山本勘助

は実在したか?

 

(後年の想像図)

生歿年不詳(一説に永禄四年〔1561〕歿)。勘介とも書く。名を「晴幸」と称したという。後年、入道して「道鬼」と号す。

山本勘助は、『甲陽軍鑑』の伝えるところによると、
諸国遍歴の後、天文二十二年(
1553)五十一歳の時、武田家の重臣・板垣信形の推薦で信玄に仕え、信濃攻略に勲功をあらわしたという。
以後、隻眼偏跛の軍師として、武田流兵法なるものを創始し、戸石合戦で武田氏の窮地を救い、永禄四年(1561)九月、信濃川中島において武田・上杉両軍が激しく戦ったおり、馬場信房とともに信玄へ「啄木鳥の戦法」を献策した。これは妻女山に陣取った越軍の背後を突き、あわてて山から下る敵を味方の本隊が川中島で待ち受けるという戦法であった。だが、上杉謙信が海津城から立ち昇る炊煙によって甲軍の動きを知ったため、この策略は失敗し、責任を感じた山本勘助は、手兵200余を率いて越軍に斬り込み、身に八十余箇所の傷を負い、陣歿したという。

山本勘助の出自について、『甲陽軍鑑』は、
「山本勘助、三河の国牛窪より今川殿へ奉公の望にて参るといえども、彼山本勘助散々の夫男にて、そのうえ一眼、指も叶わず、足はちんば也。しかれども大剛の者なれば、ことさら城どり、陣取一切の軍法をよく鍛錬いたす。京流の兵法も上手也。勘助九年駿河に罷在ども、今川殿かかへ給わず」(抜粋)
と伝える。

従来、山本勘助の活躍は『甲陽軍鑑』にしか見えず、架空の人物であるとの説が有力であった。

(甲陽軍鑑)

戦国史研究の泰斗・高柳光壽氏(元國學院大學教授)は、その名著『武田信玄の戦略』で、
「『甲陽軍鑑』という本は、高坂虎綱の著作と号している。虎綱の書いたものを採用したところはあるであろうが、大部分は山本勘助の子の妙心寺の僧某が、勘助を立役者として書いた偽作で、それを小幡景憲が自分の軍学を宣伝するために、多少の増補訂正を加えて悪用した」
ものであるとし、さらに、
「山本勘助という男は、『武功雑記』によれば、実在の人物ではあるが、三河牛窪(豊川市)の生まれで、山県昌景の部下となった男で、身分は低かった。勿論、信玄の作戦に参与するようなものではない。良質の史料には見えて来ない」
と記されている。

これは、田中義成博士(元東京大学教授)が明治二十四年に『史学雑誌』で発表された「甲陽軍鑑考」を踏襲しているものであろう。

『武功雑記』は、元禄九年(1696松浦鎮信(肥前国平戸藩主)の著作で、その中で
「勘介、兵法はつかう口才ものなれば山県かかえ置きて心やすくつかう。川中島合戦の時、山県より勘介を斥候につかわし、帰りて山県にものいう体を信玄御覧じ、『あれは何ものぞ』とありしに、『あれは山本勘介とて、三河ものなり。口才なるものとて山県扶持しおきたり』」
と記されている。田中氏・高柳氏は、この史料を基に、雑兵説を唱えられたのである。

また、戦後武田信玄研究の最高峰と評された奥野高廣人物叢書 武田信玄』は、
勘助については弁護説もあるが、伝説の人物とみるべきである」
と記している。

(市川良一氏所蔵文書)

注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り、陣を進め、其の地へ取り懸かるべき模様、また武略に入り候といえども、同意無く、あまつさえ備え堅固ゆえ、長尾功を無くして飯山へ引退き候、ゆえ誠に心地よく候。いずれも今度、其の方のはかり頼もしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰めの義、飛脚に頂き候き。すなわち倉賀野へ越し、上原与三左衛門尉、また当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばす候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下知を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本菅助口上有るべく候。恐々謹言。(読み下し)

六月廿三日
    晴信(花押)
市河藤若殿

だがその後、昭和四十四年、北海道釧路市の市川家で、市河藤若宛の武田晴信文書が発見された。これは、弘治三年(1557)に比定されるもので、六月二十三日付けで、藤若の忠節を嘉賞し、周囲の軍事情勢を知らせる内容である。その末尾で、

なお山本菅助口上有るべく候」(なお、山本菅助が申し上げる)

と結んでいる(『市川良一氏所蔵文書』)。

これによって、「『甲陽軍鑑』の伝えるような活躍はしなかったろうが、信玄の側近くに仕えた者の中に、存在したことは事実らしい」(桑田忠親著『日本武将列伝』)という説が有力となった。

弘治三年(1557)といえば、武田晴信と長尾景虎が信越国境を挟んで何度か対峙した年である。武田軍は村上義清らを越後に放逐し、村上・高梨氏らは長尾家にすがり、その連合軍が信濃に侵入したのは四月十八日の出来事であった。
そして第三回川中島合戦(八月下旬)につき進んで行くのであるが、その過程で、野沢の湯に陣した市河軍は、飯山城にいた越軍の攻撃にめげず、
これに与することなく抵抗を続け、よく戦って一歩も引かなかった。さらに越軍は謀略をもって砦塁から市河軍を誘い出そうとしたが、敵の手に乗らず堅固に守ったため、さすがの景虎も飯山城に引き下がった。この報告を受け、晴信は「まことに心地よく候」と賞賛している。
また、
先立つ援軍の要請に基づいて長尾勢を挟撃すべく上州(倉賀野)の与党や塩田城の軍勢を差し向けたものの、既に長尾勢は退却していて残念であったこと、今後は「湯本(市河藤若が在陣していた野沢温泉)」より要請があったならば、晴信に相談することなく、援兵を送るよう前線指揮官である飯富虎昌に命じたので安心してほしい旨を伝えている(『市川良一氏所蔵文書』、堀内享著『謀将 山本勘助と武田軍団』別冊歴史読本47)。

ここで、山県昌景の実兄・飯富虎昌の名が登場するのは、先の『武功雑記』を考えるとなかなか興味深いものである。

しかし、山本勘助に関する確実な史料はこれ以外には無く、未だその実在について諸説紛々である。

小和田哲男氏(静岡大学教授)は、
「当時、人名などが音を通じていれば、字は宛字で記されることは日常茶飯事であり、山本菅助は山本勘助と同一人物とみなしてまちがいないであろう。『甲陽軍鑑』は、勘助を唯一絶対の軍師として描いているわけではない。私は、さきの「市川文書」から明らかなように、勘助は信玄の「口上」を伝達する「使者」であったと考えている。軍使がいつしか軍師になってしまったのではなかろうか」(抜粋)
と説かれている(『武田信玄』)。

磯貝正義氏(山梨大学名誉教授)は、
『市川良一氏所蔵文書』によって、山本勘助の「実在が証明された。山本菅助なるものが、晴信の使節としてこの書状を市河氏のもとへ携行したことが知られる。晴信の使節である以上、その信頼の厚い家臣であったろうから、山県の部卒といった軽輩でなかったことは明らかである。しかし勘介は、信玄の軍師であったという伝えは信じられないし、まして“晴信”の偏諱をもらって“晴幸”と称したなどというのは、後世の造作である」
とされる(『定本 武田信玄』)。

上野晴朗氏(山梨日々新聞編集委員)は、
「『武功雑記』も田中説(雑兵説)も、よくよく検討してみると、まったく根も葉もない巷間の俗説を、そのまま採用しているに過ぎない。」
とし、
『市川良一氏所蔵文書』については「勘助の文字が“菅助”とやや異なっているが、系図などには勘助あるいは寛輔などという字も当てられているので、いうところの山本勘助と同一人物と見て、まず間違いないだろう。『武功雑記』にいうような山県昌景の部卒程度といった軽輩の士でなかったことは、もはや明白である」
と主張される(『別冊歴史読本 武田信玄の生涯』所収「山本勘助の実像」)。


さらに同氏は、
「昭和五十九年四月、ついに山梨県において、信玄時代に勘助が住していた屋敷跡と、古墓、位牌等を発見することができた」
としている(『別冊歴史読本 武田信玄の生涯』所収「山本勘助の実像」、『山本勘助』)。

しかし、その論拠はどうも主観的で、良質な史料に基づいたとは云えず、信憑性に欠けるように感じられる。

坂本徳一氏(山梨郷土研究会理事)は、
「井上靖の『風林火山』、海音寺潮五郎の『天と地と』などで一躍スターの座にのしあがったが、史実の上でこれほどあいまいな武将はいない。五十一歳で随臣したとすれば、二十一年後の川中島の大決戦の時は七十一歳になっているはずである。老将にしても年を取りすぎているような気がする。天正三年九月の長篠戦で戦死している山本勘蔵信供は勘助の子となっているが、それも想像に過ぎず、確たる論拠はない。」
という(『武田信玄合戦記』)。

さらに、
「勘助の生涯を調べるには『甲陽軍鑑』を頼る以外にない。つまり勘助在世のころに記録された文献は一行もない」
ともいう(『武田二十四将伝』)。

野澤公次郎氏(山梨県史編纂専門調査官)は、
「勘介戦死の記事は『軍鑑』『名将言行録』『甲州安見記』などにあるが、武田史料として信頼度の高い『妙法寺記』『高白斎記』『王代記』では見ることができない。
たとえば『妙法寺記』であるが、武田典厩信繁、初鹿野源五郎の討死を記録しているものの、身分としては源五郎より上位であったはずの勘介に関する記述がないのは、まことに不自然なこととなる。
『高白斎記』の原本にあたる高白斎日記を著した駒井政武は信玄の近臣で、軍師勘介の戦死を知らないはずがない。にもかかわらず触れていないのは何故だろうか」
と記し、
「かんじんの一次資料となる勘介宛の文書は、その写しさえ一通も伝えられておらず、とくに勘介自身の発給文書もいまだ未発見となっている。実在論者、架空説論者ともに“決め手”を欠く実状」
と書かれている(『武田二十四将略伝』)。

笹本正治博士(信州大学教授)は、
「市川家文書に見える「菅助」が「勘助」と同一だとする証明はされておらず、『甲陽軍鑑』の記載からするとあまりに史料の出方が少ない。墓や屋敷跡についても当時のものだとの証拠がない。
(中略)したがって、私は現段階では山本勘助実在説をとることはできず、武田流の築城の縄張者として彼を想起することもしない」
とされる(『武田信玄』)。

博士の説で、遺跡についてはともかく、『市川良一氏所蔵文書』の扱いについては、やや懐疑的すぎるきらいが否定できないように感じる。

 

 

ところで、武田信玄の重臣・駒井高白斎が記した『高白斎記』には、“山本勘助”の名が登場している。

天文十八年(1549)正月の条に、「十三日甲申(きのえさる)山本勘助高島ノ鍬立」と書かれている。「鍬立」は、高島城(茶臼山城)の築城に際しての上棟式であるが、これを山本勘助が築城名人であった根拠になるとの説がある。

柴辻俊六氏(早稲田大学講師)は、この記事を山本勘助実在説とその縄張り名人の伝承を補強する興味深いものだとされる(『武田信玄合戦録』)。

また、『高白斎記』の天文十三年(1544)三月の条に、「三州牛窪ノ浪人山本勘助召抱へラル」と記され、上原城の普請にも参加したという説がある。

しかし、これら『高白斎記』の山本勘助に関する記事は、後年の「ざん入」であり、江戸時代に加筆されたもので、信用できないというのが通説である(川口素生『山本勘助101の謎』)。

 

このように、山本勘助については、その生涯はおろか、実在したかどうかさえ定説を持たないのが現状である。すなわち、彼に関する信憑性の高い史料は『市川良一氏所蔵文書』しか存在しないのである。したがって、

山本勘助と思われる人物は実在し、武田信玄の書いた文書を届けた使節であった

という事以外、歴史的に是認できる事跡はない。『武功雑記』を採用して、そこから発展させ「信玄の重臣・側近に登り詰めた者で、もとは山県昌景の配下であった」と考えても問題は無いかも知れない。

しかし、『甲陽軍鑑』が、なぜ山本勘助をあれほど活躍させているのか、さらに『甲陽軍鑑』に記された山本勘助像は信用できるのかは、この書の成立状況を分析しなければならない。高柳博士の説くとおり、山本勘助の子孫の手によるものであるならば、そのほとんどは虚像ということになろう。

いずれにせよ『甲陽軍鑑』の成立過程も明らかでない現在、客観的に見て、『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助は、脚色された存在と考えざるを得ない。
『甲陽軍鑑』の史料性をある程度認める管理人の立場からは、山本勘助の記事全てが虚実であるとは思いたくないが、真実の箇所だけを見出すことは、現在不可能である。
逆に、総合的にみて、『甲陽軍鑑』の山本勘助に関する記載には、その多くに信憑性を感じない。

さらに云えば、山本勘助の事跡を伝えるのが、この『甲陽軍鑑』が唯一である以上、現在我々が目にする山本勘助についての小説やドラマは、とりあえず、エンターテイメントとしての評価は別として、歴史学としては、その全てについて信用に足るものではないと断ぜざるを得ない。

ともかく、『市川良一氏所蔵文書』を見つめ、これを武田信玄から渡され、奥信濃へ持参した「山本菅助」とはどのような人物であったのか、それを想像することこそが歴史のロマンなのかも知れない・・・。
少なくとも、この古文書の傍らで、「山本菅助」が何らかを語ったことは確実である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成19年8月2日補訂・・・・・・・・・・・・・・・・

山本勘助の名が記された下知状を公開という記事があることを発見した。

それによれば、

「下知状(1556年)は、武田が長谷の名家黒河内八郎右衛門にあてたもの。神野峯城(現飯田市)を攻めるため、山本勘助を大将に、浪人を集めて戦う用意をしろという内容。山本勘助の案内役も務めるように添えられ、文面から山本勘助の名がはっきり読み取ることができる。赤い判が押されていることから、朱印状とも呼ばれる。」

との事である。

同朱印状を見たことが無いので真偽のほどは不明である。
情報をお持ちの方はご教示いただきたい。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成20年3月8日補訂・・・・・・・・・・・・・・・・

『甲越 川中島戦史』という本

同書は、長野県松代町の郷土史家・吉池忠治氏が、明治四十四年頃に記したもの(底本)である。

吉池氏は、その中で、「山本勘助の実在が問われてきたことへの反論に心を砕いた」とし、勘助実在説を様々な角度から主張される。

しかし、勘助に関する一級史料(『市河文書』)の無い時代に書かれたものであり、それらは『甲斐国志』『千曲之真砂』など後世の史料に拠り、どれだけボリュームがあろうが、史実に迫るものではない。
(なお同書は、上杉謙信の妻女山布陣に対する懐疑説を唱えるなど、古い書物ながらも画期的な好著である。)

また、吉池氏は、『山本文書』という史料を持ち出し、以下の信玄発給の感状(写し)を挙げている。

 

「この度信州戸石合戦において、その方知略に付き数多討ち取り、これにより甲州巨摩郡武州筋丹井村に城あるべく、知行八百貫文ところ望みに任せるものなり。

 天文十六年五月八日                               信玄 (龍丸朱印)

土屋左衛門尉 奉之   

山本勘助殿  」

 

同感状をもって、作家の江宮隆之氏は、「こうした文書が存在することを一蹴してはならないと思う」とし、学界が勘助に対する信玄の感状が一枚も無いのはおかしいと断ずることへの、実在説からの「答え」だと述べている(『山本勘助とは何者か 信玄に重用された理由』)。

さらに江宮氏は、「武州筋丹井村」とあるのは、「武川筋円井村」の誤写と推定され、その山梨県韮崎市円野町上円井の円井氏菩提寺・宗泉院の「山本勘助父子を供養する石祠」を持ち出し
「勘助が実在し、『軍鑑』が記すような軍功があったとしか考えられない事実ではないか」
と力説される。

だが、この感状は、明らかな偽作である。現代の我々にも非常に読みやすく、親切にこの一文だけで何が言いたいのか、背景まで書かれている。
まして、ご丁寧にも年号(天文十六年)を入れ、その年号自体が誤っているのだから、竜頭蛇尾の極みである。

これは、『甲陽軍鑑』に拠ったものだろう。
『軍鑑』は戸石合戦を天文十三年ないし十五年の事としている。

戸石合戦は、一級史料である『高白斎記』『妙法寺記』『厳助往年記』などから、天文十九年(1550)九月頃に行われたことが確実である。(江宮氏は戸石合戦を天文十九年の事と認識されているが、同感状に対しての批判はなく、また年号について触れていない)

一方、山梨県韮崎市円野町に山本勘助の領地だったという伝承が残っているのは確からしい。しかし、その真偽はもちろん不明で、それと同感状を符合させて、勘助実在を確実視するのは、いかにも作家風情のする仕事と言わざるを得ない。

同地に関係する人物が、伝承を補強するために創作したものであろう。
江宮氏は、
「『軍鑑』の辻褄を合わせるために、偽の感状をでっち上げたり、円井地区に石祠を造ったりする暇人はいるまい」
とされるが、そのようなことは往々にして行われている。

なお、この感状は今、どこにあるかは不明だという。

 

 

ここで、江宮隆之氏『山本勘助とは何者か 信玄に重用された理由』について少し触れると、山本勘助実在が前提とされており、中立的な観点からの検討は為されていない。史料の分析も拙速である。

同書では、勘助は剣豪で塚原卜伝と接点があったのは確かだとか、高野山で摩利支天のもと修行したとか、楠木流軍学に触れたとか、中国の兵法書『六韜三略』を学んだとか、大内義興(中国地方)に仕えた可能性はかなり高いとか、今川義元と面会した時の勘助の心境まで憶測されている。
読み進めていくにつれ、歴史小説のような書きぶりになってしまっている。

世間受けを狙った、”俗書”のそしりは免れまい。

 

ただし、『大猷院殿御実記』に、寛永十二年(1635)十二月、山本九兵衛正重が徳川幕府に御側衆支配国廻役として登用されたが、その記事で、

「武田家にて名を得たる山本勘介晴幸が四代の孫なり」

と記されていることを紹介している点はいい。

江宮氏は、
「おそらく家に伝えられていた系図や由緒書等を提出して認められたものに違いない」
「山本勘助が、武田信玄の帷幕に重要な存在としていたことの証明ではないか」
と、例によって飛躍してしまっている。

それはともかく、徳川家光時代とはいえ、また『甲陽軍鑑』の影響があったにせよ、このような記録が早くに残されていることは、何を示しているのか検討の余地があると思われる。

 

 

山本勘助の最後

 

彼は、永禄四年(1561)九月十日早朝、第四次川中島の合戦において戦死したとされる。『甲陽軍鑑』品第三十二には、
「殊(こと)に典厩御うち死。諸角豊後守討死。旗本足軽大将両人は、
山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死。」
と、簡単に記されている。

他の史料では、『北越軍談』(元禄二年1698成立)に、
「山本晴幸入道々鬼六十二歳も川崖にて撃たれ」
とある。

また、『武田三代軍記』(正徳五年
1715成立)には、
「山本勘介晴幸入道道鬼斎藤は、今日の術を仕損じたりと、西条山の先手帰り来るをも待たず、味方の諸将おのおの討死する上は、これまでと思い定め、敵中に駆け入り、前後左右に近付く敵を、まくり立て、切り散らすに、七騎に手負わせ、十三騎まで斬って落とし、ついに討死したりけり」
と記す。


もちろん、両史料に信憑性が無いのは多言を要しない。

さらに現在では、
「勘助の立てた作戦が上杉方によって見事に裏をかかれ、信玄本陣が一時窮地におちいった責任を感じ、六十九歳の老骨に鞭打って起死回生をはかり、みずから川中島に散った。全身八十余箇所に手負い傷を受けながら、はるか本陣の武田軍旗が無事にひるがえっているのを確かめて、河原を鮮血に染めた」(磯貝正義『武田信玄のすべて』
という具合にいわれ、これがあたかも史実のように思われている。

 

この決戦に先立ち、武田信玄は、馬場信春と山本勘助に作戦を立てさせたとされる。
そこで勘助は、後年「啄木鳥の戦法」と俗称された「二万の軍勢を二手に分け、一万二千を上杉軍本陣の妻女山へ向ける。戦いに応じた上杉軍を川中島待機軍八千とで挟み撃ちにして討ち取る」という戦略を提言したという(『甲陽軍鑑』)。

この頃まで武田信玄の軍師的な存在は、小幡虎盛や原虎胤であったが、前者はこの六月に病死、後者は割ヶ嶽城合戦で負傷していたため、馬場、山本に意見を求めた(『甲陽軍鑑』)。
これは、家臣団の世代交代を象徴するエピソードという(『信長の野望 合戦事典 信玄
VS謙信』)。

 

しかし、最新の実証的研究によれば、この啄木鳥の戦法にも疑問が呈されている。

「妻女山のうしろ側を突かせるキツツキ部隊などというものが、一万何千人も、いったい、この狭い山道を進み得るものか、進み得ないものか、地理を知る者には余りにもはっきりした話である」(栗岩栄治著『飛将謙信』)。

「妻女山の背後の山道は、人一人がやっと通れる広さで、まして、夜半に明かりを消して、この道を兵士や小荷駄を積んだ軍隊が一万二千も通るなどとても考えられない。現場の地形からは「キツツキの戦法」は現実的でないことが理解できる」(三池純正著『真説・川中島合戦』)。

「上杉軍の妻女山布陣、武田軍の啄木鳥の戦法、上杉軍の車懸かりの陣、信玄と謙信の一騎打ちなど、疑わしいことこの上ないとされる」(平山優著『戦史ドキュメント 川中島の戦い』)。

といった具合である。

 

川中島合戦の真相については本稿の範囲を超えるが、実際に妻女山付近の諸城砦(竹山城鞍骨城雨宮城鷲尾城など)を実地踏査した経験から、上杉謙信が妻女山に陣したというのは疑問が残る。まして、その裏をつく啄木鳥の戦法も史実とは考えにくい。
このあたり『甲陽軍鑑』は信用できないと考えるが、山本勘助の討死については、『甲陽軍鑑』は詳細を記すことなく、他の武将に列記された状況である。その点、具体的に書かれていないことに、逆に真実味が感じられてならない。

山本勘助の最後は、詳細は不明だが、川中島の合戦においてであった

として良いように思われる。

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