島左近

 

島左近(正しくは嶋左近。誕没年不明・一説に1600年没。)

名を清興という。(一般には「勝猛」あるいは「友之」とも呼ばれているが、確かな史料には「清興」と記されている。)


(後年の想像図)

戦国時代の著名な武将であるが、生涯について不明な点がほとんどである。

 

筒井順慶に仕え、幼い時より孫・呉の書を読んで兵法に通じ、松倉右近と並んで「右近左近」と呼ばれたという。
筒井氏に仕えた時代の「清興」と記した自筆書状が残っている(『根岸文書』)。

 

順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、島はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに草案を営み、引き篭っていたという。
一説に、その後、武名によって羽柴秀長に仕える機会を得、朝鮮の役では秀長の嗣子・秀保に従って渡鮮、戦功をあげ、秀保の死後一万五千石で石田三成に招かれたという説がみられる(『武家事紀』)。

しかし、これは事実ではないようであり(桑田忠親『日本部将列伝』)、つまり、この時代の島左近を語るについては確たる史料が残っていない。

 

 

彼の所伝は江戸時代の軍記物に拠るところであり、石田家臣としての存在自体に懐疑的な説すらあったが、近年発表の『石田三成文書』によって、三成の重臣だったのは間違いない事が明確となった。

これは、(年不詳)島が石田家の年貢奉行だったと推察できるもので、石田家時代の唯一の確実な史料だという(小和田哲男博士)。

「 免相之弁ハ、嶋左近・山田上野・四岡帯刀両三人二申付候
 右之三人之儀勿論誓詞之上可為順路候間、任其旨可相納候
 三人方へも右之趣申付候也
                   八月廿三日 三成(花押)
                                   今井清右衛門尉殿 」


(『石田三成文書』・「嶋左近」)

 

ともかく、三成が島左近を採用した頃、三成は四万石を領するのみであったとされ、その優遇ぶりは後々までの語り草となっており、豊臣秀吉もその寵遇ぶりに思わず笑ってしまったという(『関原軍記大成』)。ちなみに、これも江戸時代の軍記物の説である。
なお、昭和初期・戦国史研究の権威であった渡辺世祐氏によれば、島が三成に仕えたのは天正十一年(
1583)とされている(『稿本石田三成』)。

 

いずれにせよ、戦国当時でも猛将として名を馳せた人物であったのは事実らしい。

 

関ヶ原の戦い

 

関ヶ原合戦で、石田三成が島とどのような談合をしたのかは、確実な史料が無い。三成の先鋒として岐阜に出陣したと伝わっている。

三成の旧来の友である大谷吉継が西軍に参加する決意をした時、すでに大谷は盲目であったが、三成は喜んで、家臣の島左近、蒲生備中らを紹介したという話もある(『慶長見聞集』)。

 

〜前哨戦・杭瀬川の戦い〜

九月十四日、西軍の斥候が、赤坂付近に徳川家康隊が到着したらしいと報告すると、島は三成に「敵軍に一撃を与え、我らの武威を示す必要がある」と進言し、500余の兵士を池尻口に出動させ、伏兵を木戸、一色の村に隠し、杭瀬(くいぜ)川を渡って、東軍を誘導しようと謀った。

それに刺激された東軍・中村一氏の部隊が出動すると、西軍は退却を始め、東軍をそれを追って川を越えた。
そこで、木戸・一色の伏兵が後ろから挟撃し30人を討ち取ったという(『関原軍記大成』)。

 

杭瀬川で東軍・中村一栄の軍勢を打ち破り、東軍が押し寄せ動揺しがちの西軍の士気をおおいに励ましたとされている。
その夜、島は、夜討ちをかけるように提言したが宇喜多秀家島津義弘らに容れられず、島は

  「明日になり、敵、勢いづけば、万が一にも勝ち目はない」

と言って、討死の覚悟を決めたという(『常山紀談』)。

しかし、これなどは歴史を知っている後世の人が書いたもので、信頼するに足りない。

 

 〜関ヶ原での勇姿〜


九月十五日、関ヶ原の決戦では、石田三成が島津義弘を先手にしようと考えていたが、島左近はそれを納得せず、自らが先鋒になったという(『黒田家譜』)。
だが、実際には島津義弘は四の陣であり(『島津家文書』)、史実とは思えない。

しかし、島が先陣を望んだというのは有り得ることだろう。

 

 

 

田中吉政黒田長政の兵と戦い、これを見事に退けて家康の旗本付近に迫ったが、黒田勢の鳥銃の乱射の中に奮戦、ついに倒れたという。

島のこの日の兜の立ち物は、朱色の天衝で、溜塗りの桶がわ胴の鎧の上に木綿浅黄の羽織を着て、精鋭三千ばかりを左右に立て、采配をとって下知していた(『常山紀談』)。

 

彼は、三成の恩顧を感じ、無二の股肱の臣として、その一命を捧げる決意であった。

 

 
(島左近陣所跡)

 

 島左近の最後

 

島は、部下を二分し、一部を柵前にとどめて守備をさせ、もう一部はみずから率いて、黒田隊の中央に突撃した。

そして、黒田部隊を引きつけ柵際に待機させた70ほどの精兵の鉾先で残らず討ち取る計画であった。だが、黒田勢の鉄砲頭長・菅六之助が高所に登り、50挺の鉄砲で間断なく射撃してきたため、さすがの島も利を失った。

島も被弾してのけ反り、従兵に肩を担がれて退却、守備の部隊を合流して柵内に逃れた。

その後、石田本隊が押し込まれるに至って乱戦となり、いつしか島の姿は東軍の中に見えなくなったと伝わっている。

(以上、『関原軍記大成』『常山紀談』等)

島の関ヶ原での戦闘ぶりは、後年の史料しか残っていないものの、目覚しい奮戦をしたのは紛れもない事実だと思われる。

 

島の消息は、

 ・銃に撃たれて絶命(『関原軍記大成』『落穂集』)

 ・行方不明(太田牛一『関ヶ原軍記』)

 ・西国に落ち延びた(『古今武家盛衰記』)

など諸説ありはっきりしない。
 信憑性としては太田牛一が正直に書いていると思う。戦乱の中で討ち取られ、遺骸すら発見されなかったのであろう。

(島左近の陣があった場所)

 

後に、島隊と衝突した黒田隊の武士が、関ヶ原を次のように懐古したという(『常山紀談』)

 

「鬼神をも欺くという島左近のその日の有り様、今もなお目の前にあるようだ。

島が率いていた者は皆すぐれた勇士だった。70名ほどは柵ぎわに残し、30名ばかりを左右に立て、麾を取って下知する姿をつくづく思い出す。

30ばかりの兵どもは槍の合うべき際にさっと引き、味方が追い駆けると近くまで引き寄せ、70ばかりは「えいえい」と声を挙げて突き掛かり、手の下に追い崩され残りなく討ち取られた。

今思えば身の毛も立って汗が出る。もし、その時味方が鉄砲で横合を入れてくれなければ我らが首は左近の槍に刺し貫かれたであろう」

 

彼らは戦い後も数年間、島の「かかれ!」という号令を夢に見て寝られなかったという。


(関ヶ原古戦場)

 

島の逸話はあまた残されている。

三成とともに大阪城天守閣に登って、大阪の町並みを見下して庶民の生活向上させる政治を行うように勧告した(『志士清談』)。

家康を討つのに三成が何度も機を逸したことを悔しがり、松永久秀や明智光秀の前例を倣って暗殺、奇襲を勧めた(『常山紀談』)。

三成が佐和山城に移って加増を受けた際、島にも加俸しようとしたが「従前どおりで構わない」と、自らの出世を断ったという巷説もある。

また、当時の落首に

  「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城

というものがあったという。

 

これらの真偽はともかく、その名将・猛将ぶりは戦国武士の中でも有数であることだけは事実であろう。

 

(参考文献:桑田忠親『日本部将列伝』『義士 石田三成』、今井林太郎『人物書 石田三成』等)

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