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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第一百九十一
 唐紀七
  高祖神堯大聖光孝皇帝下之上
武德七年(甲申,六二四)

 六月,辛丑,上幸仁智宮避暑。
1.六月、辛丑。上が仁智宮へ避暑に行った。
 辛亥,瀧州、扶州獠作亂,遣南尹州都督李光度等撃平之。
2.辛亥、瀧州、扶州の獠が動乱を起こした。南尹州都督李光度等がこれを撃って平定した。
 丙辰,吐谷渾寇扶州,刺史蒋善合撃走之。
3.丙辰、吐谷渾が扶州へ来寇したが、刺史の蒋善合が撃退した。
 壬戌,慶州都督楊文幹反。
  初,齊王元吉勸太子建成除秦王世民,曰:「當爲兄手刃之!」世民從上幸元吉第,元吉伏護軍宇文寶於寢内,欲刺世民;建成性頗仁厚,遽止之。元吉慍曰:「爲兄計耳,於我何有!」
  建成擅募長安及四方驍勇二千餘人爲東宮衞士,分屯左、右長林,號長林兵。又密使右虞侯率可達志從燕王李藝發幽州突騎三百,置宮東諸坊,欲以補東宮長上,爲人所告。上召建成責之,流可達志於雟州。
  楊文幹嘗宿衞東宮,建成與之親厚,私使募壯士送長安。上將幸仁智宮,命建成居守,世民、元吉皆從。建成使元吉就圖世民,曰:「安危之計,決在今歳。」又使郎將爾朱煥、校尉橋公山以甲遺文幹。二人至豳州,上變,告太子使文幹舉兵,使表裏相應;又有寧州人杜鳳舉亦詣宮言状。上怒,託他事,手詔召建成,令詣行在。建成懼,不敢赴。太子舎人徐師謩勸之據城舉兵;詹事主簿趙弘智勸之貶損車服,屏從者,詣上謝罪,建成乃詣仁智宮。未至六十里,悉留其官屬於毛鴻賓堡,以十餘騎往見上,叩頭謝罪,奮身自擲,幾至於絶。上怒不解,是夜,置之幕下,飼以麥飯,使殿中監陳福防守,遣司農卿宇文穎馳召文幹。穎至慶州,以情告之,文幹遂舉兵反。上遣左武衞將軍錢九隴與靈州都督楊師道撃之。
  甲子,上召秦王世民謀之,世民曰:「文幹豎子,敢爲狂逆,計府僚已應擒戮;若不爾,正應遣一將討之耳。」上曰:「不然。文幹事連建成,恐應之者衆。汝宜自行,還,立汝爲太子。吾不能效隋文帝自誅其子,當封建成爲蜀王。蜀兵脆弱,他日苟能事汝,汝宜全之;不能事汝,汝取之易耳!」
  上以仁智宮在山中,恐盜兵猝發,夜,帥宿衞南出山外,行數十里,東宮官屬繼至,皆令三十人爲隊,分兵圍守之。明日,復還仁智宮。
  世民既行,元吉與妃嬪更迭爲建成請,封德彝復爲之營解於外,上意遂變,復遣建成還京師居守。惟責以兄弟不睦,歸罪於太子中允王珪、左衞率韋挺、天策兵曹參軍杜淹,並流於雟州。挺,沖之子也。初,洛陽既平,杜淹久不得調,欲求事建成。房玄齡以淹多狡數,恐其教導建成,益爲世民不利,乃言於世民,引入天策府。
4.壬戌、慶州都督楊文幹が造反した。その経緯は次の通り。
 斉王元吉が太子建成へ、秦王世民を除くよう勧めて言った。
「兄が手ずから刃に掛けなさい!」
 世民は上に随従して元吉の第へ御幸した。元吉は護軍の宇文寶を寝内へ伏せ、世民を誘おうとしたが、建成は仁厚な性格なので、これを止めた。元吉は、憤って言った。
「兄貴の為にやるのだぞ。俺に何の得があるのだ!」
 建成は、長安及び四方から、勝手に驍勇の士二千人を募り、東宮の衛士にした。永林の左右に分けて屯営させ、これを「長林兵」と称した。また、右虞候率の可達志をひそかに燕王李藝の元へ遣り、幽州突騎三百を連れてこさせ、東宮の諸坊へ置いた。東宮の警備を補強するためである。だが、これらのことが密告され、上は建成を召しだして責めた。可達志は雟州へ流す。
 楊文幹は、かつて東宮の宿衛で、建成とはとても親密だったので、私的に壮士を募り、長安へ送っていた。
 上が仁智宮へ御幸するとき、建成には留守を命じ、世民と元吉は自分に随従させた。建成は、元吉へ世民を処分させようと、言った。
「安危の計は、今年決するぞ。」
 又、文幹へ甲を送る為、郎将爾朱煥と校尉橋公山を派遣した。だが彼等は豳州へ行くと、「変事が起こった」と上奏し、太子が文幹へ挙兵させて表裏相応じるのだと告げた。また、寧州の人杜鳳挙が宮へ行って建成の行状を伝えた。
 上は怒り、他のことにかこつけけて、自ら詔を書いて建成を行在所へ呼び付けた。建成は懼れ、敢えて赴かない。太子舎人徐師謩は城に據って挙兵するよう勧めた。詹事主簿趙弘智は低い身分の者が着る服や車を使い、従者も連れずに出頭して謝罪するよう勧めた。
 結局建成は、仁智宮へ赴くことにした。六十里も進まないうちにその官属を全員毛鴻賓堡へ留め、十余騎のみで上へ謁見し、平身低頭謝罪した。身を震わせ地へ平伏して、殆ど気絶せんばかりだった。だが、上の怒りは解けず、この夜、建成を幕下へ置き、麦飯を食わせた。そのかたわら、殿中監陳福へ守りを固めさせ、司農卿宇文穎を派遣して文幹へ急いで来るよう命じた。
 穎は、慶州へ着くと、事実をありのままに語った。遂に文幹は造反したのである。上は、左武衛将軍銭九隴と霊州都督楊師道を派遣して、これを撃たせた。
 甲子、上は秦王世民を呼んで、これを謀った。すると、世民は言った。 「文幹は、小僧っ子です。敢えて狂逆を行ったのですから、既に府僚に捕らえられているか殺されてしまっているでしょう。もし無事でも、一将を派遣すれば討伐できます。」
 だが、上は言った。
「そうではないぞ。文幹の造反は建成へ連なっているから、これに呼応する者が多いかも知れないのだ。汝が自ら討伐するべきだ。帰ってきたら、汝を太子に立てよう。隋の文帝は自分の子息を誅殺したが、我にはそんな真似はできない。建成は、蜀王に封じよう。蜀の兵卒は脆弱だ。後日彼が汝の臣下になれたならば、汝は彼を保全してやれ。だが仕えることができなかったならば、汝は容易にこれを取れるぞ!」
 仁智宮は山中にある。だから上は、盗賊が乱入することを恐れ、夜、宿衛を率いて南から山外へ出した。数十里進むと、東宮の官属が後へ続いてきた。そこで三十人を一隊として、それぞれ兵に包囲させた。翌日、再び仁智宮へ戻る。
 世民が出陣すると、元吉と妃嬪がかわるがわるに建成の赦免を請うた。封徳彝もまた、建成のために(外の営を解いた?)。上の決意は遂に翻り、建成を京師へ戻して留守をさせた。ただ、兄弟が不睦だったことのみを責め、罪は太子中允王珪、左衛率韋挺、天策兵曹参軍杜淹へ押しつけ、彼等を雟州へ流した。廷は、沖の子息である。
 洛陽が平定した時、杜淹は長い間(仕官できなかったので?)、建成へ仕えようとした。房玄齢は、淹の為人を狡猾と見ていたので、彼が建成を教え導いたらますます世民にとって不利になると恐れ、世民と相談して天策府へ引き入れたのだった。
 突厥寇代州之武周城,州兵撃破之。
5.突厥が代州の武周城へ来寇したが、州兵が撃破した。
 秋,七月,己巳,苑君璋以突厥寇朔州,總管秦武通撃卻之。
6.秋、七月、己巳。苑君璋が突厥を率いて朔州へ来寇したので、総管の秦武通が撃退した。
 楊文幹襲陷寧州,驅掠吏民出據百家堡。秦王世民軍至寧州,其黨皆潰。癸酉,文幹爲其麾下所殺,傳首京師。獲宇文穎,誅之。
7.楊文幹が寧州を襲撃し、落とした。吏民を掠め、これを駆り立てて百家堡へ據る。
 秦王世民の軍が寧州まで進軍すると、文幹の党類は、皆、潰れた。
 癸酉、文幹は麾下に殺され、その首が京師へ送られた。宇文穎を捕らえ、誅殺する。
 丁丑,梁師都行臺白伏願來降。
8.丁丑、梁師都の行台白伏願が来降した。
 戊寅,突厥寇原州;遣寧州刺史鹿大師救之,又遣楊師道趨大木根山。庚辰,突厥寇隴州;遣護軍尉遲敬德撃之。
9.戊寅、突厥が原州へ来寇した。寧州刺史鹿大師を救援に派遣する。また、楊師道を大木根山へ派遣する。
 庚辰、突厥が隴州へ来寇した。護軍尉遅敬徳に迎撃させる。
 10吐谷渾寇岷州。辛巳,吐谷渾、党項寇松州。
10.吐谷渾が岷州へ来寇した。辛巳、吐谷渾と党項が松州へ来寇した。
 11癸未,突厥寇陰盤。
11.癸未、突厥が陰盤へ来寇した。
 12甲申,扶州刺史蒋善合撃吐谷渾於松州赤磨鎮,破之。
12.甲申、扶州刺史蒋善合が松州の赤磨鎮にて吐谷渾を撃ち、これを破った。
 13己丑,突厥吐利設與苑君璋寇并州。
13.己丑、突厥の吐利設と苑君璋が、并州へ来寇した。
 14甲子,車駕還京師。
14.甲午、車駕が京師へ帰った。
 15或説上曰:「突厥所以屢寇關中者,以子女玉帛皆在長安故也。若焚長安而不都,則胡寇自息矣。」上以爲然,遣中書侍郎宇文士及逾南山至樊、鄧,行可居之地,將徒都之。太子建成、齊王元吉、裴寂皆贊成其策,蕭瑀等雖知其不可,而不敢諫。秦王世民諫曰:「戎狄爲患,自古有之。陛下以聖武龍興,光宅中夏,精兵百萬,所征無敵,奈何以胡寇擾邊,遽遷都以避之,貽四海之羞,爲百世之笑乎!彼霍去病漢廷一將,猶志滅匈奴;況臣忝備藩維,願假數年之期,請係頡利之頸,致之闕下。若其不效,遷都未晩。」上曰:「善。」建成曰:「昔樊噲欲以十萬衆橫行匈奴中,秦王之言得無似之!」世民曰:「形勢各異,用兵不同,樊噲小豎,何足道乎!不出十年,必定漠北,非虚言也!」上乃止。建成與妃嬪因共譖世民曰:「突厥雖屢爲邊患,得賂則退。秦王外託禦寇之名,内欲總兵權,成其簒奪之謀耳!」
  上校獵城南,太子、秦、齊王皆從,上命三子馳射角勝。建成有胡馬,肥壯而喜蹶,以授世民曰:「此馬甚駿,能超數丈澗。弟善騎,試乘之。」世民乘以逐鹿,馬蹶,世民躍立於數歩之外,馬起,復乘之,如是者三,顧謂宇文士及曰:「彼欲以此見殺,死生有命,庸何傷乎!」建成聞之,因令妃嬪譖之於上曰:「秦王自言,我有天命,方爲天下主,豈有浪死!」上大怒,先召建成、元吉,然後召世民入,責之曰:「天子自有天命,非智力可求;汝求之一何急邪!」世民免冠頓首,請下法司案驗。上怒不解,會有司奏突厥入寇,上乃改容勞勉世民,命之冠帶,與謀突厥。閏月,己未,詔世民、元吉將兵出豳州以禦突厥,上餞之於蘭池。上毎有寇盜,輒命世民討之,事平之後,猜嫌益甚。
15.ある者が、上へ説いた。
「突厥が屡々関中へ来寇するのは、子女玉帛が全て長安にあるからです。もしも長安を焼き払って、ここを都にしなければ、胡の来寇は自然と止むでしょう。」
 上は、同意した。そこで中書侍郎宇文士及へ南山を越えて樊・鄧の地へ行かせ、ここへ遷都しようと考えた。
 太子建成、斉王元吉、裴寂は皆、その策に賛成した。蕭瑀等は、それが不可だと判っていたが、敢えて諫めなかった。秦王世民は、諫めて言った。
「戎狄が患となるのは、古来からのことです。陛下は聖武で龍興して中夏を光宅としました。精騎は百万、征伐へ向かえば敵がありません。なんで胡が辺境で騒ぐからといって、即座に遷都してこれを避けるのですか。四海の羞、百世に笑いを取りますぞ!あの霍去病は漢の一家臣に過ぎませんでしたが、それでも匈奴を滅ぼしてやろうとゆう志を持っていました。ましてや臣は忝なくも藩国を授かっています。どうか数年の期間をください。そうすれば、頡利の首を闕下へ持ってきましょう。もしもできなければ、それから遷都しても遅くありません。」
 上は言った。
「善し。」
 建成が言う。
「昔、樊噲は十万の衆で匈奴の中を横断しようとしましたが、秦王の言うことは、これと同じではないですか!」
 世民は言った。
「形勢が異なり、用兵も違う。樊噲など小豎、何で言うに足りるか!十年と経たないうちに、必ず漠北を平定する。虚言ではない!」
 上は、遷都を中止した。
 建成と妃嬪は、共に世民を讒言して言った。
「突厥は屡々辺患を為していますが、収穫を得ればすぐに引き返します。秦王は寇を防ぐとゆう名分に仮託して、実は兵権を全て握り、簒奪をしようとしているに違いありません!」
 上が城南で狩猟をし、太子、秦、斉王が、皆、随従した。上は、三人の子息に得物比べをするよう命じた。建成は、胡馬を持っていた。よく肥えていて、飛び跳ねるのが好き。太子はこれを世民へ授けて言った。
「この馬は、すごい駿馬だ。数丈の溝でも跳び越える。弟は乗馬が巧いから、これに乗って試してみな。」
 世民がこれに乗って鹿を追うと、馬が飛び跳ね、世民は数歩先へはね飛ばされた。馬が起ったら、世民は又、これに乗る。これを再三繰り返して、世民は宇文士及を振り返り、言った。
「彼は、我を殺すつもりか。だが、死生は天命。何で傷つけることができようか!」
 これを聞いた建成は、妃嬪へ讒言させた。
「秦王は、自ら言いました。『自分には天命がある。天下の主となるまでなんで犬死にしようか!』と。」
 上は大怒し、まず建成と元吉を呼び寄せ、その後に世民を呼び寄せて責めた。
「天子は自ずから天命がある。智力で求められるものではない。汝は何で性急にこれを求めるのだ!」
 世民は冠を取り、頓首して裁判に掛けるよう請うたが、上の怒りは解けなかった。すると、そこに役人がやって来て突厥の入寇を告げたので、上は顔つきを改め、世民を慰労して冠をつけさせ、彼と突厥について謀った。
 閏月、己未、世民と元吉へ豳州の兵を率いて突厥を拒むよう詔が降りる。上は蘭池にて餞をした。
 上は、盗賊などが来寇する度に世民へ討伐を命じたが、事が平定すると猜疑が益々甚だしくなった。
 16初,隋末京兆韋仁壽爲蜀郡司法書佐,所論囚至市,猶西向爲仁壽禮佛然後死。唐興,爨弘達帥西南夷内附,朝廷遣使撫之,類皆貪縱,遠民患之,有叛者。仁壽時爲雟州都督長史,上聞其名,命檢校南寧州都督,寄治越雟,使之歳一至其地慰撫之。仁壽性寬厚,有識度,既受命,將兵五百人至西洱河,周歴數千里,蠻、夷豪帥皆望風歸附,來見仁壽。仁壽承制置七州、十五縣,各以其豪帥爲刺史、縣令,法令清肅,蠻、夷悅服。將還,豪帥皆曰:「天子遣公都督南寧,何為遽去?」仁壽以城池未立爲辭。蠻、夷即相帥爲仁壽築城,立廨舎,旬日而就。仁壽乃曰:「吾受詔但令巡撫,不敢擅留。」蠻、夷號泣送之,因各遣子弟入貢。壬戌,仁壽還朝,上大悅,命仁壽徙鎮南寧,以兵戍之。
16.隋末、京兆の韋仁壽が蜀郡の司法書佐となった。その任期中、彼が裁判に関与した囚人は処刑される時、西へ向いて仁壽の為に仏に祈ってから死んでいった。
 さて、唐が興ると、爨弘達が西南夷を率いて唐へ帰順したので、朝廷は使者を派遣してこれを巡撫した。だが、彼等は貪欲で勝手気儘。遠方の民はこれを患い、造反する者も居た。
 この頃、仁壽は雟州都督長史だった。上はその名を聞いていたので、彼へ越雟を治めさせるよう、検校南寧州都督へ命じた。一年使ってみて、その地を慰撫させようとゆうのだ。
 仁壽は寛大温厚な性格で、見識が高かった。命令を受けると、兵五百人を率いて西洱河へ至り、数千里周歴した。蛮、夷の豪族達は皆、風を望んで帰順し、仁壽へ謁見した。仁壽は七州十五県を置き、各々の豪族を刺史や県令とした。法令は清粛で、蛮・夷は悦び服した。 彼が帰るとき、豪族達は、皆、言った。
「天子が公を都督として南寧へ派遣してくれたのです。なんでこんなにサッサと去って行くのです?」
 仁壽は、城や池が未だ整備されていないと言い訳した。すると蛮・夷はみんな集まって、仁壽の為に城を造り廨舎を立てたが、これは旬日で完成してしまった。
 仁壽は言った。
「実は、我はただ巡撫せよとゆう詔を受けただけなので、どうしても留まることはできないのだ。」
 蛮・夷は号泣してこれを見送り、それぞれ子弟を派遣して入貢した。
 壬戌、仁壽は朝廷へ帰った。上は大いに悦び、仁寿へ南寧へ移って鎮守するよう命じ、兵卒にこれを守らせた。
 17苑君璋引突厥寇朔州。
17.苑君璋が突厥を率いて朔州へ来寇した。
 18八月,戊辰,突厥寇原州。
18.八月、戊辰、突厥が原州へ来寇した。
 19己巳,吐谷渾寇鄯州。
19.己巳、吐谷渾が鄯州へ来寇した。
 20壬申,突厥寇忻州,丙子,寇并州;京師戒嚴。戊寅,寇綏州,刺史劉大倶撃卻之。
  是時,頡利、突利二可汗舉國入寇,連營南上,秦王世民引兵拒之。會關中久雨,糧運阻絶,士卒疲於征役,器械頓弊,朝廷及軍中咸以爲憂。世民與虜遇於豳州,勒兵將戰。己卯,可汗帥萬餘騎奄至城西,陳於五隴阪,將士震恐。世民謂元吉曰:「今虜騎憑陵,不可示之以怯,當與之一戰,汝能與我倶乎?」元吉懼曰:「虜形勢如此,奈何輕出?萬一失利,悔可及乎!」世民曰:「汝不敢出,吾當獨往。汝留此觀之。」世民乃帥騎馳詣虜陳,告之曰:「國家與可汗和親,何爲負約,深入我地!我秦王也,可汗能鬭,獨出與我鬭;若以衆來,我直以此百騎相當耳!」頡利不之測,笑而不應。世民又前,遣騎告突利曰:「爾往與我盟,有急相救;今乃引兵相攻,何無香火之情也!」突利亦不應。世民又前,將渡溝水,頡利見世民輕出,又聞香火之言,疑突利與世民有謀,乃遣止世民曰:「王不須渡,我無他意,更欲與王申固盟約耳。」乃引兵稍卻。是後霖雨益甚,世民謂諸將曰:「虜所恃者弓矢耳,今積雨彌時,筋膠倶解,弓不可用,彼如飛鳥之折翼;吾屋居火食,刀槊犀利,以逸制勞,此而不乘,將復何待!」乃潛師夜出,冒雨而進,突厥大驚。世民又遣説突利以利害,突利悅,聽命。頡利欲戰,突利不可,乃遣突利與其夾畢特勒阿史那思摩來見世民,請和親,世民許之。思摩,頡利之從叔也。突利因自託於世民,請結爲兄弟。世民亦以恩意撫之,與盟而去。
  庚寅,岐州刺史柴紹破突厥於杜陽谷。
  壬申,突厥阿史那思摩入見,上引升御榻,慰勞之。思摩貌類胡,不類突厥,故處羅疑其非阿史那種,歴處羅、頡利世,常爲夾畢特勒,終不得典兵爲設。既入朝,賜爵和順王。
  丁酉,遣左僕射裴寂使於突厥。
20.壬申、突厥が忻州へ来寇した。
 丙子、并州へ来寇し、京師に戒厳令が布かれた。
 戊寅、綏州へ来寇、刺史の劉大倶がこれを撃退した。
 この時、頡利、突利の二可汗が国を挙げて入寇し、南上へ陣営を連ねた。秦王世民が、兵を率いてこれを拒む。
 たまたま関中に長雨が続き食糧の運搬が途絶えたので、士卒は遠征に疲れ切ってしまい、器械もそうとうにくたびれた。朝廷や軍中は、これを憂えた。
 世民は、豳州にて虜と遭遇し、兵を指揮して戦おうとした。
 己卯、可汗は萬余騎を率いて城西へ至り、五隴阪に陣取ったので、将士は震え上がった。
 世民は、元吉へ言った。
「今、虜騎は陵へ寄りかかっている。ここで怯を示してはいけない。これと一戦するべきだ。汝は、我と共に来れるか?」
 元吉は懼れて言った。
「虜の形勢は見ての通り。何で軽々しく出撃できようか。万一不利になったら、悔いても及ばないぞ!」
 世民は言った。
「汝が出撃しないなら、我一人でも行く。汝はここに留まって見ていろ。」
 世民は、騎兵を率いて虜の仁まで駆けつけ、彼等へ告げた。
「国家と可汗は和親した。何でその約定に背いて我が領地へ深く入り込んだのだ!我は秦王だ。可汗よ、勇気があるなら一人で出てきて我と戦え。もし大勢で来るのなら、この百騎で相手してやる。」
 頡利はこれを測らず、笑って応じなかった。
 世民は更に前進し、騎兵を派遣して突利へ告げた。
「汝は、かつて我と同盟を結び、危急の時は助け合った仲だ。それが今回は兵を率いて相攻め合う。なんと香火の情(神仏の前で誓いを立てるとき、香火を立てる。)の無いことか!」
 しかし、突利も又応じなかった。
 世民は更に前進し、溝水を渡ろうとした。頡利は、世民が軽々しく前進するのを見、また、「香火」の言葉を聞き、突利と世民が実は手を結んでいるのではないかと疑い、使者を派遣して世民を止めて言った。
「王よ、河を渡られるな。我に他意はない。ただ王との盟約を固めたいだけだ。」
 そして、兵を引いて少し退却した。
 この後、シトシトとした雨は益々甚だしくなったので、世民は諸将へ言った。
「虜が恃みとしているのは、ただ弓矢だけだ。今、雨足は益々強くなっている。これでは筋も膠も緩んでしまい、弓を使うことはできない。今の奴等は、翼の折れた飛鳥も同然。我等は屋内で暖かい物を食べ、刀も槊も研いでいる。逸を以て労を制するとはこの事だ。この機に乗じなければ、また何を待とうか!」
 そして夜半、密かに軍を出し、雨を冒して進んだ。突厥は、大いに驚く。
 世民は、また使者を派遣して突利へ利害を説いた。突利は悦び、言いつけに従った。
 頡利は戦いたがったが、突利は不可とした。そこで突利とその夾畢特勒の阿史那思摩を世民の元へ派遣して、和親を請うた。世民は、これを許した。思摩は、頡利の従叔である。
 これによって突利は世民へ将来を託そうと、兄弟の契りを請うた。世民も又、恩を以てこれを撫でようと思い、盟約を結んで去った。
 庚寅、岐州刺史柴紹が杜陽谷にて突厥を破った。
 壬申、突厥の阿史那思摩が入見した。上は彼を御長椅子まで登らせて慰労した。
 思摩の容貌は、胡に似ていて、突厥には見えなかった。だから處羅可汗は、彼が阿史那の種ではないのではないかと疑っていたので、處羅と頡利の世を通じて常に夾畢特勒であり、ついに兵を動員できる身分にはなれなかった。入朝の後、和順王の爵位を賜る。
 丁酉、左僕射裴寂を突厥へ使者として派遣する。
 21九月,癸卯,日南人姜子路反,交州都督王志遠撃破之。
21.九月、癸卯、日南の住民姜子路が造反した。交州都督王志遠がこれを撃破する。
 22癸卯,突厥寇綏州,都督劉大倶撃破之,獲特勒三人。
  冬,十月,己巳,突厥寇甘州。
22.癸卯、突厥が綏州へ来寇した。都督劉大倶がこれを破り、特勒三人を捕らえる。
 冬、十月、己巳、突厥が甘州へ来寇する。
 23辛未,上校獵於鄠之南山;癸酉,幸終南。
23.辛未、上が鄠の南山で狩猟をした。癸酉、終南に御幸した。
 24吐谷渾及羌人寇疊州,陷合川。
24.吐谷渾及び羌が畳州へ来寇して、合川を落とした。
 25丙子,上幸樓觀,謁老子祠;癸未,以太牢祭隋文帝陵。十一月,丁卯,上幸龍躍宮;庚午,還宮
25.丙子、上が楼観へ御幸史、老子祠へ詣った。
 癸未、隋の文帝陵を太牢で祭った。
 十一月、丁卯、上が龍躍宮へ御幸した。庚午、宮から帰る。
 26太子詹事裴矩權檢校侍中。
26.太子詹事裴矩を権検校侍中とした。
八年(乙酉,六二五)

 春,正月,丙辰,以壽州都督張鎭周爲舒州都督。鎭周以舒州本其郷里,到州,就故宅多市酒肴,召親戚故人,與之酣宴,散發箕踞,如爲布衣時,凡十日。既而分贈金帛,泣,與之別,曰:「今日張鎭周猶得與故人歡飲,明日之後,則舒州都督治百姓耳,君民禮隔,不得復爲交遊。」自是親戚故人犯法,一無所縱,境内肅然。
1.春、正月、丙辰。壽州都督張鎮周を舒州都督とした。
 鎮周は、もともと舒州出身だった。州へ到着すると、実家にて酒や肴を多量に買い込み、親戚知人を集めて盛大に宴会を開いた。髪はザンバラ足を投げ出しての無礼講。庶民の時のようなつき合いで、凡そ十日も飲みまくった。その後、金帛を彼等へ分け与えると、泣いて別れを告げた。
「今日の張鎮周は、まだ昔馴染みと酒を酌み交わせたが、明日から後は舒州都督として百姓を治めなければならない。君臣の礼は隔たっており、もうこのように交遊することは出来ないなあ。」
 以後、親戚知人が法を犯しても、まるで手を緩めなかったので、境内は粛然とした。
 丁巳,遣右武衞將軍段德操徇夏州地。
2.丁巳、右武衛将軍段徳操を夏州の地へ派遣した。
 吐谷渾寇疊州。
3.吐谷渾が畳州へ来寇した。
 是月,突厥、吐谷渾各請互市,詔皆許之。先是,中國喪亂,民乏耕牛,至是資於戎狄,雜畜被野。
4.この月、突厥と吐谷渾が各々交易を求めてきた。これを許す詔が降りる。
 今まで、中国は戦乱の時代で、民は耕牛に不足していた。これ以来、戎狄から購入して養育できるようになった。
 夏,四月,乙亥,党項寇渭州。
5.夏、四月、乙亥。党項が渭州へ来寇した。
 甲申,上幸鄠縣,校獵于甘谷,營太和宮於終南山;丙戌,還宮。
6.甲申、上が鄠県へ御幸した。甘谷で狩猟をし、終南山へ太和宮を造営する。
 丙戌、宮へ帰る。
 西突厥統葉護可汗遣使請婚,上謂裴矩曰:「西突厥道遠,緩急不能相助,今求婚,何如?」對曰:「今北狄方強,爲國家今日計,且當遠交而近攻,臣謂宜許其婚以威頡利;俟數年之後,中國完實,足抗北夷,然後徐思其宜。」上從之。遣高平王道立至其國,統葉護大喜。道立,上之從子也。
7.西突厥の統葉護可汗が使者を派遣して通婚を求めた。
 上は、裴矩へ言った。
「西突厥は、とても遠い。緊急の時に助け合うことはできないが、通婚を求めてきた。どうしようか?」
 対して答えた。
「今、北狄は盛強です。ですから今日、国家の為に計略を立てますと、やはり、遠くと交わり近くを攻めるべきです。臣は、この通婚を許し、頡利への牽制とするべきかと愚考いたします。数年経てば、中国も国力が充実し、北夷へ対抗できるでしょう。そうなってから、徐々に後を考えれば宜しいでしょう。」
 上は、これに従った。
 高平王道立をその国へ派遣した。統葉護は大いに悦ぶ。道立は、上の従子である。
 初,上以天下大定,罷十二軍。既而突厥爲寇不已,辛亥,復置十二軍,以太常卿竇誕等爲將軍,簡練士馬,議大舉撃突厥。
8.上は、天下がほぼ定まったと考え、十二軍を廃止していた。だが、その後突厥の来寇が止まない。
 辛亥、再び十二軍を設置した。太常卿竇誕等を将軍として士馬を訓練させ、大挙して突厥を攻撃することを議した。
 甲寅,涼州胡睦伽陀引突厥襲都督府,入子城;長史劉君傑撃破之。
9.甲寅、涼州胡の睦伽陀が突厥を率いて都督府を襲撃し、子城へ入った。長史の劉君傑がこれを撃破した。
 10六月,甲子,上幸太和宮。
10.六月、甲子、上が太和宮へ御幸した。
 11丙子,遣燕郡王李藝屯華亭縣及彈箏峽,水部郎中姜行本斷石嶺道以備突厥。
  丙戌,頡利可汗寇靈州。丁亥,以右衞大將軍張瑾爲行軍總管以禦之,以中書侍郎温彦博爲長史。先是,上與突厥書用敵國禮,秋,七月,甲辰,上謂侍臣曰:「突厥貪婪無厭,朕將征之,自今勿復爲書,皆用詔敕。」
11.丙子、燕郡王李藝が華亭県へ屯営し、弾箏峡へ及んだ。水部郎中姜行本が石嶺道を断って、突厥へ備える。
 丙戌、頡利可汗が霊州へ来寇した。
 丁亥、右衛大将軍張瑾を行軍総管として、これを防がせる。中書侍郎温彦博を長史とする。
 話は前後するが、上は突厥へ与える書へは敵国としての礼を使っていた。
 秋、七月甲辰、上は侍臣へ言った。
「突厥は貪婪で厭きることがない。朕は、まさに征伐しようと思う。今以後は、書を為さず、詔敕の形を取れ。」
 12丙午,車駕還宮。
12.丙午、車駕が宮へ帰った。
 13己酉,突厥頡利可汗寇相州。
13.己酉、突厥の頡利可汗が相州へ来寇した。
 14睦伽陀攻武興。
14.睦伽陀が武興を攻撃した。
 15丙辰,代州都督藺謩與突厥戰於新城,不利;復命行軍總管張瑾屯石嶺,李高遷趨大谷以禦之。丁巳,命秦王出屯蒲州以備突厥。
  八月,壬戌,突厥踰石嶺,寇并州;癸亥,寇靈州;丁卯,寇潞、沁、韓三州。
15.丙辰、代州都督藺謩が新城で突厥と戦って、戦況不利だった。そこで、行軍総管張瑾を石嶺へ屯営させ、李高遷を大谷へ赴かせて、これを防がせた。
 丁巳、秦王へ蒲州へ屯営して突厥へ備えるよう命じた。
 八月、壬戌、突厥が石嶺を越えて并州へ来寇した。癸亥、霊州へ来寇する。丁卯、潞、沁、韓三州へ来寇する。
 16左武候大將軍安修仁撃睦伽陀於且渠川,破之。
16.左武候大将軍安修仁が、且渠川にて睦伽陀を撃破した。
 17詔安州大都督李靖出潞州道,行軍總客任瓌屯太行,以禦突厥。頡利可汗將兵十餘萬大掠朔州。壬申,并州道行軍總管張瑾與突厥戰于太谷,全軍皆沒,瑾脱身奔李靖。行軍長史温彦博爲虜所執,虜以彦博職在機近,問以國家兵糧虚實,彦博不對,虜遷之陰山。庚辰,突厥寇靈武。甲申,靈州都督任城王道宗撃破之。丙戌,突厥寇綏州。丁亥,頡利可汗遣使請和而退。
  九月,癸巳,突厥沒賀咄設陷并州一縣。丙申,代州都督藺謩撃破之。
17.安州大都督李靖へ潞州道から出陣し、行軍総管任瓌へは太行へ屯営して突厥を防ぐよう詔が降りた。
 頡利可汗は十余萬の兵を率いて朔州で大略奪を行った。
 壬申、并州道行軍総管張瑾が突厥と太谷にて戦い、全滅した。瑾は体一つで李靖の元へ逃げ込んだ。行軍長史温彦博は虜に捕らわれた。虜は、彦博が機密に近い職に就いていたので、唐国家の兵糧の虚実を問うた。彦博が答えなかったので、虜は、これを陰山へ移した。
 庚辰、突厥が霊武へ来寇した。
 甲申、霊州都督任城王道宗が、これを撃破する。
 丙戌、突厥が綏州へ来寇した。
 丁亥、頡利可汗が使者を派遣して、講和を請い、退却した。
 九月、癸巳、突厥の没賀咄設が并州の一県を落とした。丙申、代州都督藺謩が、これを撃破した。
 18癸卯,初令太府檢校諸州權量。
18.癸卯、初めて太府へ諸州の測量器具の軽重大小を調べさせた。
 19丙午,右領軍將軍王君廓破突厥於幽州,俘斬二千餘人。
  突厥寇藺州。
19.丙午、右領軍将軍王君廓が幽州にて突厥を破り、二千余人を捕斬した。
 突厥が、藺州へ来寇する。
 20冬,十月,壬申,吐谷渾寇疊州,遣扶州刺史蒋善合救之。
20.冬、十月、壬申。吐谷渾が畳州へ来寇した。扶州刺史蒋善合が、これを救う。
 21戊寅,突厥寇鄯州,遣霍公柴紹救之。
  十一月,辛卯朔,上幸宜州。
21.戊寅、突厥が鄯州へ来寇した。霍公柴紹を救援に派遣する。
 十一月、辛卯の明け方、上は宜州へ御幸した。
 22權檢校侍中裴矩罷判黄門侍郎。
22.権検校侍中裴矩が、判黄門侍郎を辞めた。
 23戊戌,突厥寇彭州。
23.戊戌、突厥が彭州へ来寇した。
 24庚子,以天策司馬宇文士及權檢校侍中。
24.庚子、天策司馬宇文士及を権検校侍中とする。
 25辛丑,徙蜀王元軌爲呉王,漢王元慶爲陳王。
25.辛丑、蜀王元軌を呉王、漢王元慶を陳王とした。
 26癸卯,加秦王世民中書令,齊王元吉侍中。
26.癸卯、秦王世民へ、中書令を、斉王元吉へ侍中を加える。
 27丙午,吐谷渾寇岷州。
27.丙午、吐谷渾が岷州へ来寇した。
 28戊申,眉州山獠反。
28.戊申、眉州の山獠が造反した。
 29十二月,辛酉,上還至京師。
29.十二月、辛酉、上が京師へ帰った。
 30庚辰,上校獵於鳴犢泉;辛巳,還宮。
30.庚辰、上が鳴犢泉で狩猟をした。辛巳、宮へ帰る。
 31以襄邑王神符檢校揚州大都督。始自丹楊徙州府及居民於江北。
31.襄邑王神符を検校揚州大都督とする。始めて州府及び居民を丹楊から江北へ移す。
武德九年(丙戌,六二六)

 春,正月,己亥,詔太常少卿祖孝孫等更定雅樂。
1.春、正月、己亥、太常少卿祖孝孫等へ雅楽を更定するよう詔が降る。
 甲寅,以左僕射裴寂爲司空,日遣員外郎一人更直其第。
2.甲寅、左僕射裴寂を司空とした。毎日員外郎一人を派遣して、その第を更直させた。
 二月,庚申,以齊王元吉爲司徒。
3.二月、庚申、斉王元吉を司徒とした。
 丙子,初令州縣祀社稷,又令士民里閈相從立社。各申祈報,用洽郷黨之歡。戊寅,上祀社稷。
4.丙子、初めて、州県へ社稷を祀らせた。また、士民へ里門ごとに社を建てるよう命じた。各々祈祷をすると同時に、郷党の寄り合い所としても使用させた。
 戊寅、上が社稷を祀った。
 丁亥,突厥寇原州,遣折威將軍楊毛撃之。
5.丁亥、突厥が原州へ来寇した。折威将軍揚毛を派遣する。
 三月,庚寅,上幸昆明池;壬辰,還宮。
6.三月、庚寅、上が昆明池へ御幸した。壬辰、宮へ帰る。
 癸巳,吐谷渾、党項寇岷州。
7.癸巳、吐谷渾、党項が岷州へ来寇した。
 戊戌,益州道行臺尚書郭行方撃眉州叛獠,破之。
8.戊戌、益州道行台尚書郭行方が眉州の造反した獠を攻撃し、破った。
 壬寅,梁師都寇邊,陷靜難鎮。
9.壬寅、梁師都が辺域へ来寇した。静難鎮を陥す。
 10丙午,上幸周氏陂。
10.丙午、上が周氏陂へ御幸した。
 11辛亥,突厥寇靈州。
11.辛亥、突厥が霊州へ来寇した。
 12乙卯,車駕還宮。
12.乙卯、車駕が宮へ帰った。
 13癸丑,南海公歐陽胤奉使在突厥,帥其徒五十人謀掩襲可汗牙帳;事泄,突厥囚之。
13.癸丑、南海公欧陽胤が勅使として突厥へ居たが、手勢五十人を率いて可汗の牙帳を襲撃しようとした。だが、その計画は事前に洩れて、突厥に捕らえられた。
 14丁巳,突厥寇涼州,都督長樂王幼良撃走之。
14.丁巳、突厥が涼州へ来寇した。都督の長楽王幼良が、これを撃退する。
 15戊午,郭行方撃叛獠於洪、雅二州,大破之,俘男女五千口。
15.戊午、郭行方が洪、雅二州にて、造反した獠を攻撃し、大勝利を収める。男女五千人を捕らえた。
 16夏,四月,丁卯,突厥寇朔州;庚午,寇原州;癸酉,寇涇州。戊寅,安州大都督李靖與突厥頡利可汗戰於靈州之硤石,自旦至申,突厥乃退。
16.夏、四月、丁卯。突厥が朔州へ来寇した。庚午、原州へ来寇した。癸酉、涇州へ来寇した。
 戊寅、安州大都督李靖が、突厥の頡利可汗と、霊州の硤石にて戦った。この戦いは、明け方から夕方まで続き、突厥は退却した。
 17太史令傅奕上疏請除佛法曰:「佛在西域,言妖路遠,漢譯胡書,恣其假託。使不忠不孝削髮而揖君親,游手游食易服以逃租賦。偽啓三塗,謬張六道,恐愒愚夫,詐欺庸品。乃追懺既往之罪,虚規將來之福;布施萬錢,希萬倍之報,持齋一日,冀百日之糧。遂使愚迷,妄求功德,不憚科禁,輕犯憲章;有造爲惡逆,身墜刑網,方乃獄中禮佛,規免其罪。且生死壽夭,由於自然,刑德威福,關之人主,貧富貴賤,功業所招,而愚僧矯詐,皆云由佛。竊人主之權,擅造化之力,其爲害政,良可悲矣!降自羲、農,至於有漢,皆無佛法,君明臣忠,祚長年久。漢明帝始立胡神,西域桑門自傳其法。西晉以上,國有嚴科,不許中國之人輒行髡髪之事。洎於苻、石,羌、胡亂華,主庸臣佞,政虐祚短,梁武、齊襄,足爲明鏡。今天下僧尼,數盈十萬,剪刻繒綵,裝束泥人,競爲厭魅,迷惑萬姓。請令匹配,即成十萬餘戸,産育男女,十年長養,一紀教訓,可以足兵。四海免蠶食之殃,百姓知威福所在,則妖惑之風自革,淳朴之化還興。竊見齊朝章仇子佗表言:『僧尼徒衆,糜損國家,寺塔奢侈,虚費金帛。』爲諸僧附會宰相,對朝讒毀,諸尼依託妃、主,潛行謗讟,子佗竟被囚執,刑於都市。周武平齊,制封其墓。臣雖不敏,竊慕其蹤。」
  上詔百官議其事,唯太僕卿張道源稱奕言合理。蕭瑀曰:「佛,聖人也,而奕非之;非聖人者無法,當治其罪。」奕曰:「人之大倫,莫如君父。佛以世嫡而叛其父,以匹夫而抗天子。蕭瑀不生於空桑,乃遵無父之教。非孝者無親,瑀之謂矣!」瑀不能對,但合手曰:「地獄之設,正爲是人!」
  上亦惡沙門、道士苟避征徭,不守戒律,皆如奕言。又寺觀鄰接廛邸,混雜屠沽。辛巳,下詔命有司沙汰天下僧、尼、道士、女冠,其精勤練行者,遷居大寺觀,給其衣食,毋令闕乏。庸猥粗穢者,悉令罷道,勒還郷里。京師留寺三所,觀二所,諸州各留一所,餘皆罷之。
  傅奕性謹密,既職在占候,杜絶交遊,所奏災異,悉焚其藁,人無知者。
17.太史令傅奕が上疏して、仏法排除を請うた。
「仏は西域にあり、その言葉は妖しく、路は遠うございます。漢代に胡書が翻訳されましたが、今ではそれが都合の良いように解釈されています。彼等は不忠不孝にも髪を剃って君親を見捨て、働きもしないで衣食に満ちて、租税を逃れます。三塗(地獄、餓鬼、畜生)や六道(三途+修羅、人、天)のようなでっち上げを広めて愚夫を恐喝し、凡庸を騙す。過去の罪を妄りに赦し将来の福の空手形を与えるので、民は一万倍の報酬を求めて萬銭の布施を行い、百日の糧食を欲して一日の斎を差し出す。こうして功徳を妄りに約束された愚迷達は、法律を憚らなくなり、憲章を犯すようになるのです。そして遂には悪逆を行い、牢屋へぶち込まれるに至っても、彼等は獄中で仏を礼拝し、罪を免れるよう希うのです。
 それに、生死や長命夭折は自然の力、刑徳威福は人主が与えるもの、そして貧富貴賤は功業が招くものなのに、愚僧達は、事実を歪曲して全て仏の力だと説いています。彼等が人主の権威を盗み、造化の力に仮託することで、政治がどれ程害されましょうか。まことに悲しむべき事です! 
伏羲、神農から漢代へ至るまで、仏法とゆうものはありませんでしたが、主君は賢明で臣下は忠義、王朝は長く栄えました。漢の明帝が始めて胡神を立て、西域の桑門からその法が伝来しました。西晋の頃は国に厳しい法律があり、中国の人が簡単に髪を剃るなど許しませんでした。苻、石、羌、胡が中華を乱す頃は、主君は凡庸で臣下は奸佞。政治は残虐で王朝は短命となったのです。梁の武帝や斉の文襄は、明白な鏡ですぞ。
 今、天下の尼僧は十万を数え、そのような無為徒食の人間の贅沢の為に多くの繪綏が浪費され、萬姓を苦しめております。彼等を還俗させれば十万余戸となります。彼等へ子供を産育させて、十年養った後教えれば、兵とすることができます。そうなれば四海は無駄飯食いの殃がなくなり、百姓は権威を持ち福を与える者が誰か思い知ります。そうすれば妖惑の風潮は自然になくなり、純朴な風俗が戻ってきます。
 北斉の頃、章仇子佗が『僧尼が多くなれば国家は疲弊し、寺塔が奢侈になれば金帛が浪費される。』と言ったところ、諸僧や諸尼が宰相や妃・主へ取り入って誹謗讒言した為、子佗は捕らえられ、都市にて処刑されました。北周の武帝は、斉を平定すると、彼の墓へ封戸を付けてやりました。臣は不敏ではありますが、北周の武帝の業績を慕っているのです。」
 上は、百官を集めて、これについて協議させた。すると、ただ太僕卿の張道源だけが奕の言葉が理に叶っていると称した。対して、蕭瑀が言った。
「仏は聖人です。奕は、これを非難しました。聖人を非難するのは無法者です。その罪を窮治めするべきでございます。」
 奕は言った。
「君父は人の大倫です。それなのに仏は、世嫡のくせに父親に叛して出家し、匹夫のくせに天子へ逆らいます(釈氏の法として、君親へ拝礼しないことを指す)。蕭瑀は木石から生まれたわけでもないのに、父親を無視する教えを尊んでいます。『孝にあらざる者は親無し(非孝者無親。孝経の一節)とは、彼のことです!」
 瑀は言い返すことができず、手を合わせて言った。
「地獄は、こんな奴のために造られたのだ!」
 上は、沙門や道士が戒律も守らないくせに徭役を逃れていることを憎んでいたが、それは奕の言葉通りだった。また、寺観が邸宅に隣接すると、(あたりが汚れきってしまう?)。辛巳、役人達へ詔を下して命じた。
「天下の僧、尼、道士、女冠のうち勤行に励んでいる者は大寺観へ移して衣食を給与して不自由させないように。また、勤行を怠けている者は全て還俗させて郷里へ返還させよ。」
 京師にはただ寺を三ヶ所、観を二ヶ所、諸州には各々一ヶ所だけ留め、残りは全て壊させた。
 傅奕は謹密な性格。占候の職務にあった時から交遊を途絶し、災異を奏上すると、すぐに文書を焼き払ったので、人々は彼の功績を知らなかった。
 18癸未,突厥寇西會州。
18.癸未、突厥が西会州へ来寇した。
 19五月,戊子,虔州胡成郎等殺長史,叛歸梁師都;都督劉旻追斬之。
19.五月、戊子、虔州胡の成郎等が長史を殺し、唐へ造反して梁師都へ帰属した。都督劉旻が追って、これを斬った。
 20壬辰,党項寇廓州。
20.壬辰、党項が廓州へ来寇した。
 21戊戌,突厥寇秦州。
21.戊戌、突厥が秦州へ来寇した。
 22壬寅,越州人盧南反,殺刺史甯道明。
22.壬寅、越州の住民盧南が反し、刺史の甯道明を殺した。
 23丙午,吐谷渾、党項寇河州。
23.丙午、吐谷渾と党項が河州へ来寇した。
 24突厥寇蘭州。
24.突厥が蘭州へ来寇した。
 25丙辰,遣平道將軍柴紹將兵撃胡。
25.丙辰、平道将軍柴紹へ兵を与えて派遣し、胡を撃たせた。
 26六月,丁巳,太白經天。
  秦王世民既與太子建成、齊王元吉有隙,以洛陽形勝之地,恐一朝有變,欲出保之,乃以行臺工部尚書温大雅鎭洛陽,遣秦府車騎將軍滎陽張亮將左右王保等千餘人之洛陽,陰結納山東豪傑以俟變,多出金帛,恣其所用。元吉告亮謀不軌,下吏考驗;亮終無言,乃釋之,使還洛陽。
  建成夜召世民,飲酒而酖之,世民暴心痛,吐血數升,淮安王神通扶之還西宮。上幸西宮,問世民疾,敕建成曰:「秦王素不能飲,自今無得復夜飲。」因謂世民曰:「首建大謀,削平海内,皆汝之功。吾欲立汝爲嗣,汝固辭;且建成年長,爲嗣日久,吾不忍奪也。觀汝兄弟似不相容,同處京邑,必有紛競,當遣汝還行臺,居洛陽,自陝以東皆主之。仍命汝建天子旌旗,如漢梁孝王故事。」世民涕泣,辭以不欲遠離膝下,上曰:「天下一家,東、西兩都,道路甚邇,吾思汝即往,毋煩悲也。」將行,建成、元吉相與謀曰:「秦王若至洛陽,有土地甲兵,不可複制;不如留之長安,則一匹夫耳,取之易矣。」乃密令數人上封事,言「秦王左右聞往洛陽,無不喜躍,觀其志趣,恐不復來。」又遣近幸之臣以利害説上。上意遂移,事復中止。
  建成、元吉與後宮日夜譖訴世民於上,上信之,將罪世民。陳叔達諫曰:「秦王有大功於天下,不可黜也。且性剛烈,若加挫抑,恐不勝憂憤,或有不測之疾,陛下悔之何及!」上乃止。元吉密請殺秦王,上曰:「彼有定天下之功,罪状未著,何以爲辭?」元吉曰:「秦王初平東都,顧望不還,散錢帛以樹私恩,又違敕命,非反而何!但應速殺,何患無辭!」上不應。
  秦府僚屬皆憂懼不知所出。行臺考功郎中房玄齡謂比部郎中長孫無忌曰:「今嫌隙已成,一旦禍機竊發,豈惟府朝塗地,乃實社稷之憂;莫若勸王行周公之事以安家國。存亡之機,間不容髮,正在今日!」無忌曰:「吾懷此久矣,不敢發口;今吾子所言,正合吾心,謹當白之。」乃入言世民。世民召玄齡謀之,玄齡曰:「大王功蓋天地,當承大業;今日憂危,乃天贊也,願大王勿疑。」乃與府屬杜如晦共勸世民誅建成、元吉。
  建成、元吉以秦府多驍將,欲誘之使爲己用,密以金銀器一車贈左二副護軍尉遲敬德,并以書招之曰:「願迂長者之眷,以敦布衣之交。」敬德辭曰:「敬德,蓬戸甕牖之人,遭隋末亂離,久淪逆地,罪不容誅。秦王賜以更生之恩,今又策名藩邸,唯當殺身以爲報;於殿下無功,不敢謬當重賜。若私交殿下,乃是貳心,徇利忘忠,殿下亦何所用!」建成怒,遂與之絶。敬德以告世民,世民曰:「公心如山嶽,雖積金至斗,知公不移。相遺但受,何所嫌也!且得以知其陰計,豈非良策!不然,禍將及公。」既而元吉使壯士夜刺敬德,敬德知之,洞開重門,安臥不動,刺客屢至其庭,終不敢入。元吉乃譖敬德於上,下詔獄訊治,將殺之。世民固請,得免。又譖左一馬軍總管程知節,出爲康州刺史。知節謂世民曰:「大王股肱羽翼盡矣,身何能久!知節以死不去,願早決計。」又以金帛誘右二護軍段志玄,志玄不從。建成謂元吉曰:「秦府智略之士,可憚者獨房玄齡、杜如晦耳。」皆譖之於上而逐之。
  世民腹心唯長孫無忌尚在府中,與其舅雍州治中高士廉、右候車騎將軍三水侯君集及尉遲敬德等,日夜勸世民誅建成、元吉。世民猶豫未決,問於靈州大都督李靖,靖辭;問於行軍總管李世勣,世勣辭;世民由是重二人。
  會突厥郁射設將數萬騎屯河南,入塞,圍烏城,建成薦元吉代世民督諸軍北征;上從之,命元吉督右武衞大將軍李藝、天紀將軍張瑾等救烏城。元吉請尉遲敬德、程知節、段志玄及秦府右三統軍秦叔寶等與之偕行,簡閲秦王帳下精鋭之士以益元吉軍。率更丞王晊密告世民曰:「太子語齊王:『今汝得秦王驍將精兵,擁數萬之衆,吾與秦王餞汝於昆明池,使壯士拉殺之於幕下,奏云暴卒,主上宜無不信。吾當使人進説,令授吾國事。敬德等既入汝手,宜悉坑之,孰敢不服!』」世民以晊言告長孫無忌等,無忌等勸世民先事圖之。世民歎曰:「骨肉相殘,古今大惡。吾誠知禍在朝夕,欲俟其發,然後以義討之,不亦可乎!」敬德曰:「人情誰不愛其死!今衆人以死奉王,乃天授也。禍機垂發,而王猶晏然不以爲憂,大王縱自輕,如宗廟社稷何!大王不用敬德之言,敬德將竄身草澤,不能留居大王左右,交手受戮也!」無忌曰:「不從敬德之言,事今敗矣。敬德等必不爲王有,無忌亦當相隨而去,不能復事大王矣!」世民曰:「吾所言亦未可全棄,公更圖之。」敬德曰:「王今處事有疑,非智也;臨難不決,非勇也。且大王素所畜養勇士八百餘人,在外者今已入宮,擐甲執兵,事勢已成,大王安得已乎!」
  世民訪之府僚,皆曰:「齊王凶戻,終不肯事其兄。比聞護軍薛實嘗謂齊王曰:『大王之名,合之成「唐」字,大王終主唐祀。』齊王喜曰:『但除秦王,取東宮如反掌耳。』彼與太子謀亂未成,已有取太子之心。亂心無厭,何所不爲!若使二人得志,恐天下非復唐有。以大王之賢,取二人如拾地芥耳,奈何徇匹夫之節,忘社稷之計乎!」世民猶未決,衆曰:「大王以舜爲何如人?」曰:「聖人也。」衆曰:「使舜浚井不出,則爲井中之泥,塗廩不下,則爲廩上之灰,安能澤被天下,法施後世乎!是以小杖則受,大杖則走,蓋所存者大故也。」世民命卜之,幕僚張公謹自外來,取龜投地,曰:「卜以決疑;今事在不疑,尚何卜乎!卜而不吉,庸得已乎!」於是定計。
  世民令無忌密召房玄齡等,曰:「敕旨不聽復事王;今若私謁,必坐死,不敢奉教!」世民怒,謂敬德曰:「玄齡、如晦豈叛我邪!」取所佩刀授敬德曰:「公往觀之,若無來心,可斷其首以來。」敬德往,與無忌共諭之曰:「王已決計,公宜速入共謀之。吾屬四人,不可羣行道中。」乃令玄齡、如晦著道士服,與無忌倶入,敬德自他道亦至。
  己未,太白復經天。傅奕密奏:「太白見秦分,秦王當有天下。」上以其状授世民。於是世民密奏建成、元吉淫亂後宮,且曰:「臣於兄弟無絲毫負,今欲殺臣,似爲世充、建德報讎。臣今枉死,永違君親,魂歸地下,實恥見諸賊!」上省之,愕然,報曰:「明當鞫問,汝宜早參。」
  庚申,世民帥長孫無忌等入,伏兵於玄武門。張婕妤竊知世民表意,馳語建成。建成召元吉謀之,元吉曰:「宜勒宮府兵,託疾不朝,以觀形勢。」建成曰:「兵備已嚴,當與弟入參,自問消息。」乃倶入,趣玄武門。上時已召裴寂、蕭瑀、陳叔達等,欲按其事。
  建成、元吉至臨湖殿,覺變,即跋馬東歸宮府。世民從而呼之,元吉張弓射世民,再三不彀,世民射建成,殺之。尉遲敬德將七十騎繼至,左右射元吉墜馬。世民馬逸入林下,爲木枝所絓,墜不能起。元吉遽至,奪弓將扼之,敬德躍馬叱之。元吉歩欲趣武德殿,敬德追射,殺之。翊衞車騎將軍馮翊馮立聞建成死,歎曰:「豈有生受其恩而死逃其難乎!」乃與副護軍薛萬徹、屈咥直府左車騎萬年謝叔方帥東宮、齊府精兵二千馳趣玄武門。張公謹多力,獨閉關以拒之,不得入。雲麾將軍敬君弘掌宿衞兵,屯玄武門,挺身出戰,所親止之曰:「事未可知,且徐觀變,俟兵集,成列而戰,未晩也。」君弘不從,與中郎將呂世衡大呼而進,皆死之。君弘,顯雋之曾孫也。守門兵與萬徹等力戰良久,萬徹鼓噪欲攻秦府,將士大懼;尉遲敬德持建成、元吉首示之,宮府兵遂潰。萬徹與數十騎亡入終南山。馮立既殺敬君弘,謂其徒曰:「亦足以少報太子矣!」遂解兵,逃於野。
  上方泛舟海池,世民使尉遲敬德入宿衞,敬德擐甲持矛,直至上所。上大驚,問曰:「今日亂者誰邪?卿來此何爲?」對曰:「秦王以太子、齊王作亂,舉兵誅之,恐驚動陛下,遣臣宿衞。」上謂裴寂等曰:「不圖今日乃見此事,當如之何?」蕭瑀、陳叔達曰:「建成、元吉本不預義謀,又無功於天下,疾秦王功高望重,共爲姦謀。今秦王已討而誅之,秦王功蓋宇宙,率土歸心,陛下若處以元良,委之國務,無復事矣!」上曰:「善!此吾之夙心也。」時宿衞及秦府兵與二宮左右戰猶未已,敬德請降手敕,令諸軍並受秦王處分,上從之。天策府司馬宇文士及自東上閤門出宣敕,衆然後定。上又使黄門侍郎裴矩至東宮曉諭諸將卒,皆罷散。上乃召世民,撫之曰:「近日以來,幾有投杼之惑。」世民跪而吮上乳,號慟久之。
  建成子安陸王承道、河東王承德、武安王承訓、汝南王承明、鉅鹿王承義,元吉子梁郡王承業、漁陽王承鸞、普安王承獎、江夏王承裕、義陽王承度皆坐誅,仍絶屬籍。
  初,建成許元吉以正位之後,立爲太弟,故元吉爲之盡死。諸將欲盡誅建成、元吉左右百餘人,籍沒其家,尉遲敬德固爭曰:「罪在二凶,既伏其誅;若及支黨,非所以求安也!」乃止。是日,下詔赦天下。凶逆之罪,止於建成、元吉,自餘黨與,一無所問。其僧、尼、道士、女冠並宜依舊。國家庶事,皆取秦王處分。
  辛酉,馮立、謝叔方皆自出;薛萬徹亡匿,世民屢使諭之,乃出。世民曰:「此皆忠於所事,義士也。」釋之。
  癸亥,立世民爲皇太子。又詔:「自今軍國庶事,無大小悉委太子處決,然後聞奏。」
    臣光曰:立嫡以長,禮之正也。然高祖所以有天下,皆太宗之功;隱太子以庸劣居其右,地嫌勢逼,必不相容。曏使高祖有文王之明,隱太子有泰伯之賢,太宗有子臧之節,則亂何自而生矣!既不能然,太宗始欲俟其先發,然後應之,如此,則事非獲已,猶爲愈也。既而爲羣下所迫,遂至蹀血禁門,推刃同氣,貽譏千古,惜哉!夫創業垂統之君,子孫之所儀刑也,彼中、明、肅、代之傳繼,得非有所指擬以爲口實乎!
26.六月、丁巳、金星が上天へ登った。(漢書の天文志によれば、「太白経天」の時には、天下に革命が起こり民の王が変わるとゆう。金星は、西から登れば西に伏し、東から登れば東に伏せり、上天へ登ることはない。昼間には上天に登っているのだろうが、その頃は日の光が強すぎて見えないはずだ。)(訳者、注 金星が上天に輝く筈がない。後世のでっち上げとしか思えない。)
 秦王世民は、既に太子建成や斉王元吉との間に溝ができていた。洛陽は形勝の土地である。そこで世民は、一朝事ある時には都を逃げ出して洛陽を確保しようと考え、行台工部尚書温大雅に洛陽を鎮守させた。そして、秦府車騎将軍滎陽の張亮へ左右の王保等千余人を与えて洛陽へ派遣した。また、山東の豪傑達と密かに手を結び、変事への備えの為に金帛を与えて自由に使わせた。
 元吉は、亮が造反を企んでいると告発して尋問させたが、亮は最期まで言質を取られなかったので、釈放して洛陽へ返した。
 建成は、夜、世民を呼び出して、酒を飲ませて毒殺しようとした。世民は突然心臓が傷み、数升も吐血した。淮安王神通が彼を助けて西宮へ連れ帰った。
 上が西宮へ御幸して世民へ病状を尋ねると、建成へ詔した。
「秦王は、もともと下戸なのだ。これからは、夜に酒を飲ませてはならない。」
 そして、世民へ言った。
「大謀を建てて海内を平定したのは、全て汝の功績だ。だから我は、汝を世継ぎに立てようとしたのだが、汝は固辞した。それに、建成は年長で、太子になって久しい。我は、これを奪うに忍びないのだ。汝等兄弟は、相容れないように見える。このまま京邑に同居していたら、必ず紛争が起こるぞ。だから、汝を行台へ返し、洛陽へ住ませる。陜以東の主人になるが良い。すなわち、汝へ天子の旌旗を立てることを命じる。漢の梁孝王の故事に倣え。」
 世民は、膝元から離れて遠くへ行くのに忍びないと、涙を流して固辞した。
 上は言った。
「天下は一家だ。東西の両都は遠く離れているが、汝へ行って欲しいのだ。煩悲させないでくれ。」
 世民が出発しようとすると、建成と元吉が共に謀って言った。
「もしも秦王が洛陽へ行ったら、土地と武装兵を持つことになる。手が出せなくなるぞ。それよりも、長安へ留めておけば、一匹夫だ。容易く料理できる。」
 そこで、密かに数人へ上封させた。
「秦王の近習達は、洛陽へ行くと聞いて大喜びです。その有様を見ると、派遣したら二度と戻ってこないようで恐ろしゅうございます。」
 また、近幸の臣下へ、上を利害で説得させた。上は遂に心変わりし、世民の洛陽派遣は中止された。
 建成、元吉と後宮の女性達は、上へ日夜、世民を讒訴した。上はこれを信じ込んで、世民を罰しようとした。すると、陳叔達が諫めた。
「秦王は、天下に大功があります。黜ってはなりません。それに、殿下は剛烈な性格。もしも挫抑されたら憂憤に耐えかねて不測の病を発しかねません。陛下、その時悔いても及びませんぞ!」
 上は、中止した。
 元吉は、密かに秦王を殺すよう請うた。すると、上は言った。
「彼には、天下平定の功績がある上に罪状はハッキリしない。どう言い訳するのだ?」
 元吉は応じた。
「秦王が東都を平定した当初、帰ろうともしないで銭帛をばらまき、私恩を植えました。また、敕命に逆らったのですから、造反と言わずしてなんでしょうか!ただ、速やかに殺してください。なんで理由がないことを患いますか!」
 上は応じなかった。
 秦王府の幕僚達は皆、憂懼して為す術も知らなかった。行台考功郎中房玄齢が、比部郎中長孫無忌へ言った。
「今、嫌隙は既にできてしまった。一旦禍が勃発したら、府朝が地にまみれるだけでは済まない。実に、社稷の憂えだ。ここは、王へ周公に倣って国家を安寧にするよう勧めなければならない。(周公は、兄弟の管、蔡を誅殺した。)存亡の機は、正に今日。間髪も入れられないぞ!」
 無忌は言った。
「我も前からそう思っていたが、口にできなかったのだ。今の子の言葉は、まさに我が心。謹んでこれを提言しよう。」
 そして、二人して秦王のもとへ出向いて、語った。
 世民が玄齢を召して謀ると、玄齢は言った。
「大王の功績は天地を覆います。大業を受け継いで当然です。今日の憂危を逃れることは、天も賛助なさいます。大王、疑ってぐずついてはなりません。」
 そして、府属の杜如晦とともに、建成と元吉を誅殺するよう、世民へ勧めた。
 建成と元吉は、秦府に驍将が多いので、これを自分の仲間へ引き入れようと考え、密かに金銀器一車を左二護軍尉遅敬徳へ賜り、併せて書を与えて言った。
「長者よ、我と布衣の交わりを敦くしようではないか。」
 すると、敬徳は辞して言った。
「敬徳は、下賤な生まれ。隋末の乱世の中で、長い間叛逆者に従っておりました。その罪は誅殺されるのが当然なのに、秦王から更生の恩を賜ったばかりか、藩邸にその名を連ねさせていただきました。今はただ、命を捨ててでもこの御恩に報いたいのに、まだ殿下へ対して何の功績も立てていません。それでどうしてこのように厚い賜を頂けましょうか。もしも殿下と私的に交遊すれば、これは二心を持つことになります。利に転んで忠を忘れる人間ならば、どうして殿下のお役に立てましょうか!」
 建成は怒り、遂に彼と途絶した。
 敬徳がこれを世民へ告げると、世民は言った。
「公の心は山岳のようだ。金を山と積んでも動かすことができない。くれるとゆうものを受け取ったとて、何の嫌疑があろうか!それに、奴等の陰謀を知ることまでできるのだから、なんと良策ではないか。賜をつっかえしたりすれば、公の身も危なくなるぞ。」
 案の定、元吉は敬徳へ刺客を放った。敬徳はそれを察知すると、重門を開け放して安伏したまま動かなかった。刺客は屡々庭までやって来たが、遂に入室しなかった。
 元吉は、敬徳を上へ讒言し、尋問に掛けて誅殺しようとしたが、世民が固く請願したので免れることができた。
 元吉は、左一馬軍総管程知節も讒言して、康州刺史として下向させることにした。知節は世民へ言った。
「大王の股肱羽翼が尽きたら、私の身もどうやって守れましょうか!知節は死んでも去りません。どうか早く決起してください。」
 又、建成達は金帛で右二護軍段志玄を誘った。志玄は従わない。そこで建成は、元吉へ言った。
「秦府の知略の士で憚るべき者は房玄齢と杜如晦だけだ。」
 そこで二人を上へ讒言して追い出した。
 世民の府中で腹心といえるのは、長孫無忌と、その舅で雍州治中の高士廉、右候車騎将軍三水の侯君集及び尉遅敬徳達だが、彼等は世民へ建成と元吉を誅殺するよう日夜勧めた。世民はなおも躊躇して決断できず、霊州大都督李靖へ尋ねた。すると李靖は辞退した。そこで李世勣へ尋ねると、彼も辞退した。それで世民は、二人を重んじた。
 そのうち、突厥の郁射設が数万騎を率いて河南へ入寇し、烏城を包囲した。建成は、元吉を世民に代えて諸軍を督させ北征させるよう推薦し、上はこれに従い、右武衛大将軍李藝と天紀将軍張謹を督して烏城を救援するよう、元吉へ命じた。すると元吉は、尉遅敬徳、程知節、段志玄および秦府右三統軍秦叔寶等を従軍させ、秦王の帳を閲覧して精鋭の士を元吉軍へ編入させるよう請うた。
 率更丞王晊が、世民へ密告した。
「太子が斉王へ語りました。『今、汝が秦王の驍将精兵を得、数万の大軍を擁した。我は秦王と共に昆明池にて汝と餞別するが、その時幕下にて壮士に秦王を殺させる。そして秦王が急死したと言い立てれば、主上も信じるしかあるまい。そしたら、我は大勢の人間へ、我が国事に預かれるよう進言させる。敬徳等は既にお前の手の内にいるのだ。全員穴埋めにしても、誰が不服を唱えようか!』」
 世民は、晊の言葉を長孫無忌等へ伝えた。無忌等は先手を打つよう勧めた。世民は嘆いて言った。
「骨肉で殺し合うのは、古今の大悪だ。われは、禍が朝夕にも発するのを知った。そこで、まず奴等へ決起させてから、その後に義を以てこれを討とう。それで良いな!」
 敬徳は言った。
「死を愛する者などいません!今、衆人は王へ死を奉っていますが、これは天が授けるのです。禍は起ころうとしているのに、大王はまだ安閑として憂えられておりません。大王は御自身を軽く見られていますが、それでは社稷はどうなりますか!大王が敬徳の言葉を用いなければ、敬徳は鼠のように草沢へ隠れ、大王の左右へ居ることさえできずにオメオメと殺戮を受けることになってしまいます。」
 無忌が言った。
「敬徳の言葉に従わなければ、事は今敗れます。敬徳等は絶対王のものになりませんし、無忌もまた彼と共に去って行きます。もはや大王へ仕えることもできません!」
 世民は言った。
「我の意見も、全て棄てることはできない。公は、よく考えてくれ。」
 敬徳は言った。
「王の今の処置には疑問があります。智ではありません。艱難に臨んで決断しない。勇がありません。それに、大王が元々養っていた勇士八百余人は、今は全員宮殿に入り、武装しています。決起体制は既に整っているのです。大王、何を躊躇うのですか!」
 世民が府僚を訪れると、皆、言った。
「斉王は凶戻で、結局は弟として仕えることは出来ません。この頃聞いたのですが、護軍の薛実がかつて斉王へ言ったそうです。『大王の名は、合わせると「唐」の字になります。つまり、最後には大王が唐の皇帝になるとゆうことです。』それを聞いて斉王は喜び言いました。『ただ秦王さえ除けば、東宮など掌を返すようなものだ。』彼と太子の乱は未だ成功していないのに、既に太子を殺したつもりなのです。斉王の乱心に厭う物はありません。為さない物などありませんぞ!もしも二人が志を得たら、天下は唐のものではなくなります。賢明な大王ならば、あの二人を始末するなど塵を掃くようなもの。なんで匹夫の節義にひかれて社稷の計を忘れるのですか!」
 世民はなおも決断できなかった。すると、皆は言った。
「大王は、舜をどのような人間だと思し召されますか?」
「聖人だ。」
「舜が掘った井戸から出なかったなら、井戸の中の泥になっただけです。塗った穀物倉から降りなかったら、倉の上で灰になっただけです。天下の主人に選ばれて後世へ法規を残すことが、どうしてできたでしょうか!ですから、舜は、父親の小さい杖は受け、大きな杖からは逃げ出したのです。それは、存するものが大きかったからです。」
 世民は卜を命じた。すると、幕僚の張公謹が外から入って来て、亀甲を地面へ叩きつけて言った。
「卜は、迷っていて決断できない時に行う物です。今の事態に迷う余地はないのに、なんで卜を行うのですか!卜の結果が不吉だったとて、どうして止めることができましょうか!」
 此処に於いて、計は決した。
 世民は、無忌へ、密かに房玄齢等を召し出すよう命じたが、房玄齢等は言った。
「敕旨で、王へ仕えることを禁じられました。今、もしも私的に謁見すれば、その罪は死刑に相当します。このご命令は聞けません。」
 世民は怒り、敬徳へ言った。
「玄齢と如晦が、なんで我へ背くのか!」
 そして佩刀を取ると敬徳へ授け、言った。
「公が行ってみよ。もしも来ようとしなければ、その首を斬って来い。」
 敬徳が行き、無忌と共に彼等を諭して言った。
「王は既に計画を決した。公はすぐに入って共に謀れ。我等四人は一群となって歩いてはいけない。」
 そして、玄齢、如晦へは道士の服を着せて無忌と共に行かせ、敬徳は別の道を通って戻った。
 己未、金星が再び中天へ登った。傅奕が密奏した。
「金星が、秦の領分に見えます。きっと、秦王が天下を取るでしょう。」
 上はその状を秦王へ授けた。ここにおいて秦王は建成と元吉が後宮を乱していることを密奏し、かつ、言った。
「臣は、兄弟へ対して糸一本ほども背いていません。今、臣を殺したければ世充、建徳へ仇を報いたようです。臣が今横死すれば、君臣は永久に行き違ったまんま。魂が冥土へ行った時、諸賊から見られるのが恥ずかしゅうございます!」
 上はこれを読んで愕然とし、言った。
「明日、彼等へ詰問しよう。汝は早く参内しておくが良い。」
 庚申、世民は長孫無忌等を率いて入朝し、玄武門へ兵を伏せた。
 張婕妤は、世民が参内した訳を知ったので、建成へ伝えた。建成は元吉と協議しようと、呼び出した。すると、元吉は言った。
「宮府の兵を動員し、病気と称して参内せず、形勢を観望しましょう。」
 建成は言った。
「兵の備えは、もう厳重だ。弟よ、共に入参して、我等自身で消息を尋ねてみよう。」
 こうして、共に入参し、玄武門へ向かった。
 この頃、上はこの事について協議しようと、裴寂、蕭瑀、陳叔達等を呼び出していた。
 建成と元吉は、臨湖殿まで来て様子がおかしいことに気がつき、東宮府へ向かって馬首を返した。世民が彼等を呼ぶと、元吉は弓で世民を射たが、再三射たのに当たらない。世民は、建成を射て、殺した。尉遅敬徳は七十騎を率いて後に続く。左右が元吉を射て、落馬させた。
 世民の馬は、道をそれて林の中へ入り込んだ。世民は、木の枝にぶつかって落馬し、暫く起きあがれなかった。元吉はそこへ駆けつけて、世民の弓を奪って絞め殺そうとしたが、敬徳が馬を急かせてやってきて、怒鳴りつけた。元吉は武徳殿へ逃げ込もうとしたが、敬徳はこれを追いかけて射殺した。
 翊衛車騎将軍馮翊の馮立は、建成の死を聞いて、嘆いて言った。
「生きているうちにその恩を受けたのに、死ぬ時に難を逃れるな事ど、どうしてできようか!」
 そして副護軍薛萬徹、屈咥直府車騎萬年の謝叔方と共に東宮、斉府の精兵二千を率いて玄武門へ駆けつけた。だが、大力の張公謹が一人で関を閉めてこれを拒んだので、彼等は入れなかった。
 雲麾将軍敬君弘は宿衛兵を掌握して玄武門へ屯営していた。身を挺して戦おうとしたら、親しい仲間がこれを止めた。
「事態は、どう落ち着くか判らない。暫く様子を見よう。兵が集まるのを待ってから列をなして戦ったとて、遅くはないさ。」
 君弘は従わず、中郎将呂世衡と共に大声で怒鳴りながら突撃し、共に戦死した。君弘は、顕雋の曾孫である。
 門を守る兵と萬徹はしばらく力戦していたが、萬徹が軍鼓を鳴らして秦府を攻撃しようとすると、将士は大いに懼れた。そこへ尉遅敬徳等がやってきて建成と元吉の首を示したので、宮府の兵卒は遂に潰れた。
 萬徹は数十騎と共に終南山へ逃げ込んだ。馮立は、既に敬君弘を殺していたので、仲間へ言った。
「太子へ少しは報いられたぞ!」
 そして解散して野へ逃げた。
 上が海池へ舟を浮かべようとしていた時、世民は尉遅敬徳を宿衛へ派遣した。敬徳は、武装し矛を持ったまま、まっすぐ上のもとへやって来た。上は大変驚いて問うた。
「今日、誰が乱を起こしたのだ?卿はなぜここへ来たのか?」
 対して、敬徳は答えた。
「太子と斉王が乱を起こしましたので、秦王が挙兵してこれを誅しました。そして、陛下が驚きではないかと懼れ、臣を宿衛へ派遣したのです。」
 上は、裴寂等へ言った。
「今日、はからずもこんな事になってしまった。どうすれば良かろうか。」
 蕭瑀と陳叔達が言った。
「建成と元吉は、もともと義謀に参与しておりませんし、天下平定の功績などありませんでした。秦王の功績が高く衆望が重いのを気に病んで、共に姦謀を為したのです。今、秦王が自らこれを討って誅しました。秦王の功績は、世界を覆い未来永劫輝きます。民心も全て帰順しているのです。もしも陛下が、秦王を元良(太子のこと)に処して国事を委ねましたら、事は有るべき姿へ戻ります!」
 上は言った。
「善きかな、それこそ我の宿望だった。」
 この時、宿衛及び秦府の兵と二宮の左右は未だ戦いを止めていなかった。敬徳は、手敕を降ろして諸軍を秦王の指揮下へ入れるよう請うた。上は、これに従う。
 天策府司馬宇文士及が東上閤門から出て敕を宣伝したので、衆人の騒動は収まった。
 上は又、黄門侍郎裴矩を東宮へ派遣して、諸将卒を諭し解散させた。
 上は、世民を呼び出して、これを撫でて言った。
「最近では、政権を放り投げたくなった事が、何度もあったのだ。」
 世民は跪き、上の乳を吸って(?)、長い間慟哭した。
 建成の子安陸王承道、河東王承徳、武安王承訓、汝南王承明、鉅鹿王承義、元吉の子梁郡王承業、漁陽王承鸞、普安王承奨、江夏王承裕、義陽王承度らは、皆、誅殺され、帝籍を剥奪された。
 始め、建成は、自分が即位した後には元吉を皇太弟に立てると約束していた。だから元吉は、彼の為に命を尽くしたのだ。
 諸将は、建成と元吉の左右百余人を悉く誅して官籍を剥奪するよう欲したが、尉遅敬徳が固く争った。
「罪は二凶にあり、既に誅殺した。支党まで罰を及ぼすのは、安寧の道ではないぞ!」
 それで中止した。
 この日、詔が降り天下に恩赦が出た。凶逆の罪は建成と元吉のみに止め、その他の余党の罪は一切問わない。その僧、尼、道士、女冠は旧来通りとする。国家の諸々は、皆、秦王が裁断する。
 辛酉、馮立、謝叔方等が自首した。薛萬徹は逃げ隠れていたが、世民が屡々使者を出して諭したら、出頭した。世民は言った。
「これはみな、事に於いて忠。義士である。」
 そして、釈した。
癸亥、世民を皇太子に立てた。又、詔する。
「今より、軍国の庶事は大小と無く太子の裁断を仰ぎ、その後に聞奏せよ。」

  司馬光、曰く。
  年長者を嫡に立てるのは、礼である。ただ、高祖が天下を取れたのは、全て太宗の功績だ。隠太子は庸劣なくせにその右に居る。この二人は地位は嫌疑され権勢は迫られ、あい入れ合えなくなるのは当然である。
  もしも高祖に文王のような明哲さがあり、隠太子に泰伯のような賢明さがあり、太宗に子臧のような節義が有れば、どうして乱が生じただろうか!だが、そうすることができなかった。
  太宗は、初めは敵方に先手を打たせて、その後に応じようとした。このようにすれば、やむを得なかったとも言えるし、弁明の余地もある。だが、群下から迫られて遂に禁門に血を塗り、兄弟へ刃を加え、千年先まで汚点を残した。惜しいかな!
  それ、数百年の命脈を保つ王朝を建国した君主は、子孫から手本とされるのである。唐の中宗、明宗、蕭宗、代宗の帝位継承の有様は、この手本を口実としたのではないか!
 27戊辰,以宇文士及爲太子詹事,長孫無忌、杜如晦爲左庶子,高士廉、房玄齡爲右庶子,尉遲敬德爲左衞率,程知節爲右衞率,虞世南爲中舎人,褚亮爲舎人,姚思廉爲洗馬。悉以齊王國司金帛什器賜敬德。
  初,洗馬魏徴常勸太子建成早除秦王,及建成敗,世民召徴謂曰:「汝何爲離間我兄弟!」衆爲之危懼,徴舉止自若,對曰:「先太子早從徴言,必無今日之禍。」世民素重其才,改容禮之,引爲詹事主簿。亦召王珪、韋挺於雟州,皆以爲諫議大夫。
  世民命縱禁苑鷹犬,罷四方貢獻,聽百官各陳治道,政令簡肅,中外大悅。
  以屈突通爲陝東大行臺左僕射,鎭洛陽。
  益州行臺僕射竇軌與行臺尚書韋雲起、郭行方不協。雲起弟慶儉及宗族多事太子建成,建成死,軌誣雲起與建成同反,收斬之。行方懼,逃奔京師,軌追之,不及。
27.戊辰、宇文士及を太子詹事、長孫無忌、杜如晦を左庶子、高士廉、房玄齢を右庶子、尉遅敬徳を左衛率、程知節を右衛率、虞世南を中舎人、褚亮を舎人、姚思廉を洗馬とした。斉王国司の金帛什器は、全て敬徳へ賜った。
 ところで、洗馬の魏徴は、早く秦王を除くようにと、建成へ常に勧めていた。建成が敗北すると、世民は魏徴を呼びだして言った。
「汝はなぜ、我等兄弟の仲を離間したのか!」
 皆は、魏徴の命を危ぶみ懼れたが、魏徴は自若とした態度で言った。
「あの時太子が徴の言うとおりにしておけば、こんな禍は起こらなかったものを。」
 世民は、元々彼の才覚を重んじていたので、態度を改めて礼節を尽くし、詹事主簿とした。
 また、王珪、韋挺を雟州へ呼び出して、皆、諫議大夫とした。
 世民は、禁苑での狩猟を解禁し、四方からの貢献を中止させた。百官各々の政治のやり方を聞き、政令は簡潔にしたので、中外は大いに悦んだ。
 屈突通を陜東道行台左僕射として洛陽を鎮守させた。
 益州行台僕射竇軌と行台尚書韋雲起、郭行方は、反目し合っていた。ところで、雲起は、弟の慶倹を初め大勢の宗族達が太子の建成に仕えていた。建成が死ぬと、軌は雲起が建成と共に造反する予定だったと誣告し、これを捕らえて斬った。行方は懼れて京師へ逃げた。軌はこれを追いかけたが、逃げられてしまった。
 28吐谷渾寇岷州。
28.吐谷渾が岷州へ来寇した。
 29突厥寇隴州;辛未,寇謂州。遣右衞大將軍柴紹撃之。
29.突厥が隴州へ来寇した。辛未、渭州へ来寇した。右衛大将軍柴紹を派遣して迎撃させた。
 30廢益州大行臺,置大都督府。
30.益州大行台を廃止し、大都督府を設置する。
 31壬申,上以手詔賜裴寂等曰:「朕當加尊號爲太上皇。」
31.壬申、上が手詔を裴寂等へ賜り、言った。
「朕は、尊号を太上皇としようと思う。」
 32辛巳,幽州大都督廬江王瑗反,右領軍將軍王君廓殺之,傳首。
  初,上以瑗懦怯非將帥才,使君廓佐之。君廓故羣盜,勇悍險詐,瑗推心倚仗之,許爲婚姻。太子建成謀害秦王,密與瑗相結。建成死,詔遣通事舎人崔敦禮馳驛召瑗。瑗心不自安,謀於君廓。君廓欲取瑗以爲功,乃説曰:「大王若入,必無全理。今擁兵數萬,奈何受單使之召,自投罔罟乎!」因相與泣。瑗曰:「我今以命託公,舉事決矣。」乃劫敦禮,問以京師機事;敦禮不屈,瑗囚之。發驛徴兵,且召燕州剌史王詵赴薊,與之計事。兵曹參軍王利渉説瑗曰:「王君廓反覆,不可委以機柄,宜早除去,以王詵代之。」瑗不能決。君廓知之,往見詵,詵方沐,握髪而出,君廓手斬之,持其首告衆曰:「李瑗與王詵同反,囚執敕使,擅自徴兵。今詵已誅,獨有李瑗,無能爲也。汝寧隨瑗族滅乎,欲從我以取富貴乎?」衆皆曰:「願從公討賊。」君廓乃帥其麾下千餘人,逾西城而入,瑗不之覺;君廓入獄出敦禮,瑗始知之,遽帥左右數百人被甲而出,遇君廓於門外。君廓謂瑗衆曰:「李瑗爲逆,汝何爲隨之入湯火乎!」衆皆棄兵而潰。唯瑗獨存,罵君廓曰:「小人賣我,行自及矣!」遂執瑗,縊之。壬午,以王君廓爲左領軍大將軍兼幽州都督,以瑗家口賜之。敦禮,仲方之孫也。
32.辛巳、幽州大都督廬江王瑗が造反した。右領軍将軍王君廓がこれを殺し、首を京師へ送った。その経緯は、以下の通り。
 上は、瑗が惰怯で将帥の器ではないと思い、君廓を補佐役として付けてやった。君廓は群盗上がりで、勇敢剽悍だが陰険で策謀が多い人間だった。しかし、瑗は心底彼に頼り切り、通婚までさせた。
 太子の建成が秦王を除こうと陰謀を巡らせた時、密かに瑗とも手を結んだ。建成が死ぬと、通事舎人崔敦礼を派遣して緊急に瑗を呼び出すよう詔が降りた。瑗は不安で堪らず、君廓へ相談した。すると君廓は、瑗を捕らえる功績を得ようと考え、瑗へ説いた。
「大王が入朝されますと、必ず害されます。今、数万の兵を擁しておりますのに、何で使者の呼び出しに応じて自分で網に掛かりますのか!」
 そして、共に泣いた。
 瑗は言った。
「今から、我が命は公へ託す。挙兵を決めたぞ!」
 そして敦礼へ京師の様子を問うた。敦礼は屈しなかったので、援はこれを牢へぶち込んだ。
 駅伝を発して兵を徴集し、燕州刺史王詵を薊へ呼び出して、これと計画を練った。
 兵曹参軍王利渉が瑗へ説いた。
「王君廓は反覆常ない男です。機柄を委ねてはいけません。早く除いて、王詵に代えるべきです。」
 瑗は決断できなかった。
 君廓はこれを知り、詵のもとへ訪れた。詵は沐浴中だったが、髪を絞って出てきた。君廓はこれを斬り、その首を持って衆へ告げた。
「李瑗と王詵が造反したぞ。勅使を捕らえて勝手に徴兵した。今、詵は既に誅した。李瑗ひとりでは何もできぬぞ。お前達は瑗に従って一族皆殺しになりたいか、それとも我に従って富貴を取るか?」
 衆は皆言った。
「公に従って賊を討ちとうございます。」
 君廓はその麾下千余人を率いて西城を越えて入った。瑗はこれに気がつかない。君廓が、牢獄へ入って敦礼を助け出したので、瑗は始めてこれを知り、左右数百人を武装させて出た。君廓とは、門外で遭遇する。君廓は、瑗の兵卒達へ言った。
「李瑗は逆賊となったぞ。汝等は何で彼にしたがって煮えたぎった湯の中へ飛び込むのか!」
 皆は武器を棄てて逃げ、瑗一人だけが残った。瑗は君廓を罵って言った。
「小人、我を売ったな。罪状は、いずれはお前にも及ぶぞ。」
 君廓は瑗を捕らえて、絞め殺した。
 壬午、王君廓を左領軍大将軍兼幽州都督とし、瑗の家口を全て賜下した。
 敦礼は、仲方の孫である。
 33乙酉,罷天策府。
33.乙酉、天策府を廃止した。
 34秋,七月,己丑,柴紹破突厥於秦州,斬特勒一人,士卒首千餘級。
34.秋、七月、己丑、柴紹が秦州にて突厥を破った。特勒一人を斬り、士卒の首千余級を挙げた。
 35以秦府護軍秦叔寶爲左衞大將軍,又以程知節爲右武衞大將軍,尉遲敬德爲右武候大將軍。
35.秦府護軍秦叔宝を左衛大将軍、程知節を右武衛大将軍、尉遅敬徳を右武候大将軍とした。
 36壬辰,以高士廉爲侍中,房玄齡爲中書令,蕭瑀爲左僕射,長孫無忌爲吏部尚書,杜如晦爲兵部尚書。癸巳,以宇文士及爲中書令,封德彝爲右僕射;又以前天策府兵曹參軍杜淹爲御史大夫,中書舎人顏師古、劉林甫爲中書侍郎,左衛副率侯君集爲左衞將軍,左虞候段志玄爲驍衛將軍,副護軍薛萬徹爲右領軍將軍,右内副率張公謹爲右武候將軍,右監門率長孫安業爲右監門將軍,右内副率李客師爲領左右軍將軍。安業,無忌之兄;客師,靖之弟也。
36.壬辰、高士廉を侍中、房玄齢を中書令、蕭瑀を左僕射、長孫無忌を吏部尚書、杜如晦を兵部尚書とした。
 癸巳、宇文士及を中書令、封徳彝を右僕射、以前の天策府兵曹参軍杜淹を御史大夫、中書舎人顔師古、劉林甫を中書侍郎、左衛副率侯君集を左衛将軍、左虞候段志玄を驍衛将軍、副護軍薛萬徹を右領軍将軍、右内副率張公謹を右武候将軍、右監門率長孫安業を右監門将軍、右内副率李客卿を領左右軍将軍とした。
 安業は無忌の兄、客卿は靖の弟である。
 37太子建成、齊王元吉之黨散亡在民間,雖更赦令,猶不自安,徼幸者爭告捕以邀賞。諫議大夫王珪以啓太子。丙子,太子下令:「六月四日已前事連東宮及齊王,十七日前連李瑗者,並不得相告言,違者反坐。」
  丁酉,遣諫議大夫魏徴宣慰山東,聽以便宜從事。徴至磁州,遇州縣錮送前太子千牛李志安、齊王護軍李思行詣京師,徴曰:「吾受命之日,前宮、齊府左右皆赦不問;今復送思行等,則誰不自疑!雖遣使者,人誰信之!吾不可以顧身嫌,不爲國慮。且既蒙國士之遇,敢不以國士報之乎!」遂皆解縱之。太子聞之,甚喜。
  右衞率府鎧曹參軍唐臨出爲萬泉丞,縣有繋囚十許人,會春雨,臨縱之,使歸耕種,皆如期而返。臨,令則之弟子也。
37.太子建成、斉王元吉の党類は民間へ散り去った。赦令は何度も出たが、彼等は不安でならず、また、僥倖を求める者は争って密告して褒賞を求めた。
 諫議大夫王珪が太子を諭したので、丙子、太子は令を下した。
「六月四日以前に東宮や斉王と関係のあった者及び十七日以前に李瑗と関係があった者を告発してはならない。違反した者は罰する。」
 丁酉、諫議大夫魏徴を山東へ派遣して宣慰させ、諸々の意見を聞き取らせた。徴が磁州へ到着すると、州県の役人が、前の太子の千牛の李志安、斉王の護軍の李思行を禁錮して京師へ連行しているのに遭遇した。そこで、徴は言った。
「吾が命令を受けた日、前宮や斉府の左右は全て赦して不問に処すと令が出た。だが、今、思行等が連行されたら、党類は不安になる。しかし、使者を派遣して太子の令を伝えても、誰が信じるだろうか!よし、例え我が身に嫌疑が掛かっても、国慮を放置するわけには行かない。それに、既に国士として遇されたのだ。国士として報いなければならない!」
 遂に、これを皆解き放して逃がしてやった。太子はこれを聞いて、甚だ喜んだ。
 右衛率府鎧曹参軍唐臨は、地方へ出向して万泉丞となった。万泉県では、囚人が十人ばかり牢獄に入れられていた。そんな折、春に雨が降った。臨は、囚人達もこの機会に種まきや耕作をしたいだろうと、彼等を期限付きで釈放してやった。すると、約束の期日に囚人達は皆、牢獄へ戻ってきた。
 臨は、令則の弟の子供である。
 38八月,丙辰,突厥遣使請和。
38.八月、丙辰、突厥が使者を派遣して講和してきた。
 39壬戌,吐谷渾遣使請和。
39.壬戌、吐谷渾が使者を派遣して講和してきた。
 40癸亥,制傳位於太子。太子固辭,不許。甲子,太宗即皇帝位於東宮顯德殿,赦天下;關内及蒲、苪、虞、泰、陝、鼎六州免二年租調,自餘給復一年。
40.癸亥、位を太子へ伝えると制が降りた。太子は固辞したが、許さない。
 甲子、東宮の顕徳殿にて、太宗が皇帝位へ即いた。天下へ恩赦が下り、関内及び蒲、苪、虞、泰、陜、鼎の六州は二年間、その他の州は一年間、租税を免除する。
 41詔以「宮女衆多,幽閟可愍,宜簡出之,各歸親戚,任其適人。」
41.詔が降りた。
「宮女が多すぎるが、彼女達は一生幽閉されるのでは可哀相だ。宮殿から出て親元へ帰りたい者は、自由に出て行って良い。」
 42初,稽胡酋長劉仚成帥衆降梁師都,師都信讒,殺之,由是所部猜懼,多來降者。師都浸衰弱,乃朝于突厥,爲之畫策,勸令入寇。於是頡利、突利二可汗合兵十餘萬騎寇涇州,進至武功,京師戒嚴。
42.初め、稽胡の酋長劉仚成が衆を率いて梁師都へ降伏してきたが、師都は讒言を信じて、これを殺した。この事件によって、師都を疑い懼れた酋長達が大勢唐へ来降した。
 師都は、勢力がますます弱体化したので、突厥へ入朝して画策し、唐への入寇を勧めた。こうして頡利、突利の二可汗が連合して十余万の兵を率いて涇州へ来寇した。彼等は武功まで進軍する。
 京師では、戒厳令が布かれた。
 43丙子,立妃長孫氏爲皇后。后少好讀書,造次必循禮法,上爲秦王,與太子建成、齊王元吉有隙,后奉事高祖,承順妃嬪,彌縫其闕,甚有内助。及正位中宮,務存節儉,服御取給而已。上深重之,嘗與之議賞罰,后辭曰:「『牝雞之晨,唯家之索』,妾婦人,安敢豫聞政事!」固問之,終不對。
43.丙子、妃の長孫氏を皇后に立てた。
 后は幼い頃から読書を好み、行いは必ず礼法を遵守した。上が秦王になり、太子建成や斉王元吉と対立すると、后は高祖へ良く仕え、妃嬪にも恭順で、皆の取り持ち役となり、内助の功がすばらしかった。正式の中宮となっても、節約を第一にして、服などは支給された物だけしか持たなかった。
 上はこれをとても重んじ、彼女と共に賞罰を議しようとしたが、后は辞退して言った。「『雌鶏が時を告げれば、家が惑うだけ。』と言いますわ。妾は婦人です。どうして政治へ口出しできましょうか!」
 固くこれを請うたが、遂に参与しなかった。
 44己卯,突厥進寇高陵。辛巳,涇州道行軍總管尉遲敬德與突厥戰於涇陽,大破之,獲其俟斤阿史德烏沒啜,斬首千餘級。
  癸未,頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虚實。思力盛稱「頡利、突利二可汗將兵百萬,今至矣。」上讓之曰:「吾與汝可汗面結和親,贈遺金帛,前後無算。汝可汗自負盟約,引兵深入,於我無愧!汝雖戎狄,亦有人心,何得全忘大恩,自誇強盛!我今先斬汝矣!」思力懼而請命。蕭瑀、封德彝請禮遣之。上曰:「我今遣還,虜謂我畏之,愈肆憑陵。」乃囚思力於門下省。
  上自出玄武門,與高士廉、房玄齡等六騎徑詣渭水上,與頡利隔水而語,責以負約。突厥大驚,皆下馬羅拜。俄而諸軍繼至,旌甲蔽野,頡利見執失思力不返,而上挺身輕出,軍容甚盛,有懼色。上麾諸軍使卻而布陳,獨留與頡利語。蕭瑀以上輕敵,叩馬固諫,上曰:「吾籌之已熟,非卿所知。突厥所以敢傾國而來,直抵郊甸者,以我國内有難,朕新即位,謂我不能抗禦故也。我若示之心弱,閉門拒守,虜必放兵大掠,不可復制。故朕輕騎獨出,示若輕之;又震曜軍容,使之必戰;出虜不意,使之失圖。虜入我地既深,必有懼心,故與戰則克,與和則固矣。制服突厥,在此一舉,卿第觀之!」是日,頡利來請和,詔許之。上即日還宮。乙酉,又幸城西,斬白馬,與頡利盟于便橋之上。突厥引兵退。
  蕭瑀請於上曰:「突厥未和之時,諸將爭請戰,陛下不許,臣等亦以爲疑,既而虜自退,其策安在?」上曰:「吾觀突厥之衆雖多而不整,君臣之志唯賄是求,當其請和之時,可汗獨在水西,達官皆來謁我,我若醉而縛之,因襲撃其衆,勢如拉朽。又命長孫無忌、李靖伏兵於幽州以待之,虜若奔歸,伏兵邀其前,大軍躡其後,覆之如反掌耳。所以不戰者,吾即位日淺,國家未安,百姓未富,且當靜以撫之。一與虜戰,所損甚多;虜結怨既深,懼而脩備,則吾未可以得志矣。故卷甲韜戈,啗以金帛,彼既得所欲,理當自退,志意驕惰,不復設備,然後養威伺釁,一舉可滅也。將欲取之,必固與之,此之謂矣。卿知之乎?」瑀再拜曰:「非所及也。」
44.己卯、突厥が高陵まで進寇した。
 辛巳、涇陽にて、涇州道行軍総管尉遅敬徳が突厥と戦い、大いに破った。突厥の俟斤の阿史徳烏没啜を捕らえ、千余級の首を斬る。
 癸未、頡利可汗が渭水の便橋の北まで進軍した。そこで腹心の執失思力を唐の朝廷へ派遣し、皇帝へ謁見させて虚実を窺わせた。思力は盛んに言い立てた。
「頡利と突利の二可汗が百万の兵を率いて、今にもやって来ますぞ。」
 すると、上は詰って言った。
「吾と汝の可汗とは和親を結び、贈与した金帛は数えきれぬほどだ。汝の可汗は自ら盟約に背き、兵を率いて深く入った。吾へ対して恥を知らぬのか!汝等は戎狄とは言え、人の心は持っておろう。なんで大恩を全て忘れ、自ら強盛を誇るのか!吾はまず、お前から斬ってやる!」
 思力は懼れ、命乞いをした。蕭瑀と封徳彝は、礼に従って返してやるよう請うたが、上は言った。
「このまま返してやれば、虜は、我が自分達を畏れていると思って、益々つけ上がるぞ。」
 そこで、思力を捕らえて、門下省へ軟禁した。
 上は、高士廉や房玄齢など六騎を従えて玄武門から出て、渭水のほとりへ駆けつけると、川を挟んで頡利と語り、盟約に背いたことを責めた。突厥達は大いに驚き、皆、馬を降りて上を拝礼した。すると、諸軍が続々とやって来て、旌旗が野に満ちた。
 頡利は執失思力が帰ってこないのと、上が自身で駆けつけたことと、敵が大軍なのとを見て、懼れた顔をした。上は諸軍を指揮して布陣させ、自身は一人留まって、頡利と語った。蕭瑀は、上が余り軽々しく敵と対峙するので固く諫めたが、上は言った。
「我には成算がある。卿の知るところではない。突厥が敢えて国を傾けてまで来寇し、まっすぐ都まで進軍したのは、朕が即位したばかりなので、抵抗できないだろうと踏んでのことだ。もしも我が弱味を見せ、城門を閉じて拒守すれば、虜は必ず好き勝手に暴れ回って掠奪の限りを尽くし、制圧することができなくなる。だから朕は軽騎で一人飛び出して軽快さを見せつけ、また、堂々たる大軍を見せて必戦の姿勢を取って虜の意表をつき、奴らのもくろみを潰してやるのだ。虜は、我が領土深く入り込んだのだから、内心必ず懼れている。だから、これと戦えば勝てるし、和平すれば確固たるものとなる。突厥を制服するのはこの一挙にあり。卿は黙ってみておれ!」
 この日、頡利がやって来て和平を請うたので、詔してこれを許した。上は、即日宮殿へ帰った。
 乙酉、また城西へ御幸し、便橋の上にて白馬を斬って頡利と盟約を結んだ。突厥は、兵を退いた。
 蕭瑀が、上へ尋ねた。
「突厥と和平する前、諸将は戦闘を請いましたが、陛下は許しませんでした。臣等は陛下の心が判りませんでしたが、虜は自ら退却しました。いったいどうゆう訳なのでしょうか?」
 上は言った。
「我の観たところ、突厥軍は大軍ではあったが、整然とはしていなかった。君臣の想いは、ただ財貨が欲しかっただけだ。彼等が講和したとき、可汗一人渭水の西へ居り、高官達は皆、我の元へ謁見に来た。もしも我が奴等を酔わせて縛り上げ、これを先途に襲撃したら、枯れ木を引き倒すようなものだ。また、幽州にて長孫無忌と李靖に伏兵を命じて待ち受け、虜が逃げ帰ったところを攻撃させて、大軍が追撃すれば、掌を返すように潰滅できる。それなのに戦わなかったのは、我は即位して未だ日が浅く、国家は安定していないし百姓も未だ富んでいないので、静かに慰撫するべき時だと判断したのだ。一度虜と戦えば、軍費も莫大だ。虜は完敗したら怨みを深く持つだろうし、我等を懼れて軍備も修めるだろう。そうすると、ますます戦争は続く。だから、甲を巻き矛を収め、金帛を与えたのだ。奴等は望みのものさえ手に入れれば自然と退却するのが道理だし、心情は驕慢になり、防備もおろそかになる。その後に満を持して敵の隙を衝けば、一挙に虜を絶滅できる。『これを奪おうと思ったら、まず与えよ。』とは、この事だ。判ったかな?」
 瑀は再拝して言った。
「とても、私の及ぶところではありません。」

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