戦国武将列伝:16


     丹羽 長秀 (1535〜1585)


実直堅実な働きと豊富な経験で、織田政権の影の功労者となる。
秀吉との奇妙な腐れ縁の末にその麾下に入り、壮絶なる死を遂げた。
丹羽長秀
 天文4年(1535)9月20日、丹羽長政の子として尾張春日井郡に生誕。幼名、万千代丸。五郎左衛門尉。越前守。法名、総光寺大隣宗徳。正室は織田信長の養女。

 天文18年(1549)から信長に仕えた。永禄11年(1568)9月の信長上洛時、羽柴秀吉・佐久間信盛とともに六角承禎の箕作城攻略に功績を残す。信長上洛後のしばらくの期間、長秀は羽柴秀吉・明智光秀・中川重政らとともに京都の行政に携わっている。同12年(1569)には伊勢大河内城の北畠具教を攻める。元亀元年(1570)6月の姉川の合戦にも参陣し、佐和山城攻撃を担当した。その功績により同3年(1572)佐和山5万石を賜って磯野員昌が退いた後の城主となっており、その後も長島の一向一揆、浅井・朝倉討伐、長篠の合戦など諸戦に功績があった。

 天正3年(1575)7月「惟住」の姓を賜り、同年8月越前一向一揆を平定。同4年(1576)の安土城建築の際には普請総奉行として大いに活躍した。同5年(1577)10月の松永久秀討伐では中核軍として役割を果たし、若狭小浜10万石を合わせて宿老に昇る。同6年(1578)には明智光秀を支援して波多野秀治を丹波八上城に攻撃し、同7年(1579)羽柴秀吉を助けて播州三木城に別所氏を包囲する。同8年(1580)の加賀一向一揆戦では柴田勝家とともに出陣し、若狭小浜で廻船を支配。一揆勢の物資補給を遮断する作戦の実行を担った。同9年(1581)2月の京都で、正親町天皇の観閲下で行われた大軍事演習「馬揃え」で、信長は長秀の部隊を行進の一番手として一世一代の晴れ舞台で最高の名誉を与えている。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変の折には堺にいて、信長の三男・信孝を総大将とする四国征伐軍の実質的司令官として、河内森口まで軍を進めていた。兵士の動揺によって明智光秀と戦う余裕はなく、大坂にいた光秀の女婿・津田信澄(信長の甥)を謀殺するのが精一杯だった。羽柴秀吉が中国筋から上洛すると、摂津尼崎でこれに合流して山崎の戦いに挑み、勝利を収めた。以後、秀吉を支える立場で政局に影響を与える。

 織田家の宿老として事後処理に当たり、秀吉・柴田勝家・池田恒興らとともに高山右近に知行を配分しており、また秀吉と連署した禁制を美濃・近江に下している。清洲会議でも秀吉に与し、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)の擁立を実現した。これらの功によって若狭に加え、近江滋賀・高島の2郡を加えて大溝城に入る。

 かつて織田家中で並び立っていた柴田勝家が秀吉と対立して戦った天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦では、琵琶湖北西岸から秀吉を側面援護した。戦が佳境に入った時に湖水を押して参戦し、勝家股肱の臣・佐久間盛政を捕らえて秀吉の下へ送るなど、秀吉軍大勝の一因となった。戦後には越前・若狭二ヶ国と加賀半国の合計120万石という大領を領して、勝家亡き後の北ノ庄城に在城した。

 天正12年(1584)春には秀吉より上洛の要請を受けるがこれに応じず、一時両者の間は険悪となるが、重臣・村上義明を使者として秀吉の下へ送り、和解に努めた。同年3月の小牧・長久手の戦いでは周囲の情勢が微妙であったために領国を離れることなく、加賀の前田利家とともに北陸の一揆勢力に備え、代わりに子の長重を参陣させている。

 天正13年(1585)4月16日死去。享年51歳

 長秀は、生涯ナンバー2の座に甘んじた。その温厚な人柄を慕う者は多く、周囲に敵を作らない性格だった。降伏を願う者は長秀に仲介役を頼んだという。軍事・民政・建築とバランスの取れた才能を持つ長秀を、信長は高く評価していた。信長の養女を妻に迎えた長秀は、織田家が躍進する上で必要不可欠な人材ということを意味して「米五郎左」とあだ名された。ルイス=フロイスにも柴田勝家と並んで、織田家の2本の柱と評されている。

 しかし信長死後は、秀吉政権樹立の後ろ盾とならざるを得なかった。賤ヶ岳の後に秀吉から「羽柴」の姓を与えられたが、かつて長秀と柴田勝家にあやかって「羽柴」の姓を作った秀吉から、その「羽柴」姓を賜った長秀の心境は複雑であったであろう。織田家をないがしろにして天下統一に向けて邁進する秀吉に幻滅と憤りを抱き、遂に病に倒れたのである。死の床で「これもまた、我が仇なり」と叫んで自らの腹を突き、腹の病虫を掴み出して死んだという。「これもまた」というところに、秀吉への憎悪が滲み出ている。




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