サッカー戦争

サッカー戦争は1969年7月、中米のエルサルバドルとホンジュラスの間で実際に勃発した戦争である。この戦争のネーミングのみが一人歩きし、あたかもサッカー試合の勝ち負けのみが戦争の原因のごとく言われ、「愚かな戦争」の代名詞のごとくいわれている。

しかし、戦争開始の理由となった外交的係争は両国間の未確定の国境問題であり、一方からの不法移民の処理問題だった。人は国境、すなわち不動産の線引きの交渉なき争いによる流血の愚を唱え、不法移民の人道的扱いこそ文明国のなすべき進歩的政策だという。しかし、国境問題は人口過小な両国が国家として成立して以来の懸案として常に外交の一番の俎上にのってきたことであり、不法移民問題はむしろ、当事国の内政(治安)に属する。特にエルサルバドル側はこの問題が紛糾する直前まで事実上移住者を棄民扱いし、保護を与えるようホンジュラスに折衝していなかった。

耳あたりの良い理性とモラルを口にすることは個人間ならたやすいが、国家同志ではそれを自分たちと同等に相手が持ち合わせてくれるか期待できるかどうか、非常に難しい。

サッカーワールドカップ予選

1970年のメキシコ大会の出場権をかけた中米地区予選で、エルサルバドル、ホンジュラス双方が予選決勝に駒を進めることになった。しかし、そのとき、すでに両国関係は緊迫化していた。

6月8日、ホンジュラスのテグシカルパで開かれた試合は大荒れとなった。前日投宿したエルサルバドル選手団のホテルの周りをテグシカルパの住民たちが取り囲み、一晩中抗議行動を行い、選手らの安眠を妨げたという。翌日の試合、これまたスタジアムでは乱闘含む騒ぎがおこり、その中でホンジュラスが1−0で勝利した。

その翌週、今度はエルサルバドルの首都サンサルバドルで2回戦が行われたが、これまた、逆にエルサルバドル側がホンジュラス選手団宿舎を囲んで騒ぎ、スタジアムの騒乱も前回以上にエスカレートしたという。結果は3-0でエルサルバドルの勝ち。
結局、一勝一敗によるプレーオフということになり、6月27日3回戦がメキシコシティーで行われた。

しかし今度ばかりはメキシコ当局が異例の厳戒態勢をとって挙行したため、両国サポータの騒ぎは取り立てて起こらず、平穏のうちに競技は進行、3-2でエルサルバドルが出場権を獲得した。

ホンジュラス政府が国内不法移民の国外追放と資産凍結を発表したのはこの直後だが、しかし、これは直接サッカーの結果とは関係がない。また、すでにこのとき、エルサルバドル軍は作戦待機の状態に入っていたと思われる。すでに、1969年頭以来ホンジュラス軍は国境地帯での小規模な小競り合いの頻発を報告していた。6月3日には空軍のDC−3輸送機がヌエバ・オケテペケの上空で対空砲火を浴びている。

エルサルバドルによるホンジュラス政府の難民送還への抗議、それに対する反論と外交が煮詰まった中、7月14日、エルサルバドル領内の空軍基地から米国製のF-4UコルセアやF-51マスタング戦闘機など第2次大戦中製造された旧式軍用機が爆装して離陸していった。いずれもあらかじめ、それまでのアルミ地肌やシーブルーをジャングル上空で目立たぬように緑や褐色の迷彩色ペイントで塗りつぶしてあった。

ほぼ同じ時刻、歩兵5個大隊を中核とするエルサルバドル陸軍が東部のフォンセカ湾方面と北部高原地帯で進軍を開始した。

戦争は始まった。

出撃するエルサルバドル空軍の F−51D戦闘爆撃機(エルサルバドル空軍サイトより)


      サッカー戦争関係地図

バナナ共和国の不穏な日々

中米一帯は16世紀にスペインによる植民地とされ、ヨーロッパ人が入植した。その後、アフリカからの奴隷流入などもあり、人種的には混血が進み、白人、クレオール、メスティーソと大雑把なくくりはあっても、それほど深刻な人種的対立は18世紀頃にはなくなっていた。また、19世紀初頭の独立ブームによって生じた国家群も当初はメキシコ帝国を盟主としての連合国家となっていたが、その後分裂して現在の国家となっている。

エルサルバドル、ホンジュラスとも、就業者の大半は農民であり、他の中南米諸国同様、多くがスペイン入植以来の大地主(ラチフンジスタ)の小作人として生計を立てていた。作物はバナナ、サトウキビ、コーヒーで、モノカルチャーと称せられる形態である。

それまでは現地人インデオの焼畑農法くらいしかなかった中で、国際市場に出せる換金作物を栽培できるようになったということはむしろ恵まれていた。しかし、農業技術の改良まではこの頃力を衰えさせた地主層が息切れして手が届かず、収穫量は伸びなかった。これが両国とも発展のネックになった。一人当たりの収穫(収入)が伸びれば生産意欲も増したし、何も起きなかった可能性がある。つまり、越境も耕地不足も起きなかった。

1960年代、隣国に比してエルサルバドルの人口密度は2倍となった。そして小作人の次男坊、3男坊以下、耕作地や就業機会からあぶれた失業者たちが不確定な国境を続々越えていった。エルサルバドル政府はこれを棄民として当初扱った、しかし、一方で自分たちの領土は不当に狭い、人口にふさわしい耕地を獲得すべきだとも、考え始めた。

一方ホンジュラスはこれとは逆に見込み含めた可耕面積に比べて人口過疎と言うこともあり、発展(開墾)が大きく遅れた。そのため、現在でもこの国は80%が貧困層とされ、IMFとの間で特別プログラムによる経済建設プログラムを実施している。また、不法移民自体の開墾や不法就労をを取り締まるという意識も当初は希薄であった。

そして両国ともかつてのラチフンジスタから留学帰りの官吏、軍人出身者たちに政治の主導権は移っていた。彼らの多くが欧米で社会主義に影響を受け、自分たちが国家の旧弊な現状を打破すべきだと考え、上官や元上司を担いで軍事政権を成立させた。

産業革命などまだ未発生な中米で人気のあった社会政策は均田制の土地改革で、ラチフンジスタがビジネス上付き合いのあった米国の農産物商社資本と癒着したと非難しながら実施した。

ところが、先にこれを実施したホンジュラスでは、分配する農地が欠乏した段階で、政府は国内のエルサルバドル移民の耕作地を収容することを計画した。当時ホンジュラス国内のこのような不法移民の総数は10万人を大きく超えていたとみられる。そして、彼ら隣国の貧民共がホンジュラス国民の取り分を掠めたという非難を盛り立て始めた。

まず、1969年1月、1967年以降正式のルート外からの入国者の滞在許可更新を停止、その後、それをすべての外国人に拡大した。6月27日ホンジュラス政府は不法移民の追放と資産没収を発表、エルサルバドル政府との断交を発表した。

ホンジュラスによる追放令後、エルサルバドルのマスコミは、追放された農民の話とし
て、サンチョ・パンサども(百姓、転じてホンジュラス人)が村を焼き、女を手篭めにし
たと騒ぎ立てた。

戦争だ!
面積 人口 GDP(米ド
ル)
陸軍 空軍 空軍作戦機
エルサルバドル 21,040Ku 620万人 100億 15、000名 12機
ホンジュラス 112、942Ku 560万人 48億 6、000名 16機
*海軍はいずれも沿岸警備用のみ
*人口、GDPは推定

両国の戦闘は、まず、エルサルバドル陸軍が国境を3箇所で突破することで開始された

エルサルバドル領内の空軍基地に整列する軍用機。(エルサルバドル空軍撮影)

7月14日 開戦
まず、7月14日午後、ホンジュラス西部のヌエバオコテペク、グラシアス・ア・ディオス、サンタロサ・デ・コパンの3箇所の占領を目指し、これらを結ぶ幹線道路の前進を開始した。
この作戦はすでにサッカー事件以前から事前に準備されていた。そして、エルサルバドル軍は米州機構の介入を見込んでおり、それ以前に獲得できるだけの不動産の確保を狙った。特に移民の入植の多かった北西部国境地帯のヌエバオクトペケ付近は要確保であった。

そして、この日の夕刻18時頃、最初の空爆を実施した。空軍のDC-3双発輸送機がF-51を護衛に従えて、テグシカルパ上空に飛来、カーゴドアを開けると、45kg爆弾を次々郊外のトンコンティン飛行場に転がして落としていった。戦闘開始と同時に敵飛行場を襲うというアイデアは悪くない。しかし、照準器もない輸送機から落としただけでは効果は望めない。結局、単に広い敷地のそこかしこで爆弾を炸裂させただけで、編隊は引き上げていった。そして、その帰りに、同戦争初の未帰還機が発生した。と言っても、これまた護衛のF−51が故障を起こした上に機位を失い、隣国のグアテマラに不時着して休戦まで抑留されたというものだった。
エルサルバドル空軍最初のミッションはパッとしないものに終わった。

7月15日 侵攻 

前日の攻撃を受けて、前線に出動したホンジュラス軍指揮官からは、空軍による援護が強く要請された。これは特に、エルサルバドル軍の当面の主攻軸である北西部で、ホンジュラス軍が支援火力として迫撃砲しかもっていなかったためである。一方エルサルバドル軍は米国製の75mm山砲をこちらに展開していると目された。また、兵力で劣勢なのでいずれにせよもっと火力は欲しいところだった。

しかし、空軍はまず自分の作戦を優先した。つまり、前日の報復である。
早朝4時22分、やはりホンジュラス軍のDC−3輸送機がサンサルバドル近くのイロパンゴ飛行場を爆撃した。これはやはり、前日の敵方同様効果はなかった。ところが、ホンジュラス軍はこれで終わらず、追随したF4Uコルセア戦闘爆撃機2機が同じ目標に投弾し、こちらは滑走路、ハンガーに命中した。このためマスタング1機が損傷した。ただ、この機体は前年事故で破損して放置されていたもので、今回の爆撃で損傷したものではないとエルサルバドル側は主張した。
さらに、東の海沿いではコルセアがクツコ港近くのラ・ウニオン製油所に対してロケット弾を浴びせ、石油タンクを炎上させた。
この攻撃はエルサルバドルの乏しい対空監視網(レーダーは一応あった)を抜け、戦闘部隊が出払っている中実施されたため、損害は幸運にしてなかった。

ホンジュラス空軍のF4Uコルセア戦闘爆撃機

一方で陸軍の切なる要請にはこたえるために、西部戦線に対地支援にも何機かが対地支援に向かった。このうちの一機がまた、グアテマラ領内に不時着し、前日の敵軍機同様、拘留された。
一方エルサルバドル空軍も前日同様、トンコンティン、西部戦線と飛来し、ホンジュラス軍に銃爆撃を行った。

エルサルバドル軍のコルセア カモフラージュペイントされている。

そして、陸戦はヌエバオケトペケを焦点としての攻防戦となっていた。場所は国境から8KM。しかし、双方とも山岳地ということで兵站線の確保に苦労した。しかし、エルサルバドル軍は補給をこの日強化し、夜までにヌエバオケテペケ近郊のサン・マルコ・オケテペケに離着陸場を占領確保した。


7月14〜18日の西部戦線

7月16日 膠着

翌16日朝、エルサルバドル軍はヌエバオケテペケに突入、ここを占領した。そして、昨日占領した滑走路への空輸に支援され、さらにサンタロサ・デ・コパンに向けて士気と勢いを維持したまま幹線道路上を進撃した。
一方、ホンジュラス軍はサンタロサ・デ・コパンに増援部隊を空輸、ただちに前線に投入した。補充された1,000名の部隊は両都市間のほぼ中間で布陣し、エルサルバドル軍を迎え撃った。
結局双方は敵を抜くことが出来ず、山間の地で塹壕を掘って対峙することとなった。

7月17日 撃墜
この日まで、双方の戦闘機が遭遇することは少なかった。これはそれぞれお互いが敵の出撃中の留守を襲うという事態になったためである。また、乏しい機材のやりくりの中から防空専任機を固定するということが出来なかった。ただ、これには異論があり、ラテン人らしいマチズモ(男性誇示)から留守居役を両軍パイロットとも厭ったというが…
この日の焦点は、フォンカセ湾方面の東部戦線だった。
ホンジュラス領内のエルアマティリオの戦線に敵砲座を攻撃にホンジュラス軍は3機のコルセア戦闘爆撃機を出撃させた。しかし、そのうちのリーダー機が機銃の故障から、編隊全機に帰投させようとしたとき、エルサルバドルのF-51が迎撃してきた。このマスタングは戦闘不能の長機を襲ったが、残りの機がカバーに入って応戦、ヘルナンデス・ソト大尉の機がこの敵機を撃墜した。撃墜されたパイロットはパラシュートで脱出したが、結果として死亡した。着地に失敗したのか、降りてから殺されたのかは定かではない。

はじめての味方機の撃墜にエルサルバドル空軍には動揺が走ったが、その日はさらに衝撃が襲った。

午後、こんどはコルセア機がやはり東部で今度は2機撃墜された。しかも、敵はまたしてもソト大尉だった。つまり、彼は一日で3機のスコアを上げたことになる。


ヘルナンデス・ソト大尉と彼の乗機

7月18日 停戦

西部戦線の膠着の一方でフォンカセ湾方面の東部戦線はホンジュラス軍が前進していた。このままなら、国境まで到達というところで、米州機構の調停が功を奏して、休戦が成立する運びとなり、22時、両軍は戦闘を停止した。
ただ、西部戦線のエルサルバドル軍はその後もサン・マルコ・オケテペケに補充兵力と補給を継続せんとし、休戦条件のホンジュラス領からの撤収を行おうとしなかった。そのため、米州機構による経済制裁が実施されるというタイミングで、7月27日にはホンジュラス軍が国境の5拠点を襲い、29日まで占拠するという事態が持ち上がった。
しかし、結局、アメリカはじめの停戦監視団は8月までとどまり、兵力引き離しとエルサルバドル軍の撤収を完了させた。

戦争は終わった。

エピローグ
この戦争の結果、エルサルバドルは戦争目的を達成したとは言いがたい。
当初の目的、地所捕りに失敗した上、経済制裁を米州機構から受けている。これは、調停に当たったアメリカの外交に、戦争による領土変更を認めないという賢明さがあったためである。
これは第一次大戦の講和以来一貫して主張してきたところだ。また、この時期には、ニクソン=キッシンジャー外交の唯物論的な悪辣さは顔を覗かせていない。

一方では、自国に還流した大量の難民が治安、経済に不安要素をもたらした。軍事政権は倦土重来のための軍備再建増強の一方、土地改革によって地主壊滅を策した。これにニカラグア革命の影響を受けたマルキストのFMLNの蜂起が直撃し、70年代後半以降、同国は長い内戦に突入することになった。

一方、ホンジュラスは防衛の強化を考えざるをえなくなった。だが、結局世界最貧国の一つでもある同国にとって、強大な同盟国との協調以外に活路は見つからなかった。
同じくニカラグア革命後、同国はアメリカ軍の受け入れを決め、またソモサ派残党によるニカラグア反革命軍の拠点を提供して、中米の嵐の時期を乗り越えようとした。今でも、国内には1000名のアメリカ軍特殊部隊が駐留する。

この戦争の死者は諸種のデータがあり、はっきりしないが双方合わせて2000名という数字がある。民間人も含むとも言われるが、両軍の規模から見て異様な多さと驚かざるをえない。

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