集,又散錢十車,使之爭拾,相蹈踐有死者。所在公私田宅,多爲僧有。懷義頗厭入宮,多居白馬寺,所度力士爲僧者滿千人。侍御史周矩疑有姦謀,固請按之。太后曰:「卿姑退,朕即令往。」矩至臺,懷義亦至,乘馬就階而下,坦腹於牀。矩召吏將按之,遽躍馬而去。矩具奏其状,太后曰:「此道人病風,不足詰,所度僧,惟卿所處。」悉流遠州。遷矩天官員外郎。
  乙未,作無遮會於明堂,鑿地爲阬,深五丈,結綵爲宮殿,佛像皆於阬中引出之,云自地湧出。又殺牛取血,畫大像,首高二百尺,云懷義刺膝血爲之。丙申,張像於天津橋南,設齋。時御醫沈南璆亦得幸於太后,懷義心慍,是夕,密燒天堂,延及明堂。火照城中如晝,比明皆盡,暴風裂血像爲數百段。太后恥而諱之,但云内作工徒誤燒麻主,遂渉明堂。時方酺宴,左拾遺劉承慶請輟朝停酺以答天譴,太后將從之。姚璹曰:「昔成周宣榭,卜代愈隆;漢武建章,盛德彌永。今明堂布政之所,非宗廟也,不應自貶損。」太后乃御端門,觀酺如平日。命更造明堂、天堂,仍以懷義充使。又鑄銅爲九州鼎及十二神,皆高一丈,各置其方。
  先是,河内老尼晝食一麻一米,夜則烹宰宴樂,畜弟子百餘人,淫穢靡所不爲。武什方自言能合長年藥,太后遣乘驛於嶺南采藥。及明堂火,尼入唁太后,太后怒叱之,曰:「汝常言能前知,何以不言明堂火?」因斥還河内,弟子及老胡等皆逃散。又有發其姦者,太后乃復召尼還麟趾寺,弟子畢集,敕給使掩捕,盡獲之,皆沒爲官婢。什方還,至偃師,聞事露,自絞死。
  庚子,以明堂火告廟,下制求直言。劉承慶上疏,以爲:「火發既從麻主,後及總章,所營佛舎,恐勞無益,請罷之。又,明堂所以統和天人,一旦焚毀,臣下何心猶爲酺宴!憂喜相爭,傷於情性。又,陛下垂制博訪,許陳至理,而左史張鼎以爲今既火流王屋,彌顯大周之祥,通事舎人逄敏奏稱,彌勒成道時有天魔燒宮,七寶臺須臾散壞,斯實諂妄之邪言,非君臣之正論。伏願陛下乾乾翼翼,無戻天人之心而興不急之役,則兆人蒙賴,福祿無窮。」
  獲嘉主簿彭城劉知幾表陳四事:其一,以爲:「皇業權輿,天地開闢,嗣君即位,黎元更始,則時藉非常之慶以申再造之恩。今六合清晏而赦令不息,近則一年再降,遠則毎歳無遺,至於違法悖禮之徒,無賴不仁之輩,編戸則寇攘爲業,當官則贓賄是求。而元日之朝,指期天澤,重陽之節,佇降皇恩,如其忖度,咸果釋免。或有名垂結正,罪將斷決,竊行貨賄,方便規求,故致稽延,畢霑寬宥。用使俗多頑悖,時罕廉隅,爲善者不預恩光,作惡者獨承徼幸。古語曰:『小人之幸,君子之不幸。」斯之謂也。望陛下而今而後,頗節於赦,使黎氓知禁,姦宄肅清。」其二,以爲:「海内具僚九品以上,毎歳逢赦,必賜階勳,至於朝野宴集,公私聚會,緋服衆於靑衣,象板多於木笏;皆榮非德舉,位罕才升,不知何者爲妍蚩,何者爲美惡。臣望自今以後,稍息私恩,使有善者逾効忠勤,無才者咸知勉勵。」其三,以爲:「陛下臨朝踐極,取士太廣,六品以下職事清官,遂乃方之土芥,比之沙礫,若遂不加沙汰,臣恐有穢皇風。」其四,以爲:「今之牧伯遷代太速,倏來忽往,蓬轉萍流,既懷苟且之謀,何暇循良之政!望自今刺史非三歳以上不可遷官,仍明察功過,尤甄賞罰。」疏奏,太后頗嘉之。是時官爵易得而法網嚴峻,故人競爲趨進而多陷刑戮,知幾乃著思愼賦以刺時見志焉。
3.明堂が完成した時、太后は、僧懐義へ、チョマで縫った大像を造るよう命じていた。完成してみると、その小指にさえ数十人が入るほどの大きさだった。そこで、明堂の北に天堂を造って、この像を安置したが、堂が完成すると、大風で壊されたので、更に作り直した。この工事は、毎日一万人を動員するほどの規模で、木材は江や嶺から取り寄せた。その費用は萬億を数え、府藏はほとんど空になってしまった。
 懐義は財産を糞土のように浪費したが、太后はそれを聞いても一度として詰問しなかった。無遮会のたびに、銭万緡を使う。士女を大勢集めて、銭を車百台もばらまくのだ。士女は争って拾い、互いに踏みつぶしあって死人まで出た。
 住んでいる公私の田宅の住民は大半を僧にした。懐義は入宮を嫌がり、普段は白馬寺に住んでいたが、そこには僧侶になった力士が千人も居た。侍御史周矩は姦謀を疑い、これを調査するよう、固く請うた。太后は言った。
「卿はしばらくさがっていなさい。朕が自ら命じます。」
 矩が台へ来た時、丁度懐義もやって来たが、彼は階まで馬で乗り付けると、長椅子にて腹を剥き出しにしていた。矩が吏を呼んで無礼を詰問しようとすると、懐義は馬に飛び乗って去った。矩がその有様をつぶさに報告すると、太后は言った。
「それは道人に持病があるからです。詰問するに足りません。僧侶の件は、卿の処置に任せます。」
 彼等は全員遠州へ流された。矩は、天官員外郎へ遷された。
 乙未、明堂で無遮会を行った。深さ五丈の壕を掘り、綵を結んで宮殿とする。仏像などは皆、壕の中から引き出して、「地から沸いた」と言った。又、牛を殺して血を取り、それで大きな像を書いた。その首の高さは二百尺で、懐義の膝を刺して出した血で書いた、と吹聴した。丙申、天津橋の南へ像を張り、斎を設けた。
 この頃、御医の沈南璆もまた、太后に寵愛されていた。懐義は怒り、この夕、密かに天堂を焼いた。すると明堂まで延焼し、その火は城中を昼のように照らした。火は明堂を焼き尽くして、血像は暴風で数百段に引きちぎられた。
 太后は、この事件を恥じ、箝口令を敷いた。ただ、「人夫が誤ってチョマ像を焼き、明堂まで延焼した。」とのみ表明した。
 この時、宴会が予定されていた。左捨遣劉承慶は宴会を中止して、天の譴責に答えるよう請い、太后もこれに従おうとしたが、姚璹が言った。 「昔、周では楽器倉が焼けましたが、国は益々栄えました。漢の武帝の時は、柏梁台が火災になったので、建章を大きく造営し、盛徳はいよいよ長久となりました。今、明堂は政務を執る所で、宗廟ではありません。自ら貶損する必要はありません。」
 そこで太后は端門まで御幸し、平常通り宴会へ参列した。そして、明堂と天堂の再建を命じ、懐義にそれを監督させた。
 また、銅を鋳て九州の鼎と十二神を造らせた。皆、高さは一丈。各々、その場所に設置した。
 話は前後するが、河内の老尼は、昼間こそ一麻一米を食していたが、夜はご馳走を並べて宴会を開き、弟子百余人を蓄え、淫乱の極みを尽くしていた。一味の武什方が、長生の薬を調合できると自称したので、太后は嶺南へ派遣して薬を採らせた。
 明堂が焼けた後、尼が弔問すると、太后は怒って叱りつけた。
「汝はいつも予知できると言っていたが、なんで明堂が焼失することを予言しなかったのか?」
 そして、河内へ追い返した。弟子も老胡も皆、逃散した。
 すると、彼等の姦を告発する者が居た。そこで太后は、尼を麟趾寺へ呼び戻した。それを聞いて弟子達は再び集まってきたが、その頃合いを見て役人が踏み込み、悉く捕らえて、皆、官婢とした。
 什方は、帰路の途上、偃師にて事の露見を知り、首をくくって死んだ。
 庚子、明堂が焼失したことを廟へ告げ、制を降ろして直言を求めた。すると、劉承慶が上疏した。
「チョマ像から出火して、総章まで延焼しました。仏舎を造営しても、労して益がないようです。どうか、造営を中止してください。又、明堂は天と人を統和するもの。それが焼け果てたとゆうのに、臣下は何を考えて宴会ができるのでしょうか!憂いと喜びが相争い、情性を損ないます。又、陛下は制を降ろして博く智恵を求め、至理を述べることを許されました。それなのに、左史張鼎は、周の武王が紂王を討った時、河を渡った後に出火して王屋まで延焼した故事を引き合いに出し、『王屋まで延焼したのは大周がいよいよ栄える祥瑞だ』と述べましたし、通事舎人逄敏は『弥勒が道を成す時、天魔が宮を焼き、七宝の台は全て灰燼に帰すのです』と奏しました。これらは実に諂妄の邪言で、君臣の正論ではありません。どうか陛下、恐々とした想いを持ち、天人の心をなみして不急の工事を興すのをおやめください。そうすれば、兆人はそのおかげを蒙り、福禄は尽きることがありません。」
 獲嘉主簿の彭城の劉知幾が、四事を表にて陳述した。その一は、
「皇業が始まって天地が開闢し、嗣君が即位して民は生まれ変わります。この時に、非常の慶を借りて再造の恩が下されるのです。しかし、今、天下は泰平なのに、赦令はやまず、近年では一年に何度も恩赦が降りていますし、それ以前も降りなかった年はありませんでした。遂には、違法悖礼の徒や無頼不仁の輩は徒党を造って強盗を生業とし、官吏は賄賂ばかり求めるようになってしまいました。彼等は、元旦や重陽の日には皇恩が降りると多寡を括っており、その胸算用通り、果たして赦免されるのです。あるいは、正しい人間が罪を糺そうとしても、密かに賄賂が行き渡って裁定が遅延し、遂には赦免されてしまいます。濫発される赦令は、世俗の多くを頑悖とし、心正しくする事はほんの稀です。善を為す者は恩恵に預からず、悪を為す者ばかりが大きな幸いを受けています。古語に言います。『小人の幸いは、君子の不幸である。』これこそ、それです。どうか陛下、今後は赦恩を減らし、民へ禁令を教え、姦人を粛清してください。」
 その二、
「海内には九品の官位が備わっておりますが、毎年赦が降りて、その度に必ず階勲を賜ります。朝野の宴会や公私の集まりでは緋色の人々が青衣よりも多く、象板が木笏よりも多い有様。これは皆、徳や才覚で挙げられた者ではなく、賢愚も美醜も判りません。今後は私恩をなくしてください。そうすれば善者は忠勤に励み、才のない者は勉励します。」
 その三、
「陛下が即位されてから、大勢の士を取り立て、六品以下は仕事が無く、土芥や砂礫に喩えられています。これらを淘汰しないならば、皇風を穢すのではないかと恐れます。」
 その四、
「今の牧伯は交代が激しく、昨日赴任したかと思えば、今日去って行く有様。このようであれば、長久の謀が執れません。どうして循良の政ができましょうか!今後は刺史は三年以上経たねば官を移さず、功過を良く察して賞罰を与えるようにしてください。」
 疏が奏されると、太后はとても嘉した。
 当時、官爵は得やすかったが、法網は厳峻だった。だから人々は競って昇進し、次々と刑戮へ陥っていった。そこで知幾は思慎賦を著し、時事を風刺した。
 丙午,以王孝傑爲朔方道行軍總管,撃突厥。
4.丙午、王孝傑を朔方道行軍総管として、突厥を撃たせた。
 春,二月,己酉朔,日有食之。
5.春、二月、己酉朔、日食が起こった。
 僧懷義益驕恣,太后惡之。既焚明堂,心不自安,言多不順;太后密選宮人有力者百餘人以防之。壬子,執之於瑤光殿前樹下,使建昌王武攸寧師壯士毆殺之,送尸白馬寺,焚之以造塔。
6.僧懐義はますます驕恣になり、太后はこれを憎んだ。明堂が燃えてからは、懐義は不安になり、不穏なことばかり口走るようになった。太后は密かに宮人に有力者百余人を選び、これを防いだ。
 壬子、懐義を瑶光殿前の樹の下で捕らえ、建昌王武攸寧に壮士を指揮させて殴殺した。屍は白馬寺へ送り、これを焚いて塔を造った。
 甲子,太后去「慈氏越古」之號。
7.甲子、太后は「慈氏越古」の称号を撤廃した。
 三月,丙辰,鳳閣侍郎、同平章事周允元薨。
8.三月、丙辰、鳳閣侍郎、同平章事周允元が卒した。
 夏,四月,天樞成,高一百五尺,逕十二尺,八面,各徑五尺。下爲鐵山,周百七十尺,以銅爲蟠龍麒麟縈繞之;上爲騰雲承露盤,徑三丈,四龍人立捧火珠,高一丈。工人毛婆羅造模,武三思爲文,刻百官及四夷酋長名,太后自書其榜曰「大周萬國頌德天樞」。
9.夏、四月。天枢が完成した。その高さは百五尺、直径十二尺。八面で、各々の面は五尺だった。その下は、鉄で山を造った。周囲は百七十尺で、銅製の龍や麒麟が沢山いた。天枢の上には騰雲露盤があった。その直径は三丈、四人の龍人が立ち、火珠を捧げていた。これは高さ一丈。工人の毛婆羅が模型を造り、武三思が文を書いた。百官及び四夷の酋長の名を刻んだ。太后は、自らその告示文を書いた。文章は、「大周萬國頌徳天枢」という。
 10秋,七月,辛酉,吐蕃寇臨洮,以王孝傑爲肅邊道行軍大總管以討之。
10.秋、七月、辛酉、吐蕃が臨洮に入寇した。王孝傑を粛辺道行軍大総管として討伐させた。
 11九月,甲寅,太后合祭天地於南郊,加號天册金輪大聖皇帝,赦天下,改元。
11.九月、甲寅、太后が南郊において天地を合わせて祭った。「天冊金輪大聖皇帝」の号を加えて、天下に恩赦を下し、改元した。
 12冬,十月,突厥默啜遣使請降,太后喜,册授左衞大將軍、歸國公。
12.冬、十月、突厥の黙啜が使者を派遣して降伏を願い出た。太后は喜び、左衛大将軍、帰国公の冊を授けた。
萬歳通天元年(丙申、六九六)

 臘月,甲戌,太后發神都;甲申,封神嶽;赦天下,改元萬歳登封,天下百姓無出今年租税;大酺九日。丁亥,禪于少室;己丑,御朝覲壇受賀;癸巳,還宮;甲午,謁太廟。
1.臘月、甲戌、太后が神都を出発した。
 甲申、神嶽で封を行った。天下へ恩赦を下し、万歳登封と改元した。天下の百姓に今年の租税を免除し、九日間の大宴会を催した。
 丁亥、少室で禅を行った。
 己丑、朝覲壇にて賀を受けた。
 癸巳、宮へ帰った。甲午、太廟に謁した。
 右千牛衞將軍安平王武攸緒,少有志行,恬澹寡欲,扈從封中嶽還,即求棄官,隱於嵩山之陽。太后疑其詐,許之,以觀其所爲。攸緒遂優遊巖壑,冬居茅椒,夏居石室,一如山林之士。太后所賜及王公所遺野服器玩,攸緒一皆置之不用,塵埃凝積。買田使奴耕種,與民無異。
2.右千牛衛将軍安平王武攸緒は、若い頃から行い正しく、恬淡寡欲だった。神嶽の封禅に随従して帰ってくると、祟山の陽に隠遁するため、官を捨てることを求めた。太后は、彼が何か企んでいるかと疑い、これを許諾して、その様子を見た。
 攸緒は、厳しい谷間でゆったりと遊び、冬は茅が編んだ室で暮らし、夏は石室に居り、まるで山林の士のようだった。太后が王公へ贈った服や器物宝物も、攸緒は皆、放置したまま使わなかったので、塵埃が積み重なった。購入した田も奴に耕かさせて、その生活は民とまるで変わらなかった。
 春,一月,甲寅,以婁師德爲肅邊道行軍副總管,撃吐蕃。己巳,以師德爲左肅政大夫,知政事如故。
3.春、一月、甲寅、婁師徳を粛辺道行軍副総管として、吐蕃を攻撃させた。
 己巳、師徳を左粛政大夫とした。政事は従来通り。
 改長安崇尊廟爲太廟。
4.長安の祟尊廟を太廟と改めた。
 二月,辛巳,尊神嶽天中王爲神嶽天中黄帝,靈妃爲天中黄后;啓爲齊聖皇帝;封啓母神爲玉京太后。
5.二月、辛巳、神嶽天中王を尊んで神嶽天中黄帝、霊妃を天中黄后、啓を斉聖皇帝とした。啓母神を封じて玉京太后とした。
 三月,壬寅,王孝傑、婁師德與吐蕃將論欽陵贊婆戰於素羅汗山,唐兵大敗;孝傑坐免爲庶人,師德貶原州員外司馬。師德因署移牒,驚曰:「官爵盡無邪?」既而曰:「亦善,亦善!」不復介意。
6.三月壬寅、素羅汗山にて、王孝傑と婁師徳が、吐蕃の将論欽陵贊婆と戦った。唐軍は大敗し、孝傑はその罪で庶人へ落とされた。師徳は原州員外司馬へ降格された。
 師徳は、通達を受けて驚いて言った。
「官爵が全くなくなったのか!」
 だが、しばらくして言った。
「それもよい、それもよい。」
 まったく意に介さなかった。
 丁巳,新明堂成,高二百九十四尺,方三百尺,規模率小於舊。上施金塗鐵鳳,高二丈,後爲大風所損;更爲銅火珠,羣龍捧之,號曰通天宮。赦天下,改元萬歳通天。
7.丁巳、新しい明堂が落成した。高さは二百九十四尺、方三百尺、規模は、以前のものより縮小された。上には金を施した鉄鳳が置かれた。その高さは二丈。後、大風に壊された。更に、銅で火珠を造り、群龍がこれを捧げた。通天宮と号した。
 天下へ恩赦を下し、万歳通天と改元した。
 大食請獻師子。姚璹上疏,以爲:「師子專食肉,遠道傳致,肉既難得,極爲勞費。陛下鷹犬不蓄,漁獵悉停,豈容菲薄於身而厚給於獸!」乃卻之。
8.大食が獅子を献上しようと請うた。姚璹が上疏した。
「獅子は肉だけを食べます。遠方から運べば、途中で肉が入手しにくく、その労費は大変なもの。陛下は、鷹も犬も飼わず、漁も猟もやめておられます。どうして我が身へ薄くして獣へ厚く給付なさいますのか!」
 そこで、この請願を却下した。
 以檢校夏官侍郎孫元亨同平章事。
9.検校夏官侍郎孫元亨を同平章事とした。
 10夏,五月,壬子,營州契丹松漠都督李盡忠、歸誠州刺史孫萬榮舉兵反,攻陷營州,殺都督趙文翽。盡忠,萬榮之妹夫也,皆居於營州城側。文翽剛愎,契丹饑不加賑給,視酋長如奴僕,故二人怨而反。乙丑,遣左鷹揚衞將軍曹仁師、右金吾衞大將軍張玄遇、左威衞大將軍李多祚、司農少卿麻仁節等二十八將討之。秋,七月,辛亥,以春官尚書梁王武三思爲楡關道安撫大使,姚璹副之,以備契丹。改李盡忠爲李盡滅,孫萬榮爲孫萬斬。
  盡忠尋自稱無上可汗,據營州,以萬榮爲前鋒,略地,所向皆下,旬日,兵至數萬,進圍檀州,清邊前軍副總管張九節撃卻之。
  八月,丁酉,曹仁師、張玄遇、麻仁節與契丹戰于硤石谷,唐兵大敗。先是,契丹破營州,獲唐俘數百,囚之地牢,聞唐兵將至,使守牢霫紿之曰:「吾輩家屬,飢寒不能自存,唯俟官軍至即降耳。」既而契丹引出其俘,飼以糠粥,慰勞之曰:「吾養汝則無食,殺汝又不忍,今縱汝去。」遂釋之。俘至幽州,具言其状,諸軍聞之,爭欲先入。至黄麞谷,虜又遣老弱迎降,故遺老牛痩馬於道側。仁師等三軍棄歩卒,將騎兵輕進。契丹設伏橫撃之,飛索以搨玄遇、仁節,生獲之,將卒死者填山谷,鮮有脱者。契丹得軍印,詐爲牒,令玄遇等署之,牒總管燕匪石、宗懷昌等云:「官軍已破賊,若至營州,軍將皆斬,兵不敘勳。」匪石等得牒,晝夜兼行,不遑寢食以赴之,士馬疲弊;契丹伏兵於中道邀之,全軍皆沒。
  九月,制:「天下繋囚及士庶家奴驍勇者,官償其直,發以撃契丹。」初令山東近邊諸州置武騎團兵,以同州刺史建安王武攸宜爲右武威衞大將軍,充清邊道行軍大總管,以討契丹。
  右拾遺陳子昂爲攸宜府參謀,上疏曰:「恩制免天下罪人及募諸色奴充兵討撃契丹,此乃捷急之計,非天子之兵。且比來刑獄久清,罪人全少,奴多怯弱,不慣征行,縱其募集,未足可用。況當今天下忠臣勇士,萬分未用其一,契丹小孼,假命待誅,何勞免罪贖奴,損國大體!臣恐此策不可威示天下。」
10.夏、五月、壬子、営州契丹松漠都督李尽忠と帰誠州刺史孫万栄が、挙兵して造反した。営州を攻撃して、都督の趙文翽を殺した。
 尽忠は、万栄の妹の夫である。二人とも、営州城の側に住んでいた。
 文翽は強情で気まま、契丹が餓えても賑給を加えず、酋長を奴僕のように扱っていた。だから、二人は怨んで造反したのだ。
 乙丑、左鷹揚衛将軍曹仁師、左金吾衛大将軍張玄邁、左威衛大将軍李多祚、司農少卿麻仁節等二十八将へこれを討たせた。
 秋、七月、辛亥、春官尚書梁王武三思を楡関道安撫大使とし、姚璹を副官にして契丹へ備えさせた。
 李尽忠を李盡滅、孫万栄を孫万斬と改名した。
 尽忠は、無上可汗と自称して、営州を占拠した。万栄を前鋒として、近隣を攻略させた。向かう所は次々と降伏し、旬日で兵力は数万になった。更に進軍して檀州を包囲したが、清辺前軍副総管張九節がこれを撃退した。
 八月、硤石谷にて、曹仁師、張玄邁、麻仁節が契丹と戦い、唐軍は大敗した。
 話は遡るが、契丹が営州を破った時、唐兵を数百人捕らえ、これを地下牢へぶちこんでいた。唐軍が進攻してくると聞くと、守牢の霫へ愚痴をこぼさせた。
「我等の家族は飢えと寒さで死にそうだ。官軍がくるのを待って降伏するだけだ。」
 やがて、契丹は捕虜を引きだし、糠の粥を食べさせて慰労して言った。
「お前達を養おうにも、食糧がない。さりとて、汝等を殺すにも忍びない。今、解き放ってやるから、そうそうに立ち去れ。」
 そして、彼等を釈放した。
 捕虜達は幽州へ着くと、その有様を具に語った。それを聞いた諸軍は、先を争って進軍した。
 黄麞谷で、虜は、老弱を派遣して唐軍を迎え入れ、降伏させた。また、老牛や痩馬を道端へ故意に放置した。
 敵の窮状を喜んだ仁師等三軍は、歩兵を捨て、騎兵のみで先へ進む。そこへ、契丹の伏兵が横合いから攻撃した。彼等は飛索で玄邁、仁節を絡め取って生け捕りとする。戦死した唐の将兵は山谷を埋め、脱出できた者はほとんどいなかった。
 この戦いで、契丹は軍印を得た。そこで彼等は牒を偽造し、玄邁等に署名させた。その牒は、総管の燕匪石、宗懐昌等へ伝えた。
「官軍が賊を破った後に営州へ到着した者は、軍将ならば斬り、兵なら叙勲しない。」
 匪石等は牒を得ると、寝食も取らずに営州へ駆けつけた。士も馬も疲弊した所を、中途で契丹軍の伏兵が襲撃したので、全軍が潰滅したのだ。
 九月、制が降りた。
「天下の囚人や庶士の家奴で驍勇な者がいれば、官が買い取り、これを徴発して契丹を撃つ。」
 また、山東近辺の諸州に初めて武騎団兵を設置した。同州刺史建安王武攸宜を右武威衛大将軍、充清辺道行軍大総管として、契丹を討たせた。
 右拾遺陳子昴を攸宜府参謀とした。彼は上疏した。
「天下の罪人を赦免し、諸々の奴を募って兵卒に充て契丹を討撃するとの制が降りましたが、これは勝利を急ぐ計略で、天子の兵ではありません。それに、この頃は刑獄が平穏で罪人は少なく、奴隷の多くは怯弱で戦争に慣れておりません。喩え彼等を募集しても、使い物になりません。ましてや今、天下の忠臣義士は万分の一も使ってはいないのです。契丹など小敵。わが国の命令に手を拱いて従うことしかできない相手です。なんで罪を赦免し奴隷を贖うような真似をして、国の大礼を損ないますのか!この策は、天下へ示してはならないと、臣は愚考いたします。」
 11丁巳,突厥寇涼州,執都督許欽明。欽明,紹之曾孫也;時出按部,突厥數萬奄至城下,欽明拒戰,爲所虜。
  欽明兄欽寂,時爲龍山軍討撃副使,與契丹戰於崇州,軍敗,被擒。虎將圍安東,令欽寂説其屬城未下者。安東都護裴玄珪在城中,欽寂謂曰:「狂賊天殃,滅在朝夕,公但勵兵謹守以全忠節。」虜殺之。
11.丁巳、突厥が涼州へ来寇し、都督の許欽明を捕らえた。欽明は、紹の曾孫である。この時、領土を見回っていたところを、突厥数万が襲撃して来て、宿泊していた城下まで押し寄せた。欽明は拒戦したが、捕らえられた。
 欽明の兄の欽寂は、この時龍山軍討撃副使となり、祟山にて契丹と戦い、敗戦して捕らえられていた。
 虜は安東を包囲寸前だった。ここで、城中の降伏していない者を、欽寂に説得させた。安東都護裴玄珪がまだ城中に居たので、欽寂は言った。
「狂賊が天を犯したが、滅亡は旦夕にあるぞ。公は兵を励まして謹んで守り、忠節を全うせよ。」
 虜は、これを殺した。
 12吐蕃復遣使請和親,太后遣右武衞冑曹參軍貴郷郭元振往察其宜。吐蕃將論欽陵請罷安西四鎭戍兵,并求分十姓突厥之地。元振曰:「四鎭、十姓與吐蕃種類本殊,今請罷唐兵,豈非有兼并之志乎?」欽陵曰:「吐蕃苟貪土地,欲爲邊患,則東侵甘、涼,豈肯規利於萬里之外邪!」乃遣使者隨元振入請之。
  朝廷疑未決,元振上疏,以爲:「欽陵求罷兵割地,此乃利害之機,誠不可輕舉措也。今若直拒其善意,則爲邊患必深。四鎭之利遠,甘、涼之害近,不可不深圖也。宜以計緩之,使其和望未絶則善矣。彼四鎭、十姓,吐蕃之所甚欲也,而靑海、吐谷渾,亦國家之要地也,今報之宜曰:『四鎭、十姓之地,本無用於中國,所以遣兵戍之,欲以鎭撫西域,分吐蕃之勢,使不得併力東侵也。今若果無東侵之志,當歸我吐谷渾諸部及靑海故地,則五俟斤部亦當以歸吐蕃。』如此則足以塞欽陵之口,而亦未與之絶也。若欽陵小有乖違,則曲在彼矣。且四鎭、十姓款附日久,今未察其情之向背,事之利害,遙割而棄之,恐傷諸國之心,非所以御四夷也。」太后從之。
  元振又上言:「吐蕃百姓疲於徭戍,早願和親;欽陵利於統兵專制,獨不欲歸款。若國家歳發和親使,而欽陵常不從命,則彼國之人怨欽陵日深。望國恩日甚,設欲大舉其徒,固亦難矣。斯亦離間之漸,可使其上下猜阻,禍亂内興矣。」太后深然之。元振名震,以字行。
12.吐蕃が再び使者を派遣して和親を請うた。太后は右武衛冑曹参軍の貴郷の郭元振を派遣して、現状を査察させた。
 吐蕃の将論欽陵は、安西四鎮の守備兵を撤去し、併せて十姓突厥の土地を割譲するよう請うた。対して元振は言った。
「四鎮と十姓は、もともと吐蕃とは別人種。今、唐軍の撤去を求めながら、どうして併呑の志を持つのか?」
 欽陵は言った。
「吐蕃が領土を貪ろうとしたら、辺患となる。つまり、東方の甘、涼を侵略するのだ。唐本国ではなく、万里の外へ兵を向けようとゆうのに、どうして規制するのか!」
 そして、使者を元振に随従して唐へ入国させ、これを請うた。
 朝廷が、迷っていて決定できないでいると、元振が上疏した。
「欽陵が軍の撤兵と領土割譲を求めましたが、これは利害の中核となる事。軽々しく挙措できません。今、もしもその善意をにべもなく拒絶すれば、辺患は必ず深くなります。四鎮の利益は遠く、甘・涼の害は近い。深く謀らなければなりません。ここは、緩和に計り、彼等の和親の謀を絶たないことが善いでしょう。あの四鎮、十姓は、吐蕃が非常に欲しがっている土地ですが、青海、吐谷渾にとっても、また、国家の要地なのです。今、彼等へ返答してみましょう。『四鎮、十姓の地は、もともと中国には無用のもの。それなのに派兵してこれを守るのは、西域を鎮撫して吐蕃の勢力を分裂させ、全力で東侵させない為のものだ。今、本当に東侵の志がないのならば、我等へ吐谷渾諸部と青海の故地を返せ。そうすれば、五俟斤部もまた、吐蕃へ帰属させる。』このようにすれば、欽陵の口を塞ぐことができますし、吐蕃との国交を絶たずにいれます。もし欽陵が少し違反しても、非は奴等にあります。それに、四鎮、十姓は我等に帰属してから久しいのです。今、彼等の心情の向背も察せず利害のみを考えてもその地を割譲して棄ててしまうのは、諸国の心を傷つけます。四夷を御する方策ではありません。」
 太后は、これに従った。
 元振は、また、上言した。
「吐蕃の百姓は国防に疲れ、早期の和親を願っています。ですが、欽陵一人だけ帰順を望んでいません。唐との緊張が高まる方が、軍への支配力が強まるからです。もしも、わが国が毎年和親の使者を派遣して、欽陵が常にこれを拒んだならば、あの国の人々の欽陵への怨みは、日毎に強くなり、わが国恩への望みは日毎に強くなります。この状況で欽陵が国人を大挙して戦おうとしても、結束を強めることは難しい話です。これもまた、離間を大きくする方策。敵国の上下を猜阻させれば、禍乱は内側から興ります。」
 太后は深く頷いた。
 元振の名は震、しかし、字の方が有名である。
 13庚申,以并州長史王方慶爲鸞臺侍郎,與殿中監萬年李道廣並同平章事。
13.庚申、并州長史王方慶を鸞台侍郎とし、殿中監の萬年の李道廣と共に同平章事とした。
 14突厥默啜請爲太后子,并爲其女求昏,悉歸河西降戸,帥其部衆爲國討契丹。太后遣豹韜衞大將軍閻知微、左衞郎將攝司賓卿田歸道册授默啜左衞大將軍、遷善可汗。知微,立德之孫;歸道,仁會之子也。
  冬,十月,辛卯,契丹李盡忠卒,孫萬榮代領其衆。突厥默啜乘間襲松漠,虜盡忠、萬榮妻子而去。太后進拜默啜爲頡跌利施大單于、立功報國可汗。
  孫萬榮收合餘衆,軍勢復振,遣別帥駱務整、何阿小爲前鋒,攻陷冀州,殺刺史陸寶積,屠吏民數千人;又攻瀛州,河北震動。制起彭澤令狄仁傑爲魏州刺史。前刺史獨孤思莊畏契丹猝至,悉驅百姓入城,繕脩守備。仁傑至,悉遣還農,曰:「賊猶在遠,何煩如是!萬一賊來,吾自當之。」百姓大悅。
  時契丹入寇,軍書填委,夏官郎中硤石姚元崇剖析如流,皆有條理,太后奇之,擢爲夏官侍郎。
14.突厥の黙啜が、太后の子となることを請い、併せてその娘へ婚礼を求め、河西を挙げて降伏し、その部衆を率いて御国の為に契丹を討伐することを申し出た。
 太后は、豹韜衛大将軍閻知微、左衛郎将摂司賓卿田帰道を派遣して黙啜へ左衛大将軍、遷善可汗の冊を授けた。知微は立徳の孫、帰道は仁會の子息である。
 冬、十月、辛卯、契丹の李尽忠が卒し、孫万栄が代わって部下を統率した。突厥の黙啜は、その隙に乗じて松漠を襲撃し、尽忠と万栄の妻子を捕らえて去った。太后は、黙啜の称号を進めて頡跌利施大単于、立功報国可汗とした。
 孫万栄は、敗残兵をかき集め、契丹の国力は再び強くなった。別働隊の駱務整、何阿小を前鋒とし、冀州を攻め落とした。刺史の陸宝積を殺し、吏民数千人を屠った。又、瀛州を攻撃したので、河北は震駭した。
 太后は制を下して彭澤令狄仁傑を魏州刺史に起用した。前の刺史独孤思荘は契丹が攻めて来ることを畏れ、百姓を全員城内へ駆り立てて、守備を修めていた。だが、仁傑が赴任するや、彼等を全て農業へ戻して、言った。
「賊は、まだ遠くにいる。何で民をここまで患わせるのか!万一賊が来たら、吾が自らこれに当たる。」
 百姓は大いに悦んだ。
 この時、契丹の来寇に際して、軍書が山と積まれた。夏官郎中の硤石の姚元祟は、流れるように分析し、それが皆、条理に適っていた。太后はこれを奇才として、夏官侍郎とした。
 15太后思徐有功用法平,擢拜左臺殿中侍御史,聞者無不相賀。鹿城主簿宗城潘好禮著論,稱有功蹈道依仁,固守誠節,不以貴賤死生易其操履。設客問曰:「徐公於今誰與爲比?」主人曰:「四海至廣,人物至多,或匿迹韜光,僕不敢誣,若所聞見,則一人而已,當於古人中求之。」客曰:「何如張釋之?」主人曰:「釋之所行者甚易,徐公所行者甚難,難易之間,優劣見矣。張公逢漢文之時,天下無事,至如盜高廟玉環及渭橋驚馬,守法而已,豈不易哉!徐公逢革命之秋,屬惟新之運,唐朝遺老,或包藏禍心,使人主有疑。如周興、來俊臣,乃堯年之四凶也,崇飾惡言以誣盛德;而徐公守死善道,深相明白,幾陷囹圄,數挂網維,此吾子所聞,豈不難哉!」客曰:「使爲司刑卿,乃得展其才矣。」主人曰:「吾子徒見徐公用法平允,謂可置司刑;僕覩其人,方寸之地,何所不容,若其用之,何事不可,豈直司刑而已哉!」
15.太后は徐有功が、公平に法を用いると考え、左台殿中侍御史に抜擢した。これを聞いた者は、皆、祝賀した。
 鹿城主簿の宗城の潘好礼は論文を著して、有功が道を踏み仁に依り誠節を固守し貴賤や生死でその操を覆さなかったことを褒めた。
 その中で、客が尋ねた。
「徐公は、今の世の中の、誰と肩を並べますか?」
 対して、主人は言った。
「四海はとても広く、人物も大勢居る。だから、行跡や仁徳が伝わらない者もいる。そんな人々を敢えて誣ようとは思わないが、少なくとも僕が見聞した中では、彼一人だ。彼に匹敵する人物は、古人の中から探し求めるしかないな。」
「張釈之はどうですか?」
「釈之のやったことは実に簡単なことであり、徐公の行いはとても困難なことだ。難易を比べると、優劣が見える。張公は、天下泰平の時に漢の文帝に逢った。高廟の玉環の盗賊や、渭水で馬が驚いた時などは、ただ法を遵守しただけだ。どうして難しいことだろうか!だが、徐公は革命の時に逢い、維新の党に属した。唐朝の遺老の中は、禍心を覆い隠して、人主へ徐公を疑わせようとしむけた者もいる。周興や来俊臣などは、悪言を飾って盛徳を誣る、堯の時の四凶のような人間。彼等へ対して、徐公は命懸けで善道を守り、正しいことを明白にし、幾たびも陥れられながらも、国の大綱を守り通した。これは、実際に我等が聞いた事実だ。何と困難なことではないか!」
「それでは、彼を司刑卿にすれば、彼の才覚を発揮させることができますね。」
「君達は、ただ徐公が法を正しく適用させることだけを見て、司刑にすれば良いと言う。だが、僕は彼の人格を見る。彼は、方寸の地でも拒絶されることがない。もしも彼を用いたら、何事でもこなせる。なんで司刑などで終わらせられようか!」

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