外国人参政権問題

-外国人参政権反対派に答える-

判例は性質説を採る

Q1 -外国人参政権反対派-

憲法15条1項によれば、参政権は「国民固有の権利」であるとされています。従って、この文言から、国民のみにしか認められない権利と解釈できるので、外国人には参政権は認められないのではないですか? *注(1)

A1 -外国人参政権許容派-

マクリーン事件判決、という最高裁判所の判例を知っていますか?
この判決では、外国人に保障される憲法上の権利の範囲について、

憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべき *注(2)

とされています。
このように外国人に保障される憲法上の権利の範囲を、その権利の性質によって決するとする考え方を性質説といいます。
この考え方にしたがえば、参政権という「権利の性質」を考えて、果たしてそれが日本国民にしか保障されないのか、それとも外国人にも保障されるのか、が決せられることになるでしょう。
したがって、15条1項の文言だけを問題にして、参政権が外国人に保障されないとするのは判例の趣旨に適合しません *注(3)。

「国民」は日本国民に限定されない

Q2 -外国人参政権反対派-

判例の趣旨には適合しなくても、憲法15条1項には「国民固有」と明記されており、憲法第3章中でも他にこのような特殊な文言は用いられていません *注(4)。これは参政権を国民に限定する趣旨と考えられますので、私の考え方の方が説得力があるように思います。

A2 -外国人参政権許容派-

まず、憲法上「国民」という文言が果たしてどれほどの適切さで使われているでしょうか。
憲法30条の納税の義務は「国民」が主語になっていますが、納税の義務を負うのは日本国民だけに限らないのは当然のことですし、また憲法22条2項の国籍離脱の自由は「何人も」と日本国民に限定されないかのような文言を用いていますが、日本国憲法が外国籍の人間の国籍離脱の自由まで保障していると考えるのは奇妙です。
実はこのように憲法第3章中の主語を「国民は」と「何人も」とに分けて、「国民は」は日本国民のみに限定する趣旨で、「何人も」が日本国民に限定されず外国人も含む趣旨である、という解釈の仕方をする考え方があったのですが(文言説)、上記のように矛盾が生じますし、すでに紹介したマクリーン事件判決も権利性質説を採ることを明らかにしています。
そして、主語が「国民は」となっている条項の権利の保障を国民のみに限定するという文言説に説得力がなくなった以上、15条1項の「国民固有」についても、この「国民」との文言は国籍保持者である国民に限定する趣旨のものではないだろうと考えざるを得ないでしょう。というよりも、憲法制定当初、国籍保持者たる国民と外国人とを厳密に区別したわけではないと考えられますので、そもそも文言は決め手になりません。

憲法解釈の方法

Q3 -外国人参政権反対派-

しかし、どうして憲法の条文の文言をことばの通り、ありのままに受け取ろうとしないのですか?条文に書いてある以上は、厳密にそれに従うべきだと思います。

A3 -外国人参政権許容派-

あなたのおっしゃった解釈の方法を、文理解釈と言います。
憲法の解釈の場合、文理解釈だけを貫けば良いのだ、という解釈の仕方は必ずどこかで破綻するのです。
文理解釈に対して、条理解釈というものがありますが、これは文言にとらわれることなく、法令の目的・趣旨・道理に重きを置いた解釈のことです。法の解釈をする場合、この双方を駆使しなければなりません。

後国家的権利性は否定の理由にならない

Q4 -外国人参政権反対派-

しかし、そうは言っても、15条1項だけが「国民固有」と規定されているのは何故ですか?私は、参政権が人間性に由来する前国家的権利ではなく、後国家的権利であることから、国民のみにしか認められない権利であるとされたためだと考えます。

A4 -外国人参政権許容派-

まず、参政権が後国家的権利であり、国家が存在してはじめて意味のある権利であることから、外国人にそれが保障されないとのことですが。たとえば、裁判を受ける権利を考えてください。これは、国家が裁判制度をつくらなければ意味のない権利であるという意味で後国家的権利だと考えられますが、外国人に対する保障が否定されているでしょうか?当然否定されるものではありませんし、実際に外国人にも裁判を受ける権利は保障されています。従って、後国家的権利という性質だけで外国人を排除する議論はまったく説得力がありません。 *注(6)
また、「固有」という言葉の持つ意味に関してですが、かならずしも「限定」ということだけではありません。
大辞林によれば、固有とは、(1)本来備わっていること、(2)その物だけが持っているさま、のことを言います。15条1項の「国民固有」の「固有」が、(1)の意味であっても何らおかしいとは思えません。
今日「人権」や「基本的人権」と言った場合、それは従来の意味の前国家的な自然権のみを指すのではなく、社会権、参政権などを含んだ「20世紀的自然権」のことを指します。つまり、今日においては、社会権や参政権など後国家的権利と呼ばれるものであっても、それらは、人間であるということに基づいて当然に享有する権利であると考えられているのです。 *注(8)
以上より、「国民固有の権利」は、国民“のみ”という限定を意味するものではなく(かならずしもそう解することを排除するわけではありませんが)、国民(人間)であるが故に本来的に持っている権利であることを意味するものであると考えられます。

inalienableは奪ってはいけないの意(政府見解)

Q5 -外国人参政権反対派-

憲法15条1項の英訳は、「The people have the inalienable right to choose their public officials and to dismiss them.」とされており(マッカーサー草案のArticle XIVにほぼ同じ意味の条文があります)、「固有」は「inalienable」と訳されています。「inalienable」の訳が「譲り渡すことができない」である以上、「国民固有の権利」は「外国人に譲り渡すことができない」という意味だと思いますが? *注(9)

A5 -外国人参政権許容派-

そもそも、憲法が“制限規範である”ことをご存知ですか?憲法は国家権力を制限する(つまり「〜してはいけない」と命令する)基礎法なのです。
憲法の本文は、\限規範、⊆権規範に分けられ、,人権規範、△統治規範と言われます。つまり、国家権力を制限することで(制限規範)→人権が保障される(人権規範)という関係になっていますので、憲法第3章「国民の権利及び義務」中にある15条1項も当然、国民の参政権を侵害しないように国家権力を制限する(制限規範)→国民の参政権が保障される(人権規範)という風に読まなければなりません。
要するに、「inalienable」は、国家によって「侵害されてはいけない」という風に解されるのが、当然のことなのです。これを「外国人に譲り渡せない」と解するのは、憲法の制限規範性を無視した解釈であるといわざるを得ません。
ジョン・ロックの思想に由来すると言われるアメリカ独立宣言を見てください。

they are endowed by their Creator with certain unalienable(inalienable) rights

とあります。
すべての人間は一定の不可侵(不可譲)の権利を創造主より付与されている、と訳される非常に有名な文章ですが、当然のことながら「inalienable」は「不可侵(不可譲)の=侵害されてはいけない」という風に解されています。アメリカ独立宣言が「inalienable rights」と記したとき、想定されていたのは当然国家による侵害です。これを他の誰かに権利を譲り渡すことが想定されていた、などと考えるのはまったくナンセンスです。
日本国憲法15条1項の英訳「inalienable right」もまったく同じく「不可侵の=侵害されてはいけない」という意味なのです。
また、以上のような解釈は、A4の「国民固有の権利、とは国民(人間)である以上は本来備えている権利である」とする解釈にも適合します。すなわち、国民(人間)であるがゆえに備えている権利であるから(たとえば国家などによって与えられるものではないのだから)、国家はそれを国民から奪うことはできない、侵害できない、という風に解するのです。
なお、1953年内閣法制局回答(いわゆる高辻回答 *注(10))という、外国人の公務就任に関する政府見解がありますが、これは「公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とする」という、いわゆる「当然の法理」という基準をもって外国人の公務就任権の有無に回答したものです。その回答のなかで、15条1項の「固有のinalienable」は、国民のみという専有を意味するのではなく、奪ってはいけない権利であることを意味するものとされています。従って、私のこれまでの解釈(「固有」を「本来持っているさま」とし、「inalienable」を「侵害できない」とする解釈)は、政府見解にも合致します。

国民「固有」には付与禁止の意味はない

Q6 -外国人参政権反対派-

あなたも認めているように、今までの回答を考えても「国民固有」を「国民のみ」と解釈する余地がないとは思えません(A4参照)。したがって、「国民固有」から「国民のみに保障している」ことが導かれ、そして「外国人に保障してはならない」という結論が導かれるものと思われます。やはり外国人に参政権を付与することは憲法違反になるのではないですか?

A6 -外国人参政権許容派-

ここではあなたのお考えに合わせて、「固有」の意味を、(2)その物だけが持っているさま、とした上でお話を進めていきます。さて、しかし、そのように「固有」の意味を解し、「参政権は国民だけが持っている権利である」と15条1項を解釈したとしても、その「国民だけ」というのは「外国人に付与してはいけない」と同義なのでしょうか?私はその点が疑問です。
たとえば、「北方領土は日本国固有の領土である」という文章を例に考えてみましょう。これは、「北方領土は日本国だけが有する領土である」という意味になります。そして、これは「北方領土はロシアが本来有していてはいけない領土である」と同義になります。これだけを見ると、なるほど、「固有」という言葉は確かに“禁止”の意味を持っている、と思いそうになりますが、果たしてそうでしょうか?
上のような結果になるのは、国家間の「領土」支配というものが、もともと互いに相容れない関係になっているからこそではありませんか?
それでは、「武士の切腹は日本国固有の文化である」という文章を例にすると、どうなるでしょう?確かに、「武士の切腹は日本国だけが有する文化である」という意味にはなりそうです。しかし、果たして、この文章から「武士の切腹は日本国にしか“あってはいけない”文化である」「“奪われてはいけない”文化である」が導き出されるでしょうか?
「固有の領土」が“禁止”の意味を持ち、「固有の文化」が“禁止”の意味を持たないのは何故ですか。これは、一国の「領土支配」が他国に対する“支配禁止”の意味を持ち、一国の「文化享有」が他国に対する“享有禁止”の意味を持たないからです。
以上のことから、「固有」には禁止の意味はないことがわかっていただけると思います。
さらに付け加えるならば、「日本国固有の領土」「日本国固有の文化」という言葉は、(2)その物だけが持っているさま、という意味を持つと同時に、(1)本来備わっていること、という意味も持っているように思われます。「北方領土は古来から日本の土地だったのだ」とか「切腹という文化は日本文化が古来から有している精神性を表している」という意味が、それぞれの言葉から感じられるかと思います。
従って、「固有」と言った場合、(2)その物だけが持っているさま、とだけ理解して、(1)本来備わっていること、という意味を排除するのは正しい姿勢ではありません。「固有」という言葉は、(1)(2)両方の意味を串刺しにして成り立っている言葉なのですから。
長々と話しましたが、あなたが何故、「参政権は国民に固有の権利」という言葉から「国民にしか認めてはいけない権利」という風に解釈してしまうかは、もう言うまでもないと思われます。それは、あなたが「参政権は国民にしか認めてはいけない性質の権利である」と最初から結論を決めて話しているからに過ぎないのです。つまり、AだからAだ、というわけです。これはトートロジー(同義反復)です。
最後に念のために付け加えますが、最初に申し上げた通り(A1参照)、判例の趣旨は、参政権の性質を考慮した上でそれが外国人に保障されるか否かが決せられなければならない、というものです。ですから、我々としてはその趣旨に従って、参政権という権利の性質から考えなければならないのではないでしょうか。

判例・学説状況

Q7 -外国人参政権反対派-

どうやら話が振り出しに戻ったようですね。それでは、権利の性質から考えればどのような結論になると思われるのですか?

A7 -外国人参政権許容派-

私は(地方)許容説と呼ばれる立場(判例・通説)からお答えしているつもりです。
が、結論を急いでも仕方ありません。ここではまず、現在の学説や判例の状況がどのようになっているのかを整理しておきましょう。そのなかでお互いの採る立場を確認し合うことが大切です。
それではまず、禁止説、許容説、要請説、という各説の説明から。
「外国人に参政権を与えてはいけない(禁止されている)、与えることは憲法違反である」と考える説は禁止説と呼ばれます。それに対して「外国人の参政権は、憲法上当然に保障されている、従って現在これが付与されていない状態が憲法違反なのである」と考える説は要請説と呼ばれます。そして、この両者の中間をとったような考え方、すなわち「外国人に参政権が付与されていない現状を憲法違反だと考えるわけではないが、これを法律で付与することは憲法上禁止されているわけではなく、許容されている」とする許容説と呼ばれる考え方があります。
表にするとこんな感じです。


各説の立場 憲法上 法律により 記号表現
禁止説 保障されてはいない 付与するのは憲法違反(禁止) ×
許容説 保障されてはいない 付与するのは許容されている(許容)
要請説 保障されている 付与していないのは憲法違反(要請)


次に、国政と地方の別。
たとえば「国政」はダメでも「地方」なら良いという風に、「国政」と「地方」で考え方を分ける説があります(これは表にするまでもないでしょう)。
さて、上記の「禁止説」「許容説」「要請説」の分類と「国政」「地方」の別とを併せて考えると、学説の状況は以下のように整理されることになると思われます。

各説の立場 国政 地方
全面禁止説(旧通説) × ×
全面許容説
全面要請説
国政禁止・地方許容説(通説・判例) ×
国政禁止・地方要請説 ×
国政許容・地方要請説


上記の表に、選挙権・被選挙権の別という要素まで加味すれば、より精密な学説の分類が可能となりますが、ここでは分かりやすさを重視して、選挙権・被選挙権の別は考慮しないことにします(外国人参政権を認める説でも大抵は被選挙権までは認めるものではありませんので)。また、外国人といっても、^貳務姐饋諭↓定住外国人、F駝韻畔類されますが、以下では△猟蟒山姐饋佑砲靴椶辰胴佑┐泙后覆燭澄判例は許容説の見解を示した際、参政権を付与される対象として「永住外国人等」と定住外国人よりもさらに絞った範囲の外国人を想定しているようです)。
表を見てもらえれば分かるように、ピンク色の箇所が旧通説です。この説では、国政にしろ地方にしろ、外国人に選挙権を付与することは憲法違反であるとされます。そして、水色の箇所がありますが、これが現在の通説・判例とされるものです。この説では、国政の選挙権を外国人に付与することは憲法違反となるが、地方の選挙権を外国人に法律で付与することは禁止されているものではない、とします(但し、付与しないでも憲法違反となるものではない、とします)。
判例(平成7年2月28日最高裁判所第3小法廷判決)が、外国人のなかでも永住者等に法律で地方選挙権を付与することを認めた(すなわち国政禁止・地方許容説を採ることを示した)ことにより、学説の流れもこちらに傾き、現在では全面禁止説に変わって通説の地位を占めています。

最高裁判所の見解は地方許容説

Q8 -外国人参政権反対派-

その平成7年2月28日の最高裁判決を指して、判例が地方参政権に関して許容説を採っている、とされることに納得できません。なぜなら、許容説を示したといわれる部分は傍論であり、判例としての拘束力を持たないとされているからです。

A8 -外国人参政権許容派-

まず、事案と判決の要旨から。

<事案>
平成2年9月1日当時大阪市に居住していた永住資格を有する在留外国人(韓国籍)である原告(上告人)は、同年9月2日登録の自らが選挙人名簿に登録されていなかったことから、いわゆる定住外国人には憲法上地方公共団体における選挙権が(当然に)保障されているとし、被告人(被上告人)ら各選挙管理委員会に選挙名簿の登録を求める異議の申し出をしたところ、却下された。そして、その却下決定の取消を求めて原告(上告人)は訴えを提起した。
<判旨>
(1) 憲法15条1項の規定は、国民主権原理に基づき、権利の性質上日本国民のみを対象とするもので、公務員の終局的任免権は外国人には及ばない
(2) 前記の国民主権原理およびこれに基づく憲法15条1項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法93条2項の「住民」とは地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味し、この規定は、外国人に選挙権を保障したものということはできない
(3) しかし我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に密接な関連を持つに至ったと認められるものについて、法律をもって、選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない。

(1)(2)が主文、(3)は傍論(判決文のうち判決理由とはならないもの)と呼ばれます。
この傍論の部分に、先例拘束力はありません。しかし、この判決で最高裁判所の見解が示された、という事実に変わりはありません。

最高裁判例は矛盾していない

Q9 -外国人参政権反対派-

しかし、その判決の(1)(2)と(3)は矛盾しているのではないですか?

A9 -外国人参政権許容派-

矛盾しているという見解はあり得ます。
以下では、矛盾すると主張する方々がどのようにこの判決文を読んでいるのかを示しましょう。
彼らは、当該判決が、

(1) と(2)で禁止説を採り、しかし (3) で地方許容説を採った

と考えるのです。彼らは、(1)の「参政権は権利の性質上国民のみに保障される」(太字筆者)との判断を、「禁止説を採った」と解釈するわけです。
しかし、これはわざわざ自ら矛盾した解釈の仕方をしているだけです。
当該判決は、

(1) と (2) で要請説を退け、 (3) で地方許容説を採ることを明らかにした

と解釈しなければなりません。
矛盾すると主張する読み方は、(1)の要請説の否定を、禁止説の採用と同視している点で妥当ではありません。
よく考えてください。「保障されていない」と「保障してはいけない」は同義でしょうか。まったく意味が違うはずです。事案と原告(上告人)の主張を見てください。原告(上告人)は、「外国人には参政権が憲法上当然に保障されている(要請説)」と主張しているのです。(1)(2)はこれに対する判断なのですから、「憲法上当然に保障されているわけではない(要請説の否定)」としただけのことです。それ以上に「保障してはいけない(禁止説の採用)」と判例の立場を読み込むのはおかしいのです。
確かに、(1)では「参政権は日本国民のみに保障される」とされていますが、「国民のみ」は「国民以外には認めてはいけない」という意味を当然に含意しているのでしょうか?「国民のみ」という立場に立ちつつも「国民以外に認めることも“許される”」とすることは本当に不可能でしょうか?
判決が(1)(2)と説いたあとに(3)で「国民以外に認めることも許される」と判断しているということは、(1)(2)の「国民のみ」は当然「国民以外に認めてはいけない」という意味ではないのです。
ここまででお分かりのように、矛盾するとの指摘は、(1)(2)の部分の解釈を自らの立つ立場に引き付けて解釈しているだけなのです。それでは矛盾をひき起こすのは当然のことと言えます。

なぜ国政だけが禁止なのか

Q10 -外国人参政権反対派-

おっしゃることは分かりますが、まだ疑問があります。たとえば、先ほど判例の立場は国政禁止・地方許容説だと説明してもらいましたが、判例はなぜそのように国政と地方で分けて考えるのでしょうか?先ほどの判決の要約(1)(2)(3)のうち、(2)では(1)で述べた「国民主権原理」が地方にも及び、そして「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであること」が強調されています。この判決で(1)は国政要請説を退けただけだとしても、判例の立場では外国人への国政参政権付与は禁止されるという趣旨なのですから、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素」なのであれば、地方参政権付与も禁止するとしないと一貫しないのではないですか?

A10 -外国人参政権許容派-

一見するとそう解されてもやむを得ないのではないかと思います。

判例(地方許容説)の正当性

Q11 -外国人参政権反対派-

それでは、これを矛盾というか、地方参政権を許容する実質的な理由が示されていないというかは別にしても、私の指摘はある程度的を射たものではないでしょうか。国政参政権が禁止されており、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素であることを認めれば、やはり地方参政権も禁止されざるを得ないのではないですか?

A11 -外国人参政権許容派-

私なりの理解でお答えします。
たとえ「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素である」ことを強調したとしても、それが当然に全面禁止説を導くとは思えません。それどころか、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素であるとしても、地方許容説を十分に導き得るはずです。
許容説を導き得ると考える理由の一つは、憲法94条が、地方公共団体は「法律の範囲内で」条例を制定できると規定されているということです。以下、詳しく説明します。
まず、法律は国会で制定されます。すなわち、法律は、国政選挙で国民に正当に選出された国民代表たる国会議員たちが制定するものです。そして、どうして法律が国内で一般的に通用するルールとなり得るのかと言えば、それは述べたように国民代表が決めたものだからです。要するに、法律には国民の意思が反映されているのです(国民による権力の正当性)。
さて、それでは条例はどうですか?地方公共団体は「法律の範囲内で」条例を制定できることが憲法94条に規定されています。ということは、法律に国民の意思が反映されているのであるから、地方公共団体の長や議員の選出に際して、国籍保持者たる国民以外の定住外国人の意思が反映されていたとしても、憲法94条で、地方公共団体は「法律の範囲内で」条例を制定するものとされているのだから、地方の政治がその国民の意思を不当に捻じ曲げることはあり得ないのです。
このように、国家におけるすべての事務が法律の範囲内でなされるのであれば、国民主権原理の正当性はそれで満たされるので、地方公共団体の政治に外国人の意思が反映されることが許容されるのです(このような国民による権力の正当化を上からの正当性といいます)。
以上のように考えれば、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素であることを強調したとしても、国政参政権の禁止が地方参政権の禁止を必然的に導くという関係になるわけではありません。それどころか国政参政権の方で国民主権の正当性が満たされるのであれば、それ以上に地方参政権を禁止する意味はないものと思われます。したがって、あなたの指摘を受け入れたとしても、何ら矛盾なく判例の立場(国政禁止・地方許容説)を説明できるものと考えます。

なぜ地方だけ許容するのか

Q12 -外国人参政権反対派-

お答えが地方参政権を付与する積極的な理由になるとは思えません。また、地方許容説からは「国政はまだしも、地方ぐらいなら」というニュアンスを感じます。国政と地方で分けて考える必要性はやはり私には感じられません。

A12 -外国人参政権許容派-

国政禁止・地方許容説は、厳密に言えば「国政ならダメ、地方くらいなら良い」というものではありません(と考えます)。
先ほどの上からの正当性という議論を前提に話を進めるなら、外国人の国政参政権が禁止されているということは、国政における国民主権の正当性の契機が満たされるということになります。国政禁止・地方許容説というと、なにか積極的に国政と地方で分ける考え方のように聞こえ、「地方で許容される特段の理由を述べよ」などと批判されますが、この説はどちらかというと「国政で国民主権の正当性の契機が満たされるからそれで良い(=外国人の国政参政権付与だけを禁止しておけば良い)」と考える説ではないでしょうか。そうすると、むしろ、“地方における外国人参政権を何故それ以上に禁止しなければならないのか”ということを挙証しなければならないのは全面禁止説の方になります。このように裏から表現するだけで、印象がずいぶん変わるように思いますが、如何でしょうか。
さらに付け加えるなら、許容説はなにも地方参政権付与を「良し」としているわけではなくて、参政権を外国人に付与するかどうかを、法律にすなわち国民の意思に委ねるとする説なのです。「良し」とするのは最終的には国民なのです(もちろん、許容説自体、外国人に対する参政権付与を憲法上望ましいと考える傾向があるとは思いますが)。

(1) 外国人は憲法上の基本的人権の享有主体ではないとする説もありますが、今日そのような説を唱える憲法学者はほぼ皆無だと思われますので、ここでは当然に保障されるとの前提で話を進めることにしました(ただ、安念潤司成城大学教授は、前者に立ち、法律による人権保障を唱えているようです。ある意味、面白い考え方なので、154回国会衆議院憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会議録』第2号(平成14年3月14日)を参考にしてください。あ、短く抜粋したものがありましたよ→こちら)。なお、外国人の人権の享有主体性を肯定する説は、「人権の前国家的権利性や憲法のよって立つ国際協和主義」(佐藤幸治『憲法』青林書院、2003年、417頁)を理由とするのが一般的のようです。
(2) 最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁
(3) 外国人参政権に関する判例、たとえば最判平成7年2月28日(民集49巻2号639頁)では、15条1項の文言から外国人の参政権の保障の有無を説くのではなく、「憲法15条1項の規定は、国民主権原理に基づき、権利の性質上日本国民のみを対象とする」(太字筆者)というように、権利の性質から保障の有無を考えていることは明らかです(言うまでもないことですけれど、念のため)。
(4) 初宿正典、「外国人と憲法上の権利」法学教室152号、1993、51頁
(6) 近藤敦、『外国人参政権と国籍』明石書店、1996年、65-66頁
(8) 佐藤幸治、『憲法』青林書院、2003年、394-395頁
(9) 百地章日本大学教授は、「「固有の権利」をinalienabule rightつまり「譲り渡す事ができない権利」である」(永住外国人の参政権問題―地方参政権付与は憲法違反―)と解し、15条1項の「国民固有の権利」を、外国人に譲り渡すことのできない権利であると解釈するようです(inalienableのスペルが誤っているようですがそのまま引用させていただきました)。なお、「inalienable」の日本語訳は通常「譲渡できない」「奪取できない」ですが、百地教授は「固有」という日本語の意味について、「『もとから自然に備わっている』とか『その物だけが特に持っている』という意味であって、そこには『奪われない』などといった意味は存しない」ことから、「inalienable」は「譲渡できない」と解されなければならない、としています(百地章「憲法と永住外国人の地方参政権−反対の立場から−」『都市問題』第九二巻第四号)。しかし、本文でも書いた通り、アメリカ独立宣言で用いられた「inalienable rights」という用語が、まさに生まれながらにして有する権利である自然権に言及したものであることに照らせば、「固有」という日本語の意味である「もとから自然に備わっている」が「inalienable」と英訳されたことはほぼ疑いないところでしょう。そして、(これも本文で論じましたが)「inalienable rights」という言葉が「譲渡できない権利」と訳されようが「奪取できない権利」と訳されようが、アメリカ独立宣言で念頭におかれていた最も重要なことは「国家権力は個人の生まれながらに有する人権を侵害できない」という人権に対する“権力による侵害”ということなのですから、「固有」という言葉もそのような近代人権思想の沿革に合致して解されなければならないでしょう。以上のように考えた場合、「inalienable」を「譲渡できない(譲り渡せない)」と訳したとしても、“外国人に”譲り渡せない、と解釈することはなにか非常に唐突な感じがします。そもそも「inalienable」という言葉が持つ「譲渡できない」「奪取できない」という意味を互いに排他的なものであるかのように考えるのは問題で、両者に共通する根底的な意味ということを考えればやはり「侵害できない」というほどの意味になるのではないかと思われますが如何でしょうか。
(10) 1953年3月25日法制局1発第29号


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