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天文13年(1544)、竹中重元の子として生誕。生誕地は美濃の可能性が高いが、詳細は不明。諱は他に重虎。通称半兵衛。安藤守就の娘婿。美濃菩提山城主。
初め斎藤龍興の被官だったが、再三に及ぶ諫言を無視する龍興に対してクーデターを敢行。永禄7年(1564)舅・安藤守就や弟・重矩と共謀して、稲葉山城の変を起こす。重治は城勤めの重矩の見舞いとの名目で15人の供とともに登城、龍興の寵臣・斎藤飛騨守など数人を斬り殺し、合図すると待機していた安藤守就と重矩の兵が乱入し、長持の中に隠した武器を使って電光石火の如く城を占領した。このクーデターは龍興や斎藤飛騨守らに侮辱された意趣返しとも言われている。 その後織田信長から城の譲渡についての交渉を受けるが「城を奪ったのは主君を諌めんがため」とこれを拒否。稲葉山城を龍興に返却し、自らは浅井長政の客将となった。永禄10年(1567)8月に信長が稲葉山城を陥落させて斎藤家を滅亡に追い込むと、羽柴秀吉の誘いにより織田家の家臣となった。伝承では、この折に秀吉が「三顧の礼」をもって迎える名場面が語り継がれている。 近江での人脈を利用し、近江国人の切り崩しに実績を上げて元亀2年(1570)6月の姉川合戦にも参陣。この頃から秀吉の参謀として辣腕を振るうようになる。秀吉が長浜に所領を得ると、重治は「君が代も わが世も共に 長濱の 真砂のか須(ず)の つき屋(や)らぬまで」という歌を残して秀吉と自分が長浜とともに栄えることを祈っており、この歌碑は現在も長浜市内の豊国神社の近くに建っている。 秀吉の中国攻めに従軍した重治はここでも調略に冴えを見せたが、天正7年(1579)4月播磨三木城の攻略中に労咳を発し、6月17日に播州平井山の陣中で病没、諸将を嘆かせた。享年36歳。「楽しみも恨みもこれなく」という最期の書状の言葉に、間近に迫った死を悟り達観した重治の心情が表れている。 「その容貌、婦人の如し」と言われ、柔和でおよそ武人らしからぬ外見だったという重治は、その外見とは裏腹に豪胆かつ知略の塊のような人物で、斎藤家時代から「今孔明」「今楠木」と呼ばれた兵法・軍略の天才であった。秀吉の寄騎時代には黒田官兵衛孝高とともに「二兵衛」と並び称せられ、秀吉の懐刀として有り余る鬼謀を存分に発揮した。 稲葉山城の変を初めとする重治の鬼謀を伝える逸話は、枚挙に暇がない。元亀2年(1570)6月の近江攻めの際には、美濃・近江国境の長亭軒城を織田方に転向させた。続いて長比(たけくらべ)砦を陥落させ、天正6年(1578)には備前八幡山城を味方に招いて、信長に絶賛された。 また同年黒田孝高が謀反した荒木村重の説得に向かい摂津有岡城で幽閉される事件が起きた時、信長は孝高が翻心したと誤解して孝高の息子・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じたが、重治は松寿丸を菩提山城に匿った。恩義を感じた孝高は、重治の死後に家紋を竹中家のものに改めたという。重治の調略に秀でた特徴や冷静沈着な性格をよく表している。 軍師・参謀としての重治はその天賦の才の上に一層情熱を燃やし、息子・重門にも「戦の話を聴いている時には便所に行くな。その場で垂れ流せ」とまで極言したという。また馬についても「高い馬を買うと実際の戦闘の時に馬を惜しんで戦機を逃すこともあるから、適当な値段の馬を買っておけ」と訓戒した。 黒田孝高が「秀吉様から知行を約束する文書を頂いたものの、いつまで経っても実行されない」と愚痴を漏らした時に、重治はその文書を破って燃やしてしまった。驚く孝高に対して「こんな文書があるから不満を感じるのだ。結局は貴方の為にならない」と諭したという。全ての事柄に優先するのは軍略・武功であり、その他は些細な事であるという重治の価値観がよくわかる逸話である。 黒田孝高が戦を功を成す一手段と見ていたのに対して、重治は戦そのものを趣味としていた感がある。戦国武将でありながら領土的野心がなく、自らの出世に全く無関心だったという性格が、重治に軍略家としての凄みを与えていると言えよう。 晩年に病気となり、京都に戻って療養していた重治が死期を悟って三木の陣中に戻って死を迎えたのも、戦場で死にたいという願望によるものだった。とにかく戦いこそが彼の生き甲斐であり、人生の全てだった。『武功夜話』によると、その人柄は「その才温雅にして慈眼あり。学才有って軍書に詳しく、泰然の構えで、常に戦場にあって冷静さを失わない」と記されている。 |