金石城

金石城(★★ 長崎県対馬市厳原町今屋敷)

金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。東流する金石川に沿って、高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約400mの敷地が石垣で区画構成されている。東端から120mほどにある櫓門を抜け、桝形部を過ぎて対馬宗家関係資料などの複数の絵図に描かれた大階段を上がると、館があった平地に出る。

 この地に居館が置かれたのは一六世紀のことで、発端は享禄元年(1528)に起きた一族の内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し、金石原の地に難を逃れた一四代宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。

 ここが体裁を整え、城となったのは、一七世紀後半のことであった。将盛が屋形を築いてから一三〇年ほどのち第三代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。ことに万治二年(1659)と寛文元年(1661)に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。義真は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支えられて金石屋形の拡張と改修も行った。国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。こうして寛文五〜九年(1669)頃にかけて整備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。なお、その後、義真は延宝六年(1678)に桟原に居館を造って住まいを移し、幕末に至った(『城址説明版』より抜粋)

金石城跡として整備され、石垣や再建された櫓門、城内には修復された庭園などが残る。隣接する万松院には歴代藩主の墓所が立ち並ぶ。


 

  

 (【左写真】平成2年に再建された櫓門。【右写真】復元整備された城内庭園。)

 

 (【左写真】搦手門跡の石垣(城内から)。【右写真】万松院に残る歴代藩主墓所。)

 

   (2017年1月6日訪問)

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