短編小説『碁キチ物語』(囲碁三昧)
著作:寺沢憲重(てらけん)


第一章

生まれて初めて、私に碁の手ほどきをしてくれたのは上司だった!。

関西に来て、小さな会社で働くようになり、30店舗のテナント募集の営業に
毎日駆けずり回っていた。会社とは名ばかりのトンネル会社で従業員の数は八人で、
社長の他は、事務員と専務、常務、大卒が二人、高卒が三人である。
一癖も二癖もあるような八人が、市場で商売をしてくれる業種の商人募集をしていた。
そんなある日、「常務」と呼んでいた人から、「寺田くん・・・」

「今度の日曜日に僕のところへちょっと遊びに来ないか」と誘われた。
「あっ、はい」当時は遊ぶお金もないし休日は暇を持て余していた。
何かご馳走でもしてくれるのかな・・・!?。

常務は一年ほど前に離婚して、今は、一人住まいをしているらしいと聞いていた。
初めて訪れた先は長屋形式の文化住宅で、玄関を開けて「こんにちは」と声を掛けると
ステテコ一丁の下着姿で現れニコニコ顔で「さぁ入れ、さぁ上がれ」と急かす。
狭い玄関に入ると、いつも履いている茶色の靴が揃えてあった。下駄箱もなさそうで
たった一足だけの靴を見て一人所帯の男の侘びしさを感じた。

2DKの狭い部屋に上がるやいなや、隣の部屋からそそくさと折りたたみ式の
碁盤を持ってきて食卓用のテーブルの上に置いた。盤上にある星と呼ばれる点の
9箇所すべてに石を置くように言われた。わけもわからずに九つの石を置くやいなや
「囲んだ陣地が多い方が勝ちや、とにかく、打とか、」って、生まれて始めてやのに…?
そう言われてもなぁ…?「囲碁のイの字も知らないのに無茶苦茶や」そう思いつつも、
一応上司の言うことだから、訳も判らぬまま、仕方なく打ち始めた。そして…。
何局打ったか覚えてないが9つの石(9子局)を置いて打っても負ける。やられて
ばかりで置き石数のハンディを生かす事はできなかった。・・・悔しかった。
でも、おぼろげに碁のゲームの面白さが感じられるようになっていた。
何度か通って打っているうちに置石の数も八つになり七つになり六つになり五つになった。

後で解ったことなんだが、常務はまさしく「下手の横好き」で、棋力は三級ぐらいで、
あまり強くなかった。離婚の寂しさもあって・・・、昔覚えた好きな碁を打ちたくて
私を誘ったのだろう。石が取れたら嬉しそうに笑う得意げな顔が思い出される。
碁がちょっぴり面白く感じ興味を持ち始めたのは21歳を過ぎた秋の頃だった。
思い起こせばその上司はヘボ碁だったなぁ。初段に五子置いても勝てないんだから
しかし、常務の弱さ加減が、私にとって、碁を覚えるのに丁度良かったのかも知れない。

何にも無かった600坪ほどの土地に、約六ヵ月間を要したが、地域住民が買い物をする
30店舗の市場が完成した。関西の吉本の人気芸人やらチンドン屋、空にバルーンを上げ
それぞれの業種の商売人がここで稼ごうと人生を賭けた市場が華々しくオープンした。
テナント募集の仕事も終わり、小さな会社で次にすることも無くなってしまうと、
商人募集の請負人たちの身の置き場所も無く、次々と自主的に辞めていった。
不動産業に戻る者、叉よそで商人募集を始める者、てんでんバラバラになっていった。

あれ以来、碁を打つ機会も無くなり何年か過ぎ去り、縁あって22歳で結婚をした。
そして市場の中で自営業を始めた。小さなスペースのスーパーを11年間営み、その後、
次の商売の炉端焼きを初めて間もなくの頃である。店の常連でよく来てくれていた
20歳台後半の若い客が、ある日「マスター碁を知ってるの」と聞いてきた…??。
そのお客は県大会で優勝経験があり5段か6段クラスの碁がめっぽう強い若僧だった。


第二章

本格的に碁を打つ事になった。

「マスター碁、知ってるの」そう聞かれた私は、「うん、ちょっと」と答えた。
そして、ある日の昼過ぎ家に来てもらって碁を教えてもらう事になった。
定石がどうのこうのと説明してくれるが、ちんぷんかんぷん「あぁ〜〜」
あくびをする始末。教えてくれるのは良いが付き合うのが辛くて眠たくなってくる…。
そんなこんなでまだまだ碁には深く興味も湧いていなかった。

そんな私が塩干乾物のスーパーをしていた頃、物が何でも無くなると騒いだ時代があった。
その頃、買い物客で○○化学会社の若手社員と知り合い、会社の寮で麻雀をして遊んでいた。
その中の一人が日向(ひゅうが)の出身で穴の開いたハマグリが机の上に転がっていた。
碁石を作るときに開けた3つの穴の説明を聞かされ、「本ハマグリもほんまもんの
那智黒の黒石ももうじき無くなるやろな…。」何でも無くなる噂のオイルショックだった。

何でも欲しがり屋の私は、老後の楽しみにと新カヤの6寸碁盤に特大のけやき碁笥と
日向のハマグリ9ミリ、那智黒石の一式を買うことにした。
当時の月給よりもはるかに高額でその値段は…!
碁盤が27万、碁笥が3.6万、碁石が5.8万円もした。
宝物のように感じた、余生はこれで優雅に碁が打てると思った。
たまに、その重い六寸盤の碁盤を引っ張り出してNHKの囲碁対局を見ながら、プロの打つ
手を並べたりして碁を楽しんでいた。

転地正目の自慢の碁盤で昼下がりの陽光が差し込む縁先で、棋譜を見ながら打つ碁は
心地いい楽しみな時間だった。何度か碁を教えに来てもらっていた、そんなある日、
例の若僧から、碁会所に行ってみようかと誘われた。碁会所の場所は店の近所にあって
知ってはいたが中を覗いたこともなかった。そこは平屋の古家で玄関を入ると左に畳敷きの
部屋があり中へ上がった。横で見ているように促され、彼が打つ碁をただじっと見ていた。

相手は2段ぐらい3子局(相手側がハンデに石を3つ置いて戦う)で打ち始めたが、
一番目は辛くも彼が負けた。「次は5目差で勝つから」とそっと耳打ちをしてきた。
相手が一手一手毎回力を込めて石音を大きくバンバン叩いて碁盤に打つので、
そのマナーの悪さにプッツンしている様子だった。
そして次の勝負は言った通り、二番目はヨセ勝負に持ち込み僅差で勝った。

私に向かって“してやったり”と目配せをした。「う〜ん」」大したものだ。
そして、あのおじいさんと打ってみたらと言われ、初段ぐらいのおじいさんと碁会所と
いう場所で始めて碁を打つことになった。勿論適当なハンデの石を置いて戦ったが
ボロボロ負けた、相手は破顔一笑、嬉しくてあからさまな満面の笑みである。
「悔しい…クソッ腹立つ」そして次の日からせっせと碁会所通いが始まったのである…。

       

第三章

碁会所通いの日々「碁を覚える」

碁会所通いが日課になり、その日の買出しが済むやいなや遊びに行く、いつもの顔ぶれ、
おじいちゃん連中が楽しそうに打っている。
相手によって5子局だったり7子局で打ったりして相手をしてもらう。
ほとんど負けてばかりである、向かっていっては負ける、中には偉そうに
「俺と打つのは十年早いわ」とか「ふんどしかつぎとは打てん」
などとぬかしやがる、むかつくけどそれでも打ちたくてしょうがない。

5段位でめっぽう強い人がいつも窓際の席に座っていた。振る舞いも言動も紳士的である。
時々五時近くになると若い人が呼びに来るのだが、その感じが普通でないので分かった。
ヤクザで、呼びに来る若い衆から叔父きと呼ばれている人である。
ある日の事、店の常連客であり私に囲碁指導をしてくれた若僧とそのヤクザの叔父きと
手合わせをすることになった。強いもの同士の碁は息が詰まるような、間合いがあり、
攻防が難しくて、どうなるのか迫力満点である、横で見ていても全然飽きない。
その後も二人が打つことがちょくちょくあった。いつもヤクザの叔父き方が先番で黒を
持って打っていた。
それで、何気なく「○○さん勝ったり負けたりしているのに、どうして交代して白を持って
打たないんですか、」と聞いてみた、すると紳士的なヤクザの叔父きの○○さんは…。
こう言った。「碁の質が違う、相手は本格派や」「ええっ!」と驚きその言葉に感心した。
なかなか強い手を打つ人だと思って見ていたのに。そんな事を言うとは、この○○さんは
相手の棋力を認めた上で勝負などにこだわらず、これだけ強くても打ち方を学ぼうという
向上心を持って碁を打っていることに気付き感心した。

ヤクザの叔父きの○○さんは相手が弱くてもいい加減に手を抜くようなことは絶対にしない、
おじいちゃん達がかかっていってもこてんぱんにやっつけられる。
手を抜くような失礼なことはしないから、取れる石は容赦なく取る。
何子か石を置いているにもかかわらず、誰がかかって行ってもこてんぱんにやられる。
他に打つ相手がいない場合は仕方が無いが、○○さんは強すぎて誰も快く打ちたがらない。

それで相手がいない時が多くそんな時は好きな缶入りピースを吸いながら独り黙々と
いつもの窓際の席で座り、棋譜を並べたりしている。
私は相変わらず弱く8級あるかないかだったと思う。そんな私にヤクザの○○さんが
「打ちますかっ」と声を掛けてくれた。「・・・エッ俺といいんですか」そして・・・

第四章

碁会所「囲碁の面白さにハマッタ!」三級になるまで

「わしと打って見るか」ヤクザの○○さんが声をかけてくれた。
上位者のお誘いを無下に断るわけにも行かず。「えっ!いいんですか」
軽く頷く相手「それじゃ・・お願いします」と言って対面に座った。
「わしに一度でも勝ったら、置石を一つ減らす」「…はい」
初めて碁を打ったときと同じ9子局で対局が始まった。

その日からほとんど毎日のように二人で打った。石を取られてボロボロに
負ける、こっちは投げることをしないから、とことんやられるまで打って
しまいには大差で負ける有様が続いた。
囲碁は地の多い方、囲っている目の数が多い方が勝ちなのであるが、石を
ぎょうさん取られるから、せっかく囲った地が埋まってしまう。何度やって
も負ける。最初のうちは勝ち負けよりも胸を借りている気持ちが強く教えて
もらっているんだからと感情を迎えることができたが、少しづつ勝てそうな
碁が解って来ると負けた悔しさが感情となって現れ、店に帰るや否や椅子を
片っ端から蹴飛ばしたりしたことも度々あった。

「今の碁は、あそこをどうしたらよかったのかなぁ」と問うと「終わってか
らはわからんなぁ」と言う返事が返ってくる。囲碁の世界にもゴルフのよう
に茶々を入れて教えたがる教え魔が多いものだが、ああだこうだと教えるこ
とはなかった。打って打ってわしから盗めといった教え方である。ただの一度も
ここはこうしろとか、こんなときはここを打てばいいんだ。などと言った事は
なかった。打つことで学ぶ、後々になってそれが良かったんだと思った。

通い続けてようやく九子局から七子局にようやくなることができた。そんなある日…
「黒先で打ってみるか」「…えぇっ!」やっと七子で打てるようになったと
言っても今までに二度しか勝ってないのにハンディ無しとは無理と思った。
「だいぶ碁が解って来たから。結構打てるかも知れんな」と言うのである。
もちろん私が黒を持って先番で打ち始める。今まで碁盤の上にあったハンディの
七つの石が無いのである。それまでは地を何とか確保しようと考えて打っていた
棋風では相手の思うように、さばかれ当然のことながら大差で負けてしまう。
ハンディ無しの、黒先(くろせん)で打つということの大事な意味がおぼろげに解った…。

しばらくは七子で打ったり、互い戦で打ったりしてもらっていた。
自称五段とは言っているが県代表になってもそこそこ戦えそうな棋力の持ち
主である。そう易々とは行かない。七子で勝って六子局に成るには一級から
初段クラスでないと無理なのである。

しかし奇跡が起きた。それは黒先(くろせん)で打ったときのことである。中盤までは
石を取られて不利だった。誰が見ても勝てそうに無い、ましてや相手が悪い
(強すぎて)、ところが中盤以降から相手の大きな石の集団を殺してしまった。
私が相手の石を仕留めたのだ!「こんなこともあるんや!」互い戦で私が勝てたのだ。!
○○さんは負けたことを意に介さず、少し照れ隠しのような作り笑顔で投了した。
そしてこう付け加えた…。「安永道場へ行って三級で打ってみぃ」と優しく言った

第五章

碁会所「囲碁に興じる日々」巷の三段に昇格!

「安永道場へ行ってみぃ」と言われ伊丹駅近くにある安永道場に
他流試合をしに行くような気持ちになり武者震いを感じた。
今まで遊ばせてもらっていた碁会所は席主もご高齢で間も無く店を閉じた。
そんな事もあって阪急伊丹駅前三階の伊丹囲碁センターに通うこととなった。
日本の囲碁界の重鎮であり、中国でも有名な安永一先生の安永道場である。


左端が安永先生で私は三番目で・・・、いや〜若かったなぁ〜!。


安永道場へ始めて行った日は、自分がどれくらいの棋力なのか皆目見当がつかなかった…。
新入りの弱そうな人の相手をするおじいちゃんが、入り口を入ってすぐの席を陣取り
待ち構えていた。席主のおばさんにその人と打つように促された。

碁の弱い初心者の初相手をしてくれるお爺ちゃんで、万年三級位で碁を楽しんでいる。
棋力の弱い人に調度良い相手役で碁会所の主みたいな方と初手合わせをした。
四、五級ぐらいと自己申告をして、私が黒で先番で打った。

一局打ち終わると「強いね三級はあるなぁ」「…あっそうですか」何番打っても
勝ってしまう。嬉しくて笑みが込み上げてくる。今までめっぽう強い人と
打ちつづけていたから相手の石の形の悪さがよく見えた。
おじいちゃんはざる碁もざる碁とんでもない打ち手でそれはそれで面白いのだが、
石を取ったり取られたり終始喧嘩が絶えない内容の碁である。

通ううちに少しづつ回りの顔とも知り合いになり、二級の方と打ったり
徐々に強い相手を選んで手合わせをして貰えるようになった。
いつの間にかそこの初段クラスで打てるようになり碁が面白くて楽しくて
しょうがない。そんなある日、私が初心者の頃にふんどし担ぎと
こけにしていた。あの頃初段ぐらいで打っていたおじいちゃんと久し振りに
出会って対戦することになった。「強くなったらしいなぁ打とか」と誘われた。
私は武者震いを抑えて席についた。「おねがいします」と頭を下げ会釈をした。
相手はまだなめて掛かっているようで横柄に軽く頭を下げた。
私が黒石を持って先番である。「パチッ」「パチッ」盤上に石音が響く。

相手はコウに持ち込むのが得意でどこでも、何でもかんでもコウに
してしまうタイプである。その棋風は以前にヤクザの○○さんと打っている碁を
見てこっちは知り尽くしている。眉毛が太く大きなガタイの割には、ちまちました
碁を打つ人だった。途中執拗にコウをけしかけられ往生したが辛くも何とか
勝ってしまった。勝てた事で自信を持ち、二局目は難なく勝ってしまった。

当時、私のことを「俺と打つのは十年早いわ」などと偉そうに、ぼろくそに
言っていた連中の棋力ってこんなもんやったんや、弱いなぁと思った。
碁がちょっと打てるからと言って、そんなに、偉そうに言うことはないじゃないか、上には
上が居る。いくら弱くても同じ趣味の仲間やないか、偉そうにするなと思った…。

何年か囲碁三昧の日々を経て道場の月例の大会で三段と四段と五段の三人と対局した。
三段とは握りで打ち、四段とは先で打ち五段とは二子局で五目半のコミ出しで戦うのである。
なんとその時の月例大会で全勝し席主からこれからは三段で打って下さいと言われた。
ようやく三段に昇格できた。あくまでもその道場での手合いで巷の三段と言うべきだろう。
その頃に、当時流行っていた出来合いのスナックビルに敷金400万円で家賃24万円で契約し、
メンバー制のスナックの経営を始めた。まだバブルが終わっていない時代で毎晩
カウンターもボックスもお客でいっぱいになるぐらい大盛況だった!。
社員と来ていたお客さんが、フィットネスクラブ(スポーツジム)のインドアでゴルフの
レッスンをしてもらえないかと、フィットネスクラブの部長から依頼の話が舞い込んだ。
そのことがキッカケになり好きなゴルフを教えるという立場になり、教えることが天職と
思えるほど、教えることが面白くて苦にならず、月・水・金とフィットネスクラブへ通った。
阪神大震災でフィットネスクラブが入っていたビルも被災に遭い解体されてしまった。
会員制のスナックが二年契約が過ぎ、再契約で家賃が二割アップするので辞めることにして
他のゴルフ練習場で個人レッスンを始めることにした。
今は無くなりマンションが建ってしいるが、猪名寺駅の西側に「つかしん前ゴルフ練習場」が
あった。そこの支配人にレッスンの許可をもらって、「スリーF」という名称のゴルフ
レッスンの教室を持った。パンフレットを一軒一軒配布したり、配サンケイリビングに
一回12万円の生徒募集広告を掲載し、一から生徒を募集して頑張っていた。
その頃でも、生徒の予約が無いレッスンの合間をぬって碁会所通いを楽しむ日々が続いていた…。

あっという間に十五年間が過ぎて、ゴルフレッスンの生徒が少しづつ減っていった頃に、
新伊丹駅前で、昔からの知り合いが施工主である四階建てのビルが完成を向かえていた。
西の改札口を出てバラ公園の左側にあるビルの二階の半分を仕切って借りれることになった。
高齢化社会を向かえ、囲碁好きが暇つぶしに碁で遊ぶ人が増えるだろうと考え、囲碁好きが
こうじて「友和クラブ」という店名で囲碁と将棋の店をゴルフレッスンで稼いだお金で、
開設したのだが、それが大失敗で、客が思ったほど来ず、暇な店で商売にならず、毎月が赤字
続きだった。囲碁は趣味に止めて置くに限ると、今更ながら後悔し悟った次第である。(^-^)。





今だから公表できるが、この画像の右にある段位認定証は安永一先生の直筆の認定証で、
その当時この事をひけらかすと皆が欲しがるから内緒でと、口止めをされていた。

              [完]  著作:寺沢憲重 

           あとがき

駅前から作家の田辺聖子さんの三軒隣に移転した現在は小さなスペースの店ですが、
「青い屋根」は地域のコミュニティの場として喫茶コーナーと友和クラブを併設しています。
気が向いた折には是非お立ち寄り下さいませ。お気軽に遊びに来てね。
現在の店舗「青い屋根」をご紹介します。コチラからどうぞ。