戦国武将列伝:12


     斎藤 道三 (1494?〜1556)


乱世の申し子として、幾度も主君を裏切って下剋上を具現した大梟雄。
端倪すべからざる「美濃の毒蝮」は、その死に様もまた華々しい。
斎藤道三
 明応3年(1494)頃、北面の武士・松波左近将監基宗の子として山城西ノ岡に生誕。幼名、峰丸。法蓮房。松波庄五郎(一説には庄九郎)。山崎屋庄五郎。西村勘九郎正利。長井新九郎規秀。斎藤新九郎利政。斎藤秀龍。山城守。入道して道三。美濃稲葉山城主。正室は奈良屋又兵衛の女。

 幼少の頃から美男子で聡明との噂が高かった。永正元年(1504)に仏門に入り、法蓮房の名を与えられて京都妙覚寺で修行。将来を嘱望されるが、後に環俗。燈油問屋・奈良屋又兵衛の女を娶り、山崎屋と号して燈油を商った。妙覚寺時代の弟弟子・日運上人の誼で美濃まで行商の足を伸ばし、日運上人の推挙で守護土岐家の老臣・長井長弘の下に仕官して西村勘九郎正利を名乗り、長弘の推挙によって守護・土岐頼純の弟・頼芸の寵臣となる。

 大永7年(1527)8月5500の兵を率いて革手城を攻撃し、土岐頼純を越前へ敗走させて頼芸を守護の座に就かせた。しかし国政は土岐家代々の執権である長井長弘の手によって行われていたため、享禄3年(1530)1月に恩人の長井長弘を妻もろとも暗殺し、長弘の名跡を継いで長井新九郎規秀を名乗り、執権となって実権を握る。天文7年(1538)に守護代・斉藤利隆の病没を受けて斎藤氏を継承、斎藤利政を名乗る。同8年(1539)、稲葉山城(岐阜城の前身)に拠って城郭の大改築を行う。

 天文10年(1541)、頼芸の弟・頼満を毒殺。これに激怒した土岐一族や譜代の家臣は総決起。道三抹殺を謀るが、同11年(1542)5月道三は先制攻撃に出て頼芸の大桑城を包囲する。頼芸は美濃を脱出して熱田一向寺に向かい、織田信秀を頼った。同13年(1544)、越前に亡命していた頼純と尾張に亡命した頼芸が連絡を取って美濃に侵攻した。土岐氏を支援する朝倉家・織田家や土岐一族との衝突を不利と見た道三は、和議を申し入れる。

 同16年(1547)9月、織田信秀の稲葉山城攻撃を加納口で撃退、乗じて大垣城も攻め落とす。この年の11月頼純の喪中で無防備な大桑城を再び攻めて頼芸を再び尾張に放逐。相羽城主・長屋景興と揖斐城主・揖斐光親を攻める。同18年(1549)2月の信長・帰蝶の婚約によって大桑城に戻った頼芸を、美濃の完全支配を目指して同21年(1552)に攻撃。土岐家はここに滅亡した。

 天文23年(1554)長子・義龍に家督を譲り、稲葉山城に拠らせて自らは鷺山城に隠居。しかしその裏で、次子に後を継がせようと画策する。この企みを知った義龍は弟の龍重・龍定を殺害。道三と絶縁宣言をして、これが美濃を二つに分けた騒乱にまで発展する。弘治2年(1556)、土岐家の末裔を称する義龍に土岐家譜代の豪族が与した。

 これに対して道三は、婿・信長のために遺言として美濃を譲り渡すという書簡を残し、美濃長良川を挟んで義龍に正面切っての決戦を挑む。だが多勢に無勢、衆寡敵せず。同年4月20日義龍の猛攻の前に壮絶な討死を遂げた。享年63歳と伝えられる。

 道三は義龍に余程恨まれていたらしく、戦後道三の遺体は五体を切断されるという辱めを受けたという。しかし道三の首は斬りつけた小牧源太という侍が旧恩を感じ、密かに長良川のほとりに葬った。これが今も岐阜市に残る「道三塚」である。無能だと思い込んでいた義龍の軍が見事に統率されていたので、道三は自分の目が曇っていたことを思い知らされた。義龍が道三の実子だというのが事実なら、恐ろしいことにこの父子は、相争うことで実の父子たることを証明したことになる。

 一代で美濃一国を手中に収めたと言われる道三だが、最近の研究では親子二代での美濃攻略説が有力である。還俗して西村家に入った時点までが父・基宗の代で、長井氏を名乗った後が息子・道三とする説が有力である。

 勇猛果敢な猛将というよりはむしろ頭脳的な用兵に妙を得る智将で、狡猾で油断のならないという意味を込めて「美濃の毒蝮」とあだ名された。また大変器用であったらしく、燈油商人の時代に量り売りの油を、一滴でも銭の上に垂れたら無料にするという触れ込みの上で、漏斗を使うことなく直接枡から一文銭の穴を通して注ぐという演技で評判になる。他には2丈1尺(約6m半)もの槍を操って、正確に屏風の虎の目を突いたと言われている。鉄砲を撃たせても百発百中であった。ちなみに「道三」の法号は僧侶・商人・武士の三つの道を経験したことから由来しているという。

 陰謀を駆使して国を盗った代償は大きく、稲葉山城の曲輪には「主を斬り 聟を殺すは 身の(美濃)終わり(尾張) 昔は長田 今は山城」という落書が書かれたという。「長田」は平治の乱で、後白河院の追討を受けて逃亡した主人の源義朝を美濃で謀殺した人物。道三はこれに比肩する悪逆の徒という揶揄である。美濃国内には相当の反道三勢力が存在し、これに対して道三は徹底的な重科政策を行った。微罪の者を牛裂きや釜茹での刑に処して、評判は芳しくなかった。しかしわずか二代で成り上がった新米国主は、圧倒的な強権で反対派を抑えることしかできなかったのだろう。

 ところで道三には常に悪逆非道の印象がつきまとうが、果たしてそう言い切れるだろうか。例えば信長がもっと早く死亡していれば、おそらく日本史上稀に見る極悪人としての評価が下されただろう。道三の業績は時代が早すぎたこと、史料が少ないことなので結論付けることは難しい。だが道三は単に「下剋上で成り上がった大悪党」という言葉では括りきれない人物である。そして道三は美濃一国だけでなく、もっと大きな何かを信長に託そうとしたのではないか。いずれにせよ信長の鬼才を見抜いたほどの慧眼の持ち主であり、戦国の申し子としてその名を歴史の一幕に残した梟雄であることに変わりはない。




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