弘前城

 

弘前城(★★★ 青森県弘前市下白銀町1)

弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長十六年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。

 面積約四十九万二千平方メートルを有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり、三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。

 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている(『城址案内板』)。

現存する建造物が多数残されており、訪問当時(20158月)は本丸部分石垣の修復工事中であった。天守は江戸末期に隅櫓を改造したものだが、残りの現存する櫓・城門は古形式で質素なものが多く興味深い。

 

 

【左写真】本丸天守(現存・本丸石垣の膨らみが顕著になったため、現在は修復工事中)【右写真】二の丸未申櫓(現存)

 

【左写真】二の丸東門与力番所(復元移築・城内に複数存在した中の一つ)【右写真】二の丸東内門(現存)

 

【左写真】二の丸辰巳櫓(現存・藩主が弘前八幡宮の山車を眺めた)【右写真】二の丸館神跡(豊臣秀吉の木像を御神体として安置した)

 

【左写真】二の丸丑寅櫓(現存・飾り気のない美を見せる)【右写真】四の丸北(亀甲)門(現存・もと大光寺城の城門を築城時に移築したもの)

 

【左写真】三の丸追手門(現存)【右写真】三の丸の水堀と土塁

 

 (2015.8.15再訪)

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慶長八年(1603)、初代藩主・津軽為信が高岡の地に築城を着手。2代・信枚が引き継ぎ、慶長十六年(1611)に完成。

寛永四年(1627)落雷で五層の天守を焼失。翌年に本丸と御殿を改修し、弘前城と改称する。文化八年(1811)本丸隅櫓を改修して三層の天守とした。

本丸内に津軽為信築城期から館神という稲荷神社的な厨子があり、藩主とその一族しか出入りできなかったと云う。結局、江戸時代を通じて一度も開けられなかったが、明治時代になり、発掘調査のため開けてみると、そこには豊臣秀吉の木像があった。為信は改易の危険をかえりみず、津軽家を大名にしてくれた秀吉の恩を忘れずに祀ったと伝えれる。しかも為信三男・2代藩主信枚の側室は、密かにかくまった石田三成の遺児であったとも伝承されている。

 信枚正室・満天姫は徳川家康の養女で、最初、福島正則の養子・正之に嫁いだ。しかし正之は父・正則に殺害され、正之の遺児・直秀を伴い、今度は信枚に嫁ぐことになった。その後、直秀は江戸に出て福島家再興を願いでようとするが、時は大名の改易が続く時代、直秀の行動は津軽家を脅かすものであった。満天姫は苦悩の末、直秀を城内で毒殺してしまったという。 

三層の天守、3つの櫓、5つの城門が現存する。

 

【左写真】天守閣 【右写真】本丸石垣

 

【左写真】土塁跡 【右写真】中堀跡

 

【左写真】追手門 【右写真】北門

 

【左写真】丑寅櫓 【右写真】辰巳櫓

(現地案内板)

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