[切ない夜]of [金の砂銀の砂]

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切ない夜

 ロイ――?

 ジムが帰ってから間もなく、お互いに部屋に戻ってとっくに眠ったはずだとカーターは時計を見た。出かけるときの音には気づかなかった。
 かちゃかちゃという音に夢中になっていたせいかもしれない。
 だが、紛れもなくこの家に入ってきたのは間違いない。
 おそらく静かに閉めたかったのだろうが、ドアが風に煽られでもしたのか、激しい音をさせて閉じられたらしかったからだ。
 彼女が電話でもかけてきて、わがままを言ったのだろう。週末が潰れるとか、なんとか馬鹿正直に伝えたに違いない。

 カーターの唇に微笑が浮かんだ。
 今の彼女がどんな女性かは知らないが、以前の結婚相手の美女はよく覚えている。勝ち気そうな、とてもロイは太刀打ちできないだろうと思わせるタイプだったように思う。同じような好みでいったなら、ロイはまた振り回されるような相手を選んでしまったのかもしれない。
 少しほほえましく感じながら、カーターはキッチンへ行くために階段を下りた。
 暗いままのキッチンで冷蔵庫を開け、水のボトルを取り出すと、ドアのない間口からリビングの一隅が見えた。硝子越しの月の光が明るく、室内をうっすらと照らしている。
 白いソファの背もたれの上に、何かが乗っているのに違和感を感じて思わずどきりとした。
 ソファはこちらに背を向けて置いてある。背もたれの上の物体は人の手首に見えた。手首から指までが――
 そろりそろりと近寄ると、手首には違いなかったが、アダムスファミリーではなく、ちゃんとコートの袖口が続き、腕になり、そしてその下の座面に俯せている男の姿があった。
 山の頂点を目の前にして、力尽きて倒れた山男のように、ロイはぴくりとも動かない。あと数十歩で寝室だというのに、なにも火もないリビングで寝ることはないだろうと、カーターはその背中をつついた。
「ロイ? こんなとこで寝たら風邪をひくぞ」
「……ん……わか……てる……」
 酔っているわけでもあるまい、と鼻先を近づけて匂いを嗅いでみる。
 シャボンの香りがした。もちろん、アルコールのかけらもない。
 シャワーを浴びたはずだから当然だが、あれから数時間たつというのに、ほんの今シャワーから出てきたもののような香りがする。襟元の髪がわずかに湿っているのも分かった。
 ついさっき、たぶん、ロイは二度目のシャワーを使ったのだ。どこかよその場所で。
 無理して彼女を抱いてでもきたのか? といいかけて、さすがにそれを飲み込んだ。居候が口を出すようなことではないし、そもそも自分がいなければ、彼女はここに来てベッドで共に、ゆっくり眠れたのかもしれないではないか。
 早くアパートを借りないと迷惑だな、とカーターは自嘲した。
「ほら、起きてベッドへ行け。夕べもあの時間から出かけたんだ。ほとんど寝てないんだろう? 寝不足なのに――誰かに襲われたか? 情けない姿だぞ、ロイ」
 冗談交じりにいってみるが、俯せた身体は動こうともしなかった。

 カーターに腕を掴まれて、ロイはしぶしぶ身体を半分ほど起こし、ひとつため息をついた。
「大丈夫か? なんか、くたびれ果ててるように見えるぞ」
「眠いだけです――ほっといてくださ……」
 腕を放すと、そのまままたうつぶせの姿勢に戻ってしまった。
 まるで酔っぱらいか、幼児だ。
 なにもこんなになるまで……と、少々呆れ、少々羨ましくも思いつつ、所在なげにソファの腕木に腰を下ろしたまま、カーターはしばらくその姿を見下ろしていた。
 こうしていても、携帯でもかけて、嘘の招集をかけたらきっと、気力を振り絞って起きるに違いない。とは思ったものの、さすがにそんないたずらはまずいだろう。口をきいてもらえなくなっては困る。
 仕方なく廊下へ出て、ロイの寝室のドアを開けた。
 夜はもう、冷え込むから毛布くらいはかけてやろうと思ったのだ。
 新婚時に借りたというだけあって、寝室のベッドはさすがに古いものではなく、クイーンサイズほどもある豪華なものだ。ロイが結婚すると聞いたときは、急なことで驚きはしたものの、ああ、当たり前の幸せを掴んだんだなと納得した。
 あんな目に遭っても、もう完全に乗り越えていったのだと敬服したものだ。けれどもそれはほんとうに短い期間で終わってしまった。
 このベッドで、ロイと彼女が睦み合った時間があったのかと思うと、やはりロイはカーターより先に大人になったのは間違いない。いい年をして、未だ独り身の自分など、まだまだ半人前なのかもしれないと思うと、年齢すらロイに負けてしまったようでむなしくなった。
 自分が毎晩眠るベッドでさえ、きちんと上掛けが折り込まれて、ホテルの部屋のように清潔感があふれている。
 せっかくメイクしてあるのにと気がひけ、どうしようかと立ちつくす。
 目の前の大型のクローゼットが目に入った。
 越権行為になるに違いない。
 プライバシーの侵害をしたと怒られるかも。しばし逡巡したものの、思い切ってドアを開けてみた。
 クローゼットなのに、片隅の棚の中に、ハードカバーの本が積んであるのが見えた。サリンジャーとか、ディケンズとか、古典的なものが好みらしく、新品同様の装丁のまま、しまわれている。なにもこんなところにしまわなくても、と思いつつ本棚は仕事御用達の本でいっぱいなのだから、仕方ないのだろう。カーターがやってしまう、床に積んでおくなどということは、考えもつかないに違いない。
 磨かれた靴、しわひとつない制服や、さほど多くはないが、質素で仕立てのよさそうなジャケットやシャツ。どこからどこまで身の回りを正して生きている男なんだろうかと、感心してしまう。
 膝掛けだと思って棚の上の畳まれた温かそうな布地を取り出して広げると、それはなんだか馬鹿でかいガウンだった。
 カーターも裾をぞろびくようなガウンが好きで、ほとんどがそのタイプだが、これは長いというよりもサイズそのものが大きい。カーターはそれを広げてまじまじと見つめた。
 ロイの物ではないのは間違いない。
 となると、こんなばかでかいガウンを着る人物で、ロイの家にこんなものを置いているのは一人しかいない、と推理するまでもなく、それを畳んで棚に戻す。
 ジムが持ち込んできたものだと確信する。
 お泊まりの部屋ではなく、ここにあるのは洗濯でもしてやったのだろう。なんだかんだといってはいても、仲がいいのだ。ロイは、カーターの下着も一緒に洗濯機で洗って乾燥させて、畳んで渡してくれる。
 下手したらジムの下着の類も洗ってここにあるのかもしれない。
 こまめな男だと、笑いがこみ上げ、毛布が見あたらないので、仕方なくカーターはベッドの上掛けを剥いだ。
 
 リビングの気配はしんとしたままで、ロイの寝息だけが微かに聞こえていた。
 抱えてきた上掛けを丁寧にかけてやり、カーターはそのそばの床に座って月の光に浮かび上がる白い顔を眺めた。ほんの間近に見ても、中国磁器のようになめらかな頬には、染みひとつない。
 瞳を開けていると、そのきつめの青緑色の光が際だっているために実年齢よりもいくつも年長に感じさせられるものの、瞼を閉じていると、世間のことなどなにも知らない若者にすら見える。
 こうして共に暮らしてみると、人間というのは意外な面を多々見せるものだ。
 あれほど身を正して生きているにもかかわらず、電池が切れたようにリビングのソファに眠ってしまうような一面が、ロイにあるとは思えなかった。
 ばかだな、と苦笑する。
 家でまで気を張っていたら、人は生きられない。
 さまざまなドラマを抱え、それぞれが主役として自分の人生を生きていく中、こうして脱力することだってあるだろう。いくらロイでも。
 さっき考えたままだ。無意識に指が架空のキーを押しそうになる。この無様な様子も克明に記してやれ、とカーターはロイを見つめた。
 骨張った肩の線や、細い腰のライン。鋼のような筋肉を作っているとはいえ、隊員たちの誰よりそれは薄かろうと思う。最初に出会ったときから細身ではあったが、もっと存在感のある身体をしていたように記憶している。骸骨のように痩せた時期から、完全に元に戻ったようには見えないのに、誰よりもタフに仕事や訓練をこなしているらしい。その上に彼女の我が儘にまでつきあって、さすがの体力も尽きたというところか。

 ――君は、なぜこの仕事を続けているんだ?
 なぜ、もっと楽に生きられる道を選択しなかったのだ? チャンスも才能もあるはずなのに。なにが君をよりハードな道へせき立てるんだ?
 身体を伏せた体制で、顔が横向きになっているため僅かに開かれた唇を見ていると、なんだかひどくもの悲しい気分になってきた。
 柔らかな薄そうな皮膚のそれは、クールなことばよりも、「デイン、こわいよ」と囁くほうが似合っている気がする。今にも目を覚まして、そういうのではないかと、カーターは愛らしい唇から目が離せなかった。
 自分の、胸元まで持ち上げた右手に気づいてそれを拳にして引っ込める。
 なにをしたくて手を持ち上げたのか、分からなかった。

 立ち上がって、カーターは足音を忍ばせながら階段を上がった。
 ゆっくり上っていたはずなのに、いつの間にか小走りになり、そのままベッドに飛び込んだ。
 カイル――
 おまえを抱きしめたいよ、カイル。今すぐ。
 身体を縮めて上掛けを頭から被り、二度と戻らない男の幻影を追う。
 ロイがカイルに重なったわけでは決してない。どこでスイッチが入れ替わったのか分からないが、無性に泣きたいほどの気分に陥ってしまったらしい。
 叫びだしたいくらいに、激しい孤独感に襲われていた。

 カイルは鴉の羽のような黒い髪をしていた。
 入隊時から常にGIカットがやや延びた程度の短い頭しか見たことがなかったのに、負傷してから延び放題だった髪を見て、初めてそのことに気付いたものだ。
 髪が黒なのに、濃いブルーの瞳が印象的だった。
 カイルはもう、髪を短くしなかった。亡くなったときは肩ほどにも伸びていた。
 どちらかというと、南方系のくっきりとした顔立ちで、唇の形だってロイとはまるでちがう――性格だって、立場の違いを除いても同い年くらいという以外に共通項はなく、ふたりの差は歴然としている。背丈だってロイの方が十センチ近くは高いはずだし、もののいい方ひとつ似てやしない。
 負傷してからは落ち込むことも多かったとはいえ、もともと明るい、屈託のない性格だったカイルと、屈託が服を着ているようなロイとでは重なる部分を探すのすら困難だ。
 カーターはただ、ロイの無防備に開かれた唇を見て、それに触れたかったのだ。ただ単に、触れたいという欲求があっただけで、ロイ自身にどうだというわけではないはずだ。
 キスをしたいなどというものでもなく、指先がついっとなぞりそうになって――
 それを、彼はよしとはしないのは分かっているからできなかっただけで――彼は“私のもの”ではないから。
 それを許して常に受け入れてくれた“私のもの”でありたがったカイルが、だから恋しくなっただけだ。
 その唯一の相手が、もう私のそばにいないことを痛切に感じたから、泣きたくなるほどの寂しさに襲われただけなのだ――。カーターは唇を噛みしめた。
 “私の――”と呼べる相手が、人生には何人存在するのだろうか? そもそもそんな人間がいるものなのだろうか?
「私のぼうや」と、男顔の祖母はカーターを両親の代わりに慈しんでくれた。けれど、彼女はいつの頃からか「おまえはおまえ自身のものだから」と、一切の口出しをカーターの人生にしなくなった。
“他人でありながら私のもの……”
 それは、どこまでの関係になれば許されるのだろうか?
 人は自分のものであって、誰のものでもない。
 恋人であっても、束縛は許されない。そんなことは分かっているし、そういう関係になるのも面倒だとずっと思い続けていた。カイルはある意味、そんな煩わしさを上回る悦びを教えてくれた存在だった。
 けれど、さっきロイの唇に触れてもいいと、彼が許可してくれるならどんなにいいだろうと思ったのだ。「触れたいならいいよ」というようなものではなく、そっと触れても当然だという相手ならと――
 おそらく、そこにロイの人となりなど存在はしない。
 カーターが欲しかったのは、あの唇だけだ。断りもなくそれを指先でなぞる、それだけのことをしたいと不意に思っただけだ。
 よくは分からないが、そう思うと、少し安心した。
 頭がぐるぐる回っていて、自分でなにを屁理屈をこねているのかと、ひとり苦笑する。
 そう――。
 あの唇に、いろんな想いが重なったのだ。

 結局のところ、カーターは寂しかったのだろう、と自分で結論を下した。
 大切な人を亡くして、充分な心の整理もつかないうちに、あわただしく古巣に戻ったりしたから。
 ロイにすでに職場で追い抜かれて、なんだか無力でどこかでそれをひがみかけている、小心な自分を思い知らされてしまったから。
 カイルと暮らした数ヶ月の間に得た気軽なキス、自分の存在を求め、自分だけを見ていてくれる心地よさまでを……すっかりなにもかもを失ってしまったことを、さっきカーターは思い知らされた気がしたのだ。
 寂しい――
 カーターは両親を亡くした十歳の少年のときに戻ったように、ベッドのシーツに顔を擦りつけ、沸き上がりそうな涙を食い止めた。

 しばらくそうして顔を埋めていると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
 女性に目を向けるべきだ、とカーターはぼんやりと思った。
 初めてつきあった女性は、ハイスクールの――古いいい方をするなら、マドンナ的な存在だった。当時、カーターはアメリカンフットボール部におり、試合中に膝を痛めて退部した。彼女は華やかな活躍をしていたデイン・カーターではなく、つらい時期になってから告白した。
 彼女しかいない、と若い情熱で結婚まで誓い合い、そのまま長くつきあいは続いた。だが、カーターが海軍に入隊し、駆逐艦に乗って長い航海に出るようになると久々に戻ってもけんかばかりするようになった。やがて特殊部隊の任務に就くようになって間もなく、予定していた結婚式は、知らない間にキャンセルされていた。
 彼女が選んだのは、常に家に戻ってくる安定した医者であり、カーターは捨てられたのだ。
 以来、幾人かの女性と出会っては続かないまま、仕事に打ち込んできた。誰かと結婚するということに、希望など持たなくなっていた。
 誰かと一緒に暮らしたのは、カイルだけだ。女性ではないせいか、結婚などというゴールを考えなくてすんだおかげで、すんなりと生活を共にすることができた。
 カイルの真摯な眼差しと、カーター以外に彼を守るものはいないのだという事実が、自分の中から男女の垣根を捨てさせた。
 いや、それ以前に一緒に暮らしたものがいる。
 ロイだ。
 もちろんふたりきりではなかったものの、誰かの面倒を見て、ただいまといえばおかえりと答えてくれ、その相手のためならなんでもしてやりたいと思わせてくれたのはロイが初めてだった。
 幼く、純真な心を映し出すような瞳をして私を見つめ、損得などなしに好意を向けてくれる子供……。
 本当に子供が欲しいと思ったことはない。
 女性と結婚して、いずれ生まれてくれば驚喜しただろうが、その相手もいないのに、子供だけが欲しいなどとは思わなかった。
 実際に隊員たちが連れてくる子供たちは小さくて、ふにゃふにゃしていて、長くは相手ができない。小さくてふにゃふにゃしているくせに、口だけは生意気をいったりする。
 ロイはかわいらしかった。
 大人の身体をしているくせに、カーターやジムがいなければなにひとつ自分でできなかったロイは、生意気なこともいわず、ただただ自分たちを頼った。
 それが間違った現実で、本来は素晴らしい人格を持った男だと分かっていながらも、カーターは楽しかった。一緒に風呂に入っては、身体を洗い、その素肌を抱きしめた。
 唇にキスしたことだってあるし、キスされたことだってある。
 だから彼が無防備に眠ったりすると、あの頃の感覚がよみがえるのかもしれない。今でも気軽に、唇に触れたいと思ってしまうのかもしれない。

 ばかなことを、と思う。
 写真立てのカイルが、じっとこちらを見ている気がした。
「ロイが好きだというわけではないよ、カイル」
 カーターは安心させるように写真に向かって囁いた。
 けれども、安心させようが心配させようが、すでにカイルそのものが、唇に触れることをさせてくれるわけではないのだ――















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後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

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Pは××のP

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僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評