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波乱!!武田勝頼の最後を追う1泊2日の旅

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波乱!!武田勝頼の最後を追う1泊2日の旅

200374日(金)

武田勝頼の滅亡の軌跡を辿るためにバイクにて東京を出発。山梨から長野に足を伸ばし、松本で1泊する2日がかりの計画である。

田野合戦地址 11:00

中央道からでも笹子トンネルを抜けたすぐ右手に田野の地が見える。国道20号では周辺に案内看板が立っているので容易に発見できた。ほどなく石碑と説明表示がある。日川沿いが合戦地。武田勝頼がここで果てた田野の合戦では双方に多くの戦死者が出て、川が血で真っ赤に染まったという。ただこの類の逸話はどこにでもあることで伝説かも知れないが、この地で哀しき武田家滅亡の最後の一戦があって、多くの血が流れたのは事実である。今では平和な時間が流れているものの、その静けさがかえって勝頼の悲劇を偲ばせる。

 

   景徳院

武田氏滅亡後に徳川家康が勝頼らの菩提を弔うために建てたという。田野の地にあって、勝頼一族の墓所はもちろん、勝頼や夫人らが自刃した場所にあったという生害石もみられる。武田氏のまさに悲哀の場所である。

 

   片手千人斬り址

最後まで勝頼を守った忠臣・土屋昌恒が、ここの狭く悪路な山道を利に、道端に生える蔓に摑まりながら片手で刀を振って敵をなぎ倒したといわれる史跡。この昌恒は長篠・設楽ヶ原の合戦で果敢に連合軍へ突撃し、騎馬防御柵にしがみ付いて絶命したという勇将・昌次の弟である。

 

馬場信房や山県昌景、内藤昌豊など武功で立身してきた宿老らが華々しく武田家のために討ち死にしたのをみて、この昌恒も死に場所を求め最後まで勝頼に随行したのであろう。この昌恒の奮戦は徳川家康の耳にも届いたようで、後にその忠節の士を称えて昌恒の子に扶持を与えて旗下に組み入れている。

 

田野から山間へかなり登った場所にある古刹。かつて勝頼の祖先である武田信満がいくさに敗れて自刃した場所で、寺内墓所にはその信満墓もある。勝頼もここで同じように自刃して果てようとしたのであろう。

こうみると【勝頼自刃の地⇒片手千人斬り⇒天目山】となっていて、街の本屋で手軽に入手できる一般書の類には「天目山を目指した勝頼一行を織田軍が追撃し、それを土屋らの奮戦で抑えたが、ついに万事尽きて田野に至り自刃した」と説明されているが、この地形とは整合しない。また反対側から来た織田軍が行く手を阻止したともいうが、天目山の先は非常に険しい山々が連なり、その様な軍勢を派遣できたとも考えにくい。おそらく天目山栖雲寺を目指した勝頼一行だったが、先に栖雲寺に入っていた武田勢、もしくは寺付近を統治していた土豪が裏切って、やむなく山を下りて後退し、田野の山麓に下っていく途中に土屋らが上からの追撃を防いだものの、田野付近まで下りてきたところで挟み撃ちされる形で激戦が繰り広げられ、ついに景徳院付近で果てたのが史実ではなかろうか。

 

大善寺 12:14

田野で勝頼が自害する数日前この寺で一泊したという。勝頼の祖父・信虎の弟の息女という理慶尼がここに庵をむすんでいて、その縁で立ち寄った。理慶尼はもはやあとは滅亡するだけの勝頼一行を温かく迎え入れて労をねぎらった。彼女は『理慶尼記』という武田勝頼滅亡の記録を残している。これを偽書・創作であるとか単なる文学作品で史料的価値はないという説がある。しかし上野晴朗氏はその著『定本 武田勝頼』のなかで「理慶尼記は歴史書というよりも、詠歌の書といったほうが正しいだろう。たぐいまれな心に記録であり、叙述詩である。この物語は江戸時代も下った年代のものではなく、全部の歌が尼によって創作されたものでない」と述べ再評価を求められている。この記録の中には、すべてが史実ではないにせよ、勝頼や信勝、夫人らの最後の行動が詳細に書かれていて、それぞれの辞世の句もはいっている。大善寺は国道20号を田野から甲府方面に少し走った所にあって大きな案内板があるのですぐ分かる。ここの薬師堂は国宝に指定されている。

 

武田八幡宮 13;40

甲斐武田氏発祥の里にある歴史の地。滅び行く武田勝頼を思ってその夫人が捧げた願文が現存している。ここからは韮崎方面が非常にすぐれた展望で望めることができた。現在の本殿は武田信玄が21歳の時に建築したものといわれ国の重要文化財になっている。

 

願成寺 13:55

初代甲斐守護・武田信義が荒廃していた同寺を祈願所として再興したという。やや分かりにくい場所にあったが、国の重要文化財である阿弥陀如来像などが保存されているらしい。境内には武田氏祖先の墓石がある。

 

新府城 14:20

釜無川の岸壁上の小山にある。確かにその岸壁側は相当な防御の要になるが、周囲は特に要害の場所とも思えないし甲府以上の城下町を作るほどの広さもみられない。勝頼はなぜここを選地したのか、未だに計りかねる状況である。家臣の急普請の屋敷があった場所も今では田園と化してその面影は窺えない。

 

杖突峠

かつて武田信玄が高遠頼継と戦った際にここに布陣したという。伊那谷へ通る要衝で、信玄、勝頼をはじめ多くの武田氏の重臣らが往来したことであろう。地図で見るとなるほど険しい峠道。実際もカーブが連続するワインディングロードになっている。ここで悪いことにバイク乗りの血が史跡巡りの大目的を凌駕してしまい、ついついアクセルを全開にしてしまった。

 相模RT鬱02(作者全景)

すると目の前に飛び出てきたのは停止棒をブンブン振り回す警察官。ネズミ捕りである。54㎞/hオーバーで一発免停!赤キップを頂戴した。これによってその後、免許センターや教習所、最後には霞ヶ関の検察庁へ行かされて罰金約7万円の処断を受けた。

「杖突峠」、今でも要衝の地である。

 

  高遠城 16:10 (本丸石垣)

杖突峠から高遠までは田園が広がり往時の雰囲気が残っていて、なかなか情緒にあふれたいい道である。しかしそんなよすがに浸ることもなく免停の衝撃で頭がいっぱい。何とか高遠城まで辿り着いて城を見て回るが、そんな気分ではない。松本の宿をキャンセルしてすぐに帰ることにした。先のネズミ捕りの場所ではすでに警察は引き払っていて人っこひとりいなかった。諏訪ICから中央道に乗ったが、いつも以上に飛ばして東京に戻った記憶がある。

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武田信玄関係の史跡を巡る12日の旅

(以下の時間は、城址に到着した時刻または山城の場合は登山道入口に到着した時刻)

2003925日(木)

松本城 1335

東京から愛車のスペースギアで松本ICへ。結構遠いものである。現存する天守は素晴らしいがそれだけ観光客が多い。この日は中学生の遠足にぶつかってしまい、城内は人の渦。天守内の階段はキツいのでみんな登れずに行列が出来ていた。

 

妻女山 1510

高速道路が山中を貫通しているが、山は当時のまま。謙信が布陣したという場所までは車で登れるのでありがたい。でっかい神社があり、川中島を見渡せる展望台もあった。結構人が来ていて、やはり有名なのであろう。

 

海津城 1550

工事中で入れなかった。覗いてみるが近代的な石垣と復元された建築物があって、興味は湧かなかった。ここからは妻女山を望む事ができる。近くには真田史料館があってそちらも寄ってみた。

 

高坂弾正墓 1640

松代から山沿いに向かった寺に墓があると聞いて、探してみたが、寺そのものが発見できなかった。まだ川中島に行っていないので日が暮れてきて焦って断念した。

 

典厩寺 1700

千曲川沿いにある。ちょっとした観光地なのか、周囲に案内板があって迷う事はない。本でよく見る武田信繁の墓があった。その奥に甲府の躑躅ヶ館の石垣に使われていたという石が置いてあった。その真偽のほどは分からない。

 

八幡原 1720

典厩寺からすぐの川中島主戦場。でかい公園の一部に史跡がある。有名な一騎討ちの像や石碑、首塚などがある。しかしもはや開発されており、周囲に当時の面影は全く見られない。すっかり真っ暗になってしまったので本日は終了とした。

 

2003926日(金)

善光寺 0710

謙信が陣を布いたという横山城址に車を停めて参拝した。早朝から結構な人が参っていた。さすがの名刹である。

 

村上義清館址・満泉寺 0830

長野市を離れて大きな目的である葛尾城に向かう。しかし天候が崩れてきて曇り空に。葛尾城は有名な山城だが、見上げると城址のある山の中腹からはすっかり雲に包まれている。山頂は全く確認できない。これは危険と感じて、次の機会にと断念し、山麓の館址や菩提寺に行った。

   村上義清館址地。満泉寺の後方が葛尾城。曇っている。)

耕雲寺 0855

信玄が建立したという古刹。迷う事なく訪問できた。参道が素晴らしいお寺であった。

 

上田城 0920

戦国真田時代の面影はない。すっかり近代化・観光地化していて興味は湧かない。城址はかなり広い。真田石とかいう石垣があって、昌幸の時代から重くて動かせなかったものと案内されていたが、よく見てみると薄っぺらい石で、真偽のほどは疑わしい。

 

上田原合戦地 1025

まず石碑のある神社に訪問する。激戦地址は今でも畑で、当時の雰囲気を感じる事が出来た。板垣の墓所や雨宮刑部の墓などの石楼が多く見られ、相当な戦いであったと推察できる。

   雨宮刑部の墓)

観音寺 1035

上田原合戦の戦没者を弔ったという寺。合戦地の中にあって、この裏には多くの古い墓があった。激戦が偲ばれる。

 

真田屋敷址 1125

真田の里も大きな目的であった。まず資料館に行って、その隣の屋敷址へ。馬場址などの削平地なんかもあったが、ご老人がゲートボールを楽しんでいた。かなり広大な面積の館である。

 

真田本城 1200

真田屋敷址からすぐ。山頂近くまで車道が走っていてありがたい。郭址が段々になっていて、なかなか渋い史跡だ。石垣はなかったが満足な城址である。またここからの真田町の展望も結構なもの。

 

長谷寺 1215

真田幸隆とその夫人の墓がある。境内裏の山の中にある。真田本城から近い。

 

松尾古城 1220

石垣が良く残っているとの事で楽しみにしていた。しかし登山道が発見できない!城のあった山は分かるのだがどうにもならずに断念。次の機会に。

 

信綱寺 1244

真田信綱の墓がある。結構人が訪れるのか、駐車場がかなり広かった。墓石は寺の裏の山を少し登るとある。

   信綱寺)

砥石城 1336

この城も楽しみであった。国道からすでに案内板があるのでスムーズに訪問できると思ったが、いよいよ登山という所で案内が無くなっている。車を停めるスペースもなく路駐した。多分他にちゃんとした登山道があるのだろう。それらしき登山道を行くとしばらくはなだらかな山道であったが、山腹からは今まで体験した事もような急坂が。ロープが一本垂れ下がっていて、これに?まって四つんばいになって登った。何という城だろう。砥石城の本郭址は狭くて少々残念だった。でも展望はいい。汗をかいた甲斐はあった。砥石城は他に「本城」「枡形」からなるものの、体力と相談して次回に回すこととした。

   (砥石城から上田市街を望む。)

米山城 1405

砥石城から谷を隔てた隣の山にある。砥石ほど登山はキツくない。途中に馬場址という標識があったが、馬を走らすようなスペースはない。今とはだいぶん地形が変わったのであろうか?頂上は結構広い。展望も良く、村上の石碑もあった。

 

小諸城 1500

この地方に来たのだから一応寄ってみた。しかしいきなり駐車場で金を払わされ、入城にも金はいる。完全に観光地なのだ。動物園やら遊園地やらが城内にあるとの案内を受けたがどうでもいい。入ってすぐの石垣の案内には、この石垣は復元したもので、戦国当時より大きな石を使いましたと誇らしげに書いてあった。全く不快だ。そんなわけでサーっ回って出た。

 

箕輪城 1722

帰り道であるので訪問した。しかし場所が分かりづらい。かなり迷ってしまう。何とか着いた時には暗くなってきた。当然人っ子ひとりおらず、色々な城に行ったが闇の中の史跡はやはり不気味である。大学時代に深夜の八王子城に肝試しに行った以来の暗い城だ。しかしここの規模は素晴らしい。遺構はとてもよく残っていて、今でも発掘していて礎石などが検出されていた。今度は是非、明るいうちに訪問したいと反省して、今回の旅程は完了した。

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信玄の野望・西上の軌跡をたどる静岡県の日帰り旅行

(以下の時間は、城址に到着した時刻または山城の場合は登山道入口に到着した時刻)

20031025日(土)

蒲原城 1000

単車で東京より愛車CBR900RRで出発。東名富士ICで降りて海岸沿いを走る。蒲原の街はさほど大きくなく、城址の案内看板も出ていて、すんなり辿り着く事ができた。民家の隣から舗装されていない砂利道を少々登って、ちょっとしたスペースにバイクを停めた。そこから城まではすぐ。登山は全くキツくない。石垣のような遺構も残っている。本丸は一番奥にあってなかなかの面積があった。すぐ隣に郭址があって、そこには物見櫓が建てられている。またここで出土した物品の写真も掲示されていた。規模は小さいが満足した。かつてはここも要害の地であったのだろうか?今は何のことはない場所である。

 

薩た峠合戦地 1045

蒲原からは近く、迫り出した東名・由比PAの海岸沿いの険しい山が合戦地という。周囲には史跡の案内はなく、それらしい峠道は一応舗装されていたが、結構道は細くて、傾斜は急だった。展望台があってハイカーの方が何人かいて、それ以外にもこの峠からの景色を見に来ている人もいた。砦址はどこなのか分からなかった。東名を走っていて注意深く走っていれば「薩たトンネル」というのを通過するが、これがこの峠である。

 

清見寺 1055

薩た峠から近い。さすが名刹といえる堂々としたお寺。墓所には武田氏の水軍武将の墓も見られた。

   (向井兵庫頭政重の墓)

駿府城 1137

静岡は結構距離がある。意外に遠くて参ってしまう。この史跡は、都市の中の市民公園といった様相。雄大な石垣と水堀が周囲を巡っているが、もはやそれは近代のものであろう。今川時代や家康壮年期の面影は全く見られず、興味は湧かない。城内は大変広い。ここかしこで市民が戯れ、学生らは部活活動に勤しんでいた。まあ歴史的に有名な城なので訪問したという実績残して後にした。

 

花沢城 1210

歴史的にもいまひとつだが、今では全く何も残っていない。畑の続く小さい山々の一角にポツンと碑が立っている。これこそ自己満足の世界だ。

 

田中城 1245

家康が命を失うきっかけとなったというこの城も、今ではよく分からない。「田中城址」の碑があってので周囲を歩いたが、下水道と化した堀?のようなものがあっただけで全然判然としない。近くの小学校が本丸址との情報もあったが、いずれにせよ期待できまい。次に行く事とした。

 

高天神城 1330

今日の目玉である。この城の近辺は茶畑などが広がって開発はそれほどされていない。いい予感がする。ところどころに案内板も設置されていて迷うことなく辿り着いた。搦手の駐車場にバイクを停めて登城。それなりの坂を登るが、山というわけではないので楽である。しかし周囲は断崖で、さすがに難攻不落といえる堅城だ。登りきって城内に入ると二手に分かれている。本丸方面と二の丸方面で雄大な城であったとすぐに感じさせてくれる。

その真ん中に古井戸がある。今でも当時のままの姿で残ってくれている。二の丸や本丸、石牢などの見るべきところは多い。満足できる史跡であった。

 

閑 話 休 題

この古井戸を覗き込んでいる時に、本丸の方向から、何かを呼ぶような男性の声が聞こえてきた。何と言っているかは聞き取れない。でも誰かを呼んでいるのだ。しかし、辺りを見回しても誰もいない。その後も城址には自分しかいなかった。あの声の正体は一体なんだったのか?こういう不思議な経験は史跡めぐりで何度かある。それはまた別の史跡にて。

 

掛川城 1435

はなから諦めていた。今川時代、猛将・朝比奈泰朝の遺構があるはずもあるまい。案の定、復元?天守閣に観光客は群がり、憩いの場と化していた。足早に退散する事とした。

 

浜松城 1622

掛川からは結構距離がある。すでに陽が落ちつつあった。こんな有名な城なのに、案内掲示板がうまくみつけられずに迷ってしまう。なんとか到着した時には天守閣の閉館間近。足早に回覧した。いや、あまり観るものもなかったかも知れない。これは大抵の天守資料館で同じだが。次があるのでそそくさと退城した。

 

犀ヶ崖 1710

すっかり暗くなってきた。でも史料にみえる崖は今でもはっきり確認できる。まあ本当にこの崖で俗説にいわれるような事実があったかは別であるが・・・。もう閉館間際の資料館に入ったが、親切に応対してくださった。しかしすっかり辺りは暗くなってしまった。

 

三方ヶ原合戦地 1730

犀ヶ崖と三方ヶ原合戦地の区別はいまひとつはっきりしない。どこが合戦地かは今ではどうでもいいかのごとく家々が立ち並ぶ。もはや一面の住宅街で、渋滞の市道を走らされることになる。暗くなってしまっては、どこに合戦址の石碑があって、両軍の謀略の始点であった「祝田の坂」はあちらであろうか、などと詮索する状況ではない。果てしない車の列と住居の町並みに、暗がりの静岡浜松を東名の入口を目指して逃げるように走り去るしかなかった。

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山陰・尼子氏と毛利氏の史跡を巡る12日の旅

(以下の時間は、城址に到着した時刻または山城の場合は登山道入口に到着した時刻)

2004213日(金)

羽衣石城 1058

米子空港からレンタカーで出発。日本海沿いの国道をひた走る。1時間半程度。車のナビは古い為こまかい設定ができない。一応「羽衣石」と表示のある場所に設定してその通りに行ったが、とんでもない山奥へ。民家がまばらに点在した山村であり、この奥に城址があるのかと進んだが、何の標識もなくケモノ道に。そこに神社があり、ちょっとした登山道を発見した為少し登ったが、全くそれらしい気配はなく、ここではないと判断。とりあえず民家に戻って道を尋ねようと思ったが全然人が見当たらない。一旦国道の方へ引き返したところ畑仕事とする初老の男性を発見。城址の場所を伺うと、この里から山をひとつ越えた所にあるとの事。早速その案内に基づいて進むとようやく「羽衣石城址」の看板が。分かりにくい!!民家まばらな山道を車で登っていくと、本に見た城山が見えてきた。しかし当時の山陰地方は豪雪であった為、ノーマルタイヤで強引に山道を登る。山腹の駐車場まで達したがすごい雪。とりあえず車を止めて歩いて登る事に。登山道は二本あったが山頂までの到達時間の短く案内されていた方に進む。道はすごく険しい。ぜいぜいの息で登っていくとそれらしい石垣を発見。写真を撮ろうとも思ったが体力が消耗してポケットからカメラを出す、そんな余裕はなし。本丸まで行ってから色々撮ろうと納得させた。15分くらいの苛酷な運動を経て本丸址に到着。しかし雪がすごくて、かろうじて削平地はわかるものの遺構は見えず。仕方無しに不似合いな模擬天守閣を撮るしかなかった。下山は往路と別の道を選んだ。ところがこちらは更に雪がひどくて、もはやどこが道なのかも分からず、折れた杉の木々を乗り越えて行く。当然ここも傾斜は急で、雪に足が埋めて何度もすっ転んだ。手も足も雪と泥と枝まみれ。ほうほうの体でなんとか駐車場まで辿り着いた。

   (雪の登山道。右手に天然の石垣が見える。)

亀井茲矩墓 1222

鹿野町の田園の中の丘の上にある。ナビにはもちろん載ってなく地図を見て何とか探し出した。しかし丘といってもそれなりの山登りがあった。羽衣石城でいきなり体力を大幅に消失させられた為もう勘弁してほしかった。墓はでかかったが次があるのですぐ降りる。

 

鹿野城 1238

ここは探しやすい。鹿野町の中心地といってもよいのだから。車を駐車場に停めて登城する。しかしまたまた山登り。それほどキツくなかったので助かった。石垣や茲矩の隠居場所などもあり小さいながら満足のいくものだった。

 

幸盛寺 1256

鹿野城からすぐの住宅街にある。いうまでもなく山中鹿介幸盛を弔った場所であり茲矩が建立した寺だ。鹿野町の有力な観光場所のひとつで案内看板も豊富で迷う事はない。こじんまりした寺で境内に山中鹿介の墓があった。

   幸盛寺)

防己尾城 1318

鹿野町からは車で20分くらいかかる。湖畔の城であまり有名ではないが、近辺には案内標識が出ていてスムーズに到着できた。公園みたいになっていて駐車場がある。本丸までは当然すこしの坂道があるもののさほどキツくはない。本丸はそれほど広くないし、湖からの高低差もそれほどない。周囲も堅固とは決していえない地形であり、城址といわれなければとても史跡とは思えない。こんな所で本当に羽柴軍の攻撃に何度も耐えられたのであろうか?

 

景福寺 1401

防己尾城から鳥取市街まではさほど距離はない。景福寺はその住宅街にあるが後藤基次の墓があるとの話でついでに訪問する事に。大阪の陣で討ち死にした彼の墓がなぜこんな所に?と不可思議に思いつつ鳥取市街を走るっていると、目前にすんごく険しそうな山が目立って見える。「まさかあれが鳥取城?」とぞっとしながら墓に参った。おおきな墓所の奥の方にあって、一族とともに眠っていた。名刹のようで、ほかにも歴史的人物の墓があるようだ。

   (後藤又兵衛基次一族の墓)

玄忠寺 1410

景福寺からすぐ近くに剣豪・荒木又右衛門が眠る玄忠寺があり寄ってみた。荒木又右衛門は仇討ちで有名だが、それは講談の虚実で大した腕はなかったなんて事もいわれるが、とりあえず行ってみる。資料館なんてものも境内にあったが閉まっていた。墓は結構豪華である。

   荒木又右衛門の墓)

鳥取城 1425

さていよいよ今日のメインである鳥取城。本には山城なんていう雰囲気は感じられなかったが、ナビによってさきほど見えたキツイ山が城址と判明する。車で登山できないかと近くの山道にも入ったりしたが全く城址とは別の所に行ってしまった。仕方なく山麓から登る事に。博物館の駐車場に停めて歩くと早速どの本にも象徴的に載っている黒門があった。しかしこんな所は始まったばかり。すぐにいかにも近代的な石垣が雄大に広がるが、確かに城址であるものの戦国の匂いは全くない。今でもブルトーザーで掘り返して石垣を組む工事をしている。なんと無粋な事かと閉口した。戦国を味わうならば頂上の本丸まで行かねばならない。しかしこれがキツかった!!今までそれなりに山城に登ったがここはトップクラスである。羽衣石城で一撃を喰らっていたので、この急坂には本当にマイッタ。しかも御丁寧に「○合目」との標識があるので先がどれくらいか分かるのだが、それが絶望感を湧かしてくれる。登れど登れど半分もいかないのだ。何十分登ったのかようやく山頂に。しかし汗びっしょりでのどがカラカラ。挙句の果てには気持ち悪くなってきた。でもここの崩れた石垣を見て報われる。展望も素晴らしく、いや堅固な城である!山を下りる時にはスーツ姿で登っていく男性とすれ違ったりした。歴史好きの方なのだろうが、その後どうなったか心配だ。

   (本丸より鳥取市街を望む。)

丸山城 1601

一応鳥取に来たので砂丘を見に行ったが時間がないので約2分で済ませた。丸山城は鳥取城から砂丘に向かう途中にある。しかしどこが城址なのか、どこから登るのか全く分からない。仕方なく近くのコンビニに入って、この辺に城の址があるか伺ったが、そんなもの聞いた事ないという返答だった。もはや体力の限界。昼飯も摂ってななく空腹の限界であったのでそれ以上探すのはあきらめてオニギリを買って、ホテルのある米子に戻る事とした。鳥取から米子までは車で2時間程度だったが、もう死にそうだった。

 

2004214日(土)

米子城 0732

ホテルからすぐだったのでまず訪問した。あんまり大した城じゃないのではと侮っていたがとてもいい城だった。石垣がとてもよく残っていて、観光する人もあまりいない様子で展望も良かった。

 

布部合戦地 0830

山深い田舎道をひた走り到着。山間の盆地といった感じ。合戦の場になったのも分かるような場所。簡単な歴史の案内看板があるものの不親切といえるレベル。もうちょっと詳しい案内板を作ってくれれば助かるのだが。

 

月山富田城 0932

今回の旅行の最大の目的である広瀬町に来た。布部からは車で20分くらいと近い。町に至ると本で見たあの月山が見えてきた。素晴らしい山だ。行きたい場所はいくらでもあるのだが、とりあえず資料館で情報収集する。本を一冊買っていよいよ月山富田城へ。大手門址までは車で行けるのでありがたい。すぐに山中御殿という広い場所に。この辺りの石垣は積み直された様にきれいなものだ。整備は良くなされている。七曲りと呼ばれる本丸への登山道を行く。この道は当時の武士らの登山道でもあったのだから興味深い。やや急ではあるが歴史にみえる堅固さとは別にそれほどキツくはない。ほどなく三の丸の石垣が見えて、二の丸、本丸と続く。ここからの展望は雄大で、すべてが報われる。ただ三の丸、二の丸の石垣はきれいに積まれすぎているような気もした。さらに本丸に石垣がなかったのはなぜだろうかと?でも大満足で下山した。

   (富田城本丸、二の丸址。)

続いて月山の史跡である太鼓壇(鹿介の石像あり)や堀尾吉晴の墓所を回って、城安寺、尼子奥都城、毛利元秋の墓所を回って、興味深い新宮党の館址に。結構広い場所で墓と思われる石楼もあった。ここで起きた悲劇を想いつつ山中鹿介屋敷址の地へ。新宮党の館址からは近くて、この谷には訪問すべき史跡が点在している。当時はどんな町並みであったのか?屋敷址は民家の玄関口からちょっと坂を登って墓所の奥にある。それほど広くはない。更に尼子晴久の墓所を目指して塩谷口に。次に尼子経久の墓がある洞光寺に行った。ここからは月山が雄大に広がって見える。最後に鹿介と一騎討ちしたという品川大膳の墓に。もうこの辺りは住宅地で一騎討ちの雰囲気はなかった。大満足で松江方面へ車を走らす事とした。

   (洞光寺)

洗合城 1150

松江近辺でいきなり雨が降ってきた。あたりも真っ暗になってしまう。洗合城は毛利元就が築いた城だが、今はお寺になっている。一応城址の案内看板もあったが、どこが遺構かはよく分からなかった。寺の境内に何らかのものを見出そうとしたが、今日は葬式をやっているらしく、止むを得ず退散した。

 

松江城 1214

洗合城からはすぐ。観光地だが天守が残っているのは素晴らしい。傘がなかったので天守内で購入した。結構観光客はいたものの満足である。天守の最上段から次の白鹿山方面を見ると雲に包まれている。不安だ、、、。

 

白鹿城 1255

白鹿城はなかなか分かりづらい。一回迷ってとんでもない山奥に行ってしまった。白鹿城辺りは相当な山深い場所かと思っていたが、近隣まで住宅地が迫っている。合戦地といわれる常福寺というお寺の脇に城址の案内板あった。そこから城址までは車で登山できるので楽。駐車スペースに停めていよいよ車を降りた途端にさらに空は暗くなり落雷が。すごいカミナリとともに雹が降ってきた。かなりデカイ氷の塊で何かの呪いかと心配になった。真っ暗な山道を登っていくのは本当に不気味で怖い。井戸や本丸址があったが暗くてよく分からない。すごすごと退散した。

 

真山城 1336

白鹿城からは車ですぐ。白鹿城ではあんなに天気が悪かったのにこの山に着いたら晴れてきた。何なのだろうか?でも悪天候の影響は避けられなかった。ここの登山道はほとんど整備されていない様で、非常な悪路。雨水が洪水の様に流れ下り、とても登る事などできない状況だった。仕方なく断念する。

   (登山道)

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甲斐国のマイナーな城を巡る日帰りの旅

(以下の時間は、城址に到着した時刻または山城の場合は登山道入口に到着した時刻)

2004312日(金)

先達城 0955

東京から中央道で小淵沢ICまで。この辺たりの道は複雑でなかったので先達までは迷わず辿り着けた。しかし城址は素通りしてしまう。そう、予想通り何の遺構もないのだ。ただ城のあった場所にはお寺があるし、教育委員会の案内看板があるので、一応この辺りであろうという想像はできた。

 

蔦木城 1012

県内の詳細地図を見ていたら、先達城から近くの井戸尻遺跡という古墳?のそばに蔦木城凸の表示があったので行ってみる。しかし何の標識もそれらしい場所もない。お寺があったが城址の場所は全く分からなかった。

 

三分一湧水 1044

ついでに寄ってみる。周辺地図の掲示板にはJR甲斐小泉駅の駅前辺りが古戦場であると書いてあった。しかし聞いた事なかったので戦国時代のものでないのか?行くのは止めた。

 

谷戸城 1106

案内板が出ているので迷う事はなかった。小高い丘が城址。公園として整備しているようで工事していた。遺構の発掘もしているようだ。

 

若神子城 1145

険しい断崖にあって、つづら折りのヘアピンカーブの道にある。しかし城址の案内板がなくて少々迷った。今では市民公園みたいになっていてすっかり整備されている。地面はレンガで埋め尽くされ、不要な復元狼煙台もあった。そんな物に興味はないので本丸址を探すが、ちょっとした木々の場所に碑が立っているだけでよく分からない。堀址が保存されているがはっきりしない。

 

獅子吼城 1235

この地区の山道は再開発されているようで、山麓から案内板はあるのだが、その通りに行っても辿り着かない。すっかり迷ってしまう。「根小屋神社の大ケヤキ」の前を何度も通過して、工事中の道を強引に進むとようやく城址の看板を発見。しかし駐車場はなし。道を塞ぐように停めて登山する。山登りはキツくない。すぐに壮大な石垣というか石積みが目の前に広がる。相当なものである。あまり訪問する人がいなさそうなところも良い。満足のいく戦国城であった。

 

満福寺 1306

穴山氏の菩提寺という事で寄った。近くに穴山温泉もある。

   満福寺

能見城 1322

新府城の外郭の一部とか支城とかいわれるが情報が少なくてよく分からない城。山肌にでかく「能見城址」と表示があったので迷わなかった。車で城址までいけるものの、舗装されていない悪路。本丸址と思われる場所に「能見城址」の碑が立っているが、その隣には水道ポンプのようなものがあり台無し。遺構も全然わからない。ここは新府城のそばであるが、今回は新府城には訪れないで、城の目の前を素通りした。

 

柄沢城 1445

戦国時代の城ではないが、ついでに寄ってみた。いや、ついでのつもりだったが、ここが一番時間がかかったかも知れない。とにかく凄い山道で、看板など何もない。一本道を疑うことなく進むと、とんでもない高地に行ってしまう。探せど探せど城址らしきものは見られない。しまいには野生の猿の群れが目の前に。50匹くらいはいたであろう。こんな場所に食い物はあるのだろうか?おまけに道も悪く、パンクするんじゃないかと心配だった。

 

椿城 1532

雨が降ってきた。↑前が散々だったので、この城に期待したが、裏切られた。お寺と大井氏の墓というものはあるが、城址の遺構は全くない。本丸址といわれる場所もあるが、こんな地形では城にはなるまい。うな垂れて次に行こうと走ったが、細い道にハマッてしまう。誰も通らない道のようで木が折れて迫り出している。私のスペースギアの側面は傷だらけになってしまった。

   (上野椿城址)

勝山城 1610

散々な城址が続くがここも厳しかった。案内など全くない。らしき場所には「勝山城」と書いた住所表示がわずかにあるだけ。簡単な解説板くらい作ってくれればいいのに。城址の丘も畑になっている。男性が作業をしていて、入ったら怒られそうな雰囲気だった。遺構らしいものは確認できず。

 

小山城 1633

今日は獅子吼城くらいしかまともな城がなかったと肩を落としながら、全く期待せずにこの城に行ったが、なかなか良かった。道は入り組んでいて分かりにくいが、所々に案内板があって助かった。遺構は良く残っている。決して要害の地とは思えないが、城の体を見事に成している。でもブランコだとか、トタン小屋なんかが貴重な遺構の上にあって雰囲気を壊している。少し残念だ。最後にいい城を見られたので一応満足して一宮御坂ICから東京に帰った。

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軽装で雪山登山~林城編~

2004年3月23日(火)

城廻り軍団の先鋒隊であるC氏及びO氏と長野の城を訪問する。

両氏の先祖は信濃の武士であったとのことで、信濃守護・小笠原家の本拠である林城(大城へ行く。

しかし春先にも関わらず昨日の長野県は大雪。中央道も通行止めになったくらいである。

林城は地図にも載っているし、山麓に看板と駐車場もあるので、さほど迷うことなく登山道に辿り着く。

山腹までは非常に傾斜が急であったものの雪も無くて、難なく進んでいく。しかしそれから上は一面の雪景色。東京を出発した時はその様な状況は想定していないわけで、おのおのシューズや革靴などの軽装。傾斜はそれほどでもないが足元が滑って滑って、登山道の脇に生えている草木に摑まりながらの攻城。

(延々と続く登山道)

登山道の周辺には堀切や多数の郭がぼんやりと確認できるが雪で明瞭ではない。

(連なる郭)

延々登ること約40分でようやく山頂の本郭址へ。一部石積みが露出している場所もあったが、ほとんど雪に埋もれている。

(本郭)

充分な調査ができないのは止むを得ない状況。

仕方なしに下山するが、本郭から二の郭に下りる急坂でC氏が大転倒。「ひとり走り高飛び背面飛び」を体現したようで、腕から背中にかけてが泥だらけ。

(土塁を越える両氏)

ほどなくO氏も大転倒。一瞬で土塁の向こうにその姿が消えていった。

(下山するO氏

ふたりを嘲け笑いながら山麓まで戻っていくと、雪が無い場所なのになぜか作者自身も転倒。雪のクッションがなく岩場に着地したため腕を大きく擦り剥いてしまう。

三人とも泥だらけになって、帰路C氏の車に乗るにはかなりの遠慮が必要であった。

まもなく疲れて爆睡する(同乗者)

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2004年ゴールデンウィーク単身3泊4日、怒濤の長野の城60連発の旅

(以下の時間は、城址に到着した時刻または山城の場合は登山道入口に到着した時刻)

2004年5月2日(日)

深夜3時起床。東京都大田区から愛車スペースギアにて中央道で長野方面へ向かう。GWの真っ最中で、今日は下りの渋滞のピークとのことであるものの、さすがに早朝のため空いている。それでも家族連れの一般車は結構走っていた。おにぎりを食べながらの運転で長坂ICには午前5時50分頃に到着。ここから佐久方面に国道141号をひた走るが霧がひどくてこの先の旅程の厳しさを暗示しているようであった。

1.        海の口城06:41

海の口町の中心地に着いたが城址の場所が分からずに1回通り過ぎてしまった。引き返してよく見ると案内板が国道141号沿いに建っていて、そこから川を渡って左に曲がり、ほどなく城山の麓へ到着。砂利道になってしまったが行けるところまで車で登ってみる。しばらくすると車3台ほど停められる平地があってそこからはケモノ道。徒歩にて登山が始まる。傾斜はさほどキツくないが、早朝の山登りはさすがにこたえる。尾根に出るが案内がないので左右どちらに行くべきなのか分からない。とりあえず右に登って行くと削平地がいくつか確認でき、本郭に至った。城址の規模は大きくなく何千人という兵が籠城できたのかは疑問。北側は登坂不能の急峻な地形だが、大手の経路はそれほど要害の地にも感じられなかった。しかしここに城があったのは確実である。

 

2.        海尻城07:25

海の口からはすぐ近く。国道141号の交差点に「海尻城址」とあるので早速左に曲がって山を登っていく。しかし行けども行けども城址はないので引き返すと、先の交差点のすぐ脇に医王寺があって、そこの境内から登山道が通じている。城山は小さく、城址も小型である。本郭、ニの郭、三の郭が確認できたが、いずれも籠城できるほどの面積はない。往時にはこの城を巡って数回の合戦があったというが、その面影を今回は感じ取れなかった。

 

3.        龍岡城08:03

北海道の五稜郭と同じ星形の稜堡式城郭。思っていたよりも小さかった。戦国時代の城ではないので興味も湧かず、そのすぐ対面にそびえた山の頂上にある田口城を目指すことに。

 

4.        田口城08:14 

徒歩の登山道が龍岡城側からあるらしいが、一見したところ結構ツラい山登りになりそうなので、山の裏手に回って、頂上まで通じる車道を探すことに。城址案内は全く見当たらず、適当に砂利道を進んで行く。細い道で車が道に飛び出てる木の枝で傷つきながらも山頂へ。石積みが壮大に残存しており、郭の保存状況も良好。かなり規模の大きな城郭だったと思われる。しかし説明看板などは全くなかった。ちょっとしたものでも立ててくれればありがたいのだが。

 

5.        平賀城08:44 

この辺りには城が密集している。平賀城も地図で見れば場所は一目瞭然だが、実際に現地に行くとどの道を登って行くのかが分かりづらい。予め調べた情報に基づいて国道254号沿いの大林寺(平賀上宿辺り)の隣にある細い道からちょっとした住宅街に入ったが、ここでも迷ってしまう。試行錯誤して城山の麓にある不動尊に到着。そこの脇に車を停めて、案内は全くないが山に向かって登っていく。登山はさほど急ではないが楽でもない。しばらく行くと明瞭に曲輪らしき遺構が多数見て取れ、石積みもあった。本郭などの頂上近辺もなかなか広大で、平賀氏はかなりの権力を持っていたと実感した。満足の城址であった。

 

6.        内山城09:14 

平賀城からは目と鼻の先。内山の集落に入ると一段高い山が見えて、その山頂が平らになっていることから城山であるとすぐに分かる。麓にある園城寺の駐車場に停めさせていただいて、そこにある城址案内板に従って登山を開始する。ここの山登りはあまりキツくないのではとタカをくくっていたが大間違いで、険しく長い参道をひたすら進む。案の定頂上の平らな場所が城址で、かなりの体力を消耗して辿り着いたものの、山頂は強烈な風が吹き荒れており、北側を覗き見れば底が分からない断崖絶壁。規模は大きくないが堅固な城であるを実感した。

 

7.        伴野城10:05

住宅街の中にあって、場所はなかなか分かりづらかった。公園として整備されており、トイレも完備している。水堀や土塁が城址を囲んでいるが、戦国期そのままの遺構はないようであった。

 

8.        前山城10:41 

前山寺という古刹があるので城の場所はすぐ分かると予想していたが全く見付からない。近くの住民方にも伺ったが、それでも相当に迷ってしまう。伴野方面から前山寺に向かって進むと、狭い一車線の道路になるが、お寺に通じる手前の理髪店がある交差点を右に曲がると登山道の看板を見つけることができる。近くの運動公園に車を停めて登山をしたが10分ほどで山頂へ至る。規模は大きくなく堅固な城には思えなかったが一応城郭の体を成している。ちょっと下るとリンゴ畑があって、広く削平されているが、これは遺構ではないだろう。

 

9.        岩尾城11:18 

住宅街というか、集落の中にあって非常に分かりづらい場所にある。近くまで行けば途中に案内板があるのでなんとか辿り着いたが、付近の道はかなり細い。城址には神社が建っていて遺構はハッキリ残存されていない。でも詳細な説明看板があるのでありがたい。しかし道が狭いので車スペースギアがハマってしまう。バックしようとしても舗装が悪くてスピンしてしまい、下り坂でバンパーをガードレールにぶつけそうになる。20分ほど奮闘して何とか脱出できたが、余計なことでかなり疲労した。

 

10.     岩村田城11:48

上ノ城の住宅地にあって城址の石碑はあったが、明確な遺構は残っていないようだった。国道にも案内看板があるのですんなりと到着できた。

 

11.     志賀城12:00 (主郭)

今日のメインの城。凄惨な攻城劇があったので、それなりの登山もある堅城だと覚悟していた。県道44号を走っていると雲興寺の案内板があったのでそこの駐車場をお借りする。お寺の裏手の墓所脇に山へ登る登山道があるので迷うことはなかった。しかしそこからはケモノ道といった様相で荒れており、予想通り結構にキツい山登りが待っていた。断崖を巻くように、とにかく登っていくとハッキリした遺構がいくつも確認できる。頂上はおそらく本郭だと思われるが、草木が生え放題で荒れ果てている。古い石牢がぽつんとあるが、城址の碑や案内板は全く見当たらない。しかし堀や石積みなどが確認できてここが城址であることは間違いないと判断。郭から志賀の町が見下ろせれば、当時の感慨にも浸れたのだが、木が生い茂って展望はきかなかった。内山城と同じような山だと感じられた。もう少し説明板でもあればよいのだが。

 

12.     小田井合戦地12:55 

志賀城といえば小田井合戦だが、どこで戦いがあったのかはよく分からなかった。合戦地に石碑などが立てられているのかも調べがつかず、とりあえず小田井地区の河原に行って、勝手にここでいくさが行われたものだと判断した。

 

13.     上田原合戦地13:45

佐久ICから上信越道に乗って上田菅平ICで降りる。合戦の付近は今でも要衝の地で、二つの国道が交差しており、岩鼻が目印。激戦地址は今でも開発されておらず、畑や原っぱになっていて当時の面影を感じ取れる。周囲は行楽の車が渋滞していたが、全く平和な場所で、昔に武田信玄がここで惨敗したことなど知る人も少ないだろう。国道143号からでも板垣信方の墓所などは見て取れる。以前に散策したことがあるので今回は素通りした。

 

14.     塩田城14:07 

ここは訪問する予定はなかったが予想以上に城廻りが早く進んだので急遽訪れることに。上田から結構奥まったところにあって、場所もなかなか分かりにくいが、別所温泉の手前まで行って、前山寺という古刹の隣にある。このお寺は有名な古刹らしく、参拝している観光客が多数いた。お寺の周辺をウロウロすれば城址の案内があるので迷わないだろう。城址の石碑のあるところからちょっと登れば遺構の発掘址の案内看板があって、ここには建築物があったという遺構が検出したらしい。しかし今では椎茸栽培の切れ木が多数置かれていて、とても入って調査できる状態ではなかった。さらに登れば城址だが、鬱蒼としていて暗く、昼間でも不気味な空間だった。

 

15.     岡城14:47

塩田城から少し走れば城址。国道143号沿いの岡地区に行けば城址の看板があるので迷わなかった。城の周りには武田氏(馬場信房縄張り説)のものと思われる堀が確認できる。しかし本丸は団地になっていてその遺構ははっきりしない。しかも見慣れない人間がデジカメ片手にウロウロしているものだから住民の人に不審な目で見られてしまった。

 

16.     冠者岳城15:10 

岡城からさらに国道143号を山奥に進んでいくと、頂上が平らになった異様な形の巨峰が目の前に広がる。小檀嶺岳というすごく高い山で、こんな山頂に城があったとは全く信じられない。登山専門の人が登る山だと思われ、単なる城好きが訪問する域を越えた場所だ。遺構がどれほど残っているのか興味があるが、その調査は他の先哲に任せたい。

 

17.     狐落城15:42

さらに時間的余裕があったので坂城方面まで足をのばす。上田原合戦地から岩鼻脇の県道77号を走って、葛尾城の対岸を走って網掛地区で道沿いに小さな城址の案内板が発見できた。城山の麓には神社があって城址登山道入り口の看板もあるのでそこを進めばよい。しかし一見したところ険しい山で、裏手に車道が走っていないか挑戦してみるものの、一番下から徒歩で登らねばならないようだ。案の定非常に険しい山道で、普通の靴では登れないような急坂まである。村上氏はすごい山城ばかりを建てたものだ。

 

18.     荒砥城16:55

ついでだから訪問した。戸倉上山田温泉街から万葉橋を直進して麻績方面に急坂を登っていけば城址公園の看板があるので行きやすい。駐車場に停めて入口の受付に行くと17時で門を閉めるので、それまでに終わらせて欲しいとのこと。そそくさと山頂を目指した、意外にもしっかりとした登山が待っていた。満身創痍の体には最後にかなりこたえた。整備は行き届いていて、再現された石垣も武田氏の時代のものを模してある。ただ戦国期の遺構がどれだけ残っているのかはよく分からなかった。本丸址には建物があって城の紹介ビデオの閲覧ができるようだが時間が無いので見ることはできなかった。温泉客であろうか、結構な数の家族連れなどの観光客がいるのには驚いた。ここの頂上から明日訪問する葛尾城を間近に望んで下山した。

 

19.     上田城17:35

今日の宿は上田にとったので、上田城の脇を通る。ここは以前に訪れたことがあり、夜の城址も見てみたかったが、過酷な山登りの連続でもはや体力は残ってなく、駅前のデパートで酒などを購入してホテルに向かった。

 

5月3日(月)

20.     和合城06:20  

早朝5時30分に起床して早速二日目の旅を開始する。この城は葛尾城の少し上田よりにあって、虚空蔵山の南側を押さえる城といい、山の反対側の砥石城と対をなすものともいう。国道18号の「鼠宿」という交差点を曲がって、スーパーの裏手に登山道があるものの、かなりキツい山に見え、今日はハードな予定が待っているので登山は断念した。

 

21.     葛尾城06:50 (林道。こんな道を30分走る。)

この城は個人的に因縁の場所で、以前に訪れた際は天候が悪く、山腹から上が霧に閉ざされていて登山をあきらめたことがある。今回のメインの城のひとつであったが、調査するほど過酷な山登りが待ち受けているとの情報ばかりで困惑していたが、坂城町のホームページに和平地区から林道が山頂近くまで開通したとのことで、早速それを利用する。地図でみると和平キャンプ場付近から林道があるようだが、現地にその案内看板は発見できず、それらしい道を進んで行ったが行き止まりに。住民の方に道を尋ねると和平公園の少し手前に「←葛尾城」という小さな表示板が立っているとのことで、何とかそれを発見して進んで行く。途中までは舗装されていたがすぐに砂利道に。しかもガードレールもなく断崖絶壁の危険な道をしばらく登らねばならない。ようやく車4台ほど停車できる場所に出て、城址に辿り着く。本郭からの眺めは素晴らしく、すさまじい場所に城を築いたものだと感嘆した。

 

22.     雨宮城07:54 

妻女山の周辺にはいくつかの城があって、そのひとつ。色々調べたが場所等を含めて情報はあまり収集できなかった。とりあえず周辺をウロウロすると城址の案内板があって、登山道も整備されていた。早速登ることに。それほど急な山ではなく、15分くらいで城址に着く。しかしわずかに「腰曲輪」の案内板が立っているだけでどこが城址なのかの説明はなかった。それでも郭は残っており、遺構もいくつか確認できる。最近の観光ブームからか、舗装はされていないが軽自動車なら何とか走れるくらいの幅の登山道が走っており、遺構の一部が破壊されたのではないかと少々心配になった。

 

23.     鷺尾城08:23 

ここには石積みの遺構が残っていると『日本城郭体系』にあったので期待していたが、付近を回ってもそれらしい案内がなく、山の麓に新しく作られた公園があって、そこの脇には登山道が確認できたが、これが城址に通じているかは不安だったので訪問は断念した。

 

24.     鞍骨城08:30 (三の郭の土塁と石積み址)

この辺りは「あんずの里」として観光地化されているようだが、その一番奥の倉科地区に進んで、一際高くそびえる山が城址である。山麓に「鞍骨城約60分」の案内板があって、そこから少し車で登れる林道がある。ちょっとすると二手に道が分かれていて「妻女山ハイキングコース」というケモノ道に進む。最初反対の山道に行ってしまったが全然違う方向へ向かってしまい、道もどんどん悪くなる。正しい道の方も登山道に踏み跡はあるものの、細くて険しく非常に長いものである。尾根まで出ると再び分岐していて今度は三方向に分かれている。ここでも間違った方に進んでしまい時間のロスがあった。右に進むのが城址への道である。しかししばらくは「鞍骨城」の案内はなく不安。かなり歩くとようやく堀切が確認できて城址に辿り着いたと安堵する状況だった。深い堀切に感動しているのも束の間、全く道がなくなってしまう。しかも傾斜がとてもキツくなって、木々をかき分けて崖を這い上がることとなった。城址は壮大で遺構の残存状況も非常に良い。こんな山奥にあって人の手の届かない場所であるからだろう。

 

25.     屋代城10:21

朝食も摂らないまま険しい山を登ったので、鞍骨城を下山した時は疲労困憊でフラフラしてしまった。しかし周辺にコンビニがなく、そうこうしているうちに屋代城のある一重山に着いてしまった。燦々とした日差しにクラクラしながら登山する。今回の旅行で一番辛かった時間帯であった。空腹で活動したからであろうか、胃痛も発生し、これは旅行中は一貫したのはもちろん、その後も悩まされた辛苦であった。

 

26.     小坂城11:04 (登山道入口)

途中でコンビニに駆け込んで食事を摂る。これで体力回復。再び登山する元気が出てきた。『信州の城と古戦場』の末尾の城一覧に出ていた小坂城を目指す。稲荷山の方向へ進んで、長野自動車道路のトンネルが通っている山中付近に登山道があった。比較的すんなり発見できた。早速車を停めて登山を開始。しかし道は悪く、沢でぬかるんでいて登れる状況ではなかった。この城の情報はほとんどなく、由緒も分からないので断念した。ちなみに隣の山には稲荷山城という上杉景勝が築城したという山城があるらしい。

 

27.     横田城11:48 

川中島方面へ進んで、篠ノ井会という住宅街に城址がある。辺りには神社などがあり歴史深いことを伺わせる町並み。しかし細い路地が入り組んでいてどこが城址かは全く分からない。散々ウロウロすると偶然にも城址の案内板があって、それっぽい丘に碑があった。場所は非常に分かりにくくて、もう一度行けといわれても無理だろう。

 

28.     天城城12:09

妻女山の奥に林道があって、そこから45分ほど登山すると城址との情報があったものの、肝心の登山道が発見できない。松代側の林道に進むが、それらしい山は確認できたものの登山は断念した。ちなみに情報ではこの城から鞍骨城へ向かう山道があって、さらに40分ほどで辿り着けるらしい。

 

29.     竹山城12:32 

松代城近くの象山の頂上が城址といい、石積みの遺構も確認できるとのことで期待していたが、肝心の登山道がここでも発見できない。それほど険しい山ではなさそうなので、案内板のようなものがあれば良いのだが。山麓にある象山神社という場所で記念撮影するにとどめた。

 

30.     松代城12:35

この辺りの山城群の中心に位置する城。ちょうど翌日が城の改修が終了しての記念の公開日らしい。ということは今日は中に入れないようで、以前にも訪問したので素通りした。さすがにGWで、この周辺には多数の観光客が集まっていた。

 

31.     尼飾城12:40 (石積みのようなもの)

観光客でごった返す松代の城下町を過ぎて、誰も入らないような険しい山を目指す。今回の遠征での最大の過酷な登山が待ち受けている場所だ。相当に覚悟していたが、実際に尼飾山を目前にするとその急峻さにひるんでしまう。しかし真田幸隆の攻めた城、何としても踏破したい。案の定、登れど登れど先は見えない。登りのキツさも城巡りのレベルではない。しかも途中で道がなくなり、踏み跡もないので木々をかき分けて進んで行くことに。非常に不安になっていたが、空堀らしい遺構を発見した時は本当にうれしかった。城址らしき場所も木々で荒れ果てていて、十分な調査ができない状況。幾つかの遺構らしきもので満足させる。しかし搦手と思われる奇妙山の方には石積みで囲まれた戦国期のものと思われる井戸址が良好に残っている。少し下ると石垣のような物もあって、奥に這い上がってみたが足元を見るとヘビがいて驚いた。何とか山麓の車を停めた所まで戻れたが、もう二度と登る気になれない山であった。

 

32.     寺尾城14:22  

尼飾山に続いた尾根にあるので、尼飾城からはすぐ近く。真田幸隆もここの援軍に駆け付けたというが、ここも登山道が不明。止むを得ず断念。

 

33.     金井山城14:25 

寺尾城の支城といい、尾根の先端に位置する。国道403号を走っていると「金井山公園」という案内板があるのでその通り進むと確かに公園のようになっている。傾斜はそれほどキツくないが、尼飾城の後だけに身にこたえる登り。しばらくすると頂上付近の平場に出て、そこに色々な石碑があって、展望台のようにもなっている。遺構ははっきりしないものの、石積みと思われる石群が周囲に確認できた。

 

34.     大峰城15:20 

相当に体力は消耗しているが、まだ時間があるので善光寺周辺に進行する。とりあえず車で行けるこの城を目指す。しかしさすがの連休で善光寺付近は渋滞がひどい。裏山の七曲りの急坂を登って、さらに山奥に進むと城址。ところどころ案内板があって迷うことはない。でも城址の本丸にはなぜか天守閣が建っている。家族連れが天守から騒いでいたが、初めから中に入る気もなく、周辺の森に単身突入して遺構を調査する。周囲の木々の中には郭や堀の址がハッキリ残っていて、かなりの規模の城であったと分かる。本丸の場所にどんな遺構があったのか、今では確認できないのが口惜しい。本丸にそびえ立つ「チョウと自然の博物館」。自然を愛することに異論は呈さないが、歴史の遺構を破壊してまでなぜここに・・・と解せないのは城郭好きのエゴであろうか?

 

35.     葛山城16:00

大峰城の隣の山の頂上が葛山城址。勢いで訪問することとしたが、ここでも迷ってしまう。葛山神社に登山道があるというが、その神社を探すのに一苦労した。行ったり来たりして何とか発見すると確かに裏手に城への登山道がある。そこはまだ山の中腹あたり。険しく長い登山が待ち受けていた。普通なら大したこともないのだろうが、鞍骨山と尼飾山のとんでもない登山を経験した日だけに非常にくたびれた。頂上の本郭を中心に、いくつかの削平地や堀が確認できた。ここからの見晴らしは一品で、旭山が眼下に望める険しい山である。

 

36.     横山城17:31

さすがにもう山登りは体力的に無理なので、善光寺隣にあるこの平山城に行って今日を締める。城山公園というのがあって、近くの公民館に城の説明看板があったものの、遺構は全く確認できなかった。これをもって怒涛の二日目、全日程の半分をようやく終了した。

 

5月4日(火)

37.     旭山城07:21

昨夜のビジネスホテルには温泉があってリフレッシュ。朝7時にチャックアウトして今日も頑張ろうと思ったがあいにくの雨模様。山登りに暗雲がたち込めるがまだ小降りなので早速旭山城へ。事前に調べていたので登山道はすぐに発見できた。山腹まで車で行けるのでありがたい。『信州の城と古戦場』によれば葛山城よりも険しい山道とのことであったが、体力を回復させたおかげかそれほど苦ではなかった。昨日の葛山はキツかったが。遺構は素晴らしく残っていて、石積みも確認できる。確かに険しい山にあって、戦国時はかなりの堅城だったろう。

 

38.     小柴見城07:53

この城は存在すら知らず、『日本城郭大系』にも末尾の一覧で掲載されているに過ぎず、詳しい由緒は分からない。旭山に向かう途中の案内板に書いてあったので急遽訪問してみた。現地にも城址を示す碑などはないが、堀と土塁らしきものが確認できて、規模は小さいものの城の形態にはなっていた。砦くらいの大きさにも感じられた。

 

39.     牧ノ島城08:29 (本丸枡形)

次は麻績城へ行く予定であったが、時間に余裕があるので好きな武将である馬場美濃守信房が築いたここへ行くことにした。川中島からは結構遠く国道19号をひた走る。国道沿いに大きな案内板があってそれに従っていくとほどなく城址。全く迷うことはない。平城であるがここの遺構は素晴らしく残っていて、武田氏の築城技術もよく見てとれる。なかなかこれほど保存されている場所も少ないだろう。大満足であった。

 

40.     森城09:30

悲劇の名門・仁科氏の居城で木崎湖の湖畔にある。仁科神社のある所がもともと本丸のあった場所だが、遺構は良く分からない。神社の裏手には平地があるものの、遺構のようには感じられなかった。堀のようなものもあるが、いつの時代のものかは分からない。戦国期には非常に規模が大きく、湖に突き出した水城のごとき有り様だったというが、そのよすがは偲べない。

 

41.     南山城09:53

武田信玄が松本平に攻め込んだ際に、村上義清が対抗してこの城を押さえたという。ここ一帯には神社や寺址などが点在し、歴史を感じさせる場所だが、肝心の登山道が見付からない。雨もかなり強くなってきたのでそれ以上は断念した。

 

42.     青柳城10:44 

しばらく山深い県道55号を走って山麓の坂北村に到着する。麓から徒歩で登山もできるようだが、山頂の城址公園付近まで車で行けるとのことでそちらを利用する。少々迷ったものの、ところどころに案内が出ていて何とか辿り着いた。しかし天候は悪化し、雨は弱くなったが嵐のような強風が吹き荒れている。何とも単身でこの天気なかで城址にいるのは不気味であった。ところがここの遺構は一流のものだった。二重に巡った深い空堀が二箇所もあって、素晴らしく堅固な作りになっている。キツい登山もないので、是非推奨したい史跡である。

 

43.     麻績城11:33 

青柳城からすぐ近く、麻績村の中心地に城址案内があるので迷わない。麓からは60分程度かかるというので山腹まで車で行ける搦手口を目指す。城山を巻くように山道を行くと見付けやすい案内棒があって、車を2台ほど停められるスペースもある。早速登り始めると城から下ってきたご夫婦とすれ違う。今回の旅行において城址で唯一出会った人である。横浜からいらした方のようで、城好きなのだろうか。「何も残っていない」との話をされたが、とりあえず登山を続行した。途中から雑草が生い茂り、道もハッキリしなくなって、非常に険しい山道になる。途中の分岐点で城址案内板があって、それに従って進むが崖を登るような急坂になる。いくつかの郭と堀切が確認できるが、石積みなどはなく、さほど規模は大きくなかった。本郭の下には幾つかの段郭が見てとれるものの、どこが大手口なのかは分からなかった。

 

44.     光城13:23

豊科ICまで高速道で移動して、近くのマクドナルドで食事をする。光城は車道が山頂までつながっているとのことでそれを探す。国道19号沿いには見付けやすい案内板があるがそれに従って行くと城山の南側の登山道に着いてしまった。そこにはケモノ道しかない。この山はとても険しいので徒歩なら1時間を下らないだろう。ここから離れて県道57号を刈谷原方向に進むと別の城址への案内看板を発見。こちらは探していた車道である。キツい山道を車で登って行く。頂上の城址には郭や堀が残っている。神社もあった。相当な高地なので徒歩で登るにはかなりの体力を要するだろう。本城の奥にも広い平地があって、詳細は分からないが井戸址のようなものもあった。出城か何かがあったのかも知れない。

 

45.     上ノ山城13:50 (本郭)

この城は存在すら知らず、文献にも載っていなかったが、光城の本郭説明看板で近くに城址のあることが分かり、しかも隣の山らしく、山頂にはゴルフ場があるので車で行けると判断して急遽登山することに。しばらくゴルフ場に向かう車道を登ると山頂付近の道端に城址の案内棒が立っている。注意しないと見落とすようなものだ。そこから少し登れば城址。しかし訪れる人もいないのであろう、雑草や木々で荒れている。本郭の下にも郭が確認できる。周囲の藪や草をかき分けて調査したが、それ以上の遺構は発見できなかった。規模は小さく、車で訪問できるので今では要害とは思えないが、険しく高い山の高部にあるのだから、戦国期にはノロシ台としてはもちろん、立派な城郭の体を成していたのだろう。

 

46.     刈谷原城14:09 

この周辺の城郭を調べると刈谷原城の名前がよく出てきて、武田信玄が攻めたことで有名だが、今ではどうも詳しい資料が揃わない。上ノ山から山添に国道143号を進めば刈谷原トンネルというのがあって、その山が城山とよばれる城址のようだ。しかし登山道は見付からない。無念だが断念せざるを得ない。

 

47.     小谷城14:27 (城址遠望)

刈谷原地区から川中島方向で上がって、明科町の会田川沿い要害の地にある。地図でその存在を知り、公園にもなっているとの掲載があったが現地には案内がなかった。しかも城址と思われる場所は川の対岸で、橋も見付けられず、渡ることすらできない。城の由緒も調べがつかず全くの謎の城のままであった。

 

48.     小岩岳城15:00 

ここに近づく頃から再び降雨が激しくなっていた。周辺は穂高温泉や保養地があるようで観光の車でごった返していた。ちょっと迷ったものの道沿いに案内板があって、すぐに城址公園に辿り着く。周りと違って人っこひとりいない。城址は山腹にあって、郭や石垣も確認できる。しかし要害ということもない。ここで武田氏に対して徹底籠城し、600名近くの人々が討ち取られたのは確かな史料にある事実。おそらく山頂に立て籠もるのに適した場所があるのだろうと判断して、徒歩で強雨のなか登って行く。でもそれらしい道もなくしばらく崖を進んだが先が見えないので引き返した。

 

49.     田多井城15:37 

ここの由緒も今ひとつ明確にできなかったが小岩岳城から近いので立ち寄ってみた。城址の場所はどうもはっきりせず、一面の水田のなかに神社があって、周囲にいくつかの「・・・遺跡」と書かれた木碑が立っているものの、その意味するところも分からず、遺構も確認できなかった。

 

50.     真々部城16:13

この城の主である真々部氏は仁科氏の一族で、川中島の合戦にも参加したが武田信玄の謀略で自刃させられたともいわれる悲劇の一族。今はお寺になっているとのことで遺構は期待していなかったが、田多井から松本に向かう途中にあるので寄ってみた。今の金龍寺が城址で国道147号沿いに案内看板もある。周囲の道は入り組んでいて少々迷う。遺構はなく要衝の地とは思えないので、城といっても真々部氏の屋敷があったのだろう。

 

51.     犬甘城16:33

松本城の近くの山に位置し、城山公園になっている。ゆえに車で山頂まで辿り着ける。公園はとても整備されているが、奥に高台があってそこが城址のようだ。説明看板などは見当たらなかったが、郭や堀がある。保存状態はまずまずなので、せっかく城山公園と称するのであれば、もう少し案内板を立ててくれれば親切だと思うのだが。

 

52.     松本城17:25

今日の宿は松本市街。部屋の窓からは国宝の天守閣が綺麗に見える。今まで数回訪問したが、夜のライトアップされた松本城にそそられた。しかし雨が強いので夜間に訪問するのはあきらめた。

 

5月5日(水)

53.     桐原城07:00 

朝6時にチャックアウト。早速、入山辺方面に車を進める。林城を横目に山奥に行くとほどなく桐原地区に。案内看板が見当たらなかったのでそれらしい山に向かって登って行くと山麓に城址の説明看板を発見。そこから徒歩で登山になる。ここの遺構は目を見張るものがあって、石積みがいたるところに散在している。道無き道に突入するとそこにも予想外の遺構があって、井戸址もはっきりと確認できた。でも小雨と霧が視界を阻む。

 

54.     中入城07:55 (三の郭)

桐原地区からさらに山奥に進むとほどなく城山麓の入山辺集落に辿り着く。登山道が分からずウロウロすると近くの公民館に案内看板があって、そこから山に向かって直進すると登山道に至った。霧と小雨の中、細いケモノ道で草木によって体はビショビショになった。それなりの登山が待ち受けており、しばらくすると郭に出る。本郭には石積みもよく残っていて、北側には深い堀も巡っている。決して規模は大きくないが、遺構は良好だった。でも霧で視界は悪く、写真撮影も困難だった。戦国時代にここを守る武士が同じような天候のなかこの城にいたこともあったろう、としばし感慨にふける。

 

55.     林城08:33

こうして回ると小笠原氏の本拠である林城の壮大さがよく分かる。以前に訪問した際は大雪で、今回以上の悪条件であったが、その規模の雄大さに驚かされた城址である。今回は山麓を通ったものの登城はしなかった。

 

56.     埴原城08:48 (郭が多数見られる。)

林城にも劣らない規模とのことで今日のメインの城。雨はほとんどあがったものの霧は晴れない。近くの県道63号に分かりやすい案内棒が立っていて大乗山蓮華寺がある。山頂までの車道がないものか探したが徒労に終わり、お寺の駐車場をお借りしてそこから登山する。すぐに「埴原城入口」の木棒あるが、そこは道が二手に分かれていて迷う。左の方に進んだが間もなく道が消滅する。選択を誤ったようだ。しかし何とか登れそうな地形だったので、とても不安であったがドンドン登っていく。埋もれた郭らしき平地が確認できたので安堵したが、しばらくすると下の方に立派な登山道を発見。先ほどの分岐点で反対に進むとこの道につながっていたのである。林城ほどではないが確かに規模は大きい。本郭付近には石積みのよく残っていて見応えあり。満足して下山すると山麓にある民家の住民方に出会う。話をすると、結構小中学生が遠足で登山するらしい。城好きな大人も多く訪れるが、登りがキツいので大抵の人は途中で引き返してくると仰っていた。昔はここには何の案内板もなかったが、この方が市の職員に要請して立てさせたとのこと。確かに山中にも城址の説明看板があった。感謝を述べてここをあとにした。

 

57.     村井城09:54

埴原城はこの城の詰の城と思われる。だから比較的近距離にある。塩尻北IC近くに村井という地区があって今の泉龍寺付近が城址のようだ。住宅地でなかなか地理が分からず迷ったものの城址の説明看板を発見した。アパートの一角にあって、遺構らしいものは見当たらない。

 

58.     北熊井城10:29 

この城もあまり知られてなく、詳細は調べがつかない。松本からかなり塩尻寄りに下った北熊井という地区にあるものの、現地に案内板などは発見できず右往左往する。それでも林が畑地の真中にあって、一目して城址だろうと推測がついた。郭が最低二つ以上確認できて、平城の体だが、周囲には深い堀が残っていて城であったのは明らかである。本郭と思われる場所には祠があったが、ひとつ城址の碑さえあれば親切なのだが。

 

59.     花岡城11:21 

国道20号で松本平から諏訪地方に進行したが、非常に雨が強くなってきた。これ以上の山登りは厳しい状況。この城は公園になっていて車で頂上まで行けるらしいので探してみる。城山がどれかはすぐに分かったのだが、どこから登って行くのかが分からない。散々迷って何とか辿り着く。途中に案内表示らしいものは発見できず、民家を縫う細道を行った。

 

60.      有賀城11:47

花岡城から近く、県道19号有賀峠に至る山道に大きな看板があって、登山道も整備されているのでさほど迷わないだろう。登山を試みたが、周囲には駐車場がなく、また雨も強いので断念する。

 

61.       鬼場城12:17 (車立ち往生の図)

この城はかつて上原城を探している時に迷い込んだことがある。茅野市の城山団地にあって、調べると歴史ある城らしいので再度訪問。削平地が確認できた。しかしここで大事件が。山中の道でぬかるみに車がハマってしまい。タイヤは空回り。どうにも抜け出せなくなってしまった。周囲に人もいなく、止むを得ず警察に電話して近くのレッカーの電話番号を聞き、レッカー車を呼ぶ。30分ほどで到着し、引張ってもらいすぐに脱出できたが15,750円の出費とタイムロスに気分を害し、予定を変更してすぐに諏訪ICに乗って長野を去ることとした。

 

62.     津久井城15:45  

GWの中央道の渋滞が小仏トンネル付近を中心に発生しているとのことなので相模湖ICで降りて甲州街道から相模原方面に進む。途中の津久井湖脇の城山には後北条氏の津久井城があって、近くには三増峠の合戦地もある。津久井城は昔、小学生の頃に遠足で登ったのを含めて数回登山している。今回は山麓を通過したのみであったが、いやはや険しい山であるといつも思う。

以上で今回の旅程は終了。自分的にはある程度長野の城に目途をつけるのが目的であったが、やはり過酷な旅であった。後半は雨にたたられ、最後は散々の締めになった。山城の険しさ・キツさを全身をもって堪能でき、もう二度と同じ旅程は組まない決意をした。途中デジカメのメモリーが不足し、画質を落として撮影した300枚ほどの写真と激しい胃痛を土産に東京に帰ることとなった。(総走行距離1,147km)

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