小田井の合戦

天文十六年(1547)、武田信玄(晴信)27歳の時の合戦。

信州佐久の志賀城主・笠原新三郎清繁は上野国平井郷の関東管領・上杉憲政を後ろ楯にして晴信の降伏勧告を拒絶して、援将・高田憲頼とともに志賀城に立て籠もった。その兵力、家族親類を含めて約500名。武田軍は約5,000の兵を従えて閏七月十三日に甲府を出陣。二十二日には、櫻井対馬守の居城・稲荷山城に到着、二十四日早朝から志賀城を総攻撃した。

(志賀城遠望)

しかし険峻な地形に阻まれて、容易に城は落ちることはなく、城内に流れ込む水の手を止めるなどの手を打ったものの、笠原勢は屈しなかった。八月五日、上杉方の副将・金井秀景を総指揮とする援軍3,000騎が碓氷峠を越えて志賀城へ向ってきた。この情報をいち早く察知した晴信は、板垣信方、横田備中、甘利虎泰、多田三八らの一騎当千の武将に指揮をさせ、4,000の兵で小田井原まで走らせて迎撃に当たらせた。

(小田井合戦地)

時に八月六日未明、不意を衝かれた上杉軍は隊列を乱し、武田軍の圧勝に終わった。その時に討ち取ったのは大将の首級15、雑兵2,000首級にも及んだという。晴信はそのうちの500ほどの首を実検し、槍の穂先に刺して、志賀城の本丸から見える山麓にかざして、援軍をことごとく討ち取ったことを喧伝する。覚悟を決めた笠原清繁は八月十日早朝、大手門を開いて武田軍に総攻撃をかけた。壮絶な戦いは翌十一日正午過ぎまで続いたといい、十日のうちに外曲輪、二の曲輪が陥落して本曲輪を残すのみとなり、清繁とその二児は自刃、高田憲頼父子、依田一門ら城兵のほとんどは討ち死にした。

(志賀城本丸址)

城内で捕らえた笠原夫人、女、子供ども100人余りは甲府へ護送され、一人三貫から十貫で売買されたという。才媛の誉れ高い笠原夫人は小山田信有が二十貫で買って岩殿山城の山麓の駒橋に連れ帰って側室にしたとされる。この合戦によって武田氏は佐久地方をすべて制覇し、上野国からの侵入を抑えるとともに、小県への侵攻の足掛かりを得る結果となった。

その後江戸時代、小田井の原には宿場が形成されたが、戦国時代に凄惨な戦いがあったことはいつしか忘れられ、現在では平穏な時間が流れている。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

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