明智光秀屋敷

明智光秀屋敷(★ 福井県福井市東大味町)

流浪中の明智光秀が鉄砲指南役として朝倉義景に仕えた際に、東大味地区に屋敷地を与えられ居住した場所で、ここはかつて一乗谷へ入る朝倉街道の大手道が通っていた。付近の西蓮寺には柴田勝家・勝定の安堵状が残っており、これは天正三年の織田信長軍の越前再侵攻の際に、光秀がかつて住み親しんだ東大味地区の住民が戦禍から免れられるように柴田勝家に依頼したものであるという。寺内には全国で唯一、柴田勝家の木像が安置されている。本能寺の変で光秀が敗死した後も、屋敷跡に住む三軒の農家の方々が非難中傷を受けながら光秀の秘仏を守り続け、明治に入り屋敷跡を明智神社(あけっつぁま)とした(『福井県資料』)。

もっとも、ここに明智光秀の屋敷があったという史料的確認はできない。

『明智軍記』によれば、永禄六年(1563)、本願寺の一向一揆と朝倉氏の戦いで活躍した光秀が朝倉義景の前で鉄砲の腕前を披露したという。
しかしこの記事は全く信用できない(
高柳光壽明智光秀』)。

戦国史の権威・高柳光壽氏はこう記している、
「光秀が越前に行って朝倉義景に仕えたということであるが、このことについては確証はないが、或いはそれは事実であったかも知れないと思われないではない。」(『明智光秀』)

それはともかく、当所は一乗谷の大手道筋であり、伝承により光秀を祀ったという事実から、ここに光秀の館があったということは一考に値するのかも知れない。 

 

 

(明智神社。遺構はないが、現在も地元の方々に大切に祀られている。)

 

(西蓮寺)

 

   (2013年9月21日訪問)

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