北ノ庄城

北庄城(★ 福井県福井市中央1丁目)は、天正三年(1575)に築きはじめ、完成をみないまま、天正十一年(1583)に落城したことが記されています。

北庄城の範囲は不明ですが、足羽川と吉野川(のちの百間堀)の合流地点を背にした築城をおこなっていることが考えられています。江戸時代の 文献資料には、福井城の鳩之御門の南、百間堀につきでた枡形に天守閣があったと伝えられています。これらの資料に合致する地が、現在の柴田神社にあたります(『柴田公園案内』より)。

フロイスの報告書や秀吉の書状から柴田勝家の最後の状況は詳細に知る事ができる。勝家は、北ノ庄城で自刃する前日に本丸の広間において演説をし、楽器を奏でて、舞い、笑い、楽しみ、祝勝の如き宴席を開いた。勝家自ら盃を持って一族一家と酔をつくした。翌午前4時に至り秀吉の攻撃が開始されると柴田軍は決死の反撃に及んだが、正午頃天命を悟った勝家は天守閣の九段目に登り、秀吉軍すべてに聞こえるように「我が腹切りを見て、後学にせよ」と呼ばわり、周囲一帯が沈黙に化した時、一族妻女を刺殺し、自腹を切り、五臓六腑を自ら掻き出した次に侍臣に介錯させて62年間の人生を閉じた。

城跡は「北の庄城址・柴田公園」となっている。北庄城は、福井城築城によって三の丸に組み込まれたり、破壊されたりして全貌は明らかではない。公園内に遺構のほんの一部が展示されているのみであるが、現在の福井の基礎を築いた柴田勝家の功績は大きい。

 

(柴田勝家画像)

 

城址である柴田公園(正面に柴田勝家像・右に推定復元された天守閣模型)

北ノ庄城堀跡(周囲は舗装されているが、石列が僅かに露出展示してある)

 

 柴田神社拝殿下の福井城堀跡と石垣

 

  (2013年9月21日訪問)

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北ノ庄は足羽庄という荘園が足羽川の北にあったからその地名がついたという。織田信長は、越前一向一揆を殲滅した功で柴田勝家に越前を与えた。九重の天守がそびえる豪壮なものであった。山間の一乗谷よりも便のよい北ノ庄に城を築く。

勝家は本能寺で横死した信長の後継者として羽柴秀吉と対立する。

賤ヶ岳の合戦で敗れた勝家は北ノ庄城へ逃れたが、再起不可能な状況であり、一族らと今生の別れの宴席を一晩中行い、天守閣に登り妻子らもととも自刃して果てた。城址は市街の真っ只中にあり、遺構はほとんど見られないが、勝家時代といわれる石垣の一部が保存されており、わずかに当時に想いを馳せる事ができる。

 

(【右写真】勝家時代と推定される石垣の一部が保存されているが、その他に遺構はない。) 

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