野々宮の合戦
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天文十九年(1550)、武田信玄(晴信)30歳の時の合戦。 松本平に侵出した武田軍は林城を自落させて、守護職・小笠原長時を追った。長時は一旦、犬甘城に入って、その後やや北上して平瀬城に避難した。これを聞いた村上義清は約3,000の兵を引き連れて長時と合流する。義清は犀川伝いにまず塔の原城に到着し、それを知った長時は逆に武田氏を攻めるために反転し、深志城の奪還を狙って府中とは梓川だけを隔てる氷室に布陣した。そこで林城に旧臣をかき集めて何とか1,000の軍勢を揃えることができた。 しかし、これから村上軍と合同で深志城に攻めかかろうという時に、こともあろうか村上軍は無断で葛尾城まで撤退してしまった。これは、武田軍が村上氏の支配する東信地方に進出したという虚報に踊らされたという説と、村上軍が武田軍の引き付け役になったという説があるものの真相は詳らかではない。小笠原軍は村上軍の撤退を聞いて士気が低下、逃亡する者も続発するなか、武田軍が侵攻してきたという情報を得て、梓川町の野々宮に布陣する。
(合戦地) 武田軍は飯富虎昌らを筆頭に攻め込んできた。衝突は午前八時頃であったという。長時は「この合戦はわが生涯の死戦である。わしが先頭をつとめるから、皆の者はわしより先には出てはならない」と兵を鼓舞すると、塩尻から駆けつけた上条藤太が「わしにとっても死戦である。君命に逆らってわしが先頭をつかまつる」と言って、槍をしごきながら武田軍に突撃して行った。小笠原軍はこれによって大いに士気盛んになって、長時自身も18の首を取り、武田軍は先鋒を掻き乱されて混乱、300人の戦死者を出して惨敗したという。長時は合戦後に「この大勝も、滅亡の前の灯火に過ぎない」と言い、自刃して果てようとしようとしたが、中塔城城主・二木重高に必死に押し留められ、最後を覚悟した決意を変えて、中塔城の要害に籠もったとされる。
(中塔城)
(中塔城本丸から出土した茶釜) その後、合戦地である野々宮には大きな神社が祭られたというが、戦火のために跡形も無く消失し(現在「野々宮神社」として再建)、戦国往時のよすがを偲ぶことは困難である。
(野々宮神社)
(神社境内に建つ古戦場碑) |