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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第二百一
 唐紀十七
  高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上
龍朔二年(壬戌、六六二)

 八月,壬寅,以許敬宗爲太子少師、同東西臺三品、知西臺事。
1.八月、壬寅。許敬宗を太子少師、同東西台三品、知西台事とした。
 九月,戊寅,初令八品、九品衣碧。
2.九月、戊寅。初めて八品、九品へ碧衣を着させる。
 冬,十月,丁酉,上幸驪山温湯,太子監國;丁未,還宮。
3.冬、十月丁酉。上が驪山の温泉へ御幸した。太子が監国となる。丁未、宮へ還る。
 庚戌,西臺侍郎陝人上官儀同東西臺三品。
4.庚戌。西台侍郎陜の人上官儀を同東西台三品とする。
 癸丑,詔以四年正月有事於泰山,仍以來年二月幸東都。
5.癸丑。四年の正月に泰山にて封禅をし、それに先だって来年二月に東都へ御幸すると、詔があった。
 左相許圉師之子奉輦直長自然,游獵犯人田,田主怒,自然以鳴鏑射之。圉師杖自然一百而不以聞。田主詣司憲訟之,司憲大夫楊德裔不爲治。西臺舎人袁公瑜遣人易姓名上封事告之,上曰:「圉師爲宰相,侵陵百姓,匿而不言,豈非作威作福!」圉師謝曰:「臣備位樞軸,以直道事陛下,不能悉允衆心,故爲人所攻訐。至於作威福者,或手握強兵,或身居重鎭;臣以文吏,奉事聖明,惟知閉門自守,何敢作威福!」上怒曰:「汝恨無兵邪!」許敬宗曰:「人臣如此,罪不容誅。」遽令引出。詔特免官。
6.左相許圉師の子息の奉輦直長自然が、狩猟をして遊んでいて、他人の田へ入って荒らしてしまった。田主が怒ると、自然はカブラ矢でこれを射た。圉師は自然を百回杖で打ったが、上聞しなかった。
 田主は司憲へ行ってこれを訴えたが、司憲大夫楊徳裔は耳を貸さない。すると、西台舎人袁公瑜が人を派遣し、変名を使って上封で告発した。
 上は言った。
「圉師は宰相なのに、百姓を侵陵し、その事件を握りつぶした。これは『威福を作る』とゆうやつではないか!」
 圉師は謝して言った。
「臣は枢軸の位を備え、直道で陛下へ仕えました。しかし全ての人から親しまれることができず、人から攻められる羽目になってしまいました。しかし、『威福を作る』と申しますのは、強兵を握ったりとか、重鎮に住んだりすることです。臣は文吏で聖明へお仕えして、ただ門を閉じて自分を守ることを知っているだけ。どうして威福を作ったりいたしましょうか!」
 上は怒って言った。
「汝は兵力がないのが恨めしいのか!」
 許敬宗が言った。
「人臣としてこんなことをしでかしたのです。その罪は誅を免れません。」
 速やかに引き出させた。詔して特に免官とする。
 癸酉,立皇子旭輪爲殷王。
7.癸酉。皇子旭輪を殷王に立てる。
 十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟,河北之民,勞於征役,其封泰山、幸東都並停。
8.十二月、戊申。高麗、百済討伐の詔が降りる。河北の民が征役で疲れきったので、泰山の封禅と東都御幸は共に中止となった。
 [風日]海道總管蘇海政受詔討龜茲,敕興昔亡、繼往絶二可汗發兵與之倶。至興昔亡之境,繼往絶素與興昔亡有怨,密謂海政曰:「彌射謀反,請誅之。」時海政兵纔數千,集軍吏謀曰:「彌射若反,我輩無噍類,不如先事誅之。」乃矯稱敕,令大總管齎帛數萬段賜可汗及諸酋長,興昔亡帥其徒受賜,海政悉收斬之。其鼠尼施、拔塞幹兩部亡走,海政與繼往絶追討,平之。軍還,至疏勒南,弓月部復引吐蕃之衆來,欲與唐兵戰;海政以師老不敢戰,以軍資賂吐蕃,約和而還。由是諸部落皆以興昔亡爲冤,各有離心。繼往絶尋卒,十姓無主,有阿史那都支及李遮匐收其餘衆附於吐蕃。
9.[風日]海道総管蘇海政へ亀茲討伐を詔し、興昔亡、継往絶二可汗へ兵を発して従軍するよう敕した。
 継往絶は興昔亡へ怨みがあったので、興昔亡の国境へ入ると、密かに海政へ言った。
「弥射は造反を謀っています。どうか誅殺してください。」
 この時、海政は僅か数千の兵しか持っていなかったので、軍吏を集めて言った。
「弥射がもしも造反したら、我等は全滅してしまう。先にこれを誅しよう。」
 そして、「”大総管から帛数万段を可汗及び諸酋長へ賜下せよ”と敕を受けた」と矯称した。興昔亡が部下を率いて賜を受けに来ると、海政はこれを悉く捕らえて斬り捨てた。その鼠尼施、抜塞幹の両部は逃げ出したが、海政と継往絶は追討して平定した。
 軍が還って疏勒の南へ至ると、弓月部が再び吐蕃の衆を率いて来て、唐軍と戦おうとした。海政は、兵卒達が疲れ切っていてとても戦争はできないと判断し、軍資を吐蕃へ贈り、和平を約束して還った。
 これにより、諸部落は興昔亡の件は冤罪であると思い、各々離心を持ってしまった。
 ついで、継往絶が卒して、十姓に主がいなくなった。そこで阿史那都支と李遮匐がその余衆を収めて吐蕃へ帰順した。
 10是歳,西突厥寇庭州,刺史來濟將兵拒之,謂其衆曰:「吾久當死,幸蒙存全以至今日,當以身報國!」遂不釋甲冑,赴敵而死。
10.この年、西突厥が庭州へ来寇した。刺史の来済が兵を率いて拒もうとして、その衆へ言った。 「吾はずっと前に死ぬべきだったのに、幸いにも今日まで生き延びることができた。今こそ、身を以て御国へ報いるときだ。」
 遂に武装を解かず、敵へ赴いて戦死した。
三年(癸亥、六六三)

 春,正月,左武衞大將軍鄭仁泰討鐵勒叛者餘種,悉平之。
1.春、正月。左武衛大将軍鄭仁泰が造反した鉄勒の余種を討ち、これを悉く平定した。
 乙酉,以李義府爲右相,仍知選事。
2.乙酉、李義府を知選事のまま右相とした。
 二月,徙燕然都護府於回紇,更名瀚海都護;徙故瀚海都護於雲中古城,更名雲中都護。以磧爲境,磧北州府皆隸瀚海,磧南隸雲中。
3.二月、燕然都護府を回紇へ移し、瀚海都護と改名した。もとの瀚海都護は雲中の古城へ移し、雲中都護と変名する。磧を境とし、磧北の州府は全て瀚海へ隷属させ、磧南は雲中へ隷属させる。
 三月,許圉師再貶虔州刺史,楊德裔以阿黨流庭州,圉師子文思、自然並免官。
4.三月、許圉師は再び貶され虔州刺史となった。楊徳裔は阿りの党として、庭州へ流す。圉師の子の文思と自然は、共に免官となる。
 右相河間郡公李義府典選,恃中宮之勢,專以賣官爲事,銓綜無次,怨讟盈路,上頗聞之,從容謂義府曰:「卿子及壻頗不謹,多爲非法。我尚爲卿掩覆,卿宜戒之!」義府勃然變色,頸、頬倶張,曰:「誰告陛下?」上曰:「但我言如是,何必就我索其所從得邪!」義府殊不引咎,緩歩而去。上由是不悅。
  望氣者杜元紀謂義府所居第有獄氣,宜積錢二十萬緡以厭之,義府信之,聚斂尤急。義府居母喪,朔望給哭假,輒微服與元紀出城東,登古塚,候望氣色,或告義府窺覘災眚,陰有異圖。又遣其子右司議郎津召長孫無忌之孫延,受其錢七百緡,除延司津監,右金吾倉曹參軍楊行穎告之。夏,四月,乙丑,下義府獄,遣司刑太常伯劉祥道與御史、詳刑共鞫之,仍命司空李勣監焉。事皆有實。戊子,詔義府除名,流雟州;津除名,流振州;諸子及壻並除名,流庭州。朝野莫不稱慶。
  或作河間道行軍元帥劉祥道破銅山大賊李義府露布,牓之通衢。義府多取人奴婢,及敗,各散歸其家,故其露布云:「混奴婢而亂放,各識家而競入。」
5.右相河間郡公李義府が官吏を選ぶことになった。彼は中宮の勢力を恃み、売官にばかり専念した。金は乱れ飛び、怨みの言葉は路に満ちる。上はこれを何度も耳にしたので、くつろいだ時に義府へ言った。
「卿の子や婿は不謹慎な者が多く、不法行為もしょっちゅうだ。それでも我は卿をかばってやっている。卿も戒めよ!」
 義府は勃然として顔色を変えた。頸や頬を膨らませたまま、言った。
「誰が陛下へ密告したのですか?」
 上は言った。
「ただ、我がこのように言っているだけだ。何で我の出所を探らなければならぬのか!」
 義府は我が身を咎めもせずに、緩やかに歩いて去った。上は、これ以来不機嫌になった。
 望気者の杜元紀が、「義府の住んでいる第に獄気があるので、二十万緡の銭で厄払いをするがよい」と言った。義府はこれを信じたので、益々激しく金を求めた。
 義府は母親の喪の期間だったので、朔と望(月の始めと半ば)に哭の為の休日を貰えた。その日には、時々微賤な服を着て元紀と共に城東を出、古塚へ登って気色を望み見たりしていた。ところが、ある者がこれを、「義府は気を窺っていますが、これは造反の想いがあるに違いありません。」と密告した。
 また、その子の右司議郎津を使いにして長孫無忌の孫の延を呼び寄せ、その銭七百緡を受け取って、延を司津監へ任命した。右金吾倉曹参軍の楊行穎が、これを告発した。
 夏、四月乙丑。義府を獄へ下した。司刑太常伯劉祥道と御史や詳刑を派遣し、共に詰問させる。また、司空李勣に監督を命じた。告発は、全て事実だった。
 戊子、義府を除名して雟州へ流し、津を除名して振州へ流し、諸子及び婿を除名して庭州へ流すと詔があった。朝野はこぞって慶賀した。
 ある者は、「河間道行軍元帥劉祥道が銅山の大賊李義府を破る」とゆう幟を作って、通りの傍らに立てた。義府は、大勢の人間を取って奴婢としていた。敗れるに及び、各々実家へ帰してやったので、その幟には、「奴婢に混じって乱を放つ。各々家を識っていて、競って入った。」と書かれていた。(漢の高祖が太上皇のために新豊に造営した。後の人はその事件について、「混鶏犬而乱放、各識家而競入」と書いた。)
 乙未,置雞林大都督府於新羅國,以金法敏爲之。
6.乙未、新羅に鶏林大都督府を設置し、金法敏を都督とする。
 丙午,蓬萊宮含元殿成,上始移仗居之,更命故宮曰西内。戊申,始御紫宸殿聽政。
7.丙午、蓬莱宮含元殿が落成した。上は始めて杖を移してここに住む。故宮を西内と改名する。
 戊申、初めて紫宸殿にて政務を執った。
 五月,壬午,柳州蠻酋呉君解反;遣冀州長史劉伯英、右武衞將軍馮士翽發嶺南兵討之。
8.五月、壬午。柳州蛮の呉君解が造反した。冀州長史劉伯英、右武衛将軍馮士翽を派遣し、嶺南の兵を徴発して討伐させた。
 吐蕃與吐谷渾互相攻,各遣使上表論曲直,更來求援;上皆不許。
  吐谷渾之臣素和貴有罪,逃奔吐蕃,具言吐谷渾虚實,吐蕃發兵撃吐谷渾,大破之,吐谷渾可汗曷鉢與弘化公主帥數千帳棄國走依涼州,請徙居内地。上以涼州都督鄭仁泰爲靑海道行軍大總管,帥右武衞將軍獨狐卿雲、辛文陵等分屯涼、鄯二州,以備吐蕃。六月,戊申,又以左武衞大將軍蘇定方爲安集大使,節度諸軍,爲吐谷渾之援。
  吐蕃祿東贊屯靑海,遣使者論仲琮入見,表陳吐谷渾之罪,且請和親。上不許,遣左衞郎將劉文祥使于吐蕃,降璽書責讓之。
9.吐蕃と吐谷渾は互いに攻め合い、各々唐へ使者を派遣して曲直を上表し、救援を求めた。上は、どちらも許さなかった。
 吐谷渾の臣の素和貴が罪を犯して吐蕃へ逃げ込み、吐谷渾の虚実を具に語った。吐蕃は兵を発して吐谷渾を撃ち、大いにこれを破る。
 吐谷渾可汗曷鉢と弘化公主は国を棄て、数千帳を率いて涼州へ逃げ込み、内地への居住を請願した。上は涼州都督鄭仁泰を青海道行軍大総管として、右武衛将軍独孤卿雲、辛文陵を率いて涼、鄯州へ分屯させ、吐蕃に備えた。
 六月、戊申、又、左武衛大将軍蘇定方を安集大使、節度諸軍とし、吐谷渾の援軍とした。
 吐蕃の禄東贊が青海に屯し、使者論仲琮を派遣して入見させ、吐谷渾の罪を上表して和親を請うた。上は許さない。左衛郎将劉文祥を吐蕃へ派遣して、璽書を降してこれを責めた。
 10秋,八月,戊申,上以海東累歳用兵,百姓困於征調,士卒戰溺死者甚衆,詔罷三十六州所造船,遣司元太常伯竇德玄等分詣十道,問人疾苦,黜陟官吏。德玄,毅之曾孫也。
10.秋、十月、戊申。東海で何年も戦争が続き、百姓は徴兵に苦しみ、大勢の士卒が戦死で愧死したので、上は詔して三十六州の造船を中止し、司元太常竇徳玄等を十道へ分遣して人々の疾苦を問い、官吏を黜陟した。
 徳玄は毅の曾孫である。
 11九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城。
  初,劉仁願、劉仁軌既克眞峴城,詔孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之衝,欲先攻之,仁軌曰:「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巣穴,羣凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤。百濟王豐脱身奔高麗,王子忠勝、忠志等帥衆降,百濟盡平,唯別帥遲受信據任存城,不下。
  初,百濟西部人黑齒常之,長七尺餘,驍勇有謀略,仕百濟爲達率兼郡將,猶中國刺史也。蘇定方克百濟,常之帥所部隨衆降。定方縶其王及太子,縱兵劫掠,壯者多死。常之懼,與左右十餘人遁歸本部,收集亡散,保任存山,結柵以自固,旬月間歸附者三萬餘人。定方遣兵攻之,常之拒戰,唐兵不利;常之復取二百餘城,定方不能克而還。常之與別部將沙吒相如各據險以應福信,百濟既敗,皆帥其衆降。劉仁軌使常之、相如自將其衆,取任存城,仍以糧仗助之。孫仁帥曰:「此屬獸心,何可信也!」仁軌曰:「吾觀二人皆忠勇有謀,敦信重義;但曏者所託,未得其人,今正是其感激立效之時,不用疑也。」遂給其糧仗,分兵隨之,攻拔任存城,遲受信棄妻子,奔高麗。
  詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補隄堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後脩屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗。
  劉仁願至京帥,上問之曰:「卿在海東,前後奏事,皆合機宜,復有文理。卿本武人,何能如是?」仁願曰:「此皆劉仁軌所爲,非臣所及也。」上悅,加仁軌六階,正除帶方州刺史,爲築第長安,厚賜其妻子,遣使齎璽書勞勉之。上官儀曰:「仁軌遭黜削而能盡忠,仁願秉節制而能推賢,皆可謂君子矣!」
11.九月、戊午。熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破った。その周留城を抜く。その経緯は、以下の通り。
 劉仁願、劉仁軌が真峴城に勝った後、上は孫仁師へ、兵を率い海へ浮かんでこれを助けるよう詔した。百済王豊は倭人を味方に引き込んで唐兵を拒んだが、仁師は仁願、仁軌と合流して、その威勢は大いに振るった。諸将は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めるよう欲したが、仁軌は言った。
「加林は険固だ。急攻したら士卒を傷つけ、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つこと。まずこれを攻めよう。周留に勝てば、諸城は自ら下る。」
 ここにおいて仁師、仁願と新羅王法敏は陸軍を率いて進んだ。仁軌と別将杜爽、扶余隆は水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かった。
 倭兵と白江口にて遭遇した。四戦して全勝し、その舟四百艘を焼く。煙炎は天を焦がして海水は朱に染まる。
 百済王豊は体一つで脱出し高麗へ逃げた。王子忠勝、忠志等は衆を率いて降伏する。
 こうして百済は悉く平定したが、ただ別帥遅受信だけは任存城へ據って下らなかった。
 さて、ここに百済西部の人黒歯常之とゆう男がいる。彼は、身長七尺余、驍勇で謀略があった。百済へ仕えて達率兼郎将となったが、これは中国で言う刺史のような職務だ。
 蘇定方が百済に勝った時、常之は手勢を率いて降伏した。ところが定方は王と王子を縛りあげ、兵には掠奪をさせたので、壮者が大勢死んだ。常之は懼れ、左右十余人と本部へ逃げ帰り、亡散者をかき集めて任存山を保ち、柵を結んで守備を固めた。旬月の間に三万人が集まった。
 定方は兵を遣ってこれを攻めたが、常之は拒戦し、戦況は唐兵不利だった。常之は二百余城を回復し、定方は勝てずに還った。
 常之と別部将沙吒相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
 劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。すると孫仁師が言った。
「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
 だが、仁軌は言った。
「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
 遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
 唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
 劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
 劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。
「卿が海東で前後して上奏した事は、皆、機宜に合っており文理も備わっている。本は武人なのに、どうしてそんなにできたのだ?」
 仁願は言った。
「これは皆、劉仁軌のやったことです。臣の及ぶところではありません。」
 上は悦び、仁軌へ六階を加え、帯方州の正式な刺史とし、長安へ弟を築き、その妻子へ厚く賜った。また、使者を派遣して璽書を賜り、これを慰労して励ました。
 上官儀が言った。
「仁軌は白衣として従軍したのですが、よく忠義を尽くしました。仁願は節制を持ち賢人を推挙しました。皆、君子と言うべきです!」
 12冬,十月,辛巳朔,詔太子毎五日於光順門内視諸司奏事,其事之小者,皆委太子決之。
12.冬、十月辛巳朔。太子は五日毎に光順門にて諸司の奏事を内視し、その小さな事は皆、決裁を太子へ委ねるよう詔した。(まだ、生後十一年の筈だが?)
 13十二月,庚子,詔改來年元。
13.十二月庚子。来年改元すると詔する。
 14壬寅,以安西都護高賢爲行軍總管,將兵撃弓月以救于闐。
14.壬寅、安西都護高賢を行軍総管として、兵を率いて弓月を撃ち、于闐を救わせる。
 15是歳,大食撃波斯、拂菻,破之;南侵婆羅門,呑滅諸胡,勝兵四十餘萬。
15.この年、大食が波斯、拂菻を攻撃して、これを破る。南は婆羅門を侵し、諸胡を呑滅する。勝兵は四十万。
麟德元年(甲子、六六四)

 春,正月,甲子,改雲中都護府爲單于大都護府,以殷王旭輪爲單于大都護。
  初,李靖破突厥,遷三百帳于雲中城,阿史德氏爲之長。至是,部落漸衆,阿史德氏詣闕,請如胡法立親王爲可汗以統之。上召見,謂曰:「今之可汗,古之單于也。」故更爲單于都護府,而使殷王遙領之。
1.春、正月、甲子、雲中都護府を単于大都護府と改称し、殷王旭輪を単于大都護とする。
 李靖が突厥を破った時、三百帳を雲中城へ移し、阿史徳氏をその長とした。それ以来部落は次第に人が増えて行った。阿史徳氏が闕を詣でた時、胡法に則って親王を可汗に立て、これを統率するよう請願した。上は、召見して、言った。
「今の可汗は、昔の単于だ。」
 こうして単于都護府と改称され、殷王へ遙頒させたのである。
 二月,戊子,上行幸萬年宮。
2.二月戊子。上は萬年宮へ御幸した。
 夏,四月,壬子,衞州刺史道孝王元慶薨。
3.夏、四月壬子、衛州刺史道孝王元慶が卒した。
 丙午,魏州刺史郇公孝協坐贓,賜死。司宗卿隴西王傅乂等奏孝協父叔良死王事,孝協無兄弟,恐絶嗣。上曰:「畫一之法,不以親疏異制,苟害百姓,雖皇太子亦所不赦。孝協有一子,何憂乏祀乎!」孝協竟自盡於第。
4.丙午、魏州刺史郇協が贈賄の罪で死を賜った。
 すると、司宗卿隴西王博乂が上奏した。
「孝協の父の叔良は王事に死にました。孝協には兄弟がいないので嗣が絶えてしまいます。」
 だが、上は言った。
「法は画一で、親疎で適応を変えてはいけない。いやしくも百姓に害を与えたのなら、皇太子と雖も赦されないのだ。孝協には一人息子がいる。何で祀が乏しいと憂えることがあろうか。」
 孝協は第にて自殺した。
 五月,戊申朔,遂州刺史許悼王孝薨。
5.五月、戊申朔。遂州刺史許悼王孝が卒した。
 乙卯,於昆明之弄棟川置姚州都督府。
6.乙卯、昆明の弄棟川へ姚州都督府を設置した。
 秋,七月,丁未朔,詔以三年正月有事於岱宗。
7.秋、七月丁未朔。三年の正月に岱宗にて祀ると詔した。
 八月,丙子,車駕還京師,幸舊宅,留七日;壬午,還蓬萊宮。
8.八月、車駕が京師へ還った。晋王だった頃の旧宅へ御幸氏、七日間留まる。
 壬午、蓬莱宮へ還る。
 丁亥,以司列太常伯劉祥道兼右相,大司憲竇德玄爲司元太常伯、檢校左相。
9.丁亥。司列太伯隆祥道が右相を兼任し、大司憲竇徳玄が司元太常伯、検校左相となる。
 10冬,十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展効。臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何爲今日士卒如此?』咸言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,征人屢經渡海,官不記録,其死者亦無人誰何。州縣毎發百姓爲兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行。頃者破百濟及平壤苦戰,當時將帥號令,許以勳賞,無所不至;及達西岸,惟聞枷鎖推禁,奪賜破勳,州縣追呼,無以自存,公私因弊,不可悉言。以是昨發海西之日已有逃亡自殘者,非獨至海外而然也。又,本因征役勳級以爲榮寵;而比年出征,皆使勳官挽引,勞苦與白丁無殊,百姓不願從軍,率皆由此。』臣又問:『曩日士卒留鎭五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何爲如此單露?』咸言:『初發家日,惟令備一年資裝;今已二年,未有還期。』臣檢校軍士所留衣,今冬僅可充事,來秋以往,全無準擬。陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同德,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,立效無日。逆耳之事,或無人爲陛下盡言,故臣披露肝膽,昧死奏陳。」
  上深納其言,遣右威衞將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎭之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,衆心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎭撫,未可還也。」仁願曰:「吾前還海西,大遭讒謗,云吾多留兵衆,謀據海東,幾不免禍。今日唯知准敕,豈敢擅有所爲!」仁軌曰:「人臣苟利於國,知無不爲,豈恤其私!」乃上表陳便宜,自請留鎭海東,上從之。仍以扶餘隆爲熊津都尉,使招輯其餘衆。
10.冬、十月庚辰。検校熊津都督劉仁軌が上言した。
「臣が伏して見ますに、現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません。
 臣が、『かつて海の西にいた頃は、百姓は自ら募兵し争うように従軍しているのを見た。あるいは自ら威服兵糧を携えて「義征」と言っていたものだ。それなのに、今日の兵士はどうしてこうなったのか?』と尋ねてみたところ、ある者は言いました。
『今日とかつてでは官府が変わってしまいましたし、人心もまた異なります。かつての東西の征役では王事に没しますと、勅使の弔祭を蒙り、官爵を追贈され、あるいは死者の官爵が子弟へ授けられました。凡そ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに官は記録しません。戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません。州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は銭を渡して誤魔化し合い、皆、免れてしまい、貧しい者は老人でも連行されてしまうのです。先頃百済を破り高麗と苦戦しました。当時の将帥の号令は勲賞を許し至らぬ事はありませんでした。ですが西岸へ到達するに及んでは、ただ枷や鎖で強制されるのを聞くばかり。賜を奪い勲を破り、州県から追いかけられて生きることさえままならぬ。公私共に困弊し、言い尽くすこともできません。そうゆう訳で、昨日海西へ出発した時、既に逃亡する者もいましたが、これは何も海外に限ったことではありません。又、もとは征役の勲級によって栄寵したものですが、近年の出征は、勲官でもお構いなしに引っぱり出しており、白丁と変わりなくこき使われています。百姓が従軍を願わないのは、この様なわけです。』
 臣は、又、尋ねました。
『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ?』
『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみを支給されたのです。ですが既に二年経ちました。まだ帰して貰えません。』
 臣は軍士達が持っている衣を検分しました。今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか。
 陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の敵国に戻ってしまいます。今、既に戍守を造り屯田を置きました。士卒と心を一つにしなければならないのに、このような意見が出ています。これでどうして成功しましょうか!増援を求めるのではありません。厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。
 耳に逆らうことは、あるいは陛下へ言葉を尽くす者がいないかも知れません。ですから臣が肝胆を披露し、死を覚悟で奏陳するのです。」
 上はその言葉を深く納め、右威衛将軍劉仁願へ兵を与えて派遣し、守備兵を交代させた。そして仁軌へは兵卒達と共に帰国するよう敕した。
 仁軌は仁願へ言った。
「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰れない。」
 仁願は言った。
「吾が前回海西へ還った時、大いに讒言された。吾が大軍を抱えて留まれば、海東へ割拠することを謀っていると言われ、きっと禍は免れない。今日はただ敕の通りにやるだけだ。どうして勝手に変更できようか!」
 仁軌は言った。
「いやしくも御国の利益になるならば、人臣は知りて為さないものはない。なんで私に曳かれようか!」
 そして上表して便宜を陳述し、自ら海東へ留まって鎮守する事を請願した。
 上は、これに従った。そして扶余隆を熊津都尉とし、その余衆を招かせた。
 11初,武后能屈身忍辱,奉順上意,故上排羣議而立之;及得志,專作威福,上欲有所爲,動爲后所制,上不勝其忿。有道士郭行眞,出入禁中,嘗爲厭勝之術,宦者王伏勝發之。上大怒,密召西臺侍郎、同東西臺三品上官儀議之。儀因言:「皇后專恣,海内所不與,請廢之。」上意亦以爲然,即命儀草詔。
  左右奔告于后,后遽詣上自訴。詔草猶在上所,上羞縮不忍,復待之如初;猶恐后怨怒,因紿之曰:「我初無此心,皆上官儀教我。」儀先爲陳王諮議,與王伏勝倶事故太子忠,后於是使許敬宗誣奏儀、伏勝與忠謀大逆。十二月,丙戌,儀下獄,與其子庭芝、王伏勝皆死,籍沒其家。戊子,賜忠死于流所。右相劉祥道坐與儀善,罷政事,爲司禮太常伯,左肅機鄭欽泰等朝士流貶者甚衆,皆坐與儀交通故也。
  自是上毎視事,則后垂簾於後,政無大小,皆與聞之。天下大權,悉歸中宮,黜陟、殺生,決於其口,天子拱手而已,中外謂之二聖。
11.初め、武后はよく身を屈して辱を忍び、上意を奉順した。だから上は群議を排してこれを立てたのである。
 だが、志を得ると、もっぱら威福を作るようになり、上がやりたいことがあっても、ややもすると后に抑制された。上は怒りに我慢できなかった。
 ここに、郭行真とゆう道士が禁中に出入りしていた。ある時、彼は呪術を為し、宦官の王伏勝が告発した。上は大いに怒り、西台侍郎、同東西台三品上官儀を密かに召して、これを議した。儀は言った。
「皇后の専横は、海内が怒っております。どうか廃立してください。」
 上の意向も同じだったので、すぐに儀へ草詔の作成を命じた。
 左右が、慌てて后へ告げた。后はすぐさま上のもとへ出向いて弁明した。詔草はまだ上の手元にあったので、上は恥ずかしくて堪らず、再び元のように大切にするようになった。それでもなお、后の怨怒を恐れ、言った。
「我はもともとそんなつもりではなかった。皆、上官儀が我へ教えたのだ。」
 儀はもとは陳王の諮議で、王伏勝と共にもとの太子忠に仕えたこともあった。そこで后は、儀が伏勝や忠と大逆を謀ったと、許敬宗へ誣告させた。
 十二月、丙戌。儀を獄へ下し、その子の庭芝、王伏勝と共に死刑にし、その家財を没収した。戊子、忠へ配所で死を賜る。
 右相劉祥道は儀と仲が良かったので有罪となり、政事をやめて司禮太常伯となった。左粛機鄭欽泰等流貶された朝士は大勢いた。これは全て儀と交遊があったためである。
 これ以来、上の視事のたびに后は御簾を垂らして背後に控えた。政は大小となく、皆、彼女の意向を尋ねる。天下の大権は悉く中宮へ集まり、黜陟、殺生は全て其の口で決まった。天子はただ手を拱いているだけで、中外はこれを二聖と言った。
 12太子右中護、檢校西臺侍郎樂彦瑋、西臺侍郎孫處約並同東西臺三品。
12.太子右中護・検校西台侍郎楽彦瑋、西台侍郎孫處約が共に同東西台三品となる。
二年(乙丑、六六五)

 春,正月,丁卯,吐蕃遣使入見,請復與吐谷渾和親,仍求赤水地畜牧,上不許。
1.春、正月丁卯。吐蕃の使者が入見し、吐谷渾との和親と赤水地での牧畜を請うた。上は許さなかった。
 二月,壬午,車駕發京師,丁酉,至合璧宮。
2.二月、壬午。車駕が京師を発した。丁酉、合璧宮へ到着した。
 上語及隋煬帝,謂侍臣曰:「煬帝拒諫而亡,朕常以爲戒,虚心求諫;而竟無諫者,何也?」李勣對曰:「陛下所爲盡善,羣臣無得而諫。」
3.上が語るうちに隋の煬帝の話題になり、侍臣へ言った。
「煬帝は諫を拒んで亡んだ。朕は常にこれを戒めとして、虚心に諫言を求めている。しかし、遂に諫める者がいないのは、なぜかな?」
 李勣が対して言った。
「陛下が善を尽くしているので、群臣は諫めようがないのです。」
 三月,甲寅,以兼司戎太常伯姜恪同東西臺三品。恪,寶誼之子也。
4.三月、甲寅、兼司戎太常伯姜恪を同東西台三品とした。恪は竇誼の子息である。
 辛未,東都乾元殿成。閏月,壬申朔,車駕至東都。
5.辛未、東都乾元殿が落成した。
 閏月壬申、車駕が東都へ到着した。
 疏勒弓月引吐蕃侵于闐。敕西州都督崔知辯、左武衞將軍曹繼叔將兵救之。
6.疏勒弓月が吐蕃を率いて于闐を侵した。西州都護崔知弁、左武衛将軍曹継叔が兵を率いてこれを救った。
 夏,四月,戊辰,左侍極陸敦信檢校右相;西臺侍郎孫處約、太子右中護・檢校西臺侍郎樂彦瑋並罷政事。
7.夏、四月戊申。左侍極陸敦信へ右相を検校させる。西台侍郎孫處約と太子右中護・検校西台侍郎楽彦瑋は、共に政事を罷免させられた。
 秘閣郎中李淳風以傅仁均戊寅暦推歩浸疏,乃增損劉焯皇極暦,更撰麟德暦;五月,辛卯,行之。
8.傅仁均の戊寅暦と季節とのズレが次第に大きくなってきたので、秘閣郎中李淳風が劉焯の皇極暦を増損して麟徳暦を選定した。五月、辛卯、これを施行する。
 秋,七月,己丑,兗州都督鄧康王元裕薨。
9.秋、七月己丑。兗州都督鄧康王元裕が卒した。
 10上命熊津都尉扶餘隆與新羅王法敏釋去舊怨;八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣太子福男來侍祠。
10.上は、熊津都尉扶餘隆と新羅王法敏へ過去の怨みは水に流すよう命じた。八月、壬子、熊津城で同盟する。
 劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海路で西へ還ったので、泰山の祠で会合した。高麗も太子福男を派遣して侍祠した。
 11冬,十月,癸丑,皇后表稱「封禪舊儀,祭皇地祇,太后昭配,而令公卿行事,禮有未發,至日,妾請帥内外命婦奠獻。」詔:「禪社首以皇后爲亞獻,越國太妃燕氏爲終獻。」壬戌,詔:「封禪壇所設上帝、后土位,先用蒿秸、陶匏等,並宜改用茵褥、罍爵,其諸郊祀亦宜準此。」又詔:「自今郊廟享宴,文舞用功成慶善之樂,武舞用神功破陳之樂。」
  丙寅,上發東都,從駕文武儀仗,數百里不絶。列營置幕,彌亙原野。東自高麗,西至波斯、烏長諸國朝會者,各帥其屬扈從,穹廬毳幕,牛羊駝馬,填咽道路。時比歳豐稔,米斗至五錢,麥、豆不列於市。
  十一月,戊子,上至濮陽,竇德玄騎從。上問:「濮陽謂之帝丘,何也?」德玄不能對。許敬宗自後躍馬而前曰:「昔顓頊居此,故謂之帝丘。」上稱善。敬宗退,謂人曰:「大臣不可以無學;吾見德玄不能對,心實羞之。」德玄聞之,曰:「人各有能有不能,吾不強對以所不知,此吾所能也。」李勣曰:「敬宗多聞,信美矣;德玄之言亦善也。」
  壽張人張公藝九世同居,齊、隋、唐皆旌表其門。上過壽張,幸其宅,問所以能共居之故,公藝書「忍」字百餘以進。上善之,賜以縑帛。
  十二月,丙午,車駕至齊州,留十日。丙辰,發靈巖頓,至泰山下,有司於山南爲圓壇,山上爲登封壇,社首山上爲降禪方壇。
11.冬、十月癸丑。皇后が表した。
「封禅の旧儀では、皇を祭り地を祀り、太后が昭配しますが、公卿の行事については、まだその礼が完全に定まってはいません。その日が来たら、妾は内外の命婦を率いて酋献いたします。」
 詔が降りた。
「社首山の封禅は皇后を亜献とし、越国太妃燕氏を終献とする。」
 壬戌、詔した。
「封禅の壇所に上帝、后土の位を設ける。今までは藁、陶などを用いていたが、布団、罍(古代の酒かめ)爵を用いるよう改めよ。その諸郊祀もこれに準じる。」
 又、詔する。
「今後郊廟での享宴では、文舞は功成慶善の楽を武舞は神功破陣の楽を用いる。」
 丙寅、上は東都を発した。従駕や文武の儀杖は数百里続いた。原野に幕を置いて営とする。東は高麗から、西は波斯、鳥長諸国へ至るまで、朝会するものは各々その属の扈従を率い、テントや幔幕、牛羊駝馬が道を埋めた。
 この時、例年より豊作で、米は一斗五銭、麦、豆は市場に列ばなくなった。
 十一月戊子。上は濮陽へ至る。
 竇徳玄が騎馬で随従していた。上は問うた。
「濮陽を帝丘と言うが、何故かな?」
 徳玄は答えきれなかった。すると、許敬宗が後方から馬を踊らせて前へ来て、言った。
「むかし、顓頊がここに住んでいたので、帝丘と言うのです。」
 上は善しと称した。敬宗が退くと、人へ言った。
「大臣は無学ではならない。我は徳玄が返答できないのを見て実に恥ずかしかった。」
 徳玄はこれを聞いて言った。
「人には各々長所短所がある。我は知ったかぶりはしない。これが我の長所だ。」
 李勣は言った。
「敬宗は多くのことを知っている。これは確かに美点だが、徳玄の言葉もまた善いな。」
 壽張の人張公藝は九世同居していた。斉も隋も唐も、皆、その門を旌表(扁額を掛けるなどして、礼教を守った者を表彰すること。)した。上は壽張を通過するとき、その宅へ御幸し、どうすれば共居することができるのか尋ねた。すると公藝は「忍」の字を百余書いて献上した。上はこれを善として、帛を賜った。
 十二月丙午。車駕が斉州へ到着した。十日留まる。
 丙辰、霊巖頓を出発して泰山の下へ到着した。役人は山南を円壇とし、山上を登封壇とし、社首山を降禅方壇とする。
乾封元年(丙寅、六六六)

 春,正月,戊辰朔,上祀昊天上帝于泰山南。己巳,登泰山,封玉牒,上帝冊藏以玉匱,配帝册藏以金匱,皆纏以金繩,封以金泥,印以玉璽,藏以石碱。庚午,降禪于社首,祭皇地祇。上初獻畢,執事者皆趨下。宦者執帷,皇后升壇亞獻,帷帟皆以錦繡爲之;酌酒,實俎豆,登歌,皆用宮人。壬申,上御朝覲壇,受朝賀;赦天下,改元。文武官三品已上賜爵一等,四品已下加一階。先是階無泛加,皆以勞考敍進,至五品三品,仍奏取進止,至是始有泛階,比及末年,服緋者滿朝矣。
  時大赦,惟長流人不聽還,李義府憂憤發病卒。自義府流竄,朝士日憂其復入,及聞其卒,衆心乃安。
  丙戌,車駕發泰山;辛卯,至曲阜,贈孔子太師,以少牢致祭。癸未,至亳州,謁老君廟,上尊號曰太上玄元皇帝。丁丑,至東都,留六日;甲申,幸合璧宮;夏,四月,甲辰,至京師,謁太廟。
1.春、正月、戊申朔。上が泰山の南にて昊天上帝を祀った。
 己巳、泰山へ登り、玉牒を封じる。上帝へは玉匱で冊蔵し、配帝へは金匱で冊蔵する。皆、金縄を纏い、金泥を封じ、玉璽で印をし、石碱にしまう。
 庚午、社首にて降禅し、皇を祭り地を祀る。上の初献が終わると、執事は皆小走りに駆け下りた。宦官が帷を執り、皇后が壇を昇って亜献する。帷などは全て錦繍で作られていた。酒を酌み、爼豆を奉げ、歌を登らせる。これは皆宮人を使った。
 壬申、上は朝覲壇へ御して朝賀を受け、天下へ赦を下し、改元する。文武の三品以上は爵一等を賜り、四品以下は一階を加える。これまでは、階の貶加はなく、年功序列で五品から三品へ至って頭打ちになっていた。(?)今回、初めて貶階が起こった。これから末年へ及び、緋を纏う者が朝廷に満ちることになる。
 この時の大赦は、長流人は対象外だった。李義府は、憂憤して病死する。義府が流されてからは、朝士は皆、彼が復帰することを憂えていたので、彼が卒したと聞いて、皆は安心した。
 丙戌、車駕が泰山を出発した。
 辛卯、曲阜へ到着する。孔子へ太師を贈り、少牢で祭りを執り行う。
 癸未、毫州へ到着し、老君廟へ謁した。上は老君を尊んで太上玄元皇帝と号した。
 丁丑、東都へ到着し、六日留まる。
 甲申、合璧宮へ御幸する。
 夏、四月甲辰。京師へ到着し、太廟へ謁する。
 庚戌,左侍極兼檢校右相陸敦信以老疾辭職,拜大司成,兼左侍極,罷政事。
2.庚戌、左侍極兼検校右相陸敦信が老疾を理由に辞職した。大司成、兼左侍極を拝受し、政事を辞める。
 五月,庚寅,鑄乾封泉寶錢,一當十,俟期年盡廢舊錢。
3.五月庚寅。乾封泉宝銭を鋳造した。それ一枚が十銭に相当し、一年の猶予で旧銭を悉く廃止する。
 高麗泉蓋蘇文卒,長子男生代爲莫離支,初知國政,出巡諸城,使其弟男建、男産知留後事。或謂二弟曰:「男生惡二弟之逼,意欲除之,不如先爲計。」二弟初未之信。又有告男生者曰:「二弟恐兄還奪其權,欲拒兄不納。」男生潛遣所親往平壤伺之,二弟收掩,得之,乃以王命召男生。男生懼,不敢歸;男建自爲莫離支,發兵討之。男生走保別城,使其子獻誠詣闕求救。六月,壬寅,以右驍衞大將軍契苾何力爲遼東道安撫大使,將兵救之;以獻誠爲右武衞將軍,使爲郷導。又以右金吾衞將軍龐同善、營州都督高侃爲行軍總管,同討高麗。
4.高麗の泉蓋蘇文が卒した。長男の男生が代わって莫離支となり、初めて国政を執る。諸城を巡回し、弟の男建と男産を留めて後事を委ねた。
 ある者が二弟へ言った。
「男生は二弟の権威が自分に迫るのを憎み、これを除こうとしています。先手を打つべきです。」
 二弟は最初は信じなかった。
 又、ある者が男生へ言った。
「二弟は兄が帰ってきたら権を奪われるのではないかと恐れ、兄を拒んで納れるまいと欲しています。」
 男生は親しい者を密かに平壌へ派遣して様子を伺わせた。二弟はこれを捕らえて疑われていることを知り、王命で男生を召した。男生は懼れ、敢えて帰らない。男建は自ら莫離支となって兵を発しこれを討った。男生は別城へ逃げてこれを保ち、その子の献誠を闕へ派遣して救援を求めた。
 六月、壬寅、右驍衛大将軍契必何力を遼東道安撫大使として、兵を率いてこれを救援させる。献誠を右武衛将軍として、道案内とした。又、右金吾衛将軍龐同善、営州都督高侃を行軍総管として、同じく高麗を討つ。
 秋,七月,乙丑朔,徙殷王旭輪爲豫王。
  以大司憲兼檢校太子左中護劉仁軌爲右相。
  初,仁軌爲給事中,按畢正義事,李義府怨之,出爲靑州刺史。會討百濟,仁軌當浮海運糧,時未可行,義府督之,遭風失船,丁夫溺死甚衆,命監察御史袁異式往鞫之。義府謂異式曰:「君能辦事,不憂無官。」異式至,謂仁軌曰:「君與朝廷何人爲讎,宜早自爲計。」仁軌曰:「仁軌當官不職,國有常刑,公以法斃之,無所逃命。若使遽自引決以快讎人,竊所未甘!」乃具獄以聞。異式將行,仍自掣其鎖。獄上,義府言於上曰:「不斬仁軌,無以謝百姓。」舎人源直心曰:「海風暴起,非人力所及。」上乃命除名,以白衣從軍自效。義府又諷劉仁願使害之,仁願不忍殺。及爲大司憲,異式懼,不自安,仁軌瀝觴告之曰:「仁軌若念疇昔之事,有如此觴!」仁軌既知政事,異式尋遷詹事丞;時論紛然,仁軌聞之,遽薦爲司元大夫。監察御史杜易簡謂人曰:「斯所謂矯枉過正矣!」
5.秋、七月乙丑朔。殷王旭輪を豫王とした。
 大司馬兼検校太子左中護劉仁軌を右相とする。
 初め、仁軌は給事中となり、畢正義の事件を裁断した。李義府はこれを怨み、青州刺史に左遷する。百済討伐の時、仁軌は兵糧の海輸を指揮した。天候が不順で延期していたところ、義府から催促されて強行したが、暴風にあって大勢の丁夫が溺死した。上は監察御史袁異式を事件調査に派遣した。この時、義府は異式へ言った。
「君が巧く言ったなら、無官の心配はなくなるぞ。」
 異式は到着すると仁軌へ言った。
「君は朝廷の誰かから怨まれている。はやく適宜な処置を執りなさい。」
 仁軌は言った。
「仁軌は官にあって職務に失敗した。国に常刑があり、公が法を施行して臣を殺すのなら、逃げようがない。しかし、自決させて仇を悦ばせようとゆうのなら、その手には乗らんぞ!」
 そして、つぶさに事実を語った。
 異式は帰る時、自らその鎖を持った。
 証言が終わると、義府は上言した。
「仁軌を斬らなければ、百姓へ顔向けできません。」
 すると、舎人の源直心が言った。
「海上で暴風が起こったのです。人の力ではどうしようもありません。」
 上は、仁軌を除名し、白衣として従軍させた。(200巻、顕慶五年参照)
 義府は、仁軌を殺害するよう劉仁願へ風諭したが、仁願は殺すに忍びなかった。
 やがて義府が失脚し仁軌が大司憲となると、異式は懼れ、不安になった。すると仁軌は異式へ杯を与えて言った。
「仁軌が昔のことを根に持っていたら、杯を与えないぞ!」
 仁軌が知政事となると、異式は詹事丞となったので、種々の噂が乱れ飛んだ。仁軌はこれを聞き、異式を司元大夫へ推挙した。
 監察御史の杜易簡が人へ言った。
「これは、曲を矯正して行き過ぎるとゆうものだ!」
 八月,辛丑,司元太常伯兼檢校左相竇德玄薨。
6.八月辛丑。司元太常伯兼検校左相竇徳玄が卒した。
 初,武士彠娶相里氏,生男元慶、元爽;又娶楊氏,生三女,長適越王府法曹賀蘭越石,次皇后,次適郭孝愼。士彠卒,元慶、元爽及士獲兄子惟良、懷運皆不禮於楊氏,楊氏深銜之。越石、孝愼及孝愼妻並早卒,越石妻生敏之及一女而寡。后既立,楊氏號榮國夫人,越石妻號韓國夫人,惟良自始州長史超遷司衞少卿,懷運自瀛州長史遷淄州刺史,元慶自右衞郎將爲宗正少卿,元爽自安州戸曹累遷少府少監。榮國夫人嘗置酒,謂惟良等曰:「頗憶疇昔之事乎?今日之榮貴復何如?」對曰:「惟良等幸以功臣子弟,早登宦籍,揣分量才,不求貴達,豈意以皇后之故,曲荷朝恩,夙夜憂懼,不爲榮也。」榮國不悅。皇后乃上疏,請出惟良等爲遠州刺史,外示謙抑,實惡之也。於是以惟良檢校始州刺史,元慶爲龍州刺史,元爽爲濠州刺史。元慶至州,以憂卒。元爽坐事流振州而死。
  韓國夫人及其女以后故出入禁中,皆得幸於上。韓國尋卒,其女賜號魏國夫人。上欲以魏國爲内職,心難后未決,后惡之。會惟良、懷運與諸州刺史詣泰山朝覲,從至京師,惟良等獻食。后密置毒醢中,使魏國食之,暴卒,因歸罪於惟良、懷運,丁未,誅之,改其姓爲蝮式。懷運兄懷亮早卒,其妻善氏尤不禮於榮國,坐惟良等沒入掖庭,榮國令后以他事朿棘鞭之,肉盡見骨而死。
7.初め、武士彠は相里師を娶って、元慶と元爽を生んだ。次に楊氏を娶って三女を生んだ。長女は越王府法曹賀蘭越石へ嫁ぎ、次女が皇后となり、三女は郭孝慎へ嫁いだ。
 士彠が卒すると、元慶、元爽及び士彠の兄の子の惟良、懐運は皆楊氏を粗末に扱うようになったので、楊氏はこれを深く根に持った。
 越石、孝慎及び孝慎の妻は皆、早くに死んだ。越石の妻は敏之と一女を生んで寡婦となった。
 武后が立つと、楊氏は栄国夫人、越石の妻は韓国夫人と号した。惟良は、始州長史から司衛少卿へ抜擢され、懐運は瀛州長史から淄州刺史となり、元慶は右衛郎将から宗正少卿となり、元爽は安州戸曹から累進して少府少監となった。
 栄国夫人が、かつて酒を飲みながら惟良へ言った。
「昔のことを良く憶えておいでかえ?今日の栄貴はどうだえ?」
 対して言った。
「惟良等は幸いにも功臣の子弟で早くから宦籍へ登りましたが、凡庸な才能を思って栄達を求めませんでした。それが皇后のおかげで身に余る朝恩を蒙り、夙夜憂懼するばかり。とても栄達とは思えません。」
 栄国は悦ばなかった。
 皇后が上疏して、惟良を遠州刺史として出向させるよう請願した。これは、上辺は謙抑しているように見えたが、実は憎んだのである。
 此処に於いて、惟良は検校始州刺史、元慶は龍州刺史、元爽は濠州刺史となった。
 元慶は州へ至ると、憂えて卒した。元爽は事に坐して振州へ流され、死んだ。
 韓国夫人とその娘は皇后の縁故で禁中へ出入りし、共に上に可愛がられた。韓国夫人が卒すると、娘は魏国夫人の号を賜下された。上は魏国を内職としたがったが、皇后を憚って躊躇していた。皇后は、これを憎んだ。
 やがて、惟良、懐運と諸州刺史が泰山を詣でて朝覲した。その後彼等は京師まで随従し、惟良等は食を献上した。后は、塩漬けの中へ密かに毒を仕込み、魏国へ食べさせた。すると彼女は急死したので、その罪を惟良と懐運へなすりつけた。
 丁未、彼等を誅殺して、蝮氏と改姓させた。
 懐運の兄の懐亮は早死にしていたが、その妻の善氏は栄国へ対して最も無礼だった。彼女は懐運等の連座で掖庭へ没入された。后は、栄国の命令で、他のことにかこつけて彼女を棘鞭で打った。善氏は、肉がそげ落ちて骨まで露わになって、死んだ。
 九月,龐同善大破高麗兵,泉男生帥衆與同善合。詔以男生爲特進、遼東大都督,兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。
8.九月、龐同善が高麗軍を大いに破った。子の戦いで、泉男生は衆を率いて同善と合流していた。泉男を特進、遼東大都督、兼平壌道安撫大使として玄莵郡公へ封じた。
 戊子,金紫光祿大夫致仕廣平宣公劉祥道薨,子齊賢嗣,齊賢爲人方正,上甚重之,爲晉州司馬。將軍史興宗嘗從上獵苑中,因言晉州産佳鷂,劉齊賢今爲司馬,請使捕之。上曰:「劉齊賢豈捕鷂者邪!卿何以此待之!」
9.戊子、金紫光禄大夫致仕廣平宣公劉祥道が卒した。子の斉賢が嗣ぐ。斉賢の為人は方正で上は甚だこれを重んじ、晋州司馬とした。将軍史興宗がかつて苑中で上に随従して狩猟をした。この時、晋州は佳い鷂の産出地で、今は劉斉賢が司馬なので、彼へ命じて取り寄せるよう言ったところ、上は言った。
「劉斉賢が鷂を捕らえたりするものか!卿は彼を何だと思っているのか!」
 10冬,十二月,己酉,以李勣爲遼東道行軍大總管,以司列少常伯安陸郝處俊副之,以撃高麗。龐同善、契苾何力並爲遼東道行軍副大總管兼安撫大使如故;其水陸諸軍總管并運糧使竇義積、獨孤卿雲、郭待封等,並受勣處分。河北諸州租賦悉詣遼東給軍用。待封,孝恪之子也。
  勣欲與其壻京兆杜懷恭偕行,以求勳效。懷恭辭以貧,勣贍之;復辭以無奴馬,又贍之。懷恭辭窮,乃亡匿岐陽山中,謂人曰:「公欲以我立法耳。」勣聞之,流涕曰:「杜郎疏放,此或有之。」乃止。
10.冬、十二月己酉。李勣を遼東道行軍大総管として、司列少常伯の安陸の郝處俊を副官として、高麗を撃たせた。
 龐同善、契苾何力は共に従来通り遼東道行軍副総管兼安撫大使のままである。その水陸諸軍総管並びに運糧使竇義積、独孤卿雲、郭待封等は、共に勣の指揮下へ入る。河北諸州の租賦は全て遼東へ運んで軍用とした。待封は孝恪の子息である。
 勣はその婿の京兆の杜懐恭と同行して、彼の為に勲効を求めようと思ったが、懐恭は貧乏だからと断った。そこで勣が財産を与えると、今度は馬がないと断った。勣が馬も与えると、もはや口実が無くなったので、懐恭は岐陽山中へ逃げ込み、人づてに言った。
「公は、我を法へ触れさせるつもりか!」
 勣はこれを聞くと、涙を零して言った。
「杜郎は疏放な人間だ。あるいはそうなるかもしれない。」
 とど、諦めた。
二年(丁卯、六六七)

 春,正月,上耕籍田,有司進耒耜,加以彫飾。上曰:「耒耜農夫所執,豈宜如此之麗!」命易之。既而耕之,九推乃止。
1.春、正月。上が籍田を耕した。役人が持ってきたすきには、彫刻が施してあったが、上は言った。
「すきは農夫が使う物だ。こんな美麗なものがあるか!」
 そして、取り替えさせた。
 これで九回耕した。(月令と鄭及注の周礼では、天子は三回耕すことになっているが、盧植注の礼記では「天子は九回耕す」としている。)
 自行乾封泉寶錢,穀帛踴貴,商賈不行,癸未,詔罷之。
2.乾封泉宝銭が流布されてから、穀帛の価格が騰貴し、商売が滞るようになった。癸未、これを廃止するよう詔が降りる。
 二月,丁酉,涪陵悼王愔薨。
3.二月丁午。涪陵悼王愔が卒した。
 辛丑,復以萬年宮爲九成宮。
4.辛丑。萬年宮を九成宮と復称する。
 生羌十二州爲吐蕃所破,三月,戊寅,悉廢之。
5.生羌の十二州が吐蕃に破られた。三月、これを悉く廃止する。
 上屢責侍臣不進賢,衆莫敢對。司列少常伯李安期對曰:「天下未嘗無賢,亦非羣臣敢蔽賢也。比來公卿有所薦引,爲讒者已指爲朋黨,滯淹者未獲伸而在位者先獲罪,是以各務杜口耳。陛下果推至誠以待之,其誰不願舉所知!此在陛下,非在羣臣也。」上深以爲然。安期,百藥之子也。
6.上は、侍臣が賢人を進めないことを屡々責めた。衆は皆、敢えて言い返さなかったが、司列少常伯李安期が言った。
「天下に賢人が居ないわけではありませんが、群臣が敢えて隠蔽しているわけでもありません。公卿が賢人を推薦すると、朋党を造っていると讒言され、推薦された人間が抜擢されないばかりか、推薦した人間が罪に落ちてしまいます。それで皆は口を閉ざしているのです!陛下が本当に至誠でこれを待つならば、知人を推挙したがらない者がおりましょうか!原因は陛下にあるのです。群臣のせいではありません。」
 上は深く納得した。
 安期は、百薬の子息である。
 夏,四月,乙卯,西臺侍郎楊弘武、戴至德、正諫大夫兼東臺侍郎李安期、東臺舎人昌樂張文瓘、司列少常伯兼正諫大夫河北趙仁本並同東西臺三品。弘武,素之弟子;至德,冑之兄子也。時造蓬萊、上陽、合璧等宮,頻征伐四夷,廐馬萬匹,倉庫漸虚,張文瓘諫曰:「隋鑒不遠,願勿使百姓生怨。」上納其言,減廐馬數千匹。
7.夏、四月乙卯。西台侍郎楊弘武、戴至徳、正諫大夫兼東台侍郎李安期、東台舎人昌楽張文瓘、司列少常伯兼正諫大夫の河北の趙仁本を同東西台三品とした。
 弘武は素の弟の子、至徳は冑の兄の子である。
 この頃、蓬莱、上陽、合璧等の宮を造営し、四夷征伐は頻繁に起こり、厩には一万匹の馬が飼われており、官庫は次第に乏しくなっていった。そこで、張文瓘は諫めた。
「隋鏡は遠くありません。百姓に怨みを生じさないでください。」
 上はその言を納れ、厩馬を数千匹へ減らした。
 秋,八月,己丑朔,日有食之。
8.秋、八月己丑朔、日食が起こった。
 辛亥,東臺侍郎同東西臺三品李安期出爲荊州長史。
9.辛亥、東台侍郎同東西台三品李安期を荊州刺史として出向させた。
 10九月,庚申,上以久疾,命太子弘監國。
10.九月、庚申、上は長らく病となり、太子弘に命じて監国させた。
 11辛未,李勣拔高麗之新城,使契苾何力守之。勣初度遼,謂諸將曰:「新城,高麗西邊要害,不先得之,餘城未易取也。」遂攻之,城人師夫仇等縛城主開門降。勣引兵進撃,一十六城皆下之。
  龐同善、高侃尚在新城,泉男建遣兵襲其營,左武衞將軍薛仁貴撃破之。侃進至金山,與高麗戰,不利,高麗乘勝逐北,仁貴引兵橫撃,大破之,斬首五萬餘級,拔南蘇、木底、蒼巖三城,與泉男生軍合。
  郭待封以水軍自別道趣平壤,勣遣別將馮師本載糧仗以資之。師本船破,失期,待封軍中飢窘,欲作書與勣,恐爲虜所得,知其虚實,乃作離合詩以與勣。勣怒曰:「軍事方急,何以詩爲?必斬之!」行軍管記通事舎人河南元萬頃爲釋其義,勣乃更遣糧仗赴之。
  萬頃作檄高麗文,曰「不知守鴨綠之險。」泉男建報曰:「謹聞命矣!」即移兵據鴨綠津,唐兵不得渡。上聞之,流萬頃於嶺南。
  郝處俊在高麗城下,未及成列,高麗奄至,軍中大駭。處俊據胡床,方食乾糒,潛簡精鋭,撃敗之,將士服其膽略。
11.辛未、李勣が高麗の新城を抜き、契苾何力へ守らせた。
 李勣は、遼水を渡った時、諸将へ言った。
「新城は高麗西辺の要害だ。まずこれを取らなければ、余城は容易には取れないぞ。」
 遂にこれを攻めた。すると、城人の師夫仇等が城主を縛り、城門を開いて降伏した。李勣が兵を率いて進撃すると、十六の城が皆、下った。
 龐同善、高侃はなお新城に居た。泉男建が派兵してその陣営を襲撃したが、左武衛将軍薛仁貴がこれを撃破した。
 侃は金城まで進軍して高麗と戦った。戦況不利で逃げると、高麗軍は勝ちに乗じて追撃した。すると、仁貴が兵を率いて横合いから攻撃し、大いにこれを破る。五万余級を斬首した。
 更に南蘇、木底、蒼巖の三城を抜き、泉男生と合流した。
 郭待封は水軍を率いて別道から平壌へ赴いた。勣は別将馮師本へ武器兵糧を与えて派遣し、これを助けた。だが、師本の船は難破し、期限に間に合わなかった。待封の軍中は飢えた。そこでその実状を報告書にして勣へ渡そうとしたが、その使者が捕らえられたら軍中の実状が的に筒抜けになってしまうので、暗号の詩を作って勣へ渡すことにした。詩を受け取った勣は怒って言った。
「戦争は急を告げているのに、詩なんかつくっているのか!斬ってしまえ!」
 だが、行軍管記通事舎人の元万頃がその暗号を解き明かしたので、勣は更に武器兵糧を送った。
 万頃は檄高麗文を作ったが、その中に次の一節があった。
「敵は鴨緑津の険を守ることも知らないような戦下手だ。」
 これを読んで泉男建は言った。
「ご忠告、謹んで承った!」
 そして、兵を移して鴨緑津を占拠したので、唐軍は川を渡れなくなった。
 上はこれを聞いて、万頃を嶺南へ流した。
 郝處俊が高麗城下にて、まだ陣立てもしないうちに高麗軍の襲撃を受けた。軍中は大騒動となる。この時、處俊は胡床にて食事を摂ろうとしていたが、精鋭を率いてこれを撃退した。将士は、その胆略に敬服した。
 12冬,十二月,甲午,詔:「自今祀昊天上帝、五帝、皇地祇、神州地祇,並以高祖、太宗配,仍合祀昊天上帝、五帝於明堂。」
12.冬、十二月甲午。詔が降りた。
「今後、昊天上帝、五帝、皇地祇、神州地祇を祀り、高祖と太宗を配して明堂にて昊天上帝、五帝と合祀する。」
 13是歳,海南獠陷瓊州。
13.この年、海南獠が瓊州を陥した。
總章元年(戊辰、六六八)

 春,正月,壬子,以右相劉仁軌爲遼東道副大總管。
1.春、正月壬子、右相劉仁軌を遼東道副大総管とする。
 二月,壬午,李勣等拔高麗扶餘城。薛仁貴既破高麗於金山,乘勝將三千人將攻扶餘城,諸將以其兵少,止之。仁貴曰:「兵不在多,顧用之何如耳。」遂爲前鋒以進,與高麗戰,大破之,殺獲萬餘人,遂拔扶餘城。扶餘川中四十餘城皆望風請服。
  侍御史洛陽賈言忠奉使自遼東還,上問以軍事,言忠對曰:「高麗必平。」上曰:「卿何以知之?」對曰:「隋煬帝東征而不克者,人心離怨故也;先帝東征而不克者,高麗未有釁也。今高藏微弱,權臣擅命,蓋蘇文死,男建兄弟内相攻奪,男生傾心内附,爲我郷導,彼之情偽,靡不知之。以陛下明聖,國家富強,將士盡力,以乘高麗之亂,其勢必克,不俟再舉矣。且高麗連年饑饉,妖異屢降,人心危駭,其亡可翹足待也。」上又問:「遼東諸將孰賢?」對曰:「薛仁貴勇冠三軍;龐同善雖不善鬭,而持軍嚴整;高侃勤儉自處,忠果有謀;契苾何力沈毅能斷,雖頗忌前,而有統御之才;然夙夜小心,忘身憂國,皆莫及李勣也。」上深然其言。
  泉男建復遣兵五萬人救扶餘城,與李勣等遇於薛賀水,合戰,大破之,斬獲三萬餘人,進攻大行城,拔之。
2.二月壬午。李勣等が高麗の扶余城を抜く。その経緯は、以下の通り。
 金山にて高麗を破った薛仁貴は、勝ちに乗じて、三千人を率いて扶餘城を攻撃しようとした。諸将は兵力が少なすぎるのでこれを止めたが、仁貴は言った。
「兵は数ではない。用い方次第だ。」
 遂に前鋒となって進軍し、高麗と戦ってこれを大いに破る。万余人を殺獲して、遂に扶餘城を抜いた。すると、扶余城川中の四十余城が風に靡くように降伏を請うた。
 侍御史の洛陽の賈言忠が使者として遼東へ行き、帰ってくると、上は軍事を問うた。すると、言忠は答えた。
「高麗は必ず平定されます。」
 上は言った。
「卿はどうしてそう言い切れるのだ?」
「隋の煬帝が東征して勝てなかったのは、人心が怨離していたせいです。先帝が東征して勝てなかったのは、高麗に隙がなかったからです。今、高麗は微弱で権臣が専断しています。蓋蘇文は死に、男建兄弟は内で互いに攻撃しあい、男生は翻心して我が国へ帰順し、道案内まで買って出ています。彼の性根など、これで知れたもの。陛下は明聖、国家は富強、そして将士は力を尽くし、これを以て高麗の乱へ乗じるのです。その勢いは必勝。再挙など待つまでもありません。その上、高麗は連年の飢饉で妖異は屡々降り、人心は危駭しています。その滅亡は目前です。」
「遼東の諸将では、誰が賢者かな?」
「薛仁貴の勇は参軍に冠たるもの。龐同善は善く戦うとは言えませんが、軍を厳整に維持します。高侃は勤勉節約で、忠にして謀略があります。契苾何力は沈毅で決断力があり、艱難があっても部下を統率してのけます。しかし、夙夜用心して身を忘れてまで国を憂える点では、誰も李勣に及びません。」
 上は、その言葉に深く得心した。
 泉男建が扶余城救援のため、再び五万人を派兵した。これは、薛賀水にて李勣等と遭遇した。李勣は合戦して大いにこれを破り、三万人を殺獲する。そのまま大行城へ進軍し、これを抜いた。
 朝廷議明堂制度略定,三月,庚寅,赦天下,改元。
3.朝廷が議論していた明堂の制度がほぼ定まった。三月庚寅、天下へ赦を下して改元した。
 戊寅,上幸九成宮。
4.戊寅、上が九幸宮へ御幸した。
 夏,四月,丙辰,彗星見于五車。上避正殿,減常膳,撤樂。許敬宗等奏請復常,曰:「彗見東北,高麗將滅之兆也。」上曰:「朕之不德,謫見于天,豈可歸咎小夷!且高麗百姓,亦朕之百姓也。」不許。戊辰,彗星滅。
5.夏、四月丙辰。五車に彗星が見えた。上は正殿を避け、食膳を減らし、音楽を撤廃した。すると、許敬宗等が常に復すよう上奏した。
「東北に彗星が見えるのは、高麗が滅亡する兆しです。」
 上は言った。
「朕の不徳が、天に顕れたのだ。なんでその咎を小夷へ押しつけられようか!それに、高麗の百姓も又、朕の百姓である。」
 常に復すことを許さなかった。
 戊辰、彗星は消えた。
 辛巳,西臺侍郎、同東西臺三品楊弘武薨。
6.辛巳、西台侍郎、同東西台三品楊弘武が卒した。
 八月,辛酉,卑列道行軍總管、右威衞將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。
7.八月辛酉。卑列道行軍総管、右威衛将軍劉仁願が高麗征伐時に逗留していて進軍しなかったとして罪に問われ、姚州へ流された。
 癸酉,車駕還京師。
8.癸酉、車駕が京師へ還った。
 九月,癸巳,李勣拔平壤。勣既克大行城,諸軍出他道者皆與勣會,進至鴨綠柵,高麗發兵拒戰,勣等奮撃,大破之,追奔二百餘里,拔辰夷城,諸城遁逃及降者相繼。契苾何力先引兵至平壤城下,勣軍繼之,圍平壤月餘,高麗王藏遣泉男産帥首領九十八人,持白幡詣勣降,勣以禮接之。泉男建猶閉門拒守,頻遣兵出戰,皆敗。男建以軍事委僧信誠,信誠密遣人詣勣,請爲内應。後五日,信誠開門,勣縱兵登城鼓譟,焚城四月,男建自刺,不死,遂擒之。高麗悉平。
9.九月、癸巳、李勣が平壌を抜いた。その経緯は以下の通り。
 勣が大行城に勝った後、他道から進軍していた諸軍も全て勣と合流して、鴨緑柵まで進軍した。高麗は兵を発して拒戦したが、勣等は奮撃して大勝利を収めた。二百余里追撃して辱夷城を抜く。すると、諸城へ逃げ込んでいた者が相継いで降伏してきた。
 契苾何力が先頭に立って平壌城下へ進軍した。勣の軍が後続となる。
 平壌を包囲すること一ヶ月余り。高麗王藏は、泉男産へ首領九十八人を率いさせて派遣した。彼等は白旗を持って勣の陣営を詣で、降伏した。勣は、これを礼遇する。
 泉男建はなお門を閉じて拒守し、頻繁に兵を出して戦ったが、全て敗北した。
 男建は軍事を僧信誠へ委ねていたが、信誠は密かに勣のもとへ人を派遣し内応を請うた。
 五日後、信誠は門を開いた。勣は兵を突撃させた。士卒は城へ登って軍鼓を打ち鳴らし、城の四隅を焼いた(「四月」は「四角」の誤りと言われています)。男建は自刃したが死ねずにいたところを捕らえた。
 こうして、高麗は悉く平定した。
 10冬,十月,戊午,以烏荼國婆羅門盧迦逸多爲懷化大將軍。逸多自言能合不死藥,上將餌之。東臺侍郎郝處俊諫曰:「脩短有命,非藥可延。貞觀之末,先帝服那羅邇娑婆寐藥,竟無效;大漸之際,名醫不知所爲,議者歸罪娑婆寐,將加顯戮,恐取笑戎狄而止。前鑒不遠,願陛下深察。」上乃止。
10.冬、十月戊午。烏荼国の婆羅門盧迦逸多を懐化大将軍とする。
 逸多は、不死の薬を調合できると吹聴しており、上はこれを雇用しようとしたが、東台侍郎郝處俊が諫めた。
「寿命は天命です。薬で延ばすものではありません。貞観の末、先帝は那羅邇娑婆寝の薬を服用しましたが、結局効果がありませんでした。先帝の体が弱ってくると名医も為す術が無く、中には罪を全て娑婆寝へ押しつけるものまで出て、娑婆寝は誅戮を加えられる寸前まで行きましたが、戎狄から笑われることを恐れて中止されました。前鏡は遠くありません。どうか陛下、深くお考えください。」
 上は思い止まった。
 11李勣將至,上命先以高藏等獻于昭陵,具軍容,奏凱歌,入京師,獻于太廟。十二月,丁巳,上受俘于含元殿。以高藏政非己出,赦以爲司平太常伯、員外同正。以泉男産爲司宰少卿,僧信誠爲銀靑光祿大夫,泉男生爲右衞大將軍。李勣以下,封賞有差。泉男建流黔中,扶餘豐流嶺南,分高麗五部、百七十六城、六十九萬餘戸,爲九都督府、四十二州、百縣,置安東都護府於平壤以統之。擢其酋帥有功者爲都督、刺史、縣令,與華人參理。以右威衞大將軍薛仁貴檢校安東都護,總兵二萬人以鎭撫之。
  丁卯,上祀南郊,告平高麗,以李勣爲亞獻。己巳,謁太廟。
11.李勣軍が京師へ近づいたので、上は入京に先だって、高蔵を昭陵へ献じるよう命じた。そして軍容を整然とさせ、凱歌を挙げて京師へ入り、太廟へ献じた。
 十二月丁巳。上は含元殿にて捕虜を受け取る。
 高蔵は政治の実権がなかったので赦し、司平太常伯、員外同正とした。泉男産を司宰少卿、僧信誠を銀青光禄大夫、泉男生を右衛大将軍とした。李勣以下、それぞれ功績に応じて封賞する。泉男建は黔中へ、扶余豊は嶺南へ流刑となった。
 高麗は百七十六城、六十九万余戸。これを五部に分け九都督府、四十二州、百県と為し、平壌に安東都護府を設置してこれを統御させた。功績のあった酋帥は都督、刺史、県令に抜擢し、華人と共に政治に参加させた。右威衛大将軍薛仁貴を検校安東都護として、二万の軍兵を与えて鎮撫させた。
 丁卯、上が南郊で祀り、高麗が平定したことを告げた。李勣を亜献とする。
 己巳、太廟に謁した。
 12渭南尉劉延祐,弱冠登進士第,政事爲畿縣最。李勣謂之曰:「足下春秋甫爾,遽擅大名,宜稍自貶抑,無爲獨出人右也。」
12.渭南尉劉延裕は若くして進士第へ登り、政治の実績は畿内一だった。李勣は、彼へ言った。
「足下は若くして高名を得た。これからはすこし貶抑して、独りだけ突出しないようにしなさい。」
 13時有敕,征遼軍士逃亡,限内不首及首而更逃者,身斬,妻子籍沒。太子上表,以爲:「如此之比,其數至多。或遇病不及隊伍,怖懼而逃;或因樵採爲賊所掠;或渡海漂沒;或深入賊庭,爲所傷殺。軍法嚴重,同隊恐并獲罪,即舉以爲逃,軍旅之中,不暇勘當,直據隊司通状關移所屬,妻子沒官,情實可哀。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』伏願逃亡之家,免其配沒。」從之。
13.この頃、敕があり、征遼軍士の逃亡者(期限内に到着しない者や、到着しても逃げた者)は、本人は斬罪にし、妻子は官の奴婢とされた。すると、太子が上表して言った。
「このようにしますと、その数があまりに多くなります。或いは病気になって期限に間に合わずに逃げ出したり、或いは薪などを取りに行って賊徒に掠められたり、或いは渡海して漂流したり、或いは賊領へ深く入り込んで殺傷されたり。軍法が余り厳しすぎると、同じ隊の者が連座を恐れて隊を挙げて逃亡することにもなり、軍旅の中、相当する者は数え切れません。隊司の報告書を鵜呑みにして全て適用させ、その妻子を奴婢とするのでは、人情としてあまりにも哀れです。書経にも言います。『その無辜を殺すくらいなら、むしろ罪人を見逃す方がよい。』と。伏してお願い申し上げます。逃亡者の家族を奴婢とするのはご容赦ください。」
 これに従う。
 14甲戌,司戎太常伯姜恪兼檢校左相,司 平太常伯閻立本守右相。
14.甲戌、司戎太常伯姜恪に検校左相を兼務させ、司平太常伯閻立本を守右相とする。
 15是歳,京師及山東、江、淮旱、饑。
15.この年、京師及び山東、江、淮で旱が起こり、飢饉となった。
二年(己巳、六六九)

 春,二月,辛酉,以張文瓘爲東臺侍郎,以右肅機、檢校太子中護譙人李敬玄爲西臺侍郎,並同東西臺三品。先是同三品不入銜,至是始入銜。
1.春、二月辛酉。張文瓘を東台侍郎とし、右粛機、検校太子中護の譙の人李敬玄を西台侍郎とし、共に同東西台三品とする。
 これまで、同三品は入銜できなかったが、これ以降できるようになる。(「銜」が、判別できませんでしたが、禁中のある箇所を指すのではないかと思います。)
 癸亥,以雍州長史盧承慶爲司刑太常伯。承慶嘗考内外官,有一官督運,遭風失米,承慶考之曰:「監運損糧,考中下。」其人容色自若,無言而退。承慶重其雅量,改註曰:「非力所及,考中中。」既無喜容,亦無愧詞。又改曰:「寵辱不驚,考中上。」
2.癸亥、雍州長史盧承慶を司刑太常伯とする。
 承慶はいつも内外の官を考課していた。ある時、一官吏が運搬を監督しているときに風に遭って運んでいた米を損失させた。承慶は、その官吏を考課して言った。
「運搬を監督した米を損失させた。中の下とする。」
 すると、件の官吏は自若としており、無言のまま退出した。承慶はその雅やかな器量を重んじて、考課を改訂した。
「風に遭ったのは、人力の及ぶところではない。中の中とする。」
 だが、件の官吏は喜びもしなかったし、愧じる言葉もなかった。そこで再び改訂した。
「寵にも辱にも心がとらわれない。中の上とする。」
 三月,丙戌,東臺侍郎郝處俊同東、西臺三品。
3.三月丙戌。東台侍郎郝處俊を、同東、西台三品とする。
 丁亥,詔定明堂制度:其基八觚,其宇上圓,覆以清陽玉葉,其門牆階級,窗櫺楣柱,柳楶枅栱,皆法天地陰陽律暦之數。詔下之後,衆議猶未決,又會饑饉,竟不果立。
4.丁亥、詔して明堂の制度を定める。
 その基礎は八觚で、宇は上円。清陽玉葉で覆った。その門牆の階級や窓のれんじ、かもい、柱、杭などは全て天地陰陽律暦の数に法った。
 詔が下った後も、衆議はなお続いた。そのうちに飢饉にあったので、遂に建造されなかった。
 夏,四月,己酉朔,上幸九成宮。
5.夏、四月己酉朔。上が九幸宮へ御幸した。
 高麗之民多離叛者,敕徙高麗戸三萬八千二百於江、淮之南,及山南、京西諸州空曠之地,留其貧弱者,使守安東。
6.高麗の民に離反する者が大勢いた。敕が降りて、高麗の戸三万八千二百を江、淮の南や山南、京西諸州の人口の少ないところへ移住させた。ただ、貧しい者、弱い者は留めて、安東を守らせた。
 六月,戊申朔,日有食之。
7.六月戊申朔、日食が起こった。
 秋,八月,丁未朔,詔以十月幸涼州。時隴右虚耗,議者多以爲未宜游幸。上聞之,辛亥,御延福殿,召五品已上謂曰:「自古帝王,莫不巡守,故朕欲巡視遠俗。若果爲不可,何不面陳,而退有後言,何也?」自宰相以下莫敢對。詳刑大夫來公敏獨進曰:「巡守雖帝王常事,然高麗新平,餘寇尚多,西邊經略,亦未息兵。隴右戸口彫弊,鑾輿所至,供億百端,誠爲未易。外間實有竊議,但明制已行,故羣臣不敢陳論耳。」上善其言,爲之罷西巡。未幾,擢公敏爲黄門侍郎。
8.秋、八月丁未朔、十月に涼州へ御幸すると詔した。
 この頃、隴右が虚耗しており、大勢の官僚が、遊幸は良くないと言い合った。上はこれを聞き、辛亥、延福殿へ出向き、五品以上を召集して言った。 「古来より巡守しない帝王はいなかった。だから朕は遠方の風俗を巡視しようと思ったのだ。もしもこれが不可だとしても、面と向かっては何も言わず、退出した後に言うとは、どうゆう訳だ?」
 宰相以下、言い返せる者はいなかったが、詳刑大夫来公敏独り進み出て言った。
「巡守は帝王の常事ではありますが、高麗は平定したばかりで余寇はなお多く、西辺の経略でも戦争は止みません。隴右の戸口は疲弊しきっておりますのに、乗與が御幸するとなると、その準備の為に民の労苦は大変なものがあります。このような議論は多かったのですが、既に御幸すると明言されてしまったので、群臣は敢えて陳述しなかったのでございます。」
 上はその言葉を善として、西巡を中止した。それからすぐに、公敏を黄門侍郎へ抜擢した。
(来公敏の陳述を読んで感じたのですが、「議者多以為未宜遊幸」は、「臣下達が互いに言い合った」だけで、「上へ向かって陳述した」のではないような気がします。「上言」などの言葉が入らずに、ただ「議者~」と記載してあった時は、「皆が内々で言い合った」と解釈するべきなのでしょうか?今まで厳密に区別していなかったので、これまでの訳文が、かなり心配になりました。)
 甲戌,改瀚海都護府爲安北都護府。
9.甲戌、瀚海都護府を安北都護府と改称する。
 10九月,丁丑朔,詔徙吐谷渾部落就涼州南山。議者恐吐蕃侵暴,使不能自存,欲先發兵撃吐蕃。右相閻立本以爲去歳饑歉,未可興師。議久不決,竟不果徙。
10.九月丁丑朔。吐谷渾の部落を涼州の南山へ移住させると詔する。
 官僚達は、吐蕃が侵略した時、自衛できないことを恐れ、まず出兵して吐蕃を撃つよう言った。だが、右相閻立本は、去年飢饉が起こったばかりなのでまだ戦争してはいけないとした。討議は長い間結論が出ず、遂に移住されなかった。
 11庚寅,大風,海溢,漂永嘉、安固六千餘家。
11.庚寅、大風で海が溢れ、永嘉、安固の六千余家が流された。
 12冬,十月,丁巳,車駕還京師。
12.冬、十月丁巳。車駕が京師へ還った。
 13十一月,丁亥,徙豫王旭輪爲冀王,更名輪。
13.十一月丁亥。豫王旭輪を冀王とし、輪と改名させた。
 14司空、太子太師、英貞武公李勣寢疾,上悉召其子弟在外者,使歸侍疾。上及太子所賜藥,勣則餌之;子弟爲之迎醫,皆不聽進,曰:「吾本山東田夫,遭値聖明,致位三公,年將八十,豈非命邪!脩短有期,豈能復就醫工求活!」一旦,忽謂其弟司衞少卿弼曰:「吾今日小愈,可共置酒爲樂。」於是子孫悉集,酒闌,謂弼曰:「吾自度必不起,故欲與汝曹爲別耳。汝曹勿悲泣,聽我約束。我見房、杜平生勤苦,僅能立門戸,遭不肖子,蕩覆無餘。吾有此子孫,今悉付汝。葬畢,汝即遷入我堂,撫養孤幼,謹察視之。其有志氣不倫,交遊非類者,皆先撾殺,然後以聞。」自是不復更言。十二月,戊申,薨。上聞之悲泣,葬日,幸未央宮,登樓望轜車慟哭。起冢象陰山、鐵山、烏德鞬山,以旌其破突厥、薛延陀之功。
  勣爲將,有謀善斷;與人議事,從善如流。戰勝則歸功於下,所得金帛,悉散之將士,故人思致死,所向克捷。臨事選將,必訾相其状貌豐厚者遣之。或問其故,勣曰:「薄命之人,不足與成功名。」
  閨門雍睦而嚴。其姊嘗病,勣已爲僕射,親爲之煮粥。風回,爇其須鬢。姊曰:「僕妾幸多,何自苦如是!」勣曰:「非爲無人使令也,顧姊老,勣亦老,雖欲久爲姊煮粥,其可得乎!」
  勣常謂人:「我年十二三時爲亡賴賊,逢人則殺。十四五爲難當賊,有所不愜則殺人。十七八爲佳賊,臨陳乃殺之。二十爲大將,用兵以救人死。」
  勣長子震早卒,震子敬業襲爵。
14.司空、太子太師、英貞武公李勣が病に伏せった。上は、地方にいた彼の子弟を悉く召して看病させた。李勣は、上や太子から賜下された薬は服んだが、子弟が医者を連れて来ても、診察させずに言った。
「我はもともと山東の田夫。それが聖明と遭って三光にまで出世した。そして、年も八十だ。もはや寿命ではないか!長短は天命、医者に就いてまで長生きする気はない!」
 ある夕べ、弟の司衛少卿弼へ言った。
「今日は、少し体調がよい。一緒に酒でも楽しもう。」
 そこで、子孫を全員集めた。酒がたけなわの時、勣は弼へ言った。
「我は、もうダメのようだ。だから、汝等と別れをしたいのだ。汝等は、悲泣しないで、我が約束を聞いてくれ。房と杜が終生勤苦して僅かに門戸を立てたのに、不肖の子息が家門を覆してもはや遺族もいない有様を、我は見てきた。我にこれだけの子孫が居るが、今、これを悉く汝へ託す。埋葬が終わったら、汝はすぐに我が堂へ入って孤幼を撫で謹んでこれを視察せよ。不倫の志気を持つ者や良からぬ輩と交遊する者が居たら、まずこれを殺してから上聞せよ。」
 それ以上、何も言わなかった。
 十二月戊申、卒す。上はこれを聞いて悲泣した。葬儀の日、未央宮へ御幸し、楼へ登って轜車を望み慟哭する。陰山、鉄山、烏徳鞬山へ塚を立て、突厥、薛延陀を撃破した功績を遺した。
 勣は将となっては謀略も決断力もあり、人と議論したら流れるように善に従った。戦争に勝ったら功績を部下へ譲り、賜下された金帛は悉く将士へ散らした。だから彼の麾下は皆戦死に臆せず、連戦連勝だった。事に臨んで将を選ぶ時は、必ず人相を見て、その状貌が豊厚な者を選んだ。ある人がその理由を問うと、言った。
「運の悪い人は功名を成せないのだ。」
 一族へは、とても睦ましく、そして厳格に接した。かつて姉が病気になった時には、勣は僕射だったのに、自ら粥を煮て、うちわで扇いで須や鬢の熱を冷ましてやった。姉は言った。
「僕には妾も多いのに、どうして自分でここまでするの!」
 勣は言った。
「使える人間が居ない訳じゃない。姉も勣も、もう年だから、姉の為に粥を煮てあげようと思っても、いつまでもできやしないじゃないか!」
 勣はいつも人へ言っていた。
「我は十二三の時には無頼の賊で、人に遭ったら殺していた。十四五の時には不当の賊で、気に入らない奴を殺した。十七八では佳賊となり、戦陣に臨んで敵を殺した。二十では大将になり、兵を用いて人が死ぬのを救った。」
 勣の長男の震は夭折しており、震の子の敬業が襲爵した。
 15時承平既久,選人益多,是歳,司列少常伯裴行儉始與員外郎張仁禕設長名姓歴牓,引銓注之法。又定州縣升降、官資高下。其後遂爲永制,無能革之者。
  大略唐之選法,取人以身、言、書、判,計資量勞而擬官。始集而試,觀其書、判;已試而銓,察其身、言;已銓而注,詢其便利;已注而唱,集衆告之。然後類以爲甲,先簡僕射,乃上門下,給事中讀,侍郎省,侍中審之,不當者駁下。既審,然後上聞,主者受旨奉行,各給以符,謂之告身。兵部武選亦然。課試之法,以騎射及翹關、負米。人有格限未至,而能試文三篇,謂之宏詞,試判三條,謂之拔萃,入等者得不限而授。其黔中、嶺南、閩中州縣官,不由吏部,委都督選擇土人補授。凡居官以年爲考,六品以下,四考爲滿。
15.この頃は太平が久しく、選人はますます多くなった。この年、司列少常伯裴行倹が員外郎張仁禕と、始めて長名姓歴牓、引銓注の法を設ける。また、州県の升降、官資の高下を定めた。これはその後、遂に永制となり、改革できる者が居なかった。
 大略、唐の選法は、身、言、書、判で人を取り、資質や功労を計って官を決定する。最初に集めて試験をする。これは、その書と判を観る。試験が終われば、その身、言を察する。これを銓と言う。銓が終われば、その能力にあった役職を選ぶ。これを注と言う。注が終われば衆を集めて告知する。これを唱と言う。その後、これを甲としてまず僕射が考課して門下へ上げ、給事中が読み、侍郎省、侍中がこれを審じ、不当な者は却下する。この審判がすんだ後、上聞する。主は旨を受けて奉行し、各々へ割符を給付する。これを告身と言う。
 兵部の選出も同様である。課試の方法としては騎射、翹関、負米がある。
 資質の限界で出世できない者には、宏詞とゆう三篇の試文と抜萃とゆう三篇の試判がある。これに入選した者は、限度なく出世できる。
 黔中、嶺南、閩中の州県の官吏は、吏部の管轄外で、都督が土人を選んで官職を授ける。
 およそ官に就いている者は毎年考課があり、六品以下は四回の考課で満期となる。
咸亨元年(庚午、六七〇)

 春,正月,丁丑,右相劉仁軌請致仕;許之。
1.春、正月丁丑。右相劉仁軌が退職を願い出、許諾された。
 三月,甲戌朔,以旱,赦天下,改元。
2.三月、甲戌朔。旱が起こったので、天下へ赦を降し、改元する。
 丁丑,改蓬萊宮爲含元宮。
3.丁丑、蓬莱宮を含元宮と改称する。
 壬辰,太子少師許敬宗請致仕;許之。
4.壬辰、太子少師許敬宗が退職を願い出、許諾された。
 敕突厥酋長子弟事東宮。西臺舎人徐齊耼上疏,以爲:「皇太子當引文學端良之士置左右,豈可使戎狄醜類入侍軒闥!」又奏:「齊獻公即陛下外祖,雖子孫有犯,豈應上延祖禰!今周忠孝公廟甚修,而齊獻公廟毀廢,不審陛下何以垂示海内,彰孝理之風!」上皆從之。齊耼,充容之弟也。
5.突厥の酋長の子息へ東宮へ仕えるよう敕が下った。
 西台舎人徐斉耼が上疏した。
「皇太子の左右には、文学端良の士を置くべきです。どうして戎狄のような醜類を軒闥へ入侍させてよいものでしょうか。」
 又、奏した。
「斉献公(文徳皇后の父の長孫晟)は陛下の外祖です。その子孫に国を犯した者がいたとはいえ、どうして祀らずにいられましょうか!今、周忠孝公(皇后の父の武士彠)の廟は立派に造られていますが、斉献公の廟は壊されています。これでは陛下は何を以て海内へ教えを示し、孝理の風を顕わすのですか!」
 上は、ともに従った。
 斉耼は充容(天子の側室で、九嬪の一つ)の弟である。
 夏,四月,吐蕃陷西域十八州,又與于闐襲龜茲撥換城,陷之。罷龜茲、于闐、焉耆、疏勒四鎭。辛亥,以右威衞大將軍薛仁貴爲邏娑道行軍大總管,左衞員外大將軍阿史那道眞、左衞將軍郭待封副之,以討吐蕃,且援送吐谷渾還故地。
6.夏、四月。吐蕃が西域十八州を陥した。また、于闐が亀慈の撥換城を襲撃して、これを陥した。そこで、亀慈、于闐、焉耆、疏勒の四鎮を廃止した。
 辛亥、右威衛大将軍薛仁貴を邏婆道行軍大総管とし、左衛員外大将軍阿史那道真、左衛将軍郭待封を副官として、吐蕃を討伐させた。また、吐谷渾へ護衛の兵を与えて故地へ還す。
 庚午,上幸九成宮。
7.庚午、上が九成宮へ御幸した。
 高麗酋長劍牟岑反,立高藏外孫安舜爲主。以左監門大將軍高侃爲東州道行軍總管,發兵討之,安舜殺劍牟岑,奔新羅。
8.高麗の酋長剣牟岑が造反した。高藏の外孫安舜を立てて主とする。左監門大将軍高侃を東州道行軍総管として、派兵してこれを討伐させる。
 安舜は剣牟岑を殺して新羅へ亡命した。
 六月,壬寅朔,日有食之。
9.六月壬寅朔。日食が起こった。
 10秋,八月,丁巳,車駕還京師。
10.秋、八月丁巳。車駕が京師へ還った。
 11郭待封先與薛仁貴並列,及征吐蕃,恥居其下,仁貴所言,待封多違之。軍至大非川,將趣烏海,仁貴曰:「烏海險遠,軍行甚難,輜重自隨,難以趨利;宜留二萬人,爲兩柵於大非嶺上,輜重悉置柵内,吾屬帥輕鋭,倍道兼行,掩其未備,破之必矣。」仁貴帥所部前行,撃吐蕃於河口,大破之,斬獲甚衆,進屯烏海以俟待封。待封不用仁貴策,將輜重徐進,未至烏海,遇吐蕃二十餘萬,待封軍大敗,還走,悉棄輜重。仁貴退屯大非川,吐蕃相論欽陵將兵四十餘萬就撃之,唐兵大敗,死傷略盡。仁貴、待封與阿史那道眞並脱身免,與欽陵約和而還。敕大司憲樂彦瑋即軍按其敗状,械送京師,三人皆免死除名。
  欽陵,祿東贊之子也,與弟贊婆、悉多于,勃論皆有才略。祿東贊卒,欽陵代之,三弟將兵居外,鄰國畏之。
11.郭待封は、もとは薛仁貴と同輩だった。それが吐蕃討伐ではその部下になったので、これを恥じ、仁貴の言うことへ反発ばかりしていた。
 軍が大非川へ至り、烏海へ赴こうとした時、仁貴は言った。
「烏海は険阻で遠い。行軍はとても困難だ。輜重隊を随従させたら、行軍時間は更にかかる。ここに二万人を留めて大非嶺の上に二つの柵を作り、輜重は悉く柵内へ置いて行こう。吾は軽騎を率いて強行し、敵が備えをする前に襲撃すれば、必ず破れる。」
 仁貴は手勢を率いて先行し、河口にて吐蕃を攻撃して、これを大いに破った。大勢の敵兵を殺獲し、烏海まで進軍して待封を待った。
 待封は仁貴の策を用いず、輜重隊を率いてゆっくり進んだ。すると烏海へ到着する前に吐蕃軍二十万余と遭遇した。待封軍は大敗し、輜重を全て棄てて逃げ帰る。
 仁貴は退却して大非川に屯営する。吐蕃の相論欽陵が四十万の兵を率いてこれを襲撃した。唐軍は大敗し、士卒の大半が死傷する。仁貴、待封と阿史那道真は体一つで逃げ出し、欽陵と和睦して還った。
 大司憲楽彦瑋へ、今回の敗北を裁断して彼等へ枷をはめて京師へ送るよう敕した。三人は除名処分となり、死罪は免じられた。
 欽陵は禄東賛の子息である。彼とその弟の賛婆、悉多于、勃論は皆、才略があった。欽陵が父に代わり、三人の弟が兵を率いて地方を守るようになると、隣国は吐蕃を畏れた。
 12關中旱,饑。九月,丁丑,詔以明年正月幸東都。
12.関中が旱害で飢饉となった。
 九月丁丑。明年正月に東都へ御幸すると詔が降った。
 13甲申,皇后母魯國忠烈夫人楊氏卒,敕文武九品以上及外命婦並詣宅弔哭。
13.甲申、皇后の母魯国公忠烈夫人楊氏が卒した。文武官の九品以上及び外命婦は夫人宅を詣でて弔哭するよう敕が降った。
 14閨月,癸卯,皇后以久旱,請避位;不許。
14.閏月癸卯。旱害が続くので、皇后が位を降りると請願したが、上は許さなかった。
 15壬子,加贈司徒周忠孝公武士彠爲太尉、太原王,夫人爲王妃。
15.壬子、司徒周忠公武士彠へ太尉、太原王を加贈し、夫人を王妃とした。
 16甲寅,以左相姜恪爲涼州道行軍大總管,以禦吐蕃。
16.甲寅、左相姜恪を涼州道大総管として、吐蕃を防がせた。
 17冬,十月,乙未,太子右中護、同東西臺三品趙仁本爲左肅機,罷政事。
17.冬、十月乙未、太子右中護、同東西台三品趙仁本を左粛機として、政事を辞めさせた。
 18庚寅,詔官名皆復舊。
18.庚寅、官名を皆、旧名へ戻した。

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