竹田城

標高353m、比高258m。虎臥城とも。

竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)は、嘉吉年間(1441-43)但馬守護大名・山名宗全が13年を費やして築いたと伝えられる。山名氏の家臣・太田垣氏が五代にわたって城主となるが、天正五年(1577)、秀吉の二度の但馬征伐で落城、山名氏とともに太田垣氏は没落する。

その後、秀吉の弟・秀長の属将であった桑山重晴、赤松広秀が城主を務める。現在の壮大な石垣はこの広秀時代のものとされ、文禄年間から慶長の初期の改修とみられる。織田信長がよく採用した穴太流の技法が用いられ、石材は現地のほか山麓付近から集め、花崗岩で最大のものは5トンと推測される。城域は、天守台を中央に、南千畳、北千畳、花屋敷が放射状に配され、縄張りの規模は南北400メートル、東西100メートルに及ぶ。

竹田城の最後の城主・赤松広秀は、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北、その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげるものの、城下に火を放ったとの咎で自刃し滅亡、竹田城は廃城と帰す(『和田山町資料』『日本の名城・古城事典』)

遺構は壮大、高度で、山城としての完成型を見ることができる。遺構の残存状況、縄張の水準など、紛れもなく日本一の山城と言えるだろう。このような城が秀吉統治時代に築かれたのは本当に驚きである。

大手門下まで車道が走っているが土砂崩れで通行止めになっていた(20055月)。竹田小学校に登山道があり観音山砦を経て35分位キツく長い道のりを登ると壮大な石垣が全面に拡がる。

  

【左写真】本丸 【右写真】本丸石垣と中央の天守台

 

 【左写真】天守台から南千畳、南二の丸を見下す。【右写真】同じく二の丸、三の丸を見下ろす。

 

【左写真】南千畳の井戸跡 【右写真】南千畳の搦め手口跡

 

【左写真】南二の丸の「正門」跡 【右写真】本丸北側の食い違い虎口

 

【左写真】二の丸。奥は天守台と本丸。【右写真】大手門跡

 

【左写真】正面の頂上に城址。【右写真】城址から和田山町を見下ろす。

 

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