桃生城

桃生城(ものう★ 宮城県石巻市飯野)

桃生城は、天平宝字二年(758)に造営を開始し、同四年(760)には完成し、その後、宝亀五年(774)に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代陸奥国の城柵である。遺跡は、宮城県石巻市飯野字中山、字碓畑、字高屋敷、同市桃生町太田字沢入畑に所在し、昭和4950年、平成613年に宮城県多賀城跡調査研究所と桃生郡河北地区教育委員会(当時)、桃生町教育委員会(当時)が発掘調査を行った。

遺跡の範囲は、東西約800m、南北約650m、面積約52haに及び、外周を築地塀、土塁、材木塀、大溝などによって区画している。さらに北半分は築地塀と溝によって東西に分けられている。
桃生城の中心は、東側のほぼ中央に位置する政庁である。東側は政庁以外にも建物が立ち並び、実務を担った官衙地区が造られたのに対し、西側は建物や住居が設けられない空間であった。
城内の主要な建物、北辺、城内築地塀、櫓は同時期とみられる火災で焼失し、その後、復興されていない。この火災は『続日本紀』宝亀五年七月壬戌(
25日)条にみえる海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられる。桃生城は8世紀後半の約15年間でその短い役割を終えている(『城址案内板』)。

城跡は民家の畑、森林となっている。北側に土塁跡が残るという。

 

 

(【右写真】政庁跡の空撮。【右写真】政庁跡の復元図。 

 

(【右写真】政庁跡は奥の森林の中にあったという。【右写真】城址登城口(公民館が目印で、近くに案内板がある)

 

 (2015年7月25日訪問)

戻る