徴兵保険

かつて日本に徴兵保険なるものがあった。

なにやら剣呑な名前だが、事の発端は明治5年の徴兵令であった。
これによって、日本も近代的な軍制建設に乗り出したわけだが、ひとつ、ずっと日本陸軍を悩まし続ける問題も発生した。
将校は士官学校、兵学校があるからいい。兵も集まる。しかし、現場で兵をまとめて前線で指揮官を補佐する言ってみれば軍隊のバックボーンである下士官の数が不足したのである。
特に、国内最大の士族反乱、西南の役を旧賊軍士族を動員して乗り切らざるを得なかった明治政府にとっては、四民平等を謳う以上、自前で徴集兵の中から下士官を養成、リザーブすることが喫緊の課題となった。
下士官と言うのは、実は兵をすぐに登用してなれるものでもない。したがってそれ専門の養成課程をもうけなくてはならない。軍事技術自体が日進月歩だった上、専門分野特化も進行した尚更である。

ところで、日本の徴兵制というのは平時には選抜徴兵に近かった。つまり、徴兵検査に甲種合格でも、うちそのまま入営して現役兵になるのはほぼ2割。現役師団が全国に日清戦争前で7個しかなかった。なにもなければいいが、有事に動員令で軍隊が拡充されればたちまち下士官は欠乏する。つまり、2年間いる現役兵のみの中から養成していては間に合わない。したがって、下士官志願者もOKとすることにした。一年志願兵という制度で、中学卒業、甲種合格、という条件で1年間の入営を認め、各種下士官養成のコース、学校へ通う許可を与えたわけである。これは今ほど就業機会のなかった明治期にはかなり人気があった。

ただ、これは一つ問題があった。乏しい陸軍の人件費予算の中でやりくりするために、食費と下着代他が自弁なのである。職業軍人になるための丁稚修行みたいなものだが、ホンモノの商家で出す冷や飯すらでないのだ。結局、入営に当たってはある程度まとまった資金を用意せねばならなくなった。

子を思う親の心は今も昔も変わらない。子息の栄達を望む気持ちは、そこで、こんなビジネスチャンスを生み出した。
まず、男子誕生、と同時に保険に加入する。保険料の支払いは一時でも分割でも可。こうしてその子が徴兵検査の年齢に達したときに甲種合格、となったら約定の支払額を受け取れる、と、まあ、今で言う学資育英保険である。しかし、これが当たった。

最初の徴兵保険引受会社は明治31年に設立された徴兵保険会社(後に第一徴兵保険)である。後の東邦生命(現AIGエジソン生命)だ。他に富国生命もこれで社業を延ばした会社である。とにかく、大正終わりまで、日本の保険会社の一番の稼ぎ頭だった商品に成長した。

一年志願制度そのものは明治末年に廃止された。日清、日露の戦役をへて、軍の財政基盤もそれなりに広がり、各種教育機関も充実した他、専門化、特化がさらに進んで、後には航空兵のような専門職も増えたためだ。

ところで、今では普通は保険は戦争を起因とするケガや死亡にはおりないことになっている例が多い。しかし、これまた、こういうときおりる保険もあったのである。戦争傷害保険というズバリのネーミングの保険がそれで、死亡保険金を最高額にケガの程度で割合を決めて支払っていたようだ。特約で面倒をみるというのは今でもあるが、ズバリそのものが本約款と言うのはたぶんこれだけだろう。


          
       支那事変の頃の第一徴兵保険のパンフレットと明治33年の徴兵保険会社新聞広告(九州日日新聞)


トップへ
トップへ
戻る
戻る