[子猫と子犬]of [金の砂銀の砂]

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子猫と子犬

 海岸沿いのビーチハウスで、ジムは硝子のドアを開けたまま突っ立っていた。
 今朝早く、シカゴに住む二番目の姉と新年に生まれた赤ん坊を祝ってプレゼントを渡し、義兄に挨拶をしてから、ジムは慌ただしく戻ってきたのだ。
 泊まっていけ、夕食くらい一緒にというのを、仕事があるからと断ると、それに慣れている義兄はそうかとジムを見送ってくれた。
 慌てて帰ったのに、ロイは留守をしているらしく、家の中は火の気もなかった。
 ずいぶん歩けるようになったとはいえ、まだまだ無理は利かないはずなのに、と思いながらジムはソファに座り込んだ。
 車の音がして、どうやらタクシーだなと外をうかがうと、走り去る車を背にしてロイがベランダへゆっくりと歩いてきていた。

「おかえり」
「ジム。今夜は戻らないかと思っていたのに」
「すぐ戻るって、いったじゃないか」
 ジムは、しゃがんでぐいっとロイを抱え上げると、からん、と松葉杖が倒れて渇いた音を立てた。ロイが抗議した。
「歩けるから、大丈夫だ」
 そういいつつ、肩に頭を乗せ、小さな声で呟いた。
「……でも、疲れた」
 ジムはそのままずんずんとリビングへ入り、そっとソファに下ろした。それから置いてきた松葉杖を拾って戻り、「どこへいっていたんだ?」と聞いた。
「カイルの墓に」
「……フロリダまで? ひとりでか?」
「うん。墓地に行ったら、デインがいた。それで……ジム、怒らないで聞いてくれ」
「ことと次第による」
 ジムがじっと見つめると、ロイはそうだな、と頷き、「デインと最後のキスをした」といった。
 交わした会話の一切を、ジムに話すのが照れくさそうに、ロイはぽつりぽつりと不器用そうに語った。
「……それを俺になんで話そうと思ったんだ? いつもなら、彼とあんたのことだとかいって、黙っているくせに」
 ロイは軽く目を伏せ、二、三度瞬きをしてから明るい青緑色の瞳を向けた。
「これは、おまえと彼と俺の間に起きたことだ。だから、結末もおまえには知る権利がある」
 そうか、結末かとジムは頷き、「で、どんなキスをしたんだ?」と意地悪く聞いた。
 ロイはどんなって――と、戸惑いつつ、しゃがんだジムの頬に手を当てた。
「ジム。俺は彼が好きだったんだと気づいた。だから、できる限りのキスをした」
 その、思い切り馬鹿正直な答えに、ジムはどう返事をすればいいのか分からず、そっとその指を噛んだ。
「呆れたな。できる限りのキスってことは、うんとたっぷりだったわけだ」
 まるで子供のようだ、とジムは嫉妬すら湧かず、目の前の端正な顔を見つめた。いっている内容もそうだが、表情もひどく情けない。
 正直に話そうと努めることで、ジムに対してあまり愉快な内容ではないのは百も承知なのだ。
 それでも、カーターの頼みに、ロイの意志でキスをしたということを、隠すことをしなかったということの方が、ジムには嬉しかった。
 僅かに唇を尖らせただけで触れあう、それほどの距離で互いを見つめたまま、「で、それが最後なんだな?」と改めてジムは確認した。
「そういった。わざわざカイルの前で……だから、俺は……」
 声が微かに潤んだ。
「分かった。もういいよ、ロイ」
「あそこが墓地じゃなかったら……カイルの目の前でなかったら…、きっと俺は……」
「それくらい、あの人を愛していたことに気づいて、ほっとしたんだろう?」
 それは、〈結末〉なんだと、ロイがいったことばをジムは心から受け止めた。
 だからそれに対して責める気持ちは起きなかった。
 そのフロリダから、まっすぐにジムのもとへ、ロイは戻ってきた。それが今の彼の気持ちのすべてを語っていると、ジムには分かっていた。
 つまむように、その唇に触れていると、たまらないようにロイが身を乗り出し、ジムの首筋に縋り付いてきた。熱い息が首の皮膚をちりちりと刺激した。

 泣いている……?
 泣いているのだ、とジムは感じた。
 なんで泣いているのかなど、おそらく自分でも分かってはいないだろうが、ジムには理由が理解できる気がした。
 愛する人の墓に立つカーターと、彼を置いて行かざるを得なかったカイルへの同情、長らくロイを縛り続けていた父親に対しての別離、ジムしかいないと思いつつ知った自分の内面に存在したものへの不可思議な想い、カーターへの申し訳なさ、あらゆる疑問が解け、そしてそれに終止符をうってきた安堵がないまぜになって熱い塊になっているに違いない。
 声も出さず、嗚咽を漏らすでもないロイは、おそらく涙も出してはいないはずで、表情として泣いているわけではないのかもしれない。
 縋り付かれたジムには見えなかったが、それでもロイは泣いているのだと思った。
「泣きたいのを、墓地からずっと我慢してたのか? えらかったな」
 ジムが、子供を相手にするような慰めをかけると、ロイはますます強くジムに身体を押しつけた。
「泣いてなどいない」
 強がった声に、ジムは笑った。
「そうか」
 身体を少しだけ離して、真正面から顔を覗き込むジムの眼をじっと見つめ、ロイは気まずそうに俯いた。
 やはり泣いてはいなかった、と思った瞬間、閉じた瞼から涙が一筋ほろりと流れ出た。ロイの唇が震えた。
「ジム、許してくれ……おまえに嫌な想いをさせたのは分かってる……」
 思考が、最終的にジムに戻ってきた。
 今、手に取るようにジムには分かった。父親からカーター、カイルを巡って、ロイはここに戻ってきた。
「分かってる。もういいよ、ロイ……」

 夜になる前に、ジムは大急ぎで買い物をすませてきた。
 レストランへ行こうかといったのだが、ロイが家で食べたがったからだ。
 日帰りでフロリダまで飛行機まで使ったのだから、くたびれてしまったのだろう。
 簡単に焼いただけの肉だが、付け合わせのコールスローと果物までを添えると、けっこう見栄えがした。
 相変わらず、大して美味くもなさそうな顔で、小さく切った肉をロイは丁寧に食べている。
 不意にロイは手を止めて、珍妙な顔をすると、「う」と唸ってテーブルの下をのぞき込んだ。足下に、小さな固まりがあるのに、今やっと気づいたらしい。
「……ジム、俺の家になにかいるぞ」
 ああ、とジムは笑って自分もテーブルの下をのぞき込んだ。
 生後二、三ヶ月かと思われる子犬が、ロイの固定具の先から出た足の指をしきりに舐めている。だめ、くすぐったいとロイは身動きをし、ジムを睨んだ。
「さっきスーパーの前で拾ったんだ。捨てられたらしくてな。かわいそうだから連れてきたんだが」
「犬なんか飼えないぞ。俺たちは留守ばかりしてるんだから」
 ロイは、舐められる感触をこらえているのか、微かに眉間にしわを寄せたまま、意識がすっかり足下にいっている。
“俺たちは留守ばかりしているんだから”と、何気なくロイが口にした言葉に、ジムは嬉しくなった。
 それはまるで、まだこれからもずっとこの仕事をしていくと思っている者の言葉だ。
 ジムは手を伸ばして、子犬の首筋をつかむと自分の懐にすっぽりと包んで大きな手で背中をなでた。
「分かってるけど、ミルクくらいあげたくてな」
 ロイは黙って、その様子を見ている。
「おまえは何が相手でも、面倒見がいいんだな」
「あんたも抱くか?」
 ロイは首を振った。
「犬は嫌いか?」
「好きだよ。昔飼ってた。俺は一人っ子だったから、弟分だったな」
 だったら、少しくらい抱いても良さそうなものなのに、とジムは子犬の頭に鼻先を埋めた。温かい子犬の被毛が、ジムの頬を撫でてくる。
「……情が移ったら、手放すときつらいだろ」
 ロイはそう言いつつ、おずおずと指先で、ほんのちょっとだけ背中を撫で、おもむろに立ち上がって、杖をつきながらキッチンへ行った。
 ジムは、背を向けたロイの、さっきの言葉を考えながら手の中の子犬を見つめた。

 ロイの愛情のスタンスは、そういうものなんだな、とやっと少し理解できた気がした。
 冷たい態度に思えても、隊員たちに慕われているのは、結局ロイが本気で彼らに接しているからだ。
 生半可な愛情は、持てないのだろう。
 ジムとの関わりにしても、どこかに距離を置きたがるのは、無理な環境を作ってお互いに嫌になることを避けるためなのかもしれない。
 ジムがキッチンを覗くと、なにやら棚から箱を出している。
 片脇に挟んだ杖にすがって、自由な左手を使うことがやっとできるようになってきたのだが、高いところに手を伸ばしているのが危なっかしくて仕方がない。
「なにをしてるんだ?」
子犬を抱いたまま、ジムが後ろから手を伸ばして箱を出すと、ロイが見上げた。
「おまえは冷蔵庫の牛乳を飲ませたろ? それはあまり子犬にはよくないんだ。これは、山羊のミルクのパウダーだから、あとで与えるときはこれにしたほうがいい」
 そうか、とジムは微笑んで子犬にキスをした。
「パパがミルクを作ってくれるってさ」
 誰がパパだ、と不機嫌そうな声が応えた。

「いつまでも抱いてないで、おまえも食事をしろよ、ジム」
 ロイが、両手を出してジムを睨んだ。
 出された手の意味が分からず、とまどうジムの手から、ロイは子犬を奪って、自分の腕に抱いた。
「情が移らないうちに、明日はこいつの里親捜しをするぞ」
「ああ、……いるかな。今時雑種の犬を育ててくれるような人が」
「いるさ。張り紙でも作るか。ウエブを使った方が早いかもしれな……ああ」と、ロイはいいかけた言葉を止めて顔を歪めた。
「このままここに、置いておいてもいいかもしれない……」
 ロイ、とジムは肩に手をかけた。
 さっき仕事をするスタンスで滑らせたことばは無意識だったのだろう。
「どっちにしても今は無理だよ。今犬の面倒まで見られる状態じゃない」
 そうだな、とすっかり意気消沈したロイを見て、不意にジムは顔を上げた。
「そうだ、親父の農場に連れて行くか」
「ジムの農場……」
 ロイは、珍しいほほえみを浮かべ、子犬の顔をのぞき込みながら、皿から自分の残した肉をわざわざグラスの水ですすいでからほんのちょっと与えた。
 塩分や胡椒がたっぷりかかっているから、それを洗ったのだ。本当に犬が好きなのだな、とほほえましくその様子を眺める。
 ふがふがと言いながら、子犬はあっという間に肉を食べてしまった。
「ジム、ご両親は犬が好きなのか?」
「好きだよ、動物ならなんでもな。今だって動物園並だ……電話をかけてみるか?」
「もし、ご両親がいいといったら、一緒におまえの家に行ってみたいな。おまえの育った農場に」
 ジムは、腰を浮かせてロイを見つめた。
「……そうだな。そうするか?」

 自分の実家にロイを連れて行く――。
 それは、ジムにとって憧れていたことだ。一度は生まれ育った地を見せたかったし、両親に自分の愛する人を――もちろん、紹介するときは上官としてだが――会わせたかった。
 もしもロイが本当にチームを辞めざることになったとしても、彼が農場で暮らすとは思えなかったが、いいところだと見せておくのもいいかもしれない。それになんにしてもこの子犬がいれば、ロイはいつでも農場に行きたがるだろう。
「先に電話で確認してくれよ」
 ロイは微笑んで、子犬の頭に顎をくっつけた。
「農場は広いだろうし、こいつも幸せだ。それに、会いたくなったら会いにいける、ご両親が許可してくれたらいいな」
 ジムは携帯を開きながら立ち上がり、久しぶりに母親の声を聞いた。
 二つ返事でいいわよ、という母親のメアリに、明日行くよと返事をしながら、子犬を相手にして微笑んでいるロイを見ていた。
 それは、幸せな予感を秘めた時間が訪れそうな夜だった。
 子犬はロイの手を離れ、床をかけてまっすぐに窓の方へ駆けだして行く。
「おしっこだ!」
 ロイが叫んでよろよろと立ち上がった。ジムがどたどたと追いかける。
 あやうくしゃがみかけた子犬を片手で捕まえて、ジムはそのままの勢いでベランダのドアから外へ出た。
「じゃあパーティーでもしないといけないわねぇ」
 押し当てたままだった電話から母親の陽気な声が、電話の向こうに響いた。
 ジムはベランダの端まで行くと、もう片方の手に抱いていた子犬を地面に置いた。犬はその場でおしっこをし、あたりに鼻をくっつけて歩き出した。
「あんたが戻るなら、ごちそうを用意するからその、なんと言った? 上官さんの名前は」
「ロイだよ、お袋。ロイ・フォードという名前だ」
「好きな食べ物を聞いて、また電話をしなさい。腕によりをかけるから」
「なんでもいいよ。ロイは料理に文句は言わないはずだ。なんでも好きなものを作っててくれ。でも、甘いものは苦手だからケーキは子供たち用でいい。あと、ワインをライルに注文しておいてくれ。うちには親父のスコッチしかないだろ? ロイはワインが好きだから。それに、ああ、珈琲にはうるさいからな。極上のコーヒー豆を……いや、これは俺が買って行く」
「あんた、まるで恋人を連れてくるみたいに浮かれてない? 浮いた話がないと思っていたけど」
 それからメアリは声を潜めた。
「もしかしたら、あたしはあんたの孫は諦めないといけないの?」

 メアリの言葉に、ジムはどきんとした。
「ジム。私のでっかい坊や。いいのよ。あんたが誰かをうちに連れて帰るなんて、なかったことだからね。前々から、あんたの話にはよくその人の名前が出てきていたから、なんとなくそうじゃないかと思っていたのよ」
 メアリはくすくす笑った。
「父さんには内緒にしておくから。あの人はそういうとこはまるで理解がないから、心臓が止まってしまうかもしれないからね。ばれないように、あまり見つめるんじゃないわよ」
「お、お袋……」
「いいのよ、ジム。あんたが寂しい暮らしをしてないって分かって、あたしはほっとしたわ。いい年をして恋人も作れないのかって、不甲斐なく思ってたんだから」
 あたしはもう、孫には不自由してないわよ、とメアリは笑って、電話が切れた。
「ジム、子犬は?」
 松葉杖をつきながら、ロイがベランダに顔を出した。
 ああ、とジムは携帯をポケットに入れ、空き地を歩き回る子犬を指さした。ちらちらと降り出した雪をものともせず、子犬は草と戯れている。
「おいで」
 ロイが短く口笛を吹くと、まるで合図を心得たもののように、子犬はかけてきた。
 情が移ったら、などといっていたくせに、まるですっかり飼い主のように子犬はロイについて回っている。手慣れたものだった。
「お袋、いいってさ。明日待っててくれるそうだ。俺たちがくるならニューイヤーのパーティーをやるそうだ。ご馳走を作って待ってるって」
 それは申し訳ないな、といいながらもロイはふふっと笑った。
「なんだか、楽しそうだな」
 青緑色の瞳の中に、白い雪が光のように映って見えた。
「綺麗だな」ジムがいうと、ロイは空を見上げもせずに頷いた。
「綺麗だ。おまえの黒い瞳に雪が映ってる」
 同じものを見ていたわけだ、とジムは嬉しくなった。
「寒い。さあ、家に入ろう。おまえも」
 ジムは片手で犬を拾い上げ、片手でロイの肩を抱いて、ゆっくりと歩調を合わせてリビングへ戻った。

「こいつを洗っておかないとな」
 ジムはバスルームに子犬を連れて行き、洗ってからドライヤーで乾かした。
 ほかほかに膨らんだ毛が気持ちいいのか、ジムが洗っている間にロイがキッチンの隅にあつらえたタオルを敷いた段ボールに入れてやると、子犬は大人しくそこで眠り始めた。
 ロイはキッチンの暖房を、つけたままにしておいた。
「さ、今度は金色の子猫を洗ってあげないとな」
「猫? まさか子猫までいるのか?」
 ロイは焦ったように、辺りを見まわした。
 ぴぴゅっとジムは口笛を吹いた。
 さっき、ロイが子犬を呼んだときの真似だ。
「子猫は口笛では来ないだろ」
「じゃ、どうすればいい? 首筋をつまむのか?」
「子猫はそっと抱き上げてやらないと……」
 本物の猫の話をしていたロイは、はっと口を噤んだ。
「……もしかして…それは俺のことか? ジム」
 いわれるままに、ジムはロイを抱き上げて、バスルームへ入っていった。
 

 バスタブに重なるようにして、ふたりはシャボンの泡に埋もれていた。
 ロイはジムの肩に頭を預けたまま、瞼を閉じている。
「ああ、気持ちいい……」
 目を閉じて、頭を仰け反らせて、のびをする子猫のようにロイが唸った。
 ジムは首を捻って、閉じた瞼にキスをした。
 ペイジのことがあったせいもあるし、休暇が続いているためジムはずっとこの家に泊まり込んでいた。自分の家に戻るのは着替えや必需品を取りに行くだけになってしまっている。
 けれども、なるべく距離を置くよう、ジムは心がけてもいた。
 寝るときは一緒のベッドに入るが、それ以外のときは自分の趣味の映画を見たりして、ロイが望まない限り、べったりとそばにいるようなことは控えるようにしてもいる。
 そうしていると、意外にも読みかけていた本を閉じて、ロイのほうがすぐ隣のソファで頭を肩に預けて一緒に映画を見ていたり、さりげなく指先を絡めていたりもする。
 それは極めて自然な形で行われる生活形態で、ジムにとってもひどく居心地のいいものだった。
 動物に例えるなら、ジムが犬ならロイはやっぱり猫だとジムは思う。
 来いと命令しても従わないが、ほうっておくとすり寄ってくるのが猫の習性だ。
 勝手気ままに見えながらも、なにより甘え上手でもある。

 つきあって間もない頃は、そういうふうにも見えなくて、理解するのが難しくもあったが、だいぶ分かるようになってきたといえる。
 シャワーを一緒に浴びることはあっても、バスタブでこうしてジムに抱かれるように入ることなど、これまでほとんどなかったというのに、ずいぶん進歩したのはロイだけではなくジムもそうだからなのだろう。
 ギプスのせいで筋肉の落ちた右腕を丹念にマッサージするように撫で、片方の手は滑らかな肌を滑らせる。
 鞭の痕もかなり薄くなっており、身体もずいぶん復活してきたかに思える。ロイが嫌がらない程度に、軽く軽く触れる程度にジムは留めていた。
 だが、その腕をマッサージするのに夢中になっているうちに、ロイが瞼を開け、じっとジムを見ていることに気づいた。
 ロイは向きを変え、向かい合って慈しむようにジムの顔のラインを撫でた。まるで盲目の芸術家が粗造を作るかのごとく、眉や鼻筋を指でたどり、唇に指先を滑らせた。
 なにをしているのか分からなかったが、ジムはなんだか幸せな気分でされるままになっていた。
 たっぷりとした泡の中で、たくさんのキスを、ロイはジムに与えた。
 こんなことははじめてじゃないか、といいかけてその言葉を飲み込む。余計なことをいって、今の行為が中断されるのはごめんだ。
 今すぐ抱きしめてしまいたくもあるほど、身体の内側からこみ上げてくるものを必死で宥めながら、ジムは身動きすらしなかった。
 ロイはひとこともしゃべらず、ジムを指先で辿るのに夢中になっているように見える。
 秘めやかに湯の中の身体が、ジムを探すかのように動く。
 ロイがしようとしていることを悟って、ジムは少しだけ手助けをし、希望が叶うように身体をずらした。両膝をついて、ジムを間に挟み、しばらくジムの腰の上でぎくしゃくと動いて泡を揺らしていた身体が、少しずつ下りてきた。
「ロイ……」
 湯とは違う温かさに包まれ、思わず声を漏らすと、ロイはすでに頬を紅潮させ、ジムの首にしがみついてきた。
「なんだか……幸せだぞ、ロイ」
「……ん、俺も……」
 愛らしいジムの子猫は、びしょびしょの金色の髪を垂らして、浅い息をつきながら、しばらくじっと動かなかった。やがてジムがその顔に手をあて自分に向かせると、もうこれ以上どうしたらいいのか分からない、という顔をした。
「続きはどうするんだ? ロイ」
 ロイは途方に暮れたような顔で、少しだけ身動きをしかけたが、またジムにしがみついて、甘い吐息を繰り返すばかりだった。
 だから、次はこうしてああして、とジムはいいかけたが、まあいいかと笑ってその背中に手を回した。
 このままで充分幸せだ。
「……なんで、笑ってるんだ、ジム」
「いつになったら、大人の猫になるのかなあと考えてた」

 結局ジムは、ひととき静かな幸せに浸ったあと、それだけでぼうっとなりかけているロイにバスローブを着せ、抱き上げて、ベッドルームへと歩くことになった。
 濡れたままのジムの身体からは、まだ滴がぼたぼたと落ちている。
 タオルをとってこないと、ベッドがびしょ濡れになってしまうなとベッドにロイを下ろしてから、ジムはいったんバスルームへ引き返した。
 自分の頭を拭ってローブを着込み、大判のバスタオルを手に寝室を開けると、横になったままのロイの前に、意識になかったものがいた。
 やがてそれがジムに向かってピスピスと鼻を鳴らし、尻尾を振ると、ロイが苦笑した。
「ドアを開けてたから、探して来たようだ」
「こいつ。抜け目がないな」
「しかもベッドに飛び乗るほど、身軽だ」
 子犬はロイの上に乗り、ローブから覗いている脇腹やへそを舐めた。
 ロイがくすぐったい、とげらげら笑い出した。
「こいつ、キッチンへ連れ行く。ロイのそんなとこを舐めていいのは、俺だけだ」
 怒ったようにジムが手を出すと、子犬はロイのそばにいやいやをするように蹲った。
「……ジム。寂しがってるんだよ、仕方ない」
 ロイは細い右手でその身体を抱え、子犬を抱き寄せた。
 せっかくこれからいいところだったのにと、ジムはそのそばに座ったまま、名残惜しそうにロイの姿を眺めた。
 尻尾を振っている子犬とロイを交互に眺めるうちに、ジムはとうとう笑い出した。仕方ない、今夜は三人で眠るとするか。

 携帯が鳴った。
 ジムのもので、手を伸ばして耳に当てた。
「私だ、カーターだ」
「どこにいるんです?」
 ジムが聞くと、カーターは「今、カイルとふたりで酒を飲んでる」と答えた。
「まだ、フロリダですか?」
「うん。墓地に食料を買ってきて。ここはゲートがないし、夜もさほど冷えないからな」
「叱られてるんでしょ? 彼の前で不埒なことをしたから」
 ロイが、子犬を抱いたまま黙ってジムを見ていた。カーターからだと分かっているのだ。
「聞いたのか?」
「逐一ね」
「ふうん。少しは素直になったんだな。だったら、あまりロイを責めないでやってくれ。最初で最後のキスだ。たーっぷりとしてもらったからな、ジム。怒ってカイルが出てくるのを待ってるんだけど、どうも逝ってしまったようだ。足りなかったのかな?」
 ロイを責めるなといいながら、俺を嫉妬させようとしているな、とジムは苦笑した。この酔っぱらいめ。
「俺も今、たーっぷりといただきましたから」
 この幸せ者め、とカーターが罵った。
「あなたはまだそこに?」
「今夜はここで野宿さ。一晩中起きてるつもりだ」
 寂しいばかりの墓地に、ひとり座って久しぶりにカーターはカイルと夜通し話をするのだろう。
 それが、なにより彼がしなくてはならないことだったのではないかと、ジムは思った。

「デインはまだ墓地に?」
「ああ。カイルとふたりで酒盛りだ」
 そうか、とロイは頷き、一瞬遠くを見るような目をした。
「もう、“友達”なんだろ? 今は“恋人”の顔を見てくれる時間のはずだぞ、ロイ」
「うん。すまない、ジム」
 ジムがロイの腕をとり、頭の上で束ねてからキスをした。見つめ合い、この世界にはふたりしかいないかのように。すべてのことを閉め出すように。長いキスのあと、ロイが不安げにいった。
「俺とこうしていて、ジムは満足か?」
「当然だろう?」
「こうしてっていうのは……その…抱くこと……についてだぞ」
「なにも不満はない。不満どころか――」
 ジムはいい雰囲気を壊すまいと、身体を重ねてキスを続けた。
「……でもジム。それならどう解釈すればいいんだろう?」
「うん?」
「俺は未熟なのか? それとも淫乱なのか?」
 ジムはかくんと頭を落として、全体重を乗せてしまった。難しい質問だ。
「重い」
 すまん、と少し身体をずらして、ジムは困ったような顔をした。
「おまえはいつも俺を未熟だというけど、周りはそう見てないように思える……んだ。そこがよく理解できない」
「ロイ、いきなりインランとかまで行く必要はないだろ? そんな言葉はもう忘れろよ」
 それでも釈然としない顔で、ロイはジムを見た。
「……だって、ジム」
「メンタルが大事だといったろう? 俺とあんたの間にはそれがある。身体がどうだとかいうんじゃなくて、それが一番大事なことだろ?」
 こくんとロイが頷いた。
「よく分からないけど、分かるような気もする」
 ジムは笑った。
「あんたは最高だよ、ロイ。俺はあんたに夢中なんだぜ。こうしてキスするだけで、蕩けた砂糖菓子をかじってる気分だよ、ロイ。どこもかしこも甘くてかじると蜜が溢れてきそうなほどだ」
「そういわれると、また分からなくなる……ジム」
 うっとりとするようなキスに、ロイが吐息を漏らしながらいった。
「褒めてもけなしても、納得しないんだろ?」
「周りにそう見られてるのは怖い……でも、おまえを満足させてないなら……それもつらい。俺に……い、色気があるというのは……おまえもそう思っているか?」
「あんたがきっと甘いお菓子だってことを感じている人間は、確かに一部いるだろう。けど、実際に本当にこの砂糖菓子を溶かして味わった人間はいない。甘そうだと感じていて、けどどんな味かは分からない。どんなに甘いお菓子だって、乱暴に扱えば美味くはないんだ。ジムだけに食べて欲しいって、あんたが思っている間は、ウインドウに飾られたケーキみたいなもんさ」
 ますます混乱したような表情ながらも、ロイは微かに頬を染めた。
「……なんだか、自分がほんとに砂糖でできているみたいな気分になってきた。自分では舐めたくもないな」
「甘いの苦手だからか?」
 ジムが声を立てて笑った。
 不意に、間に割ってはいるように、別の感触がロイの頬をなで上げた。
 子犬がすぐそばでしきりにロイの顔を舐め始めた。
「ほらみろ、こいつも甘いってさ」
 ロイはその子犬の黒い鼻先に、キスをした。










硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評