[嵐のあと]of [金の砂銀の砂]

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嵐のあと

 すぐにも救急車を呼ぼうとしていたカーターを、ロイは狂気の残ったままの顔でいながらも止めた。
 だめ、だめと回らない舌で、ロイは何度も首を振った。
「ロイ、これは大変な事件だぞ。警察を呼んで君は病院へ……」
「なにもな……なにもされてないか…ら……」
 ロイは必死の形相を見せた。「リュウタロ……ドク、ドクを……」
「分かった。救急車は呼ばない。でも警察には……」
 よく分からなかったが、とりあえずカーターはロイの勢いに従った。
 リュウタロウに電話をかけ、深夜申し訳ないという挨拶もせず事情を説明すると、医師はすぐに行きますと電話を切った。
 ベッドに運び込み、身体を拭いてやろうとすると、ロイは身を縮めて触れないで、と叫んだ。
「だめ……今…触れたら俺は……俺は……」
 そのくせ、ああ、というようなまるで睦言のように聞こえる吐息を漏らしている。
「ロイ、どうした? 大丈夫なのか?」
「お願…だから、み、見…るな……でて……出てって……」

 仕方なくカーターは廊下に出て医師を待つしかなかった。
 明るい部屋の中は、クッションがソファから落ち、酒瓶が転がって床のラグに零れていた。ソファの白いカバーについた、いくつもの血痕の痕。
 大量出血の疑いはないが、明らかにどこかを傷つけられているはずだ。鞭のせいなのか、あるいは――
 カーターは唇を噛んだ。
 ロイはそういったが、これは明らかに家宅侵入と暴行だ。
 リュウタロウがやってきたので、寝室に案内しながらそのことを話すと、医師は頷いて話をするまで待って欲しいと中へ入っていった。
 待っている間、手伝いが必要なのではと思いつつも寝室を覗くことはできなかった。やがて、出てくるとリビングで苛々と待っていたカーターの前に座り込んだ。
「なんといってます? ロイの具合はどうです?」
「……少佐。なにもなかったことにしませんか?」
「なんでだ? こんな目に遭ったんだぞ! また戻って同じ目に遭わされないと誰がいえる? 証拠だってあるんだ」
「そして、男に押し入られて辱めを受けたと法廷で証言することをロイに進めるんですか?」
 カーターは口を閉じた。
「だって、……でも」
「彼を傷つけたのはあの、鞭だ。実際にことは行われてはいない。でも警察はそうは思わないでしょう。レイプの検査を……ご存じですか? 婦人科に置いてあるような椅子に身体を広げられて、検査をされるんです。子細に事情を問われます。そうなったら彼は立ち直れなくなる」
 リュウタロウは鞄を引き寄せ、カーターの指先を掴むと鞭で切られた指先に薬を縫って絆創膏を貼った。手首も紫色に腫れていた。
「馬鹿な……馬鹿な……仕返しをされたんだ。何年も前のあの時の。ショッピングモールで見た。おそらくトレイシーズヴィルにも……あの男はずっとつきまとっていたんだ。とうとう家に押し入って…動けないのを幸いに……」
 ペイジが押し入ったのだ、とカーターは震える思いで、医師の顔を見つめた。

「鞭の痕はともかく、足の痛みを訴えているのが心配です。明日、もう一度レントゲンを撮り直しに行きます。額も腫れている。でもそんなことよりも、ひどい錯乱状態だ。触れられるのを怖がっているようにも見える」
「鞭だぞ! おかしくなったって不思議じゃない! あれはロイの……ロイの命を奪いかけたものだったんだ!」
 リュウタロウは頷いた。
「いずれにしても、ひどい発作が……あの時と同じように何度も吐きました。強めの鎮静剤を与えて今は眠っています。話をするなら明日、落ち着いてからゆっくりと。そしてロイが納得しない限り、ことを大袈裟に騒ぎ立てるのはやめておいたほうがいい」
「死ぬところだったんだぞ……」
「そこまでの深手は負っていませんよ」
「私が現れなければ、殺すつもりだった。あいつは……あいつはそうするつもりだった。今夜ロイは、死ぬところだったんだ! それも英雄的な死ではなく、惨めな……惨めなやり方で……」
 カイルが呼びに現れなければ、そうなっていた――カイルがそういったと、カーターは思いながら繰り返した。

 リュウタロウが手を差し出した。
 見ると錠剤が数粒乗っていた。
「あなたもこれを飲む必要があるようだ。落ち着いて。私は今夜ここのソファを借りますから。あなたはもう寝た方がいい」
 私はもうここを出たんだ、といいかけてカーターは頷いた。薬は受け取ったが、ポケットに突っ込んだ。
「分かった。じゃあ、二階のクローゼットから毛布をお持ちします。なにかあったら……ドク、私は二階の突き当たりにいますから」
 医師は難しい顔を崩して、微笑んで見せた。
「なぜロイはいわなかったんだ。ペイジを見たと。トレイシーズヴィルであったことを話してくれていたら……」そういいかけて、カーターは黙り込んだ。
 なぜロイをひとりにしてしまうことになったのか、その原因が自分のせいだと思い出したからだ。
 それを思い返して、唇を噛んだ。
 あんなことをしなければ、今日はそれを話してくれていたかもしれないのに。そうしたら、ロイをひとりにすることもなかったのに。
「みっともないことだと……思っていたんでしょう。ペイジはおそらく病院にも現れたはずです。でも、確証がもてなかった。幻覚を見たと思って、落ち込んでもいた」
 カーターは首をふった。
「いえ、ロイは話をしようとしかけていた。それを阻んだのは私です――私なんだ」
 カーターは、リビングを出かけて暖炉の上に飾られた花に気づき、それをすべて抜いてからベランダから投げ捨てた。
 これが誰が贈ったものか、すでにカーターには分かっていた。

 翌日、眠れなかったカーターは早々に起きて部屋を片付けた。
 すでに、警察に電話をしようなどという勇気はなくなっていた。医師の姿はリビングになかったが、車はあるようだからロイの寝室にいるのだろう。
 一晩中、ロイのそばについていたに違いない。
 昨日置いたままにしてあった、“証拠”の品は、段ボールの箱に入れて指紋をつけないようにカーターの二階の部屋に保管したが、警察が関与しないなら捨ててしまう方がいいだろうとも思う。ロイの目に触れないうちに。
 それからソファの様子を眺め、どうやらそれがコンシール型のファスナーを使って布カバーを外すことができるらしいと分かって、はぎ取った。
 替えがどこかにあるのだろうが、剥き出しでもカバーをかけたのと同じような布張りなので、そのままにしておくことにして、洗濯機に放り込んだ。

 それから朝食を作った。
 キッチンのテーブルに食事を並べ、珈琲が湯気を立てて落ちていく様を眺めながら、カーターはロイに会うのが怖かった。
 どういう顔でなにを話せばいいのか分からない。やがて思った通り、医師が寝室から出てきておはようと顔を出した。
「ドク。夕べは取り乱してすみませんでした。少し早いけど、食事にしませんか?」
「ありがとう。ロイにはもう少ししてから運んでやりましょう」
「起きてるんですか?」
「落ち着いてますよ。数日は発作が続くと覚悟していたんですが、大丈夫に見えます。あとで足を見てもらいに病院に連れて行きます。警察の件はゆっくり考えましたか?」
 ええとカーターは頷いた。「ロイの意見を尊重しましょう」
 確かに、訴えて屈辱的な裁判を受けさせたからといって、一生刑務所へ送り込めるほどの罪ではないのかもしれない。
 あとで迎えに来ます、とリュウタロウはいったん家に戻っていった。

 リュウタロウが帰っていくのを見送ってから、カーターは朝食をトレーにのせて寝室をノックした。
「デイン」
 ロイは、カーターがドアから顔を覗かせると戸惑ったような顔を向けた。一晩でげっそりと頬がこけてはいたが、想像していたよりもはるかに落ち着いて見え、ほっとした。
「大丈夫か?」
 おかゆと水の乗ったトレーをサイドテーブルに置いたが、ロイはあとでいただきます、と軽く頭を下げた。
 それでも、枕元に置いてあった水のボトルに手を伸ばしたが、はたり、とそれを落とした。カーターがしゃがんで拾ってやると、ロイは目線を合わせるのを避けるかのようにすみません、とかなんとか呟いた。
「左腕にも力が入らなくて……」
 その左腕にも湿布がしてあるのが見えた。夕べ傷めたのだろう。触れられるのを恐れるような発作じみた気配は消えてはいたが、痛ましさにカーターは微かに眉を顰めた。
「夕べは……」
 ご迷惑を……といいかけるロイを制し、カーターは静かにいった。
「ペイジだったんだろう?」
 ロイは俯いたまま答えない。
「ロイ、博物館で会ったのもあの男だったんだろう? 私が夕べここにいさえすれば……」
 その眦が腫れて赤くなっているのを見て、カーターはその場にしゃがみ込んだ。
「君にこんなことをするなんて……なんてヤツだ」
 ロイはその手を軽くだが、払いのけた。
「あいつはずっと君を見張っていたんじゃないのか? 君はそれに気づいていたんじゃ……。あの花束だって――」
「誰でもいい」
 冷たい、尖ったような短い言葉は、触れかけていたカーターの手を止めさせるに充分だった。
「……どういう意味だ? 誰でもいいなんてことないだろ?」
「見たでしょう? 俺はまたレイプをされかけていた。いや、あの男のものを使わなかっただけで、されたのは間違いない。俺は…そういう男を自ら呼び込んでいるんだ、きっと。問題はあいつではなくて、俺のほうにあるのかもしれない」
 ロイ、とカーターは顔をあげた。
「どういう意味だ? なんだかおかしいぞ。嫌な目に遭ったのは分かるがそんないい方――」
 そうですね、とロイは微笑みを浮かべた。
 ただ、カーターにはそれがまるでロイが自分自身を嘲笑ってでもいるような、歪んだ微笑みに見えた。
「すみません。今は、誰ともまともに話せないような気がする……」
 礼儀を忘れたロイの顔を見つめ、カーターはため息をついた。
「ロイ、でも吐き出したほうがよくないか? なにがあったかとかそういうことではなく、これまでの経緯だけでもせめて――」
「あいつにこういうことをされたのは――あいつだけじゃなく、俺がこういう目で見られるのは初めてじゃないんだ!」
 ロイが叫ぶような悲痛な声を上げた。

 感情が破裂したような声に、カーターはぎょっとして身体を引いた。
「うんと幼い頃から俺は……いつも好奇な目で見られて……あの…捕虜になってからは特に……。なんだか、いつもこうして俺は……」
 悔しさを握りしめるように、拳が震えた。
「なぜ…なんだ……俺はなにもして…ない……そんなつもりなどないのに……」
 なにもいうことができずに、カーターは立ちすくんだ。
 下手な言葉などかけられない。
 彼が自覚していないときに、その身体に勝手に触れてしまった自分になにがいえるというのか――

 匂い立つ、という表現はまさにロイがまとっているものだった。
 新任の副隊長として現れたときから。
 まだ、なにほども知らぬはずの――おそらくは女性すら未経験なままではないかと、下世話に勘ぐるほどの初心さを前面に出していたにもかかわらず、ロイには奇妙な色気があった。
 部下たちはほとんどが年長で、そんな彼を見守る荒くれた騎士のような気分で、それでいて職務上では心から頼れる存在だと認めつつ接していたふしがある。
 カーターが、弱っていく彼を見捨てておけず、とうとう心を壊してしまったとき、一生面倒を見ようとまで誓ったのは、そんな側面がなかったとはいいきれない。
 大勢の手で、死ぬほどの屈辱を味合わされ、悩み苦しんでいたときですら、ロイの色気は増したかに思えた。
 そして――なにがあったのか、とカーターが勘ぐるほど、フロリダの墓地で久しぶりに見たロイは、まさに匂い立たんばかりのなにかを発散し、明らかに以前よりも艶やかな部分を見せていたのだ。
 それは、おそらくジムの温かな愛情と、たっぷりと注がれた熱情による変化ではないかと、今は思う。
 誰もが振り返る、もともとの端正な姿と共に、ロイは自分でも意識していない部分で、女性だけではなく、男たちのなにかをも刺激しているのだ。
「ロイ、すまない……」
「やめてください。もう……どうでもいい…んだ。無様な姿まであなたに見られてしまった。よく……分かったでしょう? 俺はああいうふうに扱われるように、振る舞っているのかもしれない」
「ロイ……」
「俺は初めてじゃない。さんざん穢されて……あなたには分かってたんでしょう? 俺に触れたとき……俺のそういう部分が……俺はあなたが思っているほど、もうまともじゃないんだ」
 日頃の冷静さなど、かなぐり捨てたように、ロイは感情にまかせてしゃべっているように見えた。
 これは、一昨日の私への言葉だ、とカーターは唇を噛みしめた。
 なにもしなかった、という言葉など信じてはいない。
 気軽に発散を手伝うだけの、己で慰めるかのような簡単な行いではなかった、もっとじっくりと彼を堪能し、反応を確かめた――
 ロイのどこかが爆発しようとしているようで、カーターは呼吸すら忘れたかのように身動きすらできずにいた。
 ただ、その爆発が、ペイジやカーターではなく、自分自身に向けられているかのようで、それがカーターには気になった。
「……ロイ、自分で自分を追い詰めるな。私がしたことが君を傷つけてしまったのは謝るから……」
 目線を逸らして俯いたまま、思い詰めたような顔で、ロイが呟いた。
「もう一度……抱いて…ください、デイン」

 ロイは、震える指で自分のパジャマのスナップを引っ張った。
 ぱちぱちと音を立てて、下着を着ていない素肌に、赤く腫れ上がったみみず腫れが幾筋も走る身体が露わになった。
「なにを――いうんだロイ」
「あなたを挑発したと……あなたはいったでしょう? 俺はいつも無意識でそういうそぶりを見せているのかもしれない。だから……」
「なにをいってるんだ、ロイ。あれは私の卑劣ないい訳で……」
 差し出しかけた手を、ロイは弾いた。
 抱けといいつつ、触れられるのは拒絶している。
「俺はあなたとのことは夢だと思っていた。確かにジムとの夢を見ていた。でも眠ってても俺の身体は感じていた。だからあなたは謝ることもしないで、なにかに怒っていた。俺が誰に対しても、誰に触れられても感じるんだと分かったからなんでしょう? たとえ相手がペイジでも、他の見知らぬ男でも……。いかに俺の身体が淫乱になっているのか、あなたも知りたいでしょう? だったらもう一度正気なときに確認を――」
 私は彼の頬を打った。
 腫れている方の頬だったことにしまった、と思ったが後の祭りだ。それでも力を抜いたつもりだったが、ロイはびっくりして言葉を止めた。
「……落ち着こう、ロイ。昨日の今日で、君は興奮している。そんな言葉を吐いてはいけないよ、ロイ」
 ロイは俯いている。
 金色の前髪が垂れて、表情が見えなかった。
「悪かった。ロイ、止められなかったんだ。……ほんとにあんなことをするつもりじゃなかった……」
「俺は男だけど、止められないほどの欲情というのは理解できない」
「……ロイ」
「あなたの心にはカイルがいるはずなのに、俺の魅力にそれすらも忘れたということなんですね? 俺の身体の魅力に?」
 その皮肉に、唇を噛みしめることしか、今のカーターにはできない。
「あなたなんか嫌いだ……あなたといると、俺は…ぐらついた砂地に立っているような……そんな気持ちにさせられる」
「砂上の、楼閣……?」
「あなたは俺をかまいすぎる。そうさせているのはおそらく俺なんでしょう。俺はきっと……」
 ロイの横顔に、一昨日の夜のことで、ロイが思ったよりも傷ついていたのだと分かった。おっかぶせるように届いた花束、そして夕べの残虐な出来事が彼からすっかり平静さを失わせていた。 
 開き直っている、というか捨て鉢になってすらいるようで、言葉が出てこない。
 完全に頭にきているのだろう。ペイジに、これまでロイを好色な眼で見た男たち。
 そしてカーターにも――
 ロイはパジャマを開いたままの身体を向け、カーターのほうに身を乗り出し、唇を押しつけてきた。痛ましいほどの憔悴した顔を歪ませ、なおもキスをしようとするのを、カーターは思わず押しのけた。
 カーターは立ち上がった。
 腹が立ってしようがなかった。
 ペイジにも、ロイにも、そしてもちろん、自分にも。
 カーターはセーターを脱いだ。下に着込んでいたシャツをも脱いだ。
「分かった」
 半分、怒りの混じった声を抑えられずにカーターは低い声でいった。
「私がこの手で抱いてやる。いくらだってつきあってやる。君が自分がどれくらいの身体を持っているのか、身に染みて分かるまでとことんつきあう。そうして欲しいんだろう? だったらそうしてやる」
 ロイはなにも応えず、黙ってカーターの胸元を見ている。
 カーターはベッドに上がって膝をつき、ロイの顔を強引にねじ曲げて自分に向かせた。
「ちゃんとしたキスをしてくれるんだな?」
 自分でそう仕掛けたくせに、ロイは唇を閉じ、泣きそうな顔でカーターを見つめた。
「本気でやるぞ。いいんだな?」

 カーターの顔が、青白く緊張しているのを見て、ロイは身体を硬くした。
 その身体を倒し、カーターは下腹部を覆っている布の間に手を滑らせた。
 拒むようにその手を押さえようと、ロイの左手が伸びてくるのを頭の上に押しつけ、カーターはもう一つの手でロイの身体を撫で回した。
 きつく目を閉じ、唇を噛みしめて、ロイは今にも泣き出しそうに息を漏らした。
「一週間後にはジムが帰ってくる。決着をつければいい。自分がどんな人間か、分かるまでとことん、やってみればいい」
 その人の名が出たとたん、ロイは一瞬身体を強ばらせ、ギプスから出た指先を口元に当てた。
 そのまま、なにかを堪えるように動かなかったが、やがて肩が震えていることに気づいた。カーターは撫で回していた手を止め、ロイの肩に置いた。
 もちろん、こんな状況でこのまま押さえ込んでしまえるほど、カーターは傍若無人ではない。
「ロイ……短い間にいろいろなことがありすぎたようだな? 私の知らないことがたくさん……君が自分が嫌になるほど、それを心に貯めているんだな? そして、ペイジや私のせいでそれが溢れそうになってしまったのか?」
 ペイジなんかどうでもいい、とロイは微かな声で呟いた。
「あなたが……怖いんだ。あなただけでなく、俺があなたをどう思っているのか……考えたら怖くて……」
「なぜ、怖いんだ?」
「俺はジムが好きなのに……心まで淫乱になってしまったようで……。好色な目で見られることよりも、そのことの方が怖くて……なぜ、あなたが気になるのか、なぜなのか…それが怖くて……それを昨日ペイジに指摘された気がして……」
 震える肩に置いた手をそっと背中に滑らせて、カーターは慰めの言葉の代わりになで続けた。
 短い嗚咽の声が、広いリビングに響く波の音に混じっては消えた。
 ロイは少なくとも、私を嫌っていたわけではないらしいと、カーターは今の状況よりも安堵感が先にきた。
「……あなたをフロリダで見たとき、自分でも考えていなかったのに、ここへ住んではどうかなどと口走ってしまっていた。ジムも驚いたかもしれないけど、一番驚いたのは俺自身です」
「いったろう? 同時にふたりの人間を好きになることだってあるさ。分からないならこれから試したみたらどうだ? さっきのはふりだったが、君が本当に望むなら私はそうすることに異論はない」
 ロイは詰まったような声を漏らし、胸にくっつくほどに頭を垂れ、熱い息を吐いた。
「ジムを苦しめて……そんなのは最低だ。俺は最低な人間です」
「本気でまだ、私に抱かれたいか? だったら、遠慮なく今からそうしてやる。どうする?」
 激していた気持ちが落ち着いてきて、やっとその人の帰る日のことに、気持ちが向いたようだった。
 不在のその男。
 あの笑顔、そして温かな胸を持つ、大きな存在が今はカーターですら懐かしい。自分では救えない。ロイを追い詰めるばかりで。
 ドクターがいったように、彼を見守り包んできたのはジムであり、それ以外の何者でもないのは事実だった。
「ジムに……おかえりをいわなければならないだろう? ロイ」
 ロイは、ほんの僅かに頷いた。
 やはり自分ではジムの代わりにはなれない。
 ジムがいないこともまた、ロイを不安定にしてしまっている最大の要因なのではないかとカーターは思うしかなかった。
 ロイだけを見つめ続けてきた、その長い時間がカーターの割り込む余地などないと、語ってでもいるようだった。

「そう。ジムは君の不安を感じていたよ。だから、この三週間で、君が自分の心の中を探れればいいといっていた。私とふたりきりで過ごして、なにがどうなのか知ればいいと」
「ジム…が?」
「珍しい、まじめなものいいだったな。君が私に対して、なんらかの好意を抱いていることに気づいていたんだ。君がもし、私を選んだら、それならそれでいいとまで、ジムはいった。振られた者は、君の世界からいなくなる。ジムは、自分を見てくれなくなったらロイは、自分にとって死なれたも同然だといっていた。それでも君がそこにいるだけでいい、戦場から奇跡的に戻ってきてくれただけでいい、そう思って諦めると」
 ぐずっと顔が崩れた。
 さっきからまるで子供のように、ロイは激した感情と共に、日頃まとっている仮面まで捨て去ったかのように素直にカーターと向き合っている。
 不意に携帯が鳴り、カーターはいいかけた言葉を止めた。
 一瞬沈黙が走り、ロイは見もしないで左手で顔を押さえている。
 ロイの携帯だと、それを掴んで渡すと、拒否するように顔を背けた。
「ジムからだぞ。でてやらないと」
 言葉が出ないもののように、ロイは首を振った。口を開けば泣いてしまうとでもいわんばかりに。
 しつこく鳴り続ける電話を持ったまま、カーターは戸惑った。
 やがて着信が途絶え、今度はカーターの携帯が鳴り出した。心配しているのだろう。
 一昨日もかけてきたばかりなのに、用事があるのかもしれない。またしばらく電話がかけられないだろうと思うと、つい携帯に手が伸びた。

「ジム」
「デイン、元気ですか? すいません。ロイはいないんですか?」
 いつもと変わらぬ声に、涙が出そうになった。
「……ジム」
「なにか……ありましたか? ロイが携帯に出ないんですが」
「いや。なにもない。大丈夫だ」
 この男に、今すべてを話すことはできない。
 訓練とはいえ、危険なことをしているのだ。意識を集中させられないことにするわけにはいかない。
「まだ眠ってるんだ。少しだけ風邪気味で。それだけで、ロイは元気だよ、ジム」
 だったらいいんですが……と、ジムは疑うような声を出した。
「本当だ。なにか用があったんだろう? あとで目を覚ましたら、連絡をさせようか?」
「いや。また取れるかどうか。今から海中に潜って、島へ行くことになるんで」
「そうか。気をつけて。みんなによろしくいってくれ」
 ロイは寝ているそうだ、とジムが誰かにいっている声が聞こえた。
 ざわざわとした気配に、いろんな声が飛び込んでくる。どうやら、チームのみんなが集まっていて、ロイと話をしたかったらしい。
「ちょっと待て。目を覚ましたぞ」
 カーターはロイに、携帯をつきつけた。









硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評