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翻訳者: えちぜん
校訂者:────
資治通鑑巻第七十三
 魏紀五
  烈祖明皇帝中之下
靑龍三年(乙卯、二三五)

 春,正月,戊子,以大將軍司馬懿爲太尉。
1.春、正月、戊子(1月8日)、大将軍司馬懿を太尉とした。
 丁巳,皇太后郭氏殂。帝數問甄后死状於太后,由是太后以憂殂。
2.丁巳(2月8日)、皇太后郭氏が逝去した。明帝(曹叡)はしばしば甄后が死んだ時の様子を郭太后に問い、このために郭太后は思い悩んで逝去した。
 漢楊儀既殺魏延,自以爲有大功,宜代諸葛亮秉政;而亮平生密指,以儀狷狹,意在蔣琬。儀至成都,拜中軍師,無所統領,從容而已。初,儀事昭烈帝爲尚書,琬時爲尚書郎。後雖倶爲丞相參軍、長史,儀毎從行,當其勞劇;自謂年宦先琬,才能踰之,於是怨憤形於聲色,歎咤之音發於五内,時人畏其言語不節,莫敢從也。惟後軍師費禕往慰省之,儀對禕恨望,前後云云。又語禕曰:「往者丞相亡沒之際,吾若舉軍以就魏氏,處世寧當落度如此邪!令人追悔,不可復及!」禕密表其言。漢主廢儀爲民,徙漢嘉郡。儀至徙所,復上書誹謗,辭指激切。遂下郡收儀,儀自殺。
3.蜀漢の楊儀は既に魏延を殺害し、自身では大きな手柄を挙げたので、諸葛亮に代わって政務を執り行うべきだと考えた。ところが諸葛亮は普段からひそかに楊儀を監視させ、楊儀は短気で度量が狭いことから、意中の後継者は蔣琬だとしていた。楊儀は成都に戻り、中軍師を拝命したが、統率すべき部隊もなくゆったりくつろぐだけであった。以前、楊儀は昭烈帝(劉備)に仕え尚書になったが、蔣琬はその当時尚書郎であった。その後共に丞相参軍・長史となったが、楊儀は従軍する度に重要な任務を務めていた。自分では年齢・官職は蔣琬よりも先を進んでいるし、才能も彼を越えていると思っていた。ここで恨み憤る様が声や顔色に現れ、その嘆きは体の内臓から発している様であった。当時の人々は彼の発言に節度がないことを恐れ、彼に従う者はなかった。ただ、後軍師の費禕は楊儀のもとへ見舞い、慰めた。楊儀は費禕に対してその憤りの訳をかくかくしかじかと話した。また、費禕に「かつて丞相(諸葛亮)が亡くなられた折に、私がもし軍を挙げて魏に就いていたならば、世を渡るのにどうしてこのように失意することがあったであろうか? 他人にはこの後悔の程は分かるまい。」と語った。費禕は密かに彼の発言を上書した。漢主(劉禅)は楊儀の官職を罷免して平民とし、漢嘉郡へ移した。楊儀は移動先に到着すると上書して、激しい言葉遣いで誹謗した。遂に郡に命令を下し、楊儀を捕らえようとしたが、楊儀は自殺した。
 三月,庚寅,葬文德皇后。
4.三月,庚寅(3月11日),文徳郭皇后を埋葬した。
 夏,四月,漢主以蔣琬爲大將軍、録尚書事;費禕代琬爲尚書令。
5.夏,四月,漢主(劉禅)は蔣琬を大将軍・録尚書事に任命した。費禕は蔣琬に代わって尚書令となった。
 帝好土功,既作許昌宮,又治洛陽宮,起昭陽太極殿,築總章觀,高十餘丈。力役不已,農桑失業。司空陳羣上疏曰:「昔禹承唐、虞之盛,猶卑宮室而惡衣服。況今喪亂之後,人民至少,比漢文、景之時,不過漢一大郡。加以邊境有事,將士勞苦,若有水旱之患,國家之深憂也。昔劉備自成都至白水,多作傳舎,興費人役,太祖知其疲民也。今中國勞力,亦呉、蜀之所願。此安危之機也,惟陛下慮之!」帝答曰:「王業、宮室,亦宜並立。滅賊之後,但當罷守禦耳,豈可復興役邪!是固君之職,蕭何之大略也。」羣曰:「昔漢祖惟與項羽爭天下,羽已滅,宮室燒焚,是以蕭何建武庫、太倉,皆是要急,然高祖猶非其壯麗。今二虜未平,誠不宜與古同也。夫人之所欲,莫不有辭,況乃天王,莫之敢違。前欲壞武庫,謂不可不壞也;後欲置之,謂不可不置也。若必作之,固非臣下辭言所屈;若少留神,卓然回意,亦非臣下之所及也。漢明帝欲起德陽殿,鐘離意諫,即用其言,後乃復作之;殿成,謂羣臣曰:『鐘離尚書在,不得成此殿也。』夫王者豈憚一臣!蓋爲百姓也。今臣曾不能少凝聖德,不及意遠矣。」帝乃爲之少有減省。
  帝耽于内寵,婦官秩石擬百官之數,自貴人以下至掖庭灑掃,凡數千人,選女子知書可付信者六人,以爲女尚書,使典省外奏事,處當畫可。廷尉高柔上疏曰:「昔漢文惜十家之資,不營小臺之娯;去病慮匈奴之害,不遑治第之事。況今所損者非惟百金之費,所憂者非徒北狄之患乎!可粗成見所營立以充朝宴之儀,訖罷作者,使得就養;二方平定,復可徐興。周禮:天子后妃以下百二十人,嬪嬙之儀,既已盛矣;竊聞後庭之數,或復過之,聖嗣不昌,殆能由此。臣愚以爲可妙簡淑媛以備内官之數,其餘盡遣還家,且以育精養神,專靜爲寶。如此,則螽斯之徴可庶而致矣。」帝報曰:「輒克昌言,他復以聞。」
  是時獵法嚴峻,殺禁地鹿者身死,財産沒官,有能覺告者,厚加賞賜。柔復上疏曰:「中間以來,百姓供給衆役,親田者既減;加頃復有獵禁,羣鹿犯暴,殘食生苗,處處爲害,所傷不訾,民雖障防,力不能禦。至如滎陽左右,周數百里,歳略不收。方今天下生財者甚少,而麋鹿之損者甚多,卒有兵戎之役,凶年之災,將無以待之。惟陛下寬放民間,使得捕鹿,遂除其禁,則衆庶永濟,莫不悅豫矣。」
  帝又欲平北芒,令於其上作臺觀,望見孟津。衞尉辛毗諫曰:「天地之性,高高下下。今而反之,既非其理;加以損費人功,民不堪役。且若九河盈溢,洪水爲害,而丘陵皆夷,將何以禦之!」帝乃止。
  少府楊阜上疏曰:「陛下奉武皇帝開拓之大業,守文皇帝克終之元緒,誠宜思齊往古聖賢之善治,總觀季世放蕩之惡政。曩使桓、靈不廢高祖之法度,文、景之恭儉,太祖雖有神武,於何所施,而陛下何由處斯尊哉!今呉、蜀未定,軍旅在外,諸所繕治,惟陛下務從約節。」帝優詔答之。
  阜復上疏曰:「堯尚茅茨而萬國安其居,禹卑宮室而天下樂其業。及至殷、周,或堂崇三尺,度以九筵耳。桀作璇室象廊,紂爲傾宮鹿臺,以喪其社稷;楚靈以築章華而身受禍;秦始皇作阿房,二世而滅。夫不度萬民之力以從耳目之欲,未有不亡者也。陛下當以堯、舜、禹、湯、文、武爲法則,夏桀、殷紂、楚靈、秦皇爲深誡,而乃自暇自逸,惟宮臺是飾,必有顛覆危亡之禍矣。君作元首,臣爲股肱,存亡一體,得失同之。臣雖駑怯,敢忘爭臣之義!言不切至,不足以感悟陛下;陛下不察臣言,恐皇祖、烈考之祚墜于地。使臣身死有補萬一,則死之日猶生之年也,謹叩棺沐浴,伏俟重誅!」奏御,帝感其忠言,手筆詔答。
  帝嘗著帽,被縹綾半袖。阜問帝曰:「此於禮何法服也?」帝默然不答。自是不法服不以見阜。
  阜又上疏欲省宮人諸不見幸者,乃召御府吏問後宮人數。吏守舊令,對曰:「禁密,不得宣露!」阜怒,杖吏一百,數之曰:「國家不與九卿爲密,反與小吏爲密乎!」帝愈嚴憚之。
  散騎常侍蔣濟上疏曰:「昔句踐養胎以待用,昭王恤病以雪仇,故能以弱燕服強齊,羸越滅勁呉。今二敵強盛,當身不除,百世之責也。以陛下聖明神武之略,舎其緩者,專心討賊,臣以爲無難矣。」
  中書侍郎東萊王基上疏曰:「臣聞古人以水喩民曰:『水所以載舟,亦所以覆舟。』顏淵曰『東野子之御,馬力盡矣,而求進不已,殆將敗矣。』今事役勞苦,男女離曠,願陛下深察東野之敝,留意舟水之喩,息奔駟於未盡,節力役於未困。昔漢有天下,至孝文時唯有同姓諸侯,而賈誼憂之曰:『置火積薪之下而寢其上,因謂之安。』今寇賊未殄,猛將擁兵,檢之則無以應敵,久之則難以遺後,當盛明之世,不務以除患,若子孫不競,社稷之憂也。使賈誼復起,必深切於曩時矣。」帝皆不聽。
  殿中監督役,擅收蘭臺令史,右僕射衞臻奏按之。詔曰:「殿舎不成,吾所留心,卿推之,何也?」臻曰:「古制侵官之法,非惡其勤事也,誠以所益者小,所墮者大也。臣毎察校事,類皆如此,若又縱之,懼羣司將遂越職,以至陵夷矣。」
  尚書涿郡孫禮固請罷役,帝詔曰:「欽納讜言。」促遣民作;監作者復奏留一月,有所成訖。禮徑至作所,不復重奏,稱詔罷民,帝奇其意而不責。帝雖不能盡用羣臣直諫之言,然皆優容之。
  秋,七月,洛陽崇華殿災。帝問侍中領太史令泰山高堂隆曰:「此何咎也?於禮寧有祈禳之義乎?」對曰:「易傳曰:『上不儉,下不節,孽火燒其室。』又曰:『君高其臺,天火爲災。』此人君務飾宮室,不知百姓空竭,故天應之以旱,火從高殿起也。」詔問隆:「吾聞漢武之時柏梁災,而大起宮殿以厭之,其義云何?」對曰:「夷越之巫所爲,非聖賢之明訓也。五行志曰:『柏梁災,其後有江充巫蠱事。』如志之言,越巫建章無所厭也。令宜罷散民役。宮室之制,務從約節,清掃所災之處,不敢於此有所立作,則菖莆、嘉禾必生此地。若乃疲民之力,竭民之財,非所以致符瑞而懷遠人也。」
6.明帝(曹叡)は土木工事を好み、許昌宮を建てた上に、さらに洛陽宮を建て、昭陽太極殿を建築し、総章観(高殿)はその高さ十餘丈(約30m)にまで築き上げた。人民に課された労役は止むことなく、農業や養蚕業は継続できなかった。司空の陳羣は上疏した。「昔、禹王は(堯が建てた王朝)唐・(舜が建てた王朝)虞の繁栄を継承しましたが、宮殿を重視することなく、衣服を気にかけることもありませんでした。まして今は世が乱れた後です。(宮殿を整備している場合でしょうか?)人民は減少し、漢の文帝・景帝の時代と比べると、漢の一つの大きな郡(の人口)を上回ることはないのです。さらに辺境の有事によって、将兵は苦しみ、もし水害や旱魃があれば、これは国家の一大事であります。昔劉備は成都から白水関に至るまで、多くの宿場を作りましたが、費用と人民を投入したので、太祖は蜀の民が疲れていることをお知りになったのです。今中原の労役(による疲弊)もまた、呉・蜀が願っているものであります。今が存亡の分かれ目です。陛下、ご検討下さい!」 明帝(曹叡)は答えて言った。「王業・宮殿(の造営)も並立した方が良いのだ。(呉・蜀の)賊を滅ぼした後、(宮殿の)防御を止めるだけなのだ。どうしてまた労役を課すことがあろうか?これは本来君主の務めであり、蕭何の大略である。」 陳羣は言った。「昔漢の高祖は項羽と天下を争い、項羽を滅ぼしましたが、宮殿は焼失しましたので、蕭何は武器庫や食料貯蔵庫を建てました。これらは皆、急を要したのです。しかしながら高祖はやはり宮殿を壮麗にすることはありませんでした。今(呉・蜀の)二国はまだ平定されず、漢代と同様にしてはなりません。そもそも人が欲するものについては、口実がないことはなく、ましてや天子が欲するものについては、敢えて逆らうものいません。以前武器庫を壊そうとすると、壊さなければならないといい、後にこれを設置しようとすると、設置しなければならないとといいます。もし必ず武器庫を設置するならば、臣下のことばに曲げられることはないですし、もし少し配慮していただき、大きく変更するならば、また臣下の及ぶところではありません。漢の明帝は徳陽殿を建てようとしましたが、鐘離意が諫言し、彼の諫言をいれました。その後再び宮殿を建てようとしました。宮殿が完成し、明帝は群臣に言いました。『鐘離意が尚書の官にあっては、この宮殿は完成しなかった。』さては王たるものどうして臣下一人を恐れて民衆を治めることができましょうか?今私は少しも陛下のお耳に諫言を留めることができず、鐘離意にまったく及びません。」 明帝はこの諫言により幾分宮殿造営の費用を節約した。
 明帝は後宮の女性に耽り、女性の官職・秩禄を百官の数になぞらえた。貴人以下後宮で働くものから掃除をするものまで、およそ数千人。女性で文字を知り、手紙を書くことができるもの六人を選び、彼女達を女尚書とした。省外の奏事を担当させ、判断させていた。廷尉高柔は上疏して言った。「昔漢の文帝は、十軒の資産を惜しんで小さな物見台で歌舞を興ずることもしませんでした。霍去病は匈奴による損害を考慮し、邸宅を建てるような暇もありませんでした。まして今損なっているものはただの百金の金ではありません。憂慮すべきものはただ北方異民族の侵略だけではありません。ほとんど完成して建造物と見えるものは、朝廷での宴会などの儀式で用いるべきです。(呉・蜀の)二方を平定し、それから徐々におこなうべきです。周礼に天子は后妃以下百二十人、宮女の姿はとても立派である、とあります。私見では後宮の宮女の数は、これより多いと聞いております。世継ぎが決まらぬのはこの為でありましょう。私が思いまするに才能の優れた女性をよく選び、内官の数をそろえるべきです。残りの女性は皆家へ帰し、しばらく精神を養い、専ら平静であることが大事です。こうすれば世継ぎの生まれる兆候も多くなり、世継ぎができましょう。」 明帝は答えて言った。「道理にかなう言葉であって、他事でもまた申せ。」
 この時、猟に関する法律が非常に厳しかった。禁地で鹿を殺したものは死罪で、財産・官職は没収された。気づいて密告したものには、厚く賞賜が与えられた。高柔は再び上疏して言った。「中間以来、人民は労力を提供し、自身の田を耕すものは減少しました。さらに近年、猟の禁止令があり、鹿が暴れまわり、残飯や生苗を食べ散らし、各地で被害がでており、その件数は計上できません。人民は予防策を立てていますが、対応しきれません。滎陽の周辺では、数百里四方で税を納めることができていません。今は財産を築けるものは少なく、鹿による被害は大変多くなっています。突然兵役があったとしても、凶年の災害は〔兵役から帰ってくるのを〕待って起こるものではありません。陛下におかれましては、民間を束縛から解放し、鹿を捕ることを許し、その禁令を除けば、庶民は長らく救うことができましょう。喜ばないものはいないでしょう。」
 明帝はまた、北芒山を平らにすることを望んだ。その上に物見台を建て、孟津を見た。衛尉辛毗は諫めて言った。「天地の性質というのは、高高下下です。今になってこの性質に反して、はなはだその理ではありません。加えて費用・人々の労力を損なうこととなり、庶民は労役に耐えられません。しかももし九河が氾濫すれば、洪水となります。丘陵地はみな敵地です。どうやって外敵を防ごうとするのでしょうか」 明帝はそこで取りやめた。
 少府楊阜は上疏して言った。「陛下は武皇帝の開拓の大業を奉じ、文皇帝の克終の大業(後漢からの禅譲)を守っておられますが、誠に、昔の聖人・賢人の善政と同じであろうと願い、全て衰退の時期の悪政を見るべきです。かつて漢の桓帝・霊帝は高祖の法度を敗死せず、文帝・景帝は恭倹でありました。太祖(曹操)は優れた武力を持っておられましたが、何に施しましたか?陛下はなぜこのように尊いのでしょうか?今、呉・蜀は未だ定まらず、軍隊は国境の外へあって、各所にて治めております。思いますに、陛下が節約に務められんことを。」明帝は特別に詔してこれに答えた。
  楊阜はまた上疏した。「堯はチガヤやイバラで葺いた粗末な宮殿を尊び、多くの国でその住居を安定させ、禹は宮室を重視せず、天下は彼の事業を喜びました。殷・周の時代に至っても堂の高さは三尺、広さは九枚の筵を敷けるのみでした。桀王は美玉で部屋や廊下を飾り、紂王は傾宮(玉で飾った宮室)と鹿台(財物を蓄えた倉)を作って彼らの社稷を失いました。楚の霊王は章華台を築いて身に禍を受けました。秦の始皇亭は阿房宮を作って、二世で滅びました。そもそも人民の力を図らないで耳目の欲に従ったものは、未だ滅びないものはいないのです。陛下は堯・舜・禹・湯王・文王・武王を手本として、夏の桀王・殷の紂王・楚の霊王・秦の始皇帝を戒めとするべきです。暇をもてあまして遊んで宮台を飾るようなことをすれば、必ず国家転覆の危急存亡の禍があることでしょう。君子が元首となり、臣下が股肱の臣となれば、存亡も一体、得失も同じです。私は鈍くて意気地のないものですが、敢て争臣(主君の過ちをいさめる臣)の意味を忘れましょう!発言が行き届かなければ、陛下に気付かせるには足りません。陛下は臣下の発言を察せず、皇祖・烈考の祀りが地に墜ちるのを恐れるのです。私の身の死を以て万一の際に補佐させるのであれば、死の日は生の年となります。謹んで棺を叩いて沐浴し、伏して処罰をお待ちします。!」奏上して、明帝はその忠言に感動し、手づから筆を取り、詔して答えた。
  明帝は嘗て帽子を被り、縹綾(薄青色の絹地の服)を半袖にして着ていた。楊阜は明帝に質問した。「これは礼において、いずれの法服でありますか?」明帝は黙って答えなかった。これより、法服でない時は楊阜に会わなかった。
  楊阜はまた上疏して、宮人の内で明帝の寵愛を受けていないものを除こうとして、御府吏を呼んで後宮の人数を問うた。御府吏は旧令を守って、答えた。「宮中の秘密であり、お答えできません!」楊阜は怒って、御府吏を百叩きにし、数えながら言った。「国家は九卿と秘密を共有せず、反って小吏と秘密を共有しておるのか!」明帝はますます彼を憚るようになった。
  散騎常侍蔣済は上疏して言った。「昔、句践は養い育ててその時を待ち、(燕の)昭王は病身をいたわって恥を雪ぎました。故に弱い燕が強い斉を倒し、弱い越が強い呉を滅ぼしたのです。今二敵(蜀・呉)が強く盛んでありますから、陛下の事として(二敵を)除かなければ、後世の責めをうけることになります。陛下の聖明神武の戦略で、緩みを捨て、賊の討伐に専心すれば、私は難しいことではないと考えております。」
  中書侍郎東萊郡の王基が上疏して言った。「私は聞いたことがあります。昔の人は民を水に喩えて、『水は舟を載せもするが、覆すこともする。』と言います。顔淵は『東野子の馭者の術は、馬の力が尽きても、進めようとしてやめない。ほぼ負けているのです。』と言いました。今、労役に服して苦しみ、男女は離ればなれとなっています。願わくば陛下は東野の敗北を深く察せられ、舟と水の喩えに留意して、休みながら駟(四頭だての馬車)を走らせて力が尽きないようにし、節約しながら、労役に力を入れて、窮まることがないようにして下さい。昔、漢が天下統一し、孝文帝の時に同姓の諸侯だけとなったため、賈誼はこれを憂いて言いました。『火を積んだ薪の下に置き、その上に寝ていて、(まだ燃えていないから)安全だといっているようなものだ。』今賊は滅びておらず、猛将が兵を擁しております。この状態を見れば、敵に応ずる準備もなく、この状態が続くと、後世に残すことは難しくなります。隆盛の世にあって、禍を除こうとせず、もし子孫が強くなければ、社稷に憂いが生じます。賈誼を再び起こして、必ずその当時に深く迫りべきです。」明帝は皆聴かなかった。
  殿中監督役が、蘭臺令史を勝手に逮捕した。右僕射衞臻は奏上して調査をした。詔は言った。「殿舎が完成しないことが、吾が気にしているところである。卿(衛臻)はこれを調査せよという、なぜか?」衛臻は言った。「古制において官職の職域を越えないという決まりは、その勤める仕事を憎むというのではありません。本当に益となるところは小さく、堕落するところが大きいのです。私が校事を査察する度に、おおむね皆このようなのです。もしまたこれを放置すれば、多くの官吏が職域を超えて、衰退するのではないかと恐れるのです。」
  尚書涿郡の孫礼は辞職を請うと、明帝は詔して言った。「正直な申し入れを謹んで聞き入れる。」そして、遣民を促して(殿舎を)作らせた。監督するものはまた奏上を一月留めると、(殿舎が)完成した。孫礼はすぐに殿舎に行き、再び重ねて奏上はしなかった。詔を称えて民を帰らせた。明帝はその意図を奇妙なことだとしたが、責めなかった。明帝は群臣の直諫の言をことごとくを用いることはできなかったが、皆手厚く容れて用いた。
 秋、七月、洛陽崇華殿で火災が発生した。明帝は侍中領太子令の泰山出身高堂隆に問うた。「これはどういう災いであるか?礼においては祈祷によって災いを除き福を求める意味をもつであろうか?」答えて言うには「前漢の京房が著しました『易伝』によりますと、『上が倹約せず、下が節約しなければ、邪悪な火がその室を焼く。』とあり、また『君主がその台を高くすれば、天は火を用いて災いを為す』とあります。これは君主が宮殿の粉飾に励み、民衆の困窮を知らないが故に、天はこれに日照りで応じ、火が高殿から起こるのであります。」
 八月,庚午,立皇子芳爲齊王,詢爲秦王。帝無子,養二王爲子,宮省事秘,莫有知其所由來者。或云:芳,任城王楷之子也。
7.八月、庚午(8月24日)、立皇子曹芳を斉王とし、曹詢を秦王とした。明帝は子供がおらず、この二人の王を養子とした。このことは宮廷内の秘密とされ、彼らの出自を知る者はいなかった。ある者は、曹芳は任城王曹楷の子であるという。
 丁巳,帝還洛陽。
8.丁巳(8月11日)、明帝は洛陽に戻った。
 詔復立崇華殿,更名曰九龍。通引穀水過九龍殿前,爲玉井綺欄,蟾蜍含受,神龍吐出。使博士扶風馬鈞作司南車,水轉百戲。
  陵霄闕始構,有鵲巣其上,帝以問高堂隆,對曰:「詩曰:『惟鵲有巣,惟鳩居之。』今興宮室,起陵霄闕,而鵲巣之,此宮未成身不得居之象也。天意若曰:『宮室未成,將有他姓制御之』,斯乃上天之戒也。夫天道無親,惟與善人,太戊、武丁覩災悚懼,故天降之福。今若罷休百役,增崇德政,則三王可四,五帝可六,豈惟商宗轉禍爲福而已哉!」帝爲之動容。
  帝性嚴急,其督脩宮室有稽限者,帝親召問,言猶在口,身首已分。散騎常侍領秘書監王肅上疏曰:「今宮室未就,見作者三四萬人。九龍可以安聖體,其内足以列六宮;惟泰極已前,功夫尚大。願陛下取常食稟之士,非急要者之用,選其丁壯,擇留萬人,使一期而更之。咸知息代有日,則莫不悅以即事,勞而不怨矣。計一歳有三百六十萬夫,亦不爲少。當一歳成者,聽且三年,分遣其餘,使皆即農,無窮之計也。夫信之於民,國家大寶也。前車駕當幸洛陽,發民爲營,有司命以營成而罷;既成,又利其功力,不以時遣;有司徒營目前之利,不顧經國之體。臣愚以爲自今已後,儻復使民,宜明其令,使必如期,以次有事,寧使更發,無或失信。凡陛下臨時之所行刑,皆有罪之吏、宜死之人也;然衆庶不知,謂爲倉卒。故願陛下下之於吏,鈞其死也,無使汙于宮掖而爲遠近所疑。且人命至重,難生易殺,氣絶而不續者也,是以聖賢重之。昔漢文帝欲殺犯蹕者,廷尉張釋之曰:『方其時,上使誅之則已,今下廷尉,廷尉,天下之平,不可傾也。』臣以爲大失其義,非忠臣所宜陳也。廷尉者,天子之吏也,猶不可以失平,而天子之身反可以惑謬乎!斯重於爲己而輕於爲君,不忠之甚也,不可不察!」
9.詔を発して崇華殿を復旧し、九龍殿と改名した。穀水を引き込み九龍殿の前を通し、美しい池へ注がせた。池のまわりはあでやかな欄干で囲み、池へそそぎ込む水はヒキガエルの像が飲み込み、池から流れ出る水は神龍の像が吐き出していた。扶風郡出身の博士馬鈞に司南車を作らせ、水上をよく遊んだ。
  陵霄闕を建て始めると、鵲(かささぎ)がその上に巣を作った。明帝は高堂隆にこのことを問うた。高堂隆は答えて、「詩経に『惟だ鵲は巣を有し、惟だ鳩は之に居る。』とあります。今宮室を興し陵霄闕を建築しておりますが、鵲がこれに巣を作りますのは、この宮殿が未だ完成しておらず、住むことができないことを表しているのです。天の意が『宮室未だ成らざれば、将に他姓の之を制御すること有らんとす』というが如く、これはつまり上天の戒めです。そもそも天道を身近に接してなくとも、ただ善人と共にすれば、太戊(商の七代の王)、武丁(商の高帝)が災難を見て恐れ、故に天はこれを福と変えるくらいのことはあるのです。今もし多くの使役をやめて休ませ、徳政はますます高くすれば、三王は四王となり、五帝は六帝となります。どうして商宗が災いを転じて福とするのみでしょうか!」明帝これを聞いて態度を改めた。
  明帝の性格は厳格にして性急であり、宮室の修理を監督するものに期限を守れなかったものがいれば、明帝は自ら召して問い、言葉が口から発せられている内に、体と首が既に分かれていた。散騎常侍領秘書監王肅は上疏し、「今、宮室はまだ完成しておりませんが、作業に従事しているものは三、四万人と思われます。九龍殿は陛下の御身を休めることができれば良しとし、その内は六宮を設ければ足ります。思いますに泰極殿(太極殿)は先に完成しましたが、土木工事の負担は尚多くあります。願わくば陛下、常時食料を支給する者と急を要しない者の使い方を分け、その内、体の丈夫な男子を選び、留める万人を選び、一期使って交代させるのです。みな休みや交代する日があることを知れば、悦ばないものはおらず、作業に取りかかり、労働しても怨みません。数えれば一年に三百六十万の人夫であり、少ないとは言えません。一年従事したものは、約三年待機させ、残りの者は分けて派遣し、皆農業に従事させれば、行き詰まることのない計画となります。そもそも民衆に信頼されることは国家の大宝です。以前車駕にて洛陽に行幸するにあたり、民衆に軍営を設けるよう指示いたしました。役人は軍営の完成を以て終わると命令しましたが、既に完成し、再びその労力を利用しようとしても、その時人を差し向けることができませんでした。役人はただ目前の利益を追い、国家経営の体制を考えなかったのです。私の愚見を申し上げれば、今後、もし民衆を使役されるのであれば、その命令を明らかにし、かならず期限を守るべきです。次の有事の際は、寧ろ徴発先を変え、信頼を失わないようにすべきです。さて、陛下が時折刑罰を実行されますが、皆罪を犯した役人で、死罪も当然の者です。ところが、民衆は知らず、あわただしく裁かれていると思っております。故に願わくば、陛下が役人に判決を下し等しく死罪として、宮中で裁くことで側近から民衆まで疑われることのないようにして下さい。そもそも人命は重要なもので、生かすのは難しく、殺すのは容易であり、(生きていても)意識を失えば働けないものです。このことから聖人・賢人も人命を重要としたのです。昔、漢の文帝は天子の車の通り道を侵犯したものを殺そうとしましたが、廷尉の張釈之は『その時にあたって、天子が彼を処刑させれば、それで終わりです。今は廷尉に下命ください。廷尉は天下を公平に裁くものです。職分を覆えてはいけません。』私が思いますにその義を大いに失い、忠臣が述べることではありません。廷尉は、天子の役人です。公平を失ってはならないというがごときは、天子の身は逆に迷いみだれているというのでしょうか!これは自分の行いを重視し、君子の行いを軽視しており、不忠の極みであります。(しかしながら敢えて発言した廷尉張釈之の真意を)察していただかなくてはなりません!」
 10中山恭王袞疾病,令官屬曰:「男子不死於婦人之手,亟以時營東堂。」堂成,輿疾往居之。又令世子曰:「汝幼爲人君,知樂不知苦,必將以驕奢爲失者也。兄弟有不良之行,當造厀諫之,諫之不從,流涕喩之,喩之不改,乃白其母,猶不改,當以奏聞,并辭國土。與其守寵罹禍,不若貧賤全身也。此亦謂大罪惡耳,其微過細故,當掩覆之。」冬,十月,己酉,袞卒。
10.中山恭王曹袞が病気になった。下級官吏に命令して「男子は婦人の手の内に死なず。速やかに東堂へ移せ。」と言った。堂が完成し、住まいを移した。又、彼の後継者に命じた。「そなたは幼き頃から人君となり、楽を知り苦を知らない。必ず驕り高ぶり失うものがあるだろう。兄弟に不良の行いがあれば、膝を突き合わせてこれを諫め、従わなければ涙を流してこれを諭し、諭して改めなければ、その母に伝え、なお改めなければ、天子に申し上げ、あわせて国土を辞去せよ。その寵愛を守って禍に罹るよりは、貧しくとも身を全うしたほうが良い。これもまた大罪悪についてのみいうのだ。わずかな過失や事情の場合は、当然かばうべきである。」冬十月己酉、曹袞は卒去した。
 11十一月,丁酉,帝行如許昌。
11.十一月、丁酉、明帝は許昌へ行った。
 12是歳,幽州刺史王雄使勇士韓龍刺殺鮮卑軻比能。自是種落離散,互相侵伐,強者遠遁,弱者請服,邊陲遂安。
12.この年、幽州刺史王雄は勇士韓龍に鮮卑族の軻比能を刺殺させ、これより鮮卑族は離散し、互いに戦い、強者は遠方へ逃れ、弱者は降伏を願い出るなどし、国境付近はようやく安定した。
 13張掖柳谷口水溢湧,寶石負圖,状象靈龜,立于川西,有石馬七及鳳凰、麒麟、白虎、犧牛、璜玦、八卦、列宿、孛彗之象,又有文曰「大討曹」。詔書班天下,以爲嘉瑞。任令于綽連齎以問鉅鹿張臶,臶密謂綽曰:「夫神以知來,不追既往,祥兆先見,而後廢興從之。今漢已久亡,魏已得之,何所追興祥兆乎!此石,當今之變異而將來之符瑞也。」
13.張掖(弱水)が柳谷口(涼州張掖郡删丹県付近)にて氾濫し、図の描かれた神秘的な亀の形をした宝石が張掖(弱水)の西に現れた。石造りの馬が七頭あり、その他にも鳳凰・麒麟・白虎・犧牛(生け贄の牛)・璜玦(玉璜と玉玦、おびたまの一種)もあった。八卦・列宿(星座)・彗星の形も描かれており、「大討曹(大いに曹を討つ)」という文もあった。詔書を天下に公布し、めでたい兆しとした。冀州広平郡任県の県令、于綽はこの詔書を冀州広平郡鉅鹿県張臶の所へ持ち込み尋ねた。張臶は密かに于綽に言った。「そもそも天は未来を知り、過去を追わない。良いきざしが先に現れ、後に廃れるも興るもこれに従う。今漢は既に滅亡してしばらく経った。魏は既に吉兆を得たのだ。どうして過去にさかのぼって吉兆を追うことがあろうか!この石は今の変異を伝えるもので、将来の(王朝の)来るべき吉兆なのである。」
 14帝使人以馬易珠璣、翡翠、玳瑁於呉,呉主曰:「此皆孤所不用,而可以得馬,孤何愛焉。」盡以與之。
14.明帝は使者を呉に派遣し、馬を珠璣(丸い玉と四角い玉)・翡翠・玳瑁(鼈甲)と交換させた。呉主(孫権)は「これらは皆、私にとっては不用のもので、与えれば馬を得ることができる。どうして惜しむことがあろうか。」と言って、尽く与えてしまった。
四年(丙辰、二三六)

 春,呉人鑄大錢,一當五百。
1.春,呉では大銭を鋳造した。一大銭が五百銭に相当する。
 三月,呉張昭卒,年八十一。昭容貌矜嚴,有威風,呉主以下,舉邦憚之。
2.三月,呉の張昭が卒去した。享年八十一歳。張昭の容貌は厳粛であり、威風もあった。呉主(孫権)以下、国を挙げて彼の死を悼んだ。
 夏,四月,漢主至湔,登觀阪,觀汶水之流,旬日而還。
3.夏,四月,漢主(劉禅)は湔に行き、観阪に登り、汶水の流れを見て、十日ほどで帰った。
 武都氐苻健請降於漢;其弟不從,將四百戸來降。
4.武都の氐族の王、苻健が蜀漢への降伏を願い出た。符健の弟は従わなかったが、四百戸の民が降ってきた。
 五月,乙卯,樂平定侯董昭卒。
5.五月,乙卯,楽平定侯董昭が卒去した。
 冬,十月,己卯,帝還洛陽宮。
6.冬,十月,己卯,明帝は洛陽宮に帰った。
 甲申,有星孛于大辰,又孛于東方。高堂隆上疏曰:「凡帝王徙都立邑,皆先定天地、社稷之位,敬恭以奉之。將營宮室,則宗廟爲先,廐庫爲次,居室爲後。今圜丘、方澤、南北郊、明堂、社稷,神位未定,宗廟之制又未如禮,而崇飾居室,士民失業,外人咸云『宮人之用與軍國之費略齊』,民不堪命,皆有怨怒。書曰:『天聰明自我民聰明,天明畏自我民明威。』言天之賞罰,隨民言,順民心也。夫采椽、卑宮,唐、虞、大禹之所以垂皇風也;玉臺、瓊室,夏癸、商辛之所以犯昊天也。今宮室過盛,天彗章灼,斯乃慈父懇切之訓。當崇孝子祗聳之禮,不宜有忽,以重天怒。」隆數切諫,帝頗不悅。侍中盧毓進曰:「臣聞君明則臣直,古之聖王惟恐不聞其過,此乃臣等所以不及隆也。」帝乃解。毓,植之子也。
7.甲申,星が大辰(蠍座アンタレス)のあたりできらめき、また東方でもきらめいた。高堂隆が上疏した。「そもそも帝王は都を移して国を建て、皆まず天地・社稷の位置を定め、敬ってこれに仕えます。宮室を営むのであれば、宗廟を先にし、厩と武器庫を次ぎにし、居室は最後とするべきです。今、圜丘(丸い丘、天を祭る壇)・方澤(正方形に作った壇)・南北の郊(まつり)・明堂(天子が政道を実施した場所)・社稷・神の位置が未だ定まらず、宗廟の制度もまた礼の様ではなく、居室を飾り立て、士民は失業しております。一般に『宮廷人の用いかたは軍国の費略と同じだけ重要である』と言います。民はご命令に我慢できず、皆恨み怒りを持ちます。書経に『天の聰明なるは、我が民の聰明なるに自りし、天の明畏なるは、我が民の明威なるに自りす。』とあります。天の賞罰は民の言に随い、民心に従うということです。そもそも采椽(質素な建築)・卑宮(質素な宮廷)は、唐・虞・大禹が皇の風格を示したものです。玉臺(玉の台座)・瓊室(玉の宮殿)は,夏癸(夏の桀王)、商辛(殷の紂王)が天に背いた事を示すものです。今宮室は立派過ぎるので、天が彗星などきらめさせるのも、慈父が懇切に教訓してくれるようにしているのです。孝子としてつつしみ恐れかしこまる儀礼を高くし、無視して再度天を怒らせてはいけません。」高堂隆はしばしば厳しく諫めたため、明帝は非常に不快であった。侍中盧毓は進んで言った。「私が聞きますに君主が聡明であれば臣下は率直となります。古の聖王はただ君主の過ちを伝えないことをおそれたのです。我々臣下が高堂隆に及んでいないということです。」明帝は理解をした。盧毓は盧植の子である。
 十二月,癸巳,穎陰靖侯陳羣卒。羣前後數陳得失,毎上封事,輒削其草,時人及其子弟莫能知也。論者或譏羣居位拱默;正始中,詔撰羣臣上書以爲名臣奏議,朝士乃見羣諫事,皆歎息焉。
   袁子論曰:或云:「少府楊阜豈非忠臣哉?見人主之非則勃然觸之,與人言未嘗不道。」答曰:「夫仁者愛人,施之君謂之忠,施於親謂之孝。今爲人臣,見人主失道,力詆其非而播揚其惡,可謂直士,未爲忠臣也。故司空陳羣則不然,談論終日,未嘗言人主之非;書數十上,外人不知。君子謂羣於是乎長者矣。」
8.十二月、癸巳(24日)、穎陰靖侯陳羣が卒去した。陳羣はこれまでにしばしば政治の得失を述べ、常に上奏文を封緘して奉り、その草稿は裁断してしまったため、当時の人々や彼の子弟はその内容を知ることができなかった。この為、陳羣が官位にありながら沈黙していることを誹るものもいた。正始年間、詔によって朝臣の上書を編纂し、『名臣奏議』と名付けた。朝臣はそこで陳羣の諫言の上書を見て、皆嘆息した。
   袁子は次のように論じた。或るものが言った。「少府の楊阜がどうして忠臣でないだろうか?人主の非を見ればにわかにこれと衝突し、人の為に未だ嘗て言わないことはないと言う。」答えた。「そもそも仁とは人を愛することをいう。これを君主に施せばこれを忠といい、親に施せばこれを孝という。今、人臣となって、人主が道を失うを見て、無理にその非をそしり、その悪を広く知らせるのは、直士ということはできるが、忠臣とは言えない。故司空陳羣はそうではない。終日論じあっても、未だかつて人主の非を述べたことはない。書を数十上書したが、他の人は知らなかった。君子は陳羣のこのような所が優れているのだと言った。」
 乙未,帝行如許昌。
9.乙未,明帝は許昌へ行った。
 10詔公卿舉才德兼備者各一人,司馬懿以兗州刺史太原王昶應選。昶爲人謹厚,名其兄子曰默,曰沈,名其子曰渾,曰深,爲書戒之曰:「吾以四者爲名,欲使汝曹顧名思義,不敢違越也。夫物速成則疾亡,晩就而善終,朝華之草,夕而零落,松柏之茂,隆寒不衰,是以君子戒於闕黨也。夫能屈以爲伸,讓以爲得,弱以爲強,鮮不遂矣。夫毀譽者,愛惡之原而禍福之機也。孔子曰:『吾之於人,誰毀誰譽。』以聖人之德猶尚如此,況庸庸之徒而輕毀譽哉!人或毀己,當退而求之於身。若己有可毀之行,則彼言當矣;若己無可毀之行,則彼言妄矣。當則無怨於彼,妄則無害於身,又何反報焉!諺曰:『救寒莫如重裘,止謗莫如自脩。』斯言信矣。」
10.公卿に才德兼備なるものを各々一人推挙するよう詔し、司馬懿は兗州刺史、太原出身の王昶を選んだ。王昶は慎み深く人情に厚く、兄の子に默、沈と名付け、我が子には渾、深と名付けた。文書を書いて彼らを戒めた。「私は四人を名付けるにあたり、おまえ達が自身の名前を見てその意味を考え、間違えないようにさせようと望んだ。そもそも物事は早く完成すれば、滅ぶのも早く、遅ければ有終の美を飾る。朝方に咲いた花は夕方には萎れ、松やコノテガシワが繁る様は、もっとも寒い時にも衰えない。このことを君子は闕党の童子を戒めることで教えた。また、よく曲がればこそ伸びることができ、譲ればこそ得ることができ、弱いからこそ強くなる。目的を果たせないということは少ないのである。そもそも非難と賞賛は、愛憎のもとで災いと幸福のきっかけである。孔子は『私は人に対して、誰を非難し、誰を賞賛しようか。』と言っている。聖人の徳をもってしてもこのようである。どうして平凡な輩が軽々しく非難賞賛するだろうか!人が自分を非難したならば、退いてその原因を自分自身に求めよ。もし自身に非難されるべき行いがあれば、彼の非難は正当である。もし自身に非難されるべきおこないがなければ、彼の非難は誤りである。彼の非難が正当であれば彼に対して恨みを持つことなく、誤りであれば、自身の身に害はないのである。どうして反撃することがあろうか!諺に『寒さから逃れるには分厚い毛皮より良いものはない。非難を止めるには、自ら修養するのが一番良い。』この言葉は真実である。」
景初元年(丁巳、二三七)

 春,正月,壬辰,山茌縣言黄龍見。高堂隆以爲:「魏得土德,故其瑞黄龍見,宜改正朔,易服色,以神明其政,變民耳目。」帝從其議。三月,下詔改元,以是月爲孟夏四月,服色尚黄,犧牲用白,從地正也。更名太和暦曰景初暦。
1.春、正月、壬辰,兗州泰山郡山茌県にて黄龍が見られたと言う。高堂隆次のように考えた。「魏国は土徳を得ているのでその瑞祥として黄龍が見られたのです。新しい暦に改め、服の色を変え、神のごときその政治で民衆の耳目を変えるのが良いでしょう。」明帝はその発議に従った。三月、改元の詔を発し、この月を孟夏の四月とし、服の色は黄色を尊び、生け贄は白色の動物を用い、從地正(殷代の制度。十二月を正月とする)に従った。太和暦の名を変えて景初暦とした。
 五月,己巳,帝還洛陽。
2.五月、己巳、明帝は洛陽へ帰った。
 己丑,大赦。
3.己丑、大赦をおこなった。
 六月,戊申,京都地震。
4.六月、戊申、洛陽にて地震があった。
 己亥,以尚書令陳矯爲司徒,左僕射衞臻爲司空。
5.己亥、尚書令陳矯を司徒に、左僕射衞臻を司空に任命した。
 有司奏以武皇帝爲魏太祖,文皇帝爲魏高祖,帝爲魏烈祖;三祖之廟,萬世不毀。
   孫盛論曰:夫謚以表行,廟以存容。未有當年而逆制祖宗,未終而豫自尊顯。魏之羣司於是乎失正矣。
6.役人は武皇帝(曹操)を魏の太祖とし、文皇帝(曹丕)を魏の高祖とし、明帝を魏の烈祖とすると奏上した。三祖の廟は万世に渡って破壊されないとした。
   孫盛は論じた。そもそも謚は死者の行為を表し、廟はその内容を保存する。まだその年になっていないのに制度に逆らい祖先を祀り、まだ死んでいないのにあらかじめ自ら顕彰している。魏の役人はここで正当を失ったのである。と。
 秋,七月,丁卯,東郷貞侯陳矯卒。
7.秋、七月、丁卯、東郷貞侯陳矯が卒去した。
 公孫淵數對國中賓客出惡言,帝欲討之,以荊州刺史毌丘儉爲幽州刺史。儉上疏曰:「陛下即位以來,未有可書。呉、蜀恃險,未可卒平,聊可以此方無用之士克定遼東。」光祿大夫衞臻曰:「儉所陳皆戰國細術,非王者之事也。呉頻歳稱兵,寇亂邊境,而猶按甲養士,未果致討者,誠以百姓疲勞故也。淵生長海表,相承三世,外撫戎夷,内脩戰射,而儉欲以偏軍長驅,朝至夕卷,知其妄矣。」帝不聽,使儉帥諸軍及鮮卑、烏桓屯遼東南界,璽書徴淵。淵遂發兵反,逆儉於遼隧。會天雨十餘日,遼水大漲,儉與戰不利,引軍還右北平。淵因自立爲燕王,改元紹漢,置百官,遣使假鮮卑單于璽,封拜邊民,誘呼鮮卑以侵擾北方。
8.公孫淵がしばしば国内の賓客に対し悪口雑言したため,明帝は公孫淵を討伐しようとした。荊州刺史毌丘倹を幽州刺史とした。毌丘倹は上疏した。「陛下は即位以来、未だ記録すべき事跡がありません。呉・蜀は〔長江・蜀道の〕険難を頼みとして、いまだ平定できておりません。なんとかこの方面の無用の士卒を用いて遼東を平定しましょう。」光祿大夫衞臻が言った。「毌丘倹が述べたものは戦国時代の些細な戦術であり、王者のおこなうことではありません。呉は連年挙兵し、盗賊が辺境を乱しているので、装備を備え兵士を養っても、未だ討伐が果たせないでいるのは、誠に民衆が疲労しているためです。公孫淵は海外の辺境にて成長し、三世を継いでおります。また外へは戎夷を鎮圧し、内には軍事訓練をおこなっております。しかし毌丘倹は一軍をに長距離の行軍をさせようとしており、朝戦地に到着して、その夕方には撤収する羽目になり、これが無謀な策なることを知るでしょう。」明帝は聞き入れず、毌丘倹に諸軍及び鮮卑・烏桓の軍を統率させ、遼東の南国境に駐屯させ、詔勅にて公孫淵を追及した。公孫淵は遂に兵を起こして反乱し、毌丘倹を幽州遼東郡遼隧県にて迎撃した。雨天の日が十日余り続き、遼水が増水したため、毌丘倹は戦況が不利となり、軍を退いて幽州右北平郡に帰還した。公孫淵は独立して燕王を称し、改元して紹漢とした。百官を置き、使者を派遣して鮮卑の単于に璽を与え、辺境の民を与え、鮮卑を誘って北方を侵略しようとした。
 漢張后殂。
9.漢張后が殂去した。
 10九月,冀、兗、徐、豫大水。
10.九月、冀州・兗州・徐州・豫州にて洪水があった。
 11西平郭夫人有寵於帝,毛后愛弛。帝游後園,曲宴極樂。郭夫人請延皇后,帝不許,因禁左右使不得宣。后知之,明日,謂帝曰:「昨日游宴北園,樂乎?」帝以左右泄之,所殺十餘人。庚辰,賜后死,然猶加謚曰悼。癸丑,葬愍陵。遷其弟曾爲散騎常侍。
11.涼州西平郡出身の郭夫人は明帝の寵愛を受け、毛皇后への寵愛は薄れていった。明帝は庭園に遊び、宴会を催し楽しんだ。郭夫人は毛皇后も招くように願ったが、明帝は許さず、宮中の側近に話させないようにした。毛皇后はこのことを知り、翌日、明帝に言った。「昨日は北園に遊ばれたようですが、楽しかったでしょうか?」明帝は側近が漏らしたとして、十人あまりを殺害した。庚辰、毛皇后に死を賜った。しかし諡されて、悼という。癸丑、愍陵に葬られた。毛皇后の弟の毛曾は散騎常侍に転任した。
 12冬,十月,帝用高堂隆之議,營洛陽南委粟山爲圜丘,詔曰:「昔漢氏之初,承秦滅學之後,採摭殘缺,以備郊祀,四百餘年,廢無禘禮。曹氏世系出自有虞,今祀皇皇帝天於圜丘,以始祖虞舜配;祭皇皇后地於方丘,以舜妃伊氏配;祀皇天之神於南郊,以武帝配;祭皇地之祇於北郊,以武宣皇后配。」
12.冬、十月、明帝は高堂隆の奏上を取り上げ、洛陽の南にある委粟山に圜丘(円い丘)を造営した。詔に言う。「昔、漢氏の初め、秦が学問を滅ぼした後を受け、残ったものを選び取って、天地を祀る祭りを備えて四百年あまり、廃止されて禘禮(天子による大きな祭り)は行われなかった。曹氏の出自は有虞氏であり、今偉大なる皇帝を天として圜丘に祀り、始祖虞舜を配する。偉大なる皇后を地として方丘に祀り、舜妃伊氏を配する。皇天の神を南郊に祀り、武帝を配し、皇地の祇(地の神)を北郊に祀り、武宣皇后を配した。」
 13廬江主薄呂習密使人請兵於呉,欲開門爲内應。呉主使衞將軍全琮督前將軍朱桓等赴之,既至,事露,呉軍還。
13.廬江郡の主薄呂習は密かに使者を派遣して、呉に出兵を依頼し、開門して内応しようとした。呉主孫権は衛将軍全琮に前将軍朱桓等を率いさせて廬江郡へ向かったが、到着すると、偽りの内応であることが判明し、呉軍は帰還した。
 14諸葛恪至丹楊,移書四部屬城長吏,令各保其疆界,明立部伍;其從化平民,悉令屯居。乃内諸將,羅兵幽阻,但繕藩籬,不與交鋒,俟其穀稼將熟,輒縱兵芟刈,使無遺種。舊穀既盡,新穀不收,平民屯居,略無所入。於是山民飢窮,漸出降首。恪乃復敕下曰:「山民去惡從化,皆當撫慰,徙出外縣,不得嫌疑,有所拘執!」臼陽長胡伉得降民周遺,遺舊惡民,困迫暫出,伉縛送言〔諸〕府。恪以伉違教,遂斬以徇。民聞伉坐執人被戮,知官惟欲出之而已,於是老幼相攜而出,歳期人數,皆如本規。恪自領萬人,餘分給諸將。呉主嘉其功,拜恪威北將軍,封都郷侯,徙屯廬江皖口。
14.諸葛恪は丹楊郡に到着すると、文書を四郡に属する街の長官に配布し、それぞれの郡の境界を守備させ、軍の組織を明確にさせた。その従っている平民たちを、尽く屯田地に住まわせた。さらに諸将を引き入れ、兵を奥深く険阻な所へ派遣し、但だ国境付近の警護を立て直し、戦闘をさせなかった。穀物が実るのと、兵を出して刈り取らせ、種を残すことも無いようにさせた。古い穀物は既に無くなり、新しい穀物を収穫できず、平民は屯田地に住んでいるため、略奪したとしても手に入れるものはなかった。このため山に住む民は飢えてしまい、次第に山を下り降伏した。諸葛恪は部下を次のように戒めた。「山の民は悪を去って〔我々の〕教化に従っている。皆労らなければならない。他の県に移住させ、疑いをかけたり捕らえたりしてはならない!」臼陽県の長、胡伉は降伏した民と周遺を捕らえた。周遺は昔から従わなかったが、困窮してようやく出頭した。胡伉は縛りあげて役所に送った。諸葛恪は胡伉が命令に違反したとして、遂に〔胡伉を〕斬って命令を知らしめた。山の民は胡伉が降伏した民を捕らえたために斬刑に処せられたと聞き、役人たちはただ山から出てきて欲しいと思っているということを知ったので、老人も幼児も手を取り合って出てきた。兵士を三年で四万人とするという約束は、皆果たされた。諸葛恪は自領に一万人を割り当て、残りは諸将に与えた。呉主この功績を称え、諸葛恪を威北将軍に任命し、都郷侯に封じた。屯田を廬江の皖口に移した。
 15是歳,徙長安鐘簴、橐佗、銅人、承露盤於洛陽。盤折,聲聞數十里。銅人重,不可致,留于霸城。大發銅鑄銅人二,號曰翁仲,列坐於司馬門外。又鑄黄龍、鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置内殿前。起土山於芳林園西北陬,使公卿羣僚皆負土,樹松、竹、雜木、善草於其上,捕山禽雜獸致其中。司徒軍議掾董尋上疏諫曰:「臣聞古之直士,盡言於國,不避死亡,故周昌比高祖於桀、紂,劉輔譬趙后於人婢。天生忠直,雖白刃沸湯,往而不顧者,誠爲時主愛惜天下也。建安以來,野戰死亡,或門殫戸盡,雖有存者,遺孤老弱。若今宮室狹小,當廣大之,猶宜隨時,不妨農務,況乃作無益之物!黄龍、鳳皇、九龍、承露盤,此皆聖明之所不興也,其功三倍於殿舎。陛下既尊羣臣,顯以冠冕,被以文繡,載以華輿,所以異於小人;而使穿方舉土,面目垢黑,衣冠了鳥,毀國之光以崇無益,甚非謂也。孔子曰:『君使臣以禮,臣事君以忠。』無忠無禮,國何以立!臣知言出必死,而臣自比於牛之一毛,生既無益,死亦何損!秉筆流涕,心與世辭。臣有八子,臣死之後,累陛下矣!」將奏,沐浴以待命。帝曰:「董尋不畏死邪!」主者奏收尋,有詔勿問。
  高堂隆上疏曰:「今世之小人,好説秦、漢之奢靡以蕩聖心;求取亡國不度之器,勞役費損以傷德政。非所以興禮樂之和,保神明之休也。」帝不聽。
  隆又上疏曰:「昔洪水滔天二十二載,堯、舜君臣南面而已。今無若時之急,而使公卿大夫並與廝徒共供事役,聞之四夷,非嘉聲也,垂之竹帛,非令名也。今呉、蜀二賊,非徒白地、小虜、聚邑之寇,乃僭號稱帝,欲與中國爭衡。今若有人來告:『權、禪並脩德政,輕省租賦,動咨耆賢,事遵禮度,』陛下聞之,豈不惕然惡其如此,以爲難卒討滅而爲國憂乎!若使告者曰:『彼二賊並爲無道,崇侈無度,役其士民,重其賦斂,下不堪命,吁嗟日甚,』陛下聞之,豈不幸彼疲敝而取之不難乎!苟如此,則可易心而度,事義之數亦不遠矣!亡國之主自謂不亡,然後至於亡;賢聖之君自謂亡,然後至於不亡。今天下彫敝,民無儋石之儲,國無終年之蓄,外有強敵,六軍暴邊,内興土功,州郡騷動,若有寇警,則臣懼版築之士不能投命虜庭矣。又,將吏奉祿,稍見折減,方之於昔,五分居一,諸受休者又絶稟賜,不應輸者今皆出半,此爲官入兼多於舊,其所出與參少於昔。而度支經用,更毎不足,牛肉小賦,前後相繼。反而推之,凡此諸費,必有所在。且夫祿賜穀帛,人主所以惠養吏民而爲之司命者也,若今有廢,是奪其命矣。既得之而又失之,此生怨之府也。」帝覽之,謂中書監、令曰:「觀隆此奏,使朕懼哉!」
  尚書衞覬上疏曰:「今議者多好悅耳:其言政治,則比陛下於堯、舜;其言征伐,則比二虜於貍鼠。臣以爲不然。四海之内,分而爲三,羣士陳力,各爲其主,是與六國分治無以爲異也。當今千里無煙,遺民困苦。陛下不善留意,將遂凋敝,難可復振。武皇帝之時,後宮食不過一肉,衣不用錦繡,茵蓐不縁飾,器物無丹漆,用能平定天下,遺福子孫,此皆陛下之所覽也。當今之務,宜君臣上下,計校府庫,量入爲出,猶恐不及;而工役不輟,侈靡日崇,帑藏日竭。昔漢武信神仙之道,謂當得雲表之露以餐玉屑,故立仙掌以承高露,陛下能明,毎所非笑。漢武有求於露而猶尚見非,陛下無求於露而空設之,不益於好而糜費功夫,誠皆聖慮所宜裁制也!」
  時有詔録奪士女前已嫁爲吏民妻者,還以配士,聽以生口自贖,又簡選其有姿首者内之掖庭。太子舎人沛國張茂上書諫曰:「陛下,天之子也,百姓吏民,亦陛下子也,今奪彼以與此,亦無以異於奪兄之妻妻弟也,於父母之恩偏矣。又,詔書得以生口年紀、顏色與妻相當者自代,故富者則傾家盡産,貧者舉假貸貰,貴買生口以贖其妻。縣官以配士爲名而實内之掖庭,其醜惡乃出與士。得婦者未必喜而失妻者必有憂,或窮或愁,皆不得志。夫君有天下而不得萬姓之懽心者,鮮不危殆。且軍師在外數十萬人,一日之費非徒千金,舉天下之賦以奉此役,猶將不給,況復有掖庭非員無録之女。椒房母后之家,賞賜橫與,内外交引,其費半軍。昔漢武帝掘地爲海,封土爲山,賴是時天下爲一,莫敢與爭者耳。自衰亂以來,四五十載,馬不捨鞍,士不釋甲,強寇在疆,圖危魏室。陛下不戰戰業業。念崇節約,而乃奢靡是務,中尚方作玩弄之物,後園建承露之盤,斯誠快耳目之觀,然亦足以騁寇讎之心矣!惜乎,舎堯、舜之節儉而爲漢武帝之侈事,臣竊爲陛下不取也。」帝不聽。
  高堂隆疾篤,口占上疏曰:「曾子有言曰:『人之將死,其言也善。』臣寢疾有增無損,常恐奄忽,忠款不昭,臣之丹誠,願陛下少垂省覽!臣觀三代之有天下,聖賢相承,歴數百載,尺土莫非其有,一民莫非其臣。然癸、辛之徒,縱心極欲,皇天震怒,宗國爲墟,紂梟白旗,桀放鳴條,天子之尊,湯、武有之。豈伊異人?皆明王之冑也。黄初之際,天兆其戒,異類之鳥,育長燕巣,口爪胸赤,此魏室之大異也。宜防鷹揚之臣於蕭牆之内;可選諸王,使君國典兵,往往棋跱,鎭撫皇畿,翼亮帝室。夫皇天無親,惟德是輔。民詠德政,則延期過暦;下有怨歎,則輟録授能。由此觀之,天下乃天下之天下,非獨陛下之天下也!」帝手詔深慰勞之。未幾而卒。
   陳壽評曰:高堂隆學業脩明,志存匡君,因變陳戒,發於懇誠,忠矣哉!及至必改正朔,俾魏祖虞,所謂意過其通者歟!
15.この年、長安にある鐘簴(鐘を掛ける柱)・橐佗(ラクダ)・銅人(銅像)・承露盤(銅製の盤)を洛陽へ移動させた。承露盤は壊れ、その音は数十里先でも聞こえた。銅人は重たく、移すことができないため、霸城に残した。広く銅を徴発し、銅像を二体鋳造した。翁仲と名付けて、司馬門外に並べて置いた。また、黄龍・鳳皇を各一体ずつ鋳造した。龍は高さ四丈、鳳は高さ三丈あまりあり、内殿の前に置いた。芳林園の西北の隅に土山を築き、役人や官僚達にも土を負わせて、松・竹・雑多な木々や草々を土山に植え、様々な動物を捕らえて、その中へ放した。司徒軍議掾の董尋が上疏して諫めた。「わたしが聞くところによりますと、昔の直士は言葉を国のために尽くし、死を避けません。だから周昌は高祖を桀・紂と比べ、劉輔は趙后を下女に譬えました。天が忠義の直諫の士や戦乱にわき上がる中であっても、進んで振り返らない者を生んだのは、その時の君主の為に天下を惜しんだものです。建安以来、野に戦って死んだものもおれば、一族が絶えたものもおり、生き残ったものがいても、孤児や老人でありました。もし今宮室が狭く、広くするにしても、時に沿って農業の妨げとならないようにするのが良いでしょう。ましてや無益な物はいかがでしょう!黄龍・鳳皇・九龍・承露盤は皆、聖天子が興味を持つものではなく、その働きは殿舎の造営より三倍するものです。陛下は既に群臣を尊んで、冠や冕で彼らの功績を顕わしたり、飾り模様のぬいとりのある衣服を着せたり、豪華な輿に乗せたりしているのは、つまらぬ者と異なるからであります。しかし、かれら群臣に穴を掘らせて土を運ばせて、顔は垢で真っ黒となり、衣服や冠もよれよれとなっているのは、国家の栄光を破壊し、無益な事を尊ぶことであり、甚だ理由のないことです。孔子も『君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす。』と言っております。忠も無く礼も無くして、どうして国家が成り立ちましょうや!わたくしはこのようなことを申し上げれば必ず死を賜ることと存じております。しかしわたくしの身は牛の一本の毛ほどのものでありますから、生きていても無益であり、死んでも何を失うことがありましょうか!筆をとって涙を流しながら、心ではこの世とお別れを致しました。わたくしには八人の子供がおります。わたくしの死後、陛下にご面倒を見ていただきたく存じます。」奏上の時、沐浴して命令を待った。明帝は「董尋は死を恐れていないのか!」と言い、担当官が奏上して董尋を捕らえようとしたところ、問責するなとの詔が発せられた。
  高堂隆は上疏した。「今世のつまらぬ者は、秦・漢の贅沢を説いて陛下のお心を惑わすことを好んでおります。亡国の器物を取り寄せることを求めて、労役させれば財政を損耗させ徳政を傷つけます。礼楽の和を興すことにもならず、天地の神の福を保つことにもなりません。」明帝は許さなかった。
  高堂隆はまた上疏した。「昔(鯀・禹の時代)、洪水が起こって天にまで届きそうなことが二十二年続き、堯・舜・君臣は南面するのみでした。今当時のような緊急時でもないのに、公卿大夫を雑役夫と共に労役させていると、周辺異民族に対しては、良い評判ではなく、これを竹帛に書き残せば、名誉なことではありません。今、呉・蜀の二賊は、ただ未開拓な地域・小虜(烏丸・鮮卑)・集落の盗賊などを抑えるだけでなく、帝号を僭称し、中原と同等となろうとしています。今もしある者が来て告げたとします。『孫権・劉禅は徳政を行い、租税を軽くし、いつも賢老に相談し、なす事は礼に従っています』と。陛下はこれを聞いて、どうして気付いて彼らがこのようであることを憎み、討伐することが難しいとして国家を憂えたりしないのですか?もし使者が告げた内容が『かの二賊(呉・蜀)は無道な政治を行い、浪費を尊び節度も無く、士民を労役に従事させ、租税を重くしているので、民衆は命令に我慢することができず、ため息を日々何度もついている。』とします。陛下はこれを聞いて、どうして彼らの疲弊して、国を奪取することが難しくないことを喜ばないのでしょうか!もしこのようのであれば、心を入れ替えて推測をして、礼を実践する必然性に気がつくのも遠くはないのです!国を滅ぼす張本人は自ら滅びないと言って、その後滅びます。賢明なる君主は自ら滅ぶと言って、その後滅びません。今天下は疲弊し、民衆は少しの蓄えもなく、国は年の暮れまでの蓄えもなく、外には強敵がおり、六軍が辺境を荒らし、内には土木工事が行われ、州郡は騒ぎ立てております。もし敵軍侵入の警報が入れば、土木工事に従事しているものが異民族の朝廷を倒すために命を投げ出すことができないのではないかと恐れるのです。また、将軍・官吏の奉祿は次第に少なくされ、昔と比較すると、五分の一になっており、休んでいるものもまた朝廷からの扶持を受けられず、税金を納める必要がない者は今皆半分を出しています。このため、朝廷の税収は以前の倍の多さとなり、支出するものは、昔の三分の一となりました。支出の計算は常に行い、更に不足がでる毎に、牛肉をわずかに支給し、やりくりしました。反面このことから推測すると、おそらくこれらの諸費用は、必ず使われるところがあるのです。そもそも俸禄として穀帛を与えるなど、君主は官吏や民衆を養うゆえに、命令をつかさどる者であるのです。もし今これを無くしたのであれば、その使命も奪われるのです。すでに得たものを失うと、これは恨みを生むところです。」明帝はこれを見て、中書監・中書令に言った。「高堂隆のこの上奏文を見ると、わたしを恐れさせているのではないか!」
  尚書衞覬は上疏した。「現在の議論は耳に聞こえの良いもの多くございます。政治のことを言えば、陛下を堯・舜になぞらえ、征伐のことを言えば、二虜(呉・蜀)を貍(やまねこ)や鼠の如く言います。わたくしはそうではないと思います。この天下を三分し、兵士が集まって武力を広め、それぞれがその主となっております。これは六国が分けて治めていた当時と異なるものではありません。まさに今、千里の広きに渡って〔炊事する〕煙があがらず、民衆は困窮しています。陛下はこれに意を留めず、疲弊しようとしており、再び国勢を振るうのが難しくなっています。武皇帝(曹操)の時は、後宮の食事は一片の肉も多くすることなく、衣も絹織物を使うことなく、座席の敷物も縁を飾らず、器物も漆塗りのものはなく、よく天下を平定できるものを用いて、財産を子孫に残して下さいました。これらは皆、陛下もご覧になっております。今なすべき事は、君臣の身分の上下を問わず、国家の財政について考え、収入を見定めて支出をおこない、なお及ばないことを恐れるのがよいのです。工事の労役は中止せず、贅沢は日々増して、金庫は日々尽きています。昔、漢の武帝は神仙の道を信じて、雲表の甘露を得て玉の粉末を飲まなければならないと言って、仙掌(仙人が甘露を掌で受けるように象った像)を立てて、甘露を手に入れようとしました。陛下は熟知されているように、笑い事ではありません。漢の武帝は甘露を求めてさらに存在しないものを見ておりましたが、陛下は甘露を求めている訳でもないのに、空しく設置しています。親しみに利益とならず、労力を無駄にしています。陛下のご考慮を以て制度を変更するのが良いと考えます。!」
  当時、捕らえた兵士の娘ですでに嫁に行って役人や民の妻となっているものは、呼び戻して兵士に与え、彼女達を奴隷と交換してもよいという詔があり、また容姿が優れた者を選んで後宮に入れていた。太子舎人沛國張茂は奏上して諫めた。「陛下は天の子であり、民衆・役人もまた陛下の子であります。今あちらから奪ってこちらに与え、またそうして兄の妻を奪って弟の妻とすることと異ならず、父母の恩も偏るものです。また、詔書では奴隷の年齢・容貌が妻と同じ位のものを代わりにたてることができるとあります。このため、富めるものは家産を傾け、貧しき者は借金をして、奴隷を買って妻の代わりとしようとしています。県の長官は兵士に配ることを名目としていますが、実は後宮に入れ、その内、醜い者を出して兵士に与えています。妻を得た者が必ずしも喜ぶ訳でなく、妻を失ったものは必ず憂いを抱きます。ある者は窮まり、ある者は憂い、皆志をえることはありません。そもそも君主として天下を有し、民衆の喜ぶ心を得られないものは、危険がないということは少ないのです。しかも軍隊が辺境地域に数十万人配備され、一日の出費はただ千金ではなく、天下の税を挙げてこの戦役に当てたとしても、なおまかなうことができず、まして後宮にいて人数に数えられず記録されていない女や皇后や皇后の実家に賞賜ををむやみに与え、内外で相互に引き合って、その費用は軍費の半分であります。昔、漢の武帝は地面を掘って海とし、土を盛って山としました。幸いに、この時は天下が統一され、敢えて争おうとするものがいなかったのです。乱により衰え始めてから四五十年、となりあました。馬は鞍を捨てることなく、兵士は鎧を脱がず、盗賊は辺境にして、魏皇室を危うくしようと企んでいます。陛下はおそれておりません。節約を尊ぶと思いつつも、贅沢が務めであるかのようにして、中尚方はもてあそぶ物を作り、後宮では承露盤を作り、これらは実に耳目を喜ばせるものですが、また仇敵の心をも喜ばせるのに十分なものです! 残念なことです。堯・舜の質素倹約を捨てて漢の武帝のような贅沢をなされるとは。私の意見としては陛下のなさることを支持できません。」明帝は聞き入れなかった。
  高堂隆は病が重くなり、口述筆記させて上疏した。「曾子の言葉に『人が死に行かんとする時、その言葉は良いものである。』とあります。私は病にふせって重くなっても軽くなることはなく、常に死を恐れるばかりで、忠誠は明らかにできません。私の赤誠のほど、わずかでも陛下のご高覧にあずからんことを願っています! 私は三代にわたって天下を統べるのを見て参りました。(天下を統べるとは)聖人・賢人が順々に受け継ぎ、多くの事柄を一つ一つ積み上げ、狭い土地であっても統治していないところはなく、すべての民がその臣下でないものはないというものであります。ところが、夏の桀王・殷の紂王のごときものは、ほしいままに欲を極めたために、天は怒りに震え、諸侯の国を廃墟と化し、紂王は首を白旗に掛けられ、桀王は鳴條(安邑の西)に追われました。天子の尊き座に就いたのは、周の湯王・武王でした。どうして人を区別したのでしょうか?皆明王の跡継ぎです。黄初の頃、天からの予兆がその戒めとして、未知の鳥を遣わしたので、ツバメの巣で育てると、口・爪・胸が赤くなりました。これは魏王朝としては、大きな異変です。鷹揚に振る舞う臣下を塀の中に閉じこめ、諸王を選んで、諸王国にて兵を管理させ、あちこちに配置して都の近辺を守備させ、帝室を補佐させるのがよいでしょう。そもそも天に親しみはなく、ただ徳のみが輔けとなります。民は徳ある政治を詠えば期日の延ばすのが良いでしょう。民に恨み嘆きがあっては、能力を受け継ぎ記録することをやめてしまうでしょう。これによって見てみると、天下は天下の天下であって、ただ陛下の天下であるばかりではありません!」明帝は手ずから詔を書き、深く彼を慰労した。幾ばくもたたぬうちに高堂隆は卒去した。
   陳寿は評論した。高堂隆は学業を広く修め、志は君主を正すことにあり、情勢の変化によって戒めを述べ、懇ろな忠誠を顕した。忠義の士であることよ!必ず暦を改めるに至り、魏に(舜の国)虞を祖とさせているが、その意志は限度を超えていて、それが通じるところとなったであろうか!
 16帝深疾浮華之士,詔吏部尚書盧毓曰:「選舉莫取有名,名如畫地作餅,不可啖也。」毓對曰:「名不足以致異人而可以得常士;常士畏教慕善,然後有名,非所當疾也。愚臣既不足以識異人,又主者正以循名按常爲職,但當有以驗其後耳。古者敷奏以言,明試以功;今考績之法廢,而以毀譽相進退,故眞偽渾雜,虚實相蒙。」帝納其言。詔散騎常侍劉卲作考課法。卲作都官考課法七十二條,又作説略一篇,詔下百官議。
  司隸校尉崔林曰:「按周官考課,其文備矣。自康王以下,遂以陵夷,此即考課之法存乎其人也。及漢之季,其失豈在乎佐吏之職不密哉!方今軍旅或猥或卒,增減無常,固難一矣。且萬目不張,舉其綱,衆毛不整,振其領,皋陶仕虞,伊尹臣殷,不仁者遠。若大臣能任其職,式是百辟,則孰敢不肅,烏在考課哉!」
  黄門侍郎杜恕曰:「明試以功,三載考績,誠帝王之盛制也。然歴六代而考績之法不著,關七聖而課試之文不垂,臣誠以爲其法可粗依,其詳難備舉故也。語曰『世有亂人而無亂法』,若使法可專任,則唐、虞可不須稷、契之佐,殷、周無貴伊、呂之輔矣。今奏考功者,陳周、漢之云爲,綴京房之本旨,可謂明考課之要矣。於以崇揖讓之風,興濟濟之治,臣以爲未盡善也。其欲使州郡考士,必由四科,皆有事效,然後察舉,試辟公府,爲親民長吏,轉以功次補郡守者,或就增秩賜爵,此最考課之急務也。臣以爲便當顯其身,用其言,使具爲課州郡之法,法具施行,立必信之賞,施必行之罰。至於公卿及内職大臣,亦當倶以其職考課之。古之三公,坐而論道;内職大臣,納言補闕,無善不紀,無過不舉。且天下至大,萬機至衆,誠非一明所能遍照;故君爲元首,臣作股肱,明其一體相須而成也。是以古人稱廊廟之材,非一木之支,帝王之業,非一士之略。由是言之,焉有大臣守職辦課可以致雍熙者哉!誠使容身保位,無放退之辜,而盡節在公,抱見疑之勢,公義不脩而私議成俗,雖仲尼爲課,猶不能盡一才,又況於世俗之人乎!」
  司空掾北地傅嘏曰:「夫建官均職,清理民物,所以立本也。循名責實,糾勵成規,所以治末也。本綱未舉而造制末程,國略不崇而考課是先,懼不足以料賢愚之分,精幽明之理也。」議久之不決,事竟不行。
   臣光曰:爲治之要,莫先於用人,而知人之道,聖賢所難也。是故求之於毀譽,則愛憎競進而善惡渾殽;考之於功状,則巧詐橫生而眞僞相冒。要之,其本在於至公至明而已矣。爲人上者至公至明,則羣下之能否焯然形於目中,無所復逃矣。苟爲不公不明,則考課之法,適足爲曲私欺罔之資也。
   何以言之?公明者,心也;功状者,迹也。己之心不能治,而以考人之迹,不亦難乎!爲人上者,誠能不以親疏貴賤異其心,喜怒好惡亂其志,欲知治經之士,則視其記覽博洽,講論精通,斯爲善治經矣;欲知治獄之士,則視其曲盡情僞,無所冤抑,斯爲善治獄矣;欲知治財之士,則視其倉庫盈實,百姓富給,斯爲善治財矣;欲知治兵之士,則視其戰勝攻取,敵人畏服,斯爲善治兵矣。至於百官,莫不皆然。雖詢謀於人而決之在己,雖考求於迹而察之在心,研覈其實而斟酌其宜,至精至微,不可以口述,不可以書傳也,安得豫爲之法而悉委有司哉!
   或者親貴雖不能而任職,疏賤雖賢才而見遺;所喜所好者敗官而不去,所怒所惡者有功而不録,詢謀於人,則毀譽相半而不能決;考求其迹,則文具實亡而不能察。雖復爲之善法,繁其條目,謹其簿書,安能得其眞哉!
   或曰:人君之治,大者天下,小者一國,内外之官以千萬數,考察黜陟,安得不委有司而獨任其事哉?曰:非謂其然也。凡爲人上者,不特人君而已;太守居一郡之上,刺史居一州之上,九卿居屬官之上,三公居百執事之上,皆用此道以考察黜陟在下之人,爲人君者亦用此道以考察黜陟公卿太守,奚煩勞之有哉!
   或曰:考績之法,唐、虞所爲,京房、劉卲述而修之耳,烏可廢哉?曰:唐、虞之官,其居位也久,其受任也專,其立法也寬,其責成也遠。是故鯀之治水,九載績用弗成,然後治其罪;禹之治水,九州攸同,四隩既宅,然後賞其功;非若京房、劉卲之法,校其米鹽之課,責其旦夕之效也。事固有名同而實異者,不可不察也。考績非可行於唐、虞而不可行於漢、魏,由京房、劉卲不得其本而奔趨其末故也。
16.明帝は見かけだけで中身のない人士をひどく憎み、吏部尚書盧毓に言った。「人材の選出については名声あるものを採用してはならない。名声は絵に描いた餅のようなもので、食べることはできないものだ。」盧毓は答えた。「名声を得るには優れた才能の持ち主だということでは不足であって、道徳を守り行動を変えないことで得ることができるものです。道徳を守り行動を変えない常士は教えを敬い善行を慕い、その後に名声を得るのであって、当然憎むべきものではありません。愚かにも私は異能の人をほとんど知らず、また主なものは名声に従って常に官職にあり、ただ結果でその後をみるのみです。昔は意見を述べるのに言葉を用い、その結果は功績で確認したのです。今考績の法が廃止されたならば、毀誉の基準が曖昧になり、故に真偽も混乱し、嘘や真の見分けもできなくなります。」明帝はこの意見を採用した。散騎常侍劉卲に考課法の作成を命じた。劉卲は都官考課法七十二條を作成し、また説略一篇を著し、明帝により百官の議へ下されることとなった。
  司隸校尉崔林は言った。「周官の考課法を検討しますと、その文書は備わっております。ところが康王以後、次第に廃れてしまいました。このことは考課法がそれを実施する人に依存するものであると示しています。漢の末期に至り、その失政の責任は補佐官が充実していないことにあるとどうして言えましょうか!まさに今、軍隊は突然に編成されるもので、増減も定期的ではなく、元来統一するのは難しいものです。網の目を張らずして、網の綱を引き上げるようなものであり、毛が揃わぬのに、その襟を振るようなものです。皋陶は虞に仕え、伊尹は殷の臣下となって、不仁なるものを遠ざけました。もし大臣がその職を全うすることができたならば、法はどのような君主の元でも施行されます。だれかを敢えて排除しないのですか?どうして考課法に責任がありましょうか!」
  黄門侍郎杜恕が言った。「功績によって明らかに試み、三年で実績を考課するというのは、帝王の立派な制度です。しかし唐・虞・夏・商・周・漢の六代を経ても実績考課法は著されず、堯・舜・禹・湯・文・武・周公の七聖も考課の法典を作っておりません。私はその考課法はだいたいにおいて依るべきであって、その細目は考課法に盛り込むことは難しく、古の例を挙げてならうべきと思います。語に『世は人に乱されることはあっても法に乱されることはない』とあります。もし法に専任させることができたならば、唐・虞は須稷・契の補佐を待たなくてよかったですし、殷・周は伊・呂の助けを尊ぶこともなかったのです。今考課法を奏上する者は、周・漢の言行を述べ、京房の本旨を綴り、考課の要諦を明らかにすると言うべきです。謙譲を尊ぶ風潮を以て、整った政治を興す点については、私はまだ善を尽くしていないと考えております。さて、州郡に考課をさせたいならば、必ず四科を課し、全科目で合格点であれば、推薦させ、試みに公府へ呼んで、民に近い長吏に任命し、転任させるには功績をもって郡守の補佐に位置づけるのは、秩禄を増やし爵位を与えるのが、もっとも考課の急務です。私は、その身を現し、その言葉を用い、州郡の法を課するをなさしめ、法が備わり施行され、かならず信賞必罰を行うべきだと考えます。公卿および内職大臣においてもまた、その職を考課するべきです。古の三公は、座して道を論じました。内職大臣は言を採用して不足を補い、良くないものは治めず、過ちなきものは挙げなかった。ちょうど天下は大きくなり、あらゆる機会が民衆に与えられ、誠非一明所能遍照;故に君主は元首となり、臣下は股肱の臣となり、それが一体となっていることを明らかにし、必要だからなるのです。これは古人の廊廟の材に例えれば、一木の枝ではなく、帝王の大業は、一士大夫の計略ではありません。ここで次のように言います。どうして大臣が職をまもって考課を処理して天下を落ち着かせることができましょうか!誠使容身保位,無放退之辜,而盡節在公,抱見疑之勢,公義不脩而私議成俗,仲尼(孔子)が考課を行っても、なお一才を尽くすことができなかった。ましてや世俗の人にできましょうか!」
  司空掾北地郡の傅嘏は言った。「そもそも官職を設置し整えるのは、人民と万物を清らかに治め、根本を立てるためです。名目に従って実質を責め、規則を正したり規則を作ったりするのは、些末なところを治めるためです。根本となる方針が挙がらぬのに細かな規則を作り、国の戦略を尊ばずして、考課を先にするのは、賢愚の分をはかり、幽明の理を詳しく検討するのが足りないのではないかと恐れます。」議論を長時間行ったが決まらず、ことは結局行われなかった。
   私司馬光が申し上げる「治世の要諦は、人材を用いることに先んずることはなく、人を知る道は聖賢が難しいとしたことである。これは人材を毀誉褒貶において求めれば、好き嫌いが競い、善悪が混じって区別がつかないからである。これを功績において考課すれば、詐欺が次々と起こり、真偽がわからなくなる。つまり、その根本は公明正大であることにのみある。人の上に立つ者が公明正大であれば、下の者の才能の有無は明らかに眼中に形をなし、逃すことはないのである。もし公明正大でなければ、考課法が仮に十分であっても私利私欲のために騙す道具となるのである。
   何を根拠にこのような事を言うのか?公明とは心である。功状は功績である。自分の心は治めることができないで、人の功績をはかるのは、難しくないだろうか! 人の上に立つ者は、近しいか否か、富裕か否かによって心を変えたり、感情は好き嫌いで志を乱したりしない。経学を研究する人を知ろうと思えば、その博覧強記ぶりや論を講じて精通しているのを見て、彼が良く経学を研究していると判断できるのである。事件の審査や処理を行う人を知ろうと思えば、真偽を見極め、冤罪とすることがないのを見て、良い審査人だと判断できるのである。財産管理人を知ろうと思えば、倉庫を満たし、万民の生活が満たされるのを見て、良い財産管理人だと判断できる。兵を統率する人を知ろうと思えば、戦いに勝ちで攻め取り、敵を畏服させるのを見て、良い統率者だと判断できるのである。全ての官職について、そうでないものはない。人に相談したとしても決定するのは自分であり、功績を考査したとしても、見分けるのは心である。実質を調査し妥当性を判断することは、精緻であり微妙であって、口述もできないし、書物で伝えることもできない。どうしてあらかじめ法として作成し、役人にことごとくゆだねることができるだろうか!
   近しく尊貴なる者が能力がなくても官職に就き、遠く卑賤の者が優れた才能があっても遺される。これを喜び好む者は官職を損なうも去らず、怒り憎む者は功績があっても記録されず、人に相談すれば、毀誉褒貶が半ばして決めることができない。その足跡を考え求めようとすれば、文は事実と失われたものを備えており、調査することができない。またこれを善法とすると言っても、その条目は繁雑で、その簿書を慎重に扱うだけで、どうしてその真実をえることができるだろうか!
   あるものが言った。人君の統治は、大きくは天下、小さくは一国であり、内外の官職は千万にも上り、人事の考察について、どうして役人に任せず、一人でその人事をおこなうことができようか? 答えた。それはそうだとは言えない。だいたい人の上に立つ者は、ただ人君のみというわけではない。太守は一郡の上におり、刺史は一州の上におり、九卿は属官の上におり、三公は百執事の上にいる。皆この道を使って下にいるものの人事を考察し、人君であるものもまたこの道を使って公卿太守の人事を考察する。どうして繁雑なことがあろうか!
   あるものがいった。考課の法は、唐(堯)・虞(舜)が作り、京房・劉卲が述べて修めたのみである。どうして廃することができようか?答えた。唐(堯)・虞(舜)の官職は,位に居るのが長く、任務を受けては専任であり、法を立てるのは寛容で、結果を求めるのに遠い。これは鯀がおこなった治水が、九年間成果を挙げることなく、その後にその罪を治めた。禹の治水は、九州の水利を完成して、四方の土地に住むことができるようになって、その後にその功績が賞された。(唐・虞が)京房・劉卲の法に及ばないのは、米・塩の税をはかることと、短時間での考課を求めることである。物事にはそもそも名目は同じでも実際は異なるということがあり、察しなければならない。考課は唐・虞で実行できて、漢・魏でおこなうことはできないものではない。京房・劉卲もその根本を得ることをせず、その枝葉に走ったのである。
 17初,右僕射衞臻典選舉,中護軍蔣濟遺臻書曰:「漢主遇亡虜爲上將,周武拔漁父爲太師,布衣廝養,可登王公,何必守文試而後用!」臻曰:「不然。子欲同牧野於成、康,喩斷蛇於文、景,好不經之舉,開拔奇之津,將使天下馳騁而起矣!」
  盧毓論人及選舉,皆先性行而後言才,黄門郎馮翊李豐嘗以問毓,毓曰:「才所以爲善也,故大才成大善,小才成小善。今稱之有才而不能爲善,是才不中器也!」豐服其言。
17.昔、右僕射衛臻は選挙を司り、中護軍蔣済は衛臻に書を遺した。「漢主(高祖)は亡虜(韓信のこと)に会って上将とし、周の武王は漁父(太公望のこと)を抜擢して太師とした。無官・雑役夫でも王公に登ることができる。どうして試験をしてから採用するというのを守のか!」衛臻は答えた「そうではない。(周の武王が殷の紂王を滅ぼした)牧野の戦いを(後の)成王・康王の時代におこなおうと望むのは、文王・景王が蛇を断つのに喩えられる。普通ではない推挙を好み、奇抜な入り江(登用)を開くのは、天下に走らせて起こすようなものだ!」
  盧毓は人を論じて選挙に及び、皆まず人柄を見て、後に才能を見た。黄門郎馮翊・李豊はかつて盧毓に質問した。盧毓は「才能はそれで善を成すことができるものであり、故に大きな才能は大善を成す。小さな才能は小善を成す。今、才能があると言って、善を成すことができないのは、才能がそれを容れる器に適合しなかったのだ!」李豊はこの言に納得した。

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