守谷城

守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを併せて呼ばれている。鎌倉時代初期に平台山へ城館が構築されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校周辺に増築された(『現地説明板』)

平台山本城の面積は約二一、二五四平方メートルで、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって区画され、その堀には満々たる水が入り込み船着場も残されている。三の郭には妙見社も建てられ、相馬郡馬追いの行事はその社前で実施されたという。小貝川より入る一大水系は、満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれる(『現地説明板』)

永禄九年(1566)城主・相馬治胤がこの城を古川公方に提供し、関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。その後、後北条氏の勢力下にあり、小田原落城後、豊臣秀吉軍の進攻により廃城となったという(『現地説明板』)

城址は公園として整備されている。実に素晴らしい遺構が残り、深い空堀、明確に残る虎口、高い土塁など、見所が豊富。周囲は水堀で囲まれていたと思われ、堅固な城郭であったのだろう。また守谷小学校付近も城址であるが、こちらは宅地化され土塁の一部を除き、面影は無くなっている。

(参考サイト:余湖くんのホームページ 埋もれた古城

(現地案内図)

 

 (【左写真】本丸跡 【右写真】本丸土塁)

 

 (【左写真】本丸の虎口。枡形がきれいに残っている。【右写真】本丸を取り囲む大規模な空堀。)

 

 (【左写真】馬出曲輪。土塁が四方している。【右写真】馬出曲輪の虎口。ここも見事に残っている。)

 

 (【左写真】本丸の先には土橋がある。【右写真】土橋の下は深い空堀。)

 

 (【左写真】本丸の下には船着場跡。【右写真】周囲は湿地帯で、水堀が守っていた。)

 

 (【左写真】守谷小学校隣の城址石碑 【右写真】城址遠望 )

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