[心の奥]of [金の砂銀の砂]

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心の奥

 翌朝、全員が帰還した。
 コネリーには三日間の休暇が与えられ、蒼い顔をしたまま、自宅に帰っていったらしい。
 なんということはない。
 ほんの基地とは目と鼻の先で、漁船を装った海兵隊の船を借りての演習だったが、コネリーは疑ってはいないようだった。
 出迎えたバークに、カーターは敬礼をしてからことの経緯を報告した。
 ジムやビリー達はすでに解散していなくなっていた。
 報告が終わると、カーターは、お話ししたいことがあります、と告げた。
「なんだね?」
「私は、自分がここを出たときのことにこだわって、ずっといえずにいたんですが、本心をお伝えしたいんです」
 カーターは真っ直ぐにバークを見つめた。
「私を、もう一度チームに戻していただきたいんです」
 バークは眉を上げた。
「しかし、君は……」
「これは希望です。もし、許されないならばそれに従いますが、希望としてお伝えしておきます」
 しばらくカーターの顔を眺めていたバークは、分かったと頷いた。
「君の希望も含めて、改めて次回の会議にかけることにしよう。私にとっては、それは有り難い言葉だ。最初から、私はそれを望んでいた」
「有り難うございます」
 ジムがカーターを待つように建物のドアの前に立っており、こちらに手をあげるのを見て、カーターも手を振った。

「コネリーの訓練もまあまあ、うまくいったようだぞ」
 ビーチハウスへ戻ったジムは、待っていたロイに訓練でコネリーを騙した経緯を子細に報告した。
「そうか」
 ロイは穏やかに頷いた。
「溜飲が下がったか? あいつ、小便をちびりそうなほど怯えていたぞ」
 ロイは微かに笑った。
「少しは反省して隊員たちとうまくやってくれればいい」
 拍子抜けの返事だったが、ロイというのはこういう男だ。
 ついでにカーターが、自分の意志をバークに伝えたようだというと、ロイはほっとしたように微笑んだ。
「どうなるかはともかく、よかった。カーター少佐と意地を捨てたコネリーがいてくれれば、バーク准将も安心だろう」
「……まだ、辞める気持ちは変わらないか?」
 ロイは返事をするかわりに俯き、ジムはいったん廊下を出て行った。
「ジム?」
 じきにジムがテンガロンハットを被って現れたために、ドアの方を見ていたロイは、口をぽかんと開けた。
「なかなか似合うだろ? ロイ」
 くすりと笑いながらロイが頷くと、ジムは隠していた方の手を出して、なにかをロイにかぶせた。こつん、と頭に堅い感触があり、それがカウボーイの帽子でないことは、長年の経験でロイには分かった。
 海軍のドレスハットだ。
「でもあんたには、やっぱりそいつが似合う。おみやげにテンガロンハットを買ってきたけど、どっちがいい?」
 ロイはその帽子を脱いで、まじまじと見つめた。
 金の刺繍が施された、厳ついまでの、けれども優雅な白い帽子。
 父親が被っていたものと、同じ形の――
「もう……難しいだろうな……」
「コネリーのことなら気にするな。あいつがなにかイチャモンをつけたとしても、今回のことであいつだって弱みを見せたんだ。あの場にいた全員がそれを知ってるんだから、他人を虐めることはできないはずだ」
「ジム……知ってのか?」
 俺を舐めるなよ、というジムの声には答えず、ロイはまだ帽子に目をやったまま、それを指先で撫でている。

「そんなことはどうでもいいんだ、ジム。問題は俺にある……」
 ああ、まあいいさとジムはその話を中断して、キスをした。
「あんたは自分が淫乱になったとうぬぼれているみたいだけどな」
 ジムが意地悪そうな表情を浮かべて笑った。「俺にいわせてくれるなら、まだまだだぞ」
「ま……だまだ?」
「本当にそういうのに長けている連中ってのはもっともっとテクニシャンだ。それでいくと、あんたはまだ未熟な子供だよ、こ、ど、も」
 ロイは穴が開くほどジムを見つめ、それからぼそりといった。
「ジム、どこでそんなテクニシャンと会ったんだ?」
「い、いや、会ったんじゃない。そういう話だよ、そんなことは誰でも知ってる――」
 ロイは疑うような目をして、ジムを見た。
「“それでいくと”というのは、どれほどのことだ? ジム」
 いや、だからそれは、とジムは慌てふためいた。ロイはふてたように口を尖らせ、海軍の帽子を目深に被ってそっぽを向いた。
「そんな怒るな」と、ジムは開き直った。
「俺は子供だから、どうせ」
「だったら、チャレンジしてもらおうかな、今夜」
 そういいながらジムが耳元にキスをした。「俺がいうとおりに、どれくらい頑張れるか」
 なんだか分からないままに、ロイは頬を染め、俯いた。
「ばか」
「けど、そうなったあんたが相手じゃ、俺は体力がもたないかもしれないな」
 ばか、とまたロイがいった。

「デインとふたりで愛してやろうか?」
 ジムが耳元で囁く。
 ロイは、ぼんやりしていた意識が戻るにつれ、自分を後ろから抱いているジムの囁きの意味を考えていた。
 やがて、有り得ない方向からの刺激を受け、ロイは瞼をうっすらと開けた。
 カーターの顔が、すぐ目の前にあり、自分の膝を抱くようにして、ゆるりと身体を動かした。
「……デ……イン?」
「ロイ、どうだ? こうされたかったんだろう?」
 ジムがまた、耳に吹きかけるような言葉を吐く。
「……ど……して…?」
「君が望んでいることだろう?」
 カーターがうっすらと微笑みながら答え、いきなり動きを激しくした。
 ジムはジムでいたずらをするように、すでにすっかり蕩けてしまった神経を波立たせるように胸元に指を滑らせている。
「……や、めて……」
 全身が粟立つような、それでいて底知れぬ快感に翻弄され、ロイは泣きそうになった。
 いったいどうして、いつこんなことになってしまったのか分からない。
 ジムとふたりでいたはずで、そしてジムがこんなことを許すはずはないと思いながらも、ロイの息は上がり続ける。
 どこからか、納まっていたはずの快楽の源が沸き上がるのが分かった。それがロイの体内で行き場を求めて暴れ始めている。
 それを宥めるどころか、ふたりの動きはますます刺激するかのように激しくなっていき、ロイはどんどん追い詰められていく。
「も、……くるし……」
「当然だろう? あんたはふたりを愛しているんだ、だったらふたり分の愛情を受けるのは容易じゃない」
「そうだな。諦めて、しっかり受け止めるんだ。君の望みなんだから」
 ……そうじゃない。そんなことを望んでいたんじゃない。確かに心の中のわだかまりを解明したくはあったが、こんなことをしたいと思ったことはない。
 それでも、ふたりは容赦なく攻め立てるようにロイを離さない。ペイジによるあの忌まわしい行為が薬によってだと分かった今、ロイはやはりカーターにも自分が心を許してしまっていることを悟った。
 ジムだけではない。おそらくロイは、父と重ねていつつも、カーターに惹かれているのだ。
 だが、もう限界だ。
 こんなことをされたら、死んでしまう、とロイは泣き声を立てた。
 とどまることを知らないように、天の果てまで昇り詰めていきそうで、ロイはゆるして、と叫んだ。

「ロイ、大丈夫か? どうした?」
 ジムが心配げな顔で覗き込んでいる。
 咄嗟に目線をジムの後ろにまで巡らせたが、カーターの姿はどこにもなかった。
「すまない。調子に乗って、無理させたかな?」
「……ジム」
「夢でも見てたのか? うなされていたぞ」
 ロイは枕に乗せた頭を左右に振った。
「……デイン、と呼んでいたぞ。デインの夢でも見たか?」
 ジムの呟きに、ロイはその腕を掴み、引き寄せて胸に顔を埋めた。
「ロイ、どうしたんだ?」
 苦笑の混じったジムの声を聞きながらも、ロイはたまらなかった。
 あんな夢を見るなんて……。
 あれが、自分の望んでいることなのだろうか?
 よりによって、ジムに抱かれているその胸の中で――
 そう思うとたまらなかった。

 カーターは、自分の簡素な部屋で目を覚ました。
 訓練とはいえ、多少の疲れがまだ抜けずにいたが、昨日のことを考えると愉快だった。
 朝食を食べていると、携帯が鳴った。
 不動産屋からで、お探しに近い一軒家が見つかりましたという話だった。
 どうしようか、とカーターは躊躇い、とりあえず見に行った。

 不動産屋に案内された場所は、カーターのよく知っている――かつて住んでいたところに近いと思いながら車を降りると、待っていた不動産屋がドアを開けて手を振っていた。
 なんのことはない。そこは、まんまカーターが借りていた家だった。
「急な事情とかで、持ち主が出て行かれましてね。長く住むつもりで購入された家具も、ほとんど置いたままにしてあります。ご不要なら、こちらで処分いたしますが」
 腰の低い不動産屋は、カーターの顔色を見ながらいった。
 室内は、センスのいい夫人でもいたのか、洒落た家具が残っており、冷蔵庫もあった。自分が住んでいたときよりも、はるかに居心地がよさそうだ。カーターは、これなら今日からでも住めるなとひとり笑い、頷いた。
「もし、早々に転勤になったら違約金はどれくらいかな?」
 ええ? あなたもですか? と情けない顔をしながらも、不動産屋は計算して見せ、カーターはしばらくであろうとどうであろうと、ここに住まいを移すことを決めた。
 
 それから三日ほどもして、バークから電話があった。
 カーターは、ようやく冬の休暇を得て、土日も含めて一週間ほど休むつもりだった。
 一緒に食事でもといわれ、駐車場へ歩きながらバークが話し出した。
「正式な辞令はまだだが、君の希望が通ったぞ。というより、そこに収まるのがなにより早いし助かるという判断でもある。ペンタゴンのほうは、数年後に行くことにはなるだろうが、まだ未定だ。今後の活躍で昇進もできるはずだからな。休暇が明けたら、これから数年は、落ち着いて任務に取り組んで欲しい」
「ありがとうございます」
 借りたばかりの家が無駄にならずにすんだ、というとバークは笑った。
「それからコネリーだが、彼には副隊長として君の下についてもらうことになった。そう話したが、辞めるとはいわなかった」
 カーターは歩きながら、最初からこうして素直に受け入れていれば、ロイが怪我をすることもなかったのに、ずいぶん無駄で遠回りをしてしまったことに、申し訳なく思った。
「やってくれるな? 少なくともコネリーを一人前に仕立て上げてくれ。その後、私の跡を継げるのは君しかいない」
「ロイのチームは……? 彼から何か話がありましたか?」
「ロイ? 昨日サマンサとジムと四人で食事をしたんだ。久しぶりにゆっくりした。まだ足に違和感があるらしいが、医者は大丈夫だろうといっているそうだ。あそこはビリーがしっかり成長しているし、ジムもいる。ゆっくり静養しろといっておいた」
 では、辞めたいという意向をバークには伝えていないのだ、とカーターはほっとした。ペイジの件が片付き、考え直していっているのかもしれない。
「コネリーが副隊長なら、ディクソンはどうなります?」
「彼からは辞表が送られてきた。傷は治ったが、心に病を抱えてしまっているという診断書付きだ」
 カーターは頷いた。
「力尽きたのでしょうね。信頼できない職場で生命の危機にさらされて。立ち直れないのでしょう」
「ああ。電話をかけたら、結婚するといっていたよ。病院で出会った看護士だそうだ。生まれた街で、一から出直すらしい。軍のことを考えなければ、心も落ち着いているといっていた」
 そうですか、とカーターは頷くしかなかった。
 

 自宅にあった家具を、結局カーターは始末してもらった。
 女性好みの華美な家具は、やっぱり馴染まない気がしたのだ。代わりに、かつて置いていたのと同じタイプのものを買い直した。
 一日ですべてが片付くように手配をし、慌ただしく運送屋が出入りした。
 同じメーカーの冷蔵庫、同じようなシンプルなテーブルと椅子。ソファ。棚も、床に敷いた絨毯も、すっかり元通りに見えるほど、それはカーターの家に馴染んだ。
 いつまでもロイのものを使うわけにはいかないだろうと、ついでに車も購入した。
 元のセダンとは違うトヨタの4WDだ。ロイのジープに慣れたせいか、アクティブなものが欲しかったのだ。
 ものすごい散財ではあったが、満足感の方が大きかった。
 地に足がつくというのが、こんなに清々しいものだとは思ってもいなかったのだ。
 カーターは暇になると相変わらずラップトップを開いて、膝に乗せたままキーを打っていた。

 ラグが心地よい肌触りで、これだけは以前使っていたもので、ここを出るとき譲った友人は結局使うことなく倉庫にしまっていたのだと持ってきてくれたものだ。
 ソファに座らず、直接ラグに尻をついていたカーターは、キー打ちに倦んでそのまま後ろにひっくり返った。
 なんだか、長い毛足のラグにカイルの匂いがするような気がした。
 彼は、整髪剤もコロンもなにも使わなかった。
 特に引退してからは、シャンプーの香りがするのみで、染みつくほどの匂いなどさせていたわけではない。
 それなのに、そこにカイルがいるような気がするのは、このラグにカイルが座ったり寝ころんだりしていたことがあったからだろう。
 ローテーブルの紙袋に入ったままの箱を片手で引き寄せる。
 3000ピースの、風景写真を分断したジグゾーパズルだ。
「あ、ここのピースがそっちと合うんじゃない?」
 カイルとジグゾーパズルを作っているとき、その絵が海と空だけの写真だったことから、たいそう難儀した。
 どれも同じような青で、それが薄かったり濃かったりという、微妙な差しかなかったからだ。
 無理矢理はめ込んで納得するカーターを、カイルは腹を抱えて笑った。
 ジグゾーパズルは、決して無理にはまることはない。どこもかちり、と隙間が合うようにできているのだ。
「デインは意外と、粗忽者だよね」
 何度もカイルはそういって笑ったものだ。そのくせ、こんな作業は向いていないとしょっしゅうぶうたれもいたが。
 あのでかいパズルは、フロリダへ渡るときに処分した。
 また、一緒に新しいパズルを作ろう、それを部屋に飾ろうといっていたのに、結局向こうではもう着手しなかった。
 温かな夜の時間を、ふたりはよく海岸を手を繋いで歩いたものだ。あの気候は、病弱になってしまったカイルには、とてもいいものだったのだ。
 外で食事を愉しんだり、映画に行ったりもした。家にいてパズルを作るよりもそっちのほうが楽しいと、もともと面倒なことが嫌いなカイルは寝込んでしまうまでの短い月日の間、いつも外に出たがった。

 カイルとロイ――
 まるで空と海ほどにも違うというのに、カーターの中でふたりの違いは微妙な色合いだけにすら思える。
 どっちも同じ色。
 だが、空は彼方の宇宙まで続いており、今はその彼方の果ての果て、天国にいるカイルを連想させた。
 そして、海もまた果てもなく深い。
 一個の地球の表面を覆うその水の底は、計り知れないほどの神秘を持って未だ人間が制することすらできないままだ。
 海はロイと重なる。
 えらでもついているのでは、と思うほど美しく潜っていく姿に。始終波の音をさせているあの家に――
 箱の写真を眺めてため息をつき、カーターはそれを床に置いた。
 パソコンばかりも飽きるだろうと買ってきたパズルだったが、やはりカイルと作ったのと同じものをひとりで作るのは侘びしすぎるかもしれない。
 だが、このリビングの白い壁の空間には、なにかの絵が必要だ。少し奮発して、ちゃんとした額縁に入った絵を購入する方がいいだろう、とカーターは部屋を見回した。
 たまたま元の家だったせいもあるのだろうが、ひとりきりの空間が、なんだかやたらにカイルを思い出させるようで、やっと葬儀の日の続きが始まった気がした。
 そうして、長いこと手帳に挟んだままだったカイルのしわくちゃになった写真を新しく買ってきた写真立てに入れ、ベッドのそばに置いた。

 休暇の間、カーターはビーチハウスへ行くことはしなかった。
 ジムもまだ休暇中だから、ゆっくりとふたりで過ごさせたかったからだ。できれば、その間にロイの気力を回復させてほしいとも思っていた。
 代わりにフロリダへ出かけ、空港からのレンタカーでまっすぐに墓地へ行った。
 私設の墓地に埋葬されたカイルには、冬なお暖かな日差しが当たり、墓地は穏やかな緑に囲まれた静寂に包まれていた。
 真っ白な墓石に花を置いて、その前にたたずむ。
 ジムとロイが正反対というならば、自分とカイルだって同じくらい違う。
 若く、陽気でちょこまかと速い動きをする、そのくせ銃を握らせたら誰よりも落ち着いて正確に的を撃った。
“少佐の狙撃手”と影ながらに呼ばれていることを誇りとし、カーターもまたそんなカイルが頼もしかった。

 共に戦い、戦いに敗れて傷つき、死んでいった私の――
 墓石にはそう記されてあった。
『共に戦い、常に皆を守った有能な兵士、ここに眠る』
 もちろんその文章を考え、依頼したのはカーターだ。
『デイン、おまえと一緒に戦いたい……』
 カイルの泣き顔が甦る。
 カーターの家にいると、恋人ができないだろう、と気を使っていたときの哀しみに溢れた顔が。一緒に戦いに出かけたいと泣いた顔が――
 カーターの頬から涙がほろりと落ち、初めて自分が泣いていることに気づいた。
 泣くこともしないまま、請われるままに慌ただしくノーフォークへ戻ったのは、ひとえに昔に戻りたかったからだ。
 チームをもう一度率いることになるかもしれない、その想いがカーターをこの墓から、哀しみから引き離した。
 それなのに、鬱々と長い時間をかけてしまったな、とカーターは墓石に縋るように手をついた。
 それでも、大した涙は出ては来なかった。
 すでに亡くしたものに対してのショックで泣くタイミングは、失していた。
 誰もいない墓地で、カーターは立ち上がり、ぼんやりと墓石を眺め続けるしかなかった。ポケットに入れた手が、金時計に触れた。
「カイル、おまえを忘れたわけじゃないんだ。でも、私の心にはずっと彼がいたと、やっと分かった。私はずっと、心の隅でロイを愛していた。それを正直に告白するよ」
「くそやろう」
 はっと顔を上げる。
 墓石を見つめたが、まさか石がしゃべるわけはない。
 思わず辺りを見回していると、木の影から男がひとり現れた。
 影は、松葉杖を頼りながらゆっくりと歩み寄ってくる。

「……ロイ?」
「お墓参りに来たんです」
「そのためにわざわざ来てくれたのか?」
 ロイは杖に縋りながらぎくしゃくとしゃがみ、手にしていた小さな花を墓石の前に置いた。
「今、声が聞こえなかったか? カイルがまだその辺に浮遊してでもいるんだろうか?」
 ロイは声を立てて笑い、「俺です」と答えた。
「君…だって? くそやろうといったぞ」
「カイルならそういうでしょう? あいつは口が悪かった」
「良く……知ってるな」
「一度いわれたことがあるので」
「まさか……」
「ほんとです。一緒に飲んでいたときだったかな。カーター少佐とあなたは親しいんですか、と彼が俺にいったとき、俺がそっけなく答えたのが気に障ったらしい」
「飲みに行ったとき……ならまだ元気なときか?」
「カーター少佐はあなたが好きみたいだ、というので俺も態度が冷たかったかもしれない。そのとき罵られました」

 騒々しい、仲間達の喧噪をよそに、カイルはロイの正面にいつの間にか座っていた。らしからぬ仏頂面で、ロイを上目遣いに見ながら酒のよいに任せているといわんばかりの調子だった。
『あなたはカーター少佐と、どのくらい親しいんですか?』
『とりたてて親しくはない』
 その時点でのロイには、ごく当たり前の感覚だった。尊敬しているのかと聞かれれば、もう少しましな答えをしたかもしれないが、カーターがロイを好きみたいだからという呟きに、ことさらに冷たい口調になってしまった。
 ふうん、という息を漏らし、それからカイルはちょっと目を光らせて、『くそやろう』といって仲間達の騒ぎに紛れてしまった。
 ロイはそのことばに驚き、カイルの姿を目で追いながら、聞き流すことにしたのだ。今のは自分に発せられたことばで、なぜそこまでのののしりを受けないといけないのか、と疑問に思いながら。
 次の日からの彼の態度は、普段と変わりなく、自分がそういうことをいったことすら覚えていないのではないかとすら思え、ロイもまた酒の上でのことばにこだわることはしなかった。

 胸がつかれる思いで、カーターはその場面を想像した。
 ――カイルは気づいていたのだ。
 まだ、カーターがカイルをそういう目で見る以前から。
 ロイといることなど、そうはなかったはずなのに、カイルは僅かなカーターの視線を見ていたのかもしれない。
 もちろんカーターはカイルが自分にそんな気持ちを抱いていたなどとは、今の今まで気づいてもいなかったのだ。カイルとの愛は、あくまでも彼が負傷してからお互いに芽生えたものだと、どこかで思いこんでもいた。
 そしてカイルは知ったのだろう。カーターの心の奥底に誰がいるのか。カーター自身が気づいていなかったことを。
 口を開けたままのカーターの隣で、ロイは黙祷するように目を閉じ、それから立ち上がった。
「なにもカイルの墓に、あんな告白をする必要はないでしょう? 今頃天国できっと怒ってますよ」
「天国なんてないといったのは誰だ」カーターはふんと鼻を鳴らして辺りを見回した。「ひとりか?」
「ジムはお姉さんの子供が生まれたので、お祝いに。すぐに戻ってくるとはいっていましたが、それなら俺はここへ来ようと」
「そんな身体でか?」
「タクシーに乗りさえすれば、どこでもいけます。これでもだいぶ歩けるようになってきたので」
 なぜ? とカーターは聞いた。
 彼に謝りたくてと、ロイは答えた。
「あなたを俺の家に呼んでしまったことを詫びに」
「……後悔しているのか?」
 ロイは顔を上げて、微笑んだ。
「俺を許してください、デイン」
「君を許す?」
「……あなたを好きだといいながら、それ以上の距離を詰められないのなら、いうべきではなかった」
「私とキスできるくらいに好きなのか? 父親としてではなく」
 小首を傾げたロイは、それでも微かにうなずいた。
「私に抱かれてもいいと、思うほどに?」
 それにはさすがに目を逸らした。
「ジムがいるからな」
「デイン、ジムは……特別なんです」

「特別……か」
「……特別…です。どんなときも常にジムはそばにいてくれて、やっかいだと思うこともあっても、いないと不安になる。あいつは俺のことばかり考えて……俺がどんな人間でも絶対に見捨てない……」
「まっすぐに熱中する人間には適わない。私はいつもこう、どこかが腑抜けていて、肝心なところで考えなしだ。自分の気持ちすら、はっきりとは把握できないで流されてばかりだ。ジムのように、ひとりの人間をずっと見つめるということを、なぜ私はしなかったのかな……」
「でも、振られた女性に会いに行かれて、子供ごと愛してやるとおっしゃった。あなたは、常に温かい眼差しと、驚くほど簡単に重大な決意をくだすことができる人です」
 ――それは、彼女のことだけでなく、かつてのロイを引き取って暮らす、といったことに関しての話だな、とカーターにはわかった。
 おそらく、ロイのわだかまりは、その頃の話から続いていることだったのはすでに気づいていた。そしてそれは、他人の子供を育てたロイの父親像と多分に重なっているのだ。
「……なんだか、あまり褒められている気はしない。粗忽者だと聞こえるが」
 カーターはわざといった。
「でも、そういうところが俺には憧れでもあるんです」
「憧れ? 君が私に? そういえばいつかもそういっていたが、お世辞ってわけじゃなかったんだ」
 もちろん、この男にお世辞などいえないことは承知ではあるが。
「俺にはない。誰かのために自分がやりたいことを捨てるなんて、俺には絶対にできそうにない。ジムもあなたも、そういう優しさを持ち合わせている。俺はおそらく、どこかが醒めているんでしょう。冷たいのかもしれない。あなたはいつも、自然体でみんなに接してきた。あなたみたいな将校になりたいと、俺はずっと思っていました」
 カーターは、なんと答えていいのか分からず、口を半分開けたまま突っ立っていた。
「ば……かな。ホイットモアを見ろ。君が命がけで助けた男だ。冷たいなんてあるわけがないだろ?」
 それでも、ロイにしてみればもっと違う意味合いがあるのだろう。それに関しての返事はなかった。
「たとえば、ジムがもうすぐ死ぬ……いや、縁起でもなくて申し訳ないが。それでずっとそばにいてくれといわれたら……? 仕事を辞めてそばにいてくれと」
「……ジムは死なないんだそうです。俺より先には」
 まじめな顔で答えてから、ロイはふっと笑った。
「だから、考えたことはありません。そうなったらという想像もつかないので、お答えできない」
 こいつ、とカーターはロイの頭を小突いて苦笑した。目一杯ののろけじゃないか。
 そういえばジムも同じことをいっていたのを思い出した。
 あいつのでかい図体には、ロマンチックが山ほど詰まっているのを忘れていた。けれども、ある意味それを信じているようなロイは、実際に屈辱的な証言をすることを覚悟してペイジに臨んだ――きっとジムのためならばなにもかも捨てることなど、厭いもしないだろう。

「小説は、まだお書きになっているんですか?」
 不意をつかれ、カーターは口を歪めた。
「“日記”のことか? まあ、誰にも見せないということなら続いている」
「日記……ですか?」
「でも、自分の気持ちをまとめる役にはたった。いずれあれを物語にするなら、もっといろいろ推敲しないとな。そのときは実名は使わずに、別の名にするから安心しろ」
「俺のことまで?」
「ここ3ヶ月近く、そばに一番いたのは君だろ? 当然出番は多くなる」
 ロイはそれは……と、呟きながら墓石に目をやった。
 カーターはその細い顎に指をかけ、その小さな顔を見つめながらいった。
「キス、してもいいか?」
 ロイは瞬間、凍ったような瞳を向けた。
「正気ですか?……カイルが見ている、こんなところでなにをいいだして……」
「分かっている。ここは特別な場所だ。最初で最後のキスを、今ここで君としたい。カイルの前で、隠さずに」
「最初で……最後の?」
「何度もキスしてしまったけど、ちゃんとしたことはないはずだろ。“俺はどうすれば?”なんて聞くなよ。嫌なら嫌だといっていい。君の素直な気持ちで答えてくれたらそれでいい」
 ロイは瞬間、計るような瞳を向け、カーターを見つめ返した。

 その宝石のような瞳は、かげることなくカーターを見つめている。
 思い切ってカーターが唇に触れると、薄紅色の柔らかな皮膚が微かに動き、やがてロイはおずおずとではあるが、それを受け入れた。
 眠っていたときはとは違う、意志を持った唇は拒絶することなく、甘い感触をカーターに伝えてきた。
 仏頂面の、愛想のない普段の顔からは想像もできない蕩けるようなキスを、この男が誰に習ったのかもう分かってはいたが、カーターはそれを堪能した。
 ずいぶん長い時間、カーターはロイを離さなかったし、ロイもまた逆らわなかった。
 角度を変え、愛しさを注ぎ込むほどの気持ちで、カーターはロイを確かめ続けた。目の端に映る墓石の白さに、ときおり意識を走らせながら。
 両方の手を杖にすがっていることが、おそらくロイにとっては幸いだったに違いない。カーターが抱き寄せても、ロイは逆らいはしなかったが、自らの手をカーターに回してくることはなかった。
 それでもこのキスは、すでにカーターの一方的なものではなく、ちゃんとした意志をもって続けられている。
 甘いくせに、息が継げなくなるのか、ロイはくふん、というような愛らしい吐息を漏らした。
 自分と抱き合うことができないかもしれないとは、カーターには思えなかった。
 うぬぼれではなく、このキスがそれを語っている。
 もちろん、“誰とでも”などとは思わない。“私”だからだ、とカーターはひとり思った。
 きっとジムと同じように、すっかり蕩けさせられたロイはカーターにもすがりついて来るだろう。“特別”のあの大男がいなければ、きっとそれはすぐにでも実現可能なことに違いないと、カーターはひとりその気持ちを噛みしめた。
 ロイにもそれはきっと分かっているのだ。分かっていて、ここでふたりは自分たちの葛藤に最後のくさびを打とうとしているのだ。

 そうして、敢えてカイルの墓石の前でこれを行うことで、カーターは自分へのブレーキをかける理性を保つことができるという計算もまた、働いていたのかもしれない。
 ようやく唇を離すと、ロイは俯いた。
 気のせいではなく、唇はぽってりと愛らしく腫れたように見える。頬も微かではあるが、赤らんでいるのが、ほほえましかった。
「……もう、戻らないと。タクシーを待たせてあるんです」
 掠れたような声で、ロイは自らに言い聞かせるように呟いた。
 一緒にレンタカーで帰らないか? といいかけて、カーターは黙って頷いた。
 もう墓石に目をやることもせず、ロイはゆっくりと来た道を歩き出した。それから、ふと立ち止まり、振り返った。
「デイン……」
「ロイ、今後は友達だ。友達は、キスなどしないから、せがまないでくれよ」
 ロイは微笑んで頷き、杖に寄りかかったままちょっと片手をあげて見せ、また歩き出した。
 よく見ると、離れた場所にタクシーが停車して、運転手が外で煙草をくゆらせていた。
 ちらちらとこちらを伺っているのは、キスの現場を目撃したせいかもしれない。空港まで戻る道のりを、ロイは生きた心地がしないだろうと思うと、ちょっと気の毒になってカーターは苦笑した。
 乗り込んだロイを乗せ、タクシーはあっという間になだらかな道のくだりに消えていった。
 ようやく、カーターはカイルの墓の前に座り込み、白い石を眺めた。
「見ていたか? カイル。呆れたか? それとも怒ってるかな?」
 石に手をつき、カーターはまだ火照ったような唇をカイルの墓石に押しつけた。その感触は、さっきの唇とは正反対の冷たさを伝えてきた。
「……君にはこの石ごしにしかもう、触れることができないんだ」
 君はもう、私の手の中にはいない。死んでしまったからだ、とカーターは胸の中で続けた。
 そして、ロイもまたもう、カーターにとっては死んだも同然なのだ。
 いつかジムがいったように、自分の手の中にいない人間なのだから。カーターはふたりの愛する人間を、失った。
 でも、新たな友人は得た。
 友人としてのロイを、もう甘い目で見つめることはすまい。

 それでいいか? カイル。
 クソ野郎は、クソ野郎なりに、生きていくしかないんだ。
 不意に激情に似たものがこみ上げ、カーターは泣き出した。さっきとは比べものにならない涙が、あとからあとから頬を伝い落ちる。
 鳥が泣き声を立てて、ばさばさと羽音をさせて飛び立った。
 どうして泣いているのか分からなかったが、それは心に積もった澱が流れ去っていくのを助けてでもいるかのように、泣きながらもカーターの心は軽くなっていく気がした。
“あんたはやっぱり、クソ野郎だよ、デイン”
 墓の中から、そんな声がした気がした。
 案外、自分はずっとそんなふうに、カイルに罵られたかったのかもしれないなとくすくす笑いながらも涙は止まらなかった。
 カイルはいたのだ。
 きっとずっと。
 この墓を抜け出して、自分のそばですべてを見ていたに違いない。
 だから、ロイが危機に陥ったとき、携帯を鳴らし、姿を現したのだ。そうとしか思えない。幾度も幾度もロイに不埒な行為をしかけては、理性でとどまったと思っていたが、案外カイルが後ろから腕を引っ張っていたのかもしれない。
 ありがとう、とカーターは墓に手をかけた。
 おかげでロイは助かった。そう、私も。
 そして、すまない、カイル。
 私の心が君だけを想っていなかったことを。
 でも、愛している、カイル。
 それは真実だ。
 君がいたとき、君だけを見続けていたのは確かなんだ。
 なぜ死んだ、カイル――いるならもう一度だけ、姿を見せてくれ。
 ふわりと、カイルの真っ黒な艶のある髪の毛が、鼻先を通り過ぎていった気がした。

「……カイル……!!」
 今、カーターはやっとカイルのために泣いているのだと自覚した。
 膝をつき、手を地面につけてカーターは泣いた。
 それもいいかもしれない。
 今しばらくはこのまま、涙が止まるまで泣き続けよう。浮遊していたカイルが、安心して眠れるように。
「失恋の涙なんかじゃないぞ、これは君だけのために流す涙だ……カイル、おまえだけの……」
 たった今、葬儀が終わったもののように、カーターは墓石の前で嗚咽を漏らし続けた。











硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評