[その夜のカーター]of [金の砂銀の砂]


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その夜のカーター

 ロイが寝室へ戻ったかなり後になって、カーターも自室へ引き上げた。
 シャワーに濡れた髪を拭きながら、ベッド脇のテーブルに乗せたカイルの写真を見つめた。
「おまえのことを、書かないといけないのにな」
 むなしく語りかけた言葉に、写真はなんの返事もしない。
 銃弾の飛び交う中、ひとりチームから離れて、高い場所に陣取ったカイルの弾が仲間たちを守る。狙撃手として、幾度もそうやって彼はチームを見守り続けた。
 狙って倒す相手が多いものは、狙われる率も高い。
 居場所を悟られたカイルに飛んでくる銃弾。実際にそれが見えたはずもないのに、その弾が彼を引き裂くところが見え――カーターは悲鳴をあげた。
 カーターの足下に倒れたのは、ロイだった。
 血まみれで、すでに息絶えているかのように青ざめた皮膚をして、まじろぎもせずロイは目を閉じている。
 引き裂いたのは銃弾ではなく、それはさらに痛々しく、時間をかけてロイを内側から壊した。
 皮膚を、内臓を、そして脳の内部までを――

 カーター私は飛び起きた。灯りをつけたまま眠ってしまったらしい。
 息が荒く、空調の効いた部屋の中でぐっしょりと汗をかいていた。
「ロイ……」
 過去に引き戻されている。
 夢ではなく、現実の記憶がカーターを苦しめる。力なく寝込んだり、あるいは今日のように心に開いた傷を見せるロイを見たせいかもしれない。
 違う、とカーターは呟いた。どんなに頼もしい姿をしていても、カーターはロイの様子をうかがい、過去を繰り返し引っ張り出しているのだ。
 ただ、銃撃を受けたものを見ることはあっても、ロイのような負傷の様はかつてなかった。どんな目に遭ってそうなったかを聞いたとき、カーターは当時三日ほども眠れないほどのショックを受けた。
 そしてその後の苦痛に悩むさまを見続けた。
 そういう意味では、カーターのこれまでの人生において、ロイという男の与えたものは限りなく大きい。
 カーター自身は、幸いにもこれまで深刻な負傷をしたことはない。だが、もうたくさんだと思った。
 これ以上、傷ついた部下を見るのはごめんだ。
 死んだものを雨合羽に包んで連れて帰る時の重み。
 家族に報告をし、母の、婦人の、子供の泣き崩れる顔を見ながら玄関に立つ時のやるせない思い。
 受けた傷のトラウマに悩み、あるいは治療に苦しむ姿を見ていることしかできない時間――
 現場にいる間は、ここまで考えはしなかった。それらは一連の仕事の延長上に、たまに訪れる悲痛な出来事として、泣きながらも対処してきた。
 なぜこうも、心が落ち着かないのだろう。
 戻りたいと思っていたにもかかわらず、それに怯えたようにおかしな夢ばかり見る。
 灯りを消すためにベッドを下りかけて、眠りから覚めきっていなかったらしい身体がかしいだ。
 思わず枕元のテーブルに手をかけたつもりが、スタンドの傘に当たってしまった。
 それが傾き、慌てた拍子にカイルの写真立てが派手な音を立てて床に落ちた。
 続いてスタンドまでが床に落ち、傘がころころと転がった。

 スタンドの電球は無事だったが、写真立ては悲惨だ。枠組みの木片までが破損していた。
 砕け散ったガラスにまみれたカイルの笑顔に手を伸ばす。破片のくずから拾い上げ、やつれた笑顔を浮かべた顔を見つめた。
「私といて、君は幸せだったか? カイル……」
 ドアが遠慮がちにノックされ、ほんの僅か開いた。
「なんだかすごい音が聞こえたので」
 ロイが、顔を覗かせた。
「すまん。寝ぼけてスタンドを落としてしまった――つう!」
 硝子を踏んでしまったらしい裸足の足に、小さな痛みが走った。
「動かないで。掃除機を取ってきます」

 縦型の掃除機が床をすっかり綺麗にしたあと、それと一緒に持ってきたファストエイドキットを開き、ベッドに腰掛けたカーターの足の裏をロイが子細に検分した。
「ひとつだけだと思いますが、まだどこかに痛みがありますか?」
 ピンセットにつままれた破片がティッシュに置かれるのを見て、カーターは足の裏を指でさすり、「大丈夫なようだ」と頷いた。
「消毒をしておきます」
「夜中に騒いで悪かったな」
「いえ、夕べのお礼ができました」
 ロイが微笑んでいる。
「なんだ、知ってたのか? でもなにもしてないぞ。様子を見に覗いただけだ」
「冷たい氷の入った洗面器に救われました」
 ふふん、とカーターは笑った。
「素直じゃないな。知ってたくせに知らん顔してたわけだ」
「自己管理ができてないところを見られるのは、死ぬほど苦痛だったので」
「それをいうなら、今夜の私など最低だ。寝ぼけて怪我をするなんてな」
 ベッドの縁に座って絆創膏を貼り終えたロイは、カーターのそばに置いてあったカイルの写真に目をやった。
 カーターもそれにつられるように写真に目を落とす。
 無意識にロイの腕を掴んでいた。掴んで引き寄せ、そのままその胸に頭を埋めた。
「……頼む。少しだけ、ここにいてくれないか?」
 ロイはなにもいわなかったが、立ち上がろうとはしなかった。
 薄いが、堅い筋肉に覆われた胸が鼓動を刻んでいるのすら分かった。痩せた身体の感触がカイルを思い出させる。そして、カーターはカイルを抱きしめていたときにも同じことを考えていたことを思い出した。
 痩せた身体が、“あいつ”を思い出す――と。意識には上らない、どこか遙か心に埋もれた部分で。
 その、“あいつ”が誰なのか、すでにカーターには分かっている。
「デイン」
 ぎくりとした。
 またいつの間にか眠っているのだろうか? ロイのカーターを呼ぶ声が、ひどく幼いように聞こえ、「だいすき」と、続きそうな甘ったるい感触を伴っているように思えた。
「ロイ……」
 顔を上げ、白い頬に手をかけて、カーターは――
 カーターはキスをした。

 夢にしては感触が生暖かい。
 柔らかい唇は、拒みもしなければ受け入れもしなかった。なおもキスを続けようとして、開かれた瞳の色にぎょっとする。
「――ロイ」
 どういったらいいのか分からないが、ロイは黙ってカーターを見ていた。哀れむでもなく、怒るでもなく、戸惑いすら感じさせず、ロイはカーターを見ている。その瞳は美しくはあるが、決して「デインだいすき」といってくれた、無垢な輝きを持ってはいない。
 夢ではない、とそれは語っていた。
「俺は……どうすれば?」
 表情を変えないまま、ロイが小さな声で呟いた。
 カーターは胸の中をあまり鋭利ではない武器でぐりぐりと刺されるような痛みを感じ、唇を歪めた。
 縋るように腕にかけていた力を抜き、カーターはロイから身を剥がした。
 どうすれば? とはどういう意味だ。
 どうしてくれるというのだ? と逆に問い返したかった。夢と現実の狭間にいるような、我を忘れたカーターの行為に対して、頼めばこのままキスを続けさせてくれるとでもいうのだろうか?
「……おかしいんだ、私は。ここへ来てからずっと」
 ベッドに突っ伏し、恥ずかしさに枕に顔を埋める。ロイは動かずにまだ、ベッドに腰掛けたままなのが気配で分かる。出て行ってくれればいいのに。あんなことをした自分のそばになぜいるのだ、と苛々した気分に襲われる。
「君は変だよ、ロイ」
 変なのはもちろん自分のほうであるのに、カーターはロイを責めた。
「行けよ。行って寝てくれ。なんで、そこにいる?」
 枕にくぐもった声でいうと、ロイが立ち上がったためにスプリングが動いた。カーターは素早く身を起こし、長身の身体を見上げた。
 ロイはさっきと同じように、なんの感情も灯していないかのような顔をして、カーターを見下ろした。
「……行かないでくれ。なにもしない。しないから」
「デイン」
 取り乱している。明らかに。自分でなにをいっているのか分からない。自分の感情が制御できない。
「なにか薬をお持ちしましょうか? 俺がもらった睡眠剤かなにか」
 カーターは首を振って、ロイのガウンの裾を掴んだ。
「ここにいてくれ。そばに……いや――」
 やっとどこかへ隠れていたらしい理性のかけらが戻ってきた。カーターは急いでそれをたぐりよせた。
「いや、いいんだ。ロイ。どうも夢から完全に覚めていなかったんだろう。取り乱してすまん。昼間、あの厭なヤツを見たせいかな。厭な夢を見てしまったせいで……」
「なぜあなたが?」
 ロイが微かに笑ったように見えた。

 おかしいよな、私には関係ないのにとカーターも答え、また腰を下ろしたロイのそばに力なく座り込んだ。
「……思い出してしまったんだな、あの頃を」
「厭な気分にさせてすみません」
「そうじゃないよ、ロイ。私はむしろあの頃が懐かしい。君には厭な記憶かもしれないが、私は――」
 驚いたことに、今度は抱きしめられていた。そういう体制になると、彼の身体は思っていたよりもうんと力強く、たくましさすら感じられた。
「泣きましたか? デイン」
「……なに?」
「カイルが亡くなってから、あなたは泣いてはいないのでは?」
 カーターは開いていた唇を閉じた。呼吸が荒くなるのを防ぐために。
 泣き出す代わりに、カーターは今いわれた言葉を頭の中で反芻した。
 確かに、ロイのいうとおりだ。
 亡くなる前には――もう長くないと宣告された時には、ひとりきりのときにさんざん涙を溢れさせたことはある。
 だが、最期を看取った病院でも、葬儀の時にも、家に戻ってからも、カーターはまだ泣いてはいない。実感がないわけでもなく、心に大きな穴があいている気はするのに、それを涙で塞ぐという手段をとれないままだ。
 なぜ、人が死ぬと人は泣くのだろうか?
 折に触れ、ささいな記憶を甦らせてはその人に対してしたことを後悔する。なぜけんかなどしたのか、なぜあの時もっと優しくしなかったのか――
 生きているときには当然起きるいざこざや諍いは、どんなに愛していても人との交わりの中で欠くことはない。それを、失ってしまうと後悔する。
 楽しかったことや、笑い合ったことよりも先に、傷つけたことを思い出す。
 そして、やがて怒りが湧き起こる。
 なぜ、置いていったのだ、なぜ私を待たずに先に神様に会いに行ったのだと。
 フロリダで、幸せだったのだ。他のことはどうでもいい。
 過去を捨て、自分の描いていた希望や夢を捨て、それでも満足だったのだ。ときに置いてきたものを思い出して、眠れぬほどの夜があったとしても、代わりに得たものの存在に癒されたのだ。
 置いて行かれるということが、こんなに惨めで心許ないことだというのを、すっかり忘れてしまっていたし、置いて行かれること自体、考えてなどいなかった。
「泣けないんだ、ロイ。腹が立って。哀しみなんかより無性に腹が立っている」
 ロイは抱きしめたまま、返事をしなかった。

 十歳で両親を亡くしたとき、カーターは声をたてて泣いた。
 まだ人の死を実感できなかった三歳の妹は兄の泣くのが悲しくて泣いた。
 それでも、パパやママが帰ってこないということを思い知って、アンナは寂しがって泣くようになった。
 カーターと妹のアンナは住み慣れた家を離れ、田舎に住む祖母に引き取られた。
 そこへ移ってからも、寂しくてつらくて、妹の目がないときはしょっちゅう目を潤ませていた。
 食事もできず、学校へも行きたくはなかった。おねしょをしたのもその頃だ。
 どうして、どうしてとカーターは思っていた。
 どうしてディックやジョンやトーマスのパパやママは元気なのに、自分だけがこんな目に遭うんだと。
 ある夜、祖母は、がっしりした身体にカーターを抱きしめ、思っていることを吐き出してごらんと囁いた。
 亡くなった人々を口に出して罵るのはさすがにはばかられ、カーターは黙っていたが、祖母は次から次に息子と嫁の悪口を言い立てた。
 それは他愛もない、日常のささやかな挙動に対する愚痴のようで、優しい祖母がそんなふうにふたりを見ていたなんて、と少年だったカーターは驚いた。
 祖母はふたりを愛してなどいなかったのかとおののきすらした。
「そんなに悪くいっちゃだめだよ」とカーターが窘めたほどだ。
 祖母の顔は涙でぐっしょりと濡れていた。
「あの子らを褒め称えるのは、明日だよ。楽しかった話をしだすと、一日じゃ終わらない。今夜はこれでいいんだ」
 祖母は涙を拭いもせずに、孫の頬にキスをした。
「最大の罪は、おまえやアンナを置いていったことさ。そうだろう? デイニー。子供を置いてくなんて、ひどいじゃないか。おまえがこんなに悲しんでいるのに」
 カーターはいきなり、叫んだ。
「そうだ、どうして置いていったんだ。アンナがかわいそうだ! あんなに小さいのに」
「デイニーがわいそうだ! まだたったの十歳なのに」と、祖母が負けないほどの声で付け足した。
「なんでふたりだけで旅行なんか行ったんだ!」
「なんで夜を強行して帰ろうなんてしたんだろうね!」
「パパのばか! ママのばか!」
「親より先に逝くなんて親不孝者だよ! おまえたちは」
「おばあちゃんも、かわいそうだ!」
「そうだよ! まだたったの六十歳なのに!」
「六十歳でも、“たったの”なの?」
「“たったの”さ。デイニー。私はまだ、たったの六十歳の置いてかれた母親だ」
 居眠りのトラックにぶつけられただけの両親は被害者だ。そんな夜中に戻ろうとした両親は、楽しいふたりだけの旅行を切り上げて、早く子供に会いたかっただけのはずだ。なのに、そんな彼らの好意ですら、ふたりには恨めしかった。
 一晩中、カーターと祖母は両親を責め続け、わんわん泣きながら互いに抱きしめ合った。
 以来、両親のイメージは穏やかに戻り、カーターの中で彼らへの怒りは消え、寂しさだけは残ってはいるものの現実を歩くことに目が向き始めた。
 あの時は祖母がそばにいた。
 ちょっとぶっとんだところのある祖母は、ときに面食らうような愛情の示し方をする人だが、今でも帰ればきっと独特の慰め方をしてくれるだろう。
 けれどももう、カーターは十歳の子供ではない。ましてやロイは祖母とは正反対の人間だ。
 ロイの胸に縋って、泣くことなどできはしない。
 

「人は死んだらどこへ行くと思う?」
 カーターはロイに抱かれた姿勢で、よりかかったまま聞いた。
「さあ。少なくとも天国などではないと思いますが」
「じゃあ、もうなにも考えてはいないかな? 置いてきたもののことなんか、なんにも?」 なんにも、とロイは答えた。
「考えていたとしてもそれはこちらには届かない」
 父も母も、そして生みの父すらも亡くしたロイは、彼らを恨んだり罵ったりしたことはないのだろうか。
 醒めたいい方に、寂しさがにじみ出ている気がした。
「なんだろう。君の両親は、君を愛してくれていたと、サムも准将も繰り返しいっていたのに、君は彼らが、そう思っていなかったように思える」
「愛してくれましたよ。存分に」
「君の……その、本当の父親のことが問題だったのかな?」
 カーターは慌てて付け加えた。「すまない、小耳に挟んだことだ。それ以上の事情は知らない。答えなくていいよ」
 ロイはしばし黙り込み、やがてぽつりといった。
「本当の父親は……SEALSでした」
 けれども、その危険と隣り合わせの仕事を母親は怖がった。
 そして、彼を捨ててフォードという男と結婚した。生まれた子供は彼ではなく、もとの恋人に瓜二つだった――
 淡々と、ロイは語った。
 こんな話を聞かせてくれるというのは、それだけ自分が参っているように見えるということなのだろうか、と思いつつカーターは黙って耳を傾けた。
「本当の父に、会ったことはありますが、結局名乗らないまま亡くなりました。母は、俺の中に彼をたえず見ていた。父はそんな母を愛してくれた。俺のことも。俺が自分の子供じゃないと分かっていたはずなのに、とても深く……」
「いい男だったんだな。マイク・フォードという人は」
「そうですね。生きていれば、きっともっといろいろなことを教えてくれた……でも、そうでなくてよかったような気もします。彼が、いや本当の父親までが存命していたなら、俺はおそらく海軍には入らなかった」
 そうか、とカーターは頷いた。
 なぜそうなるのか分かったわけではないが、ロイを導き続けた高潔なイメージのある父親に、いずれロイは反発していたのかもしれない。
 自分を育てなかった父親にも。その道を選んだ母親にも。そして、今とは全く違う人生を営んでいたのかもしれない。
「みんな君を置いていったんだな。……彼らが許せないと思ったことは?」
 ロイは返事をしなかったが、それが答えに思えた。
 代わりにロイが問うた。
「あなたは、カイルが許せないんですか?」
「……私が許せないのは、私自身なんだ、ロイ」

「あなた自身?」
「そう。私は私に対して腹が立っているんだ」 
 カイルが現役だったとき、ふたりの間にあったものは気の合う友情だった。階級や年齢を超えた友情を培っていたはずだった。
 カイルがどうだったかは知らないが、少なくともカーターのほうはそうだった。
 ただ、かけがえのない存在だという意味では、友情よりも深いものを抱いていたのは間違いない。だから、退院してひとりぼっちになったカイルを家に呼んだ。
 せめて生活に慣れるまではと。
 いつからカイルがカーターを特別な目で見ていたのかは分からない。
 ただ、考えなしに退院した彼を引き取ったりしなかったら、カイルが恋情をカーターにぶつけることはなかったはずで、そうしたらカーターの生活にはなにも変化はなかったのだ。
 友人の死を悼み、今でもこの基地でよしとした仕事を全うしているはずだ。あるいは、彼とそうなってフロリダへ渡ったことまではいいとしても、彼が亡くなったりしなければ、それはそれで楽しく暮らし続けたはずだ。
 今カーターは、カイルを責めたくて仕方がない。なぜもっと長く生きてくれなかったのかと。
 カーターは、考え考え、それを口にした。
 真意を誤解されかねない、ひどいいい方だと分かってはいたが、止めることができなかった。
「まさか、こんなに早く置いて行かれるとは想像もしていなかったんだ。その後の人生の設計など、なにも考えていなかった。私は今、どう生きていったらいいのか悩んでいるのかもしれない。そして、そうなった過去を振り返っては腹を立てているのかもしれない」
「そういうふうに考えることで、ご自分を責めている?」
「そうだ。これではまるで、カイルのせいだといわんばかりで、そんな自分が情けなくてな」
 それに……といいかけて口をつぐんだ。
 カイルのために泣く資格が自分にあったのだろうか?
 自分は本気で彼だけを愛していたのだろうか、と。
 あの弱々しく体力が落ちてやつれた姿を、誰かに重ねてやしなかったかと。純粋にカイルのために泣けないのは、自分自身の心に射した影の存在に気づいたからではないのだろうかと。
 なぜ、今になってそんな影に気持ちを向け、心をざわめかせているのか、それが腹が立っている原因なのかもしれない。

「泣けないよ、ロイ。哀しみ以上に考えることが多すぎて」
「だったら、このままで」
 このまま抱かれて眠りたかった。
 それはどんな安定剤や睡眠剤よりも、安楽な眠りを誘いそうに心地よかった。
 今夜、カーターは弱りきった捨てられた犬のように、飼い主のいなくなった玄関の前で雨に打たれているような気分になっていた。けれども今、抱いていてくれる男は、決して捨てられた犬を拾って飼うことなどしてくれないだろう。
 彼が与えようとしてくれているのは、ほんのつかの間の仮の宿だ。
 野良犬は、野良犬の場所を見つけないといけない。
 置いていったのは、誰だ。
 カイルか?
 それとも自分自身か?

 力を抜いて寄りかかっているのに、ロイはベッドの縁に座っているのだ。
 重かろうと身体を離す。
 ロイは目線を逸らすかのように、ベッドの縁あたりを見ている。部屋の灯りに金色の睫が影を落とす。細い顎が、胸元まで引かれている。
 その沈黙が耐え難いものに感じられてきた。ロイ自身が、取り乱したカーターになんと声をかけたらいいのか、分からないでいるのだろう。
 あるいは、同情して自分の生い立ちまで話してしまったことで、それを思い出して胸を痛めているのかもしれない。
「ほんとうに、もう大丈夫だよ。甘えてしまって悪かった」
 カーターがやっとそういうと、ロイはうなずき、立ち上がった。
「私も十歳で両親を亡くした。でも、私を包み込むように愛してくれたばあさんがいてね。いつでも彼女が、クッションの役目をしてくれたんだ。そういう意味では、私は幸せだった」
 ハンサムなおばあさん、でしたね、とロイが微かに笑った。
「そう。彼女に引き取られてから、私は何度かおねしょをするほど、情けない子供だったのさ。ほんとは幼稚園に行く頃にはもう、粗相はしなかったのにな」
「一度、会いに行かれては?」
「ああ、そうしたいとは思っている。でももう、彼女に縋って泣くには年を取りすぎたからな。でかいばあさんだと思っていたのに、今じゃすっかり小さく見える。大丈夫だよ、少しばかり時間が必要なだけだと分かってはいるんだ」
 ロイは頷きながら、掃除機と救急箱を両手に抱え、ドアに向かって歩いていく。
「君は……つらかったとき、誰かに縋って泣いたりしたことはあるのか?」
「……それをしてくれたのは、あなたやジムやバーク准将でした」
 その後はどうなんだ? あれから何年もたつ。君はいつもひとりで泣くのか? と、カーターは胸の中で呟いた。

 かちゃりとノブが回った音がした。
「ロイ、私が今夜したことは、忘れてくれるか?」
「俺が誰かの代わりだったことは分かっています」
 おやすみなさい、とロイはドアを開けて出て行った。
 ぱたんという音の余韻が消えもしない僅かの間に、カーターの頬に涙が落ちた。
 死んだものへの哀悼の涙などでないことは分かっている。
 ロイの最後の言葉は誤解だ。
 ロイが誰かの代わりだったことなどない、と今カーターは確信していた。
 くしゃりと手が何かを押さえ込み、ベッドの柔らかさに沈んだカイルの写真を拾い上げた。皺になったカイルの笑みが、泣きべそのように歪んで見えた。

 全力で愛した。
 すべてを捨てて。自分自身すら気づいていなかった深層心理の奥に潜んだ存在に、カイルが気づいていたはずはない。
 聞こうにも、もう彼はいない。醒めた口調でロイがいったとおり、天国などで遊んでいるとは思わない。輪廻転生や、死後の世界のいずれも信じてはいない。
 人は死んだら無になるのだ。残されたものの記憶の中でのみ生き続け、やがてそれらの人が死ねばすべてが消滅する。
 だから、今こうしてカーターがロイにしたことを知ることはない。
 カーターは自分の唇に触れた。
 それから、表情を消して見つめていた、沈んだ青緑色の瞳が目に浮かんだ。
「俺はどうすれば?」とロイはいった。
 キスをされても、拒絶するほどの態度がとれないということか? なのに、それに応えることも。
 カイルの写真はすべてを見ていたが、紙切れはなにもいわない。
 無になったカイルはもう、知りようはない。
「俺はどうすれば?」と聞かれて、「君が欲しい」と心の中で叫んでいたことなど。








硝子の破片

哀しみの追憶

後日憚―哀しみの追憶―

観客

おもちゃ屋探検

おもちゃ談議

キャンディーバー

Pは××のP

金の砂銀の砂第一部

金の砂銀の砂第二部

金の砂銀の砂第三部

僕が彼を憎んだわけ

ロイとジムの映画評