[孤独と不安の影]of [金の砂銀の砂]


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孤独と不安の影

 カーターにとって、仕事はなんだか味気ないものになってしまった。
 こうなってみて、自分が本心ではいかにチームに戻りたいと思っていたのか、嫌というほど思い知らされた。
 ジムたちのチームが留守のため、訓練にも参加することもない。
 暇な時間は、誰もいないトレーニングルームで、カーターはひっそりと身体を動かした。
 ゲーリーやコムスキーらの、コネリーチームの連中とも、ほとんど顔を合わせることはなかったし、彼らがいそうな場所へ行くつもりもなかった。

 ビーチハウスに戻ると、ベランダへ入りかけ、玄関のドアの前に、なにか置いてあるのが見えた。
 温室咲きの、豪華な赤い薔薇で作られた花束だ。
 誰かが見舞いに置いたのだろうが、どうして直接渡さず、こんなところにと訝りながらロイに渡すと、ロイも同じように首を傾げた。
「案外、君のファンの女性かもしれんぞ。君に片思いしてる人物に、心当たりはないのか?」
 カーターがからかうようにいうと、ロイはなんだか不審な表情で花束を見つめるばかりで、軽口に乗ってはこなかった。
 階段の下のもの入れを探して、勝手に大振りの花瓶を探してきたカーターが花を生けていると、ロイは黙って薔薇を見ていた。
 艶やかな香りが、あたりに漂って、思わず鼻を近づけて香りを吸い込む。
「神様も粋なものをお作りになるものだな。香水でもないのに、こんな香りがするなんて信じられるか?」
「気持ちが悪い」
 カーターの話など聞こえなかったように、ロイが不快そうに目を逸らしていった。「なんだか、匂いで気分が悪くなりそうだ」
「そうか? 贈り主が分からないからそう感じるだけだろ?」
 だが、 考えてみたら、カードが入っていないから、どこの花屋が届けているのかも分からない。彼らなら、呼び鈴を鳴らして、受け取りのサインを求めるはずだ。
 だとすると、やはりどこかで買ったものを送り主が届けたものだろうが、名前くらい書いておいてくれたらいいのに、とカーターも思う。正体不明にしてしまっては、せっかくの行為も意味がないではないか。
「なにか、心当たりでもあるのか?」と聞いたが、ロイは黙って首を振った。
 暖炉の上に置いた花が気になるのか、ロイは時折花に目をやってはいるものの、もうそれに関してそれ以上の話題をふってくることはなかった。

 カーターも、自身のことで頭がいっぱいだった。
 部屋で、黒いつなぎの訓練着を畳みながら、もうしばらくはこれに袖を通すこともあるまいと、呆然とする。 
 悶々鬱々と考えてみても、もう事態は動きようがない。
 ペンタゴンへの勤務が、いつから始まるのかは不明だが、おそらく間違いないのだろう。 ドレスブルーの制服を着て、毎日綺麗なビルのオフィスで仕事をするのも悪くはないさ、と出張した時に考えていたというのに、それがなんだかひどく気が重い。
 畳んだ衣類をクローゼットにしまうとき、制服に手が触れた。腕の二本の金筋と、真ん中に入った細い筋に指を走らせる。
 しばらくすれば、これが三本になり、いずれ四本のラインになった頃には、ふたたびバークの跡を継いで司令官としてここへ戻ることになるかもしれない。
 そして、その頃にはやはりもう、この訓練着は着ることもないだろう。
 それでいい。
 大きな我が儘を押し通した自分に、これ以上自分の意志を伝えることなどできはしない、とカーターは目を閉じた。


 数日後、ゲーリーから相談があると、カーターに電話がかかってきた。
 なんだかまじめな口調でいうので、話の内容はうすうす見当がついてはいたものの、行かざるをえない。
 夕食後、ロイはリビングで所在なげにテレビを鑑賞していた。
 出かけるというと、「ゲーリーが?」と気遣わしげな顔をした。
「愚痴をきいてあげてください」と、ロイは微笑んで手を振った。
 カーターも頷き、彼らのたまり場である店へ向かった。
 ゲーリーだけでなくコムスキーもおり、店内の隅に珍しくしんみりと座っていた。
「なんだ、ふたりそろって」
 カーターが座ると、頼みもしないのにビールが置かれた。すでにふたりはかなり飲んでいるらしく、テーブルの上には食べ残したつまみの皿が乗っており、ふたりからは酒の匂いがした。その座ったような目つきに、どうやら深刻な話のようだと息を飲む。
「少佐、俺たちはもう我慢ができない」
「……コネリー大尉か?」
 彼らは、一様に苦い顔をした。
「ことあるごとに、突っかかってくるんです。二言目にはあなたやフォード少佐の悪口をいうし」
「悪口というのは、彼が行った任務に関してか?」
 ゲーリーが逡巡した。さっきからやたらに葉巻をふかしている。
「それもあるけど……過去の任務のこととかです」
 カーターは眉間に皺を寄せて、ゲーリーの顔を凝視した。
「捕らえられて、ずいぶん悲惨な目に遭ったとか。それは、フォード少佐自体に問題があるんじゃないかとも――」
「そんな話は関係ないだろ?」とコムスキーが制したが、聞いた話を伝えているだけだとゲーリーは突っぱねた。
「なんだ、それは」
 掠れた声は、威嚇するように低く響いた。
「彼は綺麗な人だ。それで、もともとそういう素養があったのではないかと。ペンチで指を折られる代わりに、レイプをされ……」
 カーターは立ち上がった。
「そんな詳細なことは、彼のチームの人間でさえ知らないはずだぞ。あいつがそういったのか?」
 ふたりともが口を閉じた。
 カーターの剣幕に少しひるんだように、尻をもぞもぞさせた。
「まあ、どうやって探ったかはともかく、今はあなたと同棲中だとか、いろいろとね」
 コムスキーが、口ごもりながらいった。
「あなたが、カイルを連れてフロリダへ行ったことも。俺たち仲間を捨てて、あなたがカイルを選んだんだと……まあ、これは彼の勝手な憶測にすぎないんでしょうが。要は、まじめに仕事に取り組んでいるのは自分なんだ、といいたいんでしょう」
 カーターは息を吐き、再び椅子に腰を落とした。
「ゲイル、私にも葉巻をくれないか」
 差し出されたものを咥えると、コムスキーが火をつけてくれた。
「少佐、本当にあなたはカイルのために、我々のもとを去ったんですか?」
 ゲーリーが、自分も新たに火をつけながら、カーターの瞳を覗き込んだ。

「……そうだ」
 カーターにはそう答えることしかできなかった。
「死ぬと分かっていたから、ですか?」
 コムスキーが聞いた。
 カイルのかつての同僚達は、その後の彼の健康状態を知っているのだ。
「死ぬなんて思ってたら、行きはしなかった。でも、あの時のカイルはほっておける状態じゃなかった。誰かがそばにいてやらないと……」
「あなたは、カイルと本当にそういう関係だったと? 違うんでしょう? ただの友情からの行動なんでしょう?」
「友情でそこまでできるもんか」
 ゲーリーが煙を吐きながら醒めた声で呟いた。
「私は……そうだな。あのときはそうするしかないと、思い詰めていたんだ。私は……カイルを愛していた」
「最初からずっとですか? チームにいたときから?」
 そうじゃない、とカーターは首をふり、葉巻を灰皿に押しつけた。
 長い話をするつもりはなかったが、死を予感していたらしいカイルが全力ですがる相手は私しかいなかったんだ、と呟いた。
「そして、今はフォード少佐を?」
「飛躍しすぎだ」
 もうよせ、とコムスキーがゲーリーの肩を小突いた。
「俺たちがいいたかったのはコネリーの話のはずだろう?」
「でも、話が本当なのかどうか知りたいんです。それに、あなたがフォード少佐の家に一緒に住んでいるというのは、確認済みです」
 確認済み、と聞いてカーターはかっとなった。
「あの家の周りを彷徨いていたのは君たちか? そんなことをして何が知りたいんだ?」
「簡単ですよ」
 ゲーリーが正面から睨み据えるようにしていった。
「我々は、ちゃんとしたリーダーを求めている。信じられる指揮官についていきたいだけです。信じていたあなた方が男同士で愛し合っているなどといわれたら、俺たちは……」
「もういい」
 立ち上がって、出口に向かうカーターの背に、ゲーリーの声が飛んできた。
「フォード少佐は、ほんとうにそういう傾向にある人なんですか? そのレイプというのは事実だと……?」
「ゲーリー!」
 コムスキーが腕を引っ張った。
「死にかけたときに、遺言めいた言葉をホーナー曹長に伝えてくれといったんだろ? カーター少佐でないなら、相手はホーナー曹長……」
「私だって、死ぬと思えば友人に伝言を残すぞ。妻も子もいないんだからな」
「そうだ、俺はそんなつもりでその話をしたわけじゃないぞ、ゲーリー」
 コムスキーが苦い顔をした。
 ゲーリーは彼に背を向け、黙り込んだ。
 カーターは震える手を押さえながらいった。
「おまえは……あいつがどんな状態で戻ったか、知ってるはずだ。あのときは同じチームだったんだからな。全身傷だらけで、死にかけていた。今もおそらくその傷が残っているほどのな。それをレイプだなどと……! 彼はずたずただったんだ。彼を侮辱する言葉を吐くのは、私が許さん!」
 手荒くドアを開け、カーターは外へ出た。

 荒々しい呼吸が治まってくると、つらい気持ちが、怒りを押しのけていく。
 車に乗り込み、ハンドルに手を掛けたまま額をくっつける。
 彼らが哀れに思えた。
 おそらくチームの全員が、同じように迷い、悩んでいるのだろう。
 進むべき道を照らしてくれる灯りを求めるように、彷徨っているかのように。
 どの灯りが正しい道を照らすのか、見失ってしまっているのだ。
 カーターが全力で特殊部隊の仕事に打ち込んでいたとき、そばにはディクソン大尉が常に控えていた。
 コムスキー曹長も、ゲーリーもホイットモアも、なにもいわなくても、全員が自分の役割を心得ていた。そして、そこにはチームを守る狙撃手のカイルもいた。
 二つに分かれて、ロイのチームが着々とまとまっていく中、お互いにひけをとらない誰にも自慢できるチームだったのだ。それが、今はどうだ?
 そして、そうしてしまったのは自分だと、カーターはこみ上げてくる涙を抑えることができなかった。


 カーターが家に入ったのは夜更けてからだった。
 また、花束が置いてある。
 毎日のように届くそれを、ロイはすっかり嫌がっていたが、捨てて置くわけにも行かず持ったまま玄関を入った。
 やるせない思いを抱えたまま、そっとリビングのドアを開けると、薄暗いスタンドがひとつだけ点いており、ソファに人影が見えた。
「……ゲーリーがあなたに謝ってくれと、電話をくれました」
「ロイ? 起きてたのか?」
「あなたを傷つけたかもしれないと……。携帯に出なかったんでしょう? 何度か電話をしたそうです。なにかあったんですか?」
 カーターは薄明かりの下に座っているロイのそばまで行った。
「すまん、心配をかけたな」
「眠れそうですか? なにか話をなさりたいなら……」
 いいかけて、ロイはカーターが手にした花束を見て眉を顰めた。
 すでに花瓶には入りきらないほどの薔薇が詰まっている。カーターも今夜は花を活けてやる気も起きず、それをテーブルに置いてロイを見た。
「話なんか、なにもないよ」
 カーターの声は、喉に詰まったように掠れ果てていた。ロイはその手をとり、冷たい、と呟いた。
「車をどこに駐めてきたんです? エンジン音がしなかった。歩いて戻られたんですか?」
「……酒を飲んだから……」
 車は、この敷地のほんの近くの空き地の辺りに駐めてある。
 リカーショップで酒を買い、目の前の浜に下りて、ひとりで海を眺めながらひと瓶を空になるまで呷った。
 ひとりでいる時間が必要だった。まっすぐに帰りたくなかったのだ。
 ロイはカーターの顔を黙って見つめている。
 この男はいつもこうだ、とカーターはその顔から目を逸らした。
 多くを語らず、なにも関係ないかのような顔をして、そのくせ見守っているかのような柔らかな光を湛えている。
「……ずるいぞ」
 私は呟いた。
「デイン?」
「君はあの花束が誰からか、うすうす察しているんだろう? 誰に向かって花瓶を投げたんだ? 自分のつらいことはなにも話さず、私の面倒だけ見るつもりか?」
「デイン、どうしたんです?」
「君はずるい。君は私を追い抜いて、遙か先を歩いていく。君の生き方はいつもまっすぐで、邪魔をされてもそれを貫こうとする。……でも、私は……私は……」
 膝が崩れるように床につき、カーターは顔を覆った。
「ほっといてくれ。いつも君がしているように、私は私自身で処理をする。君は自分のことだけ心配していればいいんだ……」
 八つ当たりをしているのは自覚していたが、止められない。
 こんな身体で私を夜中まで待っている必要など、ないじゃないか。
 会いたくなかったからこそ、こうして寒空の下で時間を潰したというのに――
「デイン。怒っているのは、俺に対してなんですね?」
 戸惑ったような声がした。

 ロイは、片足に重心をかけて立ち上がった。
 そのまま、手を伸ばして車いすを掴もうとしている。酔っぱらいになにをいっても無駄だと思って、寝室に引き上げるつもりなのだろう。
 カーターはその手首を掴んだ。
「離してください」
「いえよ、誰が訪ねてきたんだ? あの花は誰からなんだ?」
「デイン、話は明日にしましょう。あなたももう寝て……」
 カーターがよろめいた拍子に、ロイもソファに尻餅をついた。
「あっ……」
 怯えたような声がして、傷めたところをどうかしたかと、カーターははっとして身を起こした。「大丈夫か? どうかしたか?」
「……少し……いえ、大丈夫のようです」
 ギプスの腕はともかく、足首は銃創の治療もあるため、完全に固定されているわけではないのだ。
「ロイ……」
 カーターは細い身体を抱きしめた。
 足首に触れないよう気を使いながら、のし掛かっていく。胸元に埋めていた顔を上げ、片腕で上半身を支えながら、くっつくほどに顔を覗き込む。
 そのまま、自分の唇で唇に触れた。
 ロイは唇を固く閉ざしたまま、いつかの夜のように瞼すら閉じようとはしない。
「……君は、私が好きだったのか? だからここに呼んで住まわせてくれたんだろう? だったら、唇の力を抜けよ」
 こんな薄闇の下だというのに、ロイの瞳は澄んだ泉のように深い色を湛えていた。
「ジムとどうやって愛し合ってるんだ? ロイ。ジムがいるのに、なぜ私を呼んだ? 二股かけて、どっちか選ぶつもりだったか? 結論は出たのか?」
 吸い込まれた息が、そのまま止まった。
 瞳がひときわ見開かれ、肺に貯められた酸素が浄化されたかのように、瞳がさらに煌めいて見えた。
「ジムと君はどれくらいの関係なんだ? あいつに抱かれているんだろう?」
「……デイン……」
「ロイ、いい加減にはっきりしろ。君はジムよりも私を選ぶのか?」
「なにをいわれているのか分からない」
「簡単なことだろう? 君は私が好きか?」
 カーターがもう一度、唇を奪おうと顔を近づけると、ロイは露骨に背けた。
「あなたは酔っている」

「酔っているさ。こんな状態でないと、聞けないことだってあるはずだろ? 君も飲むか? 少しは正直になるかもしれない」
 ロイが治療のために、しばらく禁酒しているのを分かっていての挑発だ。
 不意に力が抜けたように、ロイの身体が仰向けに無防備になった気がした。
「……あなたが酔った勢いで、したいことをするならすればいい。俺は今、抵抗できない」
 カーターはむっとした。
「いったな。そうだよ、私は酔っぱらいだ。そういったからには、止められないぞ」 
 むしゃぶりつくように彼は目の前の唇に挑んだ。閉ざされたままの貝殻のようなそれを、むりやりこじ開けようとせんばかりに。
 そのまま耳たぶを、首筋をなぞるようにキスをする。
 眉間に皺をよせ、なのに動こうともしない態度をなんとしても崩してやる、とカーターは意気込んでいた。
 長いパジャマの裾を引っ張り上げてまさぐり、剥き出しの太ももに手が触れた。
「……っ」
 息が詰まったような声が漏れ、顔に目をやるとロイの目尻が真っ赤になって瞳が潤んでいた。
「……泣いているのか?」
「……俺はきっと……あなたが好きなんだと……思います」
 泣いているはずなのに、声を震わせることもなく、ロイは途切れながらも穏やかにいった。
「でもそれがどういう意味合いの好意なのか、俺には分からない……」
「理屈なんか――」
 抱かれたことがないならば、そうされてみれば分かるさ、とカーターは心の中で呟いた。すでにジムの手の中にあるならば、比べてみればいい。
 分からないなら、理解できるまで。
 微かに開かれた、ロイの薄い色の唇の間から、熱いため息が零れた。もちろん、カーターが行いかけた行為に対しての興まりではなく、胸の底からこみ上げるような悲痛な吐息だ。
「……ロイ……」
「あの頃……あなたのお嫁さんになるといって、ジムと三人で結婚するのだと……訳の分からないことを俺は考えていた……知ってましたか?」
 ふいの昔話に、カーターの荒ぶった気持ちがふっと緩んだ。
「頭が幼児みたいになっていたんだ。今思い出せば、おかしな発想に思えるけど、嬉しかったよ。君は私にキスまでしてくれた」
「今からあなたに抱かれたら……その答えが見える…と思いますか?」
「かもしれない。私自身の答えも」
「……本当に?」
 ロイは、ギプスの腕で顔を覆った。
 呼吸は乱れてすらいないのに、仰向けた頬に耳まで涙が流れ落ちるのを、カーターは不思議な思いで見つめた。
 その様子を眺めているうちに、酔いが少しばかり醒めたらしいと、なんとなく気がそがれた。それと共に、なんとしても抱いてしまおうという勢いすら、消えかけた炎のように薄れてきた。
 勢いをつけて、カーターはソファから下り、乱れた裾を引き延ばした。
 それから床に座り込んで腕で上体を支えた。
 なんだか急におかしくなり、腹がひくひくと痙攣を始めた。
 やがてそれは喉から声を漏らし、笑うつもりだったのに、カーターは自分でも驚いたことに――泣き出した。
 感情の制御装置が壊れて、止まらぬ液体に唇が塩辛くなった。

「……デイン?」
「俺と君が、……ここで同棲をしていると、コネリーがいったそうだ。私がフロリダへ渡った理由も」
「それは――」
「ゲーリーの目が冷たかったよ。あいつらは、もう私を見限っている。自分たちを捨てた理由を知って……」
 ロイが頭を上げ、涙を拭いながらカーターを見た。
「バーク准将は、私を諦めた。彼が求めていたときに私が応じず、タイミングを逃したらしい。たぶん私はペンタゴンの勤務になるはずだ」
「それは、本当なんですか? あなたを異動させると、准将が……?」
「准将ではなくその上の方の意志だろう」
 涙を拭うこともせず、カーターは続けた。「もういやだと……思っていたんだ、ロイ。チームを率いて、いつ死ぬか、捕らえられるか分からない状況の中で責任を負うことが怖くなっていた。……でも、私はなんで家も見つからないうちに――カイルのために泣くこともしないうちに、ここへ戻ってきたんだろうな。休暇も取らず、宙に浮いたような仕事をさせられて、いったいなにをしたかったんだ……」
 ロイは、ずり落ちるようにして床に座り、自由になる手で泣いている男の肩に手を置いた。
「……考えて考えて……。なのに、本心は間違いなく戻りたかったんだ。あの連中と、生死を共にしてでも、やりがいのある仕事をしたいと……ほんとうはそう、思っていたんだ……。ばかだな、こうなるまで私は逃げ続けていたというのに」
「そう思っておられるなら、ちゃんとバーク准将や、他のみんなに話をしたほうが……」
「もう遅い。ロイ、遅いんだよ」
 いつかの夜のように、いや、もっとちゃんとした力を込めて、ロイはカーターの肩をぐいっと自分に寄せ、そのまま抱きしめるように背中に腕を回した。
 ギプスをした腕は吊っている布から外れて、それすらも背中に回されているのがカーターに感じられた。
「君たちが……いや、君が死んだかもしれないと思ったとき、ヘリで敵地に向かった。あのときの高揚感ときたら……。おそらく君たちが戻らないという悲痛な思いを抱えていながら、私は戦闘服に身を包んで武器を携帯して、ヘリに乗り込んだことにたまらない郷愁すら感じていた。もう一度、こうして空を飛びたいと……仲間と共に、危機を乗り越えたいと……そんなことを考えていた気がする」
 ロイの頬が、カーターの頬にすり寄せられた。
「だからこそ、我々は危険な任務に向かえるんです……」
 その言葉は重かった。微かな呼吸の音が、荒ぶった心の波を沈めるように規則正しく耳元で繰り返される。それ以外の音はなにもカーターには聞こえなかった。絶えず、家にこだまするような潮騒の音すら――
「……すまない、ロイ。つらいからって、君に八つ当たりして……ばかなことをした……」
 カーターはいつしか、止められないほどの嗚咽を漏らしていた。

 そのまま、長い間、ふたりは薄闇の中に座り続けていた。
 まるで幽霊がうずくまってでもいるように。
 ロイは、いつものように言葉を閉ざしたまま、黙ってカーターを抱きしめ続けようとしていた。けれども、無理な体制が徐々に傷ついた身体に負担をかけ始めたのか、カーターを抱きしめてくれていたはずの身体が逆に重みを感じるようになってきた。
「ロイ、きついんだろう? ありがとう、もう大丈夫だから」
 ロイは首を振り、ただちょっと、と苦労して体制を変えている。
「もう、とっくに日付が変わってしまっている。身体に触るよ。ほんとに……ひどいことをいってしまって悪かった。悪酔いしたなんて、いいわけにもならないな」
 考えたら、酒臭くもあるだろう、とそんなことが無性に気になりだした。正気に戻ったということなのかもしれない、とカーターはやっと思えるようになっていた。
「シャワーを浴びて、寝ることにするよ。君もベッドへ行きなさい」
「――起き上がれないんです」
 ロイが情けない声を出した。「身体があちこち痺れていて……おかしな体制でいたせいかもしれません」
「どれ」
 立てないなら、と力を貸すつもりだったのに、カーターが触れた途端、ロイは「だめ!」と叫んで逃げようとした。
「じんじんしているんだな?」
 カーターはおかしくなってきた。
 さっきまで、地獄の果てまで落ち込んでいた気分が一転したのが感じられる。何気ないふりをして、傷めていない方の足をつつくと、ロイは「うう」と唸ってカーターを睨んだ。
「ほん……っとにいたずらが好きなんだ……」
 カーターはくすくす笑いながら、仕方がないだろと脇の下と膝の後ろに腕を回し、勢いをつけて立ち上がる。
「ううっ、ほ……といて……くださ……」
 痺れに顔を歪めてロイは仕方なく、不快な感覚を少しでも減らそうと首筋にしがみついた。
 ああ――
 こうして、彼を抱き上げたのは何年ぶりだろう、とカーターは内心の鼓動を抑えることができなかった。
 同じ男とは思えないほど軽いと、あの時は胸を痛めた。その軽さが悲しくて、それなのに痛ましさの中に愛しさが宿ったのだ……。
 ベッドにそっと下ろし、「トイレはいいか?」と聞くと、ロイは車いすを置いておいてください、と歯を食いしばっていった。
 カーターは今度は笑いの発作に見舞われながら、リビングに引き返して車いすを押してきた。
 上掛けをかけてやろうか? と聞くと、相変わらず大丈夫ですと答えるので、寝室を出ながら、カーターは振り返った。
「ロイ、ありがとう」
 ガウンを脱ぎかけていたロイは、その顔を見つめ、微かに頷いた。
「酔いが醒めて明日になったら……気分も変わります」
「うん。分かっている」
 ドアを閉め、そのままもたれかかって後頭部を擦りつける。
 安堵のため息が漏れたことに、自分でも驚いてしまっていた。あのまま、ロイの衣服を剥いで、とんでもない行為に進まなくて良かった、と心の底から感謝した。
 さんざん醜態をさらしてしまったものの、その一線は守られたのだ、と思うと怖くて足が竦んでいたのだ。
 それで、初めて自分の気持ちが分かったからだ。酔っていたとはいえ――
 私は今夜、本気だったのだ、とカーターは思った。


 ――こんな夜が、ジムにもあったのだろうか?
 シャワーの滴を浴びながら、カーターは自分の身体の火照りを沈めるのに苦労した。
 ロイを寝室へ連れて行ったそのときでさえ、治まってなどいなかったのだ。
 ジムは感情が大らかだ。そして、おそらく私以上に男性としての欲求も深かろうと察せられる。
 あれで意外ともてるというのは、隊員たちにも聞いていたし、訓練にも人一倍タフなことを思えば、ロイに対しての激情が湧かなかったはずはない。
 けれども、そういう性格の中に、ひどく理性的な大人の部分をもっているのも確かだ。
「ジム、おまえはいつから我慢していた? いつ、でかい図体で有無をいわさずあの細い身体を……」
 狭いシャワールームで、カイルが傷だらけの身体を洗っているのを見て、服を着たまま抱いてしまったことを思い出した。たががはずれたように、カイルを愛したことを――
「すまん、カイル……」
 すでに、彼の微笑みが思い出せなかった。口でいっているほど、死んだ者が無になったなどと思っているわけでもないのに。
 カイルがもう、慰める言葉すらかけてはくれないことが哀しい。
 さっきのロイのように、拒否しつつも抱きしめてくれることはもう、ないのだと改めてその現実に呆然とする。
 薄情だ、と自分がいやになる。
 彼の葬儀をしてから、まださほどの時間もたってはいないのに、自分がもう、カイルを心の隅に追いやろうとしているようで、人間として最低だとすら思う。
 もし、バークが異動を細工してくれなかったら、カーターは今もカイルの匂いの染みついた部屋で、哀しみの涙にくれていたことだろう。
 チームのことを恋い焦がれることはあったかもしれないが、遠い気候すら違う地にいて、懐かしむ程度でいたのかもしれない。後進の育成に力を注ぎ、それなりにやり甲斐を見いだして。
 そのとき、ロイのことなど考えただろうか?
 考えたかもしれないが、それは違う形だったはずだ。
 ロイがこの家に呼んでくれ、近しく共に生活をしたことで、カーターの中の何かが変化したのは間違いない。
 途切れていた糸を結ぶようにして。
 学生時代、カーターは映画作成を手伝ったことがある。フィルムをカットして、手作業で必要な場面を繋いでいく時代遅れの方法だったが、それに似ているな、となんとなく思った。
 フロリダの生活を、今のカーターはカットしてボツにしようとする編集者のようだ。そして、別の場面に繋ごうとしている。
 フロリダだけでなく、ロイと離れていた長い時間を削除して、ひと息に幼い笑顔を見せてくれたあの頃と、今を。
 ついでに、ジムという役者の場面まで切ってしまいたいのかもしれない、と思うとどきんと喉元にまで鼓動がせり上がった。
 あの頃見せていた、かいがいしい様子だけでなく、ロイが今回の任務で死んだと聞かされ、生きていたと知ってなお、自分を抑え込んでいた彼の姿を――
 カーターはくすり、と嗤った。
 ジムがいなければ、などと……。
 ロイが、もしもデイン・カーターを愛していると分かったら、ジム・ホーナーは身を引く覚悟であることすら知っているのに、我ながら卑怯なことを考えるものだ。
 今、この地にいないから影が薄れているだけで、ジムはロイにとって毎日の生活の中に存在としてあるだろうはずなのに。
 それはおそらく、一緒にいる自分などよりもっとずっと身近に。
 電話すらかけられないはずの、厳しい訓練の場所にいる男のことが、カーターは羨ましくてうとましくて仕方がない気持ちを、持てあましていた。

「おい、サイテーな男だな、デイン」
 それが、デイン・カーターという男なのだ。
 カーターは初めて、自分という人間の小ささに、いつまでもシャワーの栓を止めることができないまま、湯気の中に立ちすくんでいた。







硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

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金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評