真柄直隆

真柄十郎左衛門直隆は越前・真柄荘の国衆として朝倉氏の客将となり、上真柄の地に居館を構えていた。

信憑度の高い史料とされる『朝倉始末記』によれば、足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で二本もの大太刀を軽々と頭上で振り回すこと十数回、嫡男・隆基は黒い卵形の大石を空へ投げること十余度、それほどの剛勇無双の武芸者であった。

元亀元年(1570)姉川の合戦で戦死する(太田牛一『信長公記』)

この時、織田・徳川軍に押され敗走する朝倉軍を見て、徳川勢の中に踏み留まって奮闘。大太刀を水車のように振り回し、徳川勢を薙ぎ倒し、「志しの者あらば、ひっ組んで勝負せぬか」と返り血で真っ赤に染まった体に、髪を振り乱し、天地も裂けんばかりの怒声を張り上げ、取り囲んだ徳川勢も恐れて近寄る事ができない。この機に大将・朝倉景健は戦場を離脱した。
修羅の如き真柄にたじたじになる三河武士らの中、匂坂兄弟ら3、4名が真柄を取り巻き斬り込んだ。姉川の戦局はここに集中され、真柄ものともせず突き出す匂坂兄の槍を打ち落とし、余る力で兜の吹返を打ち破った。
弟らは兄を討たせまじと怒涛の如く突っ込んで、指し物真柄も力尽き「今はこれまでなり、我が首を取って男子の本懐とせよ」と大太刀を投げ捨て首を預けたともいうが真偽のほどは不明(小瀬甫庵『信長記』)。

また。直隆の子十郎隆基も父の死を知ると、その最後を見届けようと引き返したが斬り死を遂げた。後に直隆を討ち取った青木一重は当時の様子を「真柄は大剛大力の男で我等がおよぶところではない。誰かと戦って傷を負ったところへ行き合って討ち取ったまでである」と言ったという。(『古実話』)

真柄直隆、遠藤直経の壮絶死

 姉川の合戦で特に印象深いのは豪将・真柄十郎左衛門直隆(朝倉軍)と遠藤喜右衛門直経(浅井軍)の討ち死の逸話である。

真柄については小瀬甫庵『信長記』にこう書かれている。織田・徳川軍に押され敗走する朝倉軍を見て、徳川勢の中に踏み留まって奮闘する豪傑が真柄である。太郎太刀という五尺三寸の大太刀を水車のように振り回し、群がる徳川勢を薙ぎ倒し、「志しの者あらば、ひっ組んで勝負せぬか」と返り血で真っ赤に染まった体に、髪を振り乱し、天地も裂けんばかりの怒声を張り上げ、取り囲んだ徳川勢も恐れて近寄る事ができない。

この機に大将朝倉景健は戦場を離脱した。修羅の如き真柄にたじたじになる三河武士らの中、匂坂兄弟ら3、4名が真柄を取り巻き斬り込んだ。姉川の戦局はここに集中され、真柄ものともせず突き出す匂坂兄の槍を打ち落とし、余る力で兜の吹返を打ち破った。弟らは兄を討たせまじと怒涛の如く突っ込んで、指し物真柄も力尽き「今はこれまでなり、我が首を取って男子の本懐とせよ」と大太刀を投げ捨て首を預けた。

また。直隆の子十郎隆基も父の死を知ると、その最後を見届けようと引き返したが斬り死を遂げた。後に直隆を討ち取った青木一重は当時の様子を「真柄は大剛大力の男で我等がおよぶところではない。誰かと戦って傷を負ったところへ行き合って討ち取ったまでである」と言ったという。(『古実話』)

真柄父子戦死の地

真柄氏は現在の武生市真柄町の国衆であり、足利義昭が朝倉氏のもとに雌伏していた際、祝宴での求めに応じて、父子で太刀と武術を披露した事もあったという。(『朝倉始末記』)一乗谷東新町に真柄の屋敷址があり、隣町である宮谷村の時宗興徳寺に墓がある。

 

 

遠藤は、北国に響いた剛の者であったから、味方浅井軍の敗戦に怒りたち、まなこをつり上げて、髪を乱し、味方の武士の首をひっつかみ、信長へ見参するように見せかけて、織田軍の陣中に紛れ込み、たとえ叶わなくても信長と刺し違える事を本望として「御大将はどこにおわすか」と叫んで回り、ここかしこと探し回ったが、遠藤を知る竹中重虎に発見され、これを得たりと飛び掛って組み合われた末にその首を取られた。

『信長公記』によると竹中は以前より遠藤は必ず討ち取ると豪語していたという。さらには遠藤の郎党に富田才八という武士がいたが、主人の死を聞くや「この上、何を期待しようぞ。お供つかまつる」と言って、敵中に飛び込み、散々に敵を斬り捨てた末に壮絶な最後を遂げた。これも小瀬甫庵『信長記』の記事である。

『浅井三代記』によれば、遠藤は信長の十間まで近寄ったが、竹中に発見され、お互いに名乗りをあげてから組み合ったという。遠藤は以前、主である浅井長政に、機をみて織田軍に打って出る作戦を申し入れたが、これを却下された。その結果小谷城を包囲され、危機に瀕する主家を見て、姉川で討ち死にする決意であったという。

以上は後世の軍記ものに記されている内容がほとんどであり、どこまでが史実かの判断は困難だが、両氏が姉川で討ち死にしたのは紛れもない事実である。桑田忠親氏によれば、『浅井家過去帳』に遠藤の法名があり、「彼の目覚しい働きを伝え聞いた長政があつく菩提を弔ったもの」ではないかという。彼らは、戦国広しといえども有数の剛勇さであり、その壮絶な討死譚はまさに武士の誉れである。

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