大谷吉継

 

大谷刑部少輔吉継〔大谷吉隆とも、永禄二年(1559)頃〜慶長五年(1600)〕は、関ヶ原合戦における忠義の名将として、日本史に高名を残した人物。

 
(大谷吉継 花押)

その出自や出生地は諸説あり、不明である。

有力な説は、出生地「滋賀県伊香郡余呉町大字小谷」であり、この”小谷”とは”おおたに”と呼び、慶長年間以前は”大谷”と書いていたという。
また、その祖先は桓武平氏に連なり、平貞盛の後裔・大谷盛胤から出た大友宗麟の家臣・大谷盛治の子とされる(『姓氏家系大辞典』『戦国人名事典』『日本歴史大辞典』)。

 

大谷吉継の前半生は、史料が無く、ほとんど分からない。

幼少期は「桂松」(慶松)と名乗っていたらしく、石田三成の推挙で秀吉に登用されたといわれている。通説では、天正二年(1574)春、長浜城を築いた際に、新しく秀吉が雇った700名の中に雑じっていたのではないかという
(『智将 大谷刑部』)。

その後、「大谷平馬」と名乗ったようで、俗書ではあるが『武功夜話』に、天正五年(1577)播磨経略の陣に馬廻りとして名が見える。また、天正六年(1578)三木城攻めの秀吉陣中での宴にも名を連ねている。

確実な史料としては、天正十一年(1583)称名寺の寺領を安堵する書状を「大谷紀之介」の名で出している(『称名寺文書』)。

 

天正十一年(1583)四月、24歳頃、賤ヶ岳の戦いで、その頭角をあらわしたらしい。
一級史料ではないが、『一柳家記』には「大谷桂松が一番槍に劣らない活躍をした」と石田三成らとともに列記されている。

天正十三年(1585)秀吉が関白に登り詰めると、大谷は刑部少輔に任ぜられ、ここに「大谷刑部」が誕生する
(『仕官之事』)。

以後、秀吉の側近として、政務を文掌し、事務官僚的な役割を担っていたらしい。天正十三年(1585)九月には秀吉の有馬温泉湯治に三成らとともに同行している(『宇野主水日記』)。

 

大谷吉継の病

しかし、この頃、すでに大谷は“業病”(癩病・ハンセン病、一説に梅毒とも)に侵されていたようである。

天正十四年(1586)始め頃、大坂市中で「千人斬り」と称して人々を斬殺する事件が発生したが、これは大谷が病治癒のため血を求めて行っているという噂がたった(『宇野主水日記』『多聞院日記』)。

もちろん大谷は無罪であったが、彼が病んでいることは世間に広く流布していたのである。

彼はまだ27歳ほどである。

 

なお、大谷の書状に”白頭”と署名されているものが散見される。(『吉村文書』『称名寺文書』『真田家文書』『護念寺文書』など)
また、法名は「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」である。

これらは、崩れた顔を隠すため白頭巾をかぶっていたゆえという説がある。これが事実であれば、文書の年代から、少なくとも天正十一年(1583)24歳の賤ヶ岳合戦当時には病に犯されていた事となる。

 

 

天正十五年(1587)大坂城茶会があった(『宗湛日記』)。
その席で、秀吉の諸将が茶碗の茶を回し飲みした。しかし、大谷が口をつけた後はみな嫌い、病の感染を恐れて飲むふりをするのみだった。しかし、三成だけはその茶を飲み干した。それに感激した大谷は、三成と無二の間柄となり、関ヶ原において味方したという。だが、これは伝説の類に過ぎないだろう。

 

秀吉が九州を平定した天正十六年(1588)頃、敦賀城主に取り立てられたらしい(『西福寺宛禁制』)。

その後、小牧・長久手の戦い、小田原の役、朝鮮の陣(文禄の役)などに参加したようだが、詳しい軌跡は分からない。
だが、病は確実に進行していたらしく、慶長二年(1597)名護屋城におり、渡海することができなかった。秀吉が大谷宅を訪問していて、すでに公の場所には5・6年も出ていなかったらしい(『鹿苑日録』)。

その後も表舞台に名は出ず、秀吉の醍醐大花見にも見えない。

 

慶長三年(1598)には秀吉自身が病に伏せる状況となった。六月十六日の秀頼の中納言叙任を祝う席では、畳の上に布団を敷いて座る秀吉に、大谷自身が病躯をおして参列し、菓子を賜った(『戸田左門覚書』)。

その二ヵ月後、秀吉は他界する。大谷39歳頃。

 

関ヶ原の戦い

 

秀吉の死後、家康はその遺言を無視し、独断専行の政治を行うようになった。これに対して、五奉行や前田利家が一戦を辞さないという緊張した慶長四年(1599)、大谷は自分の屋敷に兵を集め、家康に味方する姿勢だったという(『家忠日記』)。

家康が上杉討伐のため東進した際には、大谷もそれに付くため垂井まで出陣した。


(佐和山城)

石田三成は、旧来の友である大谷を佐和山城に招き、そこで挙兵の策を打ち明けたとされる。この時、大谷は、親しい三成がそれまで一言も言ってくれなかったことに不満をあらわしたと伝わる(『落穂集』)。

大谷は、家康と戦っても利がないため、三成を説いて諫めたが、三成の決意は固く、いったん自分の陣に帰った。垂井の宿で3・4日考え抜いた大谷は、ついに三成を見捨てることはできず、佐和山城に入ったという(『名将言行録』『慶長見聞集』『落穂集』)。

その時、すでに大谷は盲目であったが、三成は喜んで、家臣の島左近、蒲生備中らを紹介したとされる(『慶長見聞集』)。

このあたりの話しは有名だが、いずれも後年の史料であり、どこまで真実かは分からない。だが、七月十二日までに大谷と石田が垂井で談合し、挙兵の動きがあることを家康側は察知していた(『増田長盛書状』)。

その後、大谷は家康打倒のために真田氏に書状を送るなど奔走している(『真田家文書』)。
なお、真田幸村(信繁)の妻は大谷の娘だという。

 

 

決戦を前に、”吉継”(よしつぐ)という名は、没落した「三好義継」と同音であり、縁起が悪いので、”吉隆”に改名したという(『烈祖成績』)。
この真偽は疑わしいが、それを引きずって、現在でも現地碑などは「大谷吉隆」の名が用いられている。


(関ヶ原の戦い・大谷吉継陣所)

大谷は、前哨戦として北陸の陣(浅井畷の戦い)などで策謀をめぐらした後、九月二日、北陸から軍を率いて美濃に入り、山中村に布陣した。
十四日夜、関ヶ原に転進することとなった三成は大谷を訪ね、最終的な打ち合わせをし、笹尾山に入って本営にした。また大谷は、小早川秀秋の陣を訪れ、東軍での内通を止めるよう苦言したという
(『関原軍記大成』)。

 

 

大谷吉継の最後

 

合戦がはじまると、猛勇を誇る大谷隊は、寺沢広高隊を蹴散らし、宇喜多隊の救済をしようとして、それを阻止する藤堂・京極・織田隊と激しい戦闘になった。
この間、大谷は小早川に使者を送り、西軍への加担を促したが、動きは見られない。大谷隊に加わっていた垂井城主・平塚為広が「金吾殿は二心を抱いている」と忠言すると、大谷は「小早川が裏切るのであれば、貴殿と戸田重政と我らで奴を討ち取り、無念を晴らそう」と返したという
(『関原軍記大成』)。

結局、小早川は裏切り、眼下の大谷隊に突撃してきた。

大谷吉継はそれに備え、精鋭をもって一旦はこれを撃退した。平塚・戸田隊も参加して激戦となり、小早川隊には370余の死者、大谷隊にも180余の死傷者が出た。
そこへ藤堂高虎が攻撃を仕掛けてきた。この時、大谷隊から島清正(左近の四男)が躍り出て、藤堂玄蕃と一騎打ちをしてこれを斬ったが、玄蕃の従者・高木平三郎に討ち取られた
(『家忠日記』『関原軍記大成』)。

小早川の裏切りに呼応し、脇坂・朽木・小川・赤座の諸隊が大谷隊に突っ込んでくるに及び、形勢は一気に悪化した。さらに藤堂・京極・織田も総攻撃をかけてきたために、大谷隊は壊滅状態に陥った。

 
(大谷吉継墓所)

信憑性は低いが、江戸時代の軍記物によれば、

 平塚為広が、
            「
名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば
 との辞世を書いた。これを自分でとった首に付け大谷吉継に送った。

 大谷吉継はこれに、
            「
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
 と返歌したが、すでに平塚は小川祐忠の兵に討たれていたという。

大谷隊も吉継の子である大谷吉勝・木下頼継ら少数が防戦しているのみであり、吉継も死期を察ていた。そこに家臣・湯浅五助が敵の首をひっさげ、もはや全滅状態であることを伝えると、吉継は「汝、介錯して、我が首を敵に渡すべからず」と言い、輿にのったまま腹を十文字に掻き斬って死んだ。

五助はその首を介錯して討ち落とすと、従者の三浦喜太夫に渡し、近くの田に埋めさせた。三浦は追い腹を切り、五助も敵陣に突入し討死したという。
(以上『関ヶ原御合戦当日記』『関原軍記大成』)。

 

一説には、五助が首を埋めるところを藤堂高虎の甥・藤堂仁右衛門が発見したが、五助は自分の首の代わりに吉継の首は秘密にしてくれと頼み、自身の首を与えた。
後に家康は、五助ほどの人物が若武者に討たれた事を疑ったが、仁右衛門は最後まで事情を明かさなかったという(『平尾氏箚記』)。ちょっと出来過ぎた話ではある。

『関原軍記大成』によれば、吉継は最後の時、「人面獣心なり。三年のうちに祟りをなさん。」と言って切腹したが、そのとおり小早川秀秋は早世している。しかし、これも信頼するには足りない。

 

信憑度の高い『慶長年中ト斎記』は、吉継は盲目だったので、側近の湯浅五助に「いくさが負けになったら申せ」と言い含めており、合戦中、再三「合戦負けか」と聞いていた。だが、五助は「未だ」と返し続けた。
しかし、敗戦が明らかになると五助は「御合戦御負け」と言い、吉継は乗り物から体を半分出して首を討たせた。五助はかねがね「首は隠すように」と約束されていたので、吉継の首を隠し、自分も討ち死した、という。
また、同書は「馬上にて腹を切られ候」と和泉守という人物の説があることも併せて記している。

 

大谷隊の戦いぶりは目覚しかったらしく、遠くから見ていた島津隊の曽木弥次郎という武士は、「比類なき様子に候つ」と語っている(『曽木文書』)。

ともかく吉継は自刃し、その子である大谷吉勝・木下頼継も自害しようとしたが、家臣に諫められ、それぞれ遁走したという。


(関ヶ原古戦場)

吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。『名将言行録』でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。

 

盲目にもかかわらず、その部隊が「比類ない」ほどの奮戦ぶりを見せた大谷吉継という人物は、戦闘はもちろん、人心掌握に長けた優秀な武将であり、まさに”名将”と称してしかるべき人だったに間違いない。

 

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