3 攻撃機・爆撃機

    従来日本海軍では雷撃、水平爆撃を主務としたものを
   攻撃機、これに対して急降下爆撃を主目的としたものを
   爆撃機と称していた。しかし、太平洋戦争末期には実戦
   の経験により機種統一をはかり両機種間の差がなくなり
   この両機種の区別が判然としなくなった。また、空母の
   不足から艦上、陸上の区別も次第なくなり、従って幻の
   翼の中には、これらの区別のはっきりしない機体が数種
   見うけられる。

 

十一試水上爆撃機

 昭和11年に海軍は、中島、三菱の両社に対して十一試水上爆撃機の
試作を指示したとされているが、本格的な設計までにはいたらなかっ
た。後の「瑞雲」あるいは「晴嵐」のような性格の機体の先駆ともい
うべきものであったろうと思われる。
 


十一試艦上攻撃機

 海軍は昭和11年、三菱と中島に十一試艦上爆撃機の競作を命じたが、
三菱機(D3M1)はモックアップのみで終わった。これに対して中島は
昭和12年3月、発動機に「光」を装備した低翼単葉引込み脚機の第一
号機(D3N1)を完成、つづいて計3機の試作機が製作されたが、審査
の結果、不採用に終わった。
 この他、単発の攻撃機・爆撃機には「惑星」」恒星」「遠山」等が、
計画されていたと伝えられる。大型の陸攻・陸爆では有名な「深山」、
「連山」のほか「泰山」「K100」など、いくつかの計画がったが一式
陸攻に代わるべき陸攻は遂に出現せずに終わった。


十六試陸上攻撃機「泰山」(G7M1)

 昭和16年の初頭、一式陸上攻撃機が制式採用されたばかりであった
が、海軍は早くも後継機として十六試陸上攻撃機の試作大要をまとめ、
三菱に対しM60の名で研究を指示した。その要求項目は、当時問題に
なりつつあった一式陸攻の防弾があり、本機においては燃料タンクを
ゴムによる完全防弾とすることが強調され、その他、性能においては、
最大速度300kt(556km/h)、航続距離4,000nm(7,410km)、離陸滑走距離
600mで急降下爆撃可能なこと、武装は20mm×2、 7.7mm×3、乗員
4名という相当過大なものであった。
 三菱ではこの要求に対し、九六式、一式陸攻の設計で成功を収めた
本庄技師を主務者として基礎研究を開始したが、この要求を満たすた
めには4発機とする三菱案と、双発機を主張する海軍案との合意が見
られず、当時実用化されている発動機を装備しての双発機では実現が
困難として三菱側は計画の一時中断を申し出た。しかし、16年中旬頃
から三菱側は高橋技師を担当者として、開発中のヌ号水冷H型24気筒
(2,200hp)発動機を使用した双発機形式で計画を再開、検討を始めた
が、同発動機の早期実用化が望めないとして、カ号空冷星形18気筒−
MK10A 発動機を装備した双発機の設計案を答申した。だが、軍当局は
戦訓などによる変更を要求し、かつこの性能を不満として、さらなる
性能向上を要求したため、三菱側は実現の見込みなしとし、再度同機
の計画は中絶してしまった。
 昭和16年末、太平洋戦争が開戦となるや、一式陸攻の後継機の実用
化は急を要する事態となり、ふたたび三菱側は計画を再開、17年3月
には軍当局と検討の結果、一応妥協案ができて同年9月には、第一次
モックアップ審査にまでこぎつけた。しかし、この段階においても軍
当局からの武装強化や防弾などの要求変更が相次ぎ、最終的な設計案
がまとまったのは、昭和18年も8月になってからであった。この間、
三菱側では他の量産機や改修などと多忙のため、設計主務者も本庄技
師から高橋技師に、さらに疋田技師に引き継がれ、再び高橋技師へと
3転4転し、いたずらに時日を浪費し設計を遅れさせていたのだった。
 第一次モックアップ審査以後の主な要求変更の例をあげると、武装
面では13mm機銃×5(18年1月)が同8月の最終案では13mm×6と変わ
り、防弾面ではインテグラルタンクのゴム防弾から、ゴムのみによる
完全防弾、さらに主要部に防弾鋼を使用した完全防弾と3転している。
また航続力は当初要求の 4,000浬から、17年10月には 3,000浬、18年
1月には 2,000浬、8月には 1,500浬と変更されている。
 ようやく最終案がまとまった本機であったが、この頃では、相次ぐ
要求変更により、当初計画されていた性能とは全くかけはなれたもの
となっており、計算性能では一式陸攻の防弾装置型(34型)と大差ない
という結果と合わせて、 MK10A発動機の実用化の見込みもたたないと
いうことで、昭和19年6月には制式に試作中止となった。


十七試陸上攻撃機「K-100」

 川西ではこれまで水上機と飛行艇の生産に専念してきたが、太平洋
戦争に突入してみると、想定していた戦闘様式は一変し飛行艇の用兵
価値が低い事が判明し、先を見こして陸上機の生産に切り替えを余儀
なくされた。こうして昭和17年に川西が社内名「K-100」として開発
に着手したのが「十七試陸上攻撃機」と呼ばれた双発陸攻で、ある程
の急降下が可能なことを含めて設計を開始した。
 機体は一式陸攻よりひとまわり小さく、銀河よりひとまわり大きく、
規模も性格も一式陸攻と銀河のちょうど中間ぐらいの機体にまとめら
れ、これに川西独特の隙間フラップを装備し、大直径のBDエンジンを
収容した巨大なナセルの双発4座陸攻であった。
 しかし、中島では開発中のBD「護」発動機の実用化に目途がつかぬ
として本機がまだ実計に進まぬうちに「護」エンジンの生産をやめて
しまい、その上海軍は昭和18年初頭に、次期陸攻は4発にするとして、
「連山」の試作を中島に発令する始末で、このような事からK-100は
試作が中止されてしまった。本機は細部設計までかかっており、その
計画性能は当時としては世界的水準を抜く飛躍的なものであったとい
われる。

十七試陸上攻撃機(K−100)要目

 全幅 21.60m 全長 15.00m 全高 6.07m(水平)
 翼面積 64.0屐
 自重 8,550kg 総重量 13,500kg 過荷 16,000kg
 発動機 中島「護」改 空冷複列星形18気筒×2
 離昇馬力 2,300hp プロペラ 金属製定速4枚羽根 直径 4.50m
 燃料 12,800函ヽ衞 240
 最大速度 327kt(606km/h)/7,600m 着陸速度 78kt(145km/h)
 上昇力 4,000m〜6′16″ 実用上昇限度 11,200m
 航続距離 3,000nm(5,556km)/巡航200kt(370km/h)
 武装 20mm砲旋回×3 800kg魚雷×1  乗員 4名
   


「TB」爆撃機

 海軍軍令部の発案により計画され、航研と川西の協力により設計が
開始された米本土攻撃用遠距離爆撃機で、昭和18年末には基礎設計が
完了し、19年初頭からは風洞実験へと進み、さらに細部設計にも着手
した。しかし、航空本部で詳細を検討の結果、適当な発動機が見つか
らないことなどから、所期の性能に達する見込みがないとされ試作機
を見ずして中止された。
 本機の大要を見ると、爆弾搭載量2トン、航続力20,000kmをねらっ
たもので、航研の谷教授の層流翼型を使用して、非常に細長い胴体を
持った機体で、翼面積 220屐∩竿60トンという巨人機であった。
 因みに、本機の名称のTBとは渡洋爆撃の略であるといわれている。
また別にKN輸送機とも称されたことがある。


長距離爆撃機「富嶽」(G10N1)

 昭和17年末、中島飛行機の創立者である中島知久平氏は、対米戦に
「必勝防空計画」なるものを立案、翌18年初頭関係者を集めてこれを
発表、その春に中島氏はみずからその計画委員長となり、陸海軍大臣
を含む計画委員会を組織し、その主力事業として米本土爆撃をめざす
6発長距離巨人爆撃機の実現に向けて本格的に着手した。これが後の
「富嶽」そもそものであり、この巨人機計画を中島の社内でZ計画と
よんだ。
 中島の設計陣は昼夜兼行の強行作業を行い、ようやくまとめあげた
巨人機の大要は、じつに全幅65m、主翼面積 350屐∩軆杜 160トン、
最大速度 680km/h、爆弾20トンを搭載して16,000kmを飛ぶというとい
う、当時としては夢想だにしない怪物であった。
 発動機には中島で開発中の最強力発動機である中島ハ「44」(通称BH)
空冷複列星型18気筒 2,500hpを、さらに2基串形に結合させたハ「54」
(通称D.BH)4重星形36気筒 5,000hpを採用し、直径 4.8mの8枚羽根
二重反転式プロペラを駆動する計画で、D.BH発動機の開発を中島三鷹
研究所では研究を重ねつつあった。
 昭和18年も中頃を過ぎると、戦局は日本側の一方的な防戦となり、
連合軍の進攻阻止を急務とする軍部は、これまで中島が独力で開発を
進めてきた巨人機Zを、航研、技研、に加え陸海軍、民間の共同計画
として、その実現に全力をつくすことになった。この頃には、巨人機
Zの図面もようやく完成に近づいていたこともあり、実際の設計試作
には、引続き大型陸攻「深山」「連山」の経験がある中島の技術陣が
これを活かして担当する事になり、ここに至って「Z」機には正式に
「富嶽」(G10N1)という雄大な機名が与えられた。
 しかし、この共同開発という計画が、陸軍と海軍との要求する武装、
作戦高度の違いから対立を起こし、それに加えて軍需省は東大航研の
データーヲ引き出してくるなどで、三者が対立しての紛糾が続いたが、
この妥協案として、基本的には軽武装で、作戦高度は15,000m、航続
距離は爆弾5トンで10,000nm、これで日本本土を発進して、米本土の
目標を爆撃した後、大西洋を横断、ドイツに着陸することが可能とさ
れるギリギリの線で、中島案におさまった。
 だが、この間にも、経験のない巨人機のこととて技術的に未解決の
部分が山積みされており、まず第一に使用予定の発動機ハ「54」(D.BH)
が冷却不可能により実用性が低いと判定されたことで、応急案として
ハ「44」(BH)2,500hp 発動機を各単プロペラの6発で設計を進める事
にしたが機体基礎設計は、そのままとしたので当然大幅な性能低下が
予想された。19年頃には機体作業の方も強行されていたが、細部設計
が進むにつれて浮上してくる難問も多く、進展が滞りがちであった。
まず、総重量百数十トンにもなる機体を支える軽量な主翼構造の研究、
作戦高15,000mを目標とするため、密室の設計、また高々度での燃費
効率の良い排気タービン過給器の試作、さらに大型機で最も難点とさ
れる着陸装置など、当時の技術水準では解決に困難を来たしていた。
 一方、戦局は日ごとに悪化するにつれ、中島でも資材と労力はその
日その日の戦力補充から、本土決戦の準備に総力をあげるに至っては
早期実現が困難とされる「富嶽」計画に割く余力はなくなってしまい、
遂に計画は中止と決定された。
 終戦と共に最大の軍機密として「富嶽」計画の関係資料は焼却され、
跡形もなく消え去ったが、戦後むなしく風雨にその残骸をさらす巨大
な最終組立工場の鉄骨が、実現せずに終わった中島知久平氏の積年の
大構想を物悲しく語っていた。

「Z」の原計画と「富嶽」(G10N1)の初期のものと伝えられる数値で
ある。
 「Z」
 全幅65.00m、全長45.00m、全高12.00m、主翼面積350屐
 自重67,300kg、総重量160,000kg、
 発動機:中島ハ「54」空冷4重星形36気筒×6、
     離昇馬力5,000hp、公称馬力4,700hp/2,000m、
                  4,200hp/6,000m
                  4,100hp/7,000m
                    〜15,000m
 最大速度680km/h、航続距離16,000km、離陸距離1,020m
 爆弾20トン、

 「富嶽」(G10N1)
 全幅63.00m、全長46.00m、全高8.80m、主翼面積330屐
 自重42,000kg、総重量122,000kg
 発動機:三菱ハ「54」×6
 最大速度780km/h/10,000m、実用上昇限度15,000m以上、
 航続距離19,400km(爆弾5トン)、18,000km(爆弾15トン)、
     16,000km(爆弾15トン)
 武装 20mm×4、爆弾20トン(最大)、乗員6名

中島 Z計画機(富嶽)略図
昭和18年春における計画案の図。


  
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