松前城

松前城(★★★ 北海道松前郡松前町松城)

松前城は松前町中心市街地の中央、福山の台地にある。南は日本海に面し、対岸は青森県津軽外が浜に対峙した港町である。

 松前城には二つの呼び名がある。江戸幕府の公式文書類には福山城とあるが、備後福山城と混同するところから、当時も松前城の名で呼ばれることが多かった。

 蛎崎慶広(後に松前に改姓)は天正十年(1582)に家督を受けて徳山(大館)館主となった。慶広は徳山の天然を利用した館よりも、海を主体に交易経済で発展しようと地域特性を生かした築城を考慮し、慶長五年(1600)に福山の台地に築城を着手した。七年の歳月を経て同十一年に城を完成し、地名を冠して福山館と称した。完成当初の規模を示す史料は全く残されていない。

 天保・弘化年間に入ると、鯨資源の枯渇したヨーロッパ諸国は蝦夷地近海に出没し、ロシアの南下は急をきわめたが、幕府は松前氏を城主大名に格上げして城を築かせ、それを足場に辺警を充実させようとした。(『日本城郭大系』より)

 十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約七万六千平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲台を備え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最も頑丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。(『城址案内板』より)

 明治維新後、北海道開拓次官黒田清隆は松前城の取り壊しと建物の公廨転用を命じ、取り残されたのは天守閣・本丸御門・本丸表御殿玄関のみであった。戦後の昭和二十四年六月五日、町役場の火災の飛び火によって天守閣は焼失した。同三十六年、復興天守閣が外郭は昔日の原本通りに完成した。

(『日本城郭大系』より)

城跡一帯は松前公園として整備されている。復元された城下町、石畳の寺町など城跡のみならず見所がある。

 

 

 

(【左写真】昭和24年の火災で焼失し、再建された天守【右写真】本丸御門(城内唯一の遺構))

 

(【左写真】本丸内に移築された表御殿玄関【右写真】本丸西方の月琴堀跡)

 

(【左写真】二の丸からの眺望【右写真】三の丸(左)と二の丸間の外堀)

 

(【左写真】搦手二ノ門(復元)【右写真】阿吽寺山門(城内堀上門を移築したもの)

かつての外堀跡(石垣が残る)

 

   (2016年8月23日訪問)

戻る

城と古戦場