長篠城

長篠城(★★★ 愛知県新城市長篠字市場)

長篠城は、豊川と宇連川が合流する断崖上にあり、本丸、帯郭、野牛郭、巴郭、瓢郭、弾正郭等があります。
戦国時代末期の城であるため、現在、建物は残っておりませんが、一部残っている内堀と土塁が城の東側を守り、後方は合流する2つの川が堀として巧みに利用されている様子から、ここが天然の要害であったことがわかります
(『城址案内板』)。

長篠城は、永正5年(1508)、菅沼元成が築城し、天正3年(1575)、徳川家康が奥平貞昌(信昌)を城主に任命し、城を守らせました。もとよりこの城は、愛知県から長野県、静岡県北部、さらに山梨県へ通じる道中にあり、戦国時代、武田と徳川が拠点として奪いあった城でした(『城址案内板』)。

城址を飯田線が貫通しているが、本丸中心に空堀等が良好に残る。

 

 

(【左写真】本丸城址碑【右写真】本丸に残る土塁)

 

(【左写真】本丸〜二の丸の広大な空堀【右写真】豊川に架かる牛淵橋からの城址遠景)

 

 2015.3.20訪問

城と古戦場

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 奥三河の豪族・菅沼氏の築城。当初菅沼氏は今川氏の家臣であったが、桶狭間の合戦で今川義元が横死すると徳川氏に従属する。しかし武田氏が遠州し侵攻してくるとそれに降り、悲しいかな有力大名の間を揺らぐ風前の灯火的存在であった。
1573年には武田氏方の拠点であった長篠城を徳川氏が攻め陥落。奥平氏らを城将に入れる。

1575年、武田勝頼率いる甲斐軍はこの城を包囲、当時の城将・奥平信昌は籠城をし、鳥居勝商らの活躍によってよく持ちこたえた。織田氏の援軍に挟撃されうる状況に陥った武田氏は設楽ヶ原(あるみが原)へ侵攻し、その地で大敗を喫した。

現在、その城址を貫通する様に鉄道が走っているのが残念でならないが、寒挟川と宇連川の合流点の断崖はその堅固ぶりをよく物語っており、鳥居が磔にされたという場所などから往時の武田包囲網を感じる事ができる。

  

(【左写真】本丸址 【右写真】城址対岸にある鳥居磔石碑)

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