織田信長の最後

-本能寺の変-

本能寺の変は、天正十年(1582)六月二日(新暦七月一日)未明、丹波亀山城主・明智光秀が、その主、近江安土城主・織田信長を京都四条西洞院本能寺に襲撃してこれを殺し、即日、信長の嫡男・信忠をまた二条の御所に襲撃してこれを殺害した事件である。

本能寺は、四方に掻き上げの堀を設け、その内側に土塁を築き、木戸を構えて出入りを警戒するという城砦の造りで、内に仏殿以下、客殿その他の殿舎を建て、厩舎までも設けてあるといった有様だったが、まだ塀は塗らないであったという(『信長公記』)。

 

信長公記

信長の家臣・太田牛一信長公記』に記される戦いの状況は次のとおりである。

 

光秀の軍は、鬨の声を挙げ、また鉄砲をつるべ撃ちに放つと同時に、築地を乗り越え、木戸を破って構えの内に乱入した。

信長も小姓たちも、下々の者らが喧嘩を始めたぐらいに思っていたが、やがて鬨の声や鉄砲の響きを聞くに及んで、信長は、

「これは謀反か。誰の企てだ。」

と仰せられた。

それに対して、森蘭丸が

「明智の者と見ました。」

と答えたところ、

「是非に及ばず。」

と言って、ただちに御殿に入った。

表御堂の番をしていた者たちも御殿の人々に合流した。

厩舎からは矢代勝介ら4名が斬って出て討ち死にした。中間衆24名も厩舎で討ち死にした。

御殿においては27名の小姓が討ち死にした。森乱・森坊・森力の三兄弟をはじめとする小姓衆は、繰り返し敵に向かったが討ち死にした。

また、町屋にいた湯浅甚介と小倉松寿が、敵に混じって本能寺に駆け込んだが討死。高橋虎松は御台所口で奮戦した。

信長は、初めは弓を持ち、二度三度それを射たが、滅亡の時が来たとみえ、弓の弦が切れてしまった。

その後は、槍をとって戦ったものの、肘に槍疵を受けたため退いた。

この時まで側に付き添っていた女房たちに、

女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ

と仰せになって、追い出された。

御殿には火が燃え広がり、自身の姿を見せまいと思ったのか、殿中の奥深くに入り、内側から御納戸の口を引き立てて、腹を切られた。

 

 

『信長公記』の著者・太田牛一は、本能寺の変には立ち会っていないが、自身で「女どもこの時まで居申して、様躰見申し候と物語候」と記すように、信長に帯同していた女人衆からその有様を聞いたのである(池田家文庫本)。

ただ、女人らも、信長に退避を命ぜられ、その後、彼がどのような最後を遂げたのかは見ていない。すなわち「腹を切った」というのは、牛一らの推測になるが、けだし、それは事実だったろう。

 

フロイス日本史

一方で、宣教師フロイスは、『日本史』で本能寺の変の様子を次のように纏めている。

 

本能寺には、宿泊していた若い武士たちと、奉仕する茶坊主、女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちは抵抗する者はいなかった。

そして、この件で特別な任務を負った(明智方の)者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手ぬぐいで体をふいている信長を見付けたので、その背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である「長刀」という武器を手にして出てきた。

そして、しばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、部屋を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に火を放ち、生きながら焼死したと言った。

だが、火事が大きかったので、誰も彼がどのように死んだのか知らない。

 

 

『信長公記』と比べ、信長が身支度をしている際に、背中に矢を受けたという箇所が特筆される。

しかし、信長が一人でそのような事をするのか、さらに、誰にも気づかれずに矢を放てるかは疑問だという説がある(鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』)。

それはともかく、信長の最後については、正直に記載しており、自刃説、焼死説など、当時から様々に推測されていた様子が伝わってくる。

 

言経卿記

安土・桃山時代の公家・山科言経の日記である『言経卿記』には、天正十年(1582六月二日について、次のように書かれている。

 

二日、戌子、睛陰、一、卯刻前右府本能寺へ明智日向守依 謀反 押寄了、則時に前右府討死、同三位中将妙覺寺を出了、下御所へ取籠乃處に、同押寄、後刻打死、村井春長軒己下悉打死了、下御所は辰刻に上御所へ御渡御了、言語道断之爲體也、京洛中騒動、不及是非了

 

いずれも事実だけを列記した簡潔な内容だが、京都中が混乱状態に陥ったというのは、想像に難くない。

(現在の元本能寺周辺)

 

本城惣右衛門覚書

明智光秀に従軍し、本能寺に攻め入った武士・本城惣右衛門という者「のゝ口ざい太郎坊」という武士の配下が、江戸時代になって本能寺の変を懐古し、親族らしき人物に宛てた手紙である『本城惣右衛門覚書』という史料には、次のように、生々しい現場の状況が述べられている。

 

(本城惣右衛門が本能寺付近に到着すると、明智軍の部隊から)騎馬武者が二騎出てきた。それは内蔵介(斎藤利三)殿の子息と小姓であった。

彼らが本能寺の方へ馬を進めたので、私どももあとに続き、かたはら町に入った。

二人は北の方へ向かった。私どもは南の堀際へ東向きに進み本道に出た。

そこの橋際に人がひとりいたので、首を取った。

それから内に入ると、門は開いていて、ねずみ一匹すらいなかった。首を持って内に入った。

北の方から入ったらしい弥平次(明智秀満)殿の母衣の衆ふたりが、「首は討ち捨てにせよ」と命じられたので、首を堂の下へ投げ入れた。

表御堂へ入ったところ、広間には誰もおらず、蚊帳が吊られているだけであった。

庫裏の方から出てきた、下げ髪で白い着物を着た女一人を捕らえた。

侍は一人もいなかった。

女は、「上様は白い着物を召されている」と言ったが、それは信長様のこととは思わなかった。その女は内蔵介様へ引き渡した。そこにはねずみ一匹いなかった。

信長の奉公衆が二・三人、肩衣姿で袴の股立ちを取り、堂の内に入ってきた。そこで首をもうひとつ取った。その者は水色の帷子姿で、帯も締めずに刀を抜き、奥の間から一人で出てきた。

その頃には、味方が大勢、堂に入ってきたので、それを見ただけで敵は退いた。

私どもは吊られた蚊帳の陰に入り、例の男が通り過ぎるところを、後ろから斬った。これで首は二つ取ったことになる。褒美として槍を頂戴した。

 

 

この記録から「広い境内にはおそらく百人余りしか泊まっていない。人数があまりに違いすぎ、合戦の形にならなかったのではなかろうか」(谷口克広『織田信長合戦全録』)と解釈するものもある。

 

「是非に及ばす」

本能寺の変で、銃声と鬨の声を聞いた信長は、森蘭丸が明智らしいと言うと、

是非に及ばず

と答えている(『信長公記』)

この言葉は、一般には、明智の軍であればもはや逃れられない、死を覚悟し「仕方がない」「どうしようもない」といった意味で発せられたとされている。

また一説によれば、その解釈は、信長が本能寺で殺されるのを知っている後年の人の考えることで、当の信長は未だ生き延びることを諦めてはおらず、「何が起こったか分かったうえは、是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ。」という意味で言ったとする(鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』)。

この言葉の次に、

「透をあらせず、御殿で乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候(直ちに、御殿に入られ、面御堂で番をしていた人々も御殿に合流された)」

と迎撃体制を整えている(『信長公記』)ことが、その傍証という。

 

同書は、信長は「信頼していた部下の裏切りで、心底頭にきていた」のだろうとする。

戦国武将の真骨頂で、激烈な性格の持ち主である織田信長のことであるから、このように解釈するのが正しいと感じられる。

他の説

『三河物語』によれば、信長は「上之助がべつしんか。」(城介が別心か)と述べたという。

つまり、近くの妙覚寺にいた嫡男の信忠の謀叛を疑ったという。

 

『日本王国記』(イスパニア商人・アビラ・ヒロン)は、「何でも噂によると、信長は口に手をあてて、
”余自らが死を招いたな”と語ったという。」と記されている。

 

 

 

本能寺の変を起こした明智光秀の動機は永遠に闇の中であり、戦国史最大の謎である。

現在約50の説が乱立し、怨恨説、野望説、突発説、黒幕説などに分類される。また、光秀の単独の犯行だったのか、否そうではなかったのかなども百花繚乱、諸説紛々である。その中で怨恨説は江戸時代の軍記ものなどから説かれ明治時代までは定説のような状況であった。

これに反論を唱えたのが「天下を取りたかった」とされる高柳光壽氏であった。

 怨恨説では

@八上城の波多野兄弟を光秀が攻めたとき、信長は光秀の波多野兄弟に対する約束を蹂躙し、光秀の母が殺された事

A家康が安土城に礼来した際に信長は光秀に饗応の役を任じたが、西国の出兵を命じられ、光秀は面目を失った事

B光秀の重臣・斉藤利三の去就で信長に突き飛ばされた事

C信長との宴席で小用のために退席した光秀が叱責された事

D信長の甲州征伐時に光秀の発言に激昂した信長が光秀の頭を打擲した事

E光秀の妻女を信長が欲した際、光秀は信長と知らず扇で叩いた事

などが根拠とされてきたが、高柳氏はそれらを厳密に精査して、いずれも後の書物の創作であると断言し、また光秀直筆の小早川隆景宛の書状に怨恨による謀反であると本人が記しているのは「謡い文句」であるとする。

他にも長宗我部元親との折衝を担当していたが武力征伐の決定で面目を失った事とか出雲・石見への領地替えなども怨恨の所以として説かれるがいずれも確証はない。
高柳光壽氏は、そこで「
野望説」を主張された。すなわち、信長のやり方や秀吉の躍進に自己の地位の不安を感じた事のとは別に「天下が欲しかった」(『明智光秀』)というのである。

一方、同じく戦国史の権威であった桑田忠親氏は怨恨説を主張された。Aはルイス・フロイスの『日本史』に記載されており、BやCなども信長の性格を鑑みれば一概に虚実であると断言できないといわれ、さらに野望説には明確な根拠がないとして退けられている。

最近では、戦国史家・小和田哲男氏が、「信長が先例のない平姓将軍に仕官しようとしたのを、源氏である光秀が阻止し、信長の悪政・横暴を阻止しようとした」として「信長非道阻止説」をたてられている。

大阪大学教授の脇田修氏は「信長に対する信頼感の欠如と、戦国武将なら、心のどこかにもっている天下人への夢を実現」しようとした野望説を継承されている。

三重大学教授の藤田達生氏は鞆幕府の緻密な研究によって「足利義昭黒幕説」を主張され、西ヶ谷恭弘氏は朝廷と信長の間に立った光秀が不信をつのらせたといわれ、最近では立花京子氏は「イエスズ会黒幕説」を説かれる様に、いまだ定説をみない。

ただ、井上鋭夫氏が述べられたように怨恨説の根拠はすべてを認められるものではないし、野望説もすべて戦国武将が等しくもっていたものでもない。その他のいずれの説についてもまだ弱点を抱えており、それらのひとつに限らない、複合的な理由によるものではなかろうか。

なお、高柳光壽氏の「天下が欲しかった」という、光秀単独野望説は、最近、鈴木真哉・藤本正行著『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』によって、綿密に補強されている。
同書では、現在、流布している黒幕説をことごとく否定し、光秀単独の謀反とする。
その内容は、傾注に値するものだといえる。

四国説

長宗我部元親、信長に恭順 本能寺直前の手紙発見
-平成26年6月23日-

戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日、発表した。

 信長は、四国は元親の自由にさせるとの方針から、一部しか領有を認めないと変更。手紙は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。

 手紙は1582年5月21日付。直後の6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が信長の方針転換に納得しなかったことが原因とする説もある。信長はこの手紙以前に出兵を決めており、県立博物館の内池英樹主幹は「(織田側が四国に攻め入ろうとする)直前の様子が明らかになった」と評価している。

 美術館などによると、見つかった手紙は、室町幕府の13代将軍足利義輝の側近、石谷家に関わる古文書「石谷家文書」の中にあり、47点が三つの巻物になっていた。手紙で元親は、阿波(徳島)の半分と土佐しか領地として認めないとした信長の命令に従うことを明らかにしており、信長との合戦を回避しようとしていたことが分かるという。また、命令に従い阿波の一部からは撤退したが、海部城、大西城は土佐の入り口にあたる地域なので、このまま所持したいと記載。信長が甲州征伐から戻ったら指示に従いたいとも記していた。

 82年1月11日に斎藤利三が元親の義父石谷光政に宛てた手紙も見つかった。信長の方針転換に納得しない元親が軽はずみな行動に出ないように光政に依頼する内容だった。

 見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。(『スポニチ』記事)

四国説については、古く高柳光壽氏が可能性を示唆していたものである。その後、藤本正行氏、鈴木眞哉氏、桐野作人氏がその有用性を主張されている(『信長は謀略で殺されたのか真説 本能寺の変』)。

高柳氏らは、この四国説を一因とした、光秀の”野望説””単独説”を展開されているが、これ補強する、新しい史料の紹介と言うことができよう。

高柳光壽人物叢書 明智光秀
「信長のやり方は全く光秀を無視したものといってよい。この四国征伐は光秀無視である。
(しかし)他家との間の前言取消しは戦国の常であったろう。だから元親だって別に不思議に思わなかったであろう。信長の勢力が拡大され、元親の勢力も拡大されれば、両者が衝突することは当然の帰結である。だから光秀としては、平和的交渉を行う場合は困る。けれども戦争となれば別に立場に窮するわけではない。だから当然のこととして受容れたであろう。
けれども誰が四国討伐の大将になるかということは問題である。光秀としては恐らくは自分が四国討伐の大将になるべきだと考えていたのではないだろうか。光秀は当然自分と思っていたその地位を長秀に持って行かれたのである。光秀がその前途を輝かしいものと思えなくなったであろうことは推察できないではない。」

桑田忠親明智光秀
「信長は、光秀があっせんした努力を無視し、元親討伐に踏み切った。元親は激怒したが、そんなことは信長の眼中にはなかった。光秀の面目はまるつぶれにされたのである。そこで、その屈辱をそそぎ、面目を立て直したかったのではあるまいか。」

小和田哲男明智光秀
「光秀は、この信長の四国政策の転換の過程を通して、信長がそれまで以上に秀吉寄りの態度を取りはじめことを痛感したであろう。かなり精神的に参っていたのではないだろうか。」

桐野作人真説 本能寺の変
「両者の取次役の光秀は板挟みになった。その頃、阿波の十河氏らが秀吉に救援を求めた。こうして秀吉の勢力が阿波に及ぶと、四国における光秀の影響力は相対的に低下する。失地回復のためには、自らが四国討伐の総大将になって、長宗我部氏を屈服させるのが一番だが、光秀の家中には長宗我部家中と親密な者がいて、四国攻めにはかかわり難い立場にあった。こうして光秀は、四国討伐軍から外され、織田信孝・丹羽長秀による四国討伐が始まろうとしていた。」

藤本正行氏、鈴木眞哉信長は謀略で殺されたのか
「六月一日以前に、光秀と重臣したの間で謀反の謀議がされたことを明示する史料はない。しかし、光秀と重臣たちが、信長に対する種々の不満を話し合うことはあったはずだ。不満が共有されていれば、光秀が謀反を打ち明けた段階では、重臣たちが同意する下地も十分できていたはずだし、光秀もそれを前提に決意を示すことができたはずである。光秀が、信長打倒という点で一致しうる立場の重臣たちを動かし、自主的にことを運んだことからこそクーデターは成功した。そこに黒幕が介在する余地などない。」

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