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翻訳者:にゃんごたん
校訂者:────
資治通鑑巻第一百五十
 梁紀六
  高祖武皇帝六
普通五年(甲辰、五二四)

 春,正月,辛丑,魏主祀南郊。
1.春、正月、辛丑、孝明帝が南郊で祭祀を行った。
 三月,魏以臨淮王彧都督北討諸軍事,討破六韓拔陵。
  夏,四月,高平鎭民赫連恩等反,推敕勒酋長胡琛爲高平王,攻高平鎭以應拔陵。魏將盧祖遷撃破之,琛北走。
  衞可孤攻懷朔鎭經年,外援不至,楊鈞使賀拔勝詣臨淮王彧告急。勝募敢死少年十餘騎,夜伺隙潰圍出,賊騎追及之,勝曰:「我賀拔破胡也,」賊不敢逼。勝見彧於雲中,説之曰:「懷朔被圍,旦夕淪陷,大王今頓兵不進;懷朔若陷,則武川亦危,賊之鋭氣百倍,雖有良、平,不能爲大王計矣。」彧許爲出師。勝還,復突圍而入。鈞復遣勝出覘武川,武川已陷。勝馳還,懷朔亦潰,勝父子倶爲可孤所虜。
  五月,臨淮王彧與破六韓拔陵戰於五原,兵敗,彧坐削除官爵。安北將軍隴西李叔仁又敗於白道,賊勢日盛。
  魏主引丞相、令、僕、尚書、侍中、黄門於顯陽殿,問之曰:「今寇連恆、朔,逼近金陵,計將安出?」吏部尚書元脩義請遣重臣督軍鎭恆、朔以捍寇。帝曰:「去歳阿那瓌叛亂,遣李崇北征,崇上表求改鎭爲州,朕以舊章難革,不從其請。尋崇此表,開鎭戸非冀之心,致有今日之患;但既往難追,聊復略論耳。然崇貴戚重望,器識英敏,意欲遣崇行,何如?」僕射蕭寶寅等皆曰:「如此,實合羣望。」崇曰:「臣以六鎭遐僻,密邇寇戎,欲以慰悅彼心,豈敢導之爲亂!臣罪當就死,陛下赦之;今更遣臣北行,正是報恩改過之秋。但臣年七十,加之疲病,不堪軍旅,願更擇賢材。」帝不許。脩義,天賜之子也。
   臣光曰:李崇之表,乃所以銷禍於未萌,制勝於無形。魏肅宗既不能用,及亂生之日,曾無愧謝之言,乃更以爲崇罪,彼不明之君,烏可與謀哉!詩云:「聽言則對,誦言如醉,匪用其良,覆俾我悖,」其是之謂矣。
2.三月、魏は臨淮王元彧を都督北討諸軍事として、破六韓抜陵を討伐させた。
 夏、四月、高平鎮民の赫連恩らが反乱を起こして、敕勒の酋長胡琛を高平王に推戴し、高平鎮を攻撃して破六韓抜陵に呼応した。魏の将軍盧祖遷がこれを撃破した。胡琛は北に逃れた。
 衛可孤が懐朔鎮を攻撃して年を越した。外部からの援軍は到来せず、楊鈞は危急を報せるために賀抜勝を臨淮王元彧の下に赴かせた。賀抜勝は十騎余りの少年兵を決死隊に募り、夜、隙を窺って包囲を突破して(城外に)出た。賊軍の騎兵が賀抜勝らに追い付くと、賀抜勝が言った。
「私が賀抜破胡だ」
 さらに迫ろうとする賊兵はいなかった。賀抜勝は雲中郡で元彧と会見し、元彧に説いた。
「懐朔鎮は包囲され、すぐにでも陥落しそうです。今、大王は軍勢を止めて進軍しておりません。もし懐朔鎮が陥落すれば、武川鎮も危うくなります。賊軍の鋭気は百倍となり、張良や陳平がいても、大王のために計略を立てることはできなくなるでしょう」
 元彧は出撃を約束した。賀抜勝は帰還すると、再び包囲陣に突入して(城内に)入った。再び楊鈞は賀抜勝を城外に出して武川鎮を視察させた。武川鎮はすでに陥落していた。賀抜勝が急いで帰還すると、懐朔鎮も壊滅していた。賀抜勝父子は皆、衛可孤の捕虜となった。
 五月、臨淮王元彧は五原で破六韓抜陵と戦い、元彧軍は敗れた。元彧は罪を問われて官職と封爵を剥奪された。安北将軍、隴西の李叔仁も白道で敗れた。賊軍の勢力は日々、盛んになっていった。
 孝明帝は丞相・令・僕・尚書・侍中・黄門を顕陽殿に呼び寄せて、彼らに意見を求めた。
「今、賊軍は恒州・朔州に広がり、金陵に接近している。何か計略はあるか?」
 重臣を派遣して軍勢を統率させ、恒州・朔州に駐留して賊軍に抗戦させるよう、吏部尚書元修義が要請した。
 孝明帝が言った。
「昨年、阿那瓌が反乱を起こした。李崇を北征に派遣したが、李崇は鎮を州に改めるよう上表してきた。私は旧法を改めるのは困難だとして、彼の要請には従わなかった。まもなく、この李崇の上表を受けて鎮民は不逞な考えを抱き、今日の災禍を招いたのだろう。ただ過ぎたことを追求するのは無意味であり、とりあえずは改めて簡略に述べるに止めよう。しかし李崇は皇室の姻戚であり、人望ある重臣だ。器量・見識があり非常に賢明でもある。李崇を赴かせようと思うのだが、どうだろう?」
 僕射蕭宝寅らは皆、言った。
「それはまさしく皆の考えと合致しております」
 李崇が言った。
「六鎮は遠い辺地にあり、攻め寄せる北狄と近接しております。そのために私は彼らを安心させ、また満足させようとしました。どうして彼らを反乱へと導きましょうか!私の罪は死に値するものですが、陛下はお許しになられました。今、再び私を北方へと派遣するのは、まさに大恩に報いて過ちを改める機会であります。しかし私も七十歳となって病み衰えており、行軍には耐えられないでしょう。改めて賢明な才人を選ばれることを願います」
 孝明帝は許さなかった。元修義は元天賜の子である。
   私、司馬光が述べる。李崇の上表は発生しないうちに災禍を払い除き、実現しないうちに勝利を制しようとするものである。魏粛宗は採用することができなかったのに、反乱が発生した後になって、一度も恥じ入って謝罪する言葉もなく、その上に李崇の罪だと考えた。彼は不明の君主であり、ともに謀るべき人間であり得ようか!『詩』に言う。「(貪欲で悪辣な人間は)浅薄な言葉に応答して、『詩』や『書』の言葉には酔ったよう(に黙って答えない)。(上に立つ者が)それらの善言を用いなければ、むしろ我等に無道を行わせることになる」と。これは孝明帝のことではないか。
 壬申,加崇使持節、開府儀同三司、北討大都督,命撫軍將軍崔暹、鎭軍將軍廣陽王深皆受崇節度。深,嘉之子也。
3.壬申、李崇に使持節・開府儀同三司・北討大都督を加官し、撫軍将軍崔暹と鎮軍将軍・広陽王元深らに命じて、ともに李崇の指揮下に入らせた。元深は元嘉の子である。
 六月,以豫州刺史裴邃督征討諸軍事以伐魏。
4.六月、豫州刺史裴邃を督征討諸軍事として魏に侵攻させた。
 魏自破六韓拔陵之反,二夏、豳、涼寇盜蜂起。秦州刺史李彦,政刑殘虐,在下皆怨。是月,城内薛珍等聚黨突入州門,擒彦,殺之,推其黨莫折大提爲帥,大提自稱秦王。魏遣雍州刺史元志討之。
  初,南秦州豪右楊松柏兄弟,數爲寇盜,刺史博陵崔遊誘之使降,引爲主簿,接以辭色,使説下羣氐,既而因宴會盡收斬之,由是所部莫不猜懼。遊聞李彦死,自知不安,欲逃去,未果;城民張長命、韓祖香、孫掩等攻遊,殺之,以城應大提。大提遺其黨卜胡襲高平,克之,殺鎭將赫連略、行臺高元榮。大提尋卒,子念生自稱天子,置百官,改元天建。
5.魏では破六韓抜陵が反乱を起こしてから、夏州・東夏州・豳州・涼州で群盗が蜂起していた。
 秦州刺史李彦の行政や刑罰は残虐で、統治下の人々は皆、怨んでいた。この月、秦州城内の薛珍らは徒党を組んで州城門に突入し、李彦を捕らえて殺害した。同志の莫折大提を首領に推戴し、莫折大提は秦王を自称した。魏は雍州刺史元志に莫折大提を討伐させた。
 以前、南秦州の豪族、楊松柏兄弟は何度も略奪を繰り返していた。南秦州刺史、博陵郡の崔遊は彼らを誘って投降させた。(楊松柏を)招いて主簿とすると、言動や表情に気を配って接し、氐人たちを説得して降伏させた。その後、宴席にて氐人全員を捕らえて斬った。かくして諸部族に疑って恐れない者はいなくなった。
 崔遊は李彦の死を聞いて、自らも安心できないことを悟り、逃げ去ろうとした。実行しないうちに、南秦州城民の張長命・韓祖香・孫掩らが崔遊を攻撃し、これを殺害して、莫折大提に呼応した。
 莫折大提は同志の卜胡を派遣して高平鎮を襲撃し、これを攻め落として、鎮将赫連略と行台高元栄を殺害した。まもなく莫折大提は死去し、子の莫折念生が天子を自称して、百官を配置し、天建と改元した。
 丁酉,魏大赦。
6.丁酉、魏で大赦を行った。
 秋,七月,甲寅,魏遣吏部尚書元脩義兼尚書僕射,爲西道行臺,帥諸將討莫折念生。
7.秋、七月、甲寅、魏は吏部尚書元修義に尚書僕射を兼任させて西道行台とすると、諸将を率いて莫折念生を討伐させた。
 崔暹違李崇節度,與破六韓拔陵戰于白道,大敗,單騎走還。拔陵并力攻崇,崇力戰,不能禦,引還雲中,與之相持。
  廣相王深上言:「先朝都平城,以北邊爲重,盛簡親賢,擁麾作鎭,配以高門子弟,以死防遏,非唯不廢仕宦,乃更獨得復除,當時人物,忻慕爲之。太和中,僕射李沖用事,涼州土人悉免廝役;帝郷舊門,仍防邊戍,自非得罪當世,莫肯與之爲伍。本鎭驅使,但爲虞候、白直,一生推遷,不過軍主;然其同族留京師者得上品通官,在鎭者即爲清途所隔,或多逃逸。乃峻邊兵之格,鎭人不聽浮遊在外,於是少年不得從師,長者不得遊宦,獨爲匪人,言之流涕!自定鼎伊、洛,邊任益輕,唯底滯凡才,乃出爲鎭將,轉相模習,專事聚斂。或諸方姦吏,犯罪配邊,爲之指蹤,政以賄立,邊人無不切齒。及阿那瓌背恩縱掠,發奔命追之,十五萬衆度沙漠,不日而還。邊人見此援師,遂自意輕中國。尚書令臣崇求改鎭爲州,抑亦先覺,朝廷未許。而高闕戍主御下失和,拔陵殺之,遂相帥爲亂,攻城掠地,所過夷滅,王師屢北,賊黨日盛。此段之舉,指望銷平;而崔暹隻輪不返,臣崇與臣逡巡復路,相與還次雲中,將士之情莫不解體。今日所慮,非止西北,將恐諸鎭尋亦如此,天下之事,何易可量!」書奏,不省。
  詔徴崔暹繋廷尉;暹以女妓、田園賂元义,卒得不坐。
8.崔暹は李崇の指示に背いて、白道で破六韓抜陵と戦い、大敗して単騎で逃げ帰った。破六韓抜陵は総力で李崇を攻撃した。李崇は力戦したが防ぎきれず、雲中に撤退して破六韓抜陵と対峙した。広陽王元淵が進言した。
「我が祖先は平城に都を置き、北辺を重視しておりました。多くの親族や賢人を選んで、彼らの指揮の下に鎮を設立し、名門の子弟を配属させて、命がけで防衛の任務に就かせたのです。それでも仕官の道が失われることなく、さらには徭役も免除されていました。当時の人々は、それを喜んで望んだものです。太和中、僕射李沖が政権を握ると、涼州民全員が馬の世話の任務を免除されました。代北以来の旧家の者は辺境の城砦で防衛の任務に就いても、自らが実際に罪を得(て来)たのでもなければ、彼らと同格となることを認めることはありませんでした。本来、諸鎮で酷使されるのは虞候や白直のような者。(それでは)一生をかけて昇進しても軍主となれるに過ぎません。しかし京師に留まる彼らの同族は名門家として国政を取り仕切っており、鎮にいる者は高級官僚への道から隔絶されているのです。逃亡する者も多くなりました。それで辺境の兵士に対する法を厳格にして、鎮民に鎮から離れることを禁じました。かくして年少者は師に就くことができず、年長者も仕官することができなくなりました。自分たちだけが人間扱いされない。そう言って涙を流しているのです!伊水・洛水の地を都と定めてより、ますます辺境での任務は軽んじられました。昇進できないだけの凡人が鎮将として赴き、代々、前任者の真似をして収奪に専念しております。また各地の悪徳官吏が罪を犯して辺境に配属されますと、諸鎮の風潮に倣って賄賂による政治を行っています。辺境の人々に悔しく思わない人はいないのです。阿那瓌が大恩に背いて勝手に略奪を行うと、討伐軍を出撃させて追撃しました。十五万の兵は砂漠を渡り、一日も経たずに帰還しました。辺境の人々はこの援軍を見て、中央を軽んずるようになったのです。尚書令李崇は鎮を州に改めるよう求め、先立って(反乱を)抑制しようとしました。朝廷が許可しないうちに高闕戍主の治下に騒乱が起こり、破六韓抜陵が彼を殺害しました。ついに鎮民は反乱を起こし、城邑を攻撃して奪い、通過した地は滅ぼし尽くされました。朝廷の軍は何度も敗北し、賊軍は日々、盛んになっております。今回の攻撃で簡単に平定できたかもしれません。しかし崔暹の部隊は壊滅しました。李崇と私は危険を感じ、ともに雲中郡まで撤退しました。将兵の戦意は失われております。今日、憂慮するのは反乱が西北方に止まらないことです。おそらく諸鎮でも次々と同様の事態が起こりましょう。天下の一大事です。簡単に考えてはなりません!」
 上書したが顧みられなかった。
 詔を下して崔暹を召還すると廷尉に拘束させた。崔暹は芸妓や田園を賄賂として元义に贈り、ついに罪に問われることはなかった。
 丁丑,莫折念生遣其都督楊伯年等攻仇鳩、河池二戍,東益州刺史魏子建遣將軍伊祥等撃破之,斬首千餘級。東益州本氐王楊紹先之國,將佐皆以城民勁勇,二秦反者皆其族類,請先收其器械,子建曰:「城民數經行陣,撫之足以爲用,急之則腹背爲患。」乃悉召城民,慰諭之,既而漸分其父兄子弟外戍諸郡,内外相顧,卒無叛者。子建,蘭根之族兄也。
9.丁丑、莫折念生は配下の都督楊伯念を派遣して仇鳩戍・河池戍を攻撃した。東益州刺史魏子建は将軍伊祥らを派遣して楊伯念を撃破し、千余りの首級を斬った。もともと東益州は氐王楊紹先の国。城民は勇猛であり、秦州・南秦州の反徒は皆、彼らの同族である。それを理由として先に城民から武器を奪うよう、幕僚全員が願い出た。魏子建は言った。
「城民は何度も戦場を経験している。彼らを安心させれば十分に有用となるだろうが、追いつめれば腹背に問題を抱えることになるぞ」
 それで城民全員を呼び集め、彼らを安心させて説得した。その後、父子兄弟は次第に分かれて他の諸郡で守備の任務に就くこともあったが、内外で互いに協力して反逆する者を出さなかった。魏子建は魏蘭根の族兄である。
 10魏涼州幢帥于菩提等執刺史宋穎,據州反。
10.魏の涼州幢帥于菩提らが刺史宋穎を捕らえ、涼州を占拠して反乱を起こした。
 11八月,庚寅,徐州刺史成景儁拔魏童城。
11.八月、庚寅、徐州刺史成景儁が魏の童城を陥落させた。
 12魏員外散騎侍郎李苗上書曰:「凡食少兵精,利於速戰;糧多卒衆,事宜持久。今隴賊猖狂,非有素蓄,雖據兩城,本無德義。其勢在於疾攻,日有降納,遲則人情離沮,坐待崩潰。夫飈至風舉,逆者求萬一之功;高壁深壘,王師有全制之策。但天下久泰,人不曉兵,奔利不相待,逃難不相顧,將無法令,士非教習,不思長久之計,各有輕敵之心。如令隴東不守,汧軍敗散,則兩秦遂強,三輔危弱,國之右臂於斯廢矣。宜敕大將堅壁勿戰,別命偏裨帥精兵數千出麥積崖以襲其後,則汧、隴之下,羣妖自散。」
  魏以苗爲統軍,與別將淳于誕倶出梁、益,未至,莫折念生遣其弟高陽王天生將兵下隴。甲午,都督元志與戰於隴口,志兵敗,棄衆東保岐州。
12.魏の員外散騎侍郎李苗が上書して述べた。
「一般に食料が少なく兵士が精鋭であれば、速戦が有利とされます。食料も兵士も多ければ、持久戦を行うべきです。今、狂気的な隴西の賊軍には以前からの備蓄など無く、天水郡と高平鎮を占拠したとはいえ、これまでに恩徳を施していたり、大義があったわけでもありません。彼らの勢いは速攻によって日々、投降者を吸収していることにあります。遅滞すれば人々の心は離れて挫け、何もせずとも崩壊を待つことができるでしょう。そもそも今回のような暴挙が勃発するのは、反逆者が万に一つの成功を求めるからです。城壁を高く塹壕を深くしておけば、朝廷の軍は(反乱軍を)完全に制することができるのです。ただし天下は久しく泰平で、用兵に明るい人材はおりません。(目先の)利益を求めては味方と連携することもできず、危険を避けるためなら互いを顧みなどしないでしょう。将軍は法令を守らず、兵士は訓練されていない。長久の計略を考えず、皆には敵を軽視する心があります。もし隴東を守らず、元志軍が敗れて壊滅すれば、秦州や南秦州の賊軍は強大化することになります。三輔は窮地に陥って衰弱し、かくして我が国は右肘を失うことになりましょう。勅を下して大将には防備を固めて戦うことを禁じ、別の一将には精兵数千を率いて麦積崖に進出させて、賊軍の背後から襲撃するよう命ずるのです。そうすれば汧水・隴坂から、不穏な者たちは自然と消え去ってゆくでしょう」
 魏は李苗を統軍として、別働隊の将軍淳于誕とともに梁州・益州に進出させた。到達しないうちに、莫折念生は弟の高陽王莫折天生に兵を率いて隴坂を下らせた。甲午、都督元志は隴坂の入り口で(莫折天生と)戦った。元志は敗れると軍を放棄し、東に向かって岐州を保持した。
 13東西部敕勒皆叛魏,附於破六韓拔陵,魏主始思李崇及廣陽王深之言。丙申,下詔:「諸州鎭軍貫非有罪配隸者,皆免爲民。」改鎭爲州,以懷朔鎭爲朔州,更命朔州白雲州。遣兼黄門侍郎酈道元爲大使,撫慰六鎭。時六鎭已盡叛,道元不果行。
  先是,代人遷洛者,多爲選部所抑,不得仕進。及六鎭叛,元义乃用代來人爲傳詔以慰悅之。廷尉評代人山偉奏記,稱义德美,义擢偉爲尚書二千石郎。
13.東西の敕勒諸部は皆、魏に反逆して、破六韓抜陵に従属した。孝明帝は李崇や広陽王元淵の言葉を考えるようになった。丙辰、詔を下して言った。
「諸州や諸鎮で軍籍にあって、罪を得て配流されたのではない者は全員、(役務を)免除して民とする」
 鎮を州に改めた。懐朔鎮を朔州とし、朔州を雲州と改名した。兼黄門侍郎酈道元を大使として、六鎮の人心を安定させようとした。この時、すでに六鎮は全て反逆しており、ついに酈道元が赴くことはなかった。
 これ以前、代郡から洛陽に移住した者には選部に抑圧され、仕官できない者が多かった。六鎮が反逆すると、元义は代郡出自の者を伝詔に登用し、彼らを慰撫して喜ばせた。廷尉評、代郡の山偉は文章を上奏し、元义の立派な人格を称えた。元义は山偉を尚書二千石郎に抜擢した。
 14秀容人乞伏莫于聚衆攻郡,殺太守;丁酉,南秀容牧子萬于乞眞殺太僕卿陸延,秀容酋長爾朱榮討平之。榮,羽健之玄孫也。其祖代勤,嘗出獵,部民射虎,誤中其髀,代勤拔箭,不復推問,所部莫不感悅。官至肆州刺史,賜爵梁郡公,年九十餘而卒;子新興立。新興時,畜牧尤蕃息,牛羊駝馬,色別爲羣,彌漫川谷,不可勝數。魏毎出師,新興輒獻馬及資糧以助軍,高祖嘉之。新興老,請傳爵於子榮,魏朝許之。榮神機明決,御衆嚴整。時四方兵起,榮陰有大志,散其畜牧資財,招合驍勇,結納豪桀,於是侯景、司馬子如、賈顯度及五原段榮、太安竇泰皆往依之。顯度,顯智之兄也。
14.秀容の乞伏莫于が兵を集めて郡を攻撃し、太守を殺害した。丁酉、南秀容の牧子、万于乞真が太僕卿陸延を殺害した。秀容酋長爾朱栄が乞伏莫于・万于乞真を討伐・平定した。
 爾朱栄は爾朱羽健の玄孫である。かつて爾朱栄の祖先、爾朱代勤が狩猟に出でた時、部民が虎を射ようとして、誤って爾朱代勤の腿に(矢を)当ててしまった。爾朱代勤は矢を引き抜くと、改めて罪を問うことはなかった。部下に心から喜ばない者はいなかった。官位は肆州刺史に至り、梁郡公の封爵を賜った。九十歳余りで死去した。子の爾朱新興が後を継いだ。爾朱新興の時、家畜が非常に繁殖した。牛や羊・駱駝は色別に群れを作って川や谷に満ち、数え切れなかった。魏が軍勢を出撃させるたび、爾朱新興は馬や軍需物資・食料を献上して軍を支援した。高祖は爾朱新興を喜ばしく思った。爾朱新興は老いると、子の爾朱栄に封爵を継がせられるように求めた。魏朝廷はこれを許可した。
 爾朱栄は知略に長けて決断力があり、軍勢を統制すること厳正だった。当時、全土で兵乱が起きていた。爾朱栄は密かに大志を抱き、自らの家畜や資産を投じて、勇猛な者たちを招き集め、豪族と協力関係を結んだ。かくして侯景・司馬子如・賈顕度や五原郡の段栄・太安郡の竇泰らは皆、爾朱栄の下に赴いて配下となった。賈顕度は賈顕智の兄である。
 15戊戌,莫折念生遣都督竇雙攻魏盤頭郡,東益州刺史魏子建遣將軍竇念祖撃破之。
15.戊戌、莫折念生は都督宝双を派遣して魏の盤頭部を攻撃した。東益州刺史魏子建は将軍竇念祖を派遣して、これを撃破した。
 16九月,戊申,成景儁拔魏睢陵。戊午,北兗州刺史趙景悅圍荊山。裴邃帥騎三千襲壽陽,壬戌夜,斬關而入,克其外郭。魏揚州刺史長孫稚禦之,一日九戰,後軍蔡秀成失道不至,邃引兵還。別將撃魏淮陽,魏使行臺酈道元、都督河間王琛救壽陽,安樂王鑒救淮陽。鑒,詮之子也。
16.九月、戊申、成景儁が魏の睢陵を陥落させた。戊午、北兗州刺史趙景悦が荊山戍を包囲した。裴邃は騎兵三千を率いて寿陽を襲撃した。壬戌夜、城門から斬り込んで、寿陽の外郭を制圧した。魏の揚州刺史長孫稚は梁軍に抗戦し、一日に九度戦った。後軍の蔡秀成が道に迷って到達せず、裴邃は軍を撤退させて帰還した。別働隊の将軍が魏の淮陽を攻撃した。
 魏は行台酈道元と都督・河間王元琛に寿陽を、安楽王元鑑に淮陽を救援させた。元鑑は元詮の子である。
 17魏西道行臺元脩義得風疾,不能治軍。壬申,魏以尚書左僕射齊王蕭寶寅爲西道行臺大都督,帥諸將討莫折念生。
  宋穎密求救於吐谷渾王伏連籌,伏連籌自將救涼州,于菩提棄城走,追斬之。城民趙天安等復推宋穎爲刺史。
17.魏の西道行台元修義は痛風にかかり、軍を統率することができなくなった。壬申、魏は尚書左僕射・斉王蕭宝寅を西道行台大都督とし、諸将を率いて莫折念生を討伐させた。  宋穎は密かに吐谷渾王伏連籌に救援を求めていた。伏連籌は自ら(軍勢を)率いて涼州救援に向かった。于菩提は城を放棄して逃げた。(伏連籌は)于菩提を追撃して斬った。城民趙天安らは再び宋穎を刺史に推挙した。
 18河間王琛軍至西硤石,解渦陽圍,復荊山戍。靑、冀二州刺史王神念與戰,爲琛所敗。冬,十月,戊寅,裴邃、元樹攻魏建陵城,克之,辛巳,拔曲木,掃虜將軍彭寶孫拔琅邪。
18.河間王元琛の軍が西硤石に至ると、渦陽の包囲が解け、荊山戍を回復した。青・冀二州刺史王神念と戦い、元琛は敗れた。
 冬、十月、戊寅、裴邃と元樹が魏の建陵城を攻撃し、これを制圧した。辛巳、曲沭戍を陥落させた。掃虜将軍彭宝孫が琅邪を陥落させた。
 19魏營州城民劉安定、就德興執刺史李仲遵,據城反。城民王惡兒斬安定以降;德興東走,自稱燕王。
19.魏の営州城民の劉安定・就徳興が刺史李仲遵を捕らえ、州城を占拠して反乱を起こした。城民王悪児が劉安定を斬って投降した。就徳興は東に逃げ、燕王を自称した。
 20胡琛遣其將宿勤明達寂豳、夏、北華三州,魏遺都督北海王顥帥諸將討之。顥,詳之子也。
20.胡琛は将軍宿勤明達を派遣して、豳州・夏州・北華州に侵攻した。魏は都督・北海王元顥を派遣して、諸将を率いて宿勤明達を討伐させた。元顥は元詳の子である。
 21甲申,彭寶孫拔檀丘。辛卯,裴邃拔狄城;丙申,又拔甓城,進屯黎漿。壬寅,魏東海太守韋敬欣以司吾城降。定遠將軍曹世宗拔曲陽;甲辰,又拔秦墟,魏守將多棄城走。
21.甲申、彭宝孫が檀丘を陥落させた。辛卯、裴邃が狄丘を陥落させた。丙申、また甓城を陥落させ、進軍して黎漿に駐屯した。
 壬寅、魏の東海太守韋敬欣が司吾城とともに投降した。
 定遠将軍曹世宗が曲陽を陥落させた。甲辰、また秦墟を陥落させた。魏の守将の多くが城を放棄して逃走した。
 22魏使黄門侍郎盧同持節詣營州慰勞,就德興降而復反。詔以同爲幽州刺史兼尚書行臺,同屢爲德興所敗而還。
22.魏の黄門侍郎盧同が持節して営州を訪問して(就徳興を)宥めた。就徳興は投降したが、再び反乱を起こした。詔を下して盧同を営州刺史兼尚書行台とした。盧同は何度も就徳興に敗れて帰還した。
 23魏朔方胡反,圍夏州刺史源子雍,城中食盡,煑馬皮而食之,衆無貳心。子雍欲自出求糧,留其子延伯守統萬,將佐皆曰:「今四方離叛,糧盡援絶,不若父子倶去。」子雍泣曰:「吾世荷國恩,當畢命此城;但無食可守,故欲往東州,爲諸君營數月之食,若幸而得之,保全必矣。」乃師羸弱詣東夏州運糧,延伯與將佐哭而送之。子雍行數日,胡帥曹阿各拔邀撃,擒之。子雍潛遣人齎書,敕城中努力固守。闔城憂懼,延伯諭之曰:「吾父吉凶不可知,方寸焦爛。但奉命守城,所爲者重,不敢以私害公。諸君幸得此心。」於是衆感其義,莫不奮勵。子雍雖被擒,胡人常以民禮事之,子雍爲陳禍福,勸阿各拔降。會阿各拔卒,其弟桑生竟帥其衆隨子雍降。子雍見行臺北海王顥,具陳諸賊可滅之状,顥給子雍兵,令其先驅。時東夏州闔境皆反,所在屯結,子雍轉鬭而前,九旬之中,凡數十戰,遂平東夏州,徴税粟以饋統萬,二夏由是獲全。子雍,懷之子也。
23.魏の朔方胡が反乱を起こし、夏州刺史源子雍を包囲した。城内の食糧は尽き、馬の皮を煮て食べていたが、兵士に叛意は芽生えなかった。源子雍は自ら城を出て食料を求めに行き、子の源延伯を駐留させて統万を防衛させようとした。幕僚は皆、言った。
「今や全土で反乱が起こり、食糧は尽きて援軍も途絶えました。父子ともに退去されるべきです」
 源子雍は泣きながら言った。
「我が一族は代々、我が国の恩恵を蒙ってきた。この城の防衛に命を投げ打つのは当然だろう。ただ、食料がなければ防戦はできないだろう。だから東夏州に赴き、君たちのために数ヶ月分の食料を調達しようと思う。もし幸いにも食料が得られたら、必ずや城を守りきることはできるだろう」
 それで余剰兵を率いて東夏州に食料調達のために赴いた。源延伯は幕僚と慟哭して見送った。
 源子雍が行くこと数日、胡帥の曹阿各抜が迎え撃って、源子雍を捕らえた。源子雍は密かに部下を派遣して書状を州城に届けさせ、力を尽くして固守するよう城内の者に命じた。城内の全員が憂慮して怖れた。源延伯は彼らを説得して言った。
「父の生死は今も不明、心中は乱れきっております。ただ、命令に従って城を守ることこそ、最優先で行うべきことでしょう。私情によって公務を妨げはしません。願わくば皆もそう心得てください」
 かくして兵士たちは源延伯の義心に感動し、奮励しない者はいなかった。
 源子雍は捕らわれたが、胡人は源子雍を(捕虜ではなく)民として処遇した。源子雍は禍福について胡人に述べ、曹阿各抜に投降を勧めた。曹阿各抜が死去すると、弟の曹桑生は兵を率いて源子雍に投降することにした。
 源子雍は行台・北海王元顥と会見し、賊徒を壊滅させることはできると詳しく述べた。元顥は源子雍に軍勢を与えて先鋒とした。当時、東夏州全域で反乱が起こっており、各地で(賊軍が)駐屯・結集していた。源子雍は転戦しつつ進軍し、九旬に数十回戦った。ついには東夏州を平定し、税として徴集した粟を統万に輸送した。かくして夏州・東夏州は保全された。源子雍は源懐の子である。
 24魏廣陽王深上言:「今六鎭盡叛,高車二部亦與之同,以此疲兵撃之,必無勝理。不若選練精兵守恆州諸要,更爲後圖。」遂與李崇引兵還平城。崇謂諸將曰:「雲中者,白道之衝,賊之咽喉,若此地不全,則并、肆危矣。當留一人鎭之,誰可者?」衆舉費穆,崇乃請穆爲朔州刺史。
24.魏の広陽王元淵が進言した。
「今、六鎮の全てが反逆し、東西の高車も彼らに同調しています。この状況下、疲弊した軍によって反乱軍を攻撃しても、勝てる道理がありません。精兵を選抜して恒州の各要害を守らせ、改めて今後の方策を考えるべきです」
 李崇とともに軍を撤退させて平城に帰還することにした。李崇は諸将に言った。
「雲中は白道の要衝だ。この地を保全できなければ、并州や肆州は危うくなる。誰か一人を雲中に駐留させるべきだが、誰にしようか?」
 諸将は費穆を推挙した。それで李崇は費穆を朔州刺史とするよう求めた。
 25賀拔度拔父子及武川宇文肱糾合郷里豪傑,共襲衞可孤,殺之;度拔尋與鐵勒戰死。肱,逸豆歸之玄孫也。
  李崇引國子博士祖瑩爲長史;廣陽王深奏瑩詐增首級,盜沒軍資,瑩坐除名,崇亦免官削爵徴還。深專總軍政。
25.賀抜度抜父子は武川鎮の宇文肱とともに郷里の豪族を糾合して、ともに衛可孤を襲撃し、これを殺害した。まもなく賀抜度抜は鉄勒と戦って戦死した。宇文肱は宇文逸豆帰の玄孫である。
 李崇は国子博士祖瑩を招いて長史としていた。広陽王元淵は祖瑩が偽って首級の数を増やし、軍の資産を横領していると上奏した。祖瑩は罪を得て除名された。李崇も官職と封爵を剥奪され、召還された。元淵は軍政を単独で取り仕切ることになった。
 26莫折天生進攻魏岐州,十一月,戊申,陷之,執都督元志及刺史裴芬之,送莫折念生,殺之。念生又使卜胡等寇涇州,敗光祿大夫薛巒於平涼東。巒,安都之孫也。
26.莫折天生が魏の岐州に侵攻した。十一月、戊申、岐州を陥落させ、都督元志と刺史裴芬之を捕らえ、莫折念生の下に送致、殺害した。また莫折念生は卜胡らを涇州に侵攻させ、平涼の東で光禄大夫薛巒を破った。薛巒は薛安都の孫である。
 27丙辰,彭寶孫拔魏東莞。壬戌,裴邃攻壽陽之安城,丙寅,馬頭、安城皆降。
27.丙辰、彭宝孫が魏の東莞郡を陥落させた。壬戌、裴邃が寿陽の安城を陥落させた。丙寅、馬頭・安城がともに投降した。
 28高平人攻殺卜胡,共迎胡琛。
28.高平鎮の人が卜胡を攻撃・殺害して、ともに胡琛を奉戴した。
 29魏以黄門侍郎楊昱兼侍中,持節監北海王顥軍,以救豳州,豳州圍解。蜀賊張映龍、姜神達攻雍州,雍州刺史元脩義請援,一日一夜,書移九通。都督李叔仁遲疑不赴,昱曰:「長安,關中基本,若長安不守,大軍自然瓦散,留此何益?」遂與叔仁進撃之,斬神達,餘黨散走。
29.魏は黄門侍郎楊昱を兼侍中とすると、持節して北海王元顥軍の監軍とし、豳州を救援させた。豳州の包囲は解かれた。
 蜀人の賊、張映竜と姜神達が雍州を攻撃した。雍州刺史元修義は援軍を求め、一昼夜かけて、九通の書状を送った。都督李叔仁は躊躇して赴かなかった。楊昱が言った。
「長安は関中の根本たる地です。もし長安を防衛できなければ、主力軍は自然と瓦解するでしょう。ここに留まっていて何の利益があります?」
 そして李叔仁とともに進軍して蜀人を攻撃し、姜神達を斬った。残党は潰走した。
 30十二月,戊寅,魏荊山降。
30.十二月、戊寅、魏の荊山戍が投降した。
 31壬辰,魏以京兆王繼爲太師、大將軍,都督西道諸軍以討莫折念生。
31.壬辰、魏は京兆王元継を太師・大将軍とすると、西道諸軍を統率して莫折念生を討伐させた。
 32乙巳,武勇將軍李國興攻魏平靖關;辛丑,信威長史楊乾攻武陽關;壬寅,攻峴關;皆克之。國興進圍郢州,魏郢州刺史裴詢與蠻酋西郢州刺史田朴特相表裏以拒之。圍城近百日,魏援軍至,國興引還。詢,駿之孫也。
32.乙巳、武勇将軍李国興が魏の平靖関を攻撃した。辛丑、信威長史楊乾が武陽関を攻撃した。壬寅、峴関を攻撃した。全て制圧した。李国興は進軍して郢州を包囲した。魏の郢州刺史裴詢は蛮酋・西郢州刺史田朴特と協力して抗戦した。  州城を包囲して百日近く、魏の援軍が到来した。李国興は軍を撤退させて帰還した。裴詢は裴駿の孫である。
 33魏汾州諸胡反;以章武王融爲大都督,將兵討之。
33.魏の汾州諸胡が反乱を起こした。章武王元融を大都督として、軍を率いてこれを討伐させた。
 34魏魏子建招諭南秦諸氐,稍稍降附,遂復六郡十二戍,斬韓祖香。魏以子建兼尚書,爲行臺,刺史如故,梁、巴、二益、二秦諸州皆受節度。
34.魏の魏子建が南秦州の諸氐を招いて説得した。(氐人は)次第に降伏してゆき、ついには六郡十二戍を回復して、韓祖香を斬った。魏は魏子建を兼尚書・行台とした。南秦州刺史は以前のまま。梁州・巴州・益州・東益州・秦州・南秦州は全て魏子建の指揮下に入った。
 35莫折念生遣兵攻涼州,城民趙天安復執刺史以應之。
35.莫折念生が軍を派遣して涼州を攻撃した。城民趙天安は再び刺史を捕らえ、莫折念生に呼応した。
 36是歳,侍中、太子詹事周捨坐事免,散騎常侍錢唐朱异代掌機密,軍旅謀議,方鎭改易,朝儀詔敕,皆典之。异好文義,多藝能,精力敏贍,上以是任之。
36.この年、侍中・太子詹事周捨が罪を得て罷免された。
 散騎常侍、銭唐の朱异が代わって国家機密を掌握した。軍事の謀議、地方軍管区の変更、朝廷の儀礼や詔勅を全て取り仕切った。朱异は文章を好んで多くの学識があり、非常に活動的だった。それで武帝は朱异を信任した。
六年(乙巳、五二五)

 春,正月,丙午,雍州刺史晉安王綱遣安北長史柳渾破魏南郷郡;司馬董當門破魏晉城,庚戌,又破馬圈、彫陽二城。
1.春、正月、丙午、雍州刺史・晋安王蕭綱が安北長史柳渾を派遣して魏の南郷郡を破った。司馬董当門が魏の晋城を破った。庚戌、また馬圏城・彫陽城を破った。
 辛亥,上祀南郊,大赦。
2.辛亥、武帝が南郊で祭祀を行い、大赦を行った。
 魏徐州刺史元法僧,素附元义,見义驕恣,恐禍及己,遂謀反。魏遺中書舍人張文伯至彭城,法僧謂曰:「吾欲與汝去危就安,能從我乎?」文伯曰:「我寧死見文陵松柏,安能去忠義而從叛逆乎!」法僧殺之。庚申,法僧殺行臺高諒,稱帝,改元天啓,立諸子爲王。魏發兵撃之,法僧乃遣其子景仲來降。
  安東長史元顯和,麗之子也,舉兵與法僧戰;法僧擒之,執其手,命其共坐,顯和不肯,曰:「與翁皆出皇家,一朝以地外叛,獨不畏良史乎!」法僧猶欲慰諭之,顯和曰:「我寧死爲忠鬼,不能生爲叛臣!」乃殺之。
  上使散騎常侍朱异使於法僧,以宣城太守元略爲大都督,與將軍義興陳慶之、胡龍牙、成景俊等將兵應接。
3.魏の徐州刺史元法僧は以前から元义に与していた。元义が驕慢で我が儘に振る舞っているのを見て、災禍が自分に及ぶのを怖れ、ついに謀反した。
 魏は中書舎人張文伯を彭城に派遣した。元法僧は言った。
「私は君とともに危難を取り除いて安心を得たい。私に従うつもりはあるか?」
 張文伯は言った。
「むしろ私は死して文陵の松柏を見ることにいたしましょう。忠義を捨てて反逆者に従うことなどできるものか!」
 元法僧は張文伯を殺害した。庚申、元法僧は行台高諒を殺害し、皇帝を称して天啓と改元した。諸子を王に即位させた。
 魏は軍勢を出撃させて元法僧を攻撃した。元法僧は子の元景仲を派遣して投降してきた。
 安東長史元顕和は元麗の子である。挙兵して元法僧と戦った。元法僧は元顕和を捕虜とすると、その手を取って自分と同座するよう命じた。元顕和は拒否して言った。
「私と貴方はともに皇族の人間だ。此度、任地に拠って反逆したということは、史官(の筆)を怖れないということだな!」
 なおも元法僧は元顕和を宥めて説得しようとした。元顕和は言った。
「むしろ死して忠義の鬼となろう。生き延びて反逆者になることなどできるか」
 それで元顕和を殺害した。
 武帝は散騎常侍朱异を元法僧への使者とした。宜城太守元略を大都督とすると、将軍、義興郡の陳慶之・胡竜牙・成景儁らと軍を率いて(元法僧に)呼応した。
 莫折天生軍於黑水,兵勢甚盛。魏以岐州刺史崔延伯爲征西將軍、西道都督,帥衆五萬討之。延伯與行臺蕭寶寅軍于馬嵬。延伯素驍勇,寶寅趣之使戰,延伯曰:「明晨爲公參賊勇怯。」乃選精兵數千西渡黑水,整陳向天生營;寶寅軍于水東,遙爲繼援。延伯直抵天生營下,揚威脅之,徐引兵還。天生見延伯衆少,爭開營逐之,其衆多於延伯十倍,蹙延伯於水次,寶寅望之失色。延伯自爲後殿,不與之戰,使其衆先渡,部伍嚴整,天生兵不敢撃。須臾,渡畢,延伯徐渡,天生之衆亦引還。寶寅喜曰:「崔君之勇,關、張不如。」延伯曰:「此賊非老奴敵也,明公但安坐,觀老奴破之。」癸亥,延伯勒兵出,寶寅舉軍繼其後。天生悉衆逆戰,延伯身先士卒,陷其前鋒,將士盡鋭競進,大破之,俘斬十餘萬,追奔至小隴,岐、雍及隴東皆平。將士稽留采掠,天生遂塞隴道,由是諸軍不能進。
  寶寅破宛川,俘其民以爲奴婢,以美女十人賞岐州刺史魏蘭根,蘭根辭曰:「此縣介於強寇,不能自立,故附從以救死。官軍之至,宜矜而撫之,奈何助賊爲虐,翦以爲賤役乎!」悉求其父兄而歸之。
4.莫折天生は黒水に布陣し、兵の士気は非常に盛んだった。
 魏は魏州刺史崔延伯を征西将軍・西道都督とし、五万の兵を率いて莫折天生を討伐させた。崔延伯は行台蕭宝寅とともに馬嵬に布陣した。もとより崔延伯は勇猛だった。蕭宝寅は崔延伯を戦闘に赴かせた。崔延伯は言った。
「明朝、貴殿のために賊軍が如何ほどのものか見てこよう」
 それで精兵数千を選んで黒水を西に渡り、陣列を整えて莫折天生の陣営を向いた。蕭宝寅は黒水の西に布陣し、離れて後方から支援した。崔延伯は莫折天生の陣営に直行すると、威勢を示して莫折天生軍を脅かし、ゆっくりと軍を後退させた。
 莫折天生は崔延伯軍が少数であるのを見ると、争うように陣門を開いて崔延伯軍を追撃した。その軍勢は崔延伯軍に十倍した。(莫折天生は)河岸で崔延伯軍に迫り、蕭宝寅はこれを望み見て顔を青ざめた。
 崔延伯は自ら殿軍となって、莫折天生軍と戦わずに兵を先に渡河させた。隊列は厳格に整っており、莫折天生の軍は攻撃しようとしなかった。しばらくして渡り終えると、それから崔延伯も渡河した。莫折天生の軍も撤退した。蕭宝寅は喜んで言った。
「崔君の勇猛なこと、関羽・張飛でも及ばないだろう」
 崔延伯は言った。
「あの賊軍、この老人にとって敵ではない。貴殿はただ心安らかに座ったまま、私が奴らを破るのを見ておられよ」
 癸亥、崔延伯は部隊を指揮して出撃した。蕭宝寅は全軍を率いて後に続いた。
 莫折天生は全軍で迎撃した。崔延伯は自ら兵士の前に立ち、敵の先鋒を壊滅させた。勢いに乗った将兵は競うように進み、莫折天生軍を大破した。斬ったり捕虜としたのは十万人余り。逃げる敵軍を追撃して小隴に至った。
 岐州・雍州と隴東は全て平定された。将兵が進撃を停止して戦利品を奪っていると、莫折天生は隴道を塞いでしまった。それで諸軍は進軍できなくなった。
 蕭宝寅は宛川を破ると、捕虜とした住民を奴婢として、美女十人を岐州刺史魏蘭根への報賞とした。魏蘭根は辞退して言った。
「この周囲の諸県への侵攻は激しく、自ら対処することはできませんでした。それで(賊徒に)従属して死を免れていたのです。官軍が到来したのなら、住民を憐れんで安心させるべきでしょう。どうして賊徒の暴虐を助けるように、皆を賤民としてしまうのですか!」
 (美女)全員の父兄を捜し求め、(その下に)帰らせた。
 乙巳,裴邃拔魏新蔡郡,詔侍中、領軍將軍西昌侯淵藻將衆前驅,南兗州刺史豫章王綜與諸將繼進。癸酉,裴邃拔鄭城,汝、穎之間,所在響應。
  魏河間王琛等憚邃威名,軍於城父,累月不進,魏朝遣廷尉少卿崔孝芬持節、齎齋庫刀以趣之。孝芬,挺之子也。琛至壽陽,欲出兵決戰。長孫稚以爲久雨未可出,琛不聽,引兵五萬出城撃邃。邃爲四甄以待之,使直閤將軍李祖憐先挑戰而僞退;稚、琛悉衆追之,四甄競發,魏師大敗,斬首萬餘級。琛走入城,稚勒兵而殿,遂閉門自固,不敢復出。
  魏安樂王鑒將兵討元法僧,撃元略於彭城南。略大敗,與數十騎走入城。鑒不設備,法僧出撃,大破之,鑒單騎奔歸。將軍王希耼拔魏南陽平,執太守薛曇尚。曇尚,虎子之子也。甲戌,以法僧爲司空,封始安郡公。
  魏以安豐王延明爲東道行臺,臨淮王彧爲都督,以撃彭城。
5.乙巳、裴邃が魏の新蔡郡を陥落させた。侍中・領軍将軍・西昌侯淵藻に軍を率いて先鋒とさせ、南兗州刺史・豫章王蕭綜は諸軍とともに後続した。癸酉、裴邃が鄭城を陥落させた。汝水・潁水一帯の各地で(梁軍に)呼応する者が現れた。
 魏の河間王元琛らは裴邃の威名を怖れ、城父に布陣した。数ヶ月間、進軍しなかったので、魏朝廷は廷尉少卿崔孝芬を持節として、斎庫刀を持って元琛の下に赴かせた。崔孝芬は崔挺の子である。
 元琛は寿陽に至ると、出撃して決戦しようとした。長孫稚は長雨のために出撃すべきではないとした。元琛は聞き入れず、五万の兵を率いて城を出ると裴邃を攻撃した。
 裴邃は四つの甄陣を布いて待ち受け、まず直閤将軍李祖憐に挑戦させ、偽って退却させた。長孫稚と元琛は全軍で追撃した。
(裴邃軍は)四つの甄陣から競うように出撃し、魏軍は大敗した。(裴邃軍は)数万の首級を斬った。
 元琛は城内に逃げ込み、長孫稚は軍を率いて殿軍となった。城門を閉じて防備を固めることにし、再び出撃しようとはしなかった。
 魏の安楽王元鑑が軍を率いて元法僧を討伐し、彭城の南で元略を攻撃した。元略は大敗し、数十騎で城内に逃げ込んだ。
 元鑑は防備を固めず、元法僧は出撃して、元鑑軍を大破した。元鑑は単騎で逃げ帰った。将軍王希耼が魏の南陽平郡を陥落させ、太守薛曇尚を捕らえた。薛曇尚は薛虎子の子である。甲戌、元法僧を司空として、始安郡公に封じた。
 魏は安豊王元延明を東道行台とし、臨淮王元彧を都督として、彭城を攻撃させた。
 魏以京兆王繼爲太尉。
  二月,乙未,趙景悅拔魏龍亢。
6.魏は京兆王元継を太尉とした。
 二月、乙未、趙景悦が魏の竜亢を陥落させた。
 初,魏劉騰既卒,胡太后及魏主左右防衞微緩。元义亦自寬,時出遊於外,留連不返,其所親諫,义不納;太后察知之。去秋,太后對帝謂羣臣曰:「今隔絶我母子,不聽往來,復何用我爲!我當出家,脩道於嵩山閒居寺耳。」因欲自下髪;帝及羣臣叩頭泣涕,殷勤苦請,太后聲色愈厲。帝乃宿於嘉福殿,積數日,遂與太后密謀黜义。然帝深匿形迹,太后有忿恚,欲得往來顯陽之言,皆以告义;又對义流涕,敍太后欲出家,憂怖之心日有數四。义殊不以爲疑,乃勸帝從太后所欲。於是太后數御顯陽殿,二宮無復禁礙。义舉元法僧爲徐州,法僧反,太后數以爲言,义深愧悔。
  丞相高陽王雍,雖位居义上,而深畏憚之。會太后與帝遊洛水,雍邀二宮幸其第。日晏,帝與太后至雍内室,從官者皆不得入,遂相與定圖义之計。於是太后謂义曰:「元郎若忠於朝廷,無反心,何故不去領軍,以餘官輔政!」义甚懼,免冠求解領軍。乃以义爲驃騎大將軍、開府儀同三司、尚書令、侍中、領左右。
7.以前、劉騰が死去すると、霊太后と孝明帝の近臣による警護は多少、緩くなった。元义も自ら安心しており、時には宮城外を遊行し、ゆっくりとして帰らなかったりした。元义と親しくする者は諫めたが、元义は聞き入れなかった。
 霊太后は元义の様子を察知した。昨秋、霊太后は孝明帝と対面して群臣に言った。
「今、私たち母子は引き離されて、行き来することも許されておりません。これ以上、私に何をしようとするのでしょうか?私は出家して、嵩山の間居寺で仏道を修めるべきなのです」
 そうして自ら剃髪しようとした。孝明帝と群臣は叩頭して涙を流し、(思い止まるよう)強く懇願した。ますます霊太后の声と表情は荒げられた。
 孝明帝が嘉福殿に宿泊して数日、霊太后と密かに元义の失脚を謀ることとなった。しかし孝明帝は(謀議の)形跡を決して見せなかった。霊太后が怒って顕陽殿との往来の許可を求めた言葉は皆で元义に報告した。また元义に対して涙を流して見せ、霊太后が出家しようとし、また憂慮していることを一日に四度は述べた。元义も特別、疑うことはなく、孝明帝に霊太后の要求に従うよう勧めた。
 かくして霊太后は何度も顕陽殿に赴き、皇帝と皇太后が再び引き離されることはなかった。元义は元法僧を徐州刺史に推挙していた。元法僧が反乱を起こすと、霊太后は言葉で責め立てた。元义は深く恥じ入って後悔した。
 丞相・高陽王元雍の地位は元义より上だったが、彼を非常に怖れて憎んでいた。
 ある時、霊太后が孝明帝と洛水に遊行すると、元雍は二人を自邸に迎えた。日暮れ、孝明帝と霊太后は元雍の私室に赴いた。従者全員に入室させなかった。三人で元义を陥れる計略を定めることとなった。かくして霊太后は元义に言った。
「元义殿が朝廷に忠実であり、反逆の心を持たないのなら、どうして領軍将軍の地位を手放し、その他の官職に就いて国政を補佐しないのでしょう!」
 元义は非常に怖れ、冠を脱いで領軍将軍の解任を求めた。それで元义を驃騎大将軍・開府儀同三司・尚書令・侍中・領左右とした。
 戊戌,魏大赦。
8.戊戌、魏で大赦を行った。
 壬辰,莫折念生遣都督楊鮓等攻仇池郡,行臺魏子建撃破之。
9.壬寅、莫折念生が都督楊鮓らを派遣して仇池郡を攻撃した。行台魏子建がこれを撃破した。
 10三月,己酉,上幸白下城,履行六軍頓所。乙丑,命豫章王綜權頓彭城,總督衆軍,并攝徐州府事。己巳,以元法僧之子景隆爲衡州刺史,景仲爲廣州刺史。上召法僧及元略還建康,法僧驅彭城吏民萬餘人南渡。法僧至建康,上寵待甚厚;元略惡其爲人,與之言,未嘗笑。
10.三月、己酉、武帝は白下城に行幸し、六軍の屯所に自ら赴いた。
 乙丑、豫章王蕭綜を彭城に駐屯させて、全軍の総司令官とし、また徐州の行政を代行させた。己巳、元法僧の子、元景隆を衡州刺史に、元景仲を広州刺史とした。
 武帝は元法僧と元略を建康に召還した。元法僧は彭城の官吏や民衆一万人余りを駆り立てて(長江を)南に渡った。元法僧は建康に至った。武帝からの寵遇は非常に手厚かった。元略は元法僧の人柄を嫌い、ともに語っても、一度も笑うことはなかった。
 11魏詔京光王繼班師。
11.魏は京兆王元継に詔を下して、軍勢を帰還させた。
 12北涼州刺史錫休儒等自魏興侵魏梁州,攻直城。魏梁州刺史傅豎眼遣其子敬紹撃之,休儒等敗還。
12.北涼州刺史錫休儒らが魏興から魏の梁州に侵攻し、直城を攻撃した。
 魏の梁州刺史傅豎眼が子の傅敬紹を派遣して錫休儒を攻撃させた。錫休儒らは敗れて帰還した。
 13柔然王阿那瓌爲魏討破六韓拔陵,魏遣牒云具仁齎雜物勞賜之。阿那瓌勒衆十萬,自武川西向沃野,屢破拔陵兵。夏,四月,魏主復遣中書舍人馮儁勞賜阿那瓌。阿那瓌部落浸強,自稱敕連頭兵豆伐可汗。
13.柔然王阿那瓌は魏のために破六韓抜陵を攻撃した。魏は牒云具仁を派遣して各種の品々をもたらして賜い、阿那瓌を慰労した。阿那瓌は十万の兵を指揮して、武川鎮から西の沃野鎮に向かい、何度も破六韓抜陵軍を破った。
 夏、四月、孝明帝は再び中書舎人馮儁を派遣し、阿那瓌を慰労して(各種の品々を)賜った。阿那瓌の部落は次第に強大になり、(阿那瓌は)頭兵豆伐可汗を自称した。
 14魏元义雖解兵權,猶總任内外,殊不自意有廢黜之理。胡太后意猶豫未決,侍中穆紹勸太后速去之。紹,亮之子也。潘嬪有寵於魏主,宦官張景嵩説之云:「义欲害嬪。」嬪泣訴於帝曰:「义非獨欲殺妾,將不利於陛下。」帝信之,因义出宿,解义侍中。明旦,义將入宮,門者不納。辛卯,太后復臨朝攝政,下詔追削劉騰官爵,除义名爲民。
  清河國郎中令韓子熙上書爲清河王懌訟冤,乞誅元义等,曰:「昔趙高柄秦,令關東鼎沸;今元义專魏,使四方雲擾。開逆之端,起於宋維,成禍之末,良由劉騰,宜梟首洿宮,斬骸沈族,以明其罪。」太后命發劉騰之墓,露散其骨,籍沒家貲,盡殺其養子。以子熙爲中書舍人。子熙,麒麟之孫也。
  初,宋維父弁常曰:「維性疏險,必敗吾家!」李崇、郭祚、游肇亦曰:「伯緒凶疏,終傾宋氏,若得殺身,幸矣。」維阿附元义,超遷至洛州刺史,至是除名,尋賜死。
  义之解領軍也,太后以义黨與尚強,未可猝制,乃以侯剛代义爲領軍以安其意。尋出剛爲冀州刺史,加儀同三司,未至州,黜爲征虜將軍,卒於家。太后欲殺賈粲,以义黨多,恐驚動内外,乃出粲爲濟州刺史,尋追殺之,籍沒其家。唯义以妹夫,未忍行誅。
  先是給事黄門侍郎元順以剛直忤义意,出爲齊州刺史;太后徴還,爲侍中。侍坐於太后,义妻在太后側,順指之曰:「陛下奈何以一妹之故,不正元义之罪,使天下不得伸其冤憤!」太后嘿然。順,澄之子也。他日,太后從容謂侍臣曰:「劉騰、元义昔嘗邀朕求鐵券,冀得不死,朕賴不與。」韓子熙曰:「事關生殺,豈繋鐵券!且陛下昔雖不與,何解今日不殺!」太后憮然。未幾,有告「义及弟瓜謀誘六鎭降戸反於定州,又招魯陽諸蠻侵擾伊闕,欲爲内應。得其手書,太后猶未忍殺之。羣臣固執不已,魏主亦以爲言,太后乃從之,賜义及弟瓜死於家,猶贈叉驃騎大將軍、儀同三司、尚書令。江陽王繼廢於家,病卒。前幽州刺史盧同坐义黨除名。
  太后頗事粧飾,數出遊幸,元順面諫曰:「禮,婦人夫沒自稱未亡人,首去珠玉,衣不文采。陛下母臨天下,年垂不惑,脩飾過甚,何以儀刑後世!」太后慚而還宮,召順,責之曰:「千里相徴,豈欲衆中見辱邪!」順曰:「陛下不畏天下之笑,而恥臣之一言乎!」
  順與穆紹同直,順因醉入其寢所,紹擁被而起,正色讓順曰:「身二十年侍中,與卿先君亟連職事,縱卿方進用,何宜相排突也!」遂謝事還家,詔諭久之,乃起。
  初,鄭羲之兄孫儼爲司徒胡國珍行參軍,私得幸於太后,人未之知。蕭寶寅西討,以儼爲開府屬。太后再攝政,儼請奉使還朝,太后留之,拜諫議大夫、中書舍人,領嘗食典御,晝夜禁中;毎休沐,太后常遣宦者隨之,儼見其妻,唯得言家事而已。中書舍人樂安徐紇,粗有文學,先以諂事趙脩,坐徙枹罕。後還,復除中書舍人,又諂事清河王懌;懌死,出爲鴈門太守。還洛,復諂事元义。义敗,太后以紇爲懌所厚,復召爲中書舍人,紇又諂事鄭儼。儼以紇有智數,仗爲謀主;紇以儼有内寵,傾身承接,共相表裏,勢傾内外,號爲徐、鄭。
  儼累遷至中書令、車騎將軍;紇累遷至給事黄門侍郎,仍領舍人,總攝中書、門下之事,軍國詔令莫不由之。紇有機辯強力,終日治事,略無休息,不以爲勞。時有急詔,令數吏執筆,或行或臥,人別占之,造次倶成,不失事理。然無經國大體,專好小數,見人矯爲恭謹,遠近輻湊附之。
  給事黄門侍郎袁翻、李神軌皆領中書舍人,爲太后所信任,時人云神軌亦得幸於太后,衆莫能明也。神軌求婚於散騎常侍盧義僖,義僖不許。黄門侍郎王誦謂義僖曰:「昔人不以一女易衆男,卿豈易之邪!」義僖曰:「所以不從,正爲此耳。從之,恐禍大而速。」誦乃堅握義僖手曰:「我聞有命,不敢以告人。」女遂適他族。臨婚之夕,太后遣中使宣敕停之,内外惶怖,義僖夷然自若。神軌,崇之子;義僖,度世之孫也。
14.魏の元义は(宮中の)兵権を解かれたとはいえ、まだ内外(の諸政務)を委任されており、また自らも解任・降格させられる理由はないと考えていた。
 霊太后は躊躇して(元义の処分を)決断できずにいたが、侍中穆紹は霊太后に速やかに元义を排除するよう勧めた。穆紹は穆亮の子である。潘嬪は孝明帝に寵愛されており、宦官の張景嵩が彼女に示唆した。
「元义は貴女を殺害しようとしております」
 潘嬪は泣きながら孝明帝に訴えた。
「元义は私だけを殺害しようとしたのではありません。陛下にも危害を加えるつもりだったのです」
 孝明帝はこれを信用し、それで元义が宮城外で宿泊したのを利用して侍中職から解任した。翌朝、元义が宮中に入ろうとしても、門番は立ち入らせなかった。
 辛卯、霊太后は再び朝廷に臨んで政務を代行し、詔を下して故劉騰の官職と封爵を剥奪し、元义を除名して庶人とした。
 清河国の郎中令韓子煕は上書して清河王元懌の冤罪を訴え、元义らの誅殺を求めて言った。
「昔、趙高が秦の政権を握ると、関東では大乱が起こりました。今日、元义が魏の政務を専断すると、全土が大混乱に陥りました。そもそも反逆の発端は宋維(の讒言)にあり、災禍を招いてしまったのは全て劉騰(の横暴)が原因なのです。(彼らの)首級を宮城門に晒し、邸宅を掘り下げて泥中に沈めてやりましょう。(劉騰の)遺骸を斬り、その五族は水に投げ込んでやるべきです。そうして彼らの罪を明らかにしていただきたい」
 霊太后は劉騰の墓所を暴くよう命じ、その遺骨を破棄させた。家財は没収され、劉騰の養子は全員、殺害された。韓子煕を中書舎人とした。韓子煕は韓麒麟の孫である。
 以前から、宋維の父、宋弁が言っていた。
「維は無責任で奸悪な性格。きっと我が一族を滅ぼすだろう」
 李崇・郭祚・游肇らも皆、言っていた。
「宋伯緒は凶悪で無責任。ついには宋氏を傾けるだろう。奴だけが殺されれば幸いというものだ」
 宋維は元义に迎合し、特別に昇進して洛州刺史となっていた。この時になって除名され、ついで死を賜った。
 元义の領軍将軍職は解任されたが、元义派(の勢力)はまだ強力で、直ちに取り締まることができなかった。
 それで霊太后は侯剛を元义の後任として領軍将軍とし、元义派を安心させた。ついで侯剛を冀州刺史として、儀同三司を加官し、任地に赴く前に降格して征虜将軍とした。(侯剛は)自邸で死去した。霊太后は賈粲を殺害しようとしたが、元义派は数多く、内外を動揺させることを怖れた。それで賈粲を済州刺史として出向させ、ついで使者に(賈粲を)殺害させると、家財を没収した。
 ただ元义は妹の夫だったので、誅殺することに踏み切られないでいた。
 これ以前、給事黄門侍郎元順は剛直な性格で元义の意に反し、斉州刺史に出向していた。霊太后は(元順を)召還し、侍中とした。
 霊太后臨席の場に近侍していた時、元义の妻が霊太后の側にいるのを見ると、元順は彼女を指さして言った。
「陛下よ。どうして妹のためとはいえ、元义の罪を正して、天下の冤罪や憤りを晴らさせようとはなさらないのですか」
 霊太后は黙然とした。元順は元澄の子である。
 ある日、霊太后は静かに近侍の者に言った。
「劉騰と元义は昔、鉄券を授けるよう私に求めたことがあり、死罪を回避する権利を得ようと願っておりました。(元义らに鉄券を)与えていればと後悔しています」
 韓子煕が言った。
「(大罪人を)処刑するか否かに鉄券は関係ありません。それに陛下は結局、(元义らに鉄券を)与えなかったのでしょう。どうして今日、殺さない口実となりましょうか!」
 霊太后は憮然とした。まもなくして報告があった。
「元义と弟の元瓜は投降した六鎮の軍人たちを誘って定州で反乱を起こさせ、また魯陽の諸蛮人を招いて伊闕に侵攻させ、(その混乱に)内応しようとしていました」
 その元义直筆と言う書状を手にしても、まだ霊太后は元义を殺すことに踏み切れないでいた。群臣は意見を変えることはなく、孝明帝も口添えしたので、霊太后は元义誅殺の意見に従うことにした。
 元义と弟の元瓜に自邸にて死を賜ったが、それでも元义には驃騎大将軍・儀同三司・尚書令を追贈した。江陽王元継は自邸に捨て置かれ、病で死去した。前幽州刺史盧同は元义派だった罪を問われ、除名された。
 霊太后は身を飾ることに執心し、何度も遊幸に赴いていた。元順は面前で諫言した。
「礼においては夫を亡くした婦人は自らを未亡人と称し、首からは珠玉を外し、華麗な衣服は身に付けないものです。陛下は国母として天下に臨み、年齢も不惑に及ぼうとしております。これほど身を飾り立ることが過剰であれば、どうやって後世への模範とできましょう!」
 霊太后は恥じ入って宮中に帰還すると、元順を呼び出して咎めた。
「各地から多くの人々が集まっている中で、どうして侮辱されなければならないのですか!」
 元順が言った。
「陛下は天下の笑い物になることは怖れないのに、臣下の一言には恥じ入るのですか!」
 元順と穆紹がともに(宮城に)宿直した時のこと。元順は酔っていたので穆紹の寝所に入り込んでしまった。穆紹は夜着を纏って起き上がり、厳しい表情で元順を罵った。
「この身が侍中となって二十年、君の父上とも何度か職務をともにしてきた。たとえ君が重用されるようになったからといって、どうして(私が寝所から)押し出されなければならんのだ!」
 そして辞職すると自邸に帰ってしまった。詔を下して久しく穆紹を諭し、ようやく(再び)起用することができた。
 以前、鄭羲の兄の孫、鄭儼は司徒胡国珍の行参軍であり、個人的に霊太后の寵愛を得ていたが、まだ誰もそのことを知らなかった。
 蕭宝寅は西方を討伐すると、鄭儼を開府属とした。霊太后が再び政務を代行するようになると、鄭儼は使者となって朝廷に帰還することを求めた。霊太后は鄭儼を(身辺に)引き留めて、諫議大夫・中書舎人を拝命させ、尚食典御の職務を担当させた。(鄭儼は)昼夜、宮中におり、霊太后は休暇のたびに、宦官を派遣して鄭儼を随行させた。鄭儼は妻に会っても、(皇室の)家政を補佐しているとだけ教えた。
 中書舎人、楽安郡の徐紇は一応の文学の才があったが、以前は趙脩に追従しており、(趙脩に)連座して枹罕城に流刑となった。後に帰還し、再び中書舎人を授かった。また清河王元懌に追従した。元懌が死去すると、雁門太守に出向となった。洛陽に帰還すると、今度は元义に追従した。元义が失脚すると、霊太后は徐紇が元懌に厚遇されていたので、再び召し出して中書舎人とした。
 また徐紇は鄭儼に追従した。徐紇には知謀があったので、鄭儼は(徐紇を)謀主として頼みにした。鄭儼は霊太后の寵愛により権力があったので、徐紇も鄭儼の意を酌むことに専心し、お互いに協力して、(朝廷の)内外に絶大な影響を及ぼした。(人々は二人の権勢を)徐鄭と称した。
 鄭儼は昇進して中書令・車騎将軍に、徐紇は昇進して給事黄門侍郎となったが、舎人の職務を担当し、中書省・門下省の職務を総轄した。軍事や国政に関する詔は必ず二人の手によるものとなった。
 徐紇は話術が巧みで精力的。終日、職務に携わり、ほとんど休息しなかったが、苦労には思わなかった。急ぎの詔があると、数人の官吏に執筆させた。時には歩き回り、時には横になって、各員に口頭で草案を伝え、短い時間で全て完成させたが、内容に不備があることは無かった。しかし国家を統治するような大局観はなく、小細工ばかりを好んでいた。謁見する人々は偽って恭謙に振る舞い、遠近から赴いてきて徐紇に追従した。
 給事黄門侍郎袁翻・李神軌はともに中書舎人の職務を担当し、霊太后に信任されていた。当時の人々は李神軌も霊太后に寵愛されていると言っていたが、証明できる者はいなかった。
 李神軌は散騎常侍盧義僖に通婚を求めたが、盧義僖は許さなかった。黄門侍郎王誦が盧義僖に言った。
「昔、楽広は息子たちを娘一人と引き替えにはしなかった。君には引き替えられるものなのか!」
 盧義僖は言った。
「それだからこそ、(李神軌には)嫁がせないのだよ。彼の求めを受け入れれば、すぐにでも大きな災禍が訪れるだろう」
 王誦は堅く盧義僖の手を握って言った。
「それが天命であるのなら、決して他人に告げることはないだろう」
 (盧義僖の)娘は他の氏族に嫁ぐこととなった。婚礼の前夜、霊太后は中使を派遣して勅を下し、(婚礼を)中止させた。内外(の者)は怖れたが、盧義僖は落ち着いて普段と変わらない様子だった。李神軌は李崇の子、盧義僖は盧度世の孫である。
 15胡琛據高平,遣其大將萬俟醜奴、宿勤明達等寇魏涇州,將軍盧祖遷、伊甕生討之,不克。蕭寶寅、崔延伯既破莫折天生,引兵會祖遷等於安定,甲卒十二萬,鐵馬八千,軍威甚盛。醜奴軍於安定西北七里,時以輕騎挑戰。大兵未交,輒委走。延伯恃其勇,且新有功,遂唱議爲先驅撃之。別造大盾,内爲鎖柱,使壯士負而趨,謂之排城,置輜重於中,戰士在外,自安定北縁原北上。將戰,有賊數百騎詐持文書,云是降簿,且乞緩師。寶寅、延伯未及閲視,宿勤明達引兵自東北至,降賊自西競下,覆背撃之。延伯上馬奮撃,逐北徑抵其營。賊皆輕騎,延伯軍雜歩卒,戰久疲乏,賊乘間得入排城;延伯遂大敗,死傷近二萬人,寶寅收衆,退保安定。延伯自恥其敗,乃繕甲兵,募驍勇,復自安定西進,去賊七里結營。壬辰,不告寶寅,獨出襲賊,大破之,俄頃,平其數柵。賊見軍士採掠散亂,復還撃之,魏兵大敗,延伯中流矢卒,士卒死者萬餘人。時大寇未平,復失驍將,朝野爲之憂恐。於是賊勢愈盛,而羣臣自外來者,太后問之,皆言賊弱,以求悅媚,由是將帥求益兵者往往不與。
15.胡琛は高平鎮を占拠すると、大将の万俟醜奴・宿勤明達らを派遣して魏の涇州に侵攻させた。
 将軍盧祖遷と伊甕生が迎撃したが、勝利できなかった。蕭宝寅と崔延伯は莫折天生を破っており、軍を率いて安定で盧祖遷らと合流した。鎧兵十二万、鉄騎八千、軍の威容は非常に盛んだった。
 万俟醜奴は安定の西北七里に布陣し、時折、軽騎兵で戦闘を挑んだが、大軍が衝突しないうちに、戦闘を放棄して逃走していた。
 崔延伯は勇猛を自負しており、また新たな功績を立てようとして、先鋒となって万俟醜奴軍を攻撃することを提議した。自部隊では大きな盾を作成して、内側に柱を取り付け、壮健な兵士に背負って進軍させた。これを排城と言い、(盾で作られた囲みの)内側に輜重を置き、その外に兵士を配備して、安定の北方の平原地帯を北上した。
 戦闘に及ぶに当たって、賊軍の数百騎が文書をもたらし、これは投降を望む者の名簿であると偽わり、また戦闘を一時停止するよう求めた。蕭宝寅と崔延伯が(文書を)確認する前に、宿勤明達は軍を率いて東北から到来し、投降を申し出た賊兵も西から合わせて(攻め)下り、前後から崔延伯軍を攻撃した。崔延伯は馬上で奮戦し、逃走する賊軍を真っ直ぐに追撃して、その陣営に至った。賊軍は皆、軽騎兵だったが、崔延伯軍には歩兵が混合していた。長時間の戦闘で(崔延伯軍は)疲労しており、賊軍は隙を突いて排城内に入り込んだ。ついに崔延伯は大敗した。死傷者は二万人近くに上った。蕭宝寅は軍勢を収容し、退却して安定を保持した。
 崔延伯は敗北に恥じ入り、鎧兵を再編して、勇猛な者を募り、再び安定から西方に進軍して、賊軍から七里(の地点)に陣営を置いた。壬辰、蕭宝寅に報せずに、独断で賊軍を襲撃し、これを大破した。瞬く間に、賊軍の砦、数ヶ所を制圧した。賊軍は崔延伯軍の兵が散乱物を略奪しているのを見て、戻ってきて再び攻撃した。魏軍は大敗し、崔延伯は流れ矢に当たって戦死した。兵士の戦死者は一万人余り。
 この時、大反乱は平定されておらず、また勇猛な将軍を失ったことで、朝野は憂慮・恐怖した。かくして賊軍の勢力はさらに盛んになった。しかし各地から来た群臣は霊太后の問いかけに対し、皆、「賊軍は弱い」と言い、(霊太后を)喜ばせて追従しようとした。そのため将軍が増援を求めても、援軍が送られない場合もあった。
 16五月,夷陵烈侯裴邃卒。邃深沈有思略,爲政寬明,將吏愛而憚之。壬子,以中護軍夏侯亶督壽陽諸軍事,馳驛代邃。
16.五月、夷陵烈侯裴邃が死去した。裴邃は思慮深く沈着で知略があり、行政は寛容で透明だった。文武官は裴邃を慕い、また畏敬した。壬子、中護軍夏侯亶を督寿陽諸軍事とし、駅馬で急行させて裴邃の後任とした。
 17益州刺史臨汝侯淵猷遣其將樊文熾、蕭世澄等將兵圍魏益州長史和安於小劍,魏益州刺史邴虯遣統軍河南胡小虎、崔珍寶將兵救之。文熾襲破其柵,皆擒之,使小虎於城下説和安令早降,小虎遙謂安曰:「我柵失備,爲賊所擒,觀其兵力,殊不足言。努力堅守,魏行臺、傅梁州援兵已至。」語未終,軍士以刀毆殺之。西南道軍司淳于誕引兵救小劍,文熾置柵於龍鬚山上以防歸路。戊辰,誕密募壯士夜登山燒其柵,梁軍望見歸路絶,皆忷懼,誕乘而撃之,文熾大敗,僅以身免,虜世澄等將吏十一人,斬獲萬計。魏子建以世澄購胡小虎之尸,得而葬之。
17.益州刺史・臨汝侯淵猷は部将の樊文熾・蕭世澄らに軍を率いさせ、小剣戍に魏の益州長史和安を包囲させた。
 魏の益州刺史邴虯は統軍、河南郡の胡小虎・崔珍宝に軍を率いて小剣戍を救援させた。
 樊文熾は援軍の砦を襲撃して破り、全員を捕虜として、城下で胡小虎に早く投降するよう和安を説得させた。胡小虎は遠方から和安に言った。
「私の砦は防備が甘かったため、賊軍の捕虜とされてしまった。(しかし)その兵力を見ると、特別に言うほどのものでもない。力を尽くして守りを固めよ。魏行台殿や傅梁州殿の援軍はもう来ているだろう」
 言葉が終わらないうちに、(梁軍の)兵士は刀で胡小虎を殴殺した。
 西南道軍司淳于誕が軍を率いて小剣戍の救援に赴いた。樊文熾は竜鬚山上に砦を築いて、梁軍の帰路を防備していた。戊辰、淳于誕は密かに壮健な兵士を募り、夜、竜鬚山に登って砦を焼いた。梁軍は(砦が焼かれるのを)望み見て帰路が断たれたと、全員が恐慌状態となった。淳于誕は(梁軍の混乱に)乗じて攻撃した。
 樊文熾は大敗して、単身で逃れた。蕭世澄らの文武官十一人を捕虜とし、首級と戦利品は数万に上った。魏子建は蕭世澄と引き替えに胡小虎の遺体を求め、遺体を取り戻すと葬儀を行った。
 18魏魏昌武康伯李崇卒。
18.魏の魏昌武康伯李崇が死去した。
 19初,帝納東昏侯寵姫呉淑媛,七月而生豫章王綜,宮中多疑之。及淑媛寵衰怨望,密謂綜曰:「汝七月生兒,安得比諸皇子!然汝太子次弟,幸保富貴,勿泄也!」與綜相抱而泣。綜由是自疑,晝則談謔如常,夜則於靜室閉戸,披髮席藁,私於別室祭齊氏七廟。又微服至曲阿拜齊太宗陵,聞俗説割血瀝骨,滲則爲父子,遂潛發東昏侯冢,并自殺一男試之,皆驗,由是常懷異志,專伺時變。綜有勇力,能手制奔馬;輕財好士,唯留附身故衣,餘皆分施,恆致罄乏。屢上便宜,求爲邊任,上未之許。常於内齋布沙於地,終日跣行,足下生胝,日能行三百里。王、侯、妃、主及外人皆知其志,而上性嚴重,人莫敢言。又使通問於蕭寶寅,謂之叔父。爲南兗州刺史,不見賓客,辭訟隔簾聽之,出則垂帷於輿,惡人識其面。
  及在彭城,魏安豐王延明、臨淮王彧將兵二萬逼彭城,勝負久未決。上慮綜敗沒,敕綜引軍還。綜恐南歸不復得至北邊,乃密遣人送降款於彧;魏人皆不之信,彧募人入綜軍驗其虚實,無敢行者。殿中侍御史濟陰鹿悆爲彧監軍,請行,曰:「若綜有誠心,與之盟約;如其詐也,何惜一夫!」時兩敵相對,内外嚴固,悆單騎間出,徑趣彭城,爲綜軍所執,問其來状,悆曰:「臨淮王使我來,欲有交易耳。」時元略已南還,綜聞之,謂成景俊等曰:「我常疑元略規欲反城,將驗其虚實,故遣左右爲略使,入魏軍中,呼彼一人。令其人果來,可遣人詐爲略有疾在深室,呼至戸外,令人傳言謝之。」綜又遣腹心安定梁話迎悆,密以意状語之。悆薄暮入城,先引見胡龍牙,龍牙曰:「元中山甚欲相見,故遣呼卿。」又曰:「安豐、臨淮,將少弱卒,規復此城,容可得乎!」悆曰:「彭城,魏之東鄙,勢在必爭,得否在天,非人所測。」龍牙曰:「當如卿言。」又引見成景儁,景儁與坐,謂曰:「卿不爲刺客邪?」悆曰:「今者奉使,欲返命本朝。相刺之事,更卜後圖。」景儁爲設飲食,乃引至一所,詐令一人自室中出,爲元略致意曰:「我昔有以南向,且遣相呼,欲聞郷事;晩來疾作,不獲相見。」悆曰:「早奉音旨,冒險祗赴,不得瞻見,内懷反側。」遂辭退。諸將競問魏士馬多少,悆盛陳有勁兵數十萬,諸將相謂曰:「此華辭耳!」悆曰:「崇朝可驗,何華之有!」乃遣悆還。成景儁送之戲馬臺,北望城塹,謂曰:「險固如此,豈魏所能取!」悆曰:「攻守在人,何論險固!」悆還,於路復與梁話申固盟約。六月,庚辰,綜與梁話及淮陰苗文寵夜出,歩投魏軍。及旦,齋内諸閤猶閉不開,衆莫知所以,唯見城外魏軍呼曰:「汝豫章王昨夜已來,在我軍中,汝尚何爲!」城中求王不獲,軍遂大潰。魏人入彭城,乘勝追撃,復取諸城,至宿豫而還,將佐士卒死沒者什七八,唯陳慶之帥所部得還。
  上聞之,驚駭,有司奏削綜爵士,絶屬籍,更其子直姓悖氏。未旬日,詔復屬籍,封直爲永新侯。
  西豐侯正德自魏還,志行無悛,多聚亡命,夜剽掠於道,以輕車將軍從綜北伐,弃軍輒還。上積其前後罪惡,免官削爵,徙臨海;未至,追赦之。
  綜至洛陽,見魏主,還就館,爲齊東昏侯舉哀,服斬衰三年。太后以下並就館弔之,賞賜禮遇甚厚,拜司空,封高平郡公、丹陽王,更名贊。以苗文寵、梁話皆爲光祿大夫;封鹿悆爲定陶縣子,除員外散騎常侍。
  綜長史濟陽江革、司馬范陽祖[日恆]之皆爲魏所虜,安豐王延明聞其才名,厚遇之。革稱足疾不拜。延明使[日恆]之作欹器漏刻銘,革唾罵[日恆]之曰:「卿荷國厚恩,乃爲虜立銘,孤負朝廷!」延明聞之,令革作大小寺碑、祭彭祖文,革辭不爲。延明將箠之,革厲色曰:「江革行年六十,今日得死爲幸,誓不爲人執筆!」延明知不可屈,乃止;日給脱粟飯三升,僅全其生而已。
  上密召夏侯亶還,使休兵合肥,俟淮堰成復進。
19.かつて武帝は東昏侯の寵姫呉淑媛を娶り、七ヶ月後に豫章王蕭綜が生まれた。宮中の人々の多くが蕭綜は東昏侯の子ではないかと疑った。
 呉淑媛は寵愛が衰えると怨みに思い、密かに蕭綜に言った。
「貴方は七ヶ月で生まれた子。どうして他の(梁皇室の)皇子たちと比べることができましょう。しかし貴方は太子の次弟として、幸いにも富貴の身分でいられます。誰かに話してはなりませんよ!」
 (呉淑媛は)蕭綜と抱き合って泣いた。かくして蕭綜は自ら(の出生)を疑うようになった。日中は通常と変わらず談笑していたが、夜になると戸を閉め切った静かな部屋で、髪を解いて筵に座り、別室で個人的に斉蕭氏の七廟を祀った。また変装して密かに曲阿に赴き、斉高宗陵に参謁した。血を遺骨に滴らせ、滲めば父子であるという俗説を聞いた。それで密かに東昏侯の墓所を暴き、息子の一人を殺害して試すと、いずれ(の遺骨)にも兆候が現れた。かくして常に叛意を抱くようになり、いつも変事が起こるのを窺っていた。
 蕭綜は勇敢で膂力があり、素手で暴れ馬を制することができた。財産を軽んじて士人との交際を好んだ。自らは古着を身に付けるだけで、その他は皆に分け与えており、常に窮乏していた。何度も方策を上奏し、辺地で任務に就くことを求めたが、武帝は許可しなかった。私室には砂を撒いておき、終日、裸足で歩いていた。足の裏の皮膚は厚くなり、一日に三百里は歩いてゆけるようになった。王侯や妃・公主、その他の人々は皆、蕭綜の意志を知っていたが、武帝も厳格な性格だったので、進言しようとする者はいなかった。また蕭宝寅に使者を送って消息を尋ね、彼を叔父と呼んだ。
 南兗州刺史となったが、賓客とは面会せず、陳情や訴訟は簾の奥で聞き、外出するには帳を下ろした輿に乗って、顔を覚えられることを嫌った。
 彭城に駐屯すると、魏の安豊王元延明と臨淮王元彧が二万の兵を率いて彭城に迫ってきた。長い間、勝負は決しなかった。
 武帝は蕭綜が配祀することを憂慮し、蕭綜に勅を下して軍を率いて帰還させた。蕭綜は南に帰れば再び北辺に赴くことはできないと危惧し、密かに部下を派遣して元彧に投降と帰順を求めた。魏の人々は皆、蕭綜の投降を信用しなかった。元彧は蕭綜の陣中に入って虚実を確かめる者を募ったが、赴こうとする者はいなかった。
 殿中侍御史、済陰郡の鹿悆は元彧の監軍であり、赴くことを求めて言った。
「もし蕭綜に誠意があれば、彼と盟約を結んできましょう。虚言であったとして、私一人を惜しむこともないでしょう!」
 当時、魏軍と梁軍は対峙しており、(陣営の)内外は厳重に警備されていた。鹿悆は単騎で密かに(陣営を)出て行き、真っ直ぐに彭城に赴いた。蕭綜軍に捕らわれ、来た理由を問われると、鹿悆は言った。
「臨淮王が私を派遣されたのは、使者の交換を行いたかったからだ」
 当時、すでに元略は南に帰還していた。蕭綜はこれを聞いて、成景儁らに言った。
「私は以前から元略が反乱を起こそうとしているのではないかと疑っていたので、その虚実を確かめたのだ。それで側近を派遣して元略からの使者とし、魏の陣中に入らせて、彼一人を寄越させてみた。今、確かにその者が来た。元略は病のために奥の部屋にいると偽らせておこう。謝罪して、部屋の外まで至らせると伝えておけ」
 また蕭綜は腹心の安定郡の梁話に鹿悆を迎えさせ、密かに投降の意志と成景儁らを騙していることを彼に話した。日暮れ時、鹿悆は彭城に入り、まず胡竜牙と面会した。胡竜牙は言った。
「元中山殿が非常に会いたがっていた。それで君を呼ばせたのだ」
 また(胡竜牙は)言った。
「安豊王殿や臨淮王殿は弱将で兵士も同じだ。この城を奪回しようとしているようだが、手に入れられるはずもないな!」
 鹿悆は言った。
「彭城は魏の東の辺境。必ず係争地とならざるを得ない。(我らが)奪回できるかどうかは天意によるもので、人間が推し量るものではないだろう」
 胡竜牙は言った。
「確かに君の言う通りだ」
 また成景儁と面会した。成景儁は(鹿悆と)同席して言った。
「君は刺客ではないだろうな?」
 鹿悆は言った。
「使者として来たのだ。今のところは本国に帰って復命するつもりでいる。刺し違えるかどうかは、後で判断することだ」
 成景儁は食事の席を設けた。そして(鹿悆を)元略の居所とした場所に招き、部下を室内から出て来させると、元略の意を伝えると偽った。
「私が南に渡ったのは遠い昔のことだ。直接に言葉を交わし、故国のことを聞きたかった。しかし夕方になると発作が起こり、面会することもできない」
 鹿悆が言った。
「いち早く言葉を賜りたく、危険を冒し、謹んで赴いてきました。お目にもかかれないとは、心配なことです」
 そして別辞を告げて去った。(梁の)諸将は次々と魏の兵馬の多少を尋ねた。鹿悆は数十万の精兵がいると大袈裟に述べた。諸将は言い合った。
「これは大言壮語に過ぎないな!」
 鹿悆は言った。
「翌朝、確かめてみるといい。大言などであるものか!」
 鹿悆を帰還させた。成景儁は戯馬台で鹿悆を送別し、北側の城壁や塹壕を望み見て言った。
「これほど堅固な城だ。魏軍に奪い取れはしまい!」
 鹿悆は言った。
「攻撃も防備も人間がすること。(城の)堅固さを論じても意味はない!」
 鹿悆は帰還した。帰路、梁話と盟約を改めて確認した。
 六月、庚辰、夜、蕭綜は梁話や淮陰郡の苗文寵と(城外に)出で、歩いて魏軍に赴き、投降した。翌朝になり、豫章王の居室への諸門は閉じたままで開かれず、誰にも理由はわからなかった。ただ、城外に見える魏軍が叫んでいた。
「昨晩、お前たちの豫章王が来て、我が陣中にいる。お前たちはまだ何かするつもりでいるのか!」
 城内で豫章王を探したが見つからず、ついに梁軍は崩壊した。
 魏人は彭城に入り、勝利に乗じて追撃した。諸城を奪回し、宿預に至って帰還した。(梁の)将軍や幕僚、兵士の戦死者は十人に七~八人。陳慶之の部隊だけが帰還することができた。
 武帝はこれを聞いて驚愕した。官僚は蕭綜の爵位と封土を剥奪し、皇室の戸籍から絶縁して、その子の蕭直を悖姓とするよう上奏した。十日も経たずに、詔を下して(蕭綜を)皇室の戸籍に戻し、蕭直を永新侯に封じた。
 西豊侯蕭正徳は魏から帰国したが、考えや行動が改まることはなかった。多くの逃亡者を集め、夜な夜な、街路で強盗を行った。軽車将軍として蕭綜の北伐に従軍したが、軍を放棄して帰還した。以前からの罪悪が積み重なり、武帝は(蕭正徳の)官職と封爵を剥奪して、臨海郡に配流したが、到達しないうちに赦免した。
 蕭綜は洛陽に至ると孝明帝に謁見し、(用意された)居館に帰って、斉東昏侯のために挙哀の礼を行い、斬衰を着て三年の喪に服した。霊太后以下が皆、(蕭綜の)居館を弔問に訪れ、賞与や礼遇は非常に手厚かった。司空を拝命し、高平郡公・丹楊王に封じられ、蕭賛と改名した。
 苗文寵と梁話を光禄大夫とした。鹿悆を定陶県子に封じ、員外散騎常侍を授けた。
 蕭綜の長史、済陽郡の江革と司馬、范陽郡の祖[日恆]之はともに魏の捕虜となった。安豊王元延明は彼らの才知と名声を聞いて厚遇した。江革は脚の病と称して拝謁しなかった。
 元延明は祖[日恆]之に『欹器漏刻銘』を作らせた。江革は唾を吐いて祖[日恆]之を罵った。
「君は祖国から厚恩を蒙っておきながら、夷狄のために銘文を作って、朝廷に背くのだな」
 元延明はこれを聞き、江革に『大小寺碑』と『祭彭祖文』を作らせたが、江革は辞退した。元延明が江革を笞刑に処そうとすると、江革は怒りの表情を浮かべて言った。
「この江革は齢六十になろうとしているが、今日となっては死ぬことこそ幸いだ。誓って誰のためにも筆を執ることはない!」
 元延明は江革を従わせることは出来ないと悟り、(銘文を書かせるのを)取り止めた。(江革には)一日に三升の玄米飯を与え、かろうじて死なないようにした。
 武帝は密かに夏侯亶を召還して、軍勢を合肥で休養させ、淮堰の再建を待って再び侵攻させた。
 20癸未,魏大赦,改元孝昌。
20.癸未、魏が大赦を行い、孝昌と改元した。
 21破六韓拔陵圍魏廣陽王深於五原,軍主賀拔勝募二百人開東門出戰,斬首百餘級,賊稍退。深拔軍向明州,勝常爲殿。
  雲州刺史費穆,招撫離散,四面拒敵。時北境州鎭皆沒,唯雲中一城獨存。道路阻絶,援軍不至,糧仗倶盡,穆棄城南奔爾朱榮於秀容,既而詣闕請罪,詔原之。
  長流參軍于謹言於廣陽王深曰:「今寇盜蜂起,未易專用武力勝也。謹請奉大王之威命,諭以禍福,庶幾稍可離也。」深許之。謹兼通諸國語,乃單騎詣叛胡營,見其酋長,開示恩信,於是西部鐵勒酋長乜列河等將三萬餘戸南詣深降。深欲引兵至折敷嶺迎之,謹曰:「破六韓拔陵兵勢甚盛,聞乜列河等來降,必引兵邀之,若先據險要,未易敵也。不若以乜列河餌之,而伏兵以待之,必可破也。」深從之,拔陵果引兵邀撃乜列河,盡俘其衆;伏兵發,拔陵大敗,復得乜列河之衆而還。
  柔然頭兵可汗大破破六韓拔陵,斬其將孔雀等。拔陵避柔然,南徙渡河。將軍李叔仁以拔陵稍逼,求援於廣陽王深,深帥衆赴之。賊前後降附者二十萬人,深與行臺元纂表:「乞於恆州北別立郡縣,安置降戸,隨宜賑賚,息其亂心。」魏朝不從,詔黄門侍郎楊昱分處之於冀、定、瀛三州就食。深謂纂曰:「此輩復爲乞活矣。」
21.破六韓抜陵が五原に魏の広陽王元淵を包囲した。軍主賀抜勝は二百人を募り、東門を開いて出撃し、百余りの首級を斬った。わずかに賊軍は退いた。元淵は軍を朔州に撤退させた。賀抜勝は常に殿軍となった。
 雲州刺史費穆は離散した兵士を招集して士気を回復させ、四方の敵軍と抗戦していた。この時、北部国境の州鎮は全て陥落し、雲中城だけが孤立していた。街道は断絶して、援軍も来ず、食料も武器も尽きてしまっていた。
 費穆は城を放棄して南の秀容郡にいる爾朱栄の下に逃げた。その後、宮城に赴いて罪に復することを求めた。詔を下して(費穆を)赦免した。
 長流参軍于謹は広陽王元淵に言った。
「今日、蜂起している群盗、武力を用いるだけで簡単に勝利できるものではありません。この于謹、大王の威令を承るのならば、利害を説いて(群盗を)諭して参ろうと思います。願わくば、しばらく(御許を)離れることを許されよ」
 元淵はこれを許可した。于謹は諸国の言語に通じていたので、単騎で叛胡の陣営に赴き、その首領と面会し、恩徳と信義を裏表なく示した。かくして西部鉄勒の首領、乜列河らは三万戸余りを率いて南の元淵の下に赴き、投降した。
 元淵は軍勢を率いて折敷嶺に乜列河を迎えようとした。于謹が言った。
「破六韓抜陵の軍勢は非常に強大です。乜列河らが投降してくると聞けば、必ず軍を率いて邀撃することでしょう。先に(我らが)要害を占拠したとしても、抗戦するのは簡単ではありません。乜列河を餌として、伏兵によって待ち受けるべきです。必ず破ることができるでしょう」
 元淵はこれに従った。やはり破六韓抜陵は軍を率いて乜列河を邀撃し、その民衆全員を捕虜とした。(魏軍が)伏兵に攻撃を開始させると、破六韓抜陵は大敗した。(魏軍は)再び乜列河と民衆を収容して帰還した。
 柔然の頭兵豆伐可汗は破六韓抜陵を大破し、その将軍破六韓孔雀らを斬った。破六韓抜陵は柔然から逃れて、黄河を南に渡った。
 将軍李叔仁は破六韓抜陵が次第に迫ってきたので、広陽王元淵に支援を求めた。元淵は大軍を率いて李叔仁の下に赴いた。この前後、降服した賊軍は二十万人。元淵は行台元纂とともに上表した。
「恒州の北部に新たな郡県を設けて、投降した六鎮の軍人を安置させるよう願います。必要に応じて施しを与えれば、叛意も収まってゆくでしょう」
 魏朝廷は従わなかった。黄門侍郎楊昱に詔を下し、(投降した六鎮の軍人を)冀州・定州・瀛州に分散配置して、食事に有り付かせた。元淵は元纂に言った。
「奴らは再び食糧を求めて蜂起するぞ」
 22秋,七月,壬戌,大赦。
22.秋、七月、壬戌、大赦を行った。
 23八月,魏柔玄鎭民杜洛周聚衆反於上谷,改元眞王,攻沒郡縣,高歡、蔡儁、尉景及段榮、安定彭樂皆從之。洛周圍魏燕州刺史博陵崔秉,九月,丙辰,魏以幽州刺史常景兼尚書爲行臺,與幽州都督元譚討之。景,爽之孫也。自盧龍塞至軍都關,皆置兵守險,譚屯居庸關。
23.八月、魏の柔玄鎮民、杜洛周が民衆を集めて上谷で反乱を起こして、真王と改元し、郡県を攻撃して陥落させた。高歓・蔡儁・尉景・段栄・安定郡の彭楽らは皆、杜洛周に従った。杜洛周は魏の燕州刺史、博陵郡の崔秉を包囲した。
 九月、丙辰、魏は幽州刺史常景に尚書を兼任させて行台とし、幽州都督元譚とともに杜洛周を討伐させた。常景は常爽の孫である。盧竜塞から軍都関まで、各所に兵を配備して要害を守備させた。元譚は居庸関に駐屯した。
 24冬,十月,吐谷渾遣兵撃趙天安,天安降,涼州復爲魏。
  平西將軍高徽奉使嚈噠,還,至枹罕。會河州刺史元祚卒,前刺史梁釗之子景進引莫折念生兵圍其城。長史元永等推徽行州事,勒兵固守;景進亦自行州事。徽請兵於吐谷渾,吐谷渾救之,景進敗走。徽,湖之孫也。
24.冬、十月、吐谷渾が軍を派遣して趙天安を攻撃した。趙天安は投降した。涼州は再び魏に奪回された。
 平西将軍高徽は嚈噠への使者となり、帰還して枹罕城に至った。その頃、河州刺史元祥が死去し、前刺史梁釗の子、梁景進は莫折念生軍を引き入れて河州城を包囲した。
 長史元永らは高徽を行州事に推挙し、兵を指揮して守りを固めた。梁景進も行州事を自称した。高徽は吐谷渾に援軍を求めた。吐谷渾は高徽を救援し、梁景進は敗走した。高徽は高湖之の孫である。
 25魏方有事於西北,二荊、西郢羣蠻皆反,斷三鵶路,殺都督,寇掠北至襄城。汝水有冉氏、向氏、田氏,種落最盛,其餘大者萬家,小者千室,各稱王侯,屯據險要,道路不通。十二月,壬午,魏主下詔曰:「朕將親御六師,掃蕩逋穢,今先討荊蠻,疆理南服。」時羣蠻引梁將曹義宗等圍魏荊州,魏都督崔暹將兵數萬救之,至魯陽,不敢進。魏更以臨淮王彧爲征南大將軍,將兵討魯陽蠻,司空長史辛雄爲行臺左丞,東趣葉城。別遣征虜將軍裴衍、恆農太守京兆王羆將兵一萬,自武關出通三鵶路,以救荊州。
  衍等未至,彧軍已屯汝上,州郡被蠻寇者爭來請救,彧以處分道別,不欲應之,辛雄曰:「今裴衍未至,王士衆已集,蠻左唐突,撓亂近畿,王秉麾閫外,見可而進,何論別道!」彧恐後有得失之責,邀雄符下。雄以羣蠻聞魏主將自出,心必震動,可乘勢破也,遂符彧軍,令速赴撃。羣蠻聞之,果散走。
  魏主欲自出討賊,中書令袁翻諫而止。辛雄自軍中上疏曰:「凡人所以臨陳忘身,觸白刃而不憚者,一求榮名,二貪重賞,三畏刑罰,四避禍難。非此數者,雖聖王不能使其臣,慈父不能厲其子矣。明主深知其情,故賞必行,罰必信,使親疏貴賤勇怯賢愚,聞鐘鼓之聲,見旌旗之列,莫不奮激,競赴敵場,豈懕久生而樂速死哉?利害懸於前,欲罷不能耳。自秦、隴逆節,蠻左亂常,已歴數載,三方之師,敗多勝少,跡其所由,不明賞罰之故也。陛下雖降明詔,賞不移時,然將士之勳,歴稔不決,亡軍之卒,晏然在家,是使節士無所勸慕,庸人無所畏懾;進而撃賊,死交而賞賖,退而逃散,身全而無罪,此其所以望敵奔沮,不肯盡力者也。陛下誠能號令必信,賞罰必行,則軍威必張,盜賊必息矣。」疏奏,不省。
  曹義宗等取魏順陽、馬圈,與裴衍等戰於淅陽,義宗等敗退。衍等復取順陽,進圍馬圈。洛州刺史董紹以馬圈城堅,衍等糧少,上書言其必敗。未幾,義宗撃衍等,破之,復取順陽。魏以王羆爲荊州刺史。
25.魏の西北方で反乱が起こると、西荊州・北荊州・西郢州の諸蛮人全てが反乱を起こし、三鴉道を断絶して都督を殺害し、略奪を行いながら襄城に至った。
 汝水一帯には冉氏・向氏・田氏がおり、三氏の部落が最も大勢力だった。その他にも大きな部落で一万家、小さな部落でも各自、王侯を称し、険しい要害を占拠していたので、街道は不通になっていた。
 十二月、壬午、孝明帝が詔を下して言った。
「私が自ら六軍を率いて、立て籠もっている賊徒を払い除こう。今は荊蛮を先に討伐し、我が国土を取り戻してから、南方を服従させてやる」
 この時、諸蛮人は梁の将軍曹義宗らを引き入れて魏の荊州を包囲していた。魏の都督崔暹は数万の兵を率いて荊州の救援に赴いたが、魯陽に至ると進軍しなくなった。
 魏は改めて臨淮王元彧を征南大将軍とし、軍を率いて魯陽蛮を討伐させた。司空長史辛雄を行台左丞とし、東の葉城に赴かせた。別働隊として征虜将軍裴衍と恒農太守、京兆郡の王羆を派遣し、一万の兵を率いて、武関を出でて三鴉道を通り、荊州の救援に赴かせた。
 裴衍らが到達しないうちに、元彧軍は汝水上に駐屯した。蛮人の略奪を受けた諸州郡は争って救援を求めに来た。元彧は(要請に訪れた諸州郡が)担当する侵攻路上ではなかったので、要請に応えようとはしなかった。辛雄が言った。
「今、まだ裴衍は到達しておりませんが、すでに王の大軍勢は結集しております。蛮人たちは(我が国に)脅威を与え、畿内の近くで騒乱を起こしております。王よ、陣門を出でて指揮を執り、機を見て軍を進められよ。どうして行路が別であることを論じられるのか!」
 元彧は後で勝敗の責任を問われることを怖れ、辛雄に行台尚書としての命令を下すよう求めた。
 諸蛮人は孝明帝が自ら出撃しようとしているのを聞き、必ず内心では震え上がって動揺しているので、勢いに乗じて(蛮人を)破るべきだとして、辛雄は元彧軍に行台尚書よりの命令を下し、速やかに攻撃に赴かせることにした。諸蛮人は元彧軍の攻勢を聞くと、確かに散り散りに逃げ去った。
 孝明帝は自ら賊徒の討伐に赴こうとしていたが、中書令袁翻が思い止まるよう諫めた。辛雄は陣中から上疏して述べた。
「凡夫が戦陣にあって身命の安全を忘れ、白刃での斬り合いを怖れない理由。一つ目は栄誉や名声を求めるため、二つ目は手厚い賞与を求めるため、三つ目は刑罰を怖れるため、四つ目は災難を避けたいがためです。ここに数えられなかった者は、聖王であっても臣下として使うことはできませんし、そのような子は慈父であっても励まして正すことはできないのです。賢明な君主は臣下の心情を理解しておりますので、必ずや賞罰を明らかに行うのです。それだからこそ、親しい者も疎遠な者も、高貴な者も卑賤な者も、勇敢な者も怯懦な者も、賢者も愚者も、鐘や鼓の音を聞き、旌旗が立ち並ぶのを見れば、憤激しない者はおらず、戦場へと競って赴かせることができるのです。(彼らが)長く生きることに苦しんだり、早く死ぬことを喜んだりするからではありません。目前に利害が存在すれば、止めようと思ってもできないのです。秦州・隴西の者が反逆してより、蛮人たちの反乱も日常となりました。すでに数年を経ております。戦役に赴いた数十万の兵が三方で防戦を行っておりますが、敗北を繰り返して勝利することは僅かです。その理由を突き詰めれば、賞罰が明らかに行われていないため。陛下が何度も詔を下されたとて、すぐに褒賞が行われることはなく、将兵の勲功は数年間も放置され、敗北した軍の兵士は平然と実家に帰っているのです。これでは節義の士が喜んで尽力することもなく、凡人たちが畏服することもないでしょう。進軍して賊徒を攻撃し、死闘を経ても褒賞は行われない。撤退して散り散りに逃げ去っても、身命は全うされて罪には問われない。これが敵軍を望み見れば逃走し、尽力しようとしない者が現れる理由です。陛下が信義ある号令を下され、賞罰を厳正に行われるなら、必ず軍の威信は高まり、盗賊の反乱は沈静化することでしょう」
 上疏は顧みられなかった。
 曹義宗らは順陽・馬圏城を奪取し、裴衍らと淅陽郡で戦った。曹義宗らは敗退した。裴衍らは再び順陽を奪回し、進軍して馬圏城を包囲した。
 馬圏城は堅固であり、裴衍らの食糧は少ないとして、洛州刺史董紹は「魏軍は必ず敗れる」と上書していた。まもなく、曹義宗が裴衍らを攻撃し、これを破った。再び順陽を奪回した。
 魏は王羆を荊州刺史とした。
 26邵陵王綸攝南徐州事,在州喜怒不恆,肆行非法。遨遊市里,問賣[魚旦]者曰:「刺史何如?」對言:「躁虐。」綸怒,令呑[魚旦]而死,百姓惶駭,道路以目。嘗逢喪車,奪孝子服而著之,匍匐號叫。簽帥懼罪,密以聞。上始嚴責綸,而不能改,於是遣代。綸悖慢逾甚,乃取一老公短痩類上者,加以袞冕,置之高坐,朝以爲君,自陳無罪;使就坐剥褫,捶之於庭。又作新棺,貯司馬崔會意,以轜車挽歌爲送葬之法,使嫗乘車悲號。會意不能堪,輕騎還都以聞。上恐其奔逸,以禁兵取之,將於獄賜盡,太子統流涕固諫,得免,戊子,免綸官,削爵土。
26.邵陵王蕭綸は南徐州事を代行していたが、在任中、喜怒の感情が不安定で、不法行為の限りを尽くした。市街や村里を遊行して、鱓を売る者に問いかけたことがあった。
「刺史はどんな方だ?」
 (彼は)答えた。
「暴虐な奴だ」
 蕭綸は怒り、鱓を飲み込ませて殺害した。民衆は驚き怖れて、街路でも目配せし合うだけだった。ある時、喪車に出会うと、孝子の衣服を脱がせて身に付け、地面に転がって絶叫した。
 (邵陵王の)籤帥は罪を怖れて密かに上申した。ようやく武帝は厳しく蕭綸を咎めたが、(行状を)改めさせられず、かくして後任を派遣した。
 蕭綸の無道や増長はさらに酷くなった。背が低くて痩せており、容貌が武帝に似ている老人に袞服と冕冠を身に付けさせ、彼を高座に座らせると、皇帝であるかのように朝見して、自らの無罪を述べた。そして(老人を地面に)座らせて衣服を剥ぎ、庭で鞭打った。
 また、新しい棺を作って司馬崔会意を閉じ込めると、轜車に載せて挽歌を歌い、葬送の真似事をした。また(泣き)女を乗せて泣き叫ばせた。崔会意は我慢できず、軽騎で都に帰還して報告した。
 武帝は蕭綸の放逸を怖れ、禁軍を派遣して捕らえ、獄に下して自害させようとした。太子蕭統が涙を流して強く諫めたので、
(蕭綸は)赦免されることができた。戊子、蕭綸の官職を罷免し、封爵を剥奪した。
 27魏山胡劉蠡升反,自稱天子,置百官。
27.魏の山胡、劉蠡升が反乱を起こし、天子を自称して、百官を設置した
 28初,敕勒酋長斛律金事懷朔鎭將楊鈞爲軍主,行兵用匈奴法,望塵知馬歩多少,嗅地知軍遠近。及破六韓拔陵反,金擁衆歸之,拔陵署金爲王。既而知拔陵終無所成,乃詣雲州降。仍稍引其衆南出黄瓜堆,爲杜洛周所破,脱身歸爾朱榮,榮以爲別將。
28.以前、敕勒の首領、斛律金は懐朔鎮将楊鈞に仕えて軍主となり、匈奴の用兵術を行っていた。砂塵を望み見て騎兵・歩兵の多少を計り、地面の臭いを嗅いで敵軍の遠近を知った。
 破六韓抜陵が反乱を起こすと、斛律金は民衆を率いて破六韓抜陵に帰順した。破六韓抜陵は斛律金を王に任じた。しばらくして破六韓抜陵には何も成し得ないと悟り、雲中に赴いて投降した。
 配下の民衆を率いて南の黄瓜堆に進出してゆき、杜洛周に敗れた。(斛律金は)単身で脱出して爾朱栄に帰順した。爾朱栄は斛律金を別働隊の将軍とした。

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