[まっさらのシャツ]of [金の砂銀の砂]


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まっさらのシャツ

「ローイ!」
 ガラス戸が開いてもいないのに、聞き慣れた陽気な声が聞こえてくる。
 新年早々の、朝だった。
 ばん、とドアが開き、大きな身体が降りしきる雪を背景に現れた。
 カーターは声がしたと同時に、それまで座ってテレビを見ていたソファから離れ、キッチンへ入った。
「ジム」
 大股で、ゆったりと歩いてくるジムに、ロイが微笑んでいる。すでにギプスが外され、固定具をつけたロイはゆっくりと立ち上がった。
「お帰り、ジム」
 オカエリ、ジム――
 そういいたいと願っていたままに、ロイは手を伸ばし、ジムががっしりと抱きしめる身体に隠れてしまった。
「デインは?」
 あたりを伺うようなジムの視線を避け、カーターは壁際に身を隠した。
「キッチンにいるは…ず…」
 ロイの声が途切れた。そっと覗くと、ソファの背の上からジムの盛り上がった背中が見えた。けれども、その首のあたりにおずおずと白い手が乗せられ、やがてしっかりと力が込められた。
 このままおじゃま虫退散といけば格好もいいのだろうが、と思いつつ、カーターはエヘンと咳払いをしながら珈琲をカップに注いだ。
 三つのカップをトレーに乗せて顔を上げると、ジムが目の前に立っていた。
「……お帰り、ジム。ご苦労だった」
「あなたこそ、ロイが面倒をおかけしました」
 まるで保護者のような口のききように、カーターはふん、と鼻で笑い、トレーをつきつけた。
「運んでくれないか、曹長。君は客じゃないようだ」
 ジムは笑いながら、それを受け取り、カーターの耳元に顔を寄せた。
「で、いかがでした? ふたりきりの三週間は」
「腰を抜かしたいなら、聞かせてやってもいいが、まああとでゆっくりとな」
「腰を抜かすようなことが?」
 カーターは彼の頬に拳を当て、殴る振りをした。
「冗談……といいたいところだけど、まあいろいろ」
 ジムは、ちょっと眉を顰め、それからまた微笑みを浮かべて頷いた。
「あとでじっくり聞かせてもらいますよ」
 チームに於いて、ジム・ホーナーという男は、常に周りを見ている。上官である将校たちの様子、そして下士官、兵士たち。雰囲気を作り、盛り上げるその存在感は大きい。
 ビーチハウスのリビングは今、すっかり何事もなかったかのように、ジムという男の雰囲気に染まっていた。
 快活な笑い声に、ロイの笑顔も引き出される。
 その様子を眺めていると、カーターはロイを泣かすようなことばかりしてきた気がした。
 ベルトのボタンに止めてポケットに入れてある懐中時計に手を滑らせた。いや、それなりに葛藤を重ね、カーターとロイの間にも新しいなにかが生まれかけている。
「あれ? 懐中時計ですか?」
 鎖が見えたのか、ジムがその腰の辺りに目を向けた。

「うん。いいだろう?」
「へえ。おしゃれだな」
 ジムはなにも知らないのか、カーターが見せた時計を手に取り、しげしげと眺めた。
「あなたのインテリジェンスが引き立ちますね」
 似合わないお世辞に、カーターは笑った。
 彼らは過ぎてしまったとはいえ、プレゼントの交換などしないのだろうか? 文化すらないような場所から帰宅したジムは、土産すら持ってはいない。
 いや、ロイが待っていたこと、ジムがいつもの笑顔で戻ってきたこと、このふたりにはそれがなにより大切な贈り物なのだとお互いに分かっているのかもしれない。
 本来休みであるはずのディエゴが、ハルトマンの診察を受けさせるために顔を出した。ギプスを外したというのに、どうも調子が良くないというので特別に看てくれるらしい。
「まだ痛みがあるのか?」
 なにも知らないジムが心配そうに聞いたが、ロイは「ただの検査だ」と首を振った。思ったほど調子が良くなさそうに見えることに、やっと気づいたようだった。
「だったら……俺も行こうか?」
 戻ったばかりで離れがたいふうのジムがいったが、ロイは「子供じゃないんだぞ」と笑った。

 カーターとジムは、取り残されたリビングで珈琲を飲んでいた。
 ジムは、黙ってカップを傾けている
 。カーターが話すのを待っているのだろうが、なにからどう話せばいいのか混乱して、なかなか言葉が出てこない。
 それでも、まずはロイへ向けたカーターの気持ちから正直に打ち明けることにした。そして、ロイが見せた彼の心の裡も。
 カーターはジムに、ロイにしたことのすべてを話すべきかどうか迷った。三十年を超えて生きてきたのだ。上官に報告するごとく、逐一をいう必要はないとも思う。
 あれはロイと自分との間に起きた出来事で、それをすでにロイも昇華している。今後、みんなが生きていく上で、よけいなエピソードはその関係を曇らせる一因となることをカーターは知っていた。
 それでも、どうしても秘密にしておくわけにはいかないような気分でもあった。
「ジム、実は……」
 カーターがロイが眠っている間にした卑劣な行為を、ジムは黙って聞いていた。ただ、前を向いたまま、再び降り出した雪を見つめて唇を真一文字に結んで。
「私の手に反応したロイが、本当は夢の中で誰に抱かれていたのか、それは重々分かっていての暴挙だよ、ジム。それに君に謝るつもりはない。これは、ロイと私の問題だ」
「……それでよくなし崩しにしなかったものですね。たいした理性だ」
 ふっと息をつくように、ジムがいった。
「理性ね……。まあ、それもほんの一滴、残っていた程度だ」
「もし、そうなっていたらロイは今頃どうしていたんだろう。あなたを選んでいたと思いますか?」
 カーターはポケットからはみ出ている金鎖に指を絡ませた。
「それはないよ、ジム。それはロイの意志じゃない。たとえ私が動けないロイを無理矢理毎日抱いてしまったとしても、ロイは君に“おかえり”といったはずだ……」

 
 カーターが金時計のクリスマスプレゼントのくだりを話すと、ジムは頷いた。
「見たことがあると思ったんだ。ロイが一度それを磨いていたことがあって。彼の持ち物にしては、安物に見えたのが不思議で。物持ちじゃないけど、持っているものはいいものが多いでしょ? なのにとても大事そうで、なんなのか聞いたことがありますよ」
「そうか。……じゃあこれを私に彼がくれた意味も分かるな?」
「親父さんへの愛情みたいな気分だった……ってことですか?」
 ジムが無意識に、ほっとしたようにいった言葉に、カーターは頷いた。
「ファザコンだろ? ロイは」
 ジムは声を立てて笑った。
「あの人は、親父さんに対して引け目があるんですよ。お母さんのしたことを知らなかった頃からね。知ってしまった今、ますます彼はロイの中に重い存在として生き続けている。ロイにとって、あなたは完璧な大人に見えていたはずだ。冷静で理知的なところがね。そこが親父さんを彷彿とさせていたのかも」
「けど、意外に短絡で抜けててオゲラだと知って、親父さんへのイメージも変わったのかもな。マイクにだって、どこか欠点はあったはずだ」
 カーターもジムの笑顔に合わせるように軽口を叩いて、笑った。
 だが、心の中では違うぞとジムに対して毒づいてもいた。 
 ロイは私を、やはり愛してくれているのだ。
 それを、父親とのエピソードと重ねることで問題に解答を書いたのだとカーターは感じていた。
 それを阻んでいるのは、唯一おまえだよ、とカーターはジムの横顔を盗み見た。
 ハンサムともいえない、無骨な大男。
 粗野で、上品とはいい難いが、限りなく愛情深い――
「で、あなたはその時計を受け取ったわけだ」
 父親を慕うような気持ちを――と、ジムはいいたかったのだろう。カーターはそうだな、と答える。
「ロイが好きだよ。でも、私は今回すっかりいろんなことに自信を無くしてしまった。自分がなにを求めていて、どうしたいのかすら見えない。ノーフォークへ戻ってから、私は自分を見つけられない迷子みたいなもんだった」
 ジムはちょっと眉を顰めて、カーターを見た。
 その眼差しを避けるように、カーターはジムから目を逸らした。
「俺はね、デイン。ロイを全力で愛している。でも、そこにブレーキが利かないときがままあるんですよ」
 空になったカップをテーブルに起きながら、ジムが呟くようにいった。
「俺はいい。これまでつきあってきた女性を愛するように、いや、それ以上にあの人を愛して、かまって……そこに俺の生き方の変化はない。けど、ロイにとっては、大逆転したようなもんだ。必要以上に自分のアイデンティティを築き上げてきたあの人からすれば、今の立場はさぞきついことだと思うんです」
「……それは、彼が君に抱かれるということでか?」
「まあ、それも一番かもしれないが、結局俺はロイを囲って縛ってしまっているのかもしれません。守っているつもりでも、それが負担になることだってあるでしょう。実際、俺たちのけんかの原因は、いつだってそのあたりから始まる。対等の……いや、上官であるあの人を俺は、無意識に自分の彼女のように思ってしまっているのかもしれません」
「それに関しては……ロイから話があるだろう」
 含みを持ったいい方をするカーターに、ジムが眉をあげて横目で見た。
「それに関して……って、なにに関してです?」
「本人が話をすると思うが……」
「なにかあったんですか?」
「ロイに聞いてくれ」
 ジムは眉間に皺を寄せ、なんだか分からないままに頷いた。

 その夜、カーター、リュウタロウ、ディエゴを交えてレストランへ行き、ディナーを食べた。
 長い訓練時の様子をジムが語り、あるいはディエゴの個人的な話を聞き出しながら、賑やかに食事が行われている中、ロイの表情はどこか上の空に見えた。
 気のせいかなのかもしれないが、どことなくいつもとは違う気がして、ジムは幾度もロイの顔を盗み見た。
 みんなの歓迎の気持ちは有り難かったが、カーターの含みのある話が気になってもおり、早くロイとふたりきりになりたくて、ジムは落ち着かなかった。
 やがて解散となって、ジムは自分のピックアップトラックにロイを乗せ、みんなと別れた。
 ロイは静かに助手席に座っていた。
「ロイ、今夜からしばらく泊まってもいいだろ? アパートに寄りたいんだが。ずっと同じものを着回していたから、荷物を置いて、着替えを取ってくる」
「じゃあ先に……家に送ってくれないか? 少し疲れたんだ」
 確かに疲れたのだろう。
 ロイはなんだか考え込んでいるようすで、ジムの言葉に応えるのみだ。
「どうかしたか? ずっと元気がないように見えたが」
 あ、とロイは首を振り、「なんでもない。すまない」と素直に謝った。
 ジムはロイの駐車場に車を乗り付け、ロイが下りるのを手伝った。
 ロイは腕を掴んでいたジムに向かい合い、じっとその顔を見つめた。
「……なんだ?」
 照れくさくなってジムが笑った。
「ジム、愛している……」
 滅多にないロイからのキスに、ジムは戸惑いながらも嬉しくなった。
 切なくなるほど愛しげに唇を押しつけられて、ジムは離れている時間も悪くはないもんだ、と暢気に思った。
「会いたかった……ジム。ほんとに」
「ああ、俺もだよ。もう帰りの輸送機の中で、走りたいほどに会いたかった」
 ロイはなんだかひどく寂しげに微笑んだ。
「荷物は明日でもかまわないか。このまま家に入ろう、ロイ」
 今にも抱き上げそうに腰を落としたジムに、ばか、とロイは笑った。
「往復したって三十分程度だろ」
「……まあ、それもそうだが」
「じゃあ、ジム。運転に気をつけて」
「すぐ戻るから。たまってるはずの郵便物と着替えをとって、すぐ戻る」
 うん、とロイは頷いた。
 バックミラーに映るロイの姿を見ながら、ジムは幾度もブレーキに足をかけた。別に取りに戻るほどのものでもない。一晩くらい、このまま一緒に家に入って泊まったからといって、問題はないと思いつつ、ロイのいうとおり、確かにばかみたいだと自分を笑った。
 いつになく積極的に、自らキスをしてくれたロイを早く思う存分抱きしめたい、と思いながらも、まだ夜は始まったばかりだとハンドルを切った。

 それから本当に、半時間のうちに戻ったジムは、やはりそのまま家に入れば良かった、と思うことになった。
 ビーチハウスは鍵がかけられ、灯りひとつともってはいなかった。鍵を使って中に入っても、ロイはどこにもいなかった。
「ロイ! いるんだろ?」
 広々とした部屋の中に、自分の声だけが響き渡る。ジムは一階の部屋をすべてチェックし、念のために二階もすべて覗いた。
 もう一度駆け下って、寝室のベッドに思わず腰を下ろしたとき、枕元のサイドテーブルの上に、封筒が置いてあるのに気がついた。
 宛名はジムになっていた。どす黒い嫌な気分に支配されながらも、ジムはその中身を開いた。
 ワープロで打ち出されたそこには、「ジム、すまない」という文字があった。

 手紙はいつものロイらしくなく長く、ジムの留守の間のここ三週間の模様が簡潔に記されていた。
 ペイジ、という名前に心臓が跳ね上がった。
 おそらく病院にいたときからあの男が周りをうろうろしていたらしいと、ロイは書いていた。ただ、それが幻のように実態を掴めず、一時は自分がおかしくなっているのかとすら思っていたと。
 そうして、とうとう起きた出来事――
 どうしてもジムにひと目会ってからと、今日まで待っていた。しばらくひとりで考えたい、心配しないでほしいと結んで手紙は終わっていた。
 ジムは幾度もそれを読み返し、やがて拳をベッドに打ち付けた。
 あのキスは、別れのキスだったのかと今さらに悔やまれる。ロイらしくもなく、切ないほどの寂しげな表情に、なぜ自分は気づかなかったのかと。

 ショックを受けてないはずはない。
 日付を見るともう、十日ほども前のこととはいえ、ロイはカーターやリュウタロウに心を打ち明けることなく、ひとりで平気な振りを装い続けたに違いない。ほんとうなら、すぐにもどこかへ身を隠したいほどの気持ちをただひたすらに耐えたのは自分に会うためだったのだ、と思うと怒りは起きなかった。
 足の調子が悪かったのも、そのせいに違いない。
 カーターにその日の子細を聞こうかと携帯を開き、それよりもロイに会うのが先だ、と番号案内のボタンを押した。
 一番近場にあるはずのタクシー会社に電話をかけた。自分が立ち去ってから、移動するとしたらそれしかない。特にまだ、ちゃんと歩けもしないのだ。
 さっき乗ったものの家族だが、忘れ物をしているのでどの辺にいるのか知りたい、と住所をいうと、しばらく待たされてから応答があった。
 ダイレクトにタクシーの運転手の無線とつながったようだ。
「もう下りられています。そちらへ連絡されては?」
「すいません。明日一緒に出るはずだったんですが、ちょっと揉めまして。今夜の行き先が分からないんで。病人なのに薬を忘れて行ったんです。杖をついていたでしょう?」
 相手は少し逡巡していたが、病人ということばでやっと行き先を教えてくれた。
 リゾート街からずっと空港寄りにあるホテルで、本当に身内かどうか信用はできなくても教えてもそこならば問題ないと判断したのだろう。
 ジムは丁寧に礼をいいながらも、すでに車に乗り込んでいた。

 豪奢な作りの大きな建物の中に駆け込むと、ジムはフォードさんに連絡をしたいので呼び出してほしいとフロントに伝えた。
 フロントマンは愛想良く内線電話をとってくれたが、出ないのかキーの戸棚をチェックして、外出してないことを確認してからいった。
「でられません。早めにお休みになられたか、バスを使っておいでかもしれませんね」
「……だったら、ドアを開けてくれないか」
 ジムは嫌な予感がして早口でいった。
「もしかしたら具合が悪くなっているかもしれん。まだ完治してない怪我人なんだ」
「それはちょっとできかねます」
「自殺でもしていたらと、俺は心配しているんだ!」
 フロントマンは逡巡していたが、ジムの顔色が本当にただならぬ気配をまとっているのを見て、合い鍵を手にした。

 一応ノックをしてから耳を澄まし、フロントマンはキーを使ってドアを開けた。
 中は荷物が置いてあるだけで、散らかってすらいなかった。だが当の本人はおらず、バスルームから水音だけが聞こえてくる。
 突っ立って辺りを見回しているホテルマンを押しのけて、ジムはバスルームのドアを開けた。シャワーカーテンの向こうに影が見え、お湯が降り注いでいるためにもうもうと湯気が立っていた。
 ジムは中に入って、シャワーカーテンをそっとめくった。
 俯いて、大判のバスタオルをなぜか身体に巻き付け、ロイは湯の張っていないタブに俯いて座っていた。
「ロイ……」
 なにごとか考え込んででもいたのか、ロイははっと顔を上げ、なぜ……と呟いたままジムを見つめた。
「お客様?」
 フロントマンに、ジムは有り難う、大丈夫そうだと声をかけ、彼が頷いてから出て行くと、ジムはそのままロイのいる大判のゴージャスな浴槽に入った。

 服が濡れるのもかまわず、ロイの後ろにしゃがみ込み、ジムはどうした? と聞いた。
「俺が戻るって分かってて、黙って出て行くなんてひどいじゃないか」
 ロイは身を包んでいたバスタオルをさらにかき寄せ、身を固くした。
「なんで……ここが分かったんだ?」
「今のあんたを追いかけるくらいわけはない」
 ロイはそうか、と気の抜けたような声を出し、抱えた膝に顔を埋めた。ジムはそれ以上なにもいわず、黙ってロイの様子を眺めた。
 ロイは、なぜだか石鹸を固く握りしめている。
「せっかく帰ってきたのに……すまない……ジム」
 ロイは頭を下げたまま呟くようにいった。
「いいんだ。手紙を読んだ。つらかったな、ロイ」
 ジムは後ろから足を開いて尻を落とし、ロイを挟み込むようにして抱きしめた。
「で、どこへいくつもりだったんだ?」
 ロイは抱かれた身体を少し動かして、腕から逃れようとしたがジムは力を緩めなかった。
「……明日になったら、飛行機に乗るつもりだったんだろう?」
 身を捩りかけていたロイは動きを止め、うなだれた。
「俺はそんなに頼りないか? ロイ。相談相手にはならないのか?」
 ついっとこめかみの辺りに指を走らせ、ジムはすでに赤茶けているロイの打ち身をそっと撫でた。
「そうじゃ……ない。そうじゃなくて……」
 腕を掴んで自分の方に強引に向きを変え、胸元を押さえているロイの手を剥がし、ジムはバスタオルに手をかけた。
「だめだ、見ないでくれ!」
 身を丸めて拒むロイの身体を起こし、むりやりタオルをはぎ取った。
「見る……な。まだ……まだこんなにくっきりと残ってる……こんなものを……おまえに……見せたくなかったから……」
 ジムは握りしめている石鹸を奪い取った。
 新品であるはずの石鹸は、摩耗していた。
 額とは違い、まだはっきりと残る鞭の痕を見て、ジムは一瞬瞳に怒りを浮かべたが、すぐに潤んで涙を滲ませた。
 身体中がピンク色に染まるほど、この石鹸で擦り続けたのだと、気がついたからだ。
 胸元の手が届く範囲の傷のあたりは、特に擦ったように赤くなっている。
「俺が今夜、あんたを抱くと分かってるから……逃げたのか? 見られたくなかったから?」
「傷跡のことは、手紙に書いたとおりだ、ジム。俺が洗い流したかったのは……俺はすべてを……俺自身を……消してしまいたかった……」
「ロイ……そんなことを……」
 ロイは首を振り、自分の身体から目を逸らすように壁を向いた。
「ジム、俺はもうおまえとは……いられない」
「……なんだって?」
「軍を辞めて、俺は……どこか別の土地で別の仕事をしようと思っているんだ。おまえが戻ってくるまでは待っていようと……そう思ってた。ちゃんと話をして、本当はおまえに理解してもらおうと……思っていた。でも……」
「どうしてなんだ? あんたがどんな目に遭ったかなんて関係ない。そうだろ? なんで仕事を辞めなきゃいけない? なんで俺と離れなきゃならないんだ?」
「俺はもう、どうしようもないほどぼろぼろになってしまっているんだ、ジム。俺のことをそういう目で見ている士官だっている。これ以上、軍にいたらいずれおまえとのこともばれて、迷惑を……かける」
「誰だ、その士官てのは」
 ロイは首を振った。
 弱々しかった横顔が、やっということのできた決意に引き締まる。
「今まで本当に世話になった、ジム。どれほど礼をいっても足りないほど……」
 ジムは呆れたようにロイの顔を眺め、ぱん、と軽く両方の頬を叩いた。
「俺はあんたを愛しているんだぜ、ロイ。それとも俺を捨ててデインを選ぶってんなら……」
 ロイはまた首を振った。
「そうじゃない。デインは関係ない。俺はもう、芯まで腐ってる…んだ……ジム」
「馬鹿いうな。ぼろぼろだったっていうなら、俺とそうなった最初からそうだったはずだろ? 買ってきたばかりのシャツみたいにまっさらで真っ白なあんただったら、俺なんか必要なかった。そうだろうが」
「それでもあの時は……」
 ロイはジムの胸に顔を埋めた。「あの時はまだ俺は……」
 初心だったのだ。どこもかしこも。
 穢されたのは確かでも、汚れ果ててはいなかった。けれど今は――ロイは唇を震わせた。
「俺はおまえのまっさらなシャツになりたかった……んだ……」

 ロイはこみ上げてくる熱い塊を飲み込むように、喉を鳴らした。
 ジムは、燃えるような目でロイを見つめた。
「なにがあっても、仕事を辞めようなんて思ったことないくせに、いったいどうしてしまったんだ?」
「分からなくなったんだ、ジム。俺の存在がおまえに迷惑をかけそうで。……俺はおまえの反対を押し切ってデインと暮らして。その挙げ句……あんな……おかしな男に未だにつきまとわれて、仲間にまで娼婦のようにいわれて、たった三週離れていただけで、またこんな忌まわしい傷をつけられたのに、のうのうとおまえを待っていたなんて、おめでたいと思わないか?」
「……それでも俺を、待っててくれたんだろう? ロイ」
「ひと目だけ…会いたかった。顔を見て、別れを告げたいと……でも、どうしてもいえなかった。いっそのこと会わないままの方が良かった気がする……」
「なにをいってるんだ、ロイ。俺たちは職場でもちゃんとやってる。誰にも悟られないように。その士官になにをいわれたんだか知らんが……」
「……足も、調子が悪い。すっかり元に戻るかどうかも分からないと医者がいった。どっちにしてもそうなったら仕事には戻れない。今辞めてしまうのが一番いいんだ。だから、分かって欲しい、ジム……」
「まだ……完治してもいないのにその判断は早すぎるだろ? ロイ、いろいろ重なって気持ちが追い詰められているだけだ。落ち着いて一緒に考えれば……」
「ペイジは俺を諦めない。ここにいたら、ディエゴにまで迷惑をかける。もしかしたら、おまえやデインにも。俺とおまえのことを、あいつが調べ上げるかもしれない。それを軍の連中にばらしてしまうかもしれない……軍だけでなく、おまえの家族にまで知られるかもしれない。あるいは他の誰かが気づいていく可能性だって、いや……」
 ロイは苦しそうに息を継いだ。
「あいつは俺を……ペットにするといったんだ。そういう客にいずれ売りつけるとまで……それが俺には似合いだと……俺にも今はそうなんじゃないかとすら思う。俺は……すっかりあいつにいいように扱われた。なにも考えられなくなるほど、俺は……」
「仕方ないだろう、怪我した身体で逆らえなかったんだ。それに鞭なんて持ち出されたら……」
「それが出る前から俺が……かん…じていたといったら?」
 ロイの息が荒くなった。

 ジムは大きく目を開けてロイを見つめている。
「感じていた? どういう意味だ?」
「いいたくは……なかったけど、おまえが納得しないなら正直に……いうしかない。軽蔑してくれてかまわない。いったとおりの意味だ……」
「ロイ……?」
「鞭を持ち出したのは、俺が蹴ったことで怒らせたからだ。それまで俺は……おまえが相手のときよりも…感じていた。なんだか分からなくなるほど、あいつを求めてすらいた。押さえつけられて、殴られながらも俺は……あれが俺の……俺の本質だとしたら――」
「そんなにいいと、ほんとに思ったのか?」
「身体の痛みすら忘れるほど、自分の声すら分からないほど叫んでいたと…思う。く、苦痛だけでなく。今まで経験したことないほど……ペイジは、俺がああいうふうに扱われるのがほんとは好きだからだといった。そうなのかもしれない。そのときのことを考えたら……狂いそうになるほど……俺は…もっと、と思った。もっと欲しいとまで……」
 そうだ、俺は欲しがってすらいた、とロイは声を細らせた。

 ジムはシャワーの降り注ぐ中、ロイの身体をぐいっと押し倒した。
「ジム、離してくれ! いやだ……」
 暴れても、ジムは痛いほどに力を込めて押さえ込んだまま、下腹部に手を滑らせた。
「しな……いで、ジム。おまえに今、触れられたくない……」
 なにをするつもりかとうに察して、ロイはバスタブを掴み、逃れようと立ち上がりかけた。
 カーターのように、前置きもなく、途中で躊躇うこともなく、ジムはさっさと上着を脱ぐと、たくましい腕でロイを押さえ込んだ。
 びしゃりと音を立てて、濡れた上着がバスルームの床に落ちる。シャツを脱ぐこともせず、ジムはズボンをずりさげ、それだけが目的のように露わな下腹部を抱え込んだ。
 ロイはだめだ、と逃れようとするが、筋肉のすっかり落ちた足でなくてもジムを振り払うことは不可能に近い。
 ましてや滑る狭いタブの中なのだ。
 いやだ、だめだとロイは繰り返し、自分の目に映る自身につけられた鞭の傷跡に震えすら起きた。これが別れの交わりなら、ジムがそう望むのならと、むなしい抵抗を諦め、ロイは身体を強ばらせたまま抵抗を諦めた。
 ものもいわずのし掛かってくるジムの気配は、怒りに満ちている。

 会いたくてたまらなかったジムに、こんなことをさせてしまうようなことになったことが哀しかった。
 会いたくて会いたくて、叫びたくなるほどの想いを懸命に堪えていたのに、まるで血に染まったぼろ切れのように薄汚れてしまった自分を見せるのが、ロイには耐えられなかった。
 すぐにでもどこかへ身を隠そう、と思ったことを実行しなかった自分を呪った。
 ひと目ジムに会ってからなどと、未練がましいことを考えたために。
 結局はこんなふうにジムを怒らせ、傷つけるのは分かっていながら先延ばしにした。
 ジムの怒りをダイレクトに受けるかのような、激しい痛みが身体の内側を貫いてくる。
 まだ、なんの準備も与えられないままの、日頃のジムとは思えないほどの乱暴な動きに、ロイは幾度も呻き声をあげた。
 あんたは馬鹿だ、と噛みしめた唇からジムがロイを罵っている。
 そう、俺は馬鹿だ――馬鹿でどうしようもない淫乱で……
「なぜ……ほっておいてくれない?」
 ロイはとうとう嗚咽を漏らした。
 こんな傷だらけの身体を、他人がさんざん穢したものを、なぜジムは捨てておかないのだ。こんなふうに、痛めつけるように怒りをぶつけるばかりのことを。
 これは罰なのだろうか、とロイは思った。罰ならば甘んじて受けるしかない。
 だがジムは返事もせずに、ロイを揺さぶるばかりだ。
 愛情すら感じさせないその行為は、ロイを消耗させた。
 どれほどそこをもみくちゃにされても、痛みばかりでなんの感覚も起きようともしない。
 ペイジとのときよりも、よほど苦痛に満ちているようにロイには思えた。

「農場なんだ」
 ジムが、呟くようにいった。
 荒々しい営みが途絶え、いつの間にかベッドに移されていることにロイは気づいた。
 我を忘れそうになりかけた意識の中に、穏やかで優しい響きを伴ったジムの声が染みいってきた。
 抱いたロイの胸元にキスをしながら、ジムは静かな声で語っている。
「うちの農場はな、大して広くはないが、空気だけはいいところだ。長姉の旦那が一昨年土地を買い足して、牛を二十頭増やしたといっていた。親父と違ってやり手なんだな。親父と二人じゃ手が足りなくて、今は使用人も数人雇っている。農作物と牛のミルクとで生計を立てていて、俺が育った頃より収入もいいらしい。馬もいるぞ。牧場ってほどの規模じゃないが、動物が好きで、仕事には関係なく飼っている。栗毛のいい馬だ。俺たちが戻って家業を手伝えば、親父は大喜びだ」
 ロイはやっと、話の内容を理解して、ジムを見つめた。
「農…場?」
「あんたには馬に乗ってもらって、牛の番をしてもらえばいい。そんな田舎がいやなら、あんたを呼びたがっている研究所で、俺は魚の飼育係をしてもいいな。一緒に都会に出て、まったく新しい仕事を探してみてもいい。俺たちはまだ若いんだぜ。どんな道だって、その気になりゃ……」
「俺と……一緒に? チームを…軍を辞めて? なにをいってるんだ、ジム」
「それのなにが悪い? 案外悪い方法じゃない。夜中に呼び出されたり、銃で撃たれるような可能性はぐっと低まるってもんだ」
「そんなことをしたら、おまえは後悔する。デインだって……」
「デインが後悔したのは、カイルがいなくなったせいだ。彼が元気でいれば、デインはフロリダにいて満足していたと俺は思う」
 それじゃ本末転倒だ、とロイは腕を顔にのせた。
「俺との仲がばれたらどうだっていうんだ。関係ないだろ。俺たちはお互いに今の仕事を大事に思っていることを知っている。だから、ばれるのを怖がっているだけだ。でも、仕事ってのは人生のすべてじゃない。認めてくれないならくれるところへ移ればいいだけだ。軍を辞めるからって俺を捨てることはないだろ、ロイ」
 うっくとロイが息を継いだ。
「チームを愛している……くせに」
「そりゃ大切だと思ってるさ。仲間は家族同然だ。けど、チームよりもっと大切なものがあるだろ? たとえ本当の家族だって同じだ。それ以上の存在があれば、みんなを失ったってかまわない」
 俺にはなによりあんたが大切だ、とジムは耳元で囁いた。
「誰よりも。……本当の家族よりも」なによりも、誰よりもだ、とジムは繰り返し囁き続けた。
 ロイは瞼を伏せ、頬に一筋涙が伝った。
「俺は……馬に乗ったことがない」
「すぐに上手くなる」
「テンガロンハット…被って?」
「あんたなら、似合うだろうな。いっぱしのカウボーイみたいに見えるぞ、きっと」
 ジムが笑って、髪をくしゃくしゃにした。
「ジム、俺は……」
「俺の田舎じゃシャツにプレスする必要だってないんだ。真新しいシャツなんか、滅多に着ることもない。俺はそういうシャツが一番肌に馴染んで好きだな」
 震わせた唇から、本格的な嗚咽のような声が漏れた。
「どんなにすり切れて…いても? 染みだらけで汚れてし……しまっていても?」
「たとえそのシャツがただの布きれになって、俺を見てくれなくてもだよ、ロイ」
「ジ…ム……」
 呼んだ声は、ぐずぐずに震えていた。

「それに、さっきのあんたの話は少しおかしいところがあるだろ?」
「おかしい、ところ?」
「今の俺の乱暴なやり方で、あんたは感じてはなかったはずだ。苦痛のみで、少しもよさそうには見えなかったぞ」
 ロイはおずおずと頷いた。
「つ……らかった……」
「常識で考えてみろ。俺でさえこうだぞ。あんなヤツを相手に、暴力を受けて我を忘れるほどの状態になるわけがないだろうが。メンタルな部分が一番大事だっていうのを、あんたは分かってない。ペイジがそこまで相手を慈しむように接したとも思えない。痛みも感じなくなるほどになったというのは、間違いなくなにか薬の影響だ」
 ロイは、ぼんやりとその言葉を反芻した。
 そういえば、そんな気がした。はじめの頃は、ペイジがロイを連れ去るのを阻止しようと感じているふりをしようとしても、うまくいかなかったくらいだ。
なのに、途中からいきなりなにかが変化した。
 そのときロイも、なにかがおかしい、と気づきかけていたのに、すっかり忘れてしまっていた。覚えているのは、ただひたすらペイジからいわれた、あなたは淫乱だという、嬲る言葉のみだ。
「なにかを……塗られた……」
「あんたが鞭で怯えてなければ、リュウタロウも勘づいたんだろうが、そういうことだよ、ロイ。麻薬に手を出してるような男だ。どんなもんかは知らんが、そんなものを使われれば、どんなに堅物の人間だっておかしくなるに決まってる」
 ジムはありったけの愛情を込めて、ロイにキスをした。
「乱暴にしてすまん」
 ジムがそっと下腹部に手を滑らせた。しばらくその手の温もりを感じているうちに、微かに腰が揺れた。
「俺を見ろよ、ロイ。今度はちゃんと感じるだろ? 俺が欲しいか?」
 ロイは涙を浮かべてジムを見た。
 目の端に、すでにまとめてトランクに詰めていた荷物が映った。ジムに別れを告げたらすぐに出て行くつもりのパッケージだった。
「俺で……いいのか? ジム」
「俺はあんた以外に欲しいものはないぞ。あんたはどうなんだ?」
「……うん、ジム。おまえが……欲しい……」

 立っていって、探して首根っこをひっつかまえて、ぼこぼこにして簀巻きにして、大事なものをちょん切って、ついでにばらばらに切り刻んでからチェサピーク湾に沈めてやりたい、とジムは歯がみした。
 ロイとホテルに一泊して戻ったその週末のことだ。
 カーターは声を抑えろといいつつも頷いた。カーターだって同じ気持ちなのだ。
 話題はもちろん、ペイジのことだ。
 今ジムたちのチームは特別に長い二週間の冬の休暇に入っており、カーターを呼び出して、さっきから怒鳴るように怒りを表していた。
 カーターはキッチンの食卓から身を乗り出して、あたりを伺った。ロイはリュウタロウと寝室におり、静かだった。
 ジムはカーターに“証拠”の品を見せてもらってからずっとこの調子で、同じようなギャングまがいの“罰”の方法を並べ立てている。
 沈める場所が大西洋のど真ん中だったり、穴を掘って生き埋めにしたり、チェーンソーまで持ち出してきたりと聞いている側からすれば、とんでもない内容ばかりだが、ジムの顔は極めて真面目だ。
 それは実際にどうこうというよりも、ジムの怒りの尺度の例えにちがいないと、カーターは感じてはいた。
 ただ、なんにしても相手の居場所が分からないのでは簀巻きにしようにも、どうしようもない。
「ペイジがいったという、人身売買だなんだというのは本当のことだと思いますか? まるで三流のポルノみたいな話だが」
「あの男自身が趣味でやってきたことを考えると、あながち口から出任せともいえないかもな。そういういかがわしい商売に手を染めてしまったというのは事実なのかもしれん」
「気色の悪い。人間をペットに……しかも、嬲るのが目的で売り買いするなんて、地獄に堕ちればいいんだ。売る方も売る方なら、買うほうも買う方だ。全員まとめてぶっ殺してやりたい。なにが商売だ!」
 もちろんそれは“犯罪”という商売だ。
 考えたら、政府の調査室などにいるよりも、よほど似合っているといえないこともない。
「また……来ると思うか? すでに警察に訴えていると思って、現れないかもしれない。あれからもう、十日以上たつ。あれだけ痛めつけたんだから、満足しているのかもしれない」
「いや、あいつは絶対来る。ロイが杖に頼らないで歩けるようになる前に、絶対にもう一度来るに違いない。これはもう、立派な犯罪者だ、デイン。やはり警察の手を借りた方が……」
「……でも、世間にあの話をしろとは私はとてもいえないよ。あんな状態で、必死で警察も救急車も呼ぼうとはしなかったことを考えると……」
 カーターがいうと、ジムも顎を引いた。

 ふたりとも、危機感を募らせるごとに、解決策はそこしかないと思いつつ、ロイにそれを説得することができないことで葛藤していた。
 あの日のみのできごとならばそれでもいいが、まるでストーカーのようにつきまとっていると思われるだけに、焦るのだ。
「とにかく、なんとか探しだしますよ。まだこの辺りにいるはずなんだ」
 ジムが気合いを入れるようにいった。
「デインが見たというレンタカーが、絶対この辺りに駐まっているはずだ。どこかで絶対、見張っているはずなんだから」
「けど、このあたりは別荘や個人宅ばかりでビルや店舗だってないんだぞ。いったいどこに隠れて……」
 ジムは立っていって、ベランダに出ると、辺りを見渡した。
「こっちからも見える場所のはずだ。別荘ならシーズンオフだから、空き家がある。高性能の望遠鏡を使えばかなり遠くでも様子は掴めるはずだけど、片側は海だし、範囲は限られてる。別荘の管理人に頼んで一軒一軒当たれば、侵入者がいればすぐ分かる」
「空き家はもう当たったよ。このあたり一帯、中を確認してもらった。このへんにはもう、不審な路上駐車の車すらない」
「だったら、待つまでだ。来たらそのときがあいつの年貢の納め時だ」
「ジーナ・オルソン……」
 カーターの脳裏に、怯えた上品な女性の顔が浮かんだ。
「オルソン中佐夫人……ですか? 隣の家の。彼女がなにか?」
「空き家ばかり気にしていたが、彼女は今留守なんだ。実家に戻ったまま帰ってきてはいないはずだ……」
 そうだ、とカーターは思い出していた。
 彼女が基地にまで電話をかけ、ロイの家から物音がしたというだけで、大した内容にも思えなかったのに、彼女は怯えたような声を出し、そしてカーターが戻ったときにはもういなかった。
 ロイが花瓶を投げつけた相手を、見たのに違いない――灯台もと暗しとはこのことだ。隣なら、いつでもここの様子は分かるではないか。
 そこにいるに違いない、とジムはいった。
 ペイジがその気になれば侵入することくらいわけはないだろう。
「車は目立たない駐車場にでも駐めて、歩いてきてるんだ……」
「でも確認のしようはないぞ、ジム。彼女の連絡先は知らないし。……でも、様子を窺うことはできるな。裏口を見張ってみるか」
「今度のことはぜんぶ俺に任せてください。デイン。あんたは関わらなくていい」
「……どういうことだ? ジム」
「汚れ仕事には、手を出さない方がいい」
「……なにをするつもりだ?」
「目の上のゴミは払わないとな。以前からの借りを返してやる。ロイをこんなふうに追い詰めた責任をとらせないと。二度とあんなやつに勝手な真似はさせん。そのためなら俺は……」
 遮るように声が聞こえた。
「どうしようというんだ? ジム……」
 いつの間にか、キッチンの入り口にロイがたたずんでいた。
 ロイは真っ白な顔でふたりを見ていた。

 
“目の上のゴミは払わないとな。そのためなら俺は……”
 ジムのいった言葉に、ロイは突き落とされるような恐怖を覚えた。
 そのゴミが、いずれ現れるだろうことも分かっている。
 訓練を受け、あらゆる方法を使って任務を全うするときにやむなく行うことを、この法律の下にある社会で実行するつもりなのか、とロイはジムの堅く引き締めた唇から確信した。
 どうするのかは分からないが、下手をすればそれこそジムは犯罪者の烙印を押されることになりかねない。殴ったり脅したりしても、ペイジはいずれ戻ってくるだろう。それを二度とさせないとするならば――まさか、とロイは口元を覆った。
 たとえ、相手がどんなに卑劣な人間だとしても、それを個人で裁くことは許されていない。
 気まずそうに口を閉じてしまったふたりはいくら聞いても、もうその話題に戻ろうとはしなかった。
 カーターが帰り、ジムとベッドに眠っていてもロイはなかなか寝付けなかった。

 ことん、と外で物音がした。
 それだけでロイの神経は、覚醒した。
 この上なく過敏になっているのは、ロイ自身がペイジを恐れているからだ。
 今はすぐ隣に、安心できる温かい身体がある。少し身動きをして身を寄せると、ジムは眠りながらもロイを抱き寄せた。
 ひとりじゃないという温もりは、二階で控えてくれていたカーターの存在を上回る安心感を与えてくれる。
 この大きな男の存在は頼もしい。だが、それとは別の意味で今ペイジに現れて欲しくはなかった。
 ジムは怒らせると怖いが、善良な男だ。
 そんなジムに、自分のせいでとんでもない行為をさせることになってしまったら、と思うと居ても立ってもいられなかった。
 ジムの枕の下には、チームで使うサバイバルナイフが隠してある。いつも車のダッシュボードにつっこんでいたものだ。
 ロイは、平時で個人的な銃は所持していない。一度購入したことはあるが、手放したのだ。自宅にまでそういうものを置くのがなんだか嫌になってしまったからだが、あれを持っておくべきだったかもしれないとすら思う。
 もしも、ペイジがうかうかとやってきたら……。
 ジムですら適わない武器を携帯していたら……。
 加害者にさせるのも、被害者にさせるのもロイは嫌だった。
 そんな間違いを起こさせるわけにはいかない。ましてや自分のために。

 物音は、もうしなかった。
 耳を澄ましていても、それ以上の音は聞こえなかった。ジムの車がある以上、強硬手段で入ってくるとも思えない。
 ペイジは弱い相手を残虐にいたぶるのが好きだが、凶暴ではない。だからカーターが入ってきた気配だけで逃げたのだ。
 カーターがいったように、もう満足して隠れ家に戻った可能性も否定できない。オルソン宅のようすを伺ったジムは、まるで人の気配はないが分からない、といいつつ今夜から外で見張るというのをロイは止めたのだ。

「眠れないのか?」
 ジムが暗闇で囁いた。
 ジム自身の神経も尖っているのだろう。熟睡していなかったらしいと思うと、申し訳ない気がした。
「ロイ、大丈夫だ、俺がいる」
「うん。分かっているよ、ジム」
 ロイがどういうふうであっても、ジムは自分を愛してくれている。一緒に軍を辞めるとまでいった深い愛情を、今ロイは噛みしめていた。
 だとしたら、ロイはジムを犠牲にするわけにはいかない。
 そう、どんなに屈辱的な立場に陥ろうとも――  
 また、こつんこつんと立て続けに物音がした。ジムはがばっと起き上がり、枕の下からサバイバルナイフを手に取った。
「……ジム、用心してくれ」
 分かってる、というようにジムが耳を澄ませながらロイに片手を振った。音をさせないようにドアを開け、裸足のままで廊下へ消えていった。
 ロイは起き上がって、杖に手をかけた。足手まといになるだろうか、それともいないよりはましだろうかと迷いながらもそっとベッドから足をおろしてリビングを覗くと、ジムがベランダのドアを閉めて戻ってきた。
「ベランダの外側に、こいつがぶら下がって窓に当たっていたんだ」
 喉から詰まったような声が漏れ、思わずよろめくロイをジムが駆け寄って抱き留めた。
 軒先に針金で止めらて風に揺れて硝子に当たっていたのだろう。
 それは乗馬用のような、短めの鞭だった。
 ジムはそれをキッチンのほうに放り投げ、ロイを抱きしめた。

「挑戦状だぞ、ロイ。あいつはあんたを諦めてはいない」
 家に戻って銃を取ってこないといけないな、と呟いたジムの声を、ロイはおののくように聞いた。














硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

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おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評