三増峠の戦い

 

経緯

三増峠の合戦は、永禄十二年(1569)十月六日、神奈川県愛甲郡愛川町の三増(みませ)付近で行われた武田信玄と北条氏照・氏邦の戦い。武田信玄49歳。

前年に、今川氏真との同盟関係を突然破棄し、駿河に侵攻した甲斐・武田信玄に対し、北条氏康は今川家を支援し、信玄と対峙する状況となった。

信玄は、永録十二年(1569)八月二十四日、躑躅ヶ崎館を出立している(『甲陽軍鑑』)。西上野の碓井峠を越えて南下し、九月十日鉢形城に北条氏邦を攻め(『上杉家文書』)、また小山田信茂は九月に出陣している(『甲斐国志』)。同月中に北条氏照の滝山城を攻撃し、小仏峠から入った小山田氏らと合流し、一説に牛ヶ渕の合戦を経て、十月一日頃に相模国へ進入し、小田原城周囲を放火して十月四日には撤退した(『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

小田原を出発すると、平塚から相模川沿いに厚木、中津、角田、三増と進んだ(『戦国合戦大事典』)が、これを知った北条氏康は、北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せすることとしたという(『甲陽軍鑑』)。

それを看破した信玄は、小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条氏方の津久井城の抑えとし、また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後に回らせた(『甲陽軍鑑』)。

(山県昌景隊が進んだという志田峠。三増峠の西側にある古道。)

こうして十月六日早朝には対陣の体となり、内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして峠を進んだという(『甲陽軍鑑』)。小荷駄隊が武田軍の先頭だったことは事実らしく、北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている(『山吉文書』)。
この北条氏の攻撃で、浅利信種は鉄砲に当たって討ち死した(『古今消息集』
『北条記』)。また、武田氏・浦野重秀も戦死している(『新編会津風土記』)。

(戦死した浅利信種を弔っている浅利明神)

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、相当の成果を上げた(『上杉文書』『山吉文書』『北条五代記』『北条記』)。
一説には、武田氏は二百余人の犠牲者を出したとされる(『武田信玄のすべて』)。

 しかし、山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北したという(『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)。

 一説によれば、先に三増峠に布陣したのは武田軍で、それを知らなかった北条軍は、不意の攻撃を受け、敗退したのだという(『北条五代記』『北条記』)。

ともかく、有利に戦いを進めていた北条軍に対し、信玄は伏兵で反撃をし、形勢を逆転させたのは事実であろう。

三増において武田信玄は、氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めたといい『甲陽軍鑑』)、敗北を聞いた氏康父子は、荻野付近に到着していたが小田原城に退いた(『甲陽軍鑑』)

考察

この合戦で、北条氏が敗北したことは、信玄自身が「見増坂の一戦で北条氏邦・氏規らの兵二千余を討ち取ったことは、諏訪社の神力のおかげである」と述べていること(『諏訪子爵家文書』)、北条氏照自身が「信玄を討ち留められなかったことは、無念千万である」と述べていること(『上杉家文書』)などからも明らかと思われ、元亀二年(1571深沢城の戦いにおける『深沢矢文』で、「前代未聞の見苦しい敗戦の体たらく、北条の瑕瑾、諸軍の嘲のみ候」と信玄に酷評されている。

小和田哲男氏によれば、戦死者は武田軍九百、北条軍三千二百であり、「信玄はどうしたわけか、この戦いで後北条氏との決戦を避けている。(中略)このときの出陣が、後北条氏と雌雄を決するためではなく、単なる牽制目的だったからであろう」という(『戦国合戦事典』)。

ちなみに坂本徳一氏は、武田氏の勝利のようには記しておらず、三増を逃れた武田軍は津久井の道志川上流で傷の手当てをし、翌七日、都留郡の諏訪明神で夜営をした際、寒さに凍え、拝殿を壊して薪にしたが、それは厳罰の対象であったにも関わらず信玄は黙殺した。これは、いたずらに犠牲者を出したことに対する家臣の不満の影響だと推定されている(『武田信玄のすべて』所収「武田信玄合戦総覧」、『武田信玄合戦記』)。

その他にも、帰陣の途中で自国の神社を壊して薪にしてしまうようでは、堂々たる勝利とはいえないとする説も強い(小林計一郎氏『武田軍記』、磯貝正義氏『定本 武田信玄』)。

『甲陽軍鑑』にも「無用之戦」だと高坂弾正が批判したように書いてある。

 

いずれにせよ、一般に流布する三増合戦は『甲陽軍鑑』によるものであることから、その真偽は不明な点が少なくない。
しかし、信玄が“見増坂”と述べ(『諏訪子爵家文書』)、氏康が“三増山”といっている(『上杉家文書』)ことからも、山岳戦であったのは間違いないだろう。
さらに、武田方の上野原城主・加藤信景は、天正五年(1577)上野原諏訪神社に奉納した棟札で「かの峠に於いて防戦に及び、思ひの儘に打ち勝ち、数千人の敵軍を亡し、大利せらるる」と記している(『甲斐国志』)。随分おおきな事を言っているが、峠で戦いがあったのは確実である。

(三増古戦場石碑から望む。正面の山々が武田氏の布陣した場所である。その背後には北条氏の津久井城が聳えている。)

 勝敗

ところで、三増峠に先に布陣したのが、武田軍か北条軍なのかは難しい問題である。
『甲陽軍鑑』が記すように、すでに北条氏が構えている三増峠の裏を回って、その北側の津久井城を抑えるというのは、まさに死地に飛び込むようなもので、そのような危険を慎重な武田信玄が犯すとは考えにくい。

北条方の記録は、“武田を逃した”といっているから、三増に陣する武田軍を急襲した北条軍が、逆に反撃に合い、北条本隊の到着まで持ちこたえることができず、信玄は逃げ去ったと考えるのが自然だろう。
北条氏照は、功を急ぎ、武田氏の前軍を攻撃してしまい、信玄の反撃を受けたのだろう。北条氏の軍記物にも、氏照がまだ若輩者ゆえに敗退した旨が記されている(『北条記』)。

周囲の地形を鑑みると、北条氏の城である津久井城の手前で信玄は立ち止まり、北条氏照らの来襲に一撃を加え、津久井城を抑えつつ、氏康本隊から逃げるように退散したとすべきである。

 

(武田信玄が旗を立てたとの伝説がある山)

仮に、ここで信玄が氏康と決戦を行おうとすれば、後ろに氏康本隊、前には氏照らの前軍、さらにその先には津久井城があり、まさに挟撃される形となってしまう。
氏康は信玄とまともに戦おうとする気はなかったとか、信玄も決戦を望まない牽制目的であったとかいわれるが、そのようなことは歴史を知っている後年の人々の考えることで、両軍とも緊迫した状況であったとみるべきである。お互いが、被害を最小限にし、できれば大名の首を取りたかったはずである。

そもそも信玄は、小田原城を落とすことができずに、帰陣する途中であった。それは“雌雄を決する意思がなかったから帰国した”というような甘いものではなく、信玄はまさに危機的な状況にあったのだろう。

 北条氏も追撃に必死だった。北条氏照は、上杉氏家臣・河田重親宛ての書状で、急に山家の人衆などを駆り集めた烏合の衆が多かったため、思うように使えず、信玄を取り逃がしたと述べている(『上杉氏文書』)。

 

信玄は、帰国の途中、津久井城を目前にした。小荷駄隊を先頭に甲斐に向かい、信玄本陣が三増に辿り着く頃、武蔵国から北条勢が強襲してきた。さらには、背後の小田原からは北条本隊が追ってきている。そのような緊張状態で、要害の地である三増峠に布陣した。ここでもし、北条氏照が津久井城に入って、その進路を断っていれば、信玄は挟み撃ちをされ、その命運は風前の灯だったかも知れない。だが、幸運にも氏照は三増に進んできた。氏照は山を下りる小荷駄隊を討ち取って、緒戦を飾ったものの、信玄は策略を巡らせ、これに対峙した。あるいは山県昌景が別働隊として急襲したのかも知れない。ともかく、氏康が到着する前に、氏照らを打ち破り、津久井城を抑えつつ、相模国から退避できた。

真実はそのようなところだったのではないか。

 

三増合戦で信玄が快勝したのは、北条氏側も認めざるを得なかった。

ともかく、このような窮地でさえ勝利を収めることのできた武田信玄は、やはり戦上手だし、戦国最強と評しても誤りない名将なのだろう。

   

(左から「胴塚」「首塚」。右は付近の畑から出土した塚だとされる。)

なお、三増峠の合戦場がどこなのかは慎重を期すべきであろう。現在、「三増峠」と呼ばれる山道だけではなく、「三増付近の山々」で行われたものと思われる。信玄や氏康の文書でもそう読める。いずれにせよ、山岳戦だったことは認めていい。

現在、古戦場の石碑がある場所は、三増の山々の南山麓である。広い台地となっており、合戦をするには適した地だ。また、付近には「首塚」「胴塚」や、無名の塚や墓碑が出土したという。

しかし、挟み撃ちの状態である信玄が、山麓に布陣するはずはなく、三増の山々のどこかにいたのは間違いないであろう。したがって、この麓の台地上で戦いはなかったが、地元の人々が戦死者を弔って、塚などを設けたのだろう。

 

信玄は兵糧に窮していたのかも知れない。一方、追撃する氏康も要害の地である三増に陣を置かれては、大きな被害は免れない。両軍、様々の事情によって、この戦いで雌雄を決するような事態は避けられた、そのような気がしてならない。

両軍とも、安閑として時を過ごしたのではない事だけは間違いない。

 

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