一乗谷館

一乗谷館(★★★★★ 福井県福井市城戸ノ内町)

一乗谷は、文明三年(1471)から天正元年(1573)までの103年間、戦国大名朝倉氏が領国支配の拠点とした所です。

 周囲の山には地形を巧みに利用して山城や櫓等を配置し、谷の入口とその1.7km上流部の谷幅が最も狭まった所に上下二つの城戸を設けて防御を固めています。1967年にはこの二つの城戸で区画された「城戸ノ内」と呼ばれる町の中核部を中心に278haという広大な地域が特別史跡として指定され、遺跡の調査研究と保存活用を計る諸事業が進められています(『現地案内板』)。

素晴らしい遺構群に圧倒される。朝倉時代の栄華を偲びながら、何時間でも滞在できる。

 

 

(【左写真】下城戸に残る水濠 【右写真】下城戸石垣(谷の入口の防御施設にあたる)

  

(【左写真】上城戸土塁(北側の下城戸と対をなす) 【右写真】朝倉義景館の外濠) 

  

(【左写真】朝倉義景館隅櫓跡(内部から)【右写真】朝倉義景館庭園跡) 

  

(【左写真】朝倉義景館唐門(豊臣家が移築寄進したものと伝わる)【右写真】朝倉景鏡館跡に残る外濠跡) 

  

   (2013年9月21日訪問)

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朝倉氏の本拠。幅500m、長さ3kmの谷底平野に築かれた朝倉氏の居館、城下町、館の東方の詰の城である一乗谷山城からなる。天然の要害で、その狭い谷の南北に二つの城戸を設けて区切り、その城戸の内が城下町の主要部である。城戸の外にも多くの商業町が出来て、公家や儒教者がその繁華街の見物に行ったという日記が残っている。戦乱を逃れた京都の貴族や各地の守護大名らが集まり、京の文化を取り入れ、100年の繁栄を誇った朝倉氏であった。将軍足利義昭を迎えた事もあり、その際は義昭を敦賀に待たせて1年間かけて朝倉館を大幅に拡張した。

義景時代には織田信長と対立する。姉川の合戦で破れて斜陽の始まりを向かえ、刃禰坂の戦いで敗北し、一気に織田氏の乱入を許した。城下は焼き討ちされ、義景は大野の六坊賢松寺にて自刃した。辞世の句は「七顛八倒、四十年中、無他無地、四大本空」。

朝倉孝景によって越前の首都として築かれてからの動乱の日々は、33晩燃え続けた戦火とともに灰燼に帰した。1615年までにはすっかり田園と化したといい、それを発掘した現在、戦国そのままの城下町や遺構の数々が迎えてくれる。

(朝倉義景画像)

(城戸付近より谷を撮る。この写真の左側の山が一乗谷城址。)

 

(【左写真】武家屋敷より一乗谷山城を撮る。朝倉館付近で、この写真の中央にある登山道が当時の大手道だったという。)

(【右写真】剣豪・富田勢源の道場があったという場所。)

(【左写真】朝倉館址 【右写真】朝倉景鏡屋敷址) 

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