[ふたり]of [金の砂銀の砂]

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ふたり

 ロイが退院するという、その日の午前中に副隊長のビリー率いるロイのチームは、合同洋上訓練へ出て行った。
 仕事を定時きっかりに切り上げ、カーターは急いでロイの車で病院へ向かった。
 病室には、すでに看護士に手伝ってもらったらしいロイが、着替えて車椅子に座って待っていた。
 ギプスが不完全で、治療を要する傷のためにズボンをはくことができないため、厚手の裾の長いパジャマの上にコートを着ている。素足が冷えないようにとレッグウォーマーが片方だけ巻いてあるのが痛ましい。
 やあ、と声をかけるとロイは微笑み、それから少し緊張した面持ちになった。
「デイン。……なんだかあなたにまた、ご迷惑をかけることになりそうです」
「ベッドが不足してるからって、追い出すなんてひどい病院だな」
 でも、嬉しくもあるんですけどね、とロイははにかみ、よろしくお願いしますと頭を下げた。
 車の助手席に久しぶりに座っている顔は、なんだかほっとしているようで、やはりリュウタロウの判断は間違っていないのだろうとカーターも安堵した。
 長年、彼の一番つらいときからずっとロイの精神面や健康面を預かってきた日本人医師である。
 病院で借りた簡易の車椅子を家の中まで押して入ると、カーターはソファに移った方がよくないか? とロイに肩を貸して、支えながら座らせた。
 座面に固定された足を伸ばし、肘掛けに寄りかかってもいいようにクッションをいくつも重ねてやる。足もクッションを当てて少し持ち上げてやる。
「疲れたろう? しばらくはゆっくり休養だな」
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
 くつろいだように後頭部をクッションに乗せ、ロイがため息混じりにいった。
「今度は風邪のときみたいにはいかないぞ。存分に迷惑をかけてもらう」
 お願いします、と観念したようにロイが笑う。「でも、なるべくひとりでなんでもやるように努力します」
「まだ、無理は禁物だよ。特に腕がそうなんだから不自由の二十重ねだ。なんだったら、ベッドまで抱いて運んでやってもいいんだぞ」
 カーターも嬉しくて、軽口で応じた。
 病院へは毎日顔を出したが、こうして馴染んだ空間に戻ってくると、ここにロイがいるということが奇蹟に思えた。
 確かに、あの状況では奇蹟という呼び方以外には、適当な言葉がない。
 珈琲を淹れてやると、ロイは久しぶりの本格的な珈琲だと目を細めてカップを口にした。
 家で改めて見ると、過酷な任務のあと、負傷の苦痛があったのだから仕方がないとはいえ、かなりやつれている。やはり、病院ではゆっくり身体が休められなかったのは間違いない。
 自分がここにいる意味が、やっとできたような気がして、カーターは少し嬉しくさえなった。 

「それにしても、よくあんな状況の場所に、ホイットモア救出に飛び込んだものだな」
 詳細な報告書が、病院のベッドの上からすでに本部に提出されていたし、隊員たちからも当時の様子は細かく調書がとられていたのだ。
 とても、侵入は無理というほどのびりびりした敵の建物のようすに、ゲーリーでさえ、今回ばかりはホイットモアを助けるには時間がかかる、あるいは無理かもしれないと観念したと告白した。
 ロイと救出に同行したコムスキーは、ひとりで行く、というロイに勝手について行った。彼を置いて帰ったら一生後悔するに違いない、とじりじりした気分でもあり、この代理の隊長の心意気に、ホイットモアと三人で地獄へ行くのも悪くはないと、覚悟していたという。
「どうしても、僅かの時間でも敵の中にホイットモアを置いておきたくなどなかった」
 ホイットモアは拷問寸前だったといっていた。
 もちろん、それは残酷な責めには違いないだろうが、ロイが受けたものとは質が違ったはずではある。それでもこれから自分の身体が痛めつけられる、と覚悟させられるのは死ぬよりも恐怖には違いない。
 自らの体験を思えば、ロイが必死になったのは当然かもしれないが、その、日頃そう交流があるわけでもない代理であるはずの隊長自らの行動に、チームはまたぎゅっとひとつにまとまっており、コネリーさえ驚くほどに士気をあげていた。

「デイン、あなたがまた、救出に来てくれるとは思っていませんでした」
 ああ、とカーターは頷いた。
 いつだって、どこからだっていくさ、と答えたかったのに、言葉にならなかった。
 カーターは、病院でロイと握手をしただけで、それ以上彼の身体に触れることすらしない距離を保っていた。ジムの心理を思っても、自分がロイにそれ以上の好意を示すことなどしないと決めていた。
 それなのに、“また”という言葉が耳を切なく打った。
 穏やかに瞳を向けてくるロイの顔を見ていると、無意識に手が伸びた。カーターの右手はロイの柔らかな髪に触れ、磁器のような白い頬に滑り、青緑色の光を揺らすような瞳から目が逸らせなかった。
 ロイは黙ってされるままに身動きもせず、珈琲のカップを握ったままだ。
 カーターはその頭を、壊れものを扱うように、そっとそっと胸に抱き寄せた。
「……よかった。生きて戻ってくれて……」
 微かにロイが頷いた振動が伝わってきた。「私を許してくれ……」
「なにを許せというんです?」
 頭を胸に寄せたまま、ロイが囁くようにいった。カーターはロイが握ったままだった珈琲のカップに気づき、またそろりと身体を剥がした。
「すべてのことをさ。ここを去ったあの日のことから、今回の件まですべて。私がしっかりしていれば、君にはなんの迷惑もかけやしなかった」
「俺は、あなたのようになりたかったんです、デイン」
 思いがけない言葉にカーターは瞠目した。
 憧れていたのは自分の方だ、と思う。いくつも年少とはいえ、ロイは私に持っていないものを持ち、きりりと生き様を見せつけ、自分にはとうてい適わない存在だとひがんでさえいたのだ。
「あなたがあなたであったことで、救われた人間がたくさんいるはずです。俺にはそれは、真似ができない」
「意味が分からないよ、具体的に教えてくれ」
 ロイは微笑み、首を微かに振った。
「内緒です……お腹が空きましたよ、デイン。病院の食事は悲惨だった」

 夕食にしよう、と弾んだような足取りでカーターはキッチンへ行った。
 今いわれたことが気になったが、褒め言葉なのだからゆっくり考えたって悪くはないだろうと思い直す。時間はあるのだ。
 夕べから準備していたものを冷蔵庫から出し、鍋を火にかけたり野菜を刻んだりしているあいだ、リビングからは珍しくテレビの雑音が聞こえていた。
「君が好きらしいからと、夕べ料理本と格闘しながらチリを作ってみたんだが……不味ければ、レストランにデリバリーを頼む」
 リビングを覗いて後ろ姿に声をかけたが、返事がない。そばに行くと、背もたれに乗せられた左手が、白くなるほど力を込めていた。
「どうした?」
「もうほとんど痛みはなくなっていたんですが……すみませんが、水を」
 慌てて冷蔵庫から水を出し、冷えていない方がいいかと常温のまま保存している棚から出し直す。
「薬は?」
「バッグの中に」
 病院から運んできたバッグのポケットに、でかい袋に入れられた処方薬が数種類あった。
「その白いのを。あとは食後でないと」
 薬を水で飲み下す、青ざめた顔を見ながら、カーターはため息をついた。
「やっぱりまだ退院は早すぎたんじゃないか?」
 ドクの手配とは分かっていたが、まだこれほど痛みが襲うのならやはり無理なのじゃないかと思ったのだ。
 ベッドが不足だといわれているはずのロイは、それでも自らの望みでもあったことを隠しきれないように、叱られた子供のような顔で俯いた。
「きっと環境が変わったせいでしょう……病院は嫌いなんです。転院と退院とどっちかといわれて、つい……」
「そりゃ好きな人間は多くはないだろうが……」
「すみません。初っぱなから。結果的には、あなたに迷惑をかけると分かっていながら。退院許可が出されて、単純にほっとしてしまって」
 いいんだよ、とカーターは答えた。だが、話題を過去に戻すのは控えた。
 さっき額に触れたとき、まだまだ微熱が残っているように感じられたし、今はリラックスした気分を保たせた方がいいのは間違いない。
 頼りがいのある隊長ではあっても、身体が通常でなければ我が儘のひとつもいいたくなって当然だ。特に、彼の場合海軍病院の空気など、二度と吸いたくはなかったはずだ。
「さては、注射が怖いんだな?」
 からかうように顔を覗き込むと、ロイは目を伏せた。
「山のように注射ばかりされれば、あなただって怖いはずだ」
 ロイはらしくなく、開き直ったように口を尖らせた。それに……と、声が小さくなった。
「痛み止めは経口じゃないものを使われるし、女性の看護士に、問答無用で体中拭われるし」
 思わず噴き出したカーターを、ロイは恨めしそうに睨んだ。
「勝手にあちこち触られるのがいやなんだ」
 口調までが、拗ねた子供になったようで、カーターは笑いが止まらなくなってしまった。

「やあ、戻っていたね」
 ベランダのドアが開いて、懐かしい顔が覗いた。
 長い黒髪を後ろに束ね、銀縁の眼鏡をかけた穏やかな微笑みに、カーターは嬉しくなった。
「ドク!」
 リュウタロウ・ナカニシは、歩み寄ったカーターと握手をし、再会を喜んでくれた。
 かつて海軍病院で外科医だった彼は、今はここからほど近いクリニックを開業して精神的なカウンセリングを主としている。軍と、自分のクリニックを週に半分ずつこなしており、ロイは長らくその患者だった。
 食事は? と聞く私に首を振り、リュウタロウはソファのロイのそばに行った。
「つらくないかな? 大丈夫かい?」
 今は、とロイは素直に頷いた。
「座薬が死ぬほど厭だったんだそうだ」
 カーターがげらげら笑いながらいうと、ロイは険悪な眼差しを向け、医師に顔を戻すと微笑んで見せた。
「すみません。でも家に戻れてほっとしています」
「そうだね。ゆったり過ごせることの方が重要だ」
 リュウタロウは笑い、頷いた。
「ハルトマン医師が心配していましたよ。病室のベッドはすでにいっぱいでね。無理させたけど、まだまだ目は離せないからと、私が頼まれました。毎朝来てしばらくは点滴や注射をしないといけない。それに、深夜でもかまわないから、つらいときはすぐに連絡をなさい。いいですね?」
 はい、とロイは素直に頷いた。
 ロイの心中をおもんぱかって、家に帰す手配をしたことは彼には秘密にしているんだな、とカーターはリュウタロウの心配りに感心した。
 それから少し様子を見て、持ってきた鞄から注射器を取り出すと腕に消毒を始めた。
 ちらりとこちらに目を向けるので、「泣くなよ」と微笑むと、ロイはくすくす笑い出した。
 ドクはすぐに戻っていった。忙しい中を来てくれたのだろう。
 食事はキッチンではなく、ソファに運ぶことにして、やっと食べ始めたのはそれから三十分もあとだった。足を伸ばしたまま座面に座っているそばまで、小さなテーブルを寄せてやると、なんとか食べられるようだった。
「美味しい」
 病院食にうんざりしていたらしいロイは、珍しく美味しそうに食べている。
「君が、そんな嬉しそうな顔で食事するのは初めて見たな」
 ロイが足を伸ばしているので、カーターは反対側のひとりがけの椅子に座り、スプーンを持ったままテーブルの端に乗せていた処方箋に手を伸ばした。いったい何日分なのか、一日の量が多いのか種類が多いのか、薬漬けになりそうだなとなんとなく引き寄せただけだ。
 薬の用法、容量などが明記された紙切れを開き、真剣に読んでいたカーターは、不意に笑い出した。
「そんなにおかしな薬が入っていますか?」
 ロイがスプーンを持ったまま、目を向けた。
「痛み止めの半分は、経口用じゃない。ドクの注射の効き目が切れたら覚悟するんだな。即効性を考えたら、こっちのほうがいいのは確かだ」
 チリを含みかけていたロイが、思わずむせた。
「私がやってやるから安心しなさい」
 からかうように顔を覗き込むと、ロイは左手で持っていたスプーンを置き、胸元に当てていたナフキンをカーターに投げつけた。

 介護士は明日の朝から来るという。
 昼の三時には帰ってしまうが、ロイは車いすを片手で操って見せ、ちゃんとトイレにも行けますから、とカーターを安心させた。
「ゆっくりしか動けないんだから、おもらしする前に早めにトイレに行けよ」
「……分かっています。ほんとにいじわるですね、デイン」
 次の日は早くから起き、朝食を作っているときに呼び鈴が鳴った。まだ、八時前だ。
 玄関を開けると、プエルトリコ系の男が立っていた。
「介護士のディエゴといいます」
 上背はそれほどではないが、しっかりした筋肉をもった身体を見て、カーターは安心した。これならロイなど軽く抱えることだってできるだろう。
 理学療法士の資格も持っているらしく、いずれはリハビリの指導もしてくれるらしい。それになによりほっとしたのは、この男が柔らかな、優しい表情をして微笑んでいることだった。
 ランチの準備は自分がする、というのでロイの寝室に案内した。
 ロイはまだ眠っており、じゃああとは頼んだよ、とひとりで食事を済ませてカーターは家を後にした。

 ディエゴは、フリーでありながら優秀らしい。ロイの話しぶりで、彼がいかにこまめに患者の世話をしているのかが分かり、カーターは安心した。
 いろいろ覚悟していたのに、ロイは車いすに乗っている、あるいは腕をギプスで固められて肩から吊っているだけで、これまでとあまり変わらないように見えた。
 家に戻ったことで気力が戻ったのか、顔色も悪くはなく、日に日に回復に向かっているのが分かる。
 毎日様子を見に来ているリュウタロウに電話をかけると、彼も同じような見解で、やはり退院させてよかったと安心していた。精神に傷を負ったわけではない場合の、傷の回復は日数に任せておけばいい、というリュウタロウの言葉にまさにその通りだと同意する。
 戻って最初の頃、夜間は痛みが増すかもしれないと気になって、カーターは寝室を伺ったこともあった。案の定、痛みを堪えるような呻き声が聞こえたので、思い切ってドアを開けたが、ロイは暗い部屋の中で「すぐに薬が効くと思うので」と、かまわれることを拒否する雰囲気を言外に匂わせた。
 ひとりで耐えるつもりなのだ、と判断してカーターは大人しく引き下がった。
 それでもドアを微かに開けて中の気配に耳を傾け続けたが、まもなく穏やかな寝息が聞こえ始めると、強い男だ、とカーターは舌を巻いて二階に戻るしかなかった。
 風呂に入れないために身体を拭こうか、といっても、午前中にディエゴにやってもらうらしく、そうなるとさほど手間はとらせない。
 トイレに行くのも、寝室でベッドに移るのも、初日からロイはひとりでやっているのだ。
 少し拍子抜けがするほどで、カーターは苦笑した。その方が、いいことには違いないのだ。けれども、本音をいえばもっと頼って欲しかったし、変ないい方だが、かまう気満々だった気勢をそがれた、という感じでもあった。
 それでも、夜、ふたりでリビングで過ごす時間が戻ったことは嬉しかった。
 相変わらず、流動力学だのなんだのといった本を読むロイのそばで、カーターはラップトップのキーを叩き続ける。違うのは、彼が足を伸ばしてソファに横向きに座っているために、カーターが正面の一人がけ椅子に移っていることだ。
「今頃、ジムたちは酒でも飲んで騒いでる頃かな」
「かもしれませんね。あるいは、深夜の海上訓練の最中かも」
 寒いだろうな、と体験に基づいた想像が頭をよぎる。一番そばにいてやりたい時間に、離れていなくてはならないジムに、同情すら感じた。
 けれど、おそらくジムがいてもロイはこんなふうなのだろう。
 ぱたん、と本を閉じ、まだ十時前だというのに「おやすみなさい」とロイは寝室へ戻っていく。寝る前にバスルームに入り、ゆっくりと歯磨きやらトイレを使ったりしたあと、ベッドルームのドアが閉まる音を聞き遂げるまで、カーターの耳はその物音を追い続ける。
 Rは元気だ――と、キーを打つ。
 Rは気丈で、弱音を吐かない。
 ジムが気にしていた、ロイの本音を探ることなどできないまま、自分はここを出ることになるだろうとすら思う。それでいいのかもしれない。自分自身が、それに対して答えを必要としているわけでもない気がした。
 知ったところで、どうなるものでもない。
 それでいい、とカーターもラップトップの電源を切り、二階へ上がるために席を立った。






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おもちゃ屋探検

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ロイとジムの映画評