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翻訳者: 渡邊 省
校訂者:────
資治通鑑巻第一百八十九
 唐紀五
  高祖神堯大聖光孝皇帝中之中
武德四年(辛巳,六二一)

 三月,庚申,以靺鞨渠帥突地稽爲燕州總管。
1.三月、庚申。靺鞨の渠師突地稽を燕州総管とした。
 太子建成獲稽胡千餘人,釋其酋帥數十人,授以官爵,使還,招其餘黨,劉仚成亦降。建成詐稱增置州縣,築城邑,命降胡年二十以上皆集,以兵圍而殺之,死者六千餘人。仚成覺變,亡奔梁師都。
2.太子建成が稽胡千余人を捕らえた。そのうち酋帥数十人を赦し、官爵を授けて帰し、その余党を招聘させた。劉仚成も、降伏した。
 建成は、州県を増置すると偽って、城邑を築いた。そして、降伏した胡のうち二十歳以上の者を全て集め、兵で囲んで皆殺しにした。六千余人が殺される。
 仚成は、変事を察知し、梁師都の元へ亡命した。
 行軍總管劉世讓攻竇建德黄州,拔之。洺州嚴備,世讓不得進。會突厥將入寇,上召世讓還。
  竇建德所署普樂令平恩程名振來降,上遙除名振永寧令,使將兵徇河北。名振夜襲鄴,俘其男女千餘人。去鄴八十里,閲婦人乳有湩者九十餘人,悉縱遣之。鄴人感其仁,爲之飯僧。
3.行軍総管劉世譲が竇建徳の黄州を攻撃して、これを抜いた。だが、洺州は軍備が厳重で、世譲は進軍できなかった。やがて突厥が入寇しようとしたので、上は世譲を呼び戻した。
 竇建徳麾下の普楽令平恩の程名振が来降した。そこで上は、名振を永寧令として、兵を与えて河北を守らせた。
 名振は、鄴へ夜襲を掛けて、男女千余人を捕らえた。鄴を八十里ほど離れたところで、授乳中の婦人九十余人を釈放してやった。鄴の人々は、その仁徳に感じ、彼等へ食糧を贈った。(「僧飯」とありましたが、意味が分からなかった。「贈飯」の誤植だと判断して訳しました。)
 突厥頡利可汗承父兄之資,士馬雄盛,有憑陵中國之志。妻隋義成公主,公主從弟善經,避亂在突厥,與王世充使者王文素共説頡利曰:「昔啓民爲兄弟所逼,脱身奔隋。賴文皇帝之力,有此土宇,子孫享之。今唐天子非文皇帝子孫,可汗宜奉楊政道以伐之,以報文皇帝之德。」頡利然之。上以中國未寧,待突厥甚厚,而頡利求請無厭,言辭驕慢。甲戌,突厥寇汾陰。
4.突厥の頡利可汗は、父兄の勢力を継承し、強大な士馬を領有していたので、それをもとにして中国を侵略しようとの野望を持っていた。その妻は、隋の義成公主で、公主の従弟の善経は戦乱を避けて突厥へ逃げていた。
 善経は、王世充の使者王文素と共に、頡利へ説いた。
「昔、啓民は兄弟から迫られて、体一つで隋へ亡命したのですが、文皇帝の助力でこの土地を領有し、子孫へ伝えることができました。今、唐の天子は文皇帝の子孫ではありません。可汗は楊政道を奉じてこれを討伐し、文皇帝の御恩へ報いられるべきです。」
 頡利は、同意した。
 上は、中国が未だ平定していなかったので、突厥へ対しては厚く遇していたが、頡利の要望は際限が無く、言辞は驕慢だった。
 甲戌、突厥が汾陰へ来寇した。
 唐兵圍洛陽,掘塹築壘而守之。城中乏食,絹一匹直粟三升,布十匹直鹽一升,服飾珍玩,賤如土芥。民食草根木葉皆盡,相與澄取浮泥,投米屑作餅食之,皆病,身腫脚弱,死者相枕倚於道。皇泰主之遷民入宮城也,凡三萬家,至是無三千家。雖貴爲公卿,糠覈不充,尚書郎以下,親自負戴,往往餒死。
  竇建德使其將范願守曹州,悉發孟海公、徐圓朗之衆,西救洛陽。至滑州,王世充行臺僕射韓洪開門納之。己卯,軍于酸棗。
5.唐軍が洛陽を包囲した。塹壕を掘り、塁を築いて厳重に対する。城中では食料が欠乏し、絹一匹で粟三升、布十匹で塩一升にしかならない有様。宝石や服は土芥のように扱われた。民は草の根や木の葉を食べたが、それも食べ尽くした。遂には浮かんだ泥と米屑を混ぜて餅を作ったが、食べた者はみんな病気になった。体は腫れ上がり脚は弱まり、死者は道へ累々と転がった。皇泰主が民を宮城へ入れた時には、凡そ三万家いたが、今では城内には三千家しか残っていない。公卿と雖も食糧に困り、米や麦の糠でさえも満足に食べられなかった。尚書郎以下、(餓死する者さえ現れた?)
 竇建徳は、その将范願に曹州を守らせると、孟海公と徐圓朗の手勢を総動員して洛陽救援に向かわせた。滑州へ至ると、王世充の行台僕射韓洪が城門を開いて迎え入れた。己卯、酸棗に陣を布く。
 壬午,突厥寇石州,刺史王集撃卻之。
6.壬午、突厥が石州へ来寇したが、刺史の王集が撃退した。
 竇建德陷管州,殺刺史郭士安;又陷滎陽、陽翟等縣,水陸並進,汎舟運糧,泝河西上。王世充之弟徐州行臺世辯遣其將郭士衡,將兵數千會之,合十餘萬,號三十萬,軍於成皋之東原,築宮板渚,遣使與王世充相聞。
  先是,建德遺秦王世民書,請退軍潼關,返鄭侵地,復脩前好。世民集將佐議之,皆請避其鋒,郭孝恪曰:「世充窮蹙,垂將面縛,建德遠來助之,此天意欲兩亡之也。宜據武牢之險以拒之,伺間而動,破之必矣。」記室薛收曰:「世充保據東都,府庫充實,所將之兵,皆江、淮精鋭,即日之患,但乏糧食耳。以是之故,爲我所持,求戰不得,守則難久。建德親帥大衆,遠來赴援,亦當極其精鋭。若縱之至此,兩寇合從,轉河北之粟以饋洛陽,則戰爭方始,偃兵無日,混一之期,殊未有涯也。今宜分兵守洛陽,深溝高壘,世充出兵,慎勿與戰,大王親帥驍鋭,先據成皋,厲兵訓士,以待其至,以逸待勞,決可克也。建德既破,世充自下,不過二旬,兩主就縛矣。」世民善之。收,道衡之子也。蕭瑀、屈突通、封德彝皆曰:「吾兵疲老,世充憑守堅城,未易猝拔,建德席勝而來,鋒鋭氣盛;吾腹背受敵,非完策也,不若退保新安,以承其弊。」世民曰:「世充兵摧食盡,上下離心,不煩力攻,可以坐克。建德新破海公,將驕卒惰,吾據武牢,扼其咽喉。彼若冒險爭鋒,吾取之甚易。若狐疑不戰,旬月之間,世充自潰。城破兵強,氣勢自倍,一舉兩克,在此行矣。若不速進,賊入武牢,諸城新附,必不能守;兩賊併力,其勢必強,何弊之承?吾計決矣!」通等又請解圍據險以觀其變,世民不許。中分麾下,使通等副齊王元吉圍守東都,世民將驍勇三千五百人東趣武牢。時正晝出兵,歴北邙,抵河陽,趨鞏而去。王世充登城望見,莫之測也,竟不敢出。
  癸未,世民入武牢;甲申,將驍騎五百,出武牢東二十餘里,覘建德之營。縁道分留從騎,使李世勣、程知節、秦叔寶分將之,伏於道旁,纔餘四騎,與之偕進。世民謂尉遲敬德曰:「吾執弓矢,公執槊相隨,雖百萬衆若我何!」又曰:「賊見我而還,上策也。」去建德營三里所,建德游兵遇之,以爲斥候也。世民大呼曰:「我秦王也。」引弓射之,斃其一將。建德軍中大驚,出五六千騎逐之;從者咸失色,世民曰:「汝弟前行,吾自與敬德爲殿。」於是按轡徐行,追騎將至,則引弓射之,輒斃一人。追者懼而止,止而復來,如是再三,毎來必有斃者,世民前後射殺數人,敬德殺十許人,追者不敢復逼。世民逡巡稍卻以誘之,入於伏内,世勣等奮撃,大破之,斬首三百餘級,獲其驍將殷秋、石瓚以歸。乃爲書報建德,諭以「趙魏之地,久爲我有,爲足下所侵奪。但以淮安見禮,公主得歸,故相與坦懷釋怨。世充頃與足下修好,已嘗反覆,今亡在朝夕,更飾辭相誘,足下乃以三軍之衆,仰哺他人,千金之資,坐供外費,良非上策。今前茅相遇,彼遽崩摧,郊勞未通,能無懷愧!故抑止鋒鋭,冀聞擇善;若不獲命,恐雖悔難追。」
7.竇建徳が管州を陥して刺史の郭士安を殺す。また、滎陽県、陽翟県等を陥し、水陸から並進する。兵糧は舟で運び、河をさかのぼって西進した。
 王世充の弟徐州行台世弁は、その将郭士衡へ数千の兵を与えて派遣し、竇建徳と合流させた。これによって、その兵力は十余万となったが、三十万と号する。成皋の東原へ陣取り、板渚に宮を築き、王世充へ使者を派遣して軍情を伝えた。
 これ以前に、建徳は秦王世民へ書を遣り、占領した鄭の領土を返還して軍を潼関まで撤退し以前の修好を復興するよう請願していた。世民は将佐を集めて軍議を開いた。皆は一旦退くよう請うたが、郭孝恪は言った。
「世充は追い詰められて捕縛寸前だ。そこへ建徳が遠方から救助に駆けつけてきたのは、天が両方とも滅ぼそうとしているのだ。武牢関(唐では虎が諱となっているので、虎牢関のことを武牢関と言った。)の険に據ってこれを拒み、敵の隙を見て動けば、必ず撃破できる。」
 記室の薛収は言った。
「世充は東都に保據しています。府庫には財宝が満ちておりますし、麾下の兵卒達は皆江・淮の精鋭です。今日の奴等の急所は、ただ、糧食が不足していることだけです。ですから、我等が持久戦に出て戦わなければ、奴等は長く持ちません。建徳は、自ら大軍を率いて遠方から駆けつけました。その兵卒も、又選りすぐりの精鋭達です。彼等をここまで来させて、河北の兵糧を洛陽へ運び込ませれば、彼等は勢いを盛り返し、天下平定はいつのことになるか判りません。今は、兵を分けて一隊は洛陽を守り、溝を深く塁を高くし、世充が出兵しても戦わないことです。大王は驍騎を率いてまず成皋へ據ってください。そして兵卒達を鍛錬しながら、敵が来るのを待つのです。逸を以て労を待てば、必ず勝てます。建徳を破ったら、世充は二旬を過ぎないうちに自ら降ります。これで両首を捕縛できますぞ!」
 世民は、これを善しとした。収は、道衡の子息である。
蕭瑀、屈突通、封徳彝は、皆、言った。
「我が軍は疲弊しており、世充は堅城を頼んで守っております。なかなか抜くことはできません。建徳は怒濤の如く迫っており、その意気は盛ん。我等は、腹背に敵を受けるのは得策ではありません。ここは新安まで撤退して奴等が疲れるのを待つべきです。」
 すると、世民は言った。
「世充軍は食糧が尽きて上下が離間している。力攻めをしなくても、座して勝ちを得られる。建徳は、海公を破ったばかり。将は驕り兵卒は疲れている。我等は武牢に據って、その喉元を締め上げてやろう。奴等がもしも険を犯して攻めてきたら、我等は簡単に撃破できる。もし、躊躇して戦わなければ、旬月のうちに世充は自潰してしまう。城を破れば、兵は強くなり、気勢は倍増する。この手ならば、一挙に両勝できる。もしもグズグズして賊軍が武牢へ入ったら、新参の諸城は絶対に守れない。両賊が力を合わせれば、その勢力は強くなるぞ。何で奴等が疲れようか!我が計略は決まった!」
 通等は包囲を解いて険に據り状況の変わるのを観望するよう再び請うたが、世民は許さなかった。麾下を二つに分け、通等を斉王元吉の副官として東都を包囲させ、世民は驍勇三千五百人を率いて武牢へ向かった。正午に出兵して北邙、河陽を経て鞏の彼方へ去る。王世充は、城へ登って望見したが、打つ手が無く、結局出兵しなかった。
 癸未、世民は武牢へ入る。
 甲申、世民は驍騎五百を率いて武牢の東方二十里へ出て、建徳の陣営を窺った。道毎に兵卒を分けて留め、李世勣、程知節、秦叔寶らへそれぞれを指揮して伏兵とさせた。こうして兵卒が減っていったので、最後には、わずか四騎となった。
 世民は尉遅敬徳へ言った。
「我が弓矢を執り、公が槊を執って共に進むのだ。百万の大軍でも何もできんぞ!」
 また、言った。
「賊が我等に会ったなら、逃げ帰るのが上策だ。」
 建徳の陣営から三里ほど離れたところで、建徳の遊兵と遭遇した。彼等が斥候と思ったところ、世民は大呼した。
「われは秦王なり。」
 弓を引いて、これを射ると、一将が射殺された。
 建徳の軍中は大いに驚き、五・六千騎を出して追撃させた。世民の従者は顔色を失った。すると、世民は言った。
「お前達は先へ行け。われと敬徳が殿となろう。」
 そして、轡を押さえて徐行した。追撃者が追いつきそうになると、世民等は弓を引いて射た。すると、たちまち一人が死んだ。追撃者は懼れて止まったが、しばらくすると、また追撃を始めた。こんな事が再三起こったが、彼等が近づくたびに、必ず誰か射殺された。世民は、合計数人射殺し、敬徳は十人ばかり殺した。そこまでくると、追撃者はもう敢えて近づこうとしなくなった。すると世民はゆっくりと歩き廻って、遂に伏兵の圏内まで誘い込んだ。そこで世勣等が襲撃して、敵を大いに破った。三百余の首級を挙げ、驍将の殷秋、石瓚を捕らえて帰った。そして、建徳へ書を出して諭した。
「趙、魏の土地は、長い間我が領有していたのに、足下に侵奪されてしまった。ただ、捕虜とした淮安王を礼遇してくれたし公主も返してくれたので、怨みを解いて修好したのだ。世充はかつて足下と修好したが、後に反覆した。今、世充は滅亡が朝夕に迫っているので、言葉を飾って足下の三軍を誘ったのだ。死にかけた他人の為に千金の費をドブに棄てるのは、上策ではない。今、我等が前哨戦をやっている間にも、彼は崩壊するだろう。近郊での盟約の労が結べなくても、恥じることはない。ここで我等の請願に従って矛を収めるがよい。もし、これに従わなければ、悔いても及ばないことになるぞ。」
 立秦王世民之子泰爲衞王。
8.秦王世民の子の泰を衛王に立てた。
 夏,四月,己丑,豐州總管張長遜入朝。時言事者多云,長遜久居豐州,爲突厥所厚,非國家之利。長遜聞之,請入朝,上許之。會太子建成北伐稽胡,長遜帥所部會之,因入朝,拜右武候將軍。益州行臺左僕射竇軌帥巴、蜀兵來會秦王撃王世充,以長遜檢校益州行臺右僕射。
9.夏、四月。己丑、豊州総管張長遜が入朝した。(張長遜は、隋末に豊州を守り、唐が勃興すると来降した。そして今回入朝した訳である。豊州は長安から二千六百六里離れている。)
 この頃、朝廷の人々は、「長遜は長い間豊州に居り、突厥からも手厚くされているので国家の利にならない」と言い合っていた。長遜は、これを聞いて入朝を請願し、上は許可した。やがて太子の建成が稽胡を北伐すると、長遜は手勢を率いて合流した。その縁で、今回入朝したのだ。長遜は、右武候将軍を拝受した。
 益州行台左僕射竇軌が巴、蜀の兵を率いて秦王へ合流して王世充を攻撃すると、長遜を検校益州行台右僕射とした。
 10己亥,突厥頡利可汗寇雁門,李大恩撃走之。
10.己亥、突厥の頡利可汗が雁門へ来寇したが、李大恩がこれを撃退した。
 11壬寅,王世充騎將楊公卿、單雄信引兵出戰,齊王元吉撃之,不利,行軍總管盧君諤戰死。
11.壬寅、王世充の騎将楊公卿、単雄信が兵を率いて攻めてきた。斉王元吉が迎撃したが、戦況は不利で、行軍総管盧君諤が戦死した。
 12太子還長安。
12.太子が長安へ帰った。
 13王世充平州刺史周仲隱以城來降。
13.王世充の平州刺史周仲隠が城を以て来寇した。
 14戊申,突厥寇并州。初,處羅可汗與劉武周相表裏,寇并州;上遣太常卿鄭元璹往諭以禍福,處羅不從。未幾,處羅遇疾卒,國人疑元璹毒之,留不遣。上又遣漢陽公瓌賂頡利可汗以金帛,頡利慾令瓌拜,瓌不從,亦留之。又留左驍衞大將軍長孫順德。上怒,亦留其使者。瓌,孝恭之弟也。
14.戊申、突厥が并州へ来寇した。
 始め、處羅可汗と劉武周が表裏一体となって并州へ来寇していた。上は、太常卿鄭元璹を派遣して禍福を述べて諭させたが、處羅は聞かなかった。それからすぐに處羅は発病して死んだので、突厥の人々は元璹が毒殺したかと疑い、国内へ抑留した。
 そこで上は、漢陽公瓌を派遣して頡利へ金帛を賄賂として贈った。頡利は、瓌へ拝礼させようとしたが、瓌は従わなかったので、これも抑留した。また、左驍衛大将軍長孫順徳も抑留した。上は怒って、突厥の使者を抑留した。
 瓌は、孝恭の弟である。
 15甲寅,封皇子元方爲周王,元禮爲鄭王,元嘉爲宋王,元則爲荊王,元茂爲越王。
15.甲寅、皇子元方を周王へ、元礼を鄭王へ、元嘉を宋王へ、元則を荊王へ、元茂を越王へ封じる。
 16竇建德迫於武牢不得進,留屯累月,戰數不利,將士思歸。丁巳,秦王世民遣王君廓將輕騎千餘抄其糧運,又破之,獲其大將軍張靑特。
  凌敬言於建德曰:「大王悉兵濟河,攻取懷州、河陽,使重將守之,更鳴鼓建旗,踰太行,入上黨,徇汾、晉,趣蒲津,如此有三利:一則蹈無人之境,取勝可以萬全;二則拓地收衆,形勢益強;三則關中震駭,鄭圍自解。爲今之策,無以易此。」建德將從之,而王世充遣使告急相繼於道,王琬、長孫安世朝夕涕泣,請救洛陽,又陰以金玉啗建德諸將,以撓其謀。諸將皆曰:「凌敬書生,安知戰事,其言豈可用也!」建德乃謝敬曰:「今衆心甚鋭,天贊我也,因之決戰,必將大捷,不得從公言。」敬固爭之,建德怒,令扶出。其妻曹氏謂建德曰:「祭酒之言不可違也。今大王自滏口乘唐國之虚,連營漸進,以取山北,又因突厥西抄關中,唐必還師自救,鄭圍何憂不解!若頓兵於此,老師費財,欲求成功,在於何日?」建德曰:「此非女子所知!吾來救鄭,鄭今倒懸,亡在朝夕,吾乃捨之而去,是畏敵而棄信也,不可。」
  諜者告曰:「建德伺唐軍芻盡,牧馬於河北,將襲武牢。」五月,戊午,秦王世民北濟河,南臨廣武,察敵形勢,因留馬千餘匹,牧於河渚以誘之,夕還武牢。己未,建德果悉衆而至,自板渚出牛口置陳,北距大河,西薄汜水,南屬鵲山,亙二十里,鼓行 而進。諸將皆懼,世民將數騎升高丘以望之,謂諸將曰:「賊起山東,未嘗見大敵,今度險而囂,是無紀律,逼城而陳,有輕我心;我按甲不出,彼勇氣自衰,陳久卒飢,勢將自退,追而撃之,無不克者。與公等約,甫過日中,必破之矣!」建德意輕唐軍,遣 三百騎渉汜水,距唐營一里所止。遣使與世民相聞曰:「請選鋭士數百與之劇。」世民遣王君廓將長槊二百以應之,相與交戰,乍進乍退,兩無勝負,各引還。王琬乘隋煬帝驄馬,鎧仗甚鮮,迥出陳前以誇衆。世民曰:「彼所乘真良馬也!」尉遲敬德請往取之,世民止之曰:「豈可以一馬喪猛士?」敬德不從,與高甑生、梁建方三騎直入其陳,擒琬,引其馬馳歸,衆無敢當者。世民使召河北馬,待其至乃出戰。
  建德列陳,自辰至午,士卒飢倦,皆坐列,又爭飲水,逡巡欲退。世民命宇文士及將三百騎經建德陳西,馳而南上,戒之曰:「賊若不動,爾宜引歸,動則引兵東出。」士及至陳前,陳果動,世民曰:「可撃矣!」時河渚馬亦至,乃命出戰。世民帥輕騎先進,大軍繼之,東渉汜水,直薄其陳。建德羣臣方朝謁,唐騎猝來,朝臣趨就建德,建德召騎兵使拒唐兵,騎兵阻朝臣不得過,建德揮朝臣令卻,進退之間,唐兵已至,建德窘迫,退依東陂。竇抗引兵撃之,戰小不利。世民帥騎赴之,所向皆靡。淮陽王道玄挺身陷陳,直出其後,復突陳而歸,再入再出,飛矢集其身如蝟毛,勇氣不衰,射人,皆應弦而仆。世民給以副馬,使從己。於是諸軍大戰,塵埃漲天。世民帥史大柰、程知節、秦叔寶、宇文歆等卷旆而入,出其陳後,張唐旗幟,建德將士顧見之,大潰;追奔三十里,斬首三千餘級。建德中槊,竄匿於牛口渚。車騎將軍白士讓、楊武威逐之,建德墜馬,士讓援槊欲刺之,建德曰:「勿殺我,我夏王也,能富貴汝。」武威下擒之,載以從馬,來見世民。世民讓之曰:「我自討王世充,何預汝事,而來越境,犯我兵鋒!」建德曰:「今不自來,恐煩遠取。」建德將士皆潰去,所俘獲五萬人,世民卽日散遣之,使還郷里。
  封德彝入賀,世民笑曰:「不用公言,得有今日。智者千慮,不免一失乎!」德彝甚慚。
  建德妻曹氏與左僕射齊善行將數百騎遁歸洺州。
  甲子,世充偃師、鞏縣皆降。
  乙丑,以太子左庶子鄭善果爲山東道撫慰大使。
  世充將王德仁棄故洛陽城而遁,亞將趙季卿以城降。秦王世民囚竇建德、王琬、長孫安世、郭士衡等至洛陽城下,以示世充。世充與建德語而泣,仍遣安世等入城言敗状。世充召諸將議突圍,南走襄陽,諸將皆曰:「吾所恃者夏王,夏王今已爲擒,雖得出,終必無成。」丙寅,世充素服帥其太子、羣臣、二千餘人詣軍門降。世民禮接之,世充俯伏流汗。世民曰:「卿常以童子見處,今見童子,何恭之甚邪?」世充頓首謝罪。於是部分諸軍,先入洛陽,分守市肆,禁止侵掠,無敢犯者。
  丁卯,世民入宮城,命記室房玄齡先入中書、門下省,收隋圖籍制詔,已爲世充所毀,無所獲。命蕭瑀、竇軌等封府庫,收其金帛,頒賜將士。收世充之黨罪尤大者段達、王隆、崔洪丹、薛德音、楊汪、孟孝義、單雄信、楊公卿、郭什柱、郭士衡、董叡、張童兒、王德仁、朱粲、郭善才等十餘人斬於洛水之上。初,李世勣與單雄信友善,誓同生死。及洛陽平,世勣言雄信驍健絶倫,請盡輸己之官爵以贖之,世民不許。世勣固請不能得,涕泣而退。雄信曰:「我固知汝不辧事!」世勣曰:「吾不惜餘生,與兄倶死;但既以此身許國,事無兩遂。且吾死之後,誰復視兄之妻子乎?」乃割股肉以啗雄信,曰:「使此肉隨兄爲土,庶幾猶不負昔誓也!」士民疾朱粲殘忍,競投瓦礫撃其尸,須臾如冢。囚韋節、楊續、長孫安世等十餘人送長安。士民無罪爲世充所囚者,皆釋之,所殺者祭而誄之。
  初,秦王府屬杜如晦叔父淹事王世充。淹素與如晦兄弟不協,譖如晦兄殺之,又囚其弟楚客,餓幾死,楚客終無怨色。及洛陽平,淹當死,楚客涕泣請如晦救之,如晦不從。楚客曰:「曩者叔已殺兄,今兄又殺叔,一門之内,自相殘而盡,豈不痛哉!」欲 自剄,如晦乃爲之請於世民,淹得免死。
  秦王世民坐閶闔門,蘇威請見,稱老病不能拜。世民遣人數之曰:「公隋室宰相,危不能扶,使君弑國亡。見李密、王世充皆拜伏舞蹈。今既老病,無勞相見。」及至長安,又請見,不許。既老且貧,無復官爵,卒於家,年八十二。
  秦王世民觀隋宮殿,歎曰:「逞侈心,窮人欲,無亡得乎!」命撤端門樓,焚乾陽殿,毀則天門及闕;廢諸道場,城中僧尼,留有名德者各三十人,餘皆返初。
16.竇建徳は、武牢へ迫ったが進軍できないままに数カ月経った。戦っても旗色が悪く、将士は帰りたがった。
 丁巳、秦王世民は王君廓へ軽騎千余を与えて敵の輜重隊を攻撃させた。君廓はこれを撃破し、その大将軍張青特を捕らえた。
 凌敬が建徳へ言った。
「私に策があります。大王は全軍を挙げて黄河を渡り、壊州や河陽を攻め取るのです。そして重将へこれを守らせましょう。更に軍鼓を鳴らし旌旗を並べ、太行を越えて上党へ入り、汾・晋から蒲津へ行くのです。このようにすれば、三つの利点があります。一つは、無人の地域を踏破するので必勝間違いありません。二つには、領土は広まり領民は増えるので形勢はますます強くなること。三つには、関中が震駭し、鄭の包囲はおのずと解けてしまうこと。 現状では、これ以外の策はありません。」
 建徳はこれに従おうとしたが、王世充の使者が相継いでやって来る。王琬や長孫安世は朝夕涕泣し、洛陽救援を乞うた。また、建徳の諸将へ密かに金玉を贈り、彼等の意見を一致させた。諸将は、皆、言った。
「凌敬は書生。なんで戦争のことを知っていますか。そんな言葉が、何で役に立ちましょうか!」
 そこで、建徳は凌敬へ謝った。
「今、衆の戦意は高い。天の助けだ。これを資けに戦えば、必ず大勝利だ。公の提言には従えんよ。」
 しかし、敬は固く争ったので、建徳は怒り、つまみ出させた。
 建徳の妻の曹氏が建徳へ言った。
「祭酒の言葉に違えてはなりません(凌敬は、国子祭酒)。今、大王は滏口から唐国の不意に乗じて攻め込み、陣営を連ねて漸進して山北を取るのです。更に突厥を関中へ暴れ込ませれば、唐は必ず都の救援の為に軍を退きます。鄭の包囲は解けないはずがありません!しかし、もしもここに屯営するならば、兵卒は疲れ財産は消耗します。成功を求めても、いつ成就しますか?」
 建徳は言った。
「女子供は口出しするな!我は鄭の救援に来た。鄭は滅亡寸前だ。我がこれを棄てて去れば、これは敵を畏れて信義を棄てたとゆうことだ。そんなことはできぬ。」
 片や唐軍では、間者が秦王世民へ告げた。
「建徳は唐軍を伺っているうちにまぐさが尽きました。河北にて馬を養って武牢を襲撃するもようです。」
 五月、戊午。世民は北進して黄河を渡り、廣武を南から臨んだ。敵の形勢を察すると、馬千余匹を留め、これを河渚にて放牧して敵を誘い、夕方に武牢へ帰った。
 己未、建徳は果たして総出動してきた。板渚から牛口へ出て陣を布く。北は大河を隔て、西は汜水へ迫り、南は鵲山まで連なる。二十里に亘って軍鼓を鳴らして行進した。
 諸将は皆懼れたが、世民は数騎を率いて高みへ登ってこれを望み、諸将へ言った。
「賊は山東で決起してから、今まで大敵と当たらなかった。今回、その行軍はガヤガヤと騒がしい。これは規律がないのだ。城へ迫って陣を布いたのは、我等を軽く見ているのだ。我等が出撃を我慢すれば、奴等の戦意も衰えて行くし、長く陣を布けば兵卒は餓えて退却して行く。そこを追撃すれば、必ず勝てる。公等へ約束するぞ。今日中に必ず撃破するぞ!」
 建徳は、唐軍を軽く見ており、三百騎に汜水を渡らせて、唐の陣営から一里の所で止めさせた。そして、使者を派遣して世民へ伝えた。
「精鋭数百人を選んで決闘しよう。」
 世民は、王君廓へ長槊の名手二百人を与えて応戦させた。両軍は交戦したが、一進一退で勝負がつかずに痛み分けした。
 すると、建徳郡から王琬が飛び出した。隋の煬帝の名馬に乗り、鎧も武器も鮮やかで、陣の前にて威容を誇る。それを見て、世民は言った。
「彼の乗馬は、真の良馬だ!」
 尉遅敬徳が、行って馬を奪ってこようと請うたが、世民は止めた。
「たかが馬の為に猛士を失うなど、とんでもないぞ。」
 だが、敬徳は従わず、高甑生、梁建方の三騎と共に敵陣へ駆けつけ、琬を捕らえ馬を引いて馳せ帰った。敵兵には、相手できる者が居なかった。
 世民は、河北の馬を集めさせた。戦闘が始まるまで、陣で待機させる為だ。
 建徳が陣を布いたのは辰の刻。それが午の刻になると、士卒も飢えと疲れで座り込んだ。また、争って水を飲み、フラフラ歩いて退却したがり始めた。
 世民は、宇文士及へ三百騎を与えて建徳の陣の西側から南へ回り込むよう命じ、戒めて言った。
「賊軍がもしも動かなければ、そのまま引き返せ。もしも動いたら、兵を率いて東へ進め。」
 士及が敵陣の前へ行くと、果たして敵は動いた。
 世民は言った。
「撃て!」
 折しも河渚で放牧していた馬が到着したので、そのまま戦いへ駆り出した。
 世民は軽騎を率いて真っ先に進み、大軍がこれに続いた。東進して汜水を渡り、敵陣を直撃する。
 敵軍の群臣が、建徳へ朝謁していたところへ、唐の騎兵が突撃してきた。特に朝臣等は一気に建徳を急襲する。建徳は、騎兵を召集して唐軍を防がせた。朝臣達は、騎兵に阻まれて前進できない。建徳は、騎兵を指揮してこれを撃退しようとした。だが、揉み合っているうちに唐の本隊が到着した。建徳は切羽詰まり、退いて東陂へ依った。竇抗がこれを攻撃したが、ちょっと押され気味だった。そこへ、世民が騎兵を率いて駆けつける。彼が進むところ、敵は総崩れとなった。
 淮陽王道玄が、身を挺して敵陣を落とした。彼は、敵陣へ何度も突撃しては飛び出し、又突撃した。そのたびに矢が集まって、彼の全身に針鼠のように突き刺さったが、勇気は衰えない。道玄が弓を射ると、その弦音に応じて敵兵が倒れた。世民は、彼へ副馬を与えて自分に従わせた。
 ここにおいて両軍は大いに戦い、塵や埃が天まで舞い上がった。
 世民は史大奈、程知節、秦叔寶、宇文歆等を率い、旗を巻いて敵陣へ突入した。そして敵の陣の後方へ出ると、唐の旌旗をはためかせた。建徳の将士はこれを見て大いに潰れた。唐軍はこれを三十里追撃して、三千余の首級を挙げた。
 建徳は、槊に当たって負傷し牛口渚へ逃げ込んだが、車騎将軍白士譲と楊武威が追撃した。建徳が落馬すると、士譲は槊で刺し殺そうとしたが、建徳は言った。
「我を殺すな。我は夏王だ。お前へ高い地位をやろう。」
 しかし武威は、部下に命じて捕らえさせると、従馬へ載せて世民の元へ連れていった。
 世民は、建徳を詰って言った。
「我が王世充を討伐するのに、汝と何の関わりがある。それなのに、なんで国境を越えて我が軍と戦ったのか!」
 すると建徳は言った。
「今、こちらが来なければ、いずれ遠征を受けることになるからだ。」
 建徳の将士は、全て逃散した。五万人を捕らえたが、世民は即日解放して故郷へ帰らせた。
 封徳彝が祝賀にやってくると、世民は笑って言った。
「公の提言を用いなかったおかげで、この戦果が挙がった。智者でも、千慮に一失は免れないな。」
徳彝はとても恥じ入った。
 建徳の妻曹氏と左僕射斉善行は数百騎を率いて洺州へ逃げ帰った。
 甲子、世充麾下の偃師と鞏県が降伏した。
 乙丑、太子左庶子鄭善果を山東道慰撫大使とした。
 世充の将王徳仁が、もとの洛陽城を棄てて逃げた。すると亜将の趙季卿が、城ごと降伏した。
 秦王世民は捕らえていた竇建徳、王琬、長孫安世、郭士衡等を洛陽城下へ連れ出して、世充へ示した。世充と建徳は語り合って、泣いた。やがて、安世等が城内へ派遣され、敗戦の状況を語った。
 世充は諸将を集めて軍議を開いた。世充は、包囲を突破して襄陽へ逃げるつもりだったが、諸将は皆言った。
「我等が恃みとしていた夏王は、今では捕らえられています。包囲を突破しても、結局我等は滅ぼされます。」
 丙寅、世充は素服を着て太子と群臣二千余人を率いて世民の陣営へ出向き降伏した。世民は礼遇したが、世充は伏し拝んで瀧のように汗を流した。世民は言った。
「卿はいつも我のことを小僧っ子扱いしていた。今、その小僧っ子にあったのに、何でそんなに恭順なのだ?」
 世充は頓首して謝罪した。
 ここにおいて世民は諸軍を編成し、洛陽へ入った。各々の部隊へそれぞれ市肆を警備させ、略奪を禁止した。その禁令を敢えて破る者は居なかった。
 丁卯、世民が宮城へ入った。
 記室の房玄齢へ、先に中書省と門下省へ入って隋の図籍制詔を収容するよう命じたが、それらは既に世充の手によって処分されており、収穫はなかった。 蕭瑀と竇軌へは、府庫を封印してその金帛を没収し、将士へ分け与えるよう命じた。
 世充の麾下で特に罪の大きな段達、王隆、崔洪丹、薛徳音、楊汪、孟孝義、単雄信、楊公卿、郭什柱、郭士衡、董叡、張童児、王徳仁、朱粲、郭善才等十余人を洛水の上で斬った。
 ところで、李世勣はかつて単雄信と仲が善く、生死を共にしようと誓った仲だった。洛陽が平定すると、世勣は雄信が驍勇で健強なことこの上ないと言い、更に自分の全ての官位をなげうってでも、彼の命を救いたいと請願したが、世民は許さなかった。世勣は固く請うたが許されず、泣きながら退出した。
 雄信は言った。
「お前は弁明してくれないと思っていたよ。」
 世勣は言った。
「我は命など惜しくない。兄と一緒に死にたいのだ。だが、我が命は既に御国へ捧げている。友への情誼と二股は掛けられない。それに、我が死んだなら、誰が兄上の妻子の面倒を見るのだ?」
 そして、自分の股の肉を切り裂いて雄信へ食べさせ、言った。
「この肉は、兄上と共に土になる。昔の誓いをいくらかでも履行できただろう。」
 朱粲は残忍で、大勢の士民が苦しめられていた。彼等は朱粲の屍へ競って瓦や礫を投げつけたので、たちまちのうちに塚のようになってしまった。
 韋節、楊続、長孫安世等十余人は捕らえて長安へ送った。世充に罪なく捕らわれていた士民は釈放した。既に殺されていた者は、大夫の格式で葬った。
 話は遡るが、秦王府属の杜如晦の叔父の淹は王世充に仕えていた。淹はもともと如晦兄弟と仲が悪かったので、彼は如晦の兄を讒言して殺した。また、その弟の楚客は捕らえて餓死寸前にまで追いやっていたが、楚客は遂に怨みの色も浮かべなかった。
 洛陽が平定すると、淹は死刑に相当した。楚客は泣いて如晦へ頼み込んだが、如晦は従わなかった。すると、楚客は言った。
「昔は叔父上が兄上を殺し、今は兄上が叔父上を殺す。一族同士が殺し合って全滅してしまうなど、なんと痛ましい事だろうか!」
 そして自刎しようとしたので、如晦は彼の為に世民へ請願し、淹は殺されずに済んだ。
 秦王世民が閶闔門に座していると、蘇威が言ってきた。
「謁見を望んでいるのですが、老いと病で拝礼できないのです。」
 そこで、世民は使者を派遣して言った。
「公は隋室の宰相となりながら、危難を扶けることができず、主君を弑逆させて国を滅ぼさせた。李密や王世充へ対しては伏し拝んで舞踏までした。今既に老病だとゆうのなら、なにも謁見の労を執る必要はない。」
 後、蘇威は長安にて謁見を求めたが、やはり許可されなかった。彼は既に老いており、しかも貧しく、そのうえ官爵を持つこともできないまま、家にて卒した。享年八十二。
 秦王世民は隋の宮殿を見て嘆いた。
「こんな好き勝手に贅沢して人欲を極めた。滅びない筈はない!」
 そして、端門楼を撤去させ、乾陽殿を焼き払わせ、則天門および闕を壊させた。諸々の道場を廃し、城中の僧尼は徳望で有名な三十人づつを留めて、残りは還俗させた。
 17前眞定令周法明,法尚之弟也,隋末結客,襲據黄梅,遣族子孝節攻蘄春,兄子紹則攻安陸,子紹德攻沔陽,皆拔之。庚午,以四郡來降。
17.前の真定令周法明は、法尚の弟である。隋の末に食客等と共に黄梅を襲撃して、占拠した。そして一族の孝節に蘄春を攻撃させ、兄の子の紹則に安陸を攻撃させ、子の紹徳へ沔陽を攻撃させ、皆、占領した。
 庚午、四郡を率いて来降した。
 18壬申,齊善行以洺、相、魏等州來降。時建德餘衆走至洺州,欲立建德養子爲主,徴兵以拒唐;又欲剽掠居民,還向海隅爲盜。善行獨以爲不可,曰:「隋末喪亂,故吾屬相聚草野,苟求生耳。以夏王之英武,平定河朔,士馬精強,一朝爲擒,易如反掌,豈非天命有所屬,非人力所能爭邪!今喪敗如此,守亦無成,逃亦不免;等爲亡國,豈可復遺毒於民!不若委心請命於唐。必欲得繒帛者,當盡散府庫之物,勿復殘民也!」於是運府庫之帛數十萬段,置萬春宮東街,以散將卒,凡三晝夜乃畢。仍布兵守坊巷,得物者即出,無得更入人家。士卒散盡,然後與僕射裴矩、行臺曹旦,帥其百官奉建德妻曹氏及傳國八璽并破宇文化及所得珍寶請降于唐。上以善行爲秦王左二護軍,仍厚賜之。
  初,竇建德之誅宇文化及也,隋南陽公主有子曰禪師,建德虎賁郎將於士澄問之曰:「化及大逆,兄弟之子皆當從坐,若不能捨禪師,當相爲留之。」公主泣曰:「虎賁既隋室貴臣,茲事何須見問!」建德竟殺之。公主尋請爲尼。及建德敗,公主將歸長安,與宇文士及遇於洛陽,士及請與相見,公主不可。士及立於戸外,請復爲夫婦。公主曰:「我與君仇家,今所以不手刃君者,但謀逆之日,察君不預知耳。」訶令速去。士及固請,公主怒曰:「必欲就死,可相見也!」士及知不可屈,乃拜辭而去。
18.壬申、斉善行が洺・相・魏等の州を率いて来降した。
 この頃、建徳の残党達は、「洺州へ逃げ込んで建徳の子息を盟主に立て徴兵して唐を拒ごう」と考えたり、「住民から略奪して海の片隅へ向かい、盗賊となろう」と考えたりしていた。ただ善行だけはこれらを不可として、言った。
「隋末に動乱の時代となった。だから我等は生きて行く為に草野から集まったのだ。夏王の英武のおかげで河朔を平定し、士馬は精強だったのに、それが一朝にして捕虜になってしまった。これは天命の帰属するところが決まったのではないか。いま、敗北してこれだけ喪ってしまった。守っても守りきれない。逃げても逃げ切れまい。どうせ国が滅ぶのならば、何でこれ以上民を傷つけるのか!全てを唐へ委ねて赦しを請うのが一番だ。どうしても財宝が欲しいとゆう者は、府庫の物を持って行ってもよいが、民の物を略奪してはならぬぞ!」
 こうして府庫の帛数十万段を持ち出して萬春宮の東街へ置き、将卒へ配った。すると、およそ三昼夜ですっかり無くなってしまった。彼は兵を路地や巷へ配置して帛を得た者は追いだし、貰えなかった者も民間からの略奪ができないようにした。
 士卒がすっかり散り去ってしまうと、斉善行は僕射裴矩、行台曹旦と共に百官を率いて建徳の妻の妻氏及び伝国八璽及び宇文化及を滅ぼしたときに入手した珍宝などを奉じて唐へ降伏を請うた。
 上は、善行を秦王の左護軍とし、厚く賜下した。
 竇建徳が宇文化及を誅した時、隋の南陽公主(煬帝の娘で、宇文士及の正室)に子供がいた。名前は禅師。建徳の虎賁郎将於士澄が、公主へ問うた。
「化及は大逆です。兄弟の子は皆、連座されます。もしも禅師を棄てられなければ、ここへ留めて行きなさい。」
 公主は泣いて言った。
「虎賁は隋の貴臣ではありませんか。なんでそこまで酷いことを尋ねられるのですか。」
 建徳は、遂に禅師を殺した。そこで公主は尼になりたいと請願した。
 建徳が敗亡するに及んで、公主は長安へ帰ろうとしたが、その途上、洛陽にて宇文士及と遇った。士及は会見を請うたが公主は許さない。士及は戸外に立ち夫婦に復縁しようと請う。すると、公主は言った。
「我家と君家は仇家です。ただ、あの陰謀に君が関与していないことを知っていますから、刃だけは向けないでおいてあげます。さあ、サッサと立ち去りなさい!」
士及が固く請うと、公主は怒って言った。
「顔を見せたら殺すからね。」
 士及はどうしようもできないと知って、辞し去った。
 19乙亥,以周法明爲黄州總管。
19.乙亥、周法明を黄州総管とした。
 20戊寅,王世充徐州行臺杞王世辯以徐、宋等三十八州詣河南道安撫大使任瓌襄請降;世充故地悉平。
20.戊寅、王世充の徐州行台杞王世弁が、徐・宋等三十八州を以て、河南安撫大使任壊へ降伏した。これにて、世充の旧領は全て平定した。
 21竇建德博州刺史馮士羨復推淮安王神通爲慰撫山東使,徇下三十餘州;建德之地悉平。
21.竇建徳の博州刺史馮士羨が、淮安王神通を再び慰撫山東使へ推して、三十余州を巡回させた。これによって建徳の旧領は全て平定された。
 22己卯,代州總管李大恩撃苑君璋,破之。
22.己卯、代州総管李大恩が苑君璋を攻撃して、破った。
 23突厥寇邊,長平靖王叔良督五將撃之,叔良中流矢;師旋,六月,戊子,卒於道。
23.突厥が辺域へ入寇した。長平靖王叔良が五将を指揮して迎撃したが、叔良が流れ矢に当たり、軍は退却した。
 六月、叔良は途上で卒した。
 24戊戌,孟海公餘黨蒋善合以鄆州,孟噉鬼以曹州來降。噉鬼,海公之從兄也。
24.戊戌、孟海公の残党蒋善合が鄆州を以て、孟噉鬼が曹州を以て来降した。噉鬼は、海公の従兄である。
 25庚子,營州人石世則執總管晉文衍,舉州叛,奉靺鞨突地稽爲主。
25.庚子、営州の住民石世則が総管晋文衍を捕らえ、州を挙げて叛いた。靺鞨の突地稽を奉って盟主とした。
 26黄州總管周法明攻蕭銑安州,拔之,獲其總管馬貴遷。
26.黄州総管周法明が蕭銑の安州を攻撃して、抜いた。その総管馬貴遷を捕らえる。
 27乙巳,以右驍衞將軍盛彦師爲宋州總管,安撫河南。
27.乙巳、右驍衛将軍盛彦師を宋州総管として、河南を安撫させた。
 28乙卯,海州賊帥臧君相以五州來降,拜海州總管。
28.乙卯、海州の賊帥臧君相が五州を以て来降し、海州総管を拝受した。
 29秋,七月,庚申,王世充行臺王弘烈、王泰、左僕射豆盧行褒、右僕射蘇世長以襄州來降。上與行褒、世長皆有舊,先是,屢以書招之,行褒輒殺使者;既至長安,上誅行褒而責世長。世長曰:「隋失其鹿,天下共逐之。陛下既得之矣,豈可復忿同獵之徒,問爭肉之罪乎!」上笑而釋之,以爲諫議大夫。嘗從校獵高陵,大獲禽獸,上顧羣臣曰:「今日畋,樂乎?」世長對曰:「陛下游獵,薄廢萬機,不滿十旬,未足爲樂!」上變色,既而笑曰:「狂態復發邪?」對曰:「於臣則狂,於陛下甚忠。」嘗侍宴披香殿,酒酣,謂上曰:「此殿煬帝之所爲邪?」上曰:「卿諫似直而實多詐,豈不知此殿朕所爲,而謂之煬帝乎?」對曰:「臣實不知,但見其華侈如傾宮、鹿臺,非興王之所爲故也。若陛下爲之,誠非所宜。臣昔侍陛下於武功,見所居宅僅庇風雨,當時亦以爲足。今因隋之宮室,已極侈矣,而又增之,將何以矯其失乎?」上深然之。
29.秋、七月。庚申、王世充の行台王弘烈、王泰、左僕射豆盧行褒、右僕射蘇世長が襄州を以て来降した。
 行褒と世長は上の古馴染みだったので、上は屡々書を遣って、彼等を招いていたが、行褒はすぐに使者を殺していた。長安へ着くと、上は行褒を誅殺して世長を責めた。すると世長は言った。
「隋がその鹿を失って、天下が共にこれを逐いました。陛下は既にこれを得ましたが、同じように狩をしていた相手を憎んで、争肉の罪を詰問するとゆう法がございましょうか!」
 上は笑って、これを赦し、諫議大夫とした。
 ある時、世長は高陵にて上の狩猟にお相伴した。その時、獲物が沢山捕れたので、上は群臣を見返って言った。
「今日の狩猟は楽しかったか?」
 すると、世長が言った。
「陛下が狩猟をなさる時は、万機を放り出して十旬はかけます。この程度では、楽しいとは言えません。」
 上は顔色を変えたが、すぐに笑って言った。
「狂態が再発したか?」
 対して答えた。
「私の言葉は、臣下自身にとっては確かに狂ですが、陛下へ対しては甚だ忠実です。」
 またある時、披香殿にて宴会が開かれた。宴たけなわの時、世長は上へ言った。
「この殿は、煬帝が建てたのですか?」
 上は答えた。
「卿の諫言は、直に似てるが、その実は詐が多い。この殿を造ったのが朕であることを知っていて、煬帝と言っているのではないか?」
 対して答えた。
「臣は、本当に知らなかったのです。ただ、傾宮や鹿台のように贅を尽くした造りが、王の為せるわざと思えなかったのです。もしも陛下が造らせたのなら、真実、良くありません。臣は昔、武功にて陛下へ侍っていましたが、その頃の居宅は僅かに雨風を凌げるくらいでした。しかし、それでも充分でした。ですが、今は隋の宮室を元にして、既に充分すぎるほど贅沢なのに、更にこれを増やしています。どうすれば、この過ちを矯正することができましょうか。」
 上は深く同意した。
 30甲子,秦王世民至長安。世民被黄金甲,齊王元吉、李世勣等二十五將從其後,鐵騎萬匹,前後部鼓吹,俘王世充、竇建德及隋乘輿、御物獻于太廟,行飲至之禮以饗之。
30.甲子、秦王世民が長安へ到着した。世民は、黄金の甲を被り、斉王元吉や李世勣など二十五将がその後へ従った。鉄騎一万匹が、勇壮な軍楽の演奏付きで進んだ。捕虜にした王世充、竇建徳及び隋の乗輿、御物を太廟へ献上し、そこで宴会となって節度を保ったまま饗応した。
 31乙丑,高句麗王建武遣使入貢。建武,元之弟也。
31.乙丑、高句麗王建武が使者を派遣して入貢した。建武は、元の弟である。
 32上見王世充而數之,世充曰:「臣罪固當誅,然秦王許臣不死。」丙寅,詔赦世充爲庶人,與兄弟子姪處蜀;斬竇建德於市。
32.上は王世充を見ると、その罪状を数え上げた。すると、王世充は言った。
「臣の罪は、もとより誅殺に値します。しかし、秦王は殺さないと約束してくださったのです。」
 丙寅、王世充を赦して庶民とし、兄弟子姪と共に蜀へ住ませた。
 竇建徳は、市場で斬った。
 33丁卯,以天下略定,大赦百姓,給復一年。陝、鼎、函、虢、虞、芮六州,轉輸勞費,幽州管内,久隔寇戎,並給復二年。律、令、格、式,且用開皇舊制。赦令既下,而王、竇餘黨尚有遠徙者,治書侍御史孫伏伽上言:「兵、食可去,信不可去,陛下已赦而復徙之,是自違本心,使臣民何所憑依。且世充尚蒙寬宥,況於餘黨,所宜縱釋。」上從之。
  王世充以防夫未備,置雍州廨舎。獨孤機之子定州刺史修德帥兄弟至其所,矯稱敕呼鄭王;世充與兄世惲趨出,修德等殺之。詔免修德官。其餘兄弟子姪等,於道亦以謀反誅。
33.丁卯、天下がほぼ定まったので、百姓へ大赦を下し、一年間租税を免除した。陜・鼎・函・虢・虞・芮の六州から(労費を転輸する。?)幽州管内は長い間戎の略奪を受けていたので、租税を二年間免除した。律・令・格・式は、開皇の旧制を使用した。
 赦令が降ったのに、王・竇の残党達はまだ遠流されてる者が居た。そこで、治書侍御史孫伏伽が上言した。
「軍備と食糧は無くしてもなんとかなりますが、信義だけはなくしてはなりません。陛下は既に大赦を下しましたが、流罪にする者もいます。このような言動不一致があれば、臣民は何を頼ればよいのでしょうか。それに、世充へ対しては、あんなに寛大な処置を執りました。それならば、残党達なら尚更です。釈放なさってください。」
 上は、これに従った。
 王世充は、防備が不完全だと思い、雍州へ廨舎を設置した。独孤機の子息定州刺史修徳は、兄弟を率いてここへ来て、敕書と偽って王世充を「鄭王」と呼んだ。世充と兄の世惲が駆け出してきたところを、修徳等は殺した。(独孤機兄弟は王世充に殺されていた。これは、その仇討ちである。)
 詔が降りて、修徳は罷免された。その他の兄弟子姪等は、途上にて造反罪として誅殺した。
 34隋末錢幣濫薄,至裁皮糊紙爲之,民間不勝其弊。至是,初行開元通寶錢,重二銖四參,積十錢重一兩,輕重大小最爲折衷,遠近便之。命給事中歐陽詢撰其文并書,迴環可讀。
34.隋末には粗悪な銭が横行し、遂には皮を切って紙を貼り付けて貨幣の代用にしたものまで現れる始末。人々は、その弊害に耐えきれなかった。ここにいたって、開元通宝が、始めて造られた。その重さは二銖四参、軽重大小を平均して、十銭を積んだ重さを一両とした。遠近はこれを利便とする。給事中欧陽詢へ、文や書を選ばせ、貨幣の周りへ刻ませた。
 35以屈突通爲陝東道大行臺右僕射,鎮洛陽;以淮陽王道玄爲洛州總管,李世勣父蓋竟無恙而還,詔復其官爵。竇軌還益州。軌將兵征討,或經旬月不解甲。性嚴酷,將佐有犯,無貴賤立斬之,鞭撻吏民,常流血滿庭,所部重足屏息。
35.屈突通を陜東道大行台右僕射として、洛陽を鎮守させる。
 淮陽王道玄を洛州総管とした。
 李世勣の父の蓋は、無事に帰ってきたので、その官爵を復帰した。
 竇軌は益州へ帰した。軌は、兵を率いて出征してから、あるいは一ヶ月も鎧を解かずにいたこともあった。その性格は厳格酷薄で、軍律を犯した将佐は貴賤に関わらずたちどころに斬った。たやすく吏民を鞭打つので、庭はいつも流血で満ちていた。だから、彼の部下は皆、息をひそめ、脚をそばだてていた。
 36癸酉,置錢監於洛、并、幽、益等諸州,秦王世民、齊王元吉賜三鑪,裴寂賜一鑪,聽鑄錢。自餘敢盜鑄者,身死,家口配沒。
36.癸酉、洛・并・幽・益等の諸州へ銭監を設置した。秦王世民と斉王元吉には鋳造所を三つ、裴寂には一つ賜下し、銭を鋳造させた。その他の者へは銭の鋳造を許さず、偽造する者は、本人は死刑、家族は全て官へ没収とした。
 37河北既平,上以陳君賓爲洺州刺史。將軍秦武通等將兵屯洺州,欲使分鎮東方諸州;又以鄭善果等爲慰撫大使,就洺州選補山東州縣官。
  竇建德之敗也,其諸將多盜匿庫物,及居閭里,暴橫爲民患,唐官吏以法繩之,或加捶撻,建德故將皆驚懼不安。高雅賢、王小胡家在洺州,欲竊其家以逃,官吏捕之,雅賢等亡命至貝州。會上徴建德故將范願、董康買、曹湛及雅賢等,於是願等相謂曰:「王世充以洛陽降唐,其將相大臣段達、單雄信等皆夷滅;吾屬至長安,必不免矣。吾屬自十年以來,身經百戰,當死久矣,今何惜餘生,不以之立事。且夏王得淮安王,遇以客禮,唐得夏王即殺之。吾屬皆爲夏王所厚,今不爲之報仇,將無以見天下之士!」乃謀作亂,卜之,以劉氏爲主吉,因相與之漳南,見建德故將劉雅,以其謀告之。雅曰:「天下適安定,吾將老於耕桑,不願復起兵!」衆怒,且恐泄其謀,遂殺之。故漢東公劉黑闥,時屏居漳南,諸將往詣之,告以其謀,黑闥欣然從之。黑闥方種蔬,即殺耕牛,與之共飲食定計,聚衆得百人。甲戌,襲漳南縣據之。是時,諸道有事則置行臺尚書省,無事則罷之。朝廷聞黑闥作亂,乃置山東道行臺於洺州,魏、冀、定、滄並置總管府。丁丑,以淮安王神通爲山東道行臺右僕射。
37.河北が既に平定し、上は陳君賓を洺州刺史とした。将軍秦武通等へ兵を与えて洺州へ駐屯させ、東方の諸州を鎮守させた。また、鄭善果等を慰撫大使として、洺州へ行かせて、山東の州県の官吏を選ばせた。
 竇建徳が敗北すると、その諸将の多くは、官庫のものを盗んだり、里へ住んで無法者となって民を苦しめたりした。唐の官吏は法律を適用して彼等を罰したので、建徳の故将達は皆、驚愕して不安になった。
 高雅賢と王小胡の家は洺州にあった。家ごと逃げようとしたが官吏に捕まり、雅賢等は亡命して貝州へ逃げ込んだ。ここにおいて、建徳の故将の范願、董康買、曹湛及び雅賢等が集まって相談した。
「王世充は洛陽を以て唐へ降伏したが、その将相大臣の段達・単雄信等は皆、殺されてしまった。我等が長安へ自首しても、必ず殺される。我等は、この十年来、百戦を経て何度も死線を潜ってきた。今更余生を惜しんで事を立てないで済ますのか。それに、夏王が淮安王を捕まえた時には客分として礼遇したのに、唐は夏王を捕まえると殺してしまった。我等は皆、夏王から手厚く遇されていた。今、仇へ報いなければ、天下の士へ顔向けできぬわ!」
 こうして造反を計画し、占ってみると、劉氏を盟主とすれば吉と出た。そこで、みなで漳南へ行き、建徳の故将劉雅を見つけると、陰謀を告げた。すると、劉雅は言った。
「天下はようやく安定したのだ。我は年老いるまで農耕をするつもりだ。もう起兵などまっぴらだ!」
 皆は怒り、また、計画の漏洩も懼れて、遂に劉雅を殺した。
 ところで、故の漢東公劉黒闥も、漳南へ住んでいたので、諸将は彼の元へ行って、陰謀を告げた。黒闥は、大喜びでこれに従った。この時、時期的に種まきの直前だったが、黒闥は耕牛を殺してみなと共に飲食して計画を定め、百人の人間をかき集めた。
 甲戌、漳南県を襲撃して、これを占拠した。
 この頃、平穏が続いていたので、諸道に設置していた行台尚書省は廃止されていた。朝廷は、黒闥の乱を聞くと、洺州へ山東道行台を設置し、魏・冀・定・滄へ総管府を設置した。丁丑、淮安王神通を山東道行台右僕射とする。
 38辛巳,褒州道安撫使郭行方攻蕭銑鄀州,拔之。
38.辛巳、褒州道安撫使郭行方が蕭銑の鄀州を攻撃して、これを抜いた。
 39孟海公與竇建德同伏誅,戴州刺史孟噉鬼不自安,挾海公之子義以曹、戴二州反,以禹城令蒋善合爲腹心;善合與其左右同謀斬之。
39.孟海公と竇建徳は共に誅殺されたので、戴州刺史孟噉鬼は不安になり、海公の子息の義を推戴して曹・戴の二州を以て造反した。禹城令蒋善合を腹心としたが、善合は、その近習と示し合わせて、孟噉鬼を斬った。
 40八月,丙戌朔,日有食之。
40.八月、丙戌の朔、日食があった。
 41丁亥,命太子安撫北邊。
41.丁亥、太子へ北辺を安撫するよう命じた。
 42丁酉,劉黑闥陷鄃縣,魏州刺史權威、貝州刺史戴元祥與戰,皆敗死,黑闥悉收其餘衆及器械。竇建德舊黨稍稍出歸之,衆至二千人,爲壇於漳南,祭建德,告以舉兵之意,自稱大將軍。詔發關中歩騎三千,使將軍秦武通、定州總管藍田李玄通撃之;又詔幽州總管李藝引兵會撃黑闥。
42.丁酉、劉黒闥が鄃県を落とした。魏州刺史権威、貝州刺史戴元祥が戦ったが、どちらも敗死した。劉黒闥は、彼等の部下や器械を全て奪った。竇建徳の旧党達も次第に帰順して来て、兵力は二千になった。そこで劉黒闥は漳南に祭壇を造って建徳を祭り、挙兵の意を告げて、大将軍と自称した。
 関中の歩騎三千を徴発するよう詔がおり、将軍秦武通と定州総管の藍田の李玄通へ攻撃させた。また、幽州総管李藝にも兵を率いて劉黒闥を攻撃するよう詔が降りた。
 43癸卯,突厥寇代州,總管李大恩遣行軍總管王孝基拒之,舉軍皆沒。甲辰,進圍崞縣。乙巳,王孝基自突厥逃歸,李大恩衆少,據城自守,突厥不敢逼,月餘引去。
43.癸卯、突厥が代州へ来寇した。総管李大恩は、行軍総管王孝基を派遣して拒戦させたが、全滅してしまった。突厥達は、進軍して崞県を包囲した。
 乙巳、王孝基は突厥から逃げ帰った。李大恩は、兵力が少なかったので、籠城した。突厥は敢えて迫らず、一ヶ月余りで退却した。
 44上以南方寇盜尚多,丙午,以左武候將軍張鎮周爲淮南道行軍總管,大將軍陳智略爲嶺南道行軍總管,鎮撫之。
44.丙午、上は、南方に寇盗がまだ多いと考え、左武候将軍張鎮周を淮南道行軍総管とし、大将軍陳智略を嶺南道行軍総管として、これを鎮撫させた。
 45丁未,劉黑闥陷歴亭,執屯衞將軍王行敏,使之拜,不可,遂殺之。
45.丁未、劉黒闥は歴亭を落とした。屯衛将軍王行敏を捕らえた。これを跪かせようとしたが、できなかったので、遂に殺した。
 46初,洛陽既平,徐圓朗請降,拜兗州總管,封魯郡公。劉黑闥作亂,陰與圓朗通謀。上使葛公盛彦師安集河南,行至任城;辛亥,圓朗執彦師,舉兵反。黑闥以圓朗爲大行臺元帥,兗、鄆、陳、杞、伊、洛、曹、戴等八州豪右皆應之。圓朗厚禮彦師,使作書與其弟,令舉虞城降。彦師爲書曰:「吾奉使無状,爲賊所擒,爲臣不忠,誓之以死;汝善侍老母,勿以吾爲念。」圓朗初色動,而彦師自若。圓朗乃笑曰:「盛將軍有壯節,不可殺也。」待之如舊。
  河南道安撫大使任瓌行至宋州,屬圓朗反,副使柳濬勸瓌退保汴州,瓌笑曰:「柳公何怯也!」圓朗又攻陷楚丘,引兵將圍虞城,瓌遣部將崔樞、張公謹自鄢陵帥諸豪右質子百餘人守虞城。濬曰:「樞與公謹皆王世充將,諸州質子父兄皆反,恐必爲變。」瓌不應。樞至虞城,分質子使與土人合隊共守城。賊稍近,質子有叛者,樞斬其隊帥。於是諸隊帥皆懼,各殺其質子,樞不禁,梟其首於門外,遣使白瓌。瓌陽怒曰:「吾所以使與質子倶者,欲招其父兄耳,何罪而殺之!」退謂濬曰:「吾固知崔樞能辧此也。縣人既殺質子,與賊深仇,吾何患乎!」賊攻虞城,果不克而去。
46.洛陽が平定した時、徐圓朗も降伏を請うた。これは受諾され、彼は兗州総管を拝受し、魯郡公に封じられた。
 劉黒闥は造反すると、ひそかに圓朗とも手を結んだ。
 上は、葛公盛彦師へ河南の安集を命じた。辛亥、圓朗は任城にて彦師を捕らえ、挙兵した。劉黒闥は圓朗を大行台元帥と為した。すると、兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴等八州の豪傑達がみな、これに応じた。
 圓朗は、彦師を厚く遇した。彼の弟へ降伏勧告の書を書かせて、虞城を降伏させる為だ。だが、彦師は書へ書いた。
「我は君命を果たせずに賊徒の擒となった。なんとも不忠の臣下だ。もはや命を捨てると覚悟を決めた。汝は老母を大切にして、我のことを念頭に置くな。」
 圓朗は怒りを顕わにしたが、彦師は自若としていた。すると、圓朗は大笑いして言った。
「盛将軍は壮節をお持ちだ。殺してはならない。」
 そして、以前同様礼遇を続けた。
 河南道安撫大使任壊は、宋州にて圓朗の造反に遭遇した。副使の柳濬は、退却して汴州を確保するよう勧めたが、壊は笑って言った。
「柳公は臆病だなあ。」
 圓朗は、更に楚丘を陥し、兵を率いて虞城を包囲しようとしていた。鄢陵には諸豪族から差し出された人質の子弟達が大勢いたので、壊は部将の崔枢と張公謹を派遣し、質子百余人を率いて虞城を守らせた。すると、濬は言った。
「枢と公謹は、共に王世充麾下の将軍でしたし、諸州の質子の父兄達は造反に加担しています。きっと、彼等は寝返りますぞ。」
 しかし、壊は応じなかった。
 枢は、虞城へ到着すると、質子を何隊かに分けて、土地の人間達との混成部隊を編成し、共に城を守らせた。賊がやや近づいてくると、質子の中には寝返る者も出たが、その時には枢は即座にその部隊の隊長を斬った。おかげで諸隊長は震え上がり、各々自分の隊の質子達を殺した。枢は、それを禁じなかった。そして斬った質子の首は、門外に梟首した。また、壊の元へは使者を派遣して、ありのままを告げた。すると、壊は、上辺は怒って言った。
「我が質子を連れて行かせたのは、彼等の父兄を招く為だ。それなのに、何の罪で彼等を殺したのか!」
 そして、退出して濬へ言った。
「崔枢ならば、これくらいやってのけると思っていた。県人達の手で質子を殺したのだから、賊徒達とは深い仇敵になった。もう心配はいらないぞ!」
 賊は虞城を攻撃したが、果たして勝てずに帰った。
 47初,竇建德以鄱陽崔元遜爲深州刺史,及劉黑闥反,元遜與其黨數十人謀於野,伏甲士於車中,以禾覆其上,直入聽事,自禾中呼噪而出,執刺史裴晞殺之,傳首黑闥。
47.鄱陽の崔玄遜は、竇建徳時代の深州刺史だった。劉黒闥が造反するに及んで、玄遜はその党数十人と野にて謀略を巡らせた。
 彼等は車の中へ武装兵を伏せ、枯れ草等で上を覆って、刺史へ訴え事をしに行った。役所の直前で、兵卒が雄叫びを挙げながら枯れ草の中から飛び出して、刺史の裴晞を捕らえ殺した。その首は、黒闥のもとへ運んだ。
 48九月,乙卯,文登賊帥淳于難請降;置登州,以難爲刺史。
48.九月、乙卯。文登の賊帥淳于難が降伏を請うた。そこで、登州を設置し、難を刺史にした。
 49突厥寇并州;遣左屯衞大將軍竇琮等撃之。戊午,突厥寇原州;遣行軍總管尉遲敬德等撃之。
49.突厥が、并州へ来寇した。そこで左屯衛大将軍竇琮等へ迎撃させた。
 戊午、突厥は原州へ来寇した。行軍総管尉遅敬徳を派遣して、撃退させた。
 50辛酉,徐圓朗自稱魯王。
50.辛酉、徐圓朗は、魯王を自称した。
 51隋末,歙州賊汪華據黟、歙等五州,有衆一萬,自稱呉王。甲子,遣使來降;拜歙州總管。
51.隋末、歙州の賊汪華は、黟、歙等五州を占拠し、一万人を集め、呉王と自称していた。
甲子、使者を派遣して来降してきた。歙州総管を拝受する。
 52隋末,弋陽盧祖尚糾合壯士以衞郷里,部分嚴整,羣盜畏之。及煬帝遇弑,郷人奉之爲光州刺史;時年十九,奉表於皇泰主。及王世充自立,祖尚來降;丙子,以祖尚爲光州總管。
52.隋末、弋陽の盧租尚は壮士を糾合して郷里を守っていた。その部隊は厳格に整い、群盗はこれを畏れていた。
 煬帝が弑逆されると、郷人は、彼を推戴して光州刺史とした。時に、盧租尚は十九才。彼は、皇泰主へ表を奉った。
 王世充が自立すると、租尚は唐へ来降した。
 丙子、租尚を光州総管とした。
 53己卯,詔括天下戸口。
53.己卯、天下の戸口を括ると詔した。
 54徐圓朗寇濟州,治中呉伋論撃走之。
54.徐圓朗が済州へ来寇した。治中の呉伋論が、これを撃退した。
 55癸未,詔以太常樂工皆前代因罪配沒,子孫相承,多歴年所,良可哀愍;宜並蠲除爲民,且令執事,若仕宦入流,勿更追集。
55.太常楽工とは、前代に罪を犯した者が官奴となって、子孫もその身分を継承させられた者達である(いわゆる「楽戸」)。癸未、詔が降りた。太常楽工は長い年月に亘って子孫まで苦しめられ、憐れむべき事である。彼等全てを良民とする。ただし、もしも内宮を志願する者が居れば、そのまま留める。と。
 56甲申,靈州總管楊師道撃突厥,破之。師道,恭仁之弟也。
56.甲申、霊州総管楊師道が突厥を攻撃して、これを破った。師道は、恭仁の弟である。
 57詔發巴、蜀兵,以趙郡王孝恭爲荊湘道行軍總管,李靖攝行軍長史,統十二總管,自夔州順流東下;以廬江王瑗爲荊郢道行軍元帥,黔州刺史田世康出辰州道,黄州總管周法明出夏口道,以撃蕭銑。是月,孝恭發夔州。時峽江方漲,諸將請俟水落進軍,李靖曰:「兵貴神速。今吾兵始集,銑尚未知,若乘江漲,倏忽抵其城下,掩其不備,此必有擒;不可失也!」孝恭從之。
57.蕭銑討伐の詔が降った。巴、蜀の兵を徴発し、趙郡王孝恭を荊湘道行軍総管、李靖を摂行軍長史とし、十二総管を統べて夔州から流れに沿って東下させる。盧江王瑗を荊郢道行軍元帥とし、黔州刺史田世康を辰州道から出し、黄州総管周法明を夏口道から出した。
 この月、孝恭が夔州を出発した。その時、峡江は水を漫々と湛えていた。諸将は、水が落ちるのを待って進軍しようと言ったが、李靖は言った。
「兵は神速を尊ぶ。今は、我が兵が結集したばかりで、蕭銑も、まだ気がついていないだろう。揚子江が漲っているのに乗じて一気にその城下まで下れば、敵の不備を衝ける。そうすれば、必ず奴を擒にできるぞ。時機を失ってはいけない!」
 孝恭はこれに従った。
 58淮安王神通將關内兵至冀州,與李藝兵合。又發邢、洺、相、魏、恆、趙等兵合五萬餘人,與劉黑闥戰於饒陽城南,布陳十餘里;黑闥衆少,依隄單行而陳以當之。會風雪,神通乘風撃之,既而風返,神通大敗,士馬軍資失亡三分之二。李藝居西偏,撃高雅賢,破之,逐奔數里,聞大軍不利,退保蒿城;黑闥就撃之,藝亦敗,薛萬均、萬徹皆爲所虜,截發驅之。萬均兄弟亡歸,藝引兵歸幽州。黑闥兵勢大振。
58.淮安王神通は関内の兵を率いて冀州へ進み、李藝と合流した。また、邢、洺、相、魏、恒、趙等から合計五万の兵を徴発し、劉黒闥と饒陽城南で戦った。
 官軍の陣営は十余里に連なった。黒闥の兵は少なかったので、兵力を一ヶ所に集中して攻撃した。この時、風雪が起こった。神通は追い風に乗じて矢を放ったが、風向きが逆転し、神通は大敗した。士馬軍資の三分の二を失う。
 李藝は西の隅にいた。高雅賢を攻撃してこれを破り、数里追撃していたが、そこで大軍が不利だと聞いて、退却して藁城を保った。黒闥がこれを攻撃したので、李藝も敗北した。薛萬均、萬徹等が捕らわれたが、髪を切られて釈放された。萬均兄弟は逃げ帰り、藝は兵を率いて幽州へ帰った。
 黒闥の兵勢は、大いに振るった。
 59上以秦王功大,前代官皆不足以稱之,特置天策上將,位在王公上。冬,十月,以世民爲天策上將,領司徒、陝東道大行臺尚書令,增邑二萬戸,仍開天策府,置官屬,以齊王元吉爲司空。世民以海内浸平,乃開館於宮西,延四方文學之士,出教以王府屬杜如晦、記室房玄齡、虞世南、文學褚亮、姚思廉、主簿李玄道、參軍蔡允恭、薛元敬、顏相時、咨議典簽蘇勗、天策府從事中郎于志寧、軍咨祭酒蘇世長、記室薛收、倉曹李守素、國子助教陸德明、孔穎達、信都蓋文達、宋州總管府戸曹許敬宗,並以本官兼文學館學士,分爲三番,更日直宿,供給珍膳,恩禮優厚。世民朝謁公事之暇,輒至館中,引諸學士討論文籍,或夜分乃寢。又使庫直閻立本圖像,褚亮爲贊,號十八學士。士大夫得預其選者,時人謂之「登瀛洲」。允恭,大寶之弟子;元敬,收之從子;相時,師古之弟;立本,毗之子也。
  初,杜如晦爲秦王府兵曹參軍,俄遷陝州長史。時府僚多補外官,世民患之。房玄齡曰:「餘人不足惜,至於杜如晦,王佐之才,大王欲經營四方,非如晦不可。」世民驚曰:「微公言,幾失之。」即奏爲府屬。與玄齡常從世民征伐,參謀帷幄,軍中多事,如晦剖決如流。世民毎破軍克城,諸將佐爭取寶貨,玄齡獨收采人物,致之幕府。又將佐有勇略者,玄齡必與之深相結,使爲世民盡死力。世民毎令玄齡入奏事,上歎曰:「玄齡爲吾兒陳事,雖隔千里,皆如面談。」
  李玄道嘗事李密,爲記室,密敗,官屬爲王世充所虜,懼死,皆達曙不寐。獨玄道起居自若,曰:「死生有命,非憂可免!」衆服其識量。
59.上は、秦王の功績が絶大なので、前代の官位では、どれもこれも彼の功績を称するには役不足だと考え、特に天策上将を設置し、その位は王公の上とした。
 冬、十月。世民を天策上将として、司徒、陜東道大行台尚書令を兼任させ、二万戸を増邑した。天策府を開府させ、官属を設置する。
 斉王元吉を司空とした。
 世民は、海内が平定されて行くので、宮西に館を開き、四方の文学の士を集めた。出張教師として、王府属杜如晦、記室房玄齢、虞世南、文学褚亮、姚思廉、主簿李玄道、参軍蔡允恭、薛元敬、顔相時、諮議典籖蘇勗、天策府従事中郎于志寧、軍諮祭酒蘇世長、記室薛収、倉曹李守素、国子助教陸徳明、孔穎達、信都の蓋文達、宋州総管府戸曹許敬宗等を本官兼任で文学館学士とした。彼等を三番に分けて、交代で泊まらせ、珍膳を提供してとても手厚く礼遇した。
 世民は、朝廷や公事の暇を見つけては館中を訪れ、学士達と文籍について討論し、時には深夜になって泊まって行くこともあった。また、庫直の閻立本へ像を書かせた。褚亮は、その画へ「十八学士」と名付けた。士大夫で、文学館へ選ばれる者を、時人達は「瀛州へ登った。」と言った。
 允恭は大寶の弟の子、元敬は収の従子、相時は師古の弟、立本は毘の子息である。
 杜如晦は、始めは秦王の府兵曹参軍となったが、すぐに陜州長史となった。この頃、秦王府の幕僚が外官へ回されることが多く、世民はこれを患っていた。すると、房玄齢が言った。
「他の人間は惜しむに足りませんが、杜如晦だけは王佐の才です。大王が四方を経営したいのなら、如晦がいなければなりません。」
 世民は驚いて言った。
「公の言葉通りなら、失ってしまうところだった。」
 そして、杜如晦を府属とするよう上奏した。
 杜如晦は、玄齢と共にいつも世民の外征に従軍し、帷幄にて参謀していた。軍中には多くの問題が起こったが、杜如晦はどれも流れるように裁いていった。
 世民が敵軍を破り城を落とすごとに、将佐達は争って宝貨を奪い合ったが、房玄齢だけは人物を見つけて幕府へ連れ帰った。また、将佐の中で雄略のある者は、玄齢は必ず深く情誼を結んで、世民の為に死力を尽くさせた。世民の命令で、玄齢が事を奏上するごとに、上は感嘆して言った。
「玄齢が我が子の為に事を陳情する時、千里を距てているのに、まるで息子と面談しているようだ。」
 李玄道は、かつて李密に仕えて、記室となっていた。李密が敗北すると、その官属は皆王世充の捕虜となった。他の者達は殺されるのではと懼れており、明け方まで寝付かれなかった。だが、玄道だけは自若として言った。
「死生は天命だ。憂えたら免れるとゆうものではないぞ!」
 人々は、その識量に感服した。
 60庚寅,劉黑闥陷瀛州,殺刺史盧士叡。觀州人執刺史雷德備,以城降之。
60.庚寅、劉黒闥が瀛州を落とし、刺史の盧士叡を殺した。観州の人が刺史の雷徳備を捕らえ、城ごと劉黒闥へ降伏した。
 61辛卯,蕭銑鄂州刺史雷長穎以魯山來降。
61.辛卯、蕭銑の鄂州刺史雷長穎が魯山を以て来降した。
 62趙郡王孝恭帥戰艦二千餘艘東下,蕭銑以江水方漲,殊不爲備;孝恭等拔其荊門、宜都二鎮,進至夷陵。銑將文士弘將精兵數萬屯清江,癸巳,孝恭撃走之,獲戰艦三百餘艘,殺溺死者萬計;追奔至百里洲,士弘收兵復戰,又敗之,進入北江。銑江州總管蓋彦舉以五州來降。
62.趙郡王孝恭が戦艦二千余艘を率いて東下した。揚子江の水が漲っているので、蕭銑は油断しきって防備をしていなかった。孝恭等は、敵の荊門、宣都の二鎮を抜き、夷陵まで進んだ。
 銑の将文士弘は、精鋭数万を率いて清江へ屯営していた。癸巳、孝恭はこれを攻撃して撃退した。戦艦三百余艘を捕獲する。戦死や溺死した敵兵は、一万を数えた。
 孝恭は百里洲まで追撃した。士弘は敗残兵をかき集めて再び戦った。孝恭はこれを再び破って北江へ入る。すると、銑の江州総管蓋彦挙が五州を以て来降した。
 63毛州刺史趙元愷,性嚴急,下不堪命。丁卯,州民董燈明等作亂,殺元愷以應劉黑闥。
63.毛州刺史趙元愷は、厳格で性急な性格。下の人間は、耐えきれなかった。
 丁卯、州民の董燈明等が造反し、元愷を殺して劉黒闥に応じた。
 64盛彦師自徐圓朗所逃歸。王薄因説靑、莱、密諸州,皆下之。
64.盛彦師が、徐圓朗のもとから逃げ帰った。王薄は、彼の話をもとに青、莱、密の三州を説得して廻り、すべて下した。
 65蕭銑之罷兵營農也,纔留宿衞數千人,聞唐兵至,文士弘敗,大懼,倉猝徴兵,皆在江、嶺之外,道塗阻遠,不能遽集,乃悉見兵出拒戰。孝恭將撃之,李靖止之曰:「彼救敗之師,策非素立,勢不能久,不若且泊南岸,緩之一日,彼必分其兵,或留拒我,或歸自守;兵分勢弱,我乘其懈而撃之,蔑不勝矣。今若急之,彼則併力死戰,楚兵剽鋭,未易當也。」孝恭不從,留靖守營,自帥鋭師出戰,果敗走,趣南岸。銑衆委舟收掠軍資,人皆負重,靖見其衆亂,縱兵奮撃,大破之,乘勝直抵江陵,入其外郭。又攻水城,拔之,大獲舟艦,李靖使孝恭盡散之江中。諸將皆曰:「破敵所獲,當藉其用,奈何棄以資敵?」靖曰:「蕭銑之地,南出嶺表,東距洞庭。吾懸軍深入,若攻城未拔,援兵四集,吾表裏受敵,進退不獲,雖有舟楫,將安用之?今棄舟艦,使塞江而下,援兵見之,必謂江陵已破,未敢輕進,往來覘伺,動淹旬月,吾取之必矣。」銑援兵見舟艦,果疑不進。其交州刺史丘和、長史高士廉、司馬杜之松等將朝江陵,聞銑敗,悉詣孝恭降。
  孝恭勒兵圍江陵,銑内外阻絶,問策於中書侍郎岑文本,文本勸銑降。銑乃謂羣下曰:「天不祚梁,不可復支矣。若必待力屈,則百姓蒙患,奈何以我一人之故,陷百姓於塗炭乎!」乙巳,銑以太牢告于太廟,下令開門出降,守城者皆哭。銑帥羣臣緦縗布幘詣軍門,曰:「當死者唯銑耳,百姓無罪,願不殺掠。」孝恭入據其城,諸將欲大掠,岑文本説孝恭曰:「江南之民,自隋末以來,困於虐政,重以羣雄虎爭,今之存者,皆鋒鏑之餘,跂踵延頸以望真主,是以蕭氏君臣、江陵父老決計歸命,庶幾有所息肩。今若縱兵俘掠,恐自此以南,無復向化之心矣!」孝恭稱善,遽禁止之。諸將又言:「梁之將帥與官軍拒鬭死者,其罪既深,請籍沒其家,以賞將士。」李靖曰:「王者之師,宜使義聲先路。彼爲其主鬭死,乃忠臣也,豈可同叛逆之科籍其家乎!」於是城中安堵,秋毫無犯。南方州縣聞之,皆望風款附。銑降數日,援兵至者十餘萬,聞江陵不守,皆釋甲而降。
  孝恭送銑於長安,上數之。銑曰:「隋失其鹿,天下共逐之。銑無天命,故至此;若以爲罪,無所逃死!」竟斬於都市。詔以孝恭爲荊州總管;李靖爲上柱國,賜爵永康縣公,仍使之安撫嶺南,得承制拜授。
  先是,銑遣黄門侍郎江陵劉洎略地嶺表,得五十餘城,未還而銑敗,洎以所得城來降;除南康州都督府長史。
65.蕭銑は兵卒をクビにして農家へ戻しており、わずか数千人の宿衛を留めていただけだった。だから、唐軍が来て、文士弘が敗北したと聞くや、大いに懼れ、慌てふためいて全ての兵を都へ呼び戻した。しかし、彼等は江、嶺の外におり、道が遠い上に険しく、急に結集させることなどできなかった。そこで仕方なく、都近辺の兵を総動員して拒戦した。
 孝恭はこれを攻撃しようとしたが、李靖は止めて言った。
「奴が軍を出してきたのは、策があってのことではありませんし、戦意もすぐに萎えるでしょう。ここは、南岸へ泊まって、一日待ちましょう。そうすれば連中は必ず二手に分離します。我等と戦う隊と、都へ帰って守りを固める部隊です。敵の兵力が二分したら、我等はだれきった敵兵を攻撃すれば宜しいのです。何で負けることがありましょうか。今、急に攻めたら、彼等は力を合わせて死戦します。楚の兵卒は精強。簡単には済みません。」
 孝恭は従わず、李靖を陣営に留め、自ら精鋭を率いて出陣したが、果たして敗北し、南岸へ逃げ込んだ。
 蕭銑の兵卒は、棄てられた軍資を掠収したので、皆、重い荷物を背負った。李靖は、その有様を見るや、兵を指揮して奮戦し、敵を大いに破った。勝ちに乗じて江陵まで進み、その外郭へ入る。また、水城を攻め、これを抜いて多数の舟艦を入手した。
 孝恭は、李靖の発案に従い、その舟艦を悉く江中へ流した。諸将は皆、言った。
「敵を破って獲得したのだから、我が軍で使えばいいのに、何でこれを棄てて敵を助けるのだ?」
 すると、李靖は言った。
「蕭銑の領土は、南は嶺表へ出て、東は洞庭を距てている。我軍は敵領へ深入りした。もし、城を攻めて抜く前に、敵の援軍が四方から集まったら、我々は表裏に敵を受け、進退窮まってしまう。そうなれば、舟があってもどうやって使うのだ?今、舟艦を棄てて揚子江へ流した。援軍は流れてくる舟を見て、江陵は既に敗れたと思い、軽々しくは進まないで様子を窺うだろう。そうやって旬月遅れれば、我等はその間に江陵を落とせる。」
 蕭銑の援軍は、流された舟艦を見て、果たして疑い、進軍しなかった。敵の交州刺史丘和、長史高士廉、司馬杜之松は、江陵へ向かおうとしていたが、蕭銑は既に敗北したとの風聞を聞いて、悉く孝恭のもとへ出向き、降伏した。
 孝恭は、兵を励まして江陵を包囲した。銑は、内外の連絡が途絶したので、中書侍郎岑文本へ方策を問うた。すると、文本は降伏を勧めた。蕭銑は、群下へ言った。
「天は、梁の復興を支えてくれなかった。もしも力屈するまで戦えば、百姓は被害を被る。なんで我一人のせいで、百姓を塗炭へ陥れられようか!」
 乙巳、銑は太牢を以て太廟へ告げ、城門を開いて降伏するよう命令を下した。城を守る者は、皆、泣いた。銑は、群臣を率いて軍門を詣で、言った。
「殺されるべきは、ただ銑一人だけだ。百姓に罪はない。どうか殺掠はしないでください。」
 孝恭は城へ入って占拠した。すると諸将が略奪したがったので、岑文本が孝恭へ説いた。
「江南の民は、隋末以来、虐政や群雄の虎争に苦しみました。今生きている者は、皆、困窮の中で首を伸ばして真の主を待ち望んでいたのです。ですから、江陵の父老は、蕭氏の君臣の元へ帰順しました。今、もしも兵卒へ略奪を許可したら、ここから以南は唐へ帰順しなくなるでしょう。」
 孝恭は、これを善しと称して、兵卒の掠奪を禁じた。
 諸将は、また、言った。
「梁の将帥と官軍に刃向かって戦死した者は、その罪は大きいですぞ。彼等の家財を没収して、将士を賞してください。」
 すると、李靖は言った。
「王者の軍隊は、まず義軍だとゆうことを宣伝しなければならない。彼等が主人の為に死戦したのならば、忠臣である。どうして反逆者のように家財を没収して良いものか!」
 ここにおいて城中を安堵し、秋毫も犯させなかった。南方の州県は、これを聞いて風に靡くように帰順してきた。
 銑が降伏して数日後、十余万の援軍が到着したが、江陵が陥落したと聞いて、皆、武装解除し、降伏した。
 孝恭が銑を長安へ送ると、上は彼の罪状を数え上げた。すると、銑は言った。
「隋がその鹿を失って、天下共にこれを逐いました。そして、銑には天命が無く、ここへ至ったのです。もしもそれを罪だというのなら、死から逃げることはできません!」
 ついに、都市にて斬った。
 詔が降りて、孝恭を荊州総管とした。李靖は上柱国となり、永康県公の爵位を賜った。また、李靖に嶺南を安撫させ、(官職を与える権限を認めた。?)
 話は前後するが、銑は、黄門侍郎江陵の劉洎へ嶺表を攻略させていた。彼は五十余の城を得たが、帰ってくる前に銑は滅亡した。洎は、獲得した城を以て来降した。南康州都督府長史となる。
 66戊申,徐圓朗昌州治中劉善行以須昌來降。
66.戊申、徐圓朗の昌州治中劉善行が、須昌を以て来降した。
 67庚戌,詔陝東道大行臺尚書省自令、僕至郎中、主事,品秩皆與京師同,而員數差少,山東行臺及總管府、諸州並隸焉。其益州、襄州、山東、淮南、河北等道令、僕以下,各降京師一等,員數又減焉。行臺尚書令得承制補署。其秦王、齊王府官之外,各置左右六護軍府,及左右親事帳内府。
67.庚戌、詔が降りる。陜東道大行台尚書省は令・僕から郎中、主事へ至るまで、品秩は皆京師と同等にする。ただし、員数は少し減らす。山東行台及び総管府、諸州は、これの麾下に入る。行台尚書令へは(人員を補充する権限を与える。?)
 その秦王、斉王府官の外には、各々左右六護軍府及び左右親事帳内府を置く。
 68閏月,乙卯,上幸稷州;己未,幸武功舊墅;壬戌,獵于好畤;乙丑,獵于九嵕;丁卯,獵于仲山;戊辰,獵于清水谷,遂幸三原;辛未,幸周氏陂;壬申,還長安。
68.閏月、乙卯。上は稷州へ御幸した。己未、武功の旧墅へ御幸する。壬戌、好畤にて狩猟をする。乙丑、九嵕にて狩猟をする。丁卯、仲山にて狩猟をする。戊辰、清水谷にて狩猟をして、三原まで御幸した。辛未、周氏陂へ御幸する。壬申、長安へ帰った。
 69十一月,甲申,上祀圜丘。
69.十一月、甲申、上は圜丘を祀った。
 70杜伏威使其將王雄誕撃李子通,子通以精兵守獨松嶺。雄誕遣其將陳當將千餘人,乘高據險以逼之,多張旗幟,夜則縛炬火於樹,布滿山澤。子通懼,燒營走保杭州;雄誕追撃之,又敗之於城下。庚寅,子通窮蹙請降。伏威執子通并其左僕射樂伯通送長安;上釋之。
  先是,汪華據黟、歙,稱王十餘年。雄誕還軍撃之,華拒之於新安洞口,甲兵甚鋭。雄誕伏精兵於山谷,帥羸弱數千犯其陳,戰纔合,陽不勝,走還營;華進攻之,不能克,會日暮,引還,伏兵已據其洞口,華不得入,窘迫請降。
  聞人遂安據崑山,無所屬,伏威使雄誕撃之。雄誕以崑山險隘,難以力勝,乃單騎造其城下,陳國威靈,示以禍福。遂安感悅,帥諸將出降。
  於是伏威盡有淮南、江東之地,南至嶺,東距海。雄誕以功除歙州總管,賜爵宜春郡公。
70.杜伏威が、その将王雄誕へ、李子通を攻撃させた。対して李子通は、精鋭兵で独松嶺を守った。
 雄誕は麾下の将陳當へ千余人を与え、敵陣よりも高い場所から、険阻な地形を利用して接近させた。その軍は旗幟をたくさん張り巡らし、夜になればあちこちの樹木へ篝火を縛り付けて山沢を照らし尽くした。子通は懼れ、陣営を焼き払って杭州へ逃げた。雄誕はこれを追撃し、城下にて再び撃破する。
 庚寅、子通は切羽詰まって降伏した。伏威は子通と、その左僕射楽伯通を長安へ送った。上は、彼等を赦した。
 ところで、汪華は黟、歙を拠点に、十余年に亘って王を潜称していた。雄誕は、遠征の帰りに、これも討伐した。対して華は、新安洞口にて拒戦した。その兵は、強力に武装されていた。
 雄誕は、精鋭を山谷へ伏せ、老弱の兵数千を率いてその陣を犯した。そして、僅かばかり戦うと、かなわないふりをして自陣へ逃げ帰った。華は追いかけて戦ったが、勝てなかった。日が暮れて引き返してみると、既に伏兵が洞口を占拠しており、華は入ることができず、打つ手もなくて降伏した。
 聞人遂安は、崑山に據り、どこにも帰属せずに自立していた。伏威は、これも雄誕に攻撃させた。崑山は険しい。雄誕は、力攻めでは攻め落とせないと考え、単騎でその城下へ向かい、唐国の威霊を述べ、禍福を示して説得した。すると遂安は感悦し、諸将を率いて降伏した。
 ここにおいて伏威は淮南、江東の全域を領有し、その領土は南は嶺へ至り、東は海へ達した。雄誕は、この功績で歙州総管となり、宜春郡公の爵位を賜った。
 71壬辰,林州總管劉旻撃劉仚成,大破之。仚成僅以身免,部落皆降。
71.壬辰、林州総管劉旻が、劉仚成を攻撃して、大勝利を収めた。仚成は体一つで逃げ出し、部落は降伏した。
 72李靖度嶺,遣使分道招撫諸州,所至皆下。蕭銑桂州總管李襲志帥所部來降,趙郡王孝恭即以襲志爲桂州總管,明年入朝。以李靖爲嶺南撫慰大使,檢校桂州總管,引兵下九十六州,得戸六十餘萬。
72.李靖は嶺へ対して、使者を派遣して諸州を招撫する方式を採ったが、使者が至るところ、全て降伏した。
 蕭銑の桂州総管李襲志が手勢を率いて来降した。趙郡王孝恭は、襲志を桂州総管として、年が明けてから入朝させた。
 李靖を嶺南撫慰大使、検校桂州総管とした。彼は兵を率いて九十六州を下し、六十余万戸を得た。
 73壬寅,劉黑闥陷定州,執總管李玄通,黑闥愛其才,欲以爲大將,玄通不可。故吏有以酒肉饋之者,玄通曰:「諸君哀吾幽辱,幸以酒肉來相開慰,當爲諸君一醉。」酒酣,謂守者曰:「吾能劍舞,願假吾刀。」守者與之,玄通舞竟太息曰:「大丈夫受國厚恩,鎮撫方面,不能保全所守,亦何面目視息世間哉!」即引刀自刺,潰腹而死。上聞,爲之流涕,拜其子伏護爲大將。
73.壬寅、劉黒闥が定州を落とし、総管の李玄通を捕らえた。劉黒闥は、彼の才覚を愛で、大将にしたがったが、玄通は拒否した。そんな中、昔の官吏が酒や肉を玄通へ贈ったので、玄通は言った。
「諸君は、吾が軟禁されているのを哀れみ、酒肉を贈って慰めてくれる。有り難いことだ。諸君の心に甘えて酔わせて貰おう。」
 酒がたけなわになると、看守へ言った。
「吾は剣舞が得意なのだ。吾が刀を貸してくれないか。」
 看守が刀を渡すと、玄通は剣舞を舞い、溜息をついて言った。
「大丈夫が一地方の鎮撫を命じられた。これは御国の御厚恩。それなのに、保全することができなかったのだ。世間様へ対して何の面目が立とうか!」
 そのまま刀を引き寄せて自刺し、腹を潰して死んだ。(原文、「引刀自刺、潰腹而死」。これは、切腹だろうか?中国では「自刎」するのが普通だから、かなり珍しい自殺法だろう。)
 上はこれを聞いて涙を流し、子息の伏護を大将とした。
 74庚戌,杞州人周文舉殺刺史王文矩,以城應徐圓朗。
74.庚戌、杞州の人周文挙が、刺史の王文矩を殺し、城を以て徐圓朗へ応じた。
 75幽州大饑,高開道許以粟賑之。李藝遣老弱詣開道就食,開道皆厚遇之。藝喜,於是發民三千人,車數百乘,驢馬千餘匹,往受粟。開道悉留之,告絶於藝。復稱燕王,北連突厥,南與劉黑闥相結,引兵攻易州不克,大掠而去。又遣其將謝稜詐降於藝,請兵授接,藝出兵應之。將至懷戎,稜襲撃破之。開道與突厥連兵數入爲寇,恆、定、幽、易咸被其患。
75.幽州が大飢饉だった。高開道は民の救済の為、粟を配給した。李藝が老弱を開道のもとへ派遣して食べ物を求めさせると、開道は彼等を皆、手厚く遇した。
 李藝は喜んだ。ここにおいて李藝は三千人の民を徴発し、車数百乗と驢馬千余匹と共に開道のもとへ派遣して、粟を求めた。すると開道は、これらを全て抑留し、李藝へ絶縁状を叩きつけて、再び燕王を称した。
 開道は、まず北は突厥と、南は劉黒闥と同盟を結んだ。そして兵を率いて易州を攻撃したが勝てなかったので、大いに略奪して去った。また、その将謝稜を李藝の元へ派遣して、降伏と偽って援軍を請うた。藝がこれに応じて出兵する。藝軍が懐戎まで来ると、稜はこれを撃破した。
 開道は突厥と連合して屡々入寇した。恒、定、幽、易州が被害を被った。
 76十二月,乙卯,劉黑闥陷冀州,殺刺史麴稜。黑闥既破淮安王神通,移書趙、魏,故竇建德將卒爭殺唐官吏以應黑闥。庚申,遣右屯衞大將軍義安王孝常將兵討黑闥。黑闥將兵數萬進逼宗城,黎州總管李世勣先屯宗城,棄城走保洺州。甲子,黑闥追撃世勣等,破之,殺歩卒五千人,世勣僅以身免。丙寅,洺州土豪翻城應黑闥。黑闥於城東南告天及祭竇建德而後入;後旬日,引兵攻拔相州,執刺史房晃,右武衞將軍張士貴潰圍走。黑闥南取黎、衞二州,半歳之間,盡復建德舊境。又遣使北連突厥,頡利可汗遣俟斤宋邪那帥胡騎從之。右武衞將軍秦武通、洺州刺史陳君賓、永寧令程名振皆自河北遁歸長安。
76.十二月。乙卯、劉黒闥が冀州を落とし、刺史の麹稜を殺した。
 黒闥は、淮安王神通を破った後、趙・魏へ書を廻した。すると、もとの竇建徳の将卒達が争って唐の官吏を殺し、黒闥へ呼応した。
 庚申、右屯衛大将軍義安王孝常へ兵を与えて黒闥を討伐させた。黒闥は数万の兵力で進軍し、宗城へ迫る。黎州総管李世勣は、まず宗城へ屯営したが、すぐに城を棄てて逃げ、洺州を確保した。
 甲子、黒闥は世勣等を追撃し、破った。歩卒五千人が戦死し、世勣は体一つで逃げた。
 丙寅、洺州の土豪が、城を翻して黒闥へ内応した。そこで黒闥は、城の東南で天へ告げ、竇建徳を祭ってから入城した。
 旬日後、兵を率いて相州を攻撃し、これを抜く。刺史の房晃を捕らえる。右武衛将軍張士貴は、包囲を突破して逃げた。
 黒闥は、南は黎、衛二州を取り、半年の間に竇建徳の旧領を全て回復した。また、突厥へ使者を派遣して連合を求めた。頡利可汗はこれに応じ、俟斤の宋邪那へ胡騎を与えて派遣した。
 右武衛将軍秦武通、洺州刺史陳君賓、永寧令程名振は、皆、河北から長安へ逃げ帰った。
 77丁卯,命秦王世民、齊王元吉討黑闥。
77.丁卯、秦王世民と斉王元吉へ黒闥討伐を命じた。
 78昆彌遣使内附。昆彌,即漢之昆明也。雟州治中吉駐緯通南寧,至其國説之,遂來降。
78.昆彌が、帰順しようと使者を派遣した。昆彌とは、漢代の昆明である。
 雟州治中吉弘緯が南寧を通って昆彌へ行き説得したので、遂に来降した。
 79己巳,劉黑闥陷邢州、趙州;庚午,陷魏州,殺總管潘道毅;辛未,陷莘州。
79.己巳、劉黒闥が邢州と趙州を落とした。庚午、魏州を落とし、総管潘道毅を殺した。辛未、莘州を落とした。
 80壬申,徙宋王元嘉爲徐王。
80.壬申、宋王元嘉を徐王とした。

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