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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百二
 唐紀十八
  高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下
咸亨二年(辛未、六七一)

 春,正月,甲子,上幸東都。
1.春、正月、甲子、上が東都へ御幸した。
 夏,四月,甲申,以西突厥阿史那都支爲左驍衞大將軍兼匐延都督,以安集五咄陸之衆。
2.夏、四月、甲申、西突厥の阿史那都支を左驍衛大将軍兼匐延都督として、五咄陸の衆を安集させた。
 初,武元慶等既死,皇后奏以其姊子賀蘭敏之爲士彠之嗣,襲爵周公,改姓武氏,累遷弘文館學士、左散騎常侍。魏國夫人之死也,上見敏之,悲泣曰:「曏吾出視朝猶無恙,退朝已不救,何倉猝如此!」敏之號哭不對。后聞之,曰:「此兒疑我。」由是惡之。敏之貌美,蒸於太原王妃;及居妃喪,釋衰絰,奏妓。司衞少卿楊思儉女,有殊色,上及后自選以爲太子妃,婚有日矣,敏之逼而淫之。后於是表言敏之前後罪惡,請加竄逐。六月,丙子,敕流雷州,復其本姓。至韶州,以馬韁絞死。朝士坐與敏之交遊,流嶺南者甚衆。
3.武元慶が死んだ後、皇后はその姉の子の賀蘭敏之を武士彠の嗣ぎとして周公を襲爵させ、姓を武氏と改め、弘文館学士・左散騎常侍へ累遷させるよう上奏した。
 魏国夫人が死ぬと、上は敏之を見て、悲泣して言った。
「吾は朝廷でこそ何気なく振る舞っているが、退朝したら悲しみが止まらない。それなのに、お前はどうしてそんなに平然としているのか!」
 すると、敏之は号哭して答えなかった。
 皇后はこれを聞いて言った。
「この児は、吾を疑っているのか。」
 以来、彼を憎むようになった。
 敏之は美貌の士で、太原妃と密通していた。妃が死ぬと、喪服を脱ぎ、芸妓をすすめた。
 司衛少卿楊思倹の娘は殊に美しく、上と皇后が自ら太子妃に選び、婚礼の日取りまで決めたが、敏之はこれに迫って姦通した。
 ここにいたって皇后は、敏之の前後の悪行を上表し、糾明するよう請うた。
 六月、丙子、雷州へ流し、元の姓へ復するよう敕が降った。敏之は韶州へ至って、馬のたづなで縊れ死んだ。
 敏之と交遊していた罪で、大勢の朝士が嶺南へ流された。
 秋,七月,乙未朔,高侃破高麗餘衆於安市城。
4.秋、七月、乙未朔、高侃が安市城にて高麗の残党を破った。
 九月,丙申,潞州刺史徐王元禮薨。
5.九月、丙申、潞州刺史徐王元禮が薨去した。
 冬,十一月,甲午朔,日有食之。
6.冬、十一月、甲午朔、日食が起こった。
 車駕自東都幸許、汝;十二月,癸酉,校獵於葉縣;丙戌,還東都。
7.車駕が東都から許、汝へ御幸した。
 十二月、癸酉、葉県にて狩猟を行った。
 丙戌、東都へ帰った。
三年(壬申、六七二)

 春,正月,辛丑,以太子左衞副率梁積壽爲姚州道行軍總管,將兵討叛蠻。
1.春、正月、辛丑、太子左衛副率梁積寿を姚州道行軍総管として、造反した蛮を討伐させた。
 庚戌,昆明蠻十四姓二萬三千戸内附,置殷、敦、總三州。
2.庚戌、昆明蛮十四姓二万三千戸が帰順した。殷、敦、総三州を設置する。
 二月,庚午,徙吐谷渾於鄯州浩亹水南。吐谷渾畏吐蕃之強,不安其居,又鄯州地狹,尋徙靈州,以其部落置安樂州,以可汗諾曷鉢爲刺史。吐谷渾故地皆入於吐蕃。
3.二月、庚午、吐谷渾を鄯州浩亹水の南へ移住させた。ところが吐谷渾は、吐蕃の強盛を畏れて、その地へ住むのを不安がった。また、鄯州は土地が狭かったので、すぐに霊州へ移住した。その部落の居住地を安楽州とし、可汗諾曷鉢を刺史とした。
 元の吐谷渾の領土には、吐蕃が入り込んだ。
 己卯,侍中永安郡公姜恪薨。
4.己卯、侍中永安郡公姜恪が薨去した。
 夏,四月,庚午,上幸合璧宮。
5.夏、四月、庚午、上が合璧宮へ御幸した。
 吐蕃遣其大臣仲琮入貢,上問以吐蕃風俗,對曰:「吐蕃地薄氣寒,風俗朴魯;然法令嚴整,上下一心,議事常自下而起,因人所利而行之,斯所以能持久也。」上詰以呑滅吐谷渾、敗薛仁貴、寇逼涼州事,對曰:「臣受命貢獻而已,軍旅之事,非所聞也。」上厚賜而遣之。癸未,遣都水使者黄仁素使于吐蕃。
6.吐蕃がその大臣仲琮を派遣して入貢した。上が吐蕃の風俗を問うと、応えて言った。
「吐蕃は土地が痩せて気候は寒く、風俗は朴訥です。しかしながら法令は厳格で、上下は心を一つにしています。議事はいつも下から提起され、人々へ利益のあることを施行します。ですから、国を久しく保つことができるのです。」
 上が、吐谷渾を併呑したことや薛仁貴を敗ったこと、涼州へ迫ったことなどを詰ると、答えた。
「臣が命令されたのは、貢物を献上することだけです。戦闘のことは聞いておりません。」
 上は、厚く下賜して帰国させた。
 都水使者黄仁素を使者として吐蕃へ派遣した。
 秋,八月,壬午,特進高陽郡公許敬宗卒。太常博士袁思古議:「敬宗棄長子於荒徼,嫁少女於夷貊。按謚法,『名與實爽曰繆,』請謚爲繆。」敬宗孫太子舎人彦伯訟思古與許氏有怨,請改謚。太常博士王福畤議,以爲:「得失一朝,榮辱千載。若嫌隙有實,當據法推繩;如其不然,義不可奪。」戸部尚書戴至德謂福畤曰:「高陽公任遇如是,何以謚之爲繆?」對曰:「昔晉司空何曾既忠且孝,徒以日食萬錢,秦秀謚之爲『繆』。許敬宗忠孝不逮於曾,而飲食男女之累過之,謚之曰『繆』,無負許氏矣。」詔集五品已上更議,禮部尚書陽思敬議:「按謚法,既過能改曰恭。請謚曰恭。」詔從之。敬宗嘗奏流其子昂于嶺南,又以女嫁蠻酋馮盎之子,多納其貨,故思古議及之。福畤,勃之父也。
7.秋、七月、壬午、特進高陽郡公許敬宗が卒した。
 太常博士袁思古が議した。
「敬宗は長男を荒境に棄て、娘を夷人へ嫁がせました。諡法を案じますに、『名と実が合わないのを繆という。』とあります。どうか諡は『繆』としてください。」
 敬宗の孫の太子舎人許彦伯は、思古は許氏に怨みがあったと訴え、諡の改正を請うた。すると、太常博士王福畤が反論した。
「得失は一朝、栄辱は千載。もしも嫌悪が事実なら、法に據りて厳格にするべきだし、そうでなければ義として変えてはならない。」
 戸部尚書戴至徳が福畤へ言った。
「高陽公はこんなに寵遇されたのに、どうして『繆』と言うのか。」
 対して答えた。
「昔、晋の司空何曾は忠孝だったが、一日萬銭を浪費したので奏秀はこれへ『繆』と諡した。居敬宗は忠も孝も曾に及ばない。しかも息子や娘の縁者での飲食は彼以上だ。これへ『繆』と諡しても、許氏に背かないぞ。」
 詔して五品以上を召集し、更に議論させた。すると、礼部尚書陽思敬が提議した。
「諡法を案ずるに、過ちを改めることのできる者を『恭』と言います。どうか『恭』と諡してください。」
 詔して、これに従った。
 許敬宗はかつてその子の許昴を嶺南へ流すよう上奏し、娘を蛮の酋長の馮盎の息子に嫁がせ、多額の結納金を得た。だから袁思古はこのように提議したのである。 ちなみに福畤は、勃の父親である。
 九月,癸卯,徙沛王賢爲雍王。
8.九月、癸卯、沛王賢を雍王とする。
 冬,十月,己未,詔太子監國。
9.冬、十月、己未、太子を監国にすると詔した。
 10壬戌,車駕發東都。
10.壬戌、車駕が東都を出発した。
 11十一月,戊子朔,日有食之。
11.十一月、戊子朔、日食が起こった。
 12甲辰,車駕至京師。
12.甲辰、車駕が京師へ到着した。
 13十二月,高侃與高麗餘衆戰于白水山,破之。新羅遣兵救高麗,侃撃破之。
13.十二月、高侃が白水山にて高麗の残党と戦い、これを破った。新羅が派兵して高麗を救援したが、侃はこれを迎撃して破った。
 14癸卯,以左庶子劉仁軌同中書門下三品。
14.癸卯、左庶子劉仁軌を同中書門下三品とした。
 15太子罕接宮臣,典膳丞全椒邢文偉輒減所供膳,并上書諫太子。太子復書,謝以多疾及入侍少暇,嘉納其意。頃之,右史缺,上曰:「邢文偉事吾子,能撤膳進諫,此直士也。」擢爲右史。太子因宴集,命宮臣擲倒,次至左奉裕率王及善,及善曰:「擲倒自有伶官,臣若奉令,恐非所以羽翼殿下也。」太子謝之。上聞之,賜及善縑百匹,尋遷左千牛衞將軍。
15.太子は、まれにしか幕僚と接しなかったので、典膳丞の全椒の邢文偉が太子の食膳の数を減らし、併せて上書して太子を諫めた。太子は返書を出し、病気がちで政務を執る時間が少ないことを謝り、その意を嘉納した。
 この頃、右史に欠員があったので、上は言った。
「刑文偉は我が子へ仕えておるが、食膳を減らして諫言を進めた。これは直士だ。」
 そして右史へ抜擢した。
 太子が宴会中、幕僚達へ擲倒(踊りの一種)を踊るよう命じた。順番に演じて左奉裕率王及善の番になった時、及善は言った。
「擲倒は、それを演じるための役者がいます。臣がこの命令を承るのは、殿下の羽翼の所業ではないと考えます。」
 太子は、これへ謝った。
 上はこれを聞いて、及善へ生絹百匹を下賜し、左千牛衛将軍とした。
四年(癸酉、六七三)

 春,正月,丙辰,絳州刺史鄭惠王元懿薨。
1.春、正月、丙辰、絳州刺史鄭恵王元懿が薨去した。
 三月,丙申,詔劉仁軌等改脩國史,以許敬宗等所記多不實故也。
2.三月、丙申、劉仁軌らに国史を改修するよう詔した。許敬宗らの記載に虚偽が多かったためである。
 夏,四月,丙子,車駕幸九成宮。
3.夏、四月、丙子、車駕が九成宮へ御幸した。
 閏五月,燕山道總管、右領軍大將軍李謹行大破高麗叛者於瓠蘆河之西,俘獲數千人,餘衆皆奔新羅。時謹行妻劉氏留伐奴城,高麗引靺鞨攻之,劉氏擐甲帥衆守城,久之,虜退。上嘉其功,封燕國夫人。謹行,靺鞨人突地稽之子也,武力絶人,爲衆夷所憚。
4.閏五月、燕山道総管、右領軍大将軍李謹行が瓠蘆河の西にて、高麗の造反者を大いに破った。数千人を捕獲し、その他は皆新羅へ逃げた。
 この時、謹行は妻の劉氏を伐奴城へ留めていた。高麗は靺鞨を率いてこれを攻撃したが、劉氏は武装し、衆を率いて城を守った。しばらくして、虜は撤退した。上はその功を嘉し、燕国夫人に封じた。
 謹行は、靺鞨人突地稽の子息である。武力は群を抜いており、衆夷から憚られていた。
 秋,七月,婺州大水,溺死者五千人。
5.秋、七月、婺州で大水が起こり、五千人が溺死した。
 八月,辛丑,上以瘧疾,令太子於延福殿受諸司啓事。
6.八月、辛丑、上がマラリアに罹ったので、太子に延福殿で諸司の報告を受けさせた。
 冬,十月,壬午,中書令閻立本薨。
7.冬、十月、壬午、中書令閻立本が薨去した。
 乙巳,車駕還京師。
8.乙巳、車駕が京師へ還った。
 十二月,丙午,弓月、疏勒二王來降。西突厥興昔亡可汗之世,諸部離散,弓月及阿悉吉皆叛。蘇定方之西討也,擒阿悉吉以歸。弓月南結吐蕃,北招咽麪,共攻疏勒,降之。上遣鴻臚卿蕭嗣業發兵討之。嗣業兵未至,弓月懼,與疏勒皆入朝;上赦其罪,遣歸國。
9.十二月、丙午、弓月、疏勒の二王が来降した。
 西突厥の興昔亡可汗の時代に諸部が離散し、弓月も阿悉吉も皆造反した。蘇定方が西討で、阿悉吉を捕らえて帰国した。弓月は南は吐蕃と結び北は咽麪を招き、共に疏勒を攻撃してこれを降した。上は鴻臚卿蕭嗣業へ兵を与えて派遣し、これを討伐させた。嗣業の兵が到着する前に、弓月は懼れ、疏勒と共に入朝したのである。
 上は、その罪を赦し、帰国させた。
上元元年(甲戌、六七四)

 春,正月,壬午,以左庶子、同中書門下三品劉仁軌爲雞林道大總管,衞尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵討新羅。時新羅王法敏既納高麗叛衆,又據百濟故地,使人守之。上大怒,詔削法敏官爵;其弟右驍衞員外大將軍、臨海郡公仁問在京師,立以爲新羅王,使歸國。
1.春、正月、壬午、左庶子、同中書門下三品劉仁軌を鶏林道大総管とし、衛尉卿李弼、右領軍大将軍李謹行を副官として、兵を発して新羅を討伐させた。
 この頃、新羅王法敏は既に高麗の叛衆を受け入れており、また、百済の旧領を占拠して臣下に守らせていた。上は大いに怒り、詔して法敏の官爵を削った。その弟の右驍衛員外大将軍、臨海郡公仁問が京師にいたので、これを新羅王に立てて帰国させた。
 三月,辛亥朔,日有食之。
2.三月、辛亥朔、日食が起こった。
 賀蘭敏之既得罪,皇后奏召武元爽之子承嗣於嶺南,襲爵周公,拜尚衣奉御;夏,四月,辛卯,遷宗正卿。
3.賀蘭敏之が処罰されると、皇后は武元爽の子承嗣を嶺南から召し出して、周公を襲爵させ、尚衣奉御に任命するよう上奏した。
 夏、四月、辛卯、宗正卿に異動させた。
 秋,八月,壬辰,追尊宣簡公爲宣皇帝,妣張氏爲宣莊皇后;懿王爲光皇帝,妣賈氏爲光懿皇后;太武皇帝爲神堯皇帝,太穆皇后爲太穆神皇后;文皇帝爲太宗文武聖皇帝,文德皇后爲文德聖皇后。皇帝稱天皇,皇后稱天后,以避先帝、先后之稱。改元,赦天下。
4.秋、八月、壬辰、宣簡公(李煕)を宣皇帝、妣の張氏を宣荘皇后、懿王(李天賜)を光皇帝、妣の賈氏を光懿皇后、太武皇帝(李淵)を神堯皇帝、太穆皇后(竇皇后)を太穆神皇后、文皇帝(李世民)を大層文武聖皇帝、文徳皇后(長孫皇后)を文徳聖皇后と追尊した。
 皇帝を天皇、皇后を天后と称し、先帝、先后の呼称を避けた。
 改元して天下へ赦を下した。
 戊戌,敕:「文武官三品以上服紫,金玉帶;四品服深緋,金帶;五品服淺緋,金帶;六品服深綠,七品服淺綠,並銀帶;八品服深靑,九品服淺靑,並鍮石帶;庶人服黄,銅鐵帶。自非庶人,不聽服黄。」
5.戊戌、敕が下った。
「文武三品以上は紫の服で金玉の帯、四品は深緋の服で金の帯、五品は浅緋の服で金の帯、六品は深緑の服、七品は浅緑の服で共に銀の帯、八品は深青の服、九品は浅青の服で、共に鍮石の帯、庶人は黄の服で銅鉄の帯とする。非庶人(工商雑戸)は、黄色の服を着てはならない。」
 九月,癸丑,詔追復長孫晟、長孫無忌官爵,以無忌曾孫翼襲爵趙公,聽無忌喪歸,陪葬昭陵。
6.九月、癸丑、詔して、長孫晟、長孫無忌の官爵を復し、無忌の曾孫の長孫翼に趙公を襲爵させた。無忌の喪に服すことを許し、昭陵に陪葬させた。
 甲寅,上御翔鸞閣,觀大酺。分音樂爲東西朋,使雍王賢主東朋,周王顯主西朋,角勝爲樂。郝處俊諫曰:「二王春秋尚少,志趣未定,當推梨讓棗,相親如一。今分二朋,遞相誇競,俳優小人,言辭無度,恐其交爭勝負,譏誚失禮,非所以崇禮義,勸敦睦也。」上瞿然曰:「卿遠識,非衆人所及也。」遽止之。
  是日,衞尉卿李弼暴卒于宴所,爲之廢酺一日。
7.甲寅、上が翔鸞閣へ御幸し、大酺(集まって酒を飲むこと)を観た。音楽を東西の朋へ分け、雍王賢に東朋を、周王顕に西朋を指揮させ、勝負させて楽しもうとした。すると、郝處俊が諫めた。
「二王はまだ幼く、人格も未だ完成されておりません。今は、梨や棗を譲り合うように親しみ合わなければなりません。それなのに、二派に分けて競い合わせる。俳優は小人ですから、その言葉は無節操。交々勝負を争ううちに、礼を失うこともありましょう。これでは礼儀を祟び敦睦を勧めることができません。」
 上は驚いて言った。
「卿の遠くまで見据える見識は、衆人の及ぶところではない。」
 そして、これを中止した。
 この日、衛尉卿李弼が宴会中に急死したので、彼の為に一日酺を廃した。
 冬,十一月,丙午朔,車駕發京師;己酉,校獵華山之曲武原;戊辰,至東都。
8.冬、十一月、丙午朔、車駕が京師を出発した。己酉、華山の曲武原で狩猟をした。戊辰、東都に到着した。
 箕州録事參軍張君澈等誣告刺史蔣王惲及其子汝南郡王煒謀反,敕通事舎人薛思貞馳傳往按之。十二月,癸未,惲惶懼,自縊死。上知其非罪,深痛惜之,斬君澈等四人。
9.箕州録事参軍張君澈らが、刺史の蒋王惲とその子息の汝南郡王煒が造反を謀っていると誣告した。通事舎人薛思貞に現地へ行って取り調べるよう敕が下った。
 十二月、癸未、惲は恐惶して首吊り自殺をした。上は彼の無実を知って、深くこれを哀惜し、君澈ら四人を斬った。
 10戊子,于闐王伏闍雄來朝。
10.戊子、于闐王伏闍雄が来朝した。
 11辛卯,波斯王卑路斯來朝。
11.辛卯、波斯王卑路斯が来朝した。
 12壬寅,天后上表,以爲:「國家聖緒,出自玄元皇帝,請令王公以下皆習老子,毎歳明經,準孝經、論語策試。」又請「自今父在,爲母服齊衰三年。又,京官八品以上,宜量加俸祿。」及其餘便宜,合十二條。詔書褒美,皆行之。
12.壬寅、天后が上表した。
「国家の聖なる始祖は玄元皇帝(老子。本名は李耳。李姓のため、唐は皇室の祖先ということにした。)から始まりました。どうか、王公以下の全員へ老子を習わせ、毎年の明経にて孝経や論語に準じて試験を行ってください。」
 また、請願した。
「今後は父が生きていても、母の喪には三年間服しますように(古礼では、父親が健在なら母親の喪は一年である)。また、京官の八品以上は棒禄を増やしますように。」
 その他、改革案が合計十二条あった。詔が下ってこれを褒め、全て施行された。
 13是歳,有劉曉者,上疏論選,以爲:「今選曹以檢勘爲公道,書判爲得人,殊不知考其德行才能。況書判借人者衆矣。又,禮部取士,專用文章爲甲乙,故天下之士,皆捨德行而趨文藝,有朝登甲科而夕陷刑辟者,雖日誦萬言,何關理體!文成七歩,未足化人。況盡心卉木之間,極筆煙霞之際,以斯成俗,豈非大謬!夫人之慕名,如水趨下,上有所好,下必甚焉。陛下若取士以德行爲先,文藝爲末,則多士雷奔,四方風動矣!」
13.この年、劉暁という者がいて、人選を論じて上疏した。
「今、公で行われている人選の考課基準は、書判を第一としており、徳行や才能は考慮されておりません。その上、書判は代筆を利用する者が大半です。また、礼部が人を採用する時は専ら文章を取って甲乙を付けています。ですから天下の士は皆、徳行を棄てて文芸へ赴きます。その挙げ句、朝に登用された者が夕方には刑に陥るのです。毎日万言を口ずさんだとて、治道に何の関わりがありましょうか!七歩歩く間に文章を作れても、立派な人格者とは言えません。ましてや草木の間に心を尽くし煙霞の際に筆を極めることが褒めそやかされるなど、大きな誤りではありませんか!夫人が名を慕い、水が低きに流れるように、上が好めば下の者はもっと甚だしくなります。陛下がもし士を選ぶときに徳行を先とし文芸を末とするならば、多くの士が雷奔し、四方から風に吹かれるように動いてくるでしょう!」
二年(乙亥、六七五)

 春,正月,丙寅,以于闐國爲毗沙都督府,分其境内爲十州,以于闐王尉遲伏闍雄爲毗沙都督。
1.春、正月、丙寅、于闐国を毗沙都督府として、その境内を十州に分け、于闐王尉遅伏闍雄を毗沙都督とした。
 辛末,吐蕃遣其大臣論吐渾彌來請和,且請與吐谷渾復脩鄰好;上不許。
2.辛未、吐蕃がその大臣論吐渾弥を使者として派遣して和を請い、吐谷渾とも善隣を修復したいと請願したが、上は許さなかった。
 二月,劉仁軌大破新羅之衆於七重城,又使靺鞨浮海略新羅之南境,斬獲甚衆。仁軌引兵還。詔以李謹行爲安東鎭撫大使,屯新羅之買肖城以經略之,三戰皆捷,新羅乃遣使入貢,且謝罪;上赦之,復新羅王法敏官爵。金仁問中道而還,改封臨海郡公。
3.二月、劉仁軌が七重城にて新羅軍を大いに破った。また、靺鞨へ海路から新羅の南境を攻略させ、大勢の敵兵を斬り捕らえた。
 仁軌は兵を率いて還った。
 李謹行を安東鎮撫大使として新羅の買肖城へ逗留させ、これを経略するよう詔が下った。謹行は三戦して全勝した。
 新羅は使者を派遣して入貢し、かつ、謝罪した。上はこれを赦し、新羅王法敏の官爵を旧に復した。金仁問は中途から還った。臨海郡公に改封された。
 三月,丁巳,天后祀先蠶於邙山之陽,百官及朝集使皆陪位。
4.三月、丁巳、天后が邙山の南で先蠶を祀った。百官と朝集使はみな陪席した。
 上苦風眩甚,議使天后攝知國政。中書侍郎同三品郝處俊曰:「天子理外,后理内,天之道也。昔魏文帝著令,雖有幼主,不許皇后臨朝,所以杜禍亂之萌也。陛下奈何以高祖、太宗之天下,不傳之子孫而委之天后乎!」中書侍郎昌樂李義琰曰:「處俊之言至忠,陛下宜聽之。」上乃止。
5.上の風眩がとても酷くなったので、天后へ国政を摂知させようと提議した。すると、中書侍郎同三品郝處俊が言った。
「天子は外を治め、后は内を治めるのが天の道です。昔、魏の文帝は、たとえ幼主が出ても皇后が朝廷へ臨むことは禁じると、宣言しました。これは、禍乱の芽生えを閉ざすためです。陛下はどうして高祖、太宗の天下を子孫に伝えずに天后へ委ねなさいますのか!」
 李義琰が言った。
「處俊の言葉は忠義の至りです。陛下はどうかお聞き入れください!」
 上はそこでとりやめた。
 天后多引文學之士著作郎元萬頃、左史劉禕之等,使之撰列女傳、臣軌、百僚新戒、樂書,凡千餘卷。朝廷奏議及百司表疏,時密令參決,以分宰相之權,時人謂之北門學士。禕之,子翼之子也。
6.天后は大勢の文学の士を麾下に引き入れ、著作郎元万頃、左史劉禕之らに列女伝、臣軌、百僚新戒、楽書、およそ千巻あまりを撰させた。
 朝廷の奏議及び百司の表疏を、時には密かに彼等へ参決させる事で、宰相の権力を彼らにも振り分けた。時人は、これを北門学士と言った。
 劉禕之は、劉子翼の子息である。
 夏,四月,庚辰,以司農少卿韋弘機爲司農卿。弘機兼知東都營田,受詔完葺宮苑。有宦者於苑中犯法,弘機杖之,然後奏聞。上以爲能,賜絹數十匹,曰:「更有犯者,卿即杖之,不必奏也。」
7.夏、四月、庚辰、司農少卿韋弘機を司農卿とした。
 弘機は知東都営田を兼務し、詔を受けて宮苑を全て葺いた。
 苑中にて法を犯す宦官が居ると、弘機はこれを杖で打ってから、事後に上奏した。上は、彼を有能だと思い、絹数十匹を下賜して言った。
「更に法を犯す者が居たら、卿は即座に杖打て。上奏の必要はない。」
 初,左千牛將軍長安趙瓌尚高祖女常樂公主,生女爲周王顯妃。公主頗爲上所厚,天后惡之。辛巳,妃坐廢,幽閉於内侍省,食料給生者,防人候其突煙,已而數日煙不出,開視,死腐矣。瓌自定州刺史貶栝州刺史,令公主隨之官,仍絶其朝謁。
8.かつて、左千牛将軍の長安の趙瓌が、高祖の娘の常楽公主を娶り、生まれた娘を周王顕の妃とした。
 公主は上からとても厚遇されたので、天后はこれを憎んだ。辛巳、妃は罪に問われて廃され、内侍省へ幽閉された。食糧は生ものが配給されたが、防人がその煙突を覗いてみると、数日間も煙が立たない。そこで部屋を開けてみると、既に死んでおり、死体は腐っていた。
 瓌は定州刺史から括州刺史へ左遷され、公主も彼に随従して任地へ下向させ、朝廷での謁見を受けられないようにした。
 太子弘仁孝謙謹,上甚愛之;禮接士大夫,中外屬心。天后方逞其志,太子奏請,數迕旨,由是失愛於天后。義陽、宣城二公主,蕭淑妃之女也,坐母得罪,幽于掖庭,年踰三十不嫁。太子見之驚惻,遽奏請出降,上許之。天后怒,即日以公主配當上翊衞權毅、王遂古。己亥,太子薨于合璧宮,時人以爲天后酖之也。
  壬寅,車駕還洛陽宮。五月,戊申,下詔:「朕方欲禪位皇太子,而疾遽不起,宜申往命,加以尊名,可謚爲孝敬皇帝。」
  六月,戊寅,立雍王賢爲皇太子,赦天下。
9.太子弘仁は仁孝謙謹だったので、上はこれをとても愛していた。士大夫に対しても礼儀をもって接していたので、中外の衆望を得ていた。だが、天后はその野望が逞しく、太子の奏請がしばしば彼女の想いに逆らっていたので、太子への愛情が薄れていった。
 義陽、宣城の二公主は蕭淑妃の娘だが、母の罪に連座して掖庭へ幽閉されたまま、三十年も嫁げなかった。太子はこれを見て驚き同情して、すぐさま嫁がせるよう奏請した。上はこれを許した。天后は怒り、公主をその日のうちに上翊衛の権毅と王遂古へ嫁がせた。
 己亥、太子が合璧宮にて薨去した。時人は天后が毒殺したと噂した。
 壬寅、車駕が洛陽宮へ還った。
 五月、戊申、詔が下った。
「朕はそろそろ皇太子へ位を譲るつもりだったが、突然の病で亡くなってしまった。これに尊名を加え、孝敬皇帝と諡しよう。」
 六月、戊寅、雍王賢を立てて皇太子とし、天下に恩赦を下した。
 10天后惡慈州刺史杞王上金,有司希旨奏其罪;秋,七月,上金坐解官,澧州安置。
10.天后は慈州刺史杞王上金を憎んでいた。意を受けた役人たちが彼の罪状を上奏した。
 秋、七月、上金は罪をえて官職を解かれ、澧州に安置された。
 11八月,庚寅,葬孝敬皇帝于恭陵。
11.八月、庚寅、孝敬皇帝を恭陵に葬った。
 12戊戌,以戴至德爲右僕射,庚子,以劉仁軌爲左僕射,並同中書門下三品如故。張文瓘爲侍中,郝處俊爲中書令,李敬玄爲吏部尚書兼左庶子,同中書門下三品如故。
  劉仁軌、戴志德更日受牒訴,仁軌常以美言許之,至德必據理難詰,未嘗與奪,實有冤結者,密爲奏辯。由是時譽皆歸仁軌。或問其故,至德曰:「威福者人主之柄,人臣安得盜取之!」上聞,深重之。有老嫗欲詣仁軌陳牒,誤詣至德,至德覽之未終,嫗曰:「本謂是解事僕射,乃不解事僕射邪!歸我牒!」至德笑而授之。時人稱其長者。文瓘時兼大理卿,囚聞改官,皆慟哭。文瓘性嚴正,諸司奏議,多所糾駮,上甚委之。
12.戊戌、戴至徳を右僕射とする。庚子、劉仁軌を左僕射とする。共に、同中書門下三品は従来通り。張文瓘を侍中、郝處俊を中書令とする。李敬玄は、吏部尚書左庶子となって、同中書門下三品は従来通り。
 劉仁軌も戴至徳も終日、申請を受けた。仁軌はいつも優しく受け付けたが、至徳は必ず理詰めで詰問し、許可を容易に下ろさなかった。だから至徳は、怨みを買うことが多く、密かに上書する者もいた。そういう訳で、人々の称賛は仁軌へ集まった。
 ある者が、至徳にその理由を問うたところ、至徳は言った。
「威福は人主が持つものだ。どうして人臣が盗み得て良いものだろうか!」
 上はこれを聞いて、至徳を深く重んじた。
 ある時老婆が、仁軌に出すつもりだった申請書を、誤って至徳に出してしまった。至徳がこれを受け取ると、まだ読み終わらないうちに老婆は言った。
「貴方は物わかりの良い僕射と思ってましたが、意固地な方の僕射でしたか!私の申請書を返してください!」
 至徳は笑ってこれを返した。時人は、至徳を立派だと褒め称えた。
(「牒訴」を、「申請書」と訳しました。誤訳かも知れません。「老嫗」は、ごく普通のお婆さんのことでしょう。すると、民間人が僕射に対して、面会して申請書を提出することになります。この時期の役人と民間人の距離感を読みとる上で、かなり重要なエピソードと思います。ですから、当時の政治事情に精通している方からの検定をお願いします。ついでに言うなら、「更日」も、よく判らない。「更」には通常の「更に」の他、「一刻(二時間)」とゆう意味もありますから、「終日」と訳したのですが。)
 文灌は、当時大理卿を兼務していた。官職が代わったと聞き、皆は慟哭した。
 文灌は厳正な性格で、諸司の奏議の大半は糾駁したので、上はとても信頼した。
儀鳳元年(丙子、六七六)

 春,正月,壬戌,徙冀王輪爲相王。
1.春、正月、壬戌、冀王輪を相王とした。
 納州獠反,敕黔州都督發兵討之。
2.納州の獠が造反した。兵を発して討伐するよう黔州都督へ勅命を下した。
 二月,甲戌,徙安東都護府於遼東故城;先是有華人任東官者,悉罷之。徙熊津都督府於建安故城;其百濟戸口先徙於徐、兗等州者,皆置於建安。
3.二月、甲戌、安東都護府を遼東の故城に移した。これに先だって、東官に任命された華人を全員罷免した。
 熊津都督府を建安の故城に移した。これまで徐・兗などの州に移住させていた百済人をみな、建安に移住させた。
 天后勸上封中嶽;癸未,詔以今冬有事于嵩山。
4.天后が、中嶽で封禅するよう、上へ勧めた。
 癸未、祟山にて今冬封禅すると詔が降りる。
 丁亥,上幸汝州之温湯。
5.丁亥、上が汝州の温泉へ御幸した。
 三月,癸卯,黄門侍郎來恆、中書侍郎薛元超並同中書門下三品。恆,濟之兄;元超,收之子也。
6.三月、癸卯、黄門侍郎来恒、中書侍郎薛元超を共に同中書門下三品とした。
 来恒は来済の兄、薛元超は薛収の子である。
 甲辰,上還東都。
7.甲辰、上が東都に帰還した。
 閏月,吐蕃寇鄯、廓、河、芳等州,敕左監門衞中郎將令狐智通發興、鳳等州兵以禦之。己卯,詔以吐蕃犯塞,停封中嶽。乙酉,以洛州牧周王顯爲洮州道行軍元帥,將工部尚書劉審禮等十二總管,并州大都督相王輪爲涼州道行軍元帥,將左衞大將軍契苾何力等,以討吐蕃。二王皆不行。
8.閏月、吐蕃が鄯、廓、河、芳等の州に来寇した。左監門衛中郎将の令孤智通に、興・鳳などの州兵を徴発して防御するよう勅命を下した。
 己卯、吐蕃が塞を犯したので、中嶽での封禅を中止すると詔した。
 乙酉、洛州牧周王顕を洮州道行軍元帥として、工部尚書劉審礼など十二総督を率いさせ、并州大都督相王輪を涼州道大都督として、左衛大将軍契苾何力等を率いさせて吐蕃を討伐させた。
 しかし、二王は共に出征しなかった。
 庚寅,車駕西還。
9.庚寅、車駕が西に帰還した。
 10甲寅,中書侍郎李義琰同中書門下三品。
10.甲寅、中書侍郎李義炎を同中書門下三品とした。
 11戊午,車駕至九成宮。
11.戊午、車駕が九成宮へ至った。
 12六月,癸亥,黄門侍郎晉陵高智周同中書門下三品。
12.六月、癸亥、黄門侍郎の晋陵の高智周を同中書門下三品とした。
 13秋,八月,乙未,吐蕃寇疊州。
13.秋、八月、乙未、吐蕃が畳州に来寇した。
 14壬寅,敕:「桂、廣、交、黔等都督府,比來注擬土人,簡擇未精,自今毎四年遣五品已上清正官充使,仍令御史同往注擬。」時人謂之南選。
14.壬寅、勅命を下した。
「桂、広、交、黔などの都督府は、今まで地元の人間に文書を作らせていたので、内容が粗雑だった。今後は四年ごとに五品以上の清正官を派遣し、これに充てる。また、御史も同行させて文書を作成させる。」
 時人は、これを南選と呼んだ。
 15九月,壬申,大理奏左威衞大將軍權善才、左監門中郎將范懷義誤斫昭陵柏,罪當除名;上特命殺之。大理丞太原狄仁傑奏:「二人罪不當死。」上曰:「善才等斫陵柏,我不殺則爲不孝。」仁傑固執不已,上作色,令出,仁傑曰:「犯顏直諫,自古以爲難。臣以爲遇桀、紂則難,遇堯、舜則易。今法不至死而陛下特殺之,是法不信於人也,人何所措其手足!且張釋之有言:『設有盜長陵一抔土,陛下何以處之?』今以一株柏殺二將軍,後代謂陛下爲何如矣?臣不敢奉詔者,恐陷陛下於不道,且羞見釋之於地下故也。」上怒稍解,二人除名,流嶺南。後數日,擢仁傑爲侍御史。
  初,仁傑爲并州法曹,同僚鄭崇質當使絶域。崇質母老且病,仁傑曰:「彼母如此,豈可使之有萬里之憂!」詣長史藺仁基,請代之行。仁基素與司馬李孝廉不叶,因相謂曰:「吾輩豈可不自愧乎!」遂相與輯睦。
15.九月、壬申、左威衛大将軍権善才と左監門中郎将范懐義が、昭陵の柏を誤って断ち切った。大理は、この罪は除名に相当すると上奏したが、上は特に死刑にするよう命じた。
 大理丞狄仁傑が上奏した。
「二人の罪は、死刑には相当しません。」
 すると、上は言った。
「善才等は陵の柏を断ち切ったのだ。殺さなければ、我は不孝になる。」
 仁傑は固執して止まなかったので、上は顔色を変え、退出を命じた。しかし、仁傑は言った。
「顔を犯して直諫するのは、昔から困難なこととされています。しかし、臣はそうは思いません。桀や紂に対してならば困難でしょうが、堯や舜に対してならば容易なのです。今、法では死刑にならないのに、陛下が特にこれを殺したら、法は人々に信用されなくなります。そうなれば、人はどのように行動すればよいのでしょうか!それに張釈之の言葉がありました。『長陵の一杯の土を盗む者がいれば、陛下はどのように処罰するのですか?』と。今もし柏の一株のために二将軍を殺したら、陛下は後世から何と言われるでしょうか!臣が敢えて詔を奉じないのは、陛下が不道に陥るのが恐ろしく、あの世で釈之に会うのが恥ずかしいからです。」
 上の怒りはやや収まり、二名は除名のうえ嶺南へ流された。
 後日、仁傑を侍御史に抜擢した。
 昔、仁傑が并州の法曹だったころ、同僚の鄭祟質が絶域への使者に選ばれた。ところが祟質の母は年老いた上に病気だったので、仁傑は言った。
「彼の母はあの状態だ。どうして万里の憂いをさせられようか!」
 そして長史の藺仁基のもとへ出向いて、代わりに行くことを請願した。仁基はもともと司馬の李孝廉と仲が悪かったが、同僚を思う仁傑の姿を見て、互いに言い合った。
「我らが仲違いをしていては、彼らに恥ずかしいぞ!」
 ついに、彼らは仲良くなった。
 16冬,十月,車駕還京師。
16.冬、十月。車駕が京師へ還った。
 17丁酉,祫享太廟,用太學博士史璨議,禘後三年而祫,祫後二年而禘。
17.丁酉、祖先を太廟へ合わせ祭った。太学博士史璨の建議を用い、禘の三年後に祫を行い、祫の二年後に禘を行う。
 18郇王素節,蕭淑妃之子也,警敏好學。天后惡之,自岐州刺史左遷申州刺史。乾封初,敕曰:「素節既有舊疾,不須入朝。」而素節實無疾,自以久不得入覲,乃著忠孝論。王府倉曹參軍張柬之因使潛封其論以進。后見之,誣以贓賄,丙午,降封鄱陽王,袁州安置。
18.郇王素節は蕭淑妃の子息である。警敏で学問を好んだ。天后はこれを憎み、岐州刺史から申州刺史へ左遷した。
 乾封年間の初め、勅命が下った。
「素節は昔の病気がぶり返した。入朝しなくてもよい。」
 だが、実は病気などなかった。素節は、これから長い間謁見できないと思い知り、『忠孝論』を著した。
 王府倉参軍の張東乃が、この論文に封をして、密かに使者を派遣して上へ献上した。后はこれを見ると、贈賄の罪で誣告した。丙午、素節は鄱陽王に降封され、袁州に安置された。
 19十一月,壬申,改元,赦天下。
19.十一月、壬申、改元して天下へ恩赦を下した。
 20庚寅,以李敬玄爲中書令。
20.庚寅、李敬玄を中書令とした。
 21十二月,戊午,以來恆爲河南道大使,薛元超爲河北道大使,尚書左丞ㄢ陵崔知悌、國子司業鄭祖玄爲江南道大使,分道巡撫。
21.十二月、戊午、来恒を河南道大使とし、薛元超を河北道大使とし、尚書左丞のㄢ陵の崔知悌と国子司業の鄭祖玄を江南道大使として、道ごとに分けて巡撫させた。
二年(丁丑、六七七)

 春,正月,乙亥,上耕藉田。
1.春、正月、乙亥、上が籍田を耕した。
 初,劉仁軌引兵自熊津還,扶餘隆畏新羅之逼,不敢留,尋亦還朝。二月,丁巳,以工部尚書高藏爲遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯高麗餘衆;高麗先在諸州者,皆遣與藏倶歸。又以司農卿扶餘隆爲熊津都督,封帶方王,亦遣歸安輯百濟餘衆,仍移安東都護府於新城以統之。時百濟荒殘,命隆寓居高麗之境。藏至遼東,謀叛,潛與靺鞨通;召還,徙邛州而死,散徙其人於河南、隴右諸州,貧者留安東城傍。高麗舊城沒於新羅,餘衆散入靺鞨及突厥,隆亦竟不敢還故地,高氏、扶餘氏遂亡。
2.かつて、劉仁軌が兵を率いて熊津から帰還したとき、扶餘隆は新羅が迫ってくるのを畏れ、敢えて留まらずに、やがてまた朝廷に戻った。
 二月、丁已、工部尚書高藏を遼東州都督として朝鮮王に封じた。そして、遼東に帰らせ、高麗の残党を集めさせた。滅亡以前に諸州に移住させられていた高麗人も、みな藏と共に帰国させた。
 また、司農卿扶餘隆を熊津都督として帯方王に封じた。百済の残党を集めて故郷へ帰らせ、安東都護府を新城へ移して彼らを統治した。この頃、百済は荒れ果てていたので、隆に高麗との国境付近へ居を構えるよう命じた。
 藏は遼東へ到着すると、造反を謀り、密かに靺鞨と通じた。彼は召還され、邛州にうつされて死んだ。彼の民は河南や隴右の諸州にばらばらにうつされたが、貧しい者は安東城の近くに留めた。高麗の旧城は新羅に奪われ、余衆は靺鞨や突厥へ逃げ込んだ。
 隆もまた、敢えて故郷に戻らず、こうして高氏と扶餘氏は滅亡した。
 三月,癸亥朔,以郝處俊、高智周並爲左庶子,李義琰爲右庶子。
  夏,四月,左庶子張大安同中書門下三品。大安,公謹之子也。
3.三月、癸亥朔、郝處俊と高智周をともに左庶子とし、李義琰を右庶子とした。
 夏、四月、左庶子張大安を同中書門下三品とした。張大安は張公謹の子である。
 詔以河南、北旱,遣御史中丞崔謐等分道存問賑給。侍御史寧陵劉思立上疏,以爲:「今麥秀蠶老,農事方殷,敕使撫巡,人皆竦抃,忘其家業,冀此天恩,聚集參迎,妨廢不少。既縁賑給,須立簿書,本欲安存,更成煩擾。望且委州縣賑給,待秋務閒,出使褒貶。」疏奏,謐等遂不行。
4.河南、河北で旱が起こったので、御史中丞崔謐らを道ごとに派遣し、被害状況を検分して賑給するよう、詔を下した。すると、侍御史の劉思立が上疏した。
「今は、麦の刈り入れと蚕の繭つむぎで人手を取られる時期です。それなのに勅使が撫巡したら、人は皆恐々としてその家業を忘れ、天恩をこいねがって出迎えに集まります。これでは生業に少なからず支障を来します。そして、賑給の為には帳簿を作らなければなりませんので、民を安寧にさせようとして、却ってかき乱す結果になってしまいます。しばらくは州県の賑給に委ね、秋になるのを待ってから使者を出して褒貶されますよう、お願いいたします。」
 これが受け入れられ、謐らは派遣されなかった。
 五月,吐蕃寇扶州之臨河鎭,擒鎭將杜孝昇,令齎書説松州都督武居寂使降,考昇固執不從。吐蕃軍還,捨孝昇而去,孝昇復帥餘衆拒守。詔以孝昇爲游撃將軍。
5.五月、吐蕃が扶州の臨河鎮へ来寇し、鎮将の杜孝昇を捕らえた。彼らは、松州提督武居寂を降伏させようと、説得文を書くよう孝昇に命じたが、孝昇は拒絶した。
 吐蕃は帰国する時、孝昇を捨て去って行った。孝昇は敗残兵をかき集めて、再び拒守した。孝昇を游撃将軍とするよう、詔を下した。
 秋,八月,徙周王顯爲英王,更名哲。
6.秋、八月、周王顕を英王として、哲と改名させた。
 命劉仁軌鎭洮河軍。冬,十二月,乙卯,詔大發兵討吐蕃。
7.劉仁軌に命じて洮河軍に鎮守させた。
 冬、十二月、乙卯、兵を大いに発して吐蕃を討つよう詔を下した。
 詔以顯慶新禮,多不師古,其五禮並依周禮行事。自是禮官益無憑守,毎有大禮,臨時撰定。
8.顕慶の新礼が多く古を規範としていないため、その五礼と共に周礼にも基づいて事を行うよう詔を下した。これ以来、礼官はますます基準が無くなり、臨時に選定するようになった。
三年(戊寅、六七八)

 春,正月,辛酉,百官及蠻夷酋長朝天后于光順門。
1.春、正月、辛酉、百官及び蛮夷の酋長が光順門で天后に朝見した。
 劉仁軌鎭洮河,毎有奏請,多爲李敬玄所抑,由是怨之。仁軌知敬玄非將帥才,欲中傷之,奏言:「西邊鎭守,非敬玄不可。」敬玄固辭。上曰:「仁軌須朕,朕亦自往,卿安得辭!」丙子,以敬玄代仁軌爲洮河道大總管兼安撫大使,仍檢校鄯州都督。又命益州大都督府長史李孝逸等發劍南、山南兵以赴之。孝逸,神通之子也。
  癸未,遣金吾將軍曹懷舜等分往河南、北募猛士,不問布衣及仕宦。
2.劉仁軌が洮河に鎮守して以来、彼の奏請は李敬玄によって横やりを入れられることが多く、このため彼をうらんでいた。仁軌は敬玄に帥才が無いことを知っていたので、彼を傷つけようと、上奏して言った。
「西辺の鎮守は、敬玄以外にはいません!」
 敬玄が固辞すると、上は言った。
「仁軌が推すならば、朕自らでも出向こう。卿がどうして辞退するのか!」
 丙子、敬玄を仁軌の代わりに洮河道大総管兼安撫大使並びに検校鄯州都督とした。また、剣南、山南の兵を徴発してこれへ赴くよう、益州大都督府長史李孝逸らに命じた。
 李孝逸は、李神通の子息である。
 癸未、金吾将軍曹懐舜らを河南、河北へ分散派遣して、布衣や仕宦に関わらず、猛士を募集した。
 夏,四月,戊申,赦天下,改來年元爲通乾。
3.夏、四月、戊申、天下に恩赦を下し、来年から通乾と改元することにした。
 五月,壬戌,上幸九成宮。丙寅,山中雨,大寒,從兵有凍死者。
4.五月、壬戌、上が九成宮へ御幸した。
 丙寅、山中で雨が降り、寒さが厳しく、随従の兵卒に凍死者が出た。
 秋,七月,李敬玄奏破吐蕃於龍支。
5.秋、七月、李敬玄が龍支にて吐蕃を撃破したと上奏した。
 上初即位,不忍觀破陣樂,命撤之。辛酉,太常少卿韋萬石奏:「久寢不作,懼成廢缺。請自今大宴會復奏之。」上從之。
6.上は即位当初、破陣楽を見るに忍びず、これを撤廃させていた。
 辛酉、太常少卿韋萬石が上奏した。
「長い間演奏されないと、やがては忘れ去られ復元不能になる懼れがあります。どうか今後は大宴会の時には再び演奏させるようにしてください。」
 上はこれに従った。
 九月,辛酉,車駕還京師。
7.九月、辛酉、車駕が京師に帰還した。
 上將發兵討新羅,侍中張文瓘臥疾在家,自輿入見,諫曰:「今吐蕃爲寇,方發兵西討;新羅雖云不順,未嘗犯邊,若又東征,臣恐公私不勝其弊。」上乃止。癸亥,文瓘薨。
8.上が新羅討伐軍を起こそうとした。この時、侍中の張文灌が病気になって自宅に伏せったので、上が輿に乗って見舞いに行くと、文灌は諫めた。
「今、吐蕃が攻撃してきたため、一方では兵を発して西を討っています。新羅は従順ではないとはいえ、まだ国境を侵したわけではありません。もし東征も行いますと、公私共にその負担に耐えられないのではないかと懼れます。」
 そこで上は、東征を中止した。
 癸亥、文灌が薨去した。
 丙寅,李敬玄將兵十八萬與吐蕃將論欽陵戰於靑海之上,兵敗,工部尚書、左衞大將軍彭城僖公劉審禮爲吐蕃所虜。時審禮將前軍深入,頓于濠所,爲虜所攻,敬玄懦怯,按兵不救。聞審禮戰沒,狼狽還走,頓于承風嶺,阻泥溝以自固,虜屯兵高岡以壓之。左領軍員外將軍黑齒常之,夜帥敢死之士五百人襲撃虜營,虜衆潰亂,其將跋地設引兵遁去,敬玄乃收餘衆還鄯州。
  審禮諸子自縛詣闕,請入吐蕃贖其父,敕聽次子易從詣吐蕃省之。比至,審禮已病卒,易從晝夜號哭不絶聲;吐蕃哀之,還其尸,易從徒跣負之以歸。
  上嘉黑齒常之之功,擢拜左武衞將軍,充河源軍副使。
  李敬玄之西征也,監察御史原武婁師德應猛士詔從軍,及敗,敕師德收集散亡,軍乃復振。因命使于吐蕃,吐蕃將論贊婆迎之赤嶺。師德宣導上意,諭以禍福,贊婆甚悅,爲之數年不犯邊。師德遷殿中侍御史,充河源軍司馬,兼知營田事。
  上以吐蕃爲憂,悉召侍臣謀之,或欲和親以息民;或欲嚴設守備,俟公私富實而討之;或欲亟發兵撃之。議竟不決,賜食而遣之。
  太學生宋城魏元忠上封事,言禦吐蕃之策,以爲:「理國之要,在文與武。今言文者則以辭華爲首而不及經綸,言武者則以騎射爲先而不及方略,是皆何益於理亂哉!故陸機著辨亡之論,無救河橋之敗,養由基射穿七札,不濟ㄢ陵之師,此已然之明效也。古語有之:『人無常俗,政有理亂;兵無強弱,將有巧拙。』故選將當以智略爲本,勇力爲末。今朝廷用人,類取將門子弟及死事之家,彼皆庸人,豈足當閫外之任!李左車、陳湯、呂蒙、孟觀,皆出貧賤而立殊功,未聞其家代爲將也。
  夫賞罰者,軍國之切務,苟有功不賞,有罪不誅,雖堯、舜不能以致理。議者皆云:『近日征伐,虚有賞格而無事實。』蓋由小才之吏不知大體,徒惜勳庸,恐虚倉庫。不知士不用命,所損幾何!黔首雖微,不可欺罔。豈得懸不信之令,設虚賞之科,而望其立功乎!自蘇定方征遼東,李勣破平壤,賞絶不行,勳仍淹滯,不聞斬一臺郎,戮一令史,以謝勳人。大非川之敗,薛仁貴、郭待封等不即重誅,曏使早誅仁貴等,則自餘諸將豈敢失利於後哉!臣恐吐蕃之平,非旦夕可冀也。
  又,出師之要,全資馬力。臣請開畜馬之禁,使百姓皆得畜馬;若官軍大舉,委州縣長吏以官錢增價市之,則皆爲官有。彼胡虜恃馬力以爲強,若聽人間市而畜之,乃是損彼之強爲中國之利也。」先是禁百姓畜馬,故元忠言之。上善其言,召見,令直中書省,仗内供奉。
9.丙寅、李敬玄が十八万の軍を率いて青海の上で吐蕃の将論欽陵と戦った。敗北して、工部尚書、右衛大将軍彭城僖公劉審礼が吐蕃に捕らわれた。
 戦争中、劉審礼は前軍を率いて敵中深く攻め込み、濠所へ屯営した。そこを虜に攻撃されたが、敬玄が臆病にも兵を抑えて救援しなかった。審礼が敗北したと聞き、狼狽して撤退した。承風嶺に屯営したが、ここは泥溝に阻まれているので、防備が堅固だと思った。虜は、高岡へ陣取って、これを威圧した。左領軍員外将軍黒歯常之が、決死隊五百を率いて虜営へ夜襲を掛けると、虜衆は潰乱した。その将の跋地設は兵を率いて逃げた。そこで敬玄は、余衆をかき集めて鄯州に戻った。
 劉審礼の諸子は自分を縛り上げて闕を詣で、吐蕃へ入って父親を贖いたいと請願した。敕が下り、次男の劉易従が吐蕃へ行くことを許した。だが、彼が吐蕃へ到着した時には、審礼は既に病没していた。易従は慟哭し、その哭声は一昼夜途絶えなかった。吐蕃はこれを哀れみ、屍を帰してやった。易従はこれを背負って帰国した。
 上は黒歯常之の功績を嘉し、左武衛将軍へ抜擢し、河源軍副使とした。
 李敬玄の西征では、監察御史の原武の婁師徳が猛士募集の詔に応じて従軍していた。敗北すると、師徳へ敗残兵を集めるよう敕が降り、軍は再び強力になった。そこで、吐蕃への使者を命じた。吐蕃では、将の論賛婆が赤嶺にて彼を迎えた。師徳が上意を述べ、禍福を以て諭すと、賛婆はすこぶる悦び、以来、数年間国境を犯さなかった。
 師徳は段々に出世して殿中侍御史となり、河源軍司馬兼知営田事となった。
 上は吐蕃の事を憂え、侍臣を全員集めて対策を求めた。ある者はこれと和親して民を休ませようと言い、ある者は防備を固めた上で、公私共に豊かになるのを待ってから討伐せよと言い、ある者は速やかに討伐せよと言った。議論は遂に纏まらず、食事をして解散した。
 太学生の宋城の魏元忠が吐蕃防御の柵について、封書を上へ提出した。その大意は、
「国を治める要点は、文と武にあります。今、文を言う者は言葉の華やかさを第一にして経倫へ言及せず、武を言う者は騎射を第一として方略を語りません。これが、乱を治めるのに何の役に立ちましょうか!ですから陸機は弁亡の論を著しましたが河橋の敗北を救えず、養由基は七札を穿ちながらㄢ陵にて敗北しました。これは、理の当然です。古語にあります。『人に常の風俗はない。ただ政治に治乱があるのだ。兵に強弱はない。ただ将に巧拙があるのだ。』ですから将を選ぶには知略を第一とし、勇力は末に置かなければなりません。今、朝廷の人事は、将門の子弟や戦死者の一族を抜擢していますが、彼等は皆凡庸な人間。どうして外征を任せるに足りましょうか!李左車、陳湯、呂蒙、孟観は皆貧賤の出自で大功を建てましたが、その家門から名将が出たという話を聞きません。
 それ賞罰は軍国の切務です。いやしくも功有りて賞せず罪有りて誅しなければ、堯、舜といえども治めることはできません。議論する者は皆言います。『最近の征伐は、口先では褒賞があると言っているが、実際には出しはしない。』けだし、小才の吏は大礼を知らず、官庫が空っぽになることを懼れて、いたずらに勲庸を惜しんでいます。彼等は、士が命を捨てなければどれ程の害を産むかを知らないのです!人民は微弱ですが、欺くことはできません。信じられない命令をくだし虚妄の賞罰を設けて、どうして功績を建てることを望めましょうか!蘇定方が遼東を征伐して李勣が平壌を撃破した時には賞は絶えて行われず、勲は凝滞し、勲人へ謝る為に一台郎や一令史を誅殺したとゆう話さえ聞きませんでした。大非川の敗戦では、薛仁貴や郭待封を誅殺しませんでした。もしも彼等を即座に誅殺すれば、他の諸侯達が、どうして後の戦いで利を失ったりしたでしょうか!臣は吐蕃平定が旦夕に片づかないことを恐れます。
 また、出帥の要は全て馬の力にかかっております。臣は、畜馬の禁令を解いて百姓へ馬を蓄えさせるよう請願いたします。官軍が大挙する時は、官銭でこれを購入するよう州県の長史へ命じるのです。そうすれば、官には馬が溢れます。あの胡虜は、馬の力を恃んで強大になったのです。もしも人々が馬を自由に売買して蓄えれば、敵の長所を損ない、中国の利益となります。」
 これ以前に、百姓が馬を蓄えることの禁令が発布されていた。だから元忠はこう言ったのだ。上はその言葉を善とし、呼び出して謁見させ、直中書省杖内供奉とした。
 10冬,十月,丙午,徐州刺史密貞王元曉薨。
10.冬、十月、丙午、徐州刺史密貞王元暁が薨去した。
 11十一月,壬子,黄門侍郎、同中書門下三品來恆薨。
11.十一月、壬子、黄門侍郎、同中書門下三品来恒が薨去した。
 12十二月,詔停來年通乾之號,以反語不善故也。
12.十二月、来たる年に改元予定だった通乾の号は、反語で良くないので中止すると、詔を下した。
調露元年(己卯、六七九)

 春,正月,己酉,上幸東都。
  司農卿韋弘機作宿羽、高山、上陽等宮,制度壯麗。上陽宮臨洛水,爲長廊亙一里。宮成,上徙御之。侍御史狄仁傑劾奏弘機導上爲奢泰,弘機坐免官。左司郎中王本立恃恩用事,朝廷畏之。仁傑奏其姦,請付法司,上特原之,仁傑曰:「國家雖乏英才,豈少本立輩!陛下何惜罪人,以虧王法。必欲曲赦本立,請棄臣於無人之境,爲忠貞將來之戒!」本立竟得罪,由是朝廷肅然。
1.春、正月、己酉、上が東都へ御幸した。
 司農卿韋弘機が宿羽、高山、上陽等の宮殿を造った。それらはとても壮麗だった。
 上陽宮は洛水に臨み、長廓は一里にも及んだ。宮殿が落成すると、上はこれへ引っ越した。侍御史狄仁傑が弘機を、「上に奢泰を勧めた。」と弾劾した。弘機は有罪で免官となった。
 左司郎中王本立は寵恩を恃んで専横で、朝廷はこれを畏れた。仁傑はその姦悪を上奏し、法司に裁かせるよう請うた。上が特に彼を赦すと、仁傑は言った。
「国家に英才が乏しいとはいえ、本立程度の輩がどうして少ないでしょうか!陛下は何で罪人を惜しんで王法を汚されますのか。どうあっても本立を曲げて赦すとゆうのであれば、臣を無人の土地へ棄てて、忠貞の臣下達への将来の戒めとしてください!」
 本立は遂に有罪となった。
 朝廷は、これによって粛然とした。
 庚戌,右僕射、太子賓客道恭公戴至德薨。
2.庚戌、右僕射、太子賓客道恭公戴至徳が卒した。
 二月,壬戌,吐蕃贊普卒,子器弩悉弄立,生八年矣。時器弩悉弄與其舅麴薩若詣羊同發兵,有弟生六年,在論欽陵軍中。國人畏欽陵之強,欲立之,欽陵不可,與薩若共立器弩悉弄。
  上聞贊普卒,命裴行儉乘間圖之。行儉曰:「欽陵爲政,大臣輯睦,未可圖也。」乃止。
3.二月、壬戌、吐蕃の贊普が卒し、子の器弩悉弄が立った。生後八年であった。
 この時、器弩悉弄とその舅の麹薩若が羊同を詣で、兵を発した。器弩悉弄には六歳の弟が居たが、彼は論欽陵の軍中にいた。欽陵が強大なので国人は恐れてこれを立てたがったが、欽陵は不可として、薩若と共に器弩悉弄を立てた。
 上は贊普が卒したと聞き、この隙に乗じて攻撃するよう裴行倹へ命じたが、行倹は言った。
「欽陵が政務を執り、大臣は仲が善い。まだ図ってはなりません。」
 そこで、中止した。
 夏,四月,辛酉,郝處俊爲侍中。
4.夏、四月、辛酉、郝處俊を侍中とした。
 偃師人明崇儼,以符呪幻術爲上及天后所重,官至正諫大夫。五月,壬午,崇儼爲盜所殺,求賊,竟不得。贈崇儼侍中。
5.偃師の人明祟儼は、符呪幻術により上と天后に重んじられ、官は正諫大夫となった。
 五月、壬午、祟儼が盗賊に殺された。下手人を捜したが、見つからなかった。
 祟儼に侍中を追贈した。
 丙戌,命太子監國。太子處事明審,時人稱之。
6.丙戌、太子へ監国を命じた。
 太子の処理は判断が明確だったので、時人はこれを讃えた。
 戊戌,作紫桂宮於澠池之西。
7.戊戌、澠池の西に紫桂宮を作った。
 六月,辛亥,赦天下,改元。
8.六月、辛亥、天下に恩赦を下し、改元した。
 初,西突厥十姓可汗阿史那都支及其別帥李遮匐與吐蕃連和,侵逼安西,朝議欲發兵討之。吏部侍郎裴行儉曰:「吐蕃爲寇,審禮覆沒,干戈未息,豈可復出師西方!今波斯王卒,其子泥洹師爲質在京師,宜遣使者送歸國,道過二虜,以便宜取之,可不血刃而擒也。」上從之,命行儉册立波斯王,仍爲安撫大食使。行儉奏肅州刺史王方翼以爲己副,仍令檢校安西都護。
9.かつて、西突厥の十姓可汗阿史那都支とその別帥李遮匐が吐蕃と連合して、安西を侵し迫ったので、朝議は出兵してこれを討伐しようとした。すると、吏部侍郎裴行倹が言った。
「吐蕃の侵略で審礼は潰滅し、戦争が止みません。これでどうして西方へ出兵できましょうか!今、波斯王が卒して、その子の泥洹師は人質として京師へ在住しています。使者を派遣して帰国させましょう。その途中で二虜を通過しますから、隙を見てこれを取れば、刃に血塗らずして擒にできます。」
 上はこれに従い、行倹へ波斯王冊立を命じ、並びに安撫大食使とする。
 行倹は、粛州刺史王方翼を自分の副官並びに検校安西都護とするよう上奏した。
 10秋,七月,己卯朔,詔以今年冬至有事于嵩山。
10.秋、七月、己卯朔、今年の冬に嵩山にて封禅をすると詔した。
 11初,裴行儉嘗爲西州長史,及奉使過西州,吏人郊迎,行儉悉召其豪傑子弟千餘人自隨,且揚言天時方熱,未可渉遠,須稍涼乃西上。阿史那都支覘知之,遂不設備。行儉徐召四鎭諸胡酋長謂曰:「昔在西州,縱獵甚樂,今欲尋舊賞,誰能從吾獵者?」諸胡子弟爭請從行,近得萬人。行儉陽爲畋獵,校勒部伍,數日,遂倍道西進。去都支部落十餘里,先遣都支所親問其安否,外示閒暇,似非討襲,續使促召相見。都支先與李遮匐約,秋中拒漢使,猝聞軍至,計無所出,帥其子弟迎謁,遂擒之。因傳其契箭,悉召諸部酋長,執送碎葉城。簡其精騎,輕齎,晝夜進掩遮匐,途中,獲都支還使與遮匐使者同來;行儉釋遮匐使者,使先往諭遮匐以都支已就擒,遮匐亦降。於是囚都支、遮匐以歸,遣波斯王自還其國,留王方翼於安西,使築碎葉城。
11.かつて裴行倹は、西州長史となったことがあった。今回、朝廷の使者として西州を通過すると、吏人は郊外で出迎えた。行倹はその豪傑の子弟千余人を悉く召して自分に随従させ、宣伝した。
「これから暑くなるので、遠方へはいけない。西上にて涼むとしよう。」
 阿史那都支はこれを伺い知って、遂に防備をしなかった。
 行倹は四鎮の諸胡の酋長を静かに呼び寄せて言った。
「昔、西州にいた頃狩猟をしたが、とても楽しかった。今、昔のことを賞したいが、誰か吾と共に狩猟をする者はいないか?」
 諸胡の子弟は争って随従を請い、たちまち一万人近く集まった。
 行倹は、上辺は狩猟と言いながら、部伍の手綱を操り、数日間、西方へ急行した。都支の部落から十数里のところまで来ると、まず都支に親しい者を派遣し、その安否を問うた。こうして、上辺は遊覧に見せかけたので、まさか討襲とは思われなかった。続いて使者を派遣し、会見を促した。
 都支は、秋中は漢(夷人は、中国のことを「漢」と言っていた。ちなみに、漢代には「秦」と言っていた。)の使者を拒むよう、以前から李遮匐と同盟を結んでいたが、軍隊が突然やって来たのでどうする術もなく、子弟を率いて迎謁した。遂にこれを捕らえる。そして彼の契箭を入手し、これを使って緒部の酋長を悉く呼び寄せ、捕らえて碎葉城へ送った。
 ここで精騎を選び、軽装で遮匍の部落へ昼夜急行した。途中、遮匐の元から還ってくる都支の使者と遮匐の使者の一行を捕らえた。行倹は遮匐の使者を釈放し、これを先行させて、都支を捕らえたことをもとに遮匐を諭させた。遮匐もまた、降伏した。
 此処に於いて都支と遮匐を捕らえて帰国した。波斯王は自分で帰国させ、王方翼は安西へ留めて碎葉城を築かせた。
 12冬,十月,單于大都護府突厥阿史德温傅、奉職二部倶反,立阿史那泥熟匐爲可汗,二十四州酋長皆叛應之,衆數十萬。遣鴻臚卿單于大都護府長史蕭嗣業、右領軍衞將軍花大智、右千牛衞將軍李景嘉等將兵討之。嗣業等先戰屢捷,因不設備;會大雪,突厥夜襲其營,嗣業狼狽拔營走,衆遂大亂,爲虜所敗,死者不可勝數。大智、景嘉引歩兵且行且戰,得入單于都護府。嗣業減死,流桂州,大智、景嘉並免官。
  突厥寇定州,刺史霍王元軌命開門偃旗,虜疑有伏,懼而宵遁。州人李嘉運與虜通謀,事洩,上令元軌窮其黨與,元軌曰:「強寇在境,人心不安。若多所逮繋,是驅之使叛也。」乃獨殺嘉運,餘無所問,因自劾違制。上覽表大喜,謂使者曰:「朕亦悔之,向無王,失定州矣。」自是朝廷有大事,上多密敕問之。
12.冬、十月、単于大都護府突厥阿史徳温伝と奉職の二部が共に造反した。阿史那泥熟匐を可汗に立て、二十四州の酋長が皆、これに呼応して造反した。その数は数十万。
 朝廷は、鴻臚卿単于大都督長史蕭嗣業、右領軍衛将軍花大智、右千牛衛将軍李景嘉らに兵を与えてこれを討伐させた。
 嗣業は前哨戦でしばしば勝ったので、油断して防備をしなくなった。大雪が降った時、突厥はその陣営を襲撃した。嗣業は狼狽して営から逃げ出した。衆は大混乱に陥り、虜に敗北して大勢の死者が出た。大智と景嘉は歩兵を率いて戦いながら行軍し、遂に単于都護府へ入ることができた。
 嗣業は死刑を減じて桂州への流罪となり、大智と景嘉は共に免官となった。
 突厥は定州へ来寇した。すると刺史の霍王元軌は城門を開けて旗を収めるよう命じた。虜は伏兵があるかと疑い、懼れて夜に紛れて逃げた。
 州の住民李嘉運は、虜と密通していた。これが判明したので、上はその余党を糾明するよう元軌へ命じた。すると、元軌は言った。
「強寇は国境におり、人々は不安がっている。もしも大勢を逮捕したら、彼等を造反へ駆り立てることになる。」
 そして嘉運一人だけを処刑し、その他の者は問わなかった。そして自ら命令違反を弾劾した。上は上表を覧て大いに喜び、使者へ言った。
「朕はもう、先の命令を悔いている。王が居なければ、定州を失う。」
 これ以来、朝廷に大事が起こると、上は元軌へ密敕を出して、方策を尋ねるようになった。
 13壬子,遣左金吾衞將軍曹懷舜屯井陘。右武衞將軍崔獻屯龍門,以備突厥。突厥扇誘奚、契丹侵掠營州,都督周道務遣戸曹始平唐休璟將兵撃破之。
13.壬子、左金吾衛将軍曹懐舜を井陘に、右武衛将軍崔献を龍門に屯営させ、突厥へ備えた。
 突厥は奚、契丹を煽動して営州へ侵掠させた。都督周道務が戸曹の始平の唐休璟に兵を与えて撃破させた。
 14庚申,詔以突厥背誕,罷封嵩山。
14.庚申、突厥が背いたので、祟山の封禅を中止すると詔した。
 15癸亥,吐蕃文成公主遣其大臣論塞調傍來告喪,并請和親,上遣郎將宋令文詣吐蕃會贊普之葬。
15.癸亥、吐蕃の文成公主が、その大臣論塞調傍を派遣して喪を告げ、併せて和親を請うた。上は郎将宋令文を吐蕃へ派遣して、賛普の葬儀へ参列させた。
 16十一月,戊寅朔,以太子左庶子、同中書門下三品高智周爲御史大夫,罷知政事。
16.十一月、戊寅朔、太子左庶子、同中書門下三品の高智周を御史大夫として、知政事を辞めさせた。
 17癸未,上宴裴行儉,謂之曰:「卿有文武兼資,今授卿二職。」乃除禮部尚書兼檢校右衞大將軍。甲辰,以行儉爲定襄道行軍大總管,將兵十八萬,并西軍檢校豐州都督程務挺、東軍幽州都督李文暕總三十餘萬以討突厥,並受行檢節度。務挺,名振之子也。
17.癸未、上は裴行倹と宴会を開き、彼に言った。
「卿は文武の才を兼ね備えている。今、卿へ二職を授けよう。」
 そして礼部尚書兼検校右衛大将軍に除した。
 甲辰、行倹を定襄道行軍大総管として、十八万の兵を与え、西軍検校豊州都督程務挺、東軍幽州都督李文暕と共に三十余万で突厥を討伐させた。彼ら二人は共に行倹の指揮下とした。
 程務挺は、程名振の子である。
永隆元年(庚辰、六八〇)

 春,二月,癸丑,上幸汝州之温湯;戊午,幸嵩山處士三原田遊巖所居;己未,幸道士宗城潘師正所居,上及天后、太子皆拜之。乙丑,還東都。
1.春、二月、癸丑、上が汝州の温泉に御幸した。
 戊午、祟山の処士で三原の田遊巖の住居に御幸した。己未、道士の宗城の潘師正の住居に御幸した。上と天后、太子は、皆、彼らに拝礼した。
 乙丑、東都へ帰還した。
 三月,裴行儉大破突厥於黑山,擒其酋長奉職,可汗泥熟匐爲其下所殺,以其首來降。
  初,行儉行至朔川,謂其下曰:用兵之道,撫士貴誠,制敵貴詐。前日蕭嗣業糧運爲突厥所掠,士卒凍餒,故敗。今突厥必復爲此謀,宜有以詐之。」乃詐爲糧車三百乘,毎車伏壯士五人,各持陌刀、勁弩,以羸兵數百爲之援,且伏精兵於險要以待之;虜果至,羸兵棄車散走。虜驅車就水草,解鞍牧馬,欲取糧,壯士自車中躍出,撃之,虜驚走,復爲伏兵所邀,殺獲殆盡,自是糧運行者,虜莫敢近。
  軍至單于府北,抵暮,下營,掘塹已周,行儉遽命移就高岡;諸將皆言士卒已安堵,不可復動,行儉不從,趣使移。是夜,風雨暴至,前所營地,水深丈餘。諸將驚服,問其故,行儉笑曰:「自今但從我命,不必問其所由知也。」
  奉職既就擒,餘黨走保狼山。詔戸部尚書崔知悌馳傳詣定襄宣慰將士,且區處餘寇,行儉引軍還。
2.三月、裴行倹が黒山にて突厥を大いに破り、その酋長奉職を捕らえた。可汗泥熟匐は部下に殺され、彼らはその首を持って降伏してきた。その経緯は、以下の通り。
 行倹は朔川まで進軍すると、部下に言った。
「用兵の道は、部下を慰撫する時は誠を貴び、敵を制する時は詐術を貴ぶ。前日蕭嗣業は、突厥に輜重隊を襲撃されて兵糧を掠められ、士卒は飢え凍えたから、敗北したのだ。今、突厥は再び同じ事をする。だから詐術で対するべきだ。」
 そして、偽の糧車三百乗を準備し、車毎に壮士五人を伏せた。各々へ大刀、弩を持たせ、寂へ異数百人にこれを護衛させ、精兵を険要へ伏せて敵を待った。
 果たして、虜はやって来た。弱兵は車を捨てて逃げる。虜は、車を水や草のあるところまで牽いてきて、馬の鞍を解いて放牧し、兵糧を取ろうとした。その時、壮士達が車の中から躍り出て、これを襲撃した。虜は驚いて逃げたが、そこへ伏兵が飛びかかり、殆ど殺し尽くされた。
 これ以来、虜は輜重隊へ、敢えて近づこうとしなかった。
 軍が単于府の北へ到着したときには、もう暮れに近かった。唐軍は屯営し、その周囲に塹を掘った。ところが、行倹は高岡へ陣を移すよう命じた。諸将は皆、「士卒達は既に安堵しているので動かしてはならない」と言ったが、行倹は従わず、移動させた。その夜、暴風雨となり、最初に陣を布いた場所は一丈余りの水に呑み込まれてしまった。諸将は驚き、また、感服し、暴風雨を予知できた理由を尋ねたが、行倹は笑って言った。
「これからは、ただ我の命令に従え。その理由など問う必要はない。」
 さて、奉職が捕らえられると、その残党は狼山へ逃げ込んだ。戸部尚書崔知梯が詔を受けて定襄へ駆けつけて将士を宣撫し、残党を掃討した。
 行倹は軍を引き返した。
 夏,四月,乙丑,上幸紫桂宮。
3.夏、四月、乙丑、上が紫桂宮に御幸した。
 戊辰,黄門侍郎聞喜裴炎、崔知温、中書侍郎京兆王德眞並同中書門下三品。知温,知悌之弟也。
4.戊辰、黄門侍郎の聞喜の裴炎、崔知温、中書侍郎の京兆の王徳真を同中書門下三品とした。崔知温は、崔知悌の弟である。
 秋,七月,吐蕃寇河源,左武衞將軍黑齒常之撃卻之。擢常之爲河源軍經略大使。常之以河源衝要,欲加兵戍之,而轉輸險遠,乃廣置烽戍七十餘所,開屯田五千餘頃,歳收五百餘萬石,由是戰守有備焉。
  先是,劍南募兵於茂州西南築安戎城,以斷吐蕃通蠻之路。吐蕃以生羌爲郷導,攻陷其城,以兵據之,由是西洱諸蠻皆降於吐蕃。吐蕃盡據羊同、黨項及諸羌之地,東接涼、松、茂、雟等州;南鄰天竺,西陷龜茲、疏勒等四鎭,北抵突厥,地方萬餘里,諸胡之盛,莫與爲比。
5.秋、七月、吐蕃が河源に来寇した。左武衛将軍黒歯常之がこれを撃退した。常之を河源経略大使に抜擢した。
 常之は、河源が要衝なので守兵を増員しようと思ったが、ここは兵糧を運ぶには遠くて道も険しかった。そこで狼煙台を七十余箇所に設置し、屯田五千余頃を開拓した。毎年五百余石の穀物が取れるようになったので、戦争の守備が充実した。
 これ以前に、剣南が茂州にて募兵し、西南へ安戎城を築いて、吐蕃と蛮の通行を遮断していた。だが、吐蕃は生羌を道案内としてその城を攻め落とし、兵を入れて占拠した。これによって西耳の諸蛮はみな、吐蕃に降伏した。
 吐蕃は羊同、党項及び諸羌の全土を占拠する。その領土は、東は涼、松、茂、雟などの州に接し、南は天竺に接し、西は亀茲、疏勒など四鎮を陥し、北は突厥と接した。その広さは方万余里。諸胡がこれほど盛強になったことはなかった。
 丙申,鄭州刺史江王元祥薨。
6.丙申、鄭州刺史江王元祥が薨去した。
 突厥餘衆圍雲州,代州都督竇懷悊、右領軍中郎將程務挺將兵撃破之。
7.突厥の残党が雲州を包囲した。代州都督竇懐悊と右領軍中郎将程務挺が兵を率いてこれを撃破した。
 八月,丁未,上還東都。
8.八月、丁未、上が東都に帰還した。
 中書令、檢校鄯州都督李敬玄,軍既敗,屢稱疾請還;上許之。既至,無疾,詣中書視事;上怒,丁巳,貶衡州刺史。
9.中書令、検校鄯州都督李敬玄は、敗戦以来、しばしば病気と言い立てて帰京を請願した。上は、これを許した。だが、到着してみると病気ではなく、中書に出仕して政務を執った。上は怒り、丁巳、衡州刺史に左遷した。
 10太子賢聞宮中竊議,以賢爲天后姊韓國夫人所生,内自疑懼。明崇儼以厭勝之術爲天后所信,嘗密稱「太子不堪承繼,英王貌類太宗」。又言「相王相最貴」。天后嘗命北門學士撰少陽正範及孝子傳以賜太子,又數作書誚讓之,太子愈不自安。
  及崇儼死,賊不得,天后疑太子所爲。太子頗好聲色,與戸奴趙道生等狎昵,多賜之金帛。司議郎韋承慶上書諫,不聽。天后使人告其事。詔薛元超、裴炎與御史大夫高智周等雜鞫之,於東宮馬坊搜得皀甲數百領,以爲反具;道生又款稱太子使道生殺崇儼。上素愛太子,遲回欲宥之,天后曰:「爲人子懷逆謀,天地所不容;大義滅親,何可赦也!」甲子,廢太子賢爲庶人,遣右監門中郎將令狐智通等送賢詣京師,幽於別所,黨與皆伏誅,仍焚其甲於天津橋南以示士民。承慶,思謙之子也。
  乙丑,立左衞大將軍、雍州牧英王哲爲皇太子,改元,赦天下。
  太子洗馬劉訥言常撰俳諧集以獻賢,賢敗,搜得之,上怒曰:「以六經教人,猶恐不化,乃進俳諧鄙説,豈輔導之義邪!」流訥言於振州。左衞將軍高眞行之子政爲太子典膳丞,事與賢連,上以付其父,使自訓責。政入門,眞行以佩刀刺其喉,眞行兄戸部侍郎審行又刺其腹,眞行兄子琁斷其首,棄之道中。上聞之,不悅,貶眞行爲睦州刺史,審行爲渝州刺史。眞行,士廉之子也。
  左庶子、同中書門下三品張大安坐阿附太子,左遷普州刺史,其餘宮僚,上皆釋其罪,使復位,左庶子薛元超等皆舞蹈拜恩;右庶子李義琰獨引咎涕泣,時論美之。
10.宮中で、太子の賢は天后の姉の韓国夫人の子供だと言い立てられていたが、太子はこれを盗み聞きして、内心疑い懼れるようになった。
 明祟儼は、呪術で天后の信頼を勝ち得ていたが、彼はいつも言っていた。
「太子は天子の重責に堪えられません。そして英王の容貌は太宗に似ております。」
 また言った。
「相王の人相が、最も貴いものです。」
 天后はかつて北門学士に少陽正範と孝子伝を編纂させて太子へ賜った。また、しばしば書を作って、これを譴責した。太子はいよいよ不安になった。
 祟儼が死んだ時に下手人が見つからなかったが、天后は、太子の仕業ではないかと疑った。太子は声色をとても好み、戸奴の趙道生等と狎れ親しみ、たくさんの金帛を下賜した。司議郎韋承慶が上書して諫めたが、聞かなかった。天后は、人にこれを告発させた。
 薛元超、裴炎と御史大夫高智周らにこれを取り調べるよう詔が下った。すると、東宮の馬坊から武具数百領が見つかり、謀反の道具だとされた。道生もまた、大使の命令で自分が祟儼を殺したと称した。
 上は太子を愛していたので、これを宥めようとしたが、天后は言った。
「人の子となって逆謀を抱くなど、天地に容れられない人間です。大義は親をも滅します。何で赦せましょうか!」
 甲子、太子賢を廃して庶人とし、右監門中郎将令狐智通らを派遣して賢を京師へ護送させ、別所に幽閉した。与党は皆、誅殺された。その甲は天津橋の南で焼き払い、士民に示した。
 韋承慶は韋思謙の子である。
 乙丑、左衛大将軍、雍州牧英王哲を皇太子に立て、改元して天下に恩赦を下した。
 太子洗馬劉訥言はいつも俳諧集を撰集して賢に献上していた。賢が廃されるとこれが探し出された。上は怒って言った。
「六経で人を教えても、なお教化できないことを恐れるのに、俳諧鄙説を進めて、どうして輔導しているといえようか!」
 訥言を振州へ流した。
 左衛将軍高真行の子の政が太子典膳丞となり、太子の事件に連座した。上はこれを父親に預けて訓責させた。政が自宅の門に入ると、真行は佩刀でその喉を刺した。真行の兄の戸部尚書審行もまた、その腹を刺した。真行の兄の子の琁はその首を斬って道へ棄てた。上はこれを聞いて不愉快になり、真行を睦州刺史に、審行を渝州刺史に左遷した。高真行は高士廉の子である。
 左庶子、中書門下三品張大安は、太子におもねっていたとして普州刺史に左遷させられた。
 その他の宮僚は、上はみなその罪を赦してもとの官位に復した。左庶子薛元超らは躍り上がって喜び聖恩を拝した。ただ、右庶子の李義琰だけは我が身の咎に涕泣した。時論はこれを美談とした。
 11九月,甲申,以中書侍郎、同中書門下三品王德眞爲相王府長史,罷政事。
11.九月、甲申、中書侍郎、同中書門下三品王徳真が相王府長史となって朝政から引退した。
 12冬,十月,壬寅,蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蔣王煒,皆坐故太子賢之黨,明降封零陵郡王,黔州安置;煒除名,道州安置。
12.冬、十月、壬寅、蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蒋王煒が、共にもとの太子の仲間として有罪になり、明は零陵郡王へ降封されて黔州へ流され、煒は除名されて道州へ流された。
 13丙午,文成公主薨于吐蕃。
13.丙午、文成公主が吐蕃にて薨去した。
 14己酉,車駕西還。
14.己酉、車駕が西に帰還した。
 15十一月,壬申朔,日有食之。
15.十一月、壬申朔、日食が起こった。
開耀元年(辛巳、六八一)

 春,正月,突厥寇原、慶等州。乙亥,遣右衞將軍李知十等屯涇、慶二州以備突厥。
1.春、正月、突厥が原、慶などの州に来寇した。
 乙亥、右衛将軍李知十らを派遣して涇、慶二州に屯営させ、突厥に備えた。
 庚辰,以初立太子,敕宴百官及命婦於宣政殿,引九部伎及散樂自宣政門入。太常博士袁利貞上疏,以爲:「正寢非命婦宴會之地,路門非倡優進御之所,請命婦會於別殿,九部伎自東西門入,其散樂伏望停省。」上乃更命置宴於麟德殿;宴日,賜利貞帛百段。利貞,昂之曾孫也。
  利貞族孫誼爲蘇州刺史,自以其先自宋太尉淑以來,盡忠帝室,謂琅邪王氏雖奕世台鼎,而爲歴代佐命,恥與爲比,嘗曰:「所貴於名家者,爲其世篤忠貞,才行相繼故也。彼鬻婚姻求祿利者,又烏足貴乎!」時人是其言。
2.庚辰、太子が立ったばかりなので、宣政殿にて百官及び命婦と宴会を開くと敕した。九部の伎と散楽は宣政門から入る。
 太常博士袁利貞が上疏した。その大意は、
「正寝は、命婦へ宴会をさせる場所ではありません。路門は芸人風情が通る場所ではありません。命婦は別殿にて会し、九部の伎は東西の門から入れ、散楽は中止されますよう、伏してお願い申し上げます。」
 上は麟徳殿にて別に宴会を設置させた。
 宴会当日、利貞に帛百段を下賜した。袁利貞は袁昴の曾孫である。
 利貞の族孫の誼が蘇州刺史となった。彼は、祖先の袁淑が宋の太尉だった頃から帝室に忠誠を尽くしてきたことを自ら誇っており、言った。
「琅邪の王氏は、王朝が幾つ変わっても、いつもその大臣だった。そんな輩と比べられるのは、恥だ。」
 また言う。
「名家が貴いのは、代々忠貞に篤く、才覚や功績のある者が続出したからだ。あの、婚姻をダシにして金をかき集める連中など、貴ぶに足らん!」
 時人は、この言葉を正しいとした。
 裴行儉軍既還,突厥阿史那伏念復自立爲可汗,與阿史德温傅連兵爲寇。癸巳,以行儉爲定襄道大總管,以右武衞將軍曹懷舜、幽州都督李文暕爲副,將兵討之。
3.裴行倹の軍が帰国すると、突厥の阿史那伏念は再び自立して可汗となり、阿史徳温伝と連合して来寇した。
 癸巳、行倹を定襄道大総管とし、右武衛将軍曹懐舜と幽州都督李文東を副官として、兵を与えてこれを討伐させた。
 二月,天后表請赦杞王上金、鄱陽王素節之罪;以上金爲沔州刺史,素節爲岳州刺史,仍不聽朝集。
4.二月、天后が表にて杞王上金と鄱陽王素節の罪を赦すよう請うた。上金を沔州刺史、素節を岳州刺史とし、共に朝廷へ来ることを許さなかった。
 三月,辛卯,以劉仁軌兼太子少傅,餘如故。以侍中郝處俊爲太子少保,罷政事。
  少府監裴匪舒,善營利,奏賣苑中馬糞,歳得錢二十萬緡。上以問劉仁軌,對曰:「利則厚矣,恐後代稱唐家賣馬糞,非嘉名也。」乃止。匪舒又爲上造鏡殿,成,上與仁軌觀之,仁軌驚趨下殿。上問其故,對曰:「天無二日,土無二王,適視四壁有數天子,不祥孰甚焉!」上遽令剔去。
5.三月、辛卯、劉仁軌に、現状の官職に加えて太子少傅を兼任させた。侍中の郝處俊を太子太保とし、政事から引退させた。
 少府監裴匪舒は営利の才能があり、苑中の馬糞を売れば毎年二十万緡になると上奏した。上が仁軌へ尋ねると、対して言った。
「利益は大きいですが、『唐の帝室は、馬糞を売った』と後世から言われるのは、名誉ではありません。」
 そこで、中止した。
 匪舒は又、上の為に鏡殿を造った。落成したので、上と仁軌が観に行くと、仁軌は驚いて小走りに殿から駆け下りた。上がその訳を問うと、対して言った。
「天に二つの太陽がないように、地には二人の王は居ません。ところが四方の壁を視ますと、数人の天子が居ります。なんで熟視できましょうか。」
 上は、これを撤去させた。
 曹懷舜與裨將竇義昭將前軍撃突厥。或告「阿史那伏念與阿史德温傅在黑沙,左右纔二十騎以下,可徑往取也。」懷舜等信之,留老弱於瓠蘆泊,帥輕鋭倍道進,至黑沙,無所見,人馬疲頓,乃引兵還。
  會薛延陀部落欲西詣伏念,遇懷舜軍,因請降。懷舜等引兵徐還,至長城北,遇温傅,小戰,各引去。至橫水,遇伏念,懷舜、義昭與李文暕及裨將劉敬同四軍合爲方陳,且戰且行;經一日,伏念乘便風撃之,軍中擾亂,懷舜等棄軍走,軍遂大敗,死者不可勝數。懷舜等收散卒,斂金帛以賂伏念,與之約和,殺牛爲盟。伏念北去,懷舜等乃得還。
  夏,五月,丙戌,懷舜免死,流嶺南。
6.曹懐舜と裨将竇義昭が前軍を率いて突厥を攻撃した。
 ある者が告げた。
「阿史那伏念と阿史徳温伝は黒沙に居り、護衛もわずか二十騎以下です。行けば捕まえられます。」
 懐舜らはこれを信じ、老弱の兵を瓠蘆泊へ留めて軽鋭を率いて急行した。だが、黒沙に到着すると、誰もいなかった。人馬が疲弊したので、兵を引き返した。
 薛延陀の部落が伏念の麾下へ入ろうと西進していたが、懐舜軍へ遭遇し、降伏を請うた。
 懐舜等は兵を率いて静かに還ったが、長城の北にて温傅と遭遇した。少し戦って、各々兵を引いた。
 横水に至って、伏念と遭遇した。懐舜、義昭と李文東及び裨将劉敬同の四軍は合流して方陣を造った。戦いつつ進み、一日が経った。伏念が追い風に乗って攻撃したので、唐軍は乱れ、懐舜等は軍を棄てて逃げた。唐軍は遂に大敗し、数え切れないほどの死者が出た。
 懐舜らは敗残兵をかき集め、金帛をかき集めて伏念へ贈賄してこれと和平を約束した。牛を殺して盟約を結んだ。伏念が北へ去ったので、懐舜らは帰ることができた。
 夏、五月、丙戌、懐舜は死刑を免れ、嶺南に流された。
 己丑,河源道經略大使黑齒常之將兵撃吐蕃論贊婆於良非川,破之,收其糧畜而還。常之在軍七年,吐蕃深畏之,不敢犯邊。
7.己丑、河源道経略大使黒歯常之が兵を率いて良非川にて吐蕃の論贊婆を討ち、これを破った。その兵糧や家畜を収めて帰還した。
 常之が軍にいた七年間は、吐蕃はこれを深く畏れ、敢えて辺境を犯さなかった。
 初,太原王妃之薨也,天后請以太平公主爲女官以追福。及吐蕃求和親,請尚太平公主,上乃爲之立太平觀,以公主爲觀主以拒之。至是,始選光祿卿汾陰薛曜之子紹尚焉。紹母,太宗女城陽公主也。
  秋,七月,公主適薛氏,自興安門南至宣陽坊西。燎炬相屬,夾路槐木多死。紹兄顗以公主寵盛,深憂之,以問族祖戸部郎中克構,克構曰:「帝甥尚主,國家故事,苟以恭愼行之,亦何傷!然諺曰:『娶婦得公主,無事取官府。』不得不爲之懼也。」
  天后以顗妻蕭氏及顗弟緒妻成氏非貴族,欲出之,曰:「我女豈可使與田舎女爲妯娌邪!」或曰:「蕭氏,瑀之姪孫,國家舊姻。」乃止。
8.太原王妃が卒した時、天后は太平公主を女官として冥福を祈らせたいと請うた。やがて吐蕃が和親を求めると、太平公主を娶らせようと請うた。上は彼女の為に太平観を建て、公主を観主として、これを拒んだ。
 ここにいたって、始めて選光禄卿の汾陰の薛曜の子息の紹へ、太平公主を娶らせた。薛紹の母は、太宗の娘の城陽公主である。
 秋、七月、公主が薛氏に嫁いだ。興安門から南下して宣陽坊西へ至る。篝火がズラリと列んで、街路樹の槐がたくさん枯れた。
 紹の兄の顗は、公主の寵愛が盛んなので深くこれを憂えた。そこで一族の長老である戸部郎中克構に尋ねたところ、克構は言った。
「皇帝の甥が公主を娶るのは国家の故事だ。いやしくも恭慎で対するなら、何の禍が起ころうか!しかしながら、諺に言う。『公主を娶れば、官府を貰える。』懼れをなくしてはならぬぞ。」
 天后は、豈の妻の蕭氏と豈の弟の緒の妻の成氏が貴族ではないので、これを追い出したくなり、言った。
「我が娘を、田舎女と義姉妹にはできません!」
 すると、ある者が言った。
「蕭氏は瑀の姪孫です。国家の旧戚ですよ。」
 それで思い止まった。
 夏州羣牧使安元壽奏:「自調露元年九月以來,喪馬一十八萬餘匹,監牧吏卒爲虜所殺掠者八百餘人。」
9.夏州群牧使安元寿が上奏した。
「調露元年九月以来、馬十八万余匹を失い、監牧吏は八百余人が虜に殺掠されました。」
 10薛延陀達渾等五州四萬餘帳來降。
10.薛延陀の達渾ら五州四万余帳が来降した。
 11甲午,左僕射兼太子少傅、同中書門下三品劉仁軌固請解僕射,許之。
11.甲午、左僕射兼太子少傅、同中書門下三品劉仁軌が、僕射解任を固く請うたので、これを許した。
 12閏七月,丁未,裴炎爲侍中,崔知温、薛元超並守中書令。
12.閏七月、丁未、裴炎が侍中となり、崔知温、薛元超は共に中書令を留任させた。
 13上徴田游巖爲太子洗馬,在東宮無所規益。右衞副率蔣儼以書責之曰:「足下負巣、由之俊節,傲唐、虞之聖主,聲出區宇,名流海内。主上屈萬乘之重,申三顧之榮,遇子以商山之客,待子以不臣之禮,將以輔導儲貳,漸染芝蘭耳。皇太子春秋鼎盛,聖道未周,僕以不才,猶參庭諍,足下受調護之寄,是可言之秋,唯唯而無一談,悠悠以卒年歳。向使不餐周粟,僕何敢言!祿及親矣,以何酬塞?想爲不達,謹書起予。」游巖竟不能答。
13.上が田遊巖を太子洗馬としたが、東宮にて何一つ益することがなかった。右衛副率の蒋儼が、書状でこれを責めた。
「足下は巣・由の俊節を背負い、唐・虞の聖主に自惚れ、名声は海内に流れた。主上が万乗の重をおして自ら腰を曲げて三顧の礼を執り、君を商山の客(漢の二世皇帝の地位を確立した四人の賢人たち)とも頼み、不臣の礼で優遇した。これは、世継ぎの君を善導して欲しかったからだ。皇太子は良いお年なのに、立派な行いがあるとゆう噂を聞かない。僕は不才ではあるが、それでも庭にて諫め争っている。足下は調護の待遇を受けているのだから、今こそ言わなければならないときではないか。それなのにただ一言も言わず、悠々として年月を過ごしている。君が周の粟を食べないのなら、僕は何を言おうか!しかし、既に禄を受けて親を養っているのに、何で報いているのか?思うだけでは届かないので、謹んで書にして届ける。」
 遊巖は遂に返事をしなかった。
 14庚申,上以服餌,令太子監國。
14.庚申、上は服餌を以て、太子に監国を命じた。
 15裴行儉軍于代州之陘口,多縱反間,由是阿史那伏念與阿史德温傅浸相猜貳。伏念留妻子輜重於金牙山,以輕騎襲曹懷舜。行儉遣裨將何迦密自通漠道,程務挺自石地道掩取之。伏念與曹懷舜等約和而還,比至金牙山,失其妻子輜重,士卒多疾疫,乃引兵北走細沙,行儉又使副總管劉敬同、程務挺等將單于府兵追躡之。伏念請執温傅以自效,然尚猶豫,又自恃道遠,唐兵必不能至,不復設備。敬同等軍到,伏念狼狽,不能整其衆,遂執温傅,從間道詣行儉降。候騎告以塵埃漲天而至,將士皆震恐。行儉曰:「此乃伏念執温傅來降,非他盜也。然受降如受敵,不可無備。」乃命嚴備,遣單使迎前勞之。少選,伏念果帥酋長縛温傅詣軍門請罪。行儉盡平突厥餘黨,以伏念、温傅歸京師。
15.裴行倹は代州の陘口に陣を布き、反間工作に精を出した。これによって、阿史那伏念と阿史徳温伝は互いに猜疑し合うようになった。
 伏念は、妻子と輜重を金牙山に留め、軽騎で曹懐舜を襲撃した。行倹は裨将の何迦密を通漠道から、程務挺を石地道から金牙山へ派遣し、これを取った。伏念は曹懐舜と講和して還ったが、金牙山まで戻ってみると、妻子も輜重もない。その上、大勢の士卒が疾病にかかったので、兵を引いて北上し、細沙へ向かった。行倹は、又、副総管劉敬同、程務挺らへ単于府の兵を与えてこれを追跡させた。
 伏念は、温伝を捕らえて許して貰うことを請願したが、尚も躊躇していた。また、遠くまで逃げたことでもあるし、唐軍はやって来ないだろうと多寡を括って、ろくに防備もしていなかった。敬同らの軍が到着すると、伏念は狼狽し、軍を整えることもできず、遂に温傅を捕らえて、間道から行倹のもとへ出向いて、降伏した。
 斥候の騎兵が、「天まで立ち籠もるほどの塵埃がやって来る」と報告すると、将士は皆震え上がったが、行倹は言った。
「これは、伏念が温傅を捕らえて来降したのだ。他の賊ではない。しかし、降伏を受ける時は敵を迎撃するような態度で迎え入れるものだ。防備はしなければならない。」
 そして厳重な防備を命じ、使者を出して迎え入れ、ねぎらった。
 しばらくすると、果たして伏念は酋長を率いて温伝を縛り上げ、軍門を詣でて罪を請うた。
 行倹は突厥の残党を悉く平定し、伏念、温伝を連れて帰京した。
 16冬,十月,丙寅朔,日有食之。
16.冬、十月、丙寅朔、日食が起こった。
 17壬戌,裴行儉等獻定襄之俘。乙丑,改元。丙寅,斬阿史那伏念、阿史德温傅等五十四人於都市。
  初,行儉許伏念以不死,故降。裴炎疾行儉之功,奏言:「伏念爲副將張虔勗、程務挺所逼,又回紇等自磧北南向逼之,窮窘而降耳。」遂誅之。行儉歎曰:「渾、浚爭功,古今所恥。但恐殺降,無復來者。」因稱疾不出。
17.壬戌、裴行倹らが定襄の捕虜を献上した。
 乙丑、改元した。
 丙寅、阿史那伏念、阿史徳温伝ら五十四人を都の市で斬った。
 もともと、行倹は伏念に命を助けると約束していた。だが、裴炎が行倹の功績に嫉妬して、上奏した。
「伏念は、副将の張虔勗、程務挺らから追い詰められ、又、回紇らが磧北南から迫ってきて、切羽詰まって降伏してきただけです。」
 遂に、これを誅殺した。
 行倹は嘆いて言った。
「渾と濬が功績を争ったのは、古今の恥だ(晋の元帝の太康元年参照)。ただ、降伏した者を殺したのでは、これから降伏する者が居なくなることが心配だ。」
 そして、病気と言い立てて出仕しなくなった。
 18丁亥,新羅王法敏卒,遣使立其子政明。
18.丁亥、新羅王法敏が卒した。使者を派遣して、その子息の政明を立てさせた。
 19十一月,癸卯,徙故太子賢於巴州。
19.十一月、癸卯、もとの太子賢を巴州に移した。

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