鈴木重秀

鈴木孫一重秀は鉄砲を早くから導入・装備した紀伊の雑賀衆の統領(軍師とも)。その経歴は一族を含めて謎が多い。

元亀元年(1570)の織田家・三好家の尾野田福島の合戦で雑賀衆・根来衆は織田方につき、3000挺もの鉄砲で三好方を打ち負かせたという。しかし、一説によればこの時鈴木孫一だけは三好家に味方し、また同年に勃発した織田家と本願寺との石山合戦でも本願寺方に入って抵抗を繰り返したという。

天正五年(1577)、弥勒寺山城に籠もっていた鈴木孫一は信長軍10万の猛攻によって中野城が落とされたため、降伏する。その後、雑賀衆は信長に一応の忠誠を誓い、引き続き豊臣秀吉にも従うこととなる。しかし根来衆とともに土橋重治が率いていた雑賀衆が徳川家康に加担したため秀吉は雑賀衆・根来衆の壊滅を決意するが、本願寺顕如の仲介で鈴木孫一は許された。天正十三年(1585)に秀吉が依然抵抗を繰り返す根来衆の拠点である太田城を攻めた際には鈴木孫一は秀吉方の使者として籠城勢に降伏を勧める使者になったという。しかしその説得も功を奏さず、雑賀衆・根来衆は全滅するまで抵抗したとされている。

鈴木孫一はその後、秀吉の家臣として小田原の役や朝鮮の役で鉄砲頭として参戦し、慶長五年(1600)の関ケ原の合戦では西軍に属し、伏見城を攻めて鳥居元忠を斬る。敗戦後は陸奥に遁れて伊達政宗に寄食した。しかし同十一年(1606)七月に徳川家康に起用され、三千石の知行を受け、ついで水戸の徳川頼房のもとで晩年を過ごした。

戦国史の権威であった桑田忠親氏は「よほどすぐれた人物であった」と評価されている(『戦国史疑』)。

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