[超えてはいけない線]of [金の砂銀の砂]


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超えてはいけない線

 カーターは珈琲を飲み込み、頭を振った。
 考えすぎだ。あれがペイジだったという、確証すらない。
 あれから、幾人もの黒いコート姿の男とすれ違うたび、ペイジに見えてぎょっとしたが、どれも勘違いだったのだ。
 疲れと人混みのせいで気分が悪くなってトイレに行き、吐いてしまっただけだというのが、案外事実なのかもしれない。
 通り過ぎようとしたウエイトレスに合図をし、サンドイッチと珈琲のお代わりを頼み、少し考えてからテイクアウトでもうひとり分を追加で注文する。
 このまま眠るかもしれないが、目を覚ましたときのために、食事を用意しておいてやろうと思ったのだ。 
 砂上の楼閣――とは、カーター自身はあまり使わない言葉だが、基礎が不安定な場所に建てたものはひどくもろいとか、そういう意味合いの言葉だったはずだ、と考える。
 その言葉がなにを指しているのかが気になった。

 かなり長く喫茶室でぼんやりし過ごしてしまったカーターは、閉店ですといわれてやっと現実に返った。
 部屋に戻ってみると、ロイは眠ったまま起きる気配はなかった。
 サンドイッチの皿に、一応ラップをかけてもらったものの、どうやら廃棄処分になりそうだなとそれをテーブルの上に置く。
 シャワーを浴びる気分にもならなかった。歯を磨き、顔をざっと洗っただけで、カーターはベッドに座り込んだ。
 ロイに掛けてしまったために、彼には上掛けがない。今さらロイの身体を起こしてちゃんとベッドに入れというわけにもいかず、クローゼットを開けてみた。
 予備の毛布が畳んで置いてあり、それを出して毛布にくるまる。
 空調の具合もよく、居心地のいい部屋だったことに感謝する。現場に出る兵士には、温かい一枚の毛布にくるまるのが、なによりも幸せだと思える瞬間がある。
 今、カーターはまさにそんな気分だった。

 さんざん珈琲を飲んできたというのに、さすがに疲れていたらしい。灯りを消さないとな、と思いながらも瞼の重さに耐えられなくなり、カーターはすぐに寝息を立てだした。
 悪魔のうなり声に、目を覚ましたのはそれからどれくらいたったのか、だからカーターには分からなかった。
 ひどい夢を見ていたらしい。下着だけの姿だというのに、汗をかいていた。
 煌々と明るい部屋の中で、また唸るような声がして、飛び起きた。
 悪魔だと思っていたのは、現実に同室の男が発した呻き声だった。
「ロイ」
 上掛けに埋もれるようにして、眠ったときの体制のまま、ロイは夢を見ているらしい。ロイの悪夢は、長いこと彼を苦しめてきた質の良くないものだったことを思い出す。今も、その夢なんだろうか? といずれにしても起こした方がいいとカーターは肩に手をかけて揺さぶった。
「いや……だ、動けない、うごけ……」
「ロイ、目を覚ませ!」
 多少乱暴なほどに揺さぶったせいで、瞼が震えるように反応した。
 怯えたような、暗い冬の海を思わせるような瞳が、なにも映していないかのように金色の睫の下から現れた。

「……触れ、るな」
 カーターはどきりとし、一瞬動きが止まる。
「触れるな……俺は…逃げられない……」
「ロイ、私は……」
 瞳の焦点が、やっとカーターを捕らえたように見えた。
「……デイン……?」
 今の言葉は自分に発したものではないらしい、とちょっとほっとする。
「どうした? 嫌な夢を見たのか?」
 ロイはじっとカーターを見つめている。
「……ジムは?」
「ジム……は、訓練だ。どこかの海の上にいるはずだ。あるいは、島か」
 幼子が、目覚めて母を呼ぶような口調にどぎまぎしながら顔を覗き込むと、「訓練……俺を置いて……?」と呟いている。
「君はだって、今は――」
 現実が戻っていないらしい、と冷蔵庫から水を出す。
「少し飲んだ方がいい。頭がすっきりする」
 一口、無理に飲ませると、唇からたらりと水滴が零れた。
「……夢…見ていた?」
「そうらしいな」
 なぜだか、かつての自身を見失っていたロイのような、幼いほどの表情を浮かべている。
「……あいつが……俺は動けなくて……動けなくて……」
「誰のことだ?」
「夢……です」とロイは呟いた。「夢です、デイン」
 うっと、ロイが口元を押さえて顔を伏せた。
「吐きそうか?」
 カーターは慌てて椅子にかけておいたバスタオルを押し当てた。それを掴んだままの彼の身体を抱き上げ、バスルームに連れて行った。
 片足で重心を支えることができず、ロイは頽れるように床にしゃがみ、這うようにして便器の蓋を押し上げた。
 苦しそうな声が漏れた。
 さっきの水のボトルをとってきて、うずくまったままのロイにそれを飲ませる。
「ロイ、さっき……博物館でなにがあったのか?――もしかしたら……」
 うう、とロイは唸ってまた、便器に顔を突っ込んだ。
 恐る恐る背中をさすってみたが、嫌がるように身を捩るので手を引っ込めた。この症状は嫌というほど覚えている。
 まさに“あの時”のように、ロイは何かを拒絶している。
 胃液以外、なにも出ては来ないらしい。もう一口、水を飲めと差し出すと、ロイは素直にそれを飲み、向かい合ってしゃがんでいるカーターの前で首をがくんと落とした。
「デイン、夢であいつを見た…だけで、なにも――」
「……さっきの博物館で君のカップが階段の下に落ちていた。君のだろう? なんであんんたところへ行ったんだ?」
「気分が悪かったので……人目のないところに行っただけで……」
「ロイ……」
 ロイは息を飲み込んだ。

 水で湿った唇を、ロイは押さえた。
「キス……されたんじゃないのか? それをしたのは、ペイジじゃないのか? よく似た人物を見かけたが」
 逡巡した気配が見えたが、ロイは首を振った。
「そんなことは…なにも。誰にも会わなかった。疲れて……人波に気分が悪くなって……ほんとにそれだけです」
 力が抜けたように、ロイはカーターの肩に頭を乗せた。
「……もう大丈夫か? 床は冷える。ベッドに戻ろう」
「少佐、俺は……」
 デイン、と呼ばずに少佐、という階級名で呼ばれて、カーターかつて自分の後輩としてそばにいた頃の感覚が戻った。彼は、まだ大尉で年少で、初心で堅いばかりの男だった。
「……怖い……夢が怖かっただけです」
 分かっている、とその身体を抱きしめた。
 ロイにいわれて荷物の中から、薬袋とは別のポケットに入っていた安定剤を――ロイはちゃんとそれを携帯してきたらしい――とってきて飲ませると、ベッドに運んだ。
 改めてロイのベッドを剥ぎ、シーツの上に乗せると、ロイはぐったりと横たわった。
「服を脱がないとな」
 カーターは、着ていた前あきのセーターのボタンを外し、その下のシャツをも脱がせた。
 ロイは素直に腕や身体をカーターの動きに合わせ、今日は「自分で」とはいわなかった。
 やっと履けるようになった幅が広めのズボンまでを脱がせると、白い片側だけのギプスと包帯に包まれた足を伸ばしてやり、改めて横たえた。
 そう、やっと普通の服を着ることができるようになったばかりだったのだ。
 そして、服を剥がれたその姿は限りなく無防備だ。

「怖い」という、およそロイの吐きそうにない言葉から察しても、再び悪夢に苛まれているのかもしれないが、それだけではないとカーターは確信していた。
 あの、観光客の老人が見た車いすを押していた男は、では誰のことだ? 彼の見間違いか?
 あの場に、誰かが来たのは間違いない。
 すれ違った黒いコートの男の後ろ姿が、ちらついて離れなかった。
 けれども、それならなぜそうだとロイはいわないのだ?
 カーターはそのまま、ロイのそばに横たわり、ぴったりとくっついて上掛けを引っ張り上げた。頭を胸元につけるようにして、ロイは瞼を閉じ、そのまま動かなかった。
 ジムならこんなとき、どうやってロイを鎮めるのだろう。ふと、カーターの胸にそんなことがよぎった。
「……病院で眠ったその日から、悪夢を見るんです……」
「それは……以前と同じような?」
 頷いた気配がした。
「ばかみたいだ。俺は……少しも変わっていない。いつまでもあんなものに支配されて……」
 カーターは縮こまったような身体を引き寄せた。
「もういい。大丈夫だ。私がそばにいる。もう眠るんだ」
 しばらくして、呼吸の音が規則正しく繰り返され始めた。薬が効いて眠ったのだとほっとし、僅かに上体を反らして金色の乱れた髪をなでつける。
 ほっとしてもいたが、困惑してもいた。
 カーターにとって、カイルは降って湧いたような存在だった。
 女性しか見ていなかったカーターに、カイルは人間に違いなどない、愛情さえあれば性別など関係ないと思わせた。カイルがたまたま男だったというだけで、彼がいなくなればまた、性の対象は女性に戻るだろうとすら思っていたのだ。
 それなのに、今、カーターはたまらなくロイが愛しかった。
 ジムは? と目覚めたときから、いや、博物館のトイレで洗面台に突っ伏していたときから、カーターの心ははるか遠くに過ぎ去ったはずの過去に舞い戻っていたのだ。
 もっといえば、先日、酔って押し倒したときから――あのときはロイの方がしっかりしていたから気を逸らされてしまったものの、今は違う。
 自分を頼り、すがるほどに弱さを前面に見せる男――
「怖い」といわれたときは、沸き立つ激情を堪えるほどに、カーターの胸は愛しさで一杯だった。

 こんな瞬間が訪れることを、ジムは見越していたのだろうか?
 ロイが、冷静に療養生活を過ごしていくだろうことは分かっていながらなお、カーターが、常識を越えた場面に手をかけてしまうかもしれないことがあるかもしれないと。
『ロイが何を考え、どうしたいのか。それをあの人自身が知ることを、俺は知りたいんです』
 だからあいつは、そういう言葉を吐いたのだ、とカーターは得心がいった。
 今回自分が留守をしている間に、ロイが悪夢に苛まれるかもしれないと、分かっていたのではないか。
 すでに、入院中の彼を見守る中で、それに気づいていたのかもしれない。
 そしてそれを見たときに、カーターが平静でいられるのかどうかも。
 眠っているロイの背中をそっと撫でる。
 かつて、ひどい鞭の痕がくっきりと残っていた背中を慈しむように撫でているうちに、シャツがまくれ上がって直接腰のあたりの皮膚に触れた。
 カーターの手は、戸惑いつつも背中の上の方まで這っていく。
 滑らかな肌が、単純に心地いい。めくってそっとその肌に目を落とす。傷はほとんど目立たなくなってはいるものの、肉までも切り裂いた痕は白い肌の中にさらに際だつ白さを浮かび上がらせ、完全にはなくなってはいなかった。
 撫で回した手が、ショーツに触れる。
 丸い弾力のある、引き締まった小さな尻まで手を這わしながら、そっと呼吸を伺うが、目覚めた気配はなかった。
 この丸みを帯びた部分を、直接撫でてみたい――
 やめるんだ、デイン。
 とっととその卑怯な手を離せ、とカーターの心のどこかが警鐘を鳴らした。よりによって今、こんなことをしていいはずはない。
 それでも、手は意志を無視したかのように動きをやめようとしない。
 ゴムの部分に指先を滑らせ、滑るように柔らかな臀部の感触を確かめる。
 身体の前に回した手が、秘密の部分に触れた。
 背部を撫でる感触に刺激されたように、少し変化している気配に、警鐘音は遠のいていく。
 密やかな息が漏れ、カーターははっと手を止めた。
「ジム……い…やだ……」
 思わず、傍らの男の寝顔を凝視する。
 今、ロイのそばにいるのはデインではなく、ジムらしい。ふたりの睦み合う姿が、目に浮かぶような台詞ではないか。
「だめ……ねむ…らせ……」
「そうやって、いつも眠らせてもくれないのか? あいつは」
 だが、カーターの言葉は聞こえないらしい。ロイは、言葉とは裏腹にしがみついてきた。
「怖い……んだ」
 思い切って、閉じた瞼にカーターはキスをした。
 微かに唇が開く。そこにもキスをすると、ロイは初めて応えるようにそれを受けた。信じられないほどに甘い、蕩けるようなキスに、眠っているふりをして挑発しているのではないか、と疑った。その反応に、カーターの理性が消えていく。
 だが、ロイが眠っているのは確かなようだ。
 薬の催眠成分が強いらしく、それが効いているのだろう。
 目覚めないまま、ロイは悪夢から逃れるように、自分をジムだと思って縋っている――
 愛してやりたい、とカーターは思った。ジムの代わりでもいい。
「ロイ、これは夢だ……」
 カーターは囁いた。

 カーターは身を起こし、まくり上げたシャツの下に現れた白いなだらかな線を描く胸元に唇を這わす。
 ひくり、と身体が揺れ、息が吐き出される音すらなまめかしく響く。
 だめ、という声とは裏腹な、甘い気配を漂わせたその身体をカーターは離れることができなかった。
「……ジ…ム……」
「私はデインだよ、ロイ」
 その耳元に、吹きかけるようにカーターは囁いた。
 眠っていながら、その呼吸は淫らなまでに乱れ、自由な方の手が、シーツを握りしめてそれをくしゃくしゃにした。
「ああ、いや、いやだ……」
 追い詰められるのを怖がるように、ロイは身を捩る。
 カーターは、傷ついた足すらも動かそうとするのを押さえ、安心させるように幾度も声をかけた。
 その反応に驚き、鼓動を躍らせながらもどれほどの反応をするものか知りたくて、カーターは手を止めることができなかった。
 決して触れてはいけない部分にすら、カーターは触れた。身体が仰け反り、熱い体温が直に感じられて、そこがすでに未踏の地ではないことをカーターは感じた。
「ジ……ム……」
「うん。ジムだ。だから安心していいんだ、ロイ……」
 ロイの傷ついていない方の腕が、首に巻き付いた。細い指が、食い込むように首の根本に絡み、力を込めている。
「ロイ……」
 はあはあと、息をつきながらも閉ざされた瞼が開く気配はなく、それなのにロイは日頃の彼からは想像できない、淫らなほどの姿態を見せる。
 カーターを止めるものは、もうどこにもない。ここが日頃ロイが寝ている寝室ではなく、ジムの気配すら感じられない豪華なホテルの部屋であることが、カーターに現実を忘れさせた。
 だが、ロイはジムを呼び続けている。
 その名前が、いかにも愛しげに甘えたようなニュアンスすら込めて、薄桃色の唇から零れると、カーターは「ジムだよ」といいつつも、歯がみしたいほどの嫉妬にかられた。
 どれほどの交流を、ロイはジムとしたのだろう。
 どれほどに、ジムを感じることができるのだろう。
 カーターの想いはその一点に絞られ、意識のないままにジムに身を委ねている日頃の姿を晒してしまっているロイに、幾度も目をやった。
 ふたりがこういう関係であることを承知していながらも、それは残酷なまでにカーターを打ちのめした。
 詰め襟を、あるいはネクタイでシャツの襟元をきちっと閉じ、皺ひとつない制服でポーカーフェイスを保つ男――
 その本当の姿に触れ、あの初心丸出しだった彼をここまでにした男の姿が目の前にちらついて、それを打ち消すように、カーターはロイをまるで嬲るように隅々までをまさぐり続けた。
 そのくせ、カイルとはまた違う――と、カーターは感じてもいた。
 カーターはカイルの身体に気を使いすぎて、ここまでの感動を与えてやれたのかどうか、今となっては自信がなかった。
 カイルは初めてではなかった。
 彼が、カーターの与えるもので満足していたのかどうかは、もう知る術はない。
 ロイだって、心に負ったものと、実際にその身につけられた傷を思えば、ジムも思いきったことはできないはずだとどこかで思っていたのだ。
 だが、そうではなかった。
 長い時間をかけてそうなったのか、最初からロイがあっさりとジムを受け入れることができたのかどうかは分からないが、いずれにしても、ロイは嫌がるばかりであるはずだと思っていた、その予想が裏切られたことがカーターにはショックだった。
「ああ……」
 瞼を閉じたままのロイが、吐息のような声を漏らし、カーターはその上気した頬をまるで怒っているかのように堅い表情で見つめた。

 やがて――夢のその向こうで、ロイは頂点まで昇りつめた。
 そうなるまで、カーターが執拗に追ったからだ。
 肩が上下し、息が切れているのはカーターも同じだ。なんだか、夢中でロイを追いかけ、追い詰めていく間、呼吸すら止めていたように息苦しかった。
 けれども、枕に頭を落として自分に縋っていた指から力が抜け、ぐったりと横たわるロイを眺めながら、カーターはそろそろと後ずさりをした。ロイの息は荒いが、覚醒はしていない。
 それを確認して、カーターはほうっと大きな安堵のため息すら漏らした。
 床に足をつけ、数歩離れた。

 これ以上、このベッドの上にいたら、ほんとうに取り返しのつかないことをしてしまいそうだったからだ。いやもう、それと同等なくらいの罪ではあるかもしれないが。
 だが、もしも、そうなるならばせめてロイの意識のあるときに――
 意識があればそれは適わぬことに違いないが、一時の激情に、すべてを台無しにしてしまう思うと、カーターの中に一抹ながら冷静な感情が湧いた。
 ロイが目覚めているときに適わぬことを、今することだけは自身のプライドにかけても行ってはいけない、いやどうせ寝ているのだ、かまうものかという天使と悪魔の強烈なやりとりが内部で交わされていた。
 理性を総動員して必死で天使に味方する。
 それは、理性というにはほど遠い、はっきりいって、たった今垣間見たロイの反応へのショックのせいかもしれないが。
 カーターの中には渦巻くような欲情と、裏腹な憤りにも似た、自分でもよく分からないものが血流に乗って身体中を駆けめぐっていたといってもいい。
 ここまでやってしまったのだから、本当ならばすべてを失っても続けてかまわないとすら思いながらも、このロイの反応は自分に対してではないこと、ジムというよく知った無骨な男と共にロイが生きているのだということを、目の当たりにしたことが、カーターにそれ以上の行為を押しとどめさせた。

 バスルームに飛び込むようにして、熱い湯を捻り、頭からそれを被った。
 火照るほどの興まりを沈めるために、何度もタイルの壁面を拳で打ち付ける。
 ばかだ、と自分を罵りつつも、今にも引き返して再び彼の柔肌に手を触れたくなるのを、懸命に堪えた。
 堪えることが叶わないとわかると、カーターは自らを慰めた。激情に走らないようにするために、今できることは自然発生的な生理現象を発散させるしかない。
 一度落ち着けば、きっと理性が舞い戻ってくるだろうと、それに望みを託した。
 どこかへ飛んでいきそうだった激情が徐々に薄れていくと、自分が触れたことが、翌日のロイに自覚されるのだろうか、とカーターはおののくような思いで考えた。
 今夜のことを知れば、ロイはもう二度と口も利いてはくれないだろう。
 これまで、ぶち切れたように幾度かロイにキスをしたものの、それとはレベルが違いすぎる。
 ロイの内部すら探ってしまった自分の行為は、決して許されるものではない。
 最後までいかなかったというだけで、これがレイプと何ら変わらないことであることは、カーターにも分かっていた。
 このまま、何事もなかったように、明日が迎えられるのなら、カーターは毎週教会にすら行きますから、と無様に神に祈った。
 熱いシャワーの滴が、その身体に降り注ぎ、もやのように沸き立つ白い煙の中に、カーターはたたずんでいた。


 タオルを湿らせて部屋に戻ったカーターは、さっきとは別の鼓動の跳ね上がりに足が止まった。
 瞳を開けて、ロイがこちらを見ていた。
 目が覚めているのか、いないのか、開けてはいるものの焦点が定まっていないような、うつろな光を反射しているだけの美しい宝石にも見える。
 見てはいたが、なにもいわず、身体を動かすこともしていないようだった。
 カーターは黙って歩み寄り、その身体に熱いタオルを押し当てた。
 丁寧に拭う感触に、ロイは瞼を再び落とし、もう目を開けることはしなかった。だが、その布の感触にすらぴくんと小さく身体が震え、今にもそれを放り投げて再びむしゃぶりつきたくなるのをけんめいに堪えた。
 駄目だ、と悪魔が勝ちを叫びかけたとき、カーターの動きが止まった。
 ロイの手がカーターの指を掴み、安心したように「デイン……」と呟いたからだ。さんざん、「ジム」と縋ったくせに、とカーターはおかしくなり、悪魔は頭から去っていった。
 灯りを落とし、隣のベッドに入った。

 暗闇に、さっきの白い裸体が浮かび上がる。
 滑らかな、細く締まった身体だったな、とカーターはまだ感触すら残っている手を握りしめた。
 覚めないのは脳の意識をつかさどる部分だけで、身体は触れるごとに感度を増していくようだった。
 切ないほどの吐息。
 何度も呼ばれた「ジム……」という、甘えたようなイントネーション。
 理性が吹き飛びかけたのはそのせいだ。
 閉ざされた蕾のような、なにも知らなそうに見えた身体は、蜜を含んだ菓子のように蕩け、甘さを見せた。
 ロイの身体は、思っていたよりもずっと愛されることに慣れていた。そして、すでにそれを歓びとして甘受する術さえ得ていたことが、カーターにはショックでもあった。
 触れても、見かけどおりに青く初心な身体だったならば、きっとあそこまで追い詰めることはしなかっただろう。
 ロイは、いつもああいうふうにジムに抱かれているのだ。
 クールなほどのふりをして、まるで友人としての一線を越えてなどいないかのように、カーターには見せつけながら。
 ひとたびふたりきりになると、砂糖菓子のようにジムに甘え、やわやわと蕩けてそのジムを受け止めて――
 ジム、とロイが声を漏らすたびに、カーターはむらむらと怒りに似たものが沸き上がるのを止められなかったのだ。
「私はデインだぞ」と、何度か耳元で囁き、無駄だと思いつつも今そばにいるのはデインなんだ、と繰り返した。

 そっと隣の気配を伺ったが、寝息すら聞こえない。
 起きているのかもしれない。
 ひやりとして、カーターは身を起こし、息を殺して覗いてみたが、すっかり深い眠りに落とし込まれているだけのようでもある。
 ほっとしつつも、カーターはなかなか眠りに就けなかった。
 成就せぬまま発散したはずの身体が、内部で渦巻くように苛立っている。
 すぐ隣に、布をめくれば白い裸身が無防備に転がっている――
 カーターは起き上がり、静かに布を払ってたった今目に浮かべた裸身に目を落とした。
 なにも身につけていないまま朝を迎えれば、ロイはショックを受けるだろうと四苦八苦して下着をつけてやる。
 それは、カーターの妄想を断ち切る手段でもあった。








硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評