村上義清

平安時代の末に村上郷に発祥した村上氏は、平安・鎌倉時代を通じて村上を本拠に活躍し、南北朝時代後期にここ坂木(坂城)に移って葛尾城に拠った。

戦国時代には、東北信一帯を支配する戦国大名として村上義清が現れる。彼は更級、更埴、高井、小県、水内の北信五領に佐久の一部をも支配下に入れるほどに威勢を誇った。

 

信濃の領国化を目指す武田信玄(晴信)は天文十七年(1548)二月、積雪をおして小県方面に進出した。

これに対して義清もすかさず兵を動かし上田原にて激突。地の利を得た村上軍は信玄自身にも傷を追わせるほどの圧勝を治めた。

その勢いをかって、小笠原、仁科、藤沢氏などの信濃の豪族と連盟を組んで、同年四月、武田氏の支配下にあった下諏訪に攻め寄せる。
しかし、小笠原氏と藤沢氏の同地をめぐる支配で内訌が発生し、兵を帰さざるを得なくなる。

天文十九年(1550)七月には小笠原長時を追った信玄は、同年九月、村上氏の属城である砥石城を攻める。
攻防一ヶ月後その堅固ぶりに退却止むを得ずの状況となったところに、義清の追撃を受け「砥石崩れ」と呼ばれる惨敗を喫した。信玄は重臣を討ち死させ、自ら「当家の凶事なり」と言うほどの痛手であった。

 

このように義清は信玄相手に二度も圧勝した勇将であったものの、翌年五月、砥石城が真田幸隆の謀略で陥落すると劣勢に陥り、諸城が次々と落城。本拠・葛尾城の近く狐落城が落ちるに至って、天文二十二年(1552)、この坂城の地を捨てて越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼って落ちていった(『高白斎記』)。

その後、謙信の助勢を得た義清は葛尾城を奪い返して、そこにいた武田方の曽源八郎を討ち取り、小県郡の塩田城に籠もっている。
それを知った武田軍は城を包囲し、塩田城が落城すると村上義清は、「行方しれずにおなり候」(『妙法寺記』)となり、東信濃は完全に武田氏の支配するところとなった。

 

その後、一説には、川中島の合戦に参戦して武田信玄に抵抗し、上杉謙信の家臣に甘んじて、越後根知城を与えられ、そこで天正元年(1573)病歿したと伝えられている。

義清は、口伝では、正直で人情味があり、信仰心の厚い人物であったと云われている。

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