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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第一百九十六
 唐紀十二
  太宗文武大聖大廣孝皇帝中之中
貞觀十五年(辛丑、六四一)

 春,正月,甲戌,以吐蕃祿東贊爲右衞大將軍。上嘉祿東贊善應對,以琅邪公主外孫段氏妻之。辭曰:「臣國中自有婦,父母所聘,不可棄也。且贊普未得謁公主,陪臣何敢先娶!」上益賢之,然欲撫以厚恩,竟不從其志。
  丁丑,命禮部尚書江夏王道宗持節送文成公主于吐蕃。贊普大喜,見道宗,盡子壻禮,慕中國衣服、儀衞之美,爲公主別築城郭宮室而處之,自服紈綺以見公主。其國人皆以赭塗面,公主惡之,贊普下令禁之;亦漸革其猜暴之性,遣子弟入國學,受詩、書。
1.春、正月、甲戌、吐蕃の禄東贊を右衛大将軍とした。上は、禄東贊の応対が巧いのを嘉し、琅邪公主の外孫の段氏を彼へ娶せた。しかし、禄東贊は辞退して言った。
「臣は、国元に妻がおります。父母がまとめた相手で、棄てることは出来ません。それに、贊普でさえまだ公主へ会っていないのです。陪臣が、どうして先に娶ることが出来ましょうか!」
 上は、益々彼を賢人と認め、厚恩で招聘しようとしたが、ついに彼はなびかなかった。 丁丑、礼部尚書江夏王道宗が、文成公主を吐蕃へ送った。贊普は大喜びで、道宗へ対面する時には子や婿の礼で接した。贊普は中国の衣服を慕い、儀衛は美しく、公主の為に別に城郭宮室を築いてこれへ迎え入れ、自ら(着飾って?)公主を見た。
 その国人は皆、赤い塗料で顔を塗っていたが、公主はこれを嫌ったので、贊普はこれを禁じた。また、その猜疑心や粗暴さも次第に変わっていった。子弟を派遣して国学へ入れ、詩と書を学ばせた。
 乙亥,突厥侯利苾可汗始帥部落濟河,建牙於故定襄城,有戸三萬,勝兵四萬,馬九萬匹,仍奏言:「臣非分蒙恩,爲部落之長,願子子孫孫爲國家一犬,守吠北門。若薛延陀侵逼,請從家屬入長城。」詔許之。
2.乙亥、突厥の侯利苾可汗がはじめて部落を率いて河を渡り、もとの定襄城へ牙帳を建てた。その民は三万戸。四万の健兵と九万匹の馬がおり、上奏した。
「臣は分でもないのに御恩を蒙り部落の長となりました。願わくば、子々孫々国家の一犬となり、北門を守吼させてくださいませ。もし、薛延陀が侵入したら、家族達は長城へ入らせてください。」
 詔して、これを許した。
 上將幸洛陽,命皇太子監國,留右僕射高士廉輔之。辛巳,行及溫湯,衞士崔卿、刁文懿憚於行役,冀上驚而止,乃夜射行宮,矢及寢庭者五;皆以大逆論。
  三月,戊辰,幸襄城宮,地既煩熱,復多毒蛇;庚午,罷襄城宮,分賜百姓,免閻立德官。
3.上が洛陽へ御幸した。皇太子を監国とし、右僕射高士廉を補佐として、留めた。
 辛巳、温泉へ到着した。衛士の崔卿と刁文懿が、随従させられることを懼れ、上を驚かして中止させようと、夜、行宮へ矢を射た。寝庭まで飛んだ矢が五本もあった。皆は、これを大逆と論じた。
 三月、戊辰、襄城宮へ御幸した。その土地は灼熱で、毒蛇が多かった。庚午、襄城宮を廃止して百姓へ分賜し、閻立徳を罷免した。
 夏,四月,辛卯朔,詔以來年二月有事于泰山。
4.夏、四月、辛卯朔。来年二月に泰山を祀ると詔した。
 上以近世陰陽雜書,訛偽尤多,命太常博士呂才與諸術士刊定可行者,凡四十七卷。己酉,書成,上之;才皆爲之敘,質以經史。其敘宅經,以爲:「近世巫覡妄分五姓,如張、王爲商,武、庾爲羽,似取諧韻;至於以柳爲宮,以趙爲角,又復不類。或同出一姓,分屬宮商;或複姓數字,莫辨徴羽。此則事不稽古,義理乖僻者也。」敍祿命,以爲:「祿命之書,多言或中,人乃信之。然長平坑卒,未聞共犯三刑;南陽貴士,何必俱當六合!今亦有同年同祿而貴賤懸殊,共命共胎而壽夭更異。按魯莊公法應貧賤,又尩弱短陋,惟得長壽;秦始皇法無官爵,縱得祿,少奴婢,爲人無始有終;漢武帝、後魏孝文帝皆法無官爵;宋武帝祿與命並當空亡,唯宜長子,雖有次子,法當早夭;此皆祿命不驗之著明者也。」其敍葬,以爲:「孝經云:『卜其宅兆而安厝之。』蓋以窀穸既終,永安體魄,而朝市遷變,泉石交侵,不可前知,故謀之龜筮。近歳或選年月,或相墓田,以爲一事失所,禍及死生。按禮,天子、諸侯、大夫葬皆有月數。是古人不擇年月也。春秋:『九月丁巳,葬定公,雨,不克葬,戊午,日下昃,乃克葬。』是不擇日也。鄭葬簡公,司墓之室當路,毀之則朝而窆,不毀則日中而窆,子産不毀,是不擇時也。古之葬者皆於國都之北,兆域有常處,是不擇地也。今葬書以爲子孫富貴、貧賤、壽夭,皆因卜葬所致。夫子文爲令尹而三已,柳下惠爲士師而三黜,計其丘隴,未嘗改移。而野俗無識,妖巫妄言,遂於擗捅之際,擇葬地而希官爵;荼毒之秋,選葬時以規財利。或云辰日不可哭泣,遂莞爾而對弔客;或云同屬忌於臨壙,遂吉服不送其親。傷教敗禮,莫斯爲甚!」術士皆惡其言,而識者皆以爲確論。
5.上は、近世の陰陽雑書に俗説や偽りが多いとして、太常博士呂才と諸々の術士に、世間に流布する価値のあるものを鑑定させ、四十七巻とした。
 己酉、書は完成し、これを上納する。
 才はこれらの全てに序文を書き、経史の感性で問い質した。その宅経の序文に言う、
「近世の巫術は、妄りに五姓に分け、張や王等を商とし、武や庾等を羽となし、諧韻を真似ている。その中で、柳を宮と為し趙を角と為すのは、何と不明なことか。この両者は一つの姓から出ているのに、宮と商に分けている。あるいは、二字の姓も微羽(半音)に入れていない。これは即ち、昔のことをまるで勉強せず、義理も判らない者の所業である。」
 また、禄命の序文に言う。
「禄命の書(生年月日による占い)は、大勢の人間が的中したと言っており、人々もこれを信じている。しかし、長平にて四十五万人が穴埋めになった時、全ての人間が三刑を犯したとは伝わっていない。漢の光武帝が中興した時、南陽の人士が大勢貴族となったが、彼等は全て六合だったのか!今また、同じ年の同禄の生まれで、貴賤が天地ほどに隔たっている者がいる。命も胎も同じなのに、長寿と夭逝がいる。歴史上の人間が禄命通りの人生を送ったのなら、魯の荘公は貧賤で、貧弱な体つきで、ただ長寿を得るだけだった筈。秦の始皇帝は、官爵がなく、放縦に禄を得、奴婢は少なく、その人生は初めは何も持たないのに、最後には裕福になる。漢の武帝と後魏の孝文帝は、共に官爵がない。宋の武帝は禄にも長命にも恵まれず、ただ長男があるだけで、次男は夭折する。だが、実際の彼等の人生はどうか?これらは皆、禄命が著しく外れた実例である。」
 葬の序文に言う。
「孝経に言う。『その宅兆を卜し、これを安置する。』けだし、墓穴が既に完成し、霊魂を長く休める。だが、世の中が移り変わり、水がわき出たり石が落ちてきたりしたら永眠を妨げるが、このようなことは事前に知ることが出来ない。だから、これを亀甲や筮竹に尋ねるのだ。最近ではこれが誇張され、あるいは歳月を選び、あるいは墓田の相を見て、一つでも手落ちがあると命に関わると言われている。だが、礼を按ずるに、天子、諸侯、大夫はそれぞれに埋葬するまでの月数が決められている。これは、古人は埋葬する年月を選ばなかったとゆうことだ。春秋の一節にある。『九月丁巳、定公を葬るが、雨が降って埋葬できなかった。戊午、日が西に傾いた頃、埋葬できた。』これは、埋葬の日を選ばなかったとゆうことだ。鄭で簡公を葬る時、司墓の室が路にかかっていた。これを壊せば朝に葬れるが、壊さなければ日中になってしまう。この時、子産は壊さなかった。これは、埋葬の時間を選ばなかったのだ。昔は、皆、国都の北の兆域に埋葬していた。これは地を選ばなかったのだ。今、葬書は、子孫の富貴貧賤、長寿夭折は、全て卜葬に起因すると言っている。ところで子文は令尹となって三度やめさせられた。柳下恵は士師となって三度退けられた。だが、彼等はその度に先祖の墓を移設したわけではない。だが、野俗がこの理を知らぬのにつけこんで妖巫が妄言し、遂に親が死んだら埋葬する土地を選んで官爵を願い、もがりの時には埋葬する日時を選んで財利を謀るようになってしまった。あるいは、辰の日には泣いてはいけないと言われれば、親族はニッコリとして弔問客へ対する。あるいは、同属は墓穴へ臨むのを忌むと言われれば、遂には吉事に着る服を着て、自分の親を送りもしない。教を傷つけ礼を破る。これ以上に甚だしいものはない!」
 術士は皆、この言葉を憎んだが、識者は皆、正論だと言った。
 丁巳,果毅都尉席君買帥精騎百二十,襲撃吐谷渾丞相宣王,破之,斬其兄弟三人。初,丞相宣王專國政,陰謀襲弘化公主,劫其王諾曷鉢奔吐蕃。諾曷鉢聞之,輕騎奔鄯善城,其臣威信王以兵迎之,故君買爲之討誅宣王。國人猶驚擾,遣戸部尚書唐儉等慰撫之。
6.丁巳、果毅都尉席君買が、精騎百二十を率いて吐谷渾丞相の宣王を襲撃した。そして、これを破って、その兄弟三人を斬る。
 初め、丞相宣王は国政を専断しており、弘化公主を襲撃して王の諾曷鉢をさらい吐蕃へ逃げ込もうとの陰謀を企てた。諾曷鉢はこれを聞き、軽騎で鄯善城へ亡命した。鄯善の臣威信王は兵を率いて迎え入れた。だから、君買は彼の為に宣王を誅殺したのだ。
 それでも国人は驚き不安がったので、戸部尚書唐倹を派遣して、これを慰撫した。
 五月,壬申,并州父老詣闕請上封泰山畢,還幸晉陽,上許之。
7.五月、壬申。并州の父老が闕を詣で、泰山にて封禅を行うよう上へ請願した。晋陽から帰ってきて、上はこれを許した。
 丙子,百濟來告其王扶餘璋之喪,遣使册命其嗣子義慈。
8.丙子、百済がその王扶餘璋の喪を告げてきた。使者を派遣して、その嗣子義慈の継承を認めた。
 己酉,有星孛于太微,太史令薛頤上言未可東封。辛亥,起居郎褚遂良亦言之。丙辰,詔罷封禪。
9.己酉、太微に彗星が出た。太子令薛頤が、まだ東封をしてはいけないと上言した。
 辛亥、起居郎猪遂良もまた、これを言った。
 丙辰、封禅を止めるとの詔が降りた。
 10太子詹事于志寧遭母喪,尋起復就職。太子治宮室,妨農功;又好鄭、衞之樂;志寧諫,不聽。又寵昵宦官,常在左右,志寧上書,以爲:「自易牙以來,宦官覆亡國家者非一。今殿下親寵此屬,使陵易衣冠,不可長也。」太子役使司馭等,半歳不許分番,又私引突厥達哥友入宮,志寧上書切諫,太子大怒,遣刺客張師政、紇干承基殺之。二人入其第,見志寧寢處苫塊,竟不忍殺而止。
10.太子詹事于志寧が母の喪で職を去ったが、復職した。
 太子は宮室で遊びに耽り、農功を妨害した。また、鄭、衛の音楽を好んだので、志寧は諫めたが、聞かない。また、宦官と昵懇で、いつも左右に置いていた。
 志寧は、上書した。その大意は、
「易牙以来、宦官が滅ぼした国家は、一つではありません。今、殿下はこれらの連中を寵遇し、衣冠を凌駕させています。この風潮は、増長させてはいけません。」
 太子は司馭を使役し、半年経っても交代を許さない。また、突厥の厥達哥友を私的に入宮させた。志寧は上書して切諫したので、太子は大いに怒り、刺客の張思政と紇干承基を派遣してこれを殺そうとした。二人が第へ入ったが、志寧が粗末な苫のベッドに寝ているのを見、遂に殺すに忍びなく、止めた。
 11西突厥沙鉢羅葉護可汗數遣使入貢。秋,七月,甲戌,命左領軍將軍張大師持節即其所號立爲可汗,賜以鼓纛。上又命使者多齎金帛,歴諸國市良馬,魏徴諫曰:「可汗位未定而先市馬,彼必以爲陛下志在市馬,以立可汗爲名耳。使可汗得立,荷德必淺;若不得立,爲怨實深。諸國聞之,亦輕中國。市或不得,得亦非美。苟能使彼安寧,則 諸國之馬,不求自至矣。」上欣然止之。
  乙毗咄陸可汗與沙鉢羅葉護互相攻,乙毗咄陸浸強大,西域諸國多附之。未幾,乙毗咄陸使石國吐屯撃沙鉢羅葉護,擒之以歸,殺之。
11.西突厥の沙鉢羅葉護可汗は、屡々使者を派遣して、入貢した。
 秋、七月、甲戌、左領軍将軍張大師を持節として派遣し、可汗として擁立してくるよう命じた。鼓纛を賜下する。
 この時上は、使者へ多くの金帛を渡し、諸国を回って良馬を買ってくるよう命じたが、魏徴が諫めた。
「可汗の位がまだ定まってもいないうちに、まず、馬を買わせる。彼等は必ず、陛下はただ馬が欲しかっただけで、我等へ可汗を立てるとゆうのは単なる名目に過ぎないのだと思い、可汗として擁立できても我等への恩義は薄いでしょう。ましてや擁立できなければ、必ずや深く怨まれます。諸国はこれを聞いて、中国を軽く見ます。商売など、巧く行っても行かなくても、名誉ではありません。それよりも、あれを安寧にすることが出来れば、諸国の馬など、求めなくても向こうからやって来ます。」
 上は欣然として、これを止めた。
 乙毘咄陸可汗と沙鉢羅葉護は互いに攻撃しあっていたが、乙毘咄陸が次第に強大になって行き、西域諸国の多くはこれに臣従した。いくばくも経たぬうちに、乙毘咄陸は石国に沙鉢羅葉護を攻撃させた。彼等は、沙鉢羅葉護を捕らえて帰国し、殺した。
 12丙子,上指殿屋謂侍臣曰:「治天下如建此屋,營構既成,勿數改移;苟易一榱,正一瓦,踐履動搖,必有所損。若慕奇功,變法度,不恆其德,勞擾實多。」
12.丙子、上が殿屋を指して侍臣へ言った。
「天下を治めるのは、この屋を建てるようなものだ。既に完成してしまったら、屡々移設することはできない。一本のたるき、一枚の瓦でも、手を加えたなら必ず傷つく所が出てくる。もしも派手な功績を遺そうと法度を変えたら、従来と同じ成果を出すだけでも多くの労力を必要とするのだ。」
 13上遣職方郎中陳大德使高麗;八月,己亥,自高麗還。大德初入其境,欲知山川風俗,所至城邑,以綾綺遺其守者,曰:「吾雅好山水,此有勝處,吾欲觀之。」守者喜,導之游歴,無所不至,往往見中國人,自云「家在某郡,隋末從軍,沒於高麗,高麗妻以游女,與高麗錯居,殆將半矣。」因問親戚存沒,大德紿之曰:「皆無恙。」咸涕泣相告。數日後,隋人望之而哭者,徧於郊野。大德言於上曰:「其國聞高昌亡,大懼,館候之勤,加於常數。」上曰:「高麗本四郡地耳,吾發卒數萬攻遼東,彼必傾國救之。別遣舟師出東萊,自海道趨平壤,水陸合勢,取之不難。但山東州縣彫瘵未復,吾不欲勞之耳!」
13.上が、職方郎中陳大徳を高麗へ派遣した。八月、己亥。高麗から還る。
 大徳は高麗へ入国した時には山川風俗を知ろうと思い、行く先々の城邑で、その太守へ綾綺を贈り、言った。
「我は、山水の愛好者です。この近辺の景勝地を観たいのです。」
 太守達は喜んで、彼を連れて遊覧し、隅々まで見せた。道々中国人に会ったが、彼等は言った。
「私の家は某郡にあります、隋末に従軍して高麗に取り残されて高麗人と結婚し、ここへ来てから、もう人生の半分が過ぎております。」
 そして親戚が健在か尋ねるのだ。対して大徳は、大抵こう答えた。
「皆さん、元気ですよ。」
 そして、彼等は相対して涕泣する。
 数日後、彼を遠くから眺めやって涙を零す隋の人間で、郊野が埋まった。
 大徳は、帰国すると上へ言った。
「あの国では、高昌が滅亡したと聞いて、大いに懼れています。平常の兵力で取れます。」
 上は言った。
「高麗は、もともと四郡しかない。我が数万の軍を動かして遼東を攻撃すれば、奴等は必ず国を傾けてこれを救援する。我等は別働隊として東莱から水軍を出し、海路で平壌へ赴き、水陸から協力して攻めれば、あの国は難なく取れる。ただ、山東の州県は戦争の疲弊からまだ立ち直っていないので、彼等へ戦役を与えたくないのだ!」
 14乙巳,上謂侍臣曰:「朕有二喜一懼。比年豐稔,長安斗粟直三、四錢,一喜也;北虜久服,邊鄙無虞,二喜也。治安則驕侈易生,驕侈則危亡立至,此一懼也。」
14.乙巳、上が侍臣へ言った。
「朕には二つの喜びと一つの懼れがある。今年は豊作で、長安では一斗の粟が三、四銭で買える。これが喜びの一。北虜が長い間服従しており、辺鄙に惧れがない。これが喜びの二。世の中が安らかに治まれば奢侈が生まれやすく、奢侈になればたちまち危亡がやってくる。これが一つの懼れだ。」
 15冬,十月,辛卯,上校獵伊闕;壬辰,幸嵩陽;辛丑,還宮。
15.冬、十月、辛卯。上が伊闕にて狩猟をする。壬辰、嵩陽へ御幸し、辛丑、宮へ帰る。
 16并州大都督長史李世勣在州十六年,令行禁止,民夷懷服。上曰:「隋煬帝勞百姓,築長城以備突厥,卒無所益。朕唯置李世勣於晉陽而邊塵不驚,其爲長城,豈不壯哉!」十一月,庚申,以世勣爲兵部尚書。
16.并州大都督長史李世勣が州に滞在して十六年経ち、彼の威令に民は喜んで服従していた。
 上は言った。
「隋の煬帝は百姓をこき使い、長城を造って突厥へ備えたが、遂に、何の役にも立たなかった。陳はただ李世勣を晋陽へ置いているだけで、辺域から戦争が無くなってしまった。彼自身が長城となるとは、何とも勇壮なことではないか!」
 十一月、庚申、世勣を兵部尚書とした。
 17壬申,車駕西歸長安。
17.壬申、車駕が長安へ帰った。
 18薛延陀眞珠可汗聞上將東封,謂其下曰:「天子封泰山,士馬皆從,邊境必虛,我以此時取思摩,如拉朽耳。」乃命其子大度設發同羅、僕骨、回紇、靺鞨、霫等兵合二十萬,度漠南,屯白道川,據善陽嶺以撃突厥。俟利苾可汗不能禦,帥部落入長城,保朔州,遣使告急。
  癸酉,上命營州都督張儉帥所部騎兵及奚、霫、契丹壓其東境;以兵部尚書李世勣爲朔州道行軍總管,將兵六萬,騎千二百,屯羽方;右衞大將軍李大亮爲靈州道行軍總管,將兵四萬,騎五千,屯靈武;右屯衞大將軍張士貴將兵一萬七千,爲慶州道行軍總管,出雲中;涼州都督李襲譽爲涼州道行軍總管,出其西。
  諸將辭行,上戒之曰:「薛延陀負其強盛,踰漠而南,行數千里,馬已疲痩。凡用兵之道,見利速進,不利速退。薛延陀不能掩思摩不備,急撃之,思摩入長城,又不速退。吾已敕思摩燒薙秋草,彼糧糗日盡,野無所獲。頃偵者來,云其馬齧林木枝皮略盡。卿等當與思摩共爲掎角,不須速戰,俟其將退,一時奮撃,破之必矣。」
18.薛延陀の真珠可汗は、上が封禅すると聞いて臣下へ言った。
「天子が泰山で封禅を行えば、大勢の兵隊が随従するから、辺境の警備が薄くなる。この時なら思摩を取るなど、枯れ木をさらうようなものだ。」
 そして太子の大度設へ同羅、僕骨、回紇、靺鞨、霫等の兵を動員させた。総勢二十万。漠南を渡り白道川へ屯営し、善陽嶺に據って突厥を攻撃した。
 俟利苾可汗は防ぎきれず、部落を率いて長城へ入り朔州を保って、使者を派遣して急を告げた。
 癸酉、上は、営州都督張倹へ手勢及び奚、霫、契丹の兵を率いてその東境を抑えるよう命じ、兵部尚書李世勣を朔州道行軍総管として、兵六万騎千二百で羽方へ屯営させ、右衛大将軍李大亮を霊州道行軍総管とし、兵四万騎五千で霊武へ屯営させ、右屯衛大将軍張士貴へ兵一万七千を与えて慶州道行軍総管として雲中へ出させ、涼州都督李襲誉を涼州道行軍総管として、西へ出させた。
 諸将が行軍の挨拶に来ると、上は言った。
「薛延陀はその強盛を恃み、砂漠を突っ切って南下してきた。行軍距離は数千里、奴等の馬は、既に疲れ果てている。およそ用兵の要点は、利を見たら速やかに進み、不利と見たら速やかに退くことにある。薛延陀は、思摩の不備を衝いて急襲することが出来ず、思摩が長城へ入っても速やかに退却しなかった。我は既に思摩へ、秋草を焼き払うよう命じている。敵方の兵糧は、数日で尽き、野には奪うべき稔りもない。偵察の報告では、馬は林木の枝や皮を食べているとのことだ。卿等は思摩と友に掎角の象を造れ。速戦はするな。敵の退却を待ち、一時に奮撃すれば、必ずこれを破れる。」
 19十二月,戊子,車駕至京師。
19.十二月、戊子、車駕が京師へ至る。
 20己亥,薛延陀遣使入見,請與突厥和親。甲辰,李世勣敗薛延陀於諾眞水。初,薛延陀撃西突厥沙鉢羅及阿史那社爾,皆以歩戰取勝;及將入寇,乃大教歩戰,使五人爲伍,一人執馬,四人前戰,戰勝則授以馬追奔。於是大度設將三萬騎逼長城,欲撃突厥,而思摩已走,知不可得,遣人登城罵之。會李世勣引唐兵至,塵埃漲天,大度設懼,將其衆自赤柯濼北走。世勣選麾下及突厥精騎六千自直道邀之,踰白道川,追及於靑山。大度設走累日,至諾眞水,勒兵還戰,陳亙十里。突厥先與之戰,不勝,還走。大度設乘勝追之,遇唐兵,薛延陀萬矢倶發,唐馬多死。世勣命士卒皆下馬,執長矟,直前衝之。薛延陀衆潰,副總管薛萬徹以數千騎收其執馬者。薛延陀失馬,不知所爲,唐兵縱撃,斬首三千餘級,捕虜五萬餘人。大度設脱身走,萬徹追之不及。其衆至漠北,値大雪,人畜凍死者什八九。
  李世勣還軍定襄,突厥思結部居五臺者叛走,州兵追之;會世勣軍還,夾撃,悉誅之。
  丙子,薛延陀使者辭還,上謂之曰:「吾約汝與突厥以大漠爲界,有相侵者,我則討之。汝自恃其強,踰漠攻突厥。李世勣所將纔數千騎耳,汝已狼狽如此!歸語可汗:凡舉措利害,可善擇其宜。」
20.己亥、薛延陀が使者を派遣して、突厥との和親を請うた。
 甲辰、李世勣が諾真水にて薛延陀を敗った。其の経緯は、以下の通り。
 初め、薛延陀は西突厥の沙鉢羅と阿史那社爾を攻撃し、皆、歩兵戦で勝ちを収めた。入寇する時、歩兵戦を大いに指導した。五人組で伍を造り、その中の一人が馬を執って、残りの四人が前で戦うとゆう戦法。歩兵が勝ったら、与えていた馬で追撃するのだ。ここにおいて大度設は三万騎を率いて長城へ迫り突厥を攻撃しようとしたが、思摩は既に逃げた。大度設は思摩を捕らえられないと知り、部下を城へ登らせてこれを罵った。そこへ李世勣が唐軍を率いて来た。砂煙が天地の間に充満する有様に、大度設は懼れ、部下を率いて赤柯濼から北へ逃げた。世勣は、麾下及び突厥から精騎六千を選び、真っ直ぐこれを追いかけた。白道川を越えて青山まで追及する。
 大度設は何日も逃続けた。諾真水まで来ると、兵を指揮して迎撃しようと、十里に亘って陣を布いた。突厥がまずこれと戦ったが、勝てずに退却する。大度設は勝ちに乗じて追撃して、唐軍と遭遇した。薛延陀軍は万の矢を一斉に放ち、唐の馬は多数死んだが、世勣は士卒に下馬させると、長矟(大きくて長い矛)を執って前進させた。この攻撃で薛延陀軍は潰滅した。唐の副総管薛萬徹が数千騎で馬を奪っていった。薛延陀は馬を失い為す術も知らない。そこへ唐兵が襲撃を掛け、三千の首を斬り五万余人を捕らえた。大度設は、体一つで脱出した。萬徹はこれを追撃したが、逃げられた。薛延陀の兵は、漠北へ逃げたが、大雪に遭い、八、九割が凍死した。
 李世勣は軍を定襄まで返した。ところで、五台にいた突厥の思結部の人々が、唐へ背いて逃げ出した。州兵はこれを追いかけたが、そこへ世勣軍が還ってきたので、挟撃して、これを悉く誅殺した。
 丙子、薛延陀の使者が、帰国の挨拶をした。上はこれへ言った。
「我は、汝と突厥の国境を大漠と定め、これを侵す者は我が討伐すると約束した。ところが汝は自らの盛強を恃み、漠を越えて突厥を攻撃したのだ。李世勣が率いたのは、わずか数千騎のみ。それなのに、汝等はこのように狼狽したではないか!帰国したら可汗へ伝えよ。挙措利害は、善い選択をせよ、とな。」
 21上問魏徴:「比來朝臣何殊不論事?」對曰:「陛下虛心采納,必有言者。凡臣徇國者寡,愛身者多,彼畏罪,故不言耳。」上曰:「然。人臣關説忤旨,動及刑誅,與夫蹈湯火冒白刃者亦何異哉!是以禹拜昌言,良爲此也。」
  房玄齡、高士廉遇少府少監竇德素於路,問:「北門近何營繕?」德素奏之。上怒,讓玄齡等曰:「君但知南牙政事,北門小營繕,何預君事!」玄齡等拜謝。魏徴進曰:「臣不知陛下何以責玄齡等,而玄齡等亦何所謝!玄齡等爲陛下股肱耳目,於中外事豈有不應知者!使所營爲是,當助陛下成之;爲非,當請陛下罷之。問於有司,理則宜然。不知何罪而責,亦何罪而謝也!」上甚愧之。
21.上が魏徴へ問うた。
「この頃の朝臣は、なんで反論をしないのかな?」
 対して言った。
「陛下が虚心に受け入れるなら、必ず反論が出てきます。臣下には、国に殉じようとする者は少なく、我が身を愛する者が多いのです。彼等は罪を畏れて、何も言わないのです。」
 上は言った。
「その通りだ。人臣が説を述べれば主君の機嫌に逆らい、動けば刑誅へ行き着くとゆうのなら、湯火を踏み白刃を冒すのと、何ら異ならないぞ!だから禹は昌言を拝した。それはこの意味か。」
 房玄齢と高士廉が、路上で少府少監の竇徳素と遭い、問うた。
「北門は、何故作り直したのかな?」
 徳素がこれを上奏すると、上は怒り、玄齢等へ言った。
「君はただ南牙の政事だけ考えていればよい。北門を少し作り直したのが、君に何の関係があるのか!」
 玄齢等が拝謝すると、魏徴が進み出た。
「臣は、なぜ陛下が玄齢等を責められるのか判りません。それに、玄齢等もなぜ拝謝するのですか!玄齢等は陛下の股肱耳目です。中外の事で、何を知らずにいて良いものでしょうか!作り直すのが正しければ、陛下を助けて完成させるべきですし、正しくなければ止めるよう陛下に請うべきです。係りの役人へ尋ねたのは理として適宜な行動です。何の罪で責めているのか、また、何の罪で謝ったのか、私には判りません!」
 上は、甚だこれを愧じた。
 22上嘗臨朝謂侍臣曰:「朕爲人主,常兼將相之事。」給事中張行成退而上書,以爲:「禹不矜伐而天下莫與之爭。陛下撥亂反正,羣臣誠不足望清光;然不必臨朝言之。以萬乘之尊,乃與羣臣校功爭能,臣竊爲陛下不取。」上甚善之。
22.上がかつて、朝廷へ臨んで侍臣へ言った。
「朕は人主となったのだから、いつも将相のことを考えている。」
 給事中張行成が退出の後に上書して言った。
「禹は討伐をしませんでしたが、これと争う者は天下におりませんでした。陛下は乱世を弾いて正しい世の中へ返してくださいました。群臣は誠にご尊顔を拝するだけでも勿体のうございます。ですが、これをわざわざ朝廷で言うことはありません。万乗の尊い身の上で、群臣と功績や能力を競うなど、臣は、陛下の為にならないと愚考いたします。」
 上はこれを甚だ善とした。
十六年(壬寅、六四二)

 春,正月,乙丑,魏王泰上括地志。泰好學,司馬蘇勗説泰,以古之賢王皆招士著書,故泰奏請脩之。於是大開館舍,廣延時俊,人物輻湊,門庭如市。泰月給踰於太子,諫議大夫褚遂良上疏,以爲:「聖人制禮,尊嫡卑庶,世子用物不會,與王者共之。庶子雖愛,不得踰嫡,所以塞嫌疑之漸,除禍亂之源也。若當親者疏,當尊者卑,則佞巧之姦,乘機而動矣。昔漢竇太后寵梁孝王,卒以憂死;宣帝寵淮陽憲王,亦幾至於敗。今魏王新出閤,宜示以禮則,訓以謙儉,乃爲良器,此所謂『聖人之教不肅而成』者也。」上從之。
  上又令泰徙居武德殿。魏徴上疏,以爲:「陛下愛魏王,常欲使之安全,宜毎抑其驕奢,不處嫌疑之地。今移居此殿,乃在東宮之西,海陵昔嘗居之,時人不以爲可;雖時異事異,然亦恐魏王之心不敢安息也。」上曰:「幾致此誤。」遽遣泰歸第。
1.春、正月、乙丑。魏王泰が括地志を上納した。
 泰は学問を好んでいた。司馬の蘇勗が、「昔の賢王は皆、士を招いて書を著していた」と、泰へ説いたので、泰は上奏してこれの作成を請うたのだ。
 ここにおいて館舎を大いに開き、時の俊才を廣く招いたので、人物が集まり、門前に市を為す有様だった。
 泰が一ヶ月に遣う金は太子よりも多くなったので、諫議大夫褚遂良が上疎した。
「聖人が制定した礼では、嫡子を尊び庶子を卑しみ、世子は膳以外は全て王と同じものを服用します。庶子を愛しても、嫡子を越えません。そうやって嫌疑が増長するのを防ぎ、禍乱の源を除くのです。もしも親しむべき相手を疎んじ尊ぶべき相手を卑しめば、佞巧の姦人達が、その機に乗じて動きます。昔、漢の竇太后が梁孝王を寵愛した為、孝王は憂死する羽目に陥りましたし、宣帝が淮陽憲王を寵愛したので、敗れる寸前まで行ってしまいました。今、魏王は閣へ出たばかりですから、これに礼則を示し謙倹を訓諭して良器に育ててください。これこそ、『聖人の教えは厳正でないのに、成る。』とゆうものです。」
 上は、これに従った。
 上は又、泰を武徳殿へ引っ越させた。すると魏徴が上書した。その大意は、
「陛下が魏王を愛し、彼の安全を望まれているのならば、王が驕慢になるたびにこれを抑え、人から疑われるような場所には王を置かないことです。今、王をこの殿へ引っ越させました。これは東宮の西にあり、昔、海陵(李元吉は、海陵刺王へ追封された)がここに住んでいた頃、時の人々は『そんな所へ住まわせるべきではない』と評していました。今はあの頃とは時も事情も変わったとは言え、魏王の心が安まらないのではないかと恐れます。」
 上は言った。
「これは誤りだった。」
 そして、すみやかに泰をもとの邸宅へ帰した。
 辛未,徙死罪者實西州,其犯流徒則充戍,各以罪輕重爲年限。
2.辛未、死罪の者を西州へ流して民を増やし、流罪の者は守備兵としてこれを守らせた。各々罪の軽重によって、兵役の年限を変える。
 敕天下括浮遊無籍者,限來年末附畢。
3.天下の浮遊無籍の者を、来年の年末までに管理するよう、敕が降った。
 以兼中書侍郎岑文本爲中書侍郎,專知機密。
4.兼中書侍郎岑文本を中書侍郎として、機密を専知させた。
 夏,四月,壬子,上謂諫議大夫褚遂良曰:「卿猶知起居注,所書可得觀乎?」對曰:「史官書人君言動,備記善惡,庶幾人君不敢爲非,未聞自取而觀之也!」上曰:「朕有不善,卿亦記之邪?」對曰:「臣職當載筆,不敢不記。」黄門侍郎劉洎曰:「借使遂良不記,天下亦皆記之。」上曰:「誠然。」
5.夏、四月、壬子。上が諫議大夫褚遂良へ言った。
「卿は起居注を作成しているが、書いたものを見せてはくれないか?」
 対して言った。
「史官は人君の言動を書き、善悪を記載して遺します。人君が悪いことを書かれたくないと思いますから、その悪業の歯止めとして役に立つのです。書かれるご本人がこれを見るとゆう話は、聞いたことがありません!」
 上は言った。
「朕の言動に不善があれば、卿はそれを記載するのか?」
「臣の職務でございます。書かないわけにはゆきません。」
 黄門侍郎劉洎が言った。
「遂良に書かせなくても、天下の人々が、皆、これを記します。」
 上は言った。
「誠にそうだ。」
 六月,庚寅,詔息隱王可追復皇太子,海陵剌王元吉追封巣王,謚並依舊。
6.六月、庚寅、息隠王を皇太子へ追復し、海陵刺王元吉を巣王へ追封すると詔した。諡は共に旧来通りとする。
 甲辰,詔自今皇太子出用庫物,所司勿爲限制。於是太子發取無度,左庶子張玄素上書,以爲:「周武帝平定山東,隋文帝混一江南,勤儉愛民,皆爲令主;有子不肖,卒亡宗祀。聖上以殿下親則父子,事兼家國,所應用物不爲節限,恩旨未踰六旬,用物已過七萬,驕奢之極,孰云過此!況宮臣正士,未嘗在側;羣邪淫巧,昵近深宮。在外瞻仰,已有此失;居中隱密,寧可勝計!苦藥利病,苦言利行,伏惟居安思危,日愼一日。」太子惡其書,令戸奴伺玄素早朝,密以大馬箠撃之,幾斃。
7.甲辰、今後皇太子が官庫の物を使う時には、所司が制限を加えてはならない、と詔する。これによって、太子は無制限に物を浪費するようになったので、左庶子張玄素が上書した。その大意は、
「北周の武帝は山東を平定し、隋の文帝は江南を併呑しました。彼等は、倹約して民を愛したので皆が主と仰ぎましたが、不肖の子息が遂に社稷を滅ぼしました。聖上が殿下を見るとき、情としては親子ですし、殿下の職務は家国に関わっておりますので、どんな物も無制限に使わせることにしました。しかし、この恩旨が降りてから六旬にもなりませんのに、使った物は七万を越えています。驕奢の極み、これに越えるものはありません!況や、宮臣や正士は太子の側に居らず、大勢の邪悪な者と共に深宮にてべったりと遊んでいるのです。顕わになっているものでさえこれだけの過失があります。隠しているものまで加えたら、どれほどの悪行がありましょうか!『良薬は口に苦けれども病に利あり、苦言は心に逆らえども行いに利あり』と申します。安楽な時に危亡を思って、一日一日を慎んでください。」
 太子はこの書を憎み、門番に玄素の様子を窺わせて、密かに大馬でこれを踏みつけ、瀕死の重傷を負わせた。
 秋,七月,戊子,以長孫無忌爲司徒,房玄齡爲司空。
8.秋、七月、戊子。長孫無忌を司徒として、房玄齢を司空とした。
 庚申,制:「自今有自傷殘者,據法加罪,仍從賦役。」隋末賦役重數,人往往自折支體,謂之「福手」、「福足」;至是遺風猶存,故禁之。
9.庚申、制した。
「今後、わざと不具となった者は法によって罪を加え、賦役も免除しない。」
 隋末は賦役が重く、人々は往々にして自ら手や足を折り、これを「福手」「福足」と言った。この時代になっても、その遺風がまだ残っていたので、これを禁じた。
 10特進魏徴有疾,上手詔問之,且言:「不見數日,朕過多矣。今欲自往,恐益爲勞。若有聞見,可封状進來。」徴上言:「比者弟子陵師,奴婢忽主,下多輕上,皆有爲而然,漸不可長。」又言:「陛下臨朝,常以至公爲言,退而行之,未免私僻。或畏人知,橫加威怒,欲蓋彌彰,竟有何益!」徴宅無堂,上命輟小殿之材以構之,五日而成,仍賜以素屏風、素褥、几、杖等以遂其所尚。徴上表謝,上手詔稱:「處卿至此,蓋爲黎元與國家,豈爲一人,何事過謝!」
10.特進魏徴が病気になった。上は自ら詔を書いて病状を問い、かつ、言った。
「数日見ないと、朕の過失が多くなる。今、出向いて行きたいが、卿へ労苦を掛けるのも本意ではない。もしも側聞することがあれば、封書で進言せよ。」
 徴は上言した。
「最近は、弟子が師匠を凌駕し、奴婢が主人を蔑ろにし、下のくせに上を軽く見る者が多く、それをだれも咎めません。この風潮を増長させてはいけません。」
 また、言う。
「陛下が朝廷へ臨まれる時は、常に公の立場で発言をされますが、退出して実践する時には、私情をなくせません。あるいは、過失を人に知られることを畏れ無体に威怒しても、隠そうとするだけ益々顕れるのです。何の役に立ちましょうか!」
 徴の家には堂がなかった。そこで上は小殿の材料でこれを造るよう命じたら、五日間で完成した。上は更に素屏風、素褥、几、杖等を賜り、その尚ぶものを示した。徴が上表して感謝すると、上は自ら詔を書いて、言った。
「卿をここに住まわせるのは、国民と国家のためだ。卿一人の為ではない。感謝が過ぎるぞ!」
 11八月,丁酉,上曰:「當今國家何事最急?」諫議大夫褚遂良曰:「今四方無虞,唯太子、諸王宜有定分最急。」上曰:「此言是也。」時太子承乾失德,魏王泰有寵,羣臣日有疑議,上聞而惡之,謂侍臣曰:「方今羣臣,忠直無踰魏徴,我遣傅太子,用絶天下之疑。」九月,丁巳,以魏徴爲太子太師。徴疾小愈,詣朝堂表辭,上手詔諭以「周幽、晉獻,廢嫡立庶,危國亡家。漢高祖幾廢太子,賴四皓然後安。我今賴公,即其義也。知公疾病,可臥護之。」徴乃受詔。
11.八月、丁酉。上は言った。
「当今の、国家の急務は何かな?」
 諫議大夫褚遂良が言った。
「今、四方は無事です。ただ、太子と諸王の身分を定めることが急務です。」
「そのとおりだ。」
 この頃、太子の承乾には悪行が多く、魏王泰は寵愛されていた。だから群臣からは毎日疑議が揚がっており、上は聞くたびにムカついていた。そこで、上は侍臣へ言った。
「今の群臣の中で、その忠直さでは魏徴以上の者はない。我は彼を太子の傅として、天下の嫌疑を断とう。」
 九月、丁巳、魏徴を太子太師とした。魏徴は、病状が少し癒えると、朝堂へ詣って辞退したが、上は自ら詔を書いて諭した。その大意は、
「周の幽王や晋の献公は、嫡子を廃して庶子を立て、国の危機となって家は亡んだ。漢の高祖は太子を廃立しようとしたが、四皓が後ろ盾となったので、その地位を保てた。我が今公へ頼むのは、これだ。公が病気なのは知っているが、伏していても良いから、これを護ってくれ。」
 徴は、詔を受けた。
 12癸亥,薛延陀眞珠可汗遣其叔父沙鉢羅泥孰俟斤來請婚,獻馬三千,貂皮三萬八千,馬腦鏡一。
12.癸亥、薛延陀の真珠可汗が、その叔父の沙鉢羅泥熟俟斤を派遣して通婚を求め、馬三千匹、貂皮三万八千、瑪瑙の鏡一台を献上した。
 13癸酉,以涼州都督郭孝恪行安西都護、西州刺史。高昌舊民與鎭兵及謫徙者雜居西州,孝恪推誠撫御,咸得其歡心。
13.癸酉、涼州都督郭孝恪を行安西都護、西州刺史とした。
 高昌の旧民と鎮軍の兵卒及び流刑者が西州に雑居している。孝恪は真心を尽くして彼等を慰撫したので、なんとかその歓心を得ることができた。
 14西突厥乙毗咄陸可汗既殺沙鉢羅葉護,并其衆,又撃吐火羅,滅之。自恃強大,遂驕倨,拘留唐使者,侵暴西域,遣兵寇伊州,郭孝恪將輕騎二千自烏骨邀撃,敗之。乙毗咄陸又遣處月、處密二部圍天山;孝恪撃走之,乘勝進拔處月俟斤所居城,追奔至遏索山,降處密之衆而歸。
  初,高昌既平,歳發兵千餘人戍守其地,褚遂良上疏,以爲:「聖王爲治,先華夏而後夷狄。陛下興兵取高昌,數郡蕭然,累年不復;歳調千餘人屯戍,遠去郷里,破産辦裝。又謫徙罪人,皆無賴子弟,適足騷擾邊鄙,豈能有益行陳!所遣多復逃亡,徒煩追捕。加以道塗所經,沙磧千里,冬風如割,夏風如焚,行人往來,遇之多死。設使張掖、酒泉有烽燧之警,陛下豈得高昌一夫斗粟之用,終當發隴右諸州兵食以赴之耳。然則河西者,中國之心腹;高昌者,他人之手足;奈何糜弊本根以事無用之土乎!且陛下得突厥、吐谷渾,皆不有其地,爲之立君長以撫之,高昌獨不得與爲比乎!叛而執之,服而封之,刑莫威焉,德莫厚焉。願更擇高昌子弟可立者,使君其國,子子孫孫,負荷大恩,永爲唐室藩輔,内安外寧,不亦善乎!」上弗聽。及西突厥入寇,上悔之,曰:「魏徴、褚遂良勸我復立高昌,吾不用其言,今方自咎耳。」
  乙毗咄陸西撃康居,道過米國,破之。虜獲甚多,不分與其下,其將泥孰啜輒奪取之,乙毗咄陸怒,斬泥孰啜以徇,衆皆憤怨。泥孰啜部將胡祿屋襲撃之,乙毗咄陸衆散,走保白水胡城。於是弩失畢諸部及乙毗咄陸所部屋利啜等遣使詣闕,請廢乙毗咄陸,更立可汗。上遣使齎璽書,立莫賀咄之子爲乙毗射匱可汗。乙毗射匱既立,悉禮遣乙毗咄陸所留唐使者,帥所部撃乙毗咄陸於白水胡城。乙毗咄陸出兵撃之,乙毗射匱大敗。乙毗咄陸遣使招其故部落,故部落皆曰:「使我千人戰死,一人獨存,亦不汝從!」乙毗咄陸自知不爲衆所附,乃西奔吐火羅。
14.西突厥の乙毘咄陸可汗は、沙鉢羅葉護を殺した後、彼の民を併呑した。そのまま吐火羅を攻撃し、これを滅ぼす。こうして強大になると、その力を恃んで驕慢になり、唐からの使者を抑留し、西域へ侵略しはじめた。又、伊州へ派兵したが、郭孝恪が軽騎二千を率いて烏骨からこれを攻撃して、敗った。乙毘咄陸は又、處月、處密の二部を派遣して天山を包囲させた。郭孝恪は、これを攻撃して敗走させ、勝ちに乗じて處月の俟斤の居城を落とし、遏索山まで追撃し、降伏した處密の民を率いて帰った。
 ところで、高昌が平定された後は、毎年千余人の兵を派遣してその土地を守っていた。その頃、褚遂良が上疏した。その大意は、
「聖王の政治は、華夏が第一で夷狄は二の次です。陛下が兵を興して高昌を獲った時、その負担で数郡が裏寂れてしまって、何年経っても復興しません。その上毎年千余人も防人を徴発させられ、本人が故郷を遠く離れるだけではなく、その負担で家が破産しています。また、罪人の流刑地にしていますが、彼等は皆無頼漢、辺鄙を騒がせるだけで、戦備の役に立ちましょうか!派遣する者の多くは逃亡し、追補に忙殺されるだけです。のみならず、その途上は千里の砂礫。冬風は肌を裂き夏風は身を焦がし、往来の途中にこれに遭って大勢が死んでいます。張掖と酒泉に警備の狼煙台を築かせながら、陛下は高昌から一斗の粟でさえ得られぬまま、隴右諸州の兵卒兵糧を徴発してこれへ充てているだけでございます。しかしながら、河西は中国の心腹で、高昌は他人の手足です。なんで本根を疲弊させて無用の土へご奉仕なさるのですか!かつ、陛下は突厥、吐谷渾を得ながら、その土地を領有せず、君主を立ててこれを慰撫させております。高昌だけ、どうしてそのようになさいませぬのか!造反すればこれを捕らえ、服従すれば封じる。そうすれば刑には威厳があり、徳は厚くなります。どうか、高昌の子弟で君主の器を持つ物を選び、これを国王として子々孫々へ大恩を賜り、永く唐室の藩塀とすれば、内は安んじ外は平寧となります。なんと素晴らしいではありませんか!」
 上は聞かなかった。
 西突厥が入寇するに及んで上はこれを後悔し、言った。
「魏徴、褚遂良は我へ高昌の君主を立てるよう勧めたが、我はその提案を用いなかった。今、自己批判している。」
 乙毘咄陸は西進して康居を攻撃する途中、米国を通過して、これを破った。沢山の戦利品を獲たが、これを配下へ分配しなかったので、麾下の将泥熟啜が、これを掠奪した。乙毘咄陸は怒り、泥熟啜を斬ったので、衆は皆、憤怨した。泥熟啜の部将胡禄屋がこれを襲撃すると、乙毘咄陸の部下は散り散りになり、白水胡城へ逃げ込んだ。
 ここにおいて、弩失畢の緒部と乙毘咄陸麾下の屋利啜等羅が唐へ使者を派遣し、乙毘咄陸を廃して別の者を可汗に立てるよう請うた。上は、使者へ璽書を与えて派遣し、莫賀咄の子を立てた。これが乙毘射匱可汗である。
 乙毘射匱は即位すると、乙毘咄陸が抑留していた唐の使者を全て丁寧に返還した。また、手勢を率いて白水胡城の乙毘咄陸を攻撃したが、乙毘咄陸は迎撃して、乙毘射匱は大敗した。そこで乙毘咄陸は、使者を派遣してもとの部落の民を招いたが、彼等は皆、言った。
「たとえ千人戦死しようが、最後の一人になるまで汝には従わないぞ!」
 乙毘咄陸は、民から見離されたことを知り、西方の吐火羅へ亡命した。
 15冬,十月,丙申,殿中監郢縱公宇文士及卒。上嘗止樹下,愛之,士及從而譽之不已,上正色曰:「魏徴常勸我遠佞人,我不知佞人爲誰,意疑是汝,今果不謬!」士及叩頭謝。
15.冬、十月、丙申。殿中監郢縦公宇文士及が卒した。
 かつて、上が樹の下で止まり、その樹を愛でたところ、士及は追従してしきりとこれを褒めた。すると上は顔色を正して言った。
「魏徴はいつも、佞人を遠ざけるよう我へ勧めていた。我は佞人とは誰か知らなかったが、汝かもしれないと思った。今、果たしてそれが過ちではなかったと判ったぞ!」
 士及は叩頭して陳謝した。
 16上謂侍臣曰:「薛延陀屈強漠北,今御之止有二策,苟非發兵殄滅之,則與之婚姻以撫之耳,二者何從?」房玄齡對曰:「中國新定,兵凶戰危,臣以爲和親便。」上曰:「然。朕爲民父母,苟可利之,何愛一女!」
  先是,左領軍將軍契苾何力母姑臧夫人及弟賀蘭州都督沙門皆在涼州,上遣何力歸覲,且撫其部落。時薛延陀方強,契苾部落皆欲歸之,何力大驚曰:「主上厚恩如是,奈何遽爲叛逆!」其徒曰:「夫人、都督先已詣彼,若之何不往!」何力曰:「沙門孝於親,我忠於君,必不汝從。」其徒執之詣薛延陀,置眞珠牙帳前。何力箕踞,拔佩刀東向大呼曰:「豈有唐烈士而受屈虜庭,天地日月,願知我心!」因割左耳以誓。眞珠欲殺之,其妻諫而止。
  上聞契苾叛,曰:「必非何力之意。」左右曰:「戎狄氣類相親,何力入薛延陀,如魚趨水耳。」上曰:「不然。何力心如鐵石,必不叛我。」會有使者自薛延陀來,具言其状,上爲之下泣,謂左右曰:「何力果如何?」即命兵部侍郎崔敦禮持節諭薛延陀,以新興公主妻之,以求何力,何力由是得還,拜右驍衞大將軍。
16.上が侍臣へ言った。
「薛延陀は漠北で盛強だ。今、これを制御する策は二つしかない。出兵して殲滅するか、通婚して慰撫するか。どちらが良いか?」
 房玄齢が対して言った。
「中国は平定されたばかりです。そして兵は凶器で戦争は国を危うくします。臣は和親が宜しいかと愚考いたします。」
「そうだ。朕は民の父母となったのだ。民の為になるのなら、なんで一女を惜しもうか!」
 話は前後するが、左領軍将軍契苾何力の母親の姑臧夫人と、弟の賀蘭州都督沙門を、共に涼州に在住させた。そして、上は何力を故郷へ帰して、その部落を統治させた。
 この時、薛延陀が盛強だったので契苾の部落は皆、これへ帰順したがった。何力は大いに驚いて言った。
「主上の御恩は、こんなに厚い。何で叛逆などできようか!」
 だが、反逆者達は言った。
「夫人と都督が、先に涼州へ行きましたが、どうして貴方は行かないのですか!」
「沙門は親孝行だし、私は忠義者。汝等へは絶対従わぬ。」
 造反者達は何力を捕らえて薛延陀へ詣で、真珠の牙帳の前に置いた。何力は足を前に投げ出して坐り、佩刀を抜くと東へ向かって大声で叫んだ。
「唐の烈士が、なんで虜庭に屈服しようか。天地日月よ、我が心を知れ!」
 そして、左耳を斬って誓いとした。真珠はこれを殺そうとしたが、妻から諫められて止めた。
 上は、契苾が造反したと聞き、言った。
「これは絶対、何力の本意ではない。」
 左右は言った。
「戎狄は精神が通じ合うもの。魚が水へ入るように、何力も薛延陀へ入ったのです。」
 やがて薛延陀から使者がやってくると、彼は実情を具に語った。上は何力の為に涙を零し、左右へ言った。
「何力はどうなるのだろうか?」
 そこで、兵部侍郎崔敦礼を持節として派遣し、薛延陀へ新興公主を娶せる代わりに何力を返還させるよう諭させた。こうして何力は帰ることができ、右驍衛大将軍へ昇進した。
 17十一月,丙辰,上校獵於武功。
17.十一月。丙辰、上は武功で狩猟を行った。
 18丁巳,營州都督張儉奏高麗東部大人泉蓋蘇文弑其王武。蓋蘇文凶暴多不法,其王及大臣議誅之。蓋蘇文密知之,悉集部兵若校閲者,并盛陳酒饌於城南,召諸大臣共臨視,勒兵盡殺之,死者百餘人。因馳入宮,手弑其王,斷爲數段,棄溝中,立王弟子藏爲王;自爲莫離支,其官如中國吏部兼兵部尚書也。於是號令遠近,專制國事。蓋蘇文状貌雄偉,意氣豪逸,身佩五刀,左右莫敢仰視。毎上下馬,常令貴人、武將伏地而履之。出行必整隊伍,前導者長呼,則人皆奔迸,不避阬谷,路絶行者,國人甚苦之。
18.丁巳、高麗東部の大人泉蓋蘇文が、その王の武を弑逆した。営州都督張倹がこれを報告して来たが、その経緯は次の通り
 蓋蘇文は凶暴で法を破ることも多く、その王や大臣は、彼を誅しようと議していた。蓋蘇文は密かにこれを知ったので、兵卒達を全て白身並へ集めて酒宴を開き、諸大臣を呼んで共に臨ませた。その席で兵を指揮して彼等を皆殺しにした。死者は百余人に及ぶ。蓋蘇文は、そのまま入営し、自らその王を弑逆した。死体は幾つにも切断して溝中へ棄てた。王の弟の子を立てて王とする。自身は莫離支となった。それは中国の吏部尚書と兵部尚書を兼ね合わせたような官職だ。ここにおいて遠近へ号令を掛け、国事を専制した。
 蓋蘇文の容貌は雄偉で、意気は豪逸。五本の刀を身に帯び、左右は敢えて仰ぎ見る者も居なかった。乗馬や下馬のたびに貴人や部将を平伏させ、これを踏み台とした。出歩く時には必ず警備兵へ隊伍を組ませた。先導者が大声で呼ばわると、人々は逃げ出す。谷があったり道が絶えていたりしても、人々を追い散らしたので、民は非常に苦しんだ。
 19壬戌,上校獵於岐陽,因幸慶善宮,召武功故老宴賜,極歡而罷。庚午,還京師。
19.壬戌、上が岐陽で狩猟をし、慶善宮へ立ち寄って、武功の故老を呼んで宴会を開いた。心ゆくまで楽しんでお開きとなる。
 庚午。京師へ還った。
 20壬申,上曰:「朕爲兆民之主,皆欲使之富貴。若教以禮義,使之少敬長、婦敬夫,則皆貴矣。輕傜薄斂,使之各治生業。則皆富矣。若家給人足,朕雖不聽管弦,樂在其中矣。」
20.壬申、上は言った。
「朕が兆民の主となったのは、皆が富貴にして欲しかったからだ。もしも彼等へ礼儀を教え、若者は年長を敬い、婦は夫を敬うようにすれば、みなが貴くなれる。雑徭を軽く賦税を薄くして、生業へ精を出させれば、皆が富裕になれる。もし民が満足して人が満ち溢れれば、朕は管弦を聞かなくても、その中に楽しみがあるのだ。」
 21亳州刺史裴行莊奏請伐高麗,上曰:「高麗王武職貢不絶,爲賊臣所弑,朕哀之甚深,固不忘也。但因喪乘亂而取之,雖得之不貴。且山東彫弊,吾未忍言用兵也。」
21.毫州刺史裴行荘が上奏して、高麗討伐を請うた。上は言った。
「高麗王武からは朝貢が絶えたことがなかったのに、賊臣に弑逆された。朕は、これを甚だ深く哀しんだことを、もとより忘れてはいない。ただ、喪に乗じ乱につけ込んでこれを取るのでは、獲得しても貴くない。それに、山東の民は疲弊しており、戦争へ駆り立てるに忍びない。」
 22高祖之入關也,隋武勇郎將馮翊党仁弘將兵二千餘人,歸高祖於蒲阪,從平京城,尋除陝州總管,大軍東討,仁弘轉餉不絶,歴南寧、戎、廣州都督。仁弘有才略,所至著聲迹,上甚器之。然性貪,罷廣州,爲人所訟,贓百餘萬,罪當死。上謂侍臣曰:「吾昨見大理五奏誅仁弘,哀其白首就戮,方晡食,遂命撤案;然爲之求生理,終不可得。今欲曲法就公等乞之。」十二月,壬午朔,上復召五品已上集太極殿前,謂曰:「法者,人君所受於天,不可以私而失信。今朕私党仁弘而欲赦之,是亂其法,上負於天。欲席藁於南郊,日一進蔬食,以謝罪於天三日。」房玄齡等皆曰:「生殺之柄,人主所得專也,何至自貶責如此!」上不許,羣臣頓首固請於庭,自旦至日昃,上乃降手詔,自稱:「朕有三罪:知人不明,一也;以私亂法,二也;善善未賞,惡惡未誅,三也。以公等固諫,且依來請。」於是黜仁弘爲庶人,徙欽州。
22.高祖が関中へ入った時、隋の武勇郎将馮翊の党仁弘が二千余人を率いて、蒲阪にて高祖へ帰順し、京城まで随従した。やがて陜州総管となったが、大軍が東討した時、仁弘は兵糧の補給を欠かさず、南寧、戎、廣州都督を歴任した。
 仁弘には材略があり、至る所で著しい功績を建てたので、上は非常に有能だと評価した。ただ、性格は貪欲で、廣州都督から転任した後、訴訟を起こされた。取り調べると百余万の金をくすねていたことが判り、これは死刑に相当した。
 上は、侍臣へ言った。
「昨日、大理が仁弘を誅殺するよう五回目の上奏をした。朕は彼の首が切り落とされることを哀しみ、午後三時頃、裁定を撤廃するよう命じた。だが、どう考えても、彼が死刑を免れる道理がない。今、法を曲げて彼を助けることを、公等へお願いしたいのだ。」
 十二月、壬午朔、上は再び五品以上の物を太極殿の前へ集めて、言った。
「法は、人君が天から受けたもの。私心を以て信義を失ってはならない。今、朕は党仁弘への私情でこれを赦そうと欲した。これは法を乱す行いで、上は天へ背くことだ。であるから、南郊へ藁を布いて席とし、菜食をして、三日間、天へ謝罪しよう。」
 房玄齢等は皆、言った。
「生殺の権限は、人主が全て掌握しているものです。なんでそこまで自分を貶責なさるのですか!」
 上は許さなかった。そこで群臣は頓首して、せめて庭にて行い、時間も夜明けから日暮れまでで済ますよう、固く請うた。上は自ら詔を降ろし、自称した。
「朕には三つの罪がある。人を知るに不明だった。これが一つ。私情を以て法を乱した。これが二つ。善を善としながら賞せず、悪を悪としながら誅さなかった。これが三つ。だが、公等が固く諫めるので、要請に従おう。」
 ここにおいて、仁弘は庶民へ落とされ、欽州へ流された。
 23癸卯,上幸驪山温湯;甲辰,獵于驪山。上登山,見圍有斷處,顧謂左右曰:「吾見其不整而不刑,則墮軍法;刑之,則是吾登高臨下以求人之過也。」乃託以道險,引轡入谷以避之。乙巳,還宮。
23.癸卯、上は驪山の温泉に御幸した。甲辰、驪山にて狩猟をする。上が山へ登ると、包囲に掛けている部分があったので、左右を顧みて言った。
「我が不備を見たのに罰さなければ、軍法が緩む。だが、これを罰すれば、我は高山から見下ろして、臣下のあら探しをしたことになる。」
 そこで、道が険しいと言い訳して、谷へ入り、これを避けた。
 乙巳、宮へ還る。
 24刑部以反逆縁坐律兄弟沒官爲輕,請改從死。敕八座議之,議者皆以爲「秦、漢、魏、晉之法,反者皆夷三族,今宜如刑部請爲是。」給事中崔仁師駁曰:「古者父子兄弟罪不相及,奈何以亡秦酷法變隆周中典!且誅其父子,足累其心,此而不顧,何愛兄弟!」上從之。
24.刑部が上奏した。
「反逆者の縁座で、兄弟が官位没収では軽すぎます。どうか死刑に改めてください。」
 そこで、八座でこれを議するよう敕した。議者は皆、言った。
「秦、漢、魏、晋の法では、反逆者は三族を皆殺しにしました。今、刑部の要請のようにするのが適宜です。」
 だが、給事中崔仁師が反駁した。
「太古では、父子兄弟の罪は互いに及ばなかった。なんで亡秦の酷法を手本にして、隆周の法典を変えるのですか!それに、父や子を誅殺すると脅せば、賊の心の足枷になります。それでさえ顧みない者が、なんで兄弟を愛しましょうか!」
 上は、これに従った。
 25上問侍臣曰:「自古或君亂而臣治,或君治而臣亂,二者孰愈?」魏徴對曰:「君治則善惡賞罰當,臣安得而亂之!苟爲不治,縱暴愎諫,雖有良臣,將安所施!」上曰:「齊文宣得楊遵彦,非君亂而臣治乎?」對曰:「彼纔能救亡耳,烏足爲治哉!」
25.上が、侍臣へ問うた。
「昔から、主君が乱れて臣下が治まった時や、主君が治まって臣下が乱れた時があったが、どちらの方がマシだったかな?」
 すると、魏徴が答えた。
「主君が治まるとは、善悪と賞罰が合致しているとゆうことです。臣下がどうしてこれを乱すことが出来ましょうか!いやしくも治まらないと言うのなら、暴虐で諫言も聞かないとゆうこと。良臣がいても何ができましょうか!」
 上は言った。
「北斉の文宣が楊遵彦を得たのは、主君が乱れて臣下が治まっていたと言えないかな?」
「彼は、どうにか滅亡を救ったとゆうくらいです。なんで治まったと言えましょうか!」
十七年(癸卯、六四三)

 春,正月,丙寅,上謂羣臣曰:「聞外間士民以太子有足疾,魏王穎悟,多從遊幸,遽生異議,徼幸之徒,已有附會者。太子雖病足,不廢歩履。且禮:嫡子死,立嫡孫。太子男已五歳,朕終不以孼代宗,啓窺窬之源也。」
1.春、正月、丙寅。上が群臣へ言った。
「太子には足の病があり、魏王は穎悟で大勢の士人と交遊しているので、いずれ廃立が起こるかも知れない、と、外間の士人達が考え、僥倖を求める連中はすでに魏王の派閥を作っていると聞く。だが、太子に足の病があるとは言え、歩行できないほどではない。それに、礼では、嫡子が死んだら嫡孫を立てることになっている。太子には、既に五人の息子が居る。嫡子をさておいて庶子を立てれば、隙を窺う者達が乗じる源となる。朕は絶対に行わないぞ!」
 鄭文貞公魏徴寢疾,上遣使者問訊,賜以藥餌,相望於道。又遣中郎將李安儼宿其第,動靜以聞。上復與太子同至其第,指衡山公主欲以妻其子叔玉。戊辰,徴薨,命百官九品以上皆赴喪,給羽葆鼓吹,陪葬昭陵。其妻裴氏曰:「徴平生儉素,今葬以一品羽儀,非亡者之志。」悉辭不受,以布車載柩而葬。上登苑西樓,望哭盡哀。上自製碑文,并爲書石。上思徴不已,謂侍臣曰:「人以銅爲鏡,可以正衣冠,以古爲鏡,可以見興替,以人爲鏡,可以知得失;魏徴沒,朕亡一鏡矣!」
2.鄭の文貞公魏徴が病気になったので、上は見舞いの使者を派遣して薬などを賜下したが、この使者が道に満ち溢れるほどだった。また、中郎将李安儼を派遣して魏徴の第に泊まり込ませ、道西を上聞させた。更に、上は太子と共に魏徴の第へ出向き、衡山公主を指さして、子息の叔玉へ娶らせたく思った。
 戊辰、徴が薨じた。上は、百官九品以上は全員喪へ赴き、羽かざりが生い茂り音楽が奏でられる中、昭陵へ陪葬するよう命じた。
 だが、魏徴の妻の裴氏が言った。
「徴は平生質素でしたのに、今、一品羽儀で葬られました。亡者の本意ではありますまい。」
 そして、全て辞退し、布車に柩を載せて埋葬した。
 上は苑の西楼へ登って陵を望んで慟哭し、哀しみを尽くした。また、自ら碑文を作り、石に書いた。 
 上は徴を忘れられず、侍臣へ言った。
「人が銅を鏡とすれば、衣冠を正せる。古を鏡とすれば、興亡の理が見える。人を鏡とすれば、過失を知ることが出来る。魏徴が没して、朕は鏡を一つ失った!」
 鄠尉游文芝告代州都督劉蘭成謀反,戊申,蘭成坐腰斬。右武侯將軍丘行恭探蘭成心肝食之;上聞而讓之曰:「蘭成謀反,國有常刑,何至如此!若以爲忠孝,則太子諸王先食之矣,豈至卿邪!」行恭慚而拜謝。
3.鄠尉游文芝が、代州都督劉蘭成が謀反を企んでいると告発した。戊申、蘭成は腰斬の刑に処された。
 この時、右武候将軍丘行恭が蘭成の心臓や肝臓を探り出して食べた。上はこれを聞き、行恭を詰って言った。
「蘭成は造反したが、国にはそれへ対する決まった刑がある。なんでそんなことまでするのか。それが忠孝だと言うのなら、まず太子や諸王が先に食べるべきではないか。卿までお鉢が廻るものか!」
 行恭は慚愧して、拝謝した。
 二月,壬午,上問諫議大夫褚遂良曰:「舜造漆器,諫者十餘人。此何足諫?」對曰:「奢侈者,危亡之本;漆器不已,將以金玉爲之。忠臣愛君,必防其漸,若禍亂已成,無所復諫矣。」上曰:「然。朕有過,卿亦當諫其漸。朕見前世帝王拒諫者,多云『業已爲之』,或云『業已許之』,終不爲改。如此,欲無危亡,得乎!」
  時皇子爲都督、刺史者多幼穉,遂良上疏,以爲:「漢宣帝云:『與我共治天下者,其惟良二千石乎!』今皇子幼穉,未知從政,不若且留京師,教以經術,俟其長而遣之。」上以爲然。
4.二月、壬午。上が諫議大夫褚遂良へ問うた。
「舜が漆器を作った時、十余人が諫めたというが、これは諫める程の事かな?」
 対して答えた。
「奢侈は、危亡の大本です。漆器を造れば、それでは終わらずに金玉の器まで行き着くでしょう。忠臣が主君を愛する時には、必ず萌芽を防ぎます。もしも禍乱が起こってしまえば、諫めることもできません。」
「そうだな。朕に過失があれば卿はそれが小さいうちに諫める。朕は、前世の帝王達が諫言を拒む様を見たが、その多くは言った。『その事業は既に始めたのだ。』あるいは言う。『もう許可したのだ。』そして、ついに改めない。このようであれば、危亡を嫌がっても、どうして避けられようか!」
 この時、都督や刺史となった皇子の大半が幼かった。遂良は上疏した。その大意は、 「漢の宣帝は言いました。『我と共に天下を治める者は、ただ良二千石か!』今、皇子は幼くてまだ政治も判らなければ、京師に留めて経術を教え、長じるのを待って派遣した方が宜しゅうございます。」
 上は、同意した。
 壬辰,以太子詹事張亮爲洛州都督。侯君集自以有功而下吏,怨望有異志。亮出爲洛州,君集激之曰:「何人相排?」亮曰:「非公而誰!」君集曰:「我平一國來,逢嗔如屋大,安能仰排!」因攘袂曰:「鬱鬱殊不聊生!公能反乎?與公反!」亮密以聞。上曰:「卿與君集皆功臣,語時旁無他人,若下吏,君集必不服。如此,事未可知,卿且勿言。」待君集如故。
5.壬辰、太子詹事張亮を洛州都督とした。
 侯君集は、自分では功績があると思っていたのに獄吏へ引き渡されたので、怨望して叛心を持っていた。亮が洛州へ出ると、君集は、彼を煽動して言った。
「誰が卿を追い出したのだ?」
 亮は言った。
「公以外に誰がいる!」
「我は一国を平定して帰ってきたのに、山のような怒りに遭ったのだ。なんで他人を追い出したり出来ようか!」
 そして、袂を払って言った。
「今では鬱々として、生きていても楽しくない。公は造反するか?手を組もうぞ!」
 亮は、これを密かに上聞した。すると、上は言った。
「卿も君集も功臣だ。それを語った時、周りには誰もいなかったのだろう。もしも獄吏へ引き渡しても、君集は必ずしらばっくれる。そうなれば、どうなるか判らない。卿も、他言するな。」
 そして、君集は従来通り遇した。
 鄜州都督尉遲敬德表乞骸骨;乙巳,以敬德爲開府儀同三司,五日一參。
6.鄜州都督尉遅敬徳が隠居を願い出た。乙巳、敬徳を開府儀同三司とし、五日に一度の参内とする。
 丁未,上曰:「人主惟有一心,而攻之者甚衆。或以勇力,或以辯口,或以諂諛,或以姦詐,或以嗜欲,輻湊攻之,各求自售,以取寵祿。人主少懈,而受其一,則危亡隨之,此其所以難也。」
7.丁未、上は言った。
「人主は、ただ一心しかないが、攻める者は非常に多い。あるいは勇力で、あるいは弁口で、あるいは諂諛で、あるいは姦詐で、あるいは嗜欲で、繰り返し繰り返し攻めてきて、各々自分を売り込んで寵禄を取ろうとしている。人主が心を緩めてその一つを受ければ、危亡は随従してやって来る。これが艱難の所以だ。」
 戊申,上命圖畫功臣趙公長孫無忌、趙郡元王孝恭、萊成公杜如晦、鄭文貞公魏徴、梁公房玄齡、申公高士廉、鄂公尉遲敬德、衞公李靖、宋公蕭瑀、褒忠壯公段志玄、夔公劉弘基、蔣忠公屈突通、鄖節公殷開山、譙襄公柴紹、邳襄公長孫順德、鄖公張亮、陳公侯君集、郯襄公張公謹、盧公程知節、永興文懿公虞世南、渝襄公劉政會、莒公唐儉、英公李世勣、胡壯公秦叔寶等於凌煙閣。
8.戊申、上は、功臣の趙公長孫無忌、趙郡元王孝恭、莱成公杜如晦、鄭文貞公魏徴、梁公房玄齢、申公高士廉、鄂公尉遅敬徳、衞公李靖、宋公蕭瑀、褒忠壮公段志玄、夔公劉弘基、蒋忠公屈突通、鄖節公殷開山、譙襄公柴紹、邳襄公長孫順徳、鄖公張亮、陳公候君集、郯公張公謹、盧公程知節、永興文懿公虞世南、渝襄公劉政会、呂莒公唐倹、英公李世勣、胡壮公秦叔宝等の絵を凌煙閣に描かせた。
 齊州都督齊王祐,性輕躁,其舅尚乘直長陰弘智説之曰:「王兄弟既多,陛下千秋萬歳後,宜得壯士以自衞。」祐以爲然。弘智因薦妻兄燕弘信,祐悅之,厚賜金玉,使陰募死士。
  上選剛直之士以輔諸王,爲長史、司馬,諸王有過以聞。祐昵近羣小,好畋獵,長史權萬紀驟諫,不聽。壯士昝君謩、梁猛彪得幸於祐,萬紀皆劾逐之,祐潛召還,寵之逾厚。上數以書切責祐,萬紀恐并獲罪,謂祐曰:「王審能自新,萬紀請入朝言之。」乃條祐過失,迫令表首,祐懼而從之。萬紀至京師,言祐必能悛改。上甚喜,勉萬紀,而數祐前過,以敕書戒之。祐聞之,大怒曰:「長史賣我!勸我而自以爲功,必殺之。」上以校尉京兆韋文振謹直,用爲祐府典軍,文振數諫,祐亦惡之。
  萬紀性褊,專以刻急拘持祐,城門外不聽出,悉解縱鷹犬,斥君謩、猛彪不得見祐。會萬紀宅中有塊夜落,萬紀以爲君謩、猛彪謀殺己,悉收繋,發驛以聞,并劾與祐同爲非者數十人。上遣刑部尚書劉德威往按之,事頗有驗,詔祐與萬紀倶入朝。祐既積忿,遂與燕弘信兄弘亮等謀殺萬紀。萬紀奉詔先行,祐遣弘亮等二十餘騎追射殺之。祐黨共逼韋文振欲與同謀,文振不從,馳走數里,追及,殺之。寮屬股慄,稽首伏地,莫敢仰視。祐因私署上柱國、開府等官,開庫物行賞,驅民入城,繕甲兵樓堞,置拓東王、拓西王等官。吏民棄妻子夜縋出亡者相繼,祐不能禁。三月,丙辰,詔兵部尚書李世勣等發懷、洛、汴、宋、潞、滑、濟、鄆、海九州兵討之。上賜祐手敕曰:「吾常戒汝勿近小人,正爲此耳。」
  祐召燕弘亮等五人宿於臥内,餘黨分統士衆,巡城自守。祐毎夜與弘亮等對妃宴飲,以爲得志;戲笑之際,語及官軍,弘亮等曰:「王不須憂!弘亮等右手持酒巵,左手爲王揮刀拂之!」祐喜,以爲信然。傳檄諸縣,皆莫肯從。時李世勣兵未至,而靑、淄等數州兵已集其境。齊府兵曹杜行敏等陰謀執祐,祐左右及吏民非同謀者無不響應。庚申,夜,四面鼓躁,聲聞數十里。祐黨有居外者,衆皆攢刃殺之。祐問何聲,左右紿云:「英公統飛騎已登城矣。」行敏分兵鑿垣而入,祐與弘亮等被甲執兵之室,閉扉拒戰,行敏等千餘人圍之,自旦至日中,不克。行敏謂祐曰:「王昔爲帝子,今乃國賊,不速降,立爲煨燼矣。」因命積薪欲焚之。祐自牖間謂行敏曰:「即啓扉,獨慮燕弘亮兄弟死耳。」行敏曰:「必相全。」祐等乃出。或抉弘亮目,投睛於地,餘皆檛折其股而殺之。執祐出牙前示吏民,還,鎖之於東廂,齊州悉平。乙丑,敕李世勣等罷兵。祐至京師,賜死於内侍省,同黨誅者四十四人,餘皆不問。
  祐之初反也,齊州人羅石頭面數其罪,援槍前,欲刺之,爲燕弘亮所殺。祐引騎撃高村,村人高君状遙責祐曰:「主上提三尺劍取天下,億兆蒙德,仰之如天。王忽驅城中數百人欲爲逆亂以犯君父,無異一手搖泰山,何不自量之甚也!」祐縱撃,虜之,慚不能殺。敕贈石頭亳州刺史。以君状爲楡社令,以杜行敏爲巴州刺史,封南陽郡公;其同謀執祐者官賞有差。
  上檢祐家文疏,得記室郟城孫處約諫書,嗟賞之,累遷中書舎人。庚午,贈權萬紀齊州都督,賜爵武都郡公,謚曰敬;韋文振左武衞將軍,賜爵襄陽縣公。
9.斉州都督斉王祐は、軽薄な性格。その舅の尚乗直長陰弘智がこれに説いて言った。
「王の兄弟は多いのです。陛下千秋万歳の後の為に、壮士を得て自衛するのが宜しゅうございます。」
 祐は同意した。そこで弘智は妻の兄の燕弘信を推薦した。祐は悦んで、金玉を厚く賜り、密かに死士を募らせた。
 上は剛直の士を選んで諸王の補佐として長史、司馬と為し、諸王の過失を報告させていた。祐は小人達と昵懇で狩猟を好んだので長史の権萬紀は何度も諫めたが、聞かれなかった。壮士の昝君謩、梁猛彪が裕から取り立てられていたが、萬紀は弾劾して追放した。しかし、祐は密かに彼等を呼び戻し、いよいよ厚く寵遇した。
 上は屡々書状で裕を責めた。萬紀は罪に落とされることを恐れて祐へ言った。
「王はどうか態度を改めてください。萬紀は朝廷へ出向いて弁明しますから。」
 そして祐の過失を箇条書きにして、祐へ迫って自白文を書かせた。祐は懼れてこれに従う。
 萬紀は京師へ着くと、「祐は必ず改悛できます。」と言った。上はとても喜んで、萬紀を励まし、祐の今までの過失を数えて敕書で戒めた。祐は、これを聞いて激怒し、言った。
「長史は我を売ったか!我に勧めて、自分の功績にした。絶対殺してやる!」
 上は、校尉の京兆の韋文振が謹直なので、祐の府の典軍に抜擢していた。文振も屡々諫めたので、祐は彼も嫌っていた。
 萬紀は了見の狭い人間で、祐を性急にせき立て、城門外への外出を許さず、鷹や猟犬は全て追い放ち、君謩や猛彪は祐との面会さえ許さなかった。そんな折り、萬紀の自宅に、夜半土塊が落ちてきた。萬紀は、君謩と猛彪が自分を殺そうとしたのだと思い、彼等を牢獄へぶち込んで緊急の伝令を使って上聞し、併せて祐の一味数十人を弾劾した。上は刑部尚書劉徳威を派遣して調べさせたが、多くの証拠が見つかった。そこで、祐と萬紀を共に朝廷へ呼び寄せた。
 祐は、既に怒りが積もり積もっていた。遂に、燕弘信の兄の弘亮等と共に、萬紀を殺そうと謀った。萬紀は詔を奉って先行した。祐は弘亮等二十余騎を派遣して追跡させ、これを射殺した。
 祐の党類は、韋文振へ仲間になるよう迫ったが、文振は従わず数里逃げたので、追いかけて殺した。寮属は戦慄して、首を項垂れて平伏し、敢えて仰ぎ見ようとしない。そこで祐は自ら上柱国、開府等の官職を与え、官庫の物資を放出して賞を行った。民を駆り立てて入城させ、武器や楼閣を修繕し、拓東王、拓西王等の官を設置する。吏民の中には、妻子を棄てて夜逃げする者が続出したが、祐は止めきれなかった。
 三月、丙辰。兵部尚書李世勣等へ、懐、洛、汴、宋、潞、滑、済、鄆、海の九州の兵を動員してこれを討伐するよう詔が降りた。
 上は、祐へ手敕を賜り、言った。
「我は汝へ、小人に近づくなといつも言っていた。それはこうなるからなのだ。」
 祐は、燕弘亮等五人と共に内に寝起きし、他の党類には士衆を統治させ、城を巡って自ら守った。祐は、夜毎に弘亮等や妃等と共に宴会を開いて喜んでいた。笑い戯れている中で官軍の話題になると、弘亮等が言った。
「王、心配は要りませんぞ!弘亮等は右手に酒杯を持ち、左手は王の為に刀を振るいましょう!」
 祐は喜んで、信じ込んだ。
 檄文を諸県へ廻したが、応じる者はいない。この時李世勣軍はまだ到着していなかったが、青、淄等数州の兵は、既に州境へ結集していた。
 斉府兵曹の杜行敏等は、祐を捕らえようと陰謀を企てた。すると、祐の党類以外は皆、これに応じた。庚申、夜、四面から軍鼓の音が響き渡り、それは数十里先まで聞こえた。外にいた祐の党類は、皆、刀で切り刻まれた。祐が何の音か問うと、左右が答えた、
「英公(李世勣)麾下の飛騎が城壁へ登っているのです。」
 行敏は兵を分散させ、垣を壊して入ってきた。祐と弘亮は武装して兵と共に入室し、扉を閉じて拒戦した。行敏等は千余人でこれを包囲した。だが、明け方から日中まで掛けても勝てなかった。行敏は祐へ言った。
「王は、昔は帝の子息だったが、今では国賊だ。早く降伏しないと、焼き殺すぞ。」
 そして、薪を積み上げて燃やそうとした。祐は窓の間から言った。
「扉を開こう。ただ、燕弘亮兄弟の命が気にかかるのだ。」
 行敏は言った。
「命は全うしよう。」
 そこで、祐等は出てきた。ある者は、弘亮の目をえぐり取って地面へ叩きつけた。その他の者は、皆、その股を叩き折って殺した。祐を捕らえると、吏民の前に示してから、東廂に鎖で繋いだ。こうして、斉州はすっかり平定された。
 乙丑、李世勣へ戦争終了の敕が降った。祐は、京師へ到着すると、内侍省にて死を賜った。その党類で誅殺された者は四十四人。それ以外の者は、不問に処した。
 祐が造反した当初、斉州の人羅石頭がその罪状を面と向かって数え上げ、槍を振るって刺そうとしたが、燕弘亮に殺された。
 祐が騎兵を率いて高村を撃つと、村人の高君状が遙かに祐を責めて言った。
「主上は三尺の剣をひっさげて天下を取り、億兆の民は御厚恩を蒙って、まるで天のように仰いでいる。それなのに王は城中数百人を駆り立てて禍乱を起こして君父を犯す。これは一本の手で泰山を揺るがすような事だ。身の程知らずも極まった!」
 祐はこれを攻撃して捕らえたが、慙愧して殺せなかった。
 敕が降りて、石頭へ毫州刺史が追賜された。君状は楡社令となり、杜行敏は巴州刺史として南陽郡公に封じられる。彼と力を合わせて祐を捕らえた者も、それぞれ褒賞があった。
 上が祐の家の文疏を検分すると、記室の郟城の孫處約が諫めた文書が見つかったので、これを賞した。彼は次第に出世して中書舎人となる。
 庚午、権萬紀へ斉州都督を追贈し、武都郡公の爵位を賜う。諡は敬。韋文振は左武衛将軍を追賜し、襄陽県公の爵位を賜う。
 10初,太子承乾喜聲色及畋獵,所爲奢靡,畏上知之,對宮臣常論忠孝,或至於涕泣,退歸宮中,則與羣小相褻狎。宮臣有欲諫者,太子先揣知其意,輒迎拜,斂容危坐,引咎自責,言辭辯給,宮臣拜答不暇。宮省秘密,外人莫知,故時論初皆稱賢。
  太子作八尺銅鑪、六隔大鼎,募亡奴盜民間馬牛,親臨烹煮,與所幸廝役共食之。又好效突厥語及其服飾,選左右貌類突厥者五人爲一落,辮髪羊裘而牧羊,作五狼頭纛及幡旗,設穹廬,太子自處其中,斂羊而烹之,抽佩刀割肉相啗。又嘗謂左右曰:「我試作可汗死,汝曹效其喪儀。」因僵臥於地,衆悉號哭,跨馬環走,臨其身,剺面。良久,太子欻起,曰:「一朝有天下,當帥數萬騎獵於金城西,然後解髪爲突厥,委身思摩,若當一設,不居人後矣。」
  左庶子于志寧、右庶子孔穎達數諫太子,上嘉之,賜二人金帛以風勵太子,仍遷志寧爲詹事。志寧與左庶子張玄素數上書切諫,太子陰使人殺之,不果。
  漢王元昌所爲多不法,上數譴責之,由是怨望。太子與之親善,朝夕同遊戲,分左右爲二隊,太子與元昌各統其一,被氊甲,操竹矟,布陳大呼交戰,撃刺流血,以爲娯樂。有不用命者,披樹檛之,至有死者。且曰:「使我今日作天子,明日於苑中置萬人營,與漢王分將,觀其戰鬭,豈不樂哉!」又曰:「我爲天子,極情縱欲,有諫者輒殺之,不過殺數百人,衆自定矣。」
  魏王泰多藝能,有寵於上,見太子有足疾,潛有奪嫡之志,折節下士以求聲譽。上命黄門侍郎韋挺攝泰府事,後命工部尚書杜楚客代之,二人倶爲泰要結朝士。楚客或懷金以賂權貴,因説以魏王聰明,宜爲上嗣;文武之臣,各有附託,潛爲朋黨。太子畏其逼,遣人詐爲泰府典籤上封事,其中皆言泰罪惡,敕捕之,不獲。
  太子私幸太常樂童稱心,與同臥起。道士秦英、韋靈符挾左道,得幸太子。上聞之,大怒,悉收稱心等殺之,連坐死者數人,誚讓太子甚至。太子意泰告之,怨怒愈甚,思念稱心不已,於宮中構室,立其像,朝夕奠祭,徘徊流涕。又於苑中作冢,私贈官樹碑。
  上意浸不懌,太子亦知之,稱疾不朝謁者動渉數月;陰養刺客紇干承基等及壯士百餘人,謀殺魏王泰。
  吏部尚書侯君集之婿賀蘭楚石爲東宮千牛,太子知君集怨望,數令楚石引君集入東宮,問以自安之術,君集以太子暗劣,欲乘釁圖之,因勸之反,舉手謂太子曰:「此好手,當爲殿下用之。」又曰:「魏王爲上所愛,恐殿下有庶人勇之禍,若有敕召,宜密爲之備。」太子大然之。太子厚賂君集及左屯衞中郎將頓丘李安儼,使詗上意,動靜相語。安儼先事隱太子,隱太子敗,安儼爲之力戰,上以爲忠,故親任之,使典宿衞。安儼深自託於太子。
  漢王元昌亦勸太子反,且曰:「比見上側有美人,善彈琵琶,事成,願以垂賜。」太子許之。洋州刺史開化公趙節,慈景之子也,母曰長廣公主,駙馬都尉杜荷,如晦之子也,尚城陽公主,皆爲太子所親暱,預其反謀。凡同謀者皆割臂,以帛拭血,燒灰和酒飲之,誓同生死,潛謀引兵入西宮。杜荷謂太子曰:「天文有變,當速發以應之,殿下但稱暴疾危篤,主上必親臨視,因茲可以得志。」太子聞齊王祐反於齊州,謂紇干承基等曰:「我宮西牆,去大内正可二十歩耳,與卿爲大事,豈比齊王乎!」會治祐反事,連承基,承基坐繋大理獄,當死。
10.初め、太子承乾は声色と狩猟が好きで、非常に贅沢だったが、上から知られることを畏れて、宮臣へ対しては常に忠孝を論じ、あるいは泣き崩れることもあった。しかし、退出して宮中へ帰ると、群小と狎れ遊ぶのだ。宮臣が諫めようとすると、太子はそれを目聡く察知して即座に迎え入れ、非常に反省した顔をしてその咎を口にし自らを責めた。その言葉は美しく、宮臣は拝答にあくせくした。宮省では秘密にして外人は誰も知らなかったので、人々は太子を賢人だと称していた。
 太子は八尺の銅炉を造って、六隔の大鼎を造った。そして、亡命した官奴を募って民間の牛馬を盗ませ、自らの目の前で煮炊きさせて寵用している者達と共に食べた。また、突厥の言葉や服装を真似るのが好きで、左右から突厥に似た顔立ちの物を選び、五人を一組にして弁髪に羊の革衣を着せ、羊を放牧させた。また、五狼頭の大旗や幡旗を作り、穹盧を設けて太子自らその中へ入り、羊を屠って煮、佩刀で肉を斬って食べた。
 太子は、かつて左右へ言った。
「我は、可汗になって死んだ振りをしよう。汝等は葬儀を行うのだ。」
 そして、地面に横たわった。衆人は皆、慟哭し、馬に跨ってグルグル走り、太子に近づき顔を覆った。しばらくして、太子はザザッと起きて、言った。
「やがて天下の主になったら、数万騎を率いて金城西にて猟をし、その後髪を解いて突厥となり、思摩にて典兵すれば、これも天下の快事。人後に落ちんぞ。」
 左庶子于志寧と右庶子孔穎達が、屡々太子を諫めた。上はこれを嘉し、二人へ金帛を賜り、太子への励みとさせた。また、志寧を詹事とする。志寧と左庶子張玄素は屡々上書して切に諫めたので、太子は暗殺を謀ったが、果たせなかった。
 漢王元昌は不法な振る舞いが多く、上は屡々彼を譴責していた。これによって、元昌は怨望した。太子は、彼と仲が善く、朝に夕に遊び戯れていた。臣下を左右二隊に分け、太子と元昌と各々一つを指揮し、布の鎧と竹の槍で模擬戦を行わせる。両軍布陣したら大声で叫んで交戦し、撃刺のたびに流血する。それが彼等の遊びだった。命令を聞かない者は、その手足を樹木に掛けて叩き、中には死んでしまう者も居た。そして、太子は言う。
「我が今日天子となったら、明日にでも苑中に万人の陣営を置き、漢王と二人で率いて、その戦闘を見るのだ。なんと楽しいではないか!」
 また、言った。
「我が天子となれば、情欲のまま勝手放題に行い、諫める者はすぐにでも殺す。数百人も殺したら、誰もが何も言わなくなるさ。」
 魏王泰は多芸で、上から寵愛されていた。彼は、太子の足が悪いのを見て、密かに太子の地位を奪ってやろうと考えるようになり、腰を低くして下士へ接し、名声を博した。上は、黄門侍郎韋挺を摂泰府事としたが、後に工部尚書杜楚客と交代させた。二人とも、泰の為に、朝士との人脈を作った。楚客はある時は懐に金を持って権貴へ贈賄し、魏王が聡明だと説き、世継ぎに相応しいと語った。文武の臣は各々結託し、密かに朋党が出来ていった。
 太子は、魏王が迫ってくることを畏れ、泰の府の典籖の上封事を偽造させた。その書の中では、皆が泰の罪悪を言い立てており、敕にてこれを捕らえようとしたが、できなかった。
 太子は、太常楽童の称心を私的に寵用しており、共に寝起きするほどだった。道士の秦英と韋霊符は左道(邪道の呪術)の技で太子に引き立てられていた。上はこれを聞いて激怒し、称心等を捕らえて殺した。連座で数人の死者が出て、太子もひどく叱責された。太子は、泰の密告と思い、怨怒はますます酷くなった。心中では称心が忘れられず、宮中の講室にその像を立てて朝に夕に祭り、涙を零して徘徊する。また、苑中に塚を作り、私的に官位を贈って碑を立てた。
 上は次第に不愉快になって行った。太子もそれに気がつき、病気と称してややもすれば数ヶ月も朝廷へ顔を出さなくなった。刺客の紇干承基等や壮士百余人を密かに養い、魏王泰の暗殺を謀った。
 吏部尚書侯君集の婿の賀蘭楚石が東宮の千牛となった。太子は君集の怨望を知ると、屡々楚石を通じて君集を東宮へ引き入れ、自分の地位を安泰にする方法を尋ねた。君集は、太子の暗劣を知り、これに乗じて不軌を謀ろうと、太子へ造反を勧めた。
 彼は、手を挙げると太子へ言った。
「この好き手を、殿下の為に用いましょう。」
 又、言う。
「魏王が上から愛されると、殿下へ庶人勇(煬帝の兄)の禍が降りかかることを恐れます。敕召があることを想い密かに備えを為すべきであります。」
 太子は、深く同意した。
 太子は、君集や左屯衛中郎将の頓丘の李安儼へ厚く贈賄し、上意を窺わせてその動静を共に語った。
 安儼は、最初は隠太子へ仕えていた。隠太子が敗れた時には、彼は隠太子の為に力戦した。上は、これを忠義と思って親任し、宿衛としていたのである。だが、安儼は、太子と深く結びついた。
 漢王元昌もまた、太子へ造反を勧め、且つ言った。
「最近、上の側に侍っている美人は、琵琶の名手です。事が成就したら、彼女を賜下してください。」
 太子は、これを許した。
 洋州刺史開化公趙節は、慈景の子息である。母は、長廣公主。駙馬都尉の杜荷は、杜如晦の子息で、城陽公主を娶っていた。二人とも、太子と親しく、造反計画に関与していた。 彼等同盟者は、肘を傷つけて、その血を帛で拭い、それを焼いた灰を酒に入れて飲み、生死を共にすると誓った。そして兵を率いて西宮(大内)へ入る陰謀を巡らせた。
 杜荷が太子へ言った。
「天文に変事がありました。急いで事を起こして、これに応じましょう。殿下が、突然病気になって危篤状態だと言えば、主上は必ず自ら見舞いに来ます。そうすれば成功しますぞ。」
 太子は、斉王祐が斉州で造反したと聞き、乞干承基等へ言った。
「我が宮の西のひめがきは、大内から二十歩しか離れていない。卿等と大事を起こせば、なんで斉王と比べられようか!」
 やがて祐の造反事件で取り調べが進むと、承基まで飛び火した。承基は連座で牢獄へぶち込まれ、死刑が確定した。

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